美術

篠田桃紅

 NHK ETV特集「墨に導かれ 墨に惑わされ~美術家・篠田桃紅」を観た。

 その方の作品を初めて見たのだが、強く惹かれるものがあった。墨の線の質、構図に意思が宿っている。

 画いた人と表現されたものが一体となっている感じ。その人そのもの。

 その人とは何か? それは個人を超えている。墨という表現に導かれて、感じられたままが画かれている。意思とは、彼女を通して画かれようとする物の側にあるように感じられる。

 画家としては、「私が画いているのではないのですよ」としか言えないだろう。

 ご自分のことは、「現実ではない」、「わがまま」と表現される。どちらも正しいと思うが、客観的には、「現実ではない」、「わがまま」とは、墨という表現と生とが一体になっていることを意味している。過不足がない。

 「孤独」について、「そんなあたりまえのこと」と笑われる。一人で生まれて一人で死んでいく、孤独なんて、そんなのあたりまえですよ、と。その通りである。

 「出会い」が大切だとも。人と人との出会い、自然との出会い、境遇との出会い、その僥倖を語っておられた。創作もまた、新しい何かとの出会いである。その「出会い」に導かれ、更なる表現を許され、画いて(生きて)ゆかれる。

 表現されたものと同じく、強く、やさしく、生きておられる。

 102歳にして、なお新しい何かを模索しておられる、その姿が美しい。

048

(白い桜)

アミーバーの心

 「神と共に、神の前に、神なしに生きる」と、誰かが言っていたけれど。

 私は何と言おう、つねに私と共に在るそれを。

 生きるとはそれと共に在ることである。

 時間を超えていることである。

 過去は過去ではなく現在である。

 未来は未来ではなく現在である。

 波や風、夜、星は、ずっと以前からの宇宙の営みを湛えていて、そこにある生命そのものは時を超えて存在している。

 「亡くなった誰かがつねに傍にいる」という感覚と近いかもしれないが、そのような人格として在るのではないし、それは亡くなってもいない。

 その人をその人たらしめているものではなく、誰にも在るもの。

 日本画家の高山辰雄はこう言っていた。

 「原始時代よりもっともっと前から生物本然の何かと共通したあるもの。地上に生をうけた時の心、アミーバーの心とでも云いたいもの」

 「触れられるけれど、触れていると恐ろしい気がします。それでも私はそれをじっと見つめていたいのです」

 彼はそれを画きたがっていたし、たしかに画けていた。

 彼の画く道も、森も、空気も、菫も、白菜も、すべてがそれであった。

 (その意味ではリヒャルト・エルツェの画にも近似していた)

 ある人はそれを聖霊 spirits と呼ぶのかもしれない。

 それを護り、それと対話する。

 生はよろこびに満ちている。

013

(ゆふの丘プラザ)

高山辰雄

 昨日NHK「日曜美術館」を見た。

 新聞のテレビ欄には「命とは何かを探究した日本画の巨匠」とあった。

 彼の描きたかったのは個々の事物と宇宙との一体感だと、番組を見ていて感じた。

 人物や動物と周囲との境界がぼやけてゆく。画くほどに、年を経る毎に。

 生きるとは宇宙に溶け入ることであると、言っているようだ。すべてと交感することであると。

 生を愛しむかのように高山は画きつづける。それが彼なりの交感である。

 分子生物学者の福岡伸一氏は、そこに時間の流れを見ていた。画の中に、過去と現在と未来が同時に現されていると。それは福岡氏ならではの見方なのだろう。

 私は、私ではない私を想起する。

 画かれた犬は、もはや犬ではなく、そこにある何かである。そこに思考している物である。黄色い服の少女も、すでに少女ではなく、何か(something)である。そのような無名の何かとして私たちはある。やがては水や炭素に還元されてしまう何物かとして。

 しかしそれは思考する。見、聞き、感じ、どこまでも思考しようとし、思考を生き、人知れぬ崖の端に咲く花のように、不意にある場所に自らを見出す。

 風景に溶け入ろうとし、芯のように定位する物は、じっと何かを感じ考えつづけている。

 それは、何か?

 私たちは、それに促され、寄り添い、対峙し、またそれなしに生きる。

 高山もまた、その「何か」を感じていたに違いない。

 高山辰雄展は、2月3日まで、大分市美術館で開かれているらしい。

004

(大分市東浜にて)

ひとり

 動画『有元利夫展 その芸術と生涯』に、日記に残された作家の言葉が記されてあり、そのなかの「ひとり」という言葉が印象に残った。

      *      *      *

 ひとり

 

  なぜひとりなのか。

  簡単にいえば、関係が出てくるからです。

  二人以上の人物が登場すると、

  その人物間に必ず関係が出てくる。

 

  僕に言わせれば、関係というのは

  その「場」とそこに居る人との

  ものだけでいいんじゃないか。

  居る者同士の関係はもういらない

  という気がします。

      *      *      *

 有元利夫さんの画に出てくる人物はいつもひとり。

 色あいが優しい、静謐である、濃密である。

 上の文章を読むと、日常の人と人との関係にも当てはまる感じがする。

 どのような人だったのだろう。

 画や音楽のような穏やかな人柄を想像する。

http://www.youtube.com/watch?v=4kymQ5c7N98

絵手紙!

 10月30日(土)、別府市ふれあい広場「サザンクロス」にて、 みんなで絵手紙をかこう! を開催した。

 講師は、県内の施設や、中学校、社会福祉センター等で教えてらっしゃる原野彰子さん(あっこちゃん)。

 絵手紙は下手でいいんですよ。

 のびのびと、味のある感じがいいです。

 線はさらっと上手に引かずに、ゆっくり描きます。

 色は塗るのではなく、置きます。

 16名の受講。みなさんそれぞれに、味のある絵を描かれていた。

 楽しかった、また開いてください! という声もたくさん聞かれた。

 私は、当日は原野さんの助手をしていたので、描かなかった。それで、今日、顔彩や青墨を買って来て、初めて描いてみた。

 なるほど、意外と面白い。絵手紙をかく人の気持ちが少しわかった気がする。

002

(初めて描いた絵手紙)

Richard Oelze リヒャルト・エルツェ

 小柳玲子編 夢人館10 リヒャルト・エルツェ 岩崎美術社(1997)

 蠱惑的な物たち。

 しかし美しい別世界がここにある。

 砂漠のような、森のような、どこにも存在しない場所のような。

 自分の体質を絵にしたような感じ。

 生命の匂いが余りしない、幾何学的な線が感じられる、でも蠢くものがある。

 意識の胎動か。

 

 期待

 日々の責苦

 石のある風景

 マッチのある静物

 礼拝堂のある風景

 魔法使いとシンボル

 森の空き地

 薔薇の王妃

 夜の時間Ⅰ

 角のある動物

 喪のささやかな祭礼(エゼキエル)

 親族の小枝

 絵の中の絵

 レンブラントへのオマージュ

 神託

 嘆きの川辺で

 内部

 ガラス球とともに

 植物的生長

 エピクロス

 白い鳩

 死の人形たち

 永遠の霧の方へ

 忘れられた人々

 孤独な願い

 鳥類学的肖像

 霊魂の湿原

 孤独の喜び

 ヨサファの谷

 

 意識の深みへ降りていく、その過程で出合う物たちを、親しみを込めて描いている、そんな感じがする。

 描かれたのは、エルツェの「オバケ」。

 エルツェは孤独を愛したと言われる。奇人などではなく、ごく常識的な人であったとも。

 出合うものたちとの対話が、エルツェの人生だった。彼は対話を生きた。

 言葉ではなく、作画を通しての。

 ヴォルプスヴェーデ(彼が長い間住んだ土地)という名前も、世の中のあれこれも、彼にとってはあまり意味をなさなかっただろう。絵を見ていると、そう思われてくる。

 砂漠のような、

 森のような、

 対話の場所、

 守り育まれる場所。

http://homepage2.nifty.com/mujinkan/library/oelze.htm

 

 

 

大分もの展

 6月2日(水)、大分市戸次にある帆足本家酒造蔵で開かれている「大分もの展」に行ってきた。

 cloud さんの手縫い革製品、木屋かみのさんの木製の器、アクセサリー、おひさまとかぜさんの木のおもちゃ、エラン工房さんのエッグアニマル、箸屋一膳さんの手作りの箸など、楽しく、温かく、優しい「もの」たちに溢れていた。

 なかでも、最も気になったのが、有馬晋平さんの「スギコダマ」だった。杉を削り、磨き上げた「もの」の肌触り、質感、匂い、色、模様が、とても気持ちの良いものだった。人肌に馴染む感触に魅かれる。

 作者によると、「杉が日本人のソウルツリー(Soul Tree)であると確信しています」。

 「木の温もり」というもの、に触れた気がした。同時に、自然(山林)に存在する、生きている木には、敵わない感じもした。

 自然にある「もの」を抽出するのは、文化だろうか、人の営みの姿だろうか。

 あるいは、皮を使って「もの」を作ることの喜びは何だろうか。

 展示されていた「もの」たちは、本来はもっと身近で親密な物であったろう。その頃は、私たちの生も、私たちと共にある物たちと、即応していただろう。

 私は私の「もの」を作り続けていかなくてはと、心の奥底の方で、思った。

オバケと私~版画家・清宮質文

 NHKの「新日曜美術館」をよく見る。

 昨日の夜は版画家・清宮質文(せいみやなおぶみ)の特集だった。

 初めて見た。蝶、夕焼け、魚、海辺、人、空。どこまでも静かな画だ。繊細で、勁い。

 番組では、本人の文章も紹介されていた。「オバケと私」という題。

 芸術家はみな、自分の(オリジナルな)オバケを表現しようとしている、モナリザはレオナルド・ダ・ヴィンチのオバケである、私もオバケを描こうとしている、だが、なかなかうまく掴まえられない、と。

 その通りである。わかりやすい。うまく掴まえられないから、〈オバケ〉である。

 清宮を知る人の評としては、生と死を超えた、永遠、魂、素敵な悲しさ、という言葉が聞かれた。

 生死とは別のものとは、やはり〈オバケ〉なのかもしれない。私たちが掴まえたいもの、表したいものは、そういう奇妙な、変幻自在の、表現の手から零れ落ちる類のものである。

 太宰が津軽で見つけたかったのも、太宰のオバケ、だったろう。

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2009/0621/index.html

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