日常

4月16日

 ラジオの声は「断続的に」と伝えていた。実際は途切れているのか? 訝った。午前1時20分頃から20分以上、ずっと揺れ続けているのだ。いつになったら収まるのか? 感覚が麻痺して、収まってほしいという願いも忘れた頃、揺れは止まった。

 昨夜の突き上げるような揺れによって、背丈以上ある食器棚が倒れ、中のガラス食器が粉々になった。昼間のうちに、食器棚を元の位置に戻し、粉々の破片を片付け、下敷きになっていた電子レンジを台所カウンターに置きなおし、割れなかったビン類を床に並べていた。それらはすべて無事だったのだが、停電し、真っ暗な中、揺れだけが間断なく続いた。

 「私はいいから外に出て。何かあったら助けを呼んでほしい」と、自分で身体を動かすことのできない妻は言ったが、彼女1人を残すことはできない。何があっても私はただ妻といっしょに居ようと思った。

 明かりは点くようになったが、何分かおきに揺れが来た。気象庁からの「12時間以内は建物の中にいないように」という警告を、妻のヘルパーからのメールによって知る。それで、マンションを出ることになる。必要最小限の荷物をリュックに詰め、昨夜から閉まらなくなっている玄関ドアを開け、壁のひび割れた通路を通り、階下へ降りようとエレベーター前まで来たが、エレベーターは動いていない。車いすに乗ったまま階段を下りるには人手がいる。それで人を探す。上の階から若い男女が下りてきたが、女の子の力が足りない。できれば男4人必要なのだがと思い、地上に降りて人を探す。偶然やってきたタクシーを捕まえ、運転手1人を加えて、妻を車いすごと階下に降ろす。階段の幅が狭く、困難な作業であったが、無事に地上に下りることができた。

 それから避難所に向かう。投票の際に行ったことのある小学校まで、歩いて20分位かかる。ブロック塀が崩れている家が何軒かある。道々の駐車場の車内に避難している人も多い。すれ違う人々と声を交わす。「こんばんは」「おはようございます」「ごくろうさまです」とりあえず行こう、それからのことはそこで考えよう。

 たどり着いた体育館は人でいっぱいだった。かろうじて、少し空いていたトイレ前のスペースに身を落ち着け、受付で名前と住所を記入する。寒いので、身を覆うビニールの緩衝材(プチプチ)を分けてもらう。揺れが起こるたびに、あちらこちらから悲鳴が上がり、携帯の警報が体育館中に鳴り響く。体育用マットに座ってらっしゃる奥さんが、場所を少し譲ってくださる。少し安心する。

 夜が明ける。しばらくして朝食の配給があり、長い列に並んで、紙コップに入った五目御飯をいただく。断水状態で、トイレ用に流す水はプールから引いてある甕からバケツに汲んでおくことになっている。体育館内はさらに人が増えていて、障害者が居られる場所ではない、と感じられた。こんな場所でおむつ交換はできない。

 午前、妻は知り合いからメールで福祉避難所へ行くことを勧められ、市の職員に問い合わせる。返答の内容は、福祉避難所を探してくれるということ、そこまでは自力で行くことになるということ、そしてそこに避難できるのは妻だけということだった。

 探してもらうまで待つしかない。校内を見てまわる。福祉避難所が見つからなかった場合のことを考え、人が少なく横になれる場所を探す。校舎の廊下の端に、理科室の大きな机が運び出されてあり、ベッドとして利用できないかと考える。しかしそれは段ボール等を敷いても硬すぎる。

 体育館入り口近くには犬が3匹繋がれていて、おとなしくしている。花壇にはパンジー等いろんな花がきれいに咲いている。空は晴れ、さわやかな風が吹いているが、夕方には雨になるらしい。

 午後4時半、理科机の横で夕食をいただいているとき、市の福祉課より療育センターを紹介される。条件として、部屋とベッドのみの提供で(私もいっしょに居ることができる)、食事等は自分で調達してくださいとのこと。そちらへ直接電話し、6時頃行くことを伝える。

 自宅マンションまで車を取りに行き、必要物品を積み、避難所へ。妻を乗せ、療育センターへ向かう。ようやく安心できる場所にたどりつくことができたが、これからどうするか。余震は収まる様子がない。市の福祉課と療育センターに感謝。とりあえず休もう。

 

                          (4月16日午前1時半から午後6時までの記録)

父の肖像

 先月22日、父が突然亡くなった。84歳だった。

 健康体であり、その日も普通に午前中は畑へ行き、スーパーへ寄り、母と昼食をとり、母の外出を見送ったそうである。

 翌日、父から野菜が届いた。午前中に送ってくれたのだろうか。

 二(ふた)七日、家の中をいろいろ整理していたら、18年前に私の書いた文章「父の肖像」が出てきた。いつか父に読ませようととっておいたのを、忘れていた。

 姉は「お父さんのことがよくまとめられている」と感想を述べた。

 急だったこともあり、いまだに父の死の実感がない。おそらく父は、いつまでも傍に居つづけるのだと、感じられる。

 法事のこと、ひとりになった母のことなど、しばらく日常に追われそうだが、ことある毎に父と対話しながら生きていきたい。

 

          *          *          *

 

  父の肖像

 

一 祭りの夜

 仏壇と床の間のある広い座敷の、明るい蛍光灯の下、男たちの声は賑やかだった。十一月十八日、妙見神社の祭りの夜である。十人ほどの男たちは皆、父、直(すなお)の職場仲間だった。彼らは毎年の祭りの夜には、いつも直の家で宴会をした。

「直さんな、ちいっとん、呑みならんもんなあ」

「いやー、もうわたしはよかですけん、土田さん呑みなっせー」

 少年は、台所で母の調理を手伝っていた。

 昨日から作っていたこのしろ寿司と、泡雪、こんにゃくと昆布の煮しめ、そして熱燗の入った徳利、それらを盆に載せ、廊下を抜け、男たちの話し声の中に入っていった。

「おお、直さんの息子さんの来らしたあ」

「大きゅうなったなあ、もう何年生か」

「六年です」

「あそこん掛け軸の大きか習字は、息子さんが書いたっだろう?」

「元気んよか字い、なあ」

「六年生ならもう呑むっどなあ」

 あちこちから誘いの声がかかる。屈託のない、陽気な声々がとび交う。

「なあー、お父さんないっちょん呑みならんけんなあ」

「息子さんなどやんか」

「はい、呑みます」

 父の顔はもう真っ赤である。おちょこ一杯でそうなることを、少年は知っていた。呑めない父に代わって、誘われるままに杯を受けた。父は笑っている。少年は一瞬のうちにおつおこを空にした。

「おお、よか呑みっぷりなあ」

 男たちも、もうすっかりでき上がっていた。

 しかし、呑めない男の家で毎年酒盛りとは、考えてみればおかしな話だ。おそらくこれば、直の仕掛けなのである。自分だけが呑めないから、よその家で呑むとなると気が引ける。付き合い上申し訳なく思うのだ。自分の家を提供するのは彼なりの配慮なのである。仲間たちもそれを知ってか、こころよく彼の家での宴会を楽しんだ。少年はといえば、この陽気で屈託のない男たちの間に入って呑むことは予想以上に心地よかった。年季を感じさせる太い腕、奔放な声々、熱をもった酒と煙草の匂い、それらの要素が生みだす雑然とした雰囲気の中にいると、自分の家が急にいつもと違う場所になったような気がした。自分が生きていること、そしてこれからも生きるだろうことの頼りなさを感じていた当時の少年に、それは不思議な力強さをあたえた。そして、楽しい仲間たちを連れてきてくれる父の存在を嬉しく思っていた。

「お父さんも息子さんば見習わんばんなあ」

 どっと歓声があがった。

 父はあいかわらず笑っていた。

 

二 植物栽培

 自分には厳しかったが、子供に厳格だったわけではない。二人の子供も、特に手がかかるということはなかった。ふだんの彼は、気のやさしい、寡黙な父親だった。

 近所の人は、

「直さんは、ほんに、まじめな人だけんなあ」

 京都出身の、お寺の奥さんも、

「お父さんは、ほんま、名前の通りのお人やし、お姉ちゃんも、弟くんも、まあ、おとなしい子らやし」

 事実そうなのである。家庭内でもめ事など滅多になかった。それぞれがある節度をもって自由に動いていて、干渉し合うことも少なかった。夕食時には、父はポツ、ポツと談話した。

 父は人と人の調和を大切にしていた。職場での人間関係、近所付き合い、そして家庭での対話など。息子の無口なことを気にとめてか、彼をよくバイクの後ろに乗せて、同じ趣味を持つ職場仲間のところへ出かけた。趣味とは植物栽培である。

 家屋は鉢植えの植物に囲まれていた。その数は数えられたことはなかったが、毎朝散水するのに、ゆうに三十分はかかった。ときどき、小学生の息子がそれを代りに行った。夏、近くの山々の稜線を見ながら水をかけていると、足下の苔むした植物の間を、トカゲが身体をくねらせ、ぬうように逃げていった。草むらのところどころに、へびの卵、かたつむりの殻などが転がっていた。

 鉢植えだけでなく、裏庭にはつつじ、蜜柑の木、なす、とうもろこし、、落花生、じゃがいも等を栽培していた。なぜそんなにたくさん栽培するのか、と息子が問えば、笑いながら答えた。

「なんでて言うて、意味は無かたい」

「でも、こやん、たくさん植えて。世話が大変たい」

「食わるっとも在っとだいけん、良かろうが」

 たしかに、食えるというのは魅力だったが、それはちょっといいわけめいていた。鉢植えの植物ばかりではほとんど実益にならない、それで申し訳なく思っていたのかもしれない。つれあいが山育ちで、里にはさまざまな種類の植物が栽培されていた。だから、彼女に対する配慮もあったのかもしれない。山歩きが好きだったことも、人付き合いも、関係しているだろう。しかし、一番の理由は、土を掘りかえし、水や苔をあたえ、そうやって自分の手で植物を育てること自体が、彼の精神に安らぎをあたえていたのだろう。裏庭に植えられたもの、木棚に並べられたもの、温室の内部に置かれたもの、その天井から錆びた太い針金でつるされたもの、そういった一つ一つに、遠い日の記憶がつまっていたのだろう。植物の世話をするときの彼の目には、やさしさが満ちていた。

 息子は、いつも友人たちと野原を駆けめぐっていた。日が暮れて帰ってくると、父は薪を割って風呂を沸かしていた。

「もう沸いてとっぞ。はよ入れ」

 そう言って、彼はいつも最後に湯船につかった。

 

三 運動

 植物栽培の次に父が熱心だったのが、スポーツである。町内対抗の、校区のソフトボール大会には欠かさず参加した。練習にも熱を入れ、チームのまとめ役を引き受けていた。ピッチャーで九番、守備も打撃もそつなくこなす中心選手兼マネージャーで、チームはいつも上位まで勝ち上がった。

「お父さんのおらすけん、たのもしかあ、何でん上手かけんねえ」

 と、近所のチームメイトは少年に言った。

 父は控えめな人で、自分を主張するようなことはなかった。彼にとって大切なのは、まわりをささえること、つまりチームが勝つことであり、そういう意味で、まとめ役には最適だったのだろう。彼の関与する世界において、彼はいつもそんな存在だった。几帳面で、あたえられた役割に忠実だった。それを演じることによって、その世界に自分を浸透させようとしていた。はじめは巧くなかった、にもかかわらず(だからこそ)、練習をくり返し、そのうち、控えめな性格と相まって、人々のささえになっていった。

 ソフトボールだけでなく、バレーボール大会、相撲大会、駅伝等の世話役もやっていた。息子が参加する大会にもときどき顔をのぞかせた。地蔵祭の日の小学生相撲大会のときは、珍しく、息子に取り口を説明した。

「おまえはこまんかけん、はよう攻めんば。見とってヒヤヒヤすっぞ」

「大丈夫、ぼくは下手投げとうっちゃりが得意だけん。マワシとったら勝つよ」

「そやんこつ言いよったら、負くっぞ」

 次の勝負で、息子は身体の大きな相手の寄りをうっちゃりきれずに敗退した。息子は旭國と藤ノ川のファンで、父は大鵬が好きだった。

 

四 夜勤

 平穏な家庭に一瞬不安の影がよぎったのが、父の勤める化繊工場が倒産するというニュースが入ったときだった。息子が高校に上がったころである。

「どやんなるかな」

 とだけ、彼は家族に言った。その後しばらくして会社更生法の適応を受け、会社側は人員の整理のため、希望退職者を募った。父はかいしゃにとどまり、三交代制に望みをつなぐことにした。三交代制とは、朝八時から午後四時まで、四時から深夜十二時まで、十二時から八時までの三サイクルを周期的に後退しながら勤めるというものである。「生産活動を停止させてはいけない」ということらしかった。

 夜勤のときは、生体のリズムが狂わされるのだから、当然身体が疲れる。仲間や家族とのコミュニケーションの機会も減った。仕事と慣れない睡眠との合間に、黙々と植物の世話をした。それまで息子の成績のことをとやかく言わなかった父が「良い大学へ行け」と言ったのはその頃である。農家出の父は小学校卒であった。

「ちゃんと大学ば出んばあかんぞ」

「でも、……」

「なあーんもでけん大学出のやつが良か目におうて、学歴の無かもんは無力ぞ」

「……、でもぼくはどやんなってもよかよ」

「何ばいうか。ちゃんと大学出て、良か会社に就職せんばあかんぞ」

 その後、息子が大阪の大学に入ったとき、彼ははるばる熊本(八代市)から、入学式に参列するためにやって来た。ゆっくりと、校舎を見て回った。どのような思いだったのだろう。入学式に出たとき後の父の表情は、いつになく晴れ晴れとしていた。数年ぶりの笑顔だったような気がする。涼やかな風の吹く日だった。

 父が夜勤で朝帰りのとき、彼の寝た後は三人の家族は音を立てないように気をつかった。近くの廊下を通るときは、そおーっと、足を運んだ。何事につけ敏感な父ならわずかの物音でも目を醒ますことを、皆知っていたからである。それでも彼は十分に眠られなかったはずである(夜勤に出る前にも仮眠をとっていた)。

 数年前、息子が大学に通っていた頃、父は銀行に転職した。畑違いの、慣れない仕事だったが。そこを定年退職するとき、何かで表彰されたらしい。転職がかなったことも、表彰も、彼の人柄ゆえのことと思う。

 現在は校区の体育指導員、町内会長を兼ね、何かと忙しそうにしているらしい。筆者の耳には、直さーん、という声があちらこちらから聞こえてくるような気がする。

 

                                     (『樹林』1997年12月号より)

085

(今年5月に父から貰った山紫陽花)

キラキラな初夏に

 偶然の一致!

 3年前に購入した自転車の後輪のタイヤが擦り減っているのに気づいた。ツルツルになり、ひび割れていて、交換したいのだが(熊本に引っ越してきて)近所の自転車屋を知らなかったので、どうしようかと思いあぐねていた。すると、昨日マンション下に出張修理の自転車屋さんが来ていたのに出くわし、約束を取り付けて、今日の午前中にタイヤを交換してもらった。なんというタイミングだろう。

 さて、今日は妻と外出。晴天で、日差しが強い。

 お昼は植木にある「キラキラ・すまいるcafé」でランチ。きれいな店内でおいしいスパゲッティをいただき、店長さんの笑顔に見送られて、合志市にあるカントリーパーク(農業公園)へ。

 カントリーパークでは「第24回春のバラまつり」が開催されていて、色とりどりの、香り豊かな薔薇たちに触れ合う。お気に入りの花たちにも再会。ちょうど満開の頃、たくさんの蜜蜂が花芯に潜り込んでいた。木陰でしばらく涼み、帰路へ。

 帰りは江津湖畔の道路を通り、車から湖面を見る。紫陽花が目にとまる。風が心地よい。湖畔の緑地はきれいに整備されていて、日陰で寛ぐ人たちはとても気持よさそう。車を停めたまま風に当りたかったが、そのスペースは無かったので、湖周辺をぐるりと回る。

 初夏の自然の光を思いっきり浴びた一日だった。

105

(再会!)

5回目の記念日

 3日前、白山通りにあるお菓子屋さん Bois de Boulogne でチェリータルト「スリーズcerise」を買った。妻に好評だったので、これと薔薇のパウンドケーキ、レアチーズケーキを購入した。

 4月15日、結婚5周年のお祝いに。

 今日は晴れて風が強い。ベランダの下の桜は昨日までの雨で散り、僅かに残っている。入れ替わりにマンション玄関では藤の花が満開を迎えている。

 時の流れは緩やかなようでもはやく、5年の歳月はあっという間に過ぎた気がする。中津でみなさんにお祝いして頂いたのが昨日のことのよう。

 熊本に引っ越して1年が過ぎた。まだ馴染むのには時間がかかるけれど、少しずつ、ひとつずつ、触れ、とり入れていきたい。私たちの間に。

 妻は今日は北九州に行き都留先生たちに再会してきた。その間に鶏と大根のミルク煮を作る。

 二人いつまでもいっしょに、さまざまな思いを大切にしたいと願う。

029

(バラのパウンドケーキ)

 

 

 

5回目のクリスマス

 妻が注文してくれたケーキに蝋燭の火を灯し、いっしょにすごす5回目の、熊本に来てはじめての、ささやかなクリスマス。

 この1年で環境がずいぶん変わった。

 1月に前の職場を辞し、熊本での住居探し、2月は妻のヘルパー事業所探し、3月に別府から引越し、それから9か月、この地に少し慣れてきた。

 でも、まだまだ。齢を重ねてからの生活環境の変化は、感覚が馴染むのに時間がかかる。

 毎日、南向きの部屋から宇土の雁回山を眺めている。その部屋のベランダに毎日雀がやってくる。その下には桜の木と小さな公園があり、小さい人たちがよく遊んでいる。色づいていた桜の葉も数日前にすっかり落ちた。

 夏から秋にかけて、妻の友人、家族が大分から来てくれた。

 新幹線で博多に出かけ、ミュージカルを観たり、山鹿市の八千代座で坂東玉三郎の公演を観たり、合志市の農業公園のバラ祭りを見に行ったり、八代の実家に帰ったり。別府に居た頃より外に出る機会は増えたかもしれない。

 これからも、少しずつ、いっしょに時を重ねよう。

011

(笑顔のサンタさん)

あたたかな人

 今日、義兄のお父様の葬儀に参列してきた。

 一昨日、農作業をしていて、倒れられたのだそうだ。享年84歳、突然のことであった。

 今年春に熊本に引越してきてから、2度お会いした。ずっと以前にもお会いしたことがあったのだが、あらためて、人柄の良さに惹かれた。

 とてもあたたかな人であった。実直で、気さくで、優しい。話していて楽しい感じのする方だった。

 初めてお会いしたのが姉の結婚前だったので、もう33年になるだろうか。緑あざやかな球磨村のご実家で(牛も飼っておられた)。

 時が経っても、その頃と少しも変っておられなかった。

 式の終り、足元に花を添えさせていただいた。いつものように、優しいお顔をしておられた。

 もう会えないと思うと残念だが、そのお人柄は、いつまでも記憶に残るだろう。

 お会いできたこと、感謝します。

002
(自然の光とともに)

4回目の記念日

 さて、何でお祝いしよう。

 県立劇場横のフランス菓子屋さん「カトルズ・ジュイエ」でアントルメを買う。

 「これからもよろしく♬」と、書いてもらった。

 ひと月前に別府市から熊本市に引っ越し、慌しい毎日だった。

 妻は5つの介護事業所のお世話になっている。新しい生活環境に馴れるまで、まだまだ時間がかかるようだ。それでも、ゆっくり、ひとつひとつの出会いを大切にしていきたいと言っている。

 私も、4月から市内の介護事業所で働くことになり、利用者との新たな出会いをくりかえしている。こちらもまだまだ。事業所自体も設立して2年に満たない。これから、である。

 4年前の2010年4月15日に入籍した。その日は別府湾の畔のレストランで、2人でお祝いをした。小雨の降る日。毎年、この日は大切な日である。

 カトルズ・ジュイエにしたのは、熊本に来て初めてケーキを買ったお店だったから。

 アントルメ entre mets とは、間に置く、という意味(メインディッシュとデザートの間に出す)。毎年のこの日は2人の通過点だから、間に置く。これから、の意味を重ねる。

 アントルメのように、2人とも、たくさんの人の間で生きていくことになる。私の両親の近くで。素朴な、優しい人たちに囲まれて。過去と未来に囲まれて。

 さて、これから何が生まれるだろう。

001

(今を大切に)

 

 

 

 

オパール

 買った後で調べてみると、オパールは非常に明るいエネルギ―を持つ石であるらしい。

 「人生の暗闇に希望をもたらすような明るさに満ちた石であり、……今ある人生をより楽しむ為に必要な心の持ちかたを教えてくれる教師のような役割を果たす石」とのこと。

 お店でオパールのブレスレットを見せてもらった時、何より明るさ(親しみのある)を感じたのは、何の一致か。

 それを買って、帰って、妻に手渡すと(誕生日祝い)、偶然昼(オパール購入時)に古いブレスレットが切れたのだと言う。どちらが先か。同時か。

 昨夜は満月だったが、空は曇っていた。間接的に月光を浴びせる。

 近頃いろいろな一致が身の回りで起こっている。

 敏感になっているのか?

 あらゆる事象への配慮が、今の私には必要なのかもしれない。

 時を、人を、万物を大切に。

034

(会えてよかった)

鎌田實さん

 6月2日~7日、クラブツーリズムの「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ」に参加してきた。

 どんな人なんだろう?

 鎌田さんの印象は、ひとことで言えばあったかい人だった。

 具体的にどういう場面でというのではなく、存在から直に感じられる何かが、とてもあたたかい。やさしい。いい先生だな~。

 奥さんの今日の調子はどう?

 人なつっこくて、いつも気配りをされている。

 6日夜、「さよならパーティー」でご本を頂いた。

 鎌田實(2007).幸せな仕事~命を守る人たちへ~.PHP研究所

 長い間医療や介護にかかわって来られて、そこから大切な言葉を紡いでこられた。

 それらのほんの少しでも、引き継げたらと思う。

 また参加したい。

 あるいはまた別な場所でお会いしたい。

040

(えがお えがお えがお)

 

 

指や手で伝わった大きな愛情

 今朝の毎日新聞「みんなの広場」に良い文章があったので、ここに載せておこう。投稿者は西東京市の中学生。書かれた内容が、とてもよくわかる感じがした。

          *          *          *

  指や手で伝わった大きな愛情 

 先日、私がエレベーターに乗ったら、あるおばあさんが急いでいたので少し待って、一緒のエレベーターに乗った。私はいつも通り「こんにちは」とあいさつをしたが、おばあさんは返してくれなかった。少し嫌な気持ちになっていたら、いきなりおばあさんは私の方を向いて軽く手話を始めた。その時、このおばあさんは耳が不自由なのだと分かった。私は手話ができないから首をかしげているとおばあさんはエレベーターの壁に指で「ちゅうがくせい?」と書いた。私がうなずくとおばあさんはにこっと笑った。そしてまた軽く手話をして会釈をしておりていった。

 この時、私は口にだして言うよりも、このおばあさんとした壁や手を使った会話の方が何か大きな愛情のようなものを感じた。あのおばあさんが最後にした手話は、多分「ありがとう」だと思う。このような、物を使った表現は普段よりも大きな愛を感じるので私も使ってみたい。

          *          *          *

 私も、手話を使う人たちと会話をすると、同じように愛情のようなものを感じる。顔や全身を使って気持ちを表現するからかもしれない。ある話し合いの場では、あるろう者の方が、「年配の方の手話は私たちの大切な財産だ」とも言われた。そこには、良い人の関係がある気がする。

 良い感性に出会えてよかった。これからも、楽しく手で話したい。

011

(ぼくも手で話すわん)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー