詩を読む

あきたからの詩集

 秋田から詩集が届いた。

 『第29回国民文化祭・あきた2014 現代詩フェスティバル 入賞・入選作品集』

 小学生の部、中・高校生の部、一般の部から成っていて、良い作品がたくさんつまっている。

 素直な、生活感あふれる詩が多い。

 一般の部の作品は、震災後東北で初めての国民文化祭ということもあり、そこから生を見つめる作品が多い。何れも、読んでいて励まされるものがある。

 この詩集から、一ばんかわいい詩を紹介しよう。

 

          *          *          *

 

  しゅくだい

 

 きょうのしゅくだいは

 ぎゅうをしてもらうこと

 せんせいがいったよ

 なんだか

 おもしろいしゅくだい

 

 ままぎゅうしよう

 いいよ

 ままが

 てをおおきくひらいたよ

 わたしは

 おもいっきりとびついた

 がしゃあん

 ままとぎゅう

 ままいいにおい

 おはなみたいなにおい

 だいすきなにおい

 ままふわふわだねっていったら

 ほわほわだねって

 ままがいった

 なんだかいいきぶん

 こころがぽっかぽか

 ままありがとう

 もっともっとぎゅうしてほしいな

 

 なんだかこのしゅくだい

 いいなあ

 さいこうの

 しゅくだいだね

006
(2014.10.26)

 

みずうみ

 先日、岩波文庫から『茨木のり子詩集』が出されたので、買って読んでみた。

 茨木のり子さんの詩は、とてもわかりやすく、心にのこる詩が多いように感じられる。

 その中の一つ。

          *          *          *

     みずうみ

 

  〈だいたいお母さんてものはさ

  しいん

  としたとこがなくちゃいけないんだ〉

 

 名台詞を聴くものかな!

 

 ふりかえると

 お下げとお河童と

 二つのランドセルがゆれてゆく

 落葉の道

 

 お母さんだけとはかぎらない

 人間は誰でも心の底に

 しいんと静かな湖を持つべきなのだ

 

 田沢湖のように深く青い湖を

 かくし持っているひとは

 話すとわかる 二言 三言で

 

 それこそ しいんと落ちついて

 容易に増えも減りもしない自分の湖

 さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖

 

 教養や学歴とはなんの関係もないらしい

 人間の魅力とは

 たぶんその湖のあたりから

 発する霧だ

 

 早くもそのことに

 気づいたらしい

 小さな

 二人の

 娘たち

          *          *          *

 これを読んで、救われる、と感じるのはなぜだろう?

 「田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひと」でありたいと希うひとに、水やりをしてくれているのかもしれない。

 そこは「さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖」であり、容易にはうかがい知ることのできない深淵。だからこそ、心を寄せることができる。

 また、「教養や学歴とはなんの関係もないらしい」という言葉は、人と接する際のかた苦しい感じをとりのぞいてくれる。

 茨木さんの詩は、やさしいまなざしに満ちている。そう感じるのは、言葉から感じられる芯のやわらかさによるのかもしれない。

004

(よりそって)

 

詩を読む会(36)

 2ヶ月に1回(偶数月最後の土曜日)に、詩を読む会を開いている。今日、いつものように、午後1時半から別府市ふれあい広場「サザンクロス」で開催した。

 読まれた詩の一部を紹介しよう。

          *          *          *

  ひよめき

                                   征矢 泰子

 すこしずつすこしずつ

 閉じながらしずんでゆくわたしのなか

 そこだけ閉じきれないひよめきがあって

 そこだけいつまでもやわらかくときめいて

 ひたすら待ちつづけるひよめきがあって

 くらしの知恵も社会のしきたりも

 このよの損得も見栄も外聞も

 そこだけ見のがしてしまったひよめきがあって

 そこだけいつまでもひよわくきずつきながら

 執拗に待っているのだ

 触れたその刹那にだけわかる

 生まれてきたほんとうの理由(わけ)をみるまでは

 けっして閉じまいとそこだけひらいている

 ちいさなひよめきが あるのだった

          *          *          *

 

                                   水島 英己

 みちすじということばに立ち止まる。

 深い井戸を覗く女のそれ、

 水俣の悲惨とシチリアの光が出会う河口を目指して

 歩きつづけた女のそれ、

 果てない海から生まれる一条の水脈

 青空を切り裂く飛行機雲

 みちすじはまた二つのもの、ときには正反対で異質に見えるものも

 エミリーの「嵐の夜」と「エデンの園」を

 死と生を結びつける、始まりと終わりを

 罪と官能をその金色のほそい髪で結ぶ。

 みちすじはかなしみに似ている

 かつて、そのとき、何かが

 わたしをいざない、その道に立ち止まらせたのだから。

          *          *          *

  

                                   塔 和子

 あそこは暗かった

 あそこで食べたのは

 木の根の汁だけ

 あそこは長かった

 もう明るみに出る日ないかと思った

 なんと明るいのだここは

 思い切り声を出して暮らせる日が来ると

 あの長い年月

 考えられもしなかった

 大勢の仲間と

 好きなだけ声が出せる

 声が出せることがこんなにすばらしいことだとは

 知らなかった

 あそこでは

 言いたいことがあっても

 じいっとがまんしていた

 声を出しても

 回りからふさがれたものだ

 ああ

 太陽をいっぱい受けて

 愛し合って

 産んで

 祈って

 ここは緑と光の楽園

 あの暗かった季節に

 こんなすばらしい日が訪れるなんて

 いかなる摂理によるものだろう

 三日の命だってかまやしない

 いまは

 生きている感動にふるえる目を

 かっと見ひらいていよう

          *          *          *

 ほかに、井坂洋子「山犬記」、詩集『悪母島の魔術師』(連詩 新藤凉子 河津聖恵 三角みづ紀)、ヘルダーリン、ランボーなどを紹介した。

 参加者からは、詩にふれることで心がおちつく、いろんなことを深く考えさせられる、等の言葉が聞かれた。

 この一文はどんな意味だろうと、あれこれ意見し合うことで、良い時間が共有できたのだろうと思う。

006

(どこにいるかな)

 

 

 

今を生きるための現代詩

 渡邊十絲子(2013.7).今を生きるための現代詩.講談社現代新書

 〈教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。

 そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこころのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく解読することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた〉p.40

 そのように、作者の中学生の頃の体験から書きはじめられる。教科書の詩はつまらなかったこと、でもある詩に出合い、こころをうたれたこと、それらを筆写し続けたこと、など。

 〈絶望。死。腐敗。

 こわさを感じさせることばで構成されていたひとつひとつの詩に、それぞれの衝撃をわたしはおぼえたのだが、わたしはこわがってたというよりはむしろ解放されていた。そこにあったどの詩も、自然の美ややさしい情緒なんかうたってはいなかった。「人間らしいこの感情はあなたにもおぼえがあるでしょう」といって、おぼえのないわたしを仲間はずれにするようなこともしなかった。そのことにわたしの気持ちははげまされた。

 こういう詩なら、だれもわたしに「作者の伝えたいこと」なんか問わない。作者の感動がどこにあるか発見させて、その気持ちに共感するように強制もしない〉p.50

 私も、「詩のことはよくわからない」と言われることが多い。そのとき、「わからない」という言葉に何かしら否定的なニュアンスが感じられる。でも、と感じる、わからなくてもいいではないかと。

 作者は、現代詩を抽象絵画にたとえる。見て、何かしらこころを動かされる、それで十分ではないか。絵画ならそれでよしとされるのに、詩はわからないからと敬遠される。

 出合いがなかったからではないか。作者は中学生の頃こころを動かされる詩に出合った。その詩の意味はわからなかったけれど、とても魅力的な言葉たちだった。そういう出合いの幸福を体験したかどうか。体験するには、素直な感性があればいい。

 詩は、書いている本人にもわかられていない場合が多い。伝えたいことがわかっているなら、詩を書く必要はなく、説明文で十分である。わからないからこそ、その「何か」につき動かされて書くのである。

 だから、読者は、わからないけれど魅力的な言葉の展開に身を委ね、その感触を記憶する。作者の言うように、その「わからなさ」を記憶し続けることが大切で、いつかわかる日が来るのかもしれない。印象を記憶できないのなら、その詩はその時のあなたにとって大切な何かではなかったからだろう。

 この本には、「わからないけれど魅力的な」詩句との出合いが、丁寧に書かれている。そこがいいと思う。わからないけれど魅力的な言葉は、どこからか不意にやってくる。その言葉に出合うことで、人は生き方を変えるかもしれない。昨日までとはまったくちがった世界が見えてくるかもしれない。

 新しい言葉との出合い、世界との出合い、それが生きるということで、それを可能にする「詩」の体験とは、なんて愉しいものなのだろう。

002

(何が見える?)

 

 

 

詩を読む会(35)

 8月31日(土)開催、詩を読みましょう(第13回)

 読まれた詩文の一部を紹介しよう。

          *          *          *

   木の実

                                茨木 のり子

 高い梢に

 青い大きな果実が ひとつ

 現地の若者は するする登り

 手を伸ばそうとして転り落ちた

 木の実と見えたのは

 苔むした一個の髑髏である

 

 ミンダナオ島

 二十六年の歳月

 ジャングルのちっぽけな木の実は

 戦死した日本兵のどくろを

 はずみで ちょいと引掛けて

 それが眼窩であったか 鼻腔であったかはしらず

 若く逞しい一本の木に

 ぐんぐん成長していったのだ

 

 生前

 この頭を

 かけがえなく いとおしいものとして

 掻抱いた女が きっと居たに違いない

 

 小さなこめかみのひよめきを

 じっと視ていたのはどんな母

 この髪に指からませて

 やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)

 もし それが わたしだったら・・・・・・

 

 絶句し そのまま一年の歳月は流れた

 ふたたび草稿をとり出して

 嵌めるべき終行 見出せず

 さらに幾年かが 逝く

 

 もし それが わたしだったら

 に続く一行を 遂に立たせられないまま

 

 

 

   花

                          槇 さわ子

 生まれ変わるとしたら

 何にになりたい?

 そんな他愛いないはなし。

 

 そういへば

 花に見つめられたことがある。

 話しかけられたこともある。

 お地蔵さまのあしもと。

 農家の物置小屋の裏手。

 沼のほとり。

 

 どれもみな

  花!

 声をあげずにいられないほど

 みずみずしく咲いていた。

 

 生きているときに

 よほど強く

 花になりたいと願った人なのか。

 生きているときに

 自分の持っている根の毒が

 しみじみと

 やりきれなかった人達なのか。

 

 美しければ美しいほど

 根に

 こころ奪われる

 花。

027

(美しいほどに)

てんとろり

 笹井宏之(2011).てんとろり.書肆侃侃房

 笹井宏之の第2歌集。

 しずかに、しずかにこころに浸透してくるのは、伝わってくる思いの、私との近接性によるのか。

 

 月足らずで生まれたらしい弟を補うようにつきのひかりは

 

 冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人

 

 美しい名前のひとがゆっくりと砲丸投げの姿勢にはいる

 

 生きてゆく 返しきれないたくさんの恩を鞄につめて きちんと

 

 砂時計のなかを流れているものはすべてこまかい砂時計である

 

 こどもだとおもっていたら宿でした こんにちは、こどものような宿

 

 奪われてゆくのでしょうね 時とともに強い拙いまばゆいちから

 

 うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目

 

 からだじゅうすきまだらけのひとなので風の鳴るのがとてもたのしい

 

 実像はここまでですあとはもう好きなところをお刺しください

  

 生きようと考えなおす さわがにが沢を渡ってゆくのがみえて

 

 わたしだけ道行くひとになれなくてポストのわきでくちをあけてる

 

 空のおおよそ半分ほどを占めているひかりの犬のうすい肉球

 

 大人には見えないものを渡されてひとり、優しいバス停に立つ

 

 たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる

 

 木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふひとであった

 

 雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり

 

 花冷えの竜門峡を渡りゆくたつたひとつの風であるわれ

 

 読んでいて、比喩、つまり物の見方(生き方)に、解放される感じがする。彼に見える世界が、彼に生き方を教えるように、ことばが生まれ、生まれたことばが読み手のこころに拡がる。

 優しく、清らかなたましひである。

025

(ハイビスカス 4000種類以上あるらしい)

詩を読む会(34)

 つづけて、ボードレール『小散文詩集』より

 

 芸術家の〈告白の祈り〉

 

 秋の日々の夕暮れは、なんと心に泌みることだろう! ああ、心に泌み入って、痛みを覚えさせるほど! なぜなら、漠としていることが決して強烈さの妨げとはならない、そういう類いの心地よい感覚というものがあるからだ。そして、〈無限〉の切先にもまして鋭い切先はない。

 大いなる快楽である、空と海の無限の広大さの中に視線を溺らせる快楽こそは! 孤独、静寂、青空の比類ない貞潔さよ! 水平線上に揺らめき、その小さく孤独な姿によって、私の癒しがたい実存を模倣している一艘の小さな帆船、波の単調な旋律、こうしたものはすべて、私を通して思考する、あるいは、私がこれらを通して思考する(なぜなら、夢想の高まりの中では、自我はすみやかに消え失せてしまうから!)それらのものは思考する、といったが、それは音楽的に絵画的に、理屈も三段論法も演繹法もなしに、思考するのだ。

 とはいえ、それらの思考は、私から発するにせよ、事物から発するにせよ、間もなくあまりに強烈なものになってしまう。悦楽の中にある活力は、不快さと、はっきりした苦痛を作り出す。緊張しすぎた私の神経は、もはや甲高く悲痛に打ち震えるのみだ。

 そして今や、空の深さが私を威圧する。その透明さが私を苛立たせる。海の非情さ、この風景の不変性が私を憤激せる……ああ、永久に苦しまなければならないのか、それとも永久に美から遁れなければならないのか? 〈自然〉よ、仮借なく魅惑するものよ、常に勝ちほこる競争相手よ、私を放してくれ! 私の欲望と矜恃をそそのかすことをやめよ! 美の追究とは決闘であって、そこで芸術家は恐怖の叫びをあげ、敗北を喫するのである。

                                           (山田兼士訳)

          *          *          *

 「こうしたものはすべて、私を通して思考する、あるいは、私がこれらを通して思考する」という認識を生きること、それが詩を書くことだと思う。

 そこをきわめることが、私の使命かもしれない。

024 

(Hale O Lono Heiau)

詩を読む会(33)

 今日、いつものように、詩を読む会(第12回)を開いた。12回なので、2年が経ったことになる。

 詩を読む、詩を書くことの尊さが、今回も感じられた。

          *          *          *

 一行詩

 

 20年余り

 17文字の一行詩に

 思いを込めてきた

 

 あるとき なぜか

 こころの奥に沈殿したものを

 思い切り吐き出したくなった

 

 17文字には

 表せなかった様々な思い

 それを

 犇めき合う澱のなかから

 少しずつ引き出していくと

 混沌の中身が

 次第に整理整頓されていく

 

 視界不能な濁りが

 透明になって

 自分の内側が見るようになるまで

 17文字を超えて

 思いを吐き出してみる

 

 

 あした

 

 ねむれない夜のしじまに

 漆喰の夜道をたどるとき

 それはいつも

 幼い日に母とたどった草深い小路

 

 どんなに ねむれなくても

 どんなに つらくても

 どんなに あわれでも

 窓の外にしらじらとあける

 あしたとゆう日が

 

 

 旅人

 

 先を急ぐ孤独な旅人の

 足を止めたのは

 温かい 君が心

 

 先を急ぐ孤独な旅人が

 涙こぼれたは

 美しいものを見たから

 

 先を急ぐ孤独な旅人の

 胸を過ぎゆく

 思い出の風

 

 

 

 てのひらに蛍愛でつつ清らかなたましひという語を思ひをり (筒井宏之)

          *          *          *

一行詩・・ギターの先生の詩。とても素直に気持ちが表白されていて、共感できる。透明になるまで、思いを吐き出す。それはなかなかできることではなく、すごいことだと思う。先生の豊かな内面を見る思いがする。

あした・・この方の詩にはいつも元気づけられる。言葉に芯があるのは、生き方に芯があるからだと思う。言葉は、生き方である。

旅人・・少ない言葉の中に、たくさんの思いが凝縮されている。含羞がある。作者の優しい人柄が感じられる。

てのひらに・・筒井さんこそが、清らかなたましひである。蛍を、見たくなった。

011

(ブーゲンビリア 白く小さいのが花)

詩を読む会(32)

 戦争の頃の名もない人々の生を語り継ごうと、文を書かれている方が、その物語を読んでくださった。とても良いお話しだった。その文章も紹介したいけれど、まだ手書き原稿のようだったので、完成を待つことにしよう。

 詩は技巧ではない、その人の生き方そのものであると、今日改めて感じた。

 次回は6月29日(土)同じ場所で、同じ時間に開催予定。

 最後は征矢泰子詩集より

          *          *          *

   マザー・テレサに

 

 ひと目みたときから

 あなたは空っぽだった

 あなたはそこ テレビジョンの中にいて話しつづけ

 ときどき あたたかく微笑しさえしたが

 なおまぎれもなく

 あなたは空っぽだった

 なくしたのでなくこわしたのでなくあきらめたのでなく

 樹木が育っていくような果実が熟れていくような

 そのすこやかな空っぽの

 あなたのなかにもうあなたはいなかったので

 いつでもだれでもが

 あなたのなかにはいることができるのだった

 どうやって

 あなたと他者ひとを区別できよう

 あなたをみたしているのは

 いつもいっぱいの他者であるときに

 あなたははやあなたのものでなく

 あなたをもとめる他人々々ひとびとこそが

 あなただったので

 ひと目みたときから

 あなたは空っぽだった

 完璧な至福のように

 

 

   いちご

 

 なんという捨て鉢な天真爛漫であろう

 花から実へ実から果実へ

 みごもり熟れていくおのれの身かばうために

 薄い紙一重の果皮さえももたぬとは

 地にふれれば地のなりに

 葉におされればおされたなりに

 おのががかちさえあなたまかせの

 おまえの放恣にやわらかい果肉は

 初夏はつなつの午下り濃緑の葉かげ

 いつもたった今いきなりみつかった

 無防備なさみしさの身の赤さ

 

 

   空蝉

 

 たったいままで

 あのひとはわたしのなかにいた

 ひっそりとやわらかくあたたかくいきづいて

 あのひとはわたしをみたしていた

 あんまりぴったり

 あのひとはわたしのなかにいたので

 わたしにはあのひととじぶんとを

 くべつすることがきなかった

 けれど あのひとはふいに

 わたしのなかでみもだえた

 わたしを とじこめるおりのようにいおしのけた

 あれほどながいあいだわたしのなかで

 しずかにつつましくやすらいでいたことが

 まるでゆるしがたいかしつであるかのように

 あのひとはわたしを ひきさいた

 あっけなくわれたわたしの背に

 あつくまぶしい夏の光がふりそそぎ

 あのひとはゆっくりと

 わたしをぬぎすてていった

 わたしはもうみえずもうきこえない

 わたしのなかにいた

 あのひとこそがわたしだったのだと

 いまさらきづいてもおそいのだ

 わたしのなかを

 いま ぐんじょうの夏の風がふきぬける

 からっぽで いきてもいず かといって

 まだ しんでもいない

 わたしはだれ?

          *          *          *

 マザー・テレサに・・私は私の意思により行動しているのではないと、マザー・テレサは言っていた。神の意思に添うているだけなのだと。無私である、それが「空っぽ」ということである。「心の貧しい人は幸いである」という言葉も、同じ意味である。無私であること、まさに至福である。

 いちご・・一行目から引きこまれる。自身を庇う皮さえ持たずに生きている、そのことへの憧憬が描かれている。最後の「さみしさ」という言葉がとくに印象的である。

 空蝉・・空蝉の私が語っている。空っぽであることへの羨望がある。そうでなくてはいけないという切実な気持ちがある。私の中で何かが生まれる、それは私が空っぽであるからこそ。生みだす私とは何か?

012

(やわらかな光を浴びて)

 

詩を読む会(31)

 詩を読む会の参加者の、年配の方の話を聴くのは愉しい。昔の別府のこと、別府駅には桜の木があったこと、土筆が生えていたこと、また別の土地のお話し等、私の知らないことばかりで、興味が湧いてくる。

 つづけて、今度はよく知られている詩人の作品から。

          *          *          *

   田螺たにしのうた

                               室生犀星

 たんぼの川に

 田螺のうちがある。

 どろでつくられたうちの中で、

 春になると

 田螺もうつらうつらして

 ゆめを見る。

 晩になると

 ころころ泣いている。

 田螺はゆめを見て

 川底にころがり落ちる。

 落ちても

 まだ田螺はないている。

 

 

   無題

                              八木重吉

 夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た

 発熱がいく日もつ ゞ いた夜

 私はキリストを念じてねむった

 一つの顔がああらわれた

 それはもちろん

 現在私の顔でもなく

 幼ない時の自分の顔でもなく

 いつも心にゑがいてゐる

 最も気高い天使の顔でもなかった

 それよりももっとすぐれた顔であった

 それが自分の顔であるといふことはおのづから分つた

 

 顔のまわりは金色をおびた暗黒であった

 翌朝眼が冷めたとき

 別段熱は下がってゐなかった

 しかし不思議に私の心は平らかだった

          *          *          *

 田螺のうた・・昔懐かしい風景が蘇る。蛇行する川のゆるやかさ、他の生き物たちの生態など。あぁ田螺もゆめを見るんだ。ころころなくんだ。他にも室生犀星の詩には「水鮎のうた」「うじのうた」「なめくじのうた」など、生きものをうたったものがたくさんある。いずれも、生命への愛おしさが感じられる。

 無題・・八木重吉は29歳で病没している。キリスト者である。夢は心を癒す、たとえ悪夢であっても。夢はつねに意想外である、だから心を癒す。夢で自分の顔を見るというのは特異なことだろう。印象に残る詩である。

023

(鯉もゆめを見る)

 

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