映画

Intouchables 最強のふたり

 Intouchables(2011). Éric Toledano & Olivier Nakache

 2013年6月、太平洋上の機内で観た。

 触れうるはずのない(intouchable)異質なふたりが出合う、それはよろこびだということ。

 その出合いは普遍である。

 ドリスがフィリップの介護人として勘がいいのは、心の繊細さによる。表面的には粗野で乱暴だが、その心には母親から受け継いだ愛情、貧民街で育った中で身に付けた他者への気遣いが醸成されていた。

 身障者のフィリップはそれを一目で見とめた。

 そしてしだいに友情が育まれてゆく。その過程が美しい。

 この出合いを私たちはいつも求めている。ときに意想外であり、しかしつねに準備している人には必然でもあるような出合いを。

 この出合いのために、私たちの生はあるのかもしれない。あるいは日々の気づきこそがその出合いなのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=IfHOM7dPzZA

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(2015.12.19 別府の朝)

デート~恋とはどんなものかしら~第6話

 〈お父さんに教えてあげる。量子力学によると、万物はすべて粒子によってできているのよ。つまり、死とはその人を形作っていた粒子が気体という姿に変形することにすぎないの。お母さんの粒子は存在し続けるわ。お母さんは、ここやそこに居続ける〉 by 藪下依子

 スタインベック『怒りの葡萄』のトム・ジョードの言葉に似ている。

 〈そうなりゃァ、そんなこたァなんでもなくなるのさ。そうなりゃァ、おれァ暗やみのなかのどこ にでもいることになるのさ。おれァいたるところにいることになるんだ――おっかあが見るどんなところにでもな。飢えた人間がめしが食えるようにって喧嘩が起るところにゃァ、どこにでもおれはいるんだ。おまわりのやろうが人をぶったたいているところにゃァ、どこにでもおれァちゃんといるんだよ。もしケイシーのいうことがほんとなら、なァに、おれァ、人間がはらをたててわめいているそのわめき声のなかにいるし、それから――ひもじい思いをしたがきどもが、晩飯のできたことを知って笑っているその笑い声のなかにもいるのさ。それからまた、うちのもんが、自分で作りだしたものを食って、自分で建てた家に住むようになったときにゃァ――なァに、おれもそこにいるんだぜ。わかったかい?〉 岩波文庫より

 死んでも存在し続ける。量子力学によっても、よらなくても。

 「ありがとう」という父に、依子は「量子力学を教えただけ」と答える。彼女がつねに見ているのは、それが論理的に正しいかどうかである。そして、論理的に正しいことは、人の感性にうまく届くのだと、おそらく無意識に確信している。「世界平和」とはそういうことである。

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(ここやそこに居続ける)

僕のいた時間

 細部が良いと感じる。

 私も引っ越し先のマンションの室内に段差があるので、拓人の家のスロープのつくりがとても参考になった。

 ヘルパーさんに関しても、人手が足りなくて、経験の浅い人しか派遣できないとか、リアルな感じが伝わってくる。

 利用者に、なぜ介護の仕事をはじめたのかと問われ、恵は「なるべくしてなったというか…」と答える。それも実感がこもっている。

 拓人の身体の動き、心の動き(葛藤)も、よく伝わってくる。

 拓人の勤める会社の人たちの理解も、自然体でよいと感じる。

 陸人の真面目な性格もよくわかる。

 いろんなことを考えさせてくれる、とても良いドラマだと思う。

 http://www.youtube.com/watch?v=jX_8DcL1e8c

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(わが家にもスロープができました♬)

ツナグ

 2012年 「ツナグ制作委員会」

 主人公歩美(松坂桃李)が、祖母アイ子(樹木希林)から「ツナグ」(生者と死者をつなぐ使者)の役を継承する前、使者を呼ぶ場面を目にして口にする言葉がある。

 死者は、生きていた時の記憶をかき集めて作られたかのようだ、と。

 そこには歩美の解釈が入っている。再会は生者の都合ではないかという。

 しかも、ここに出てくる死者たちは優しい。

 再会により、生者は死者に力を与えられる。事故死した親友の御園奈津に再会した嵐美砂でさえ、会った後は苦しみに号泣していたにもかかわらず、後悔はなく、成長を果たしている。

 それらは、生きている者の都合ではないか?

 しかし、生者の都合ではないと、歩美は気づく。死者は、会いたくなければ会わなくて済むのだから。

 人は生きているのではなく、生かされている。さまざまな艱難辛苦とともに。死者はそれを知っているからこそ、生者に優しくすることができる。

 だから、いつもよりそっている。

 私たちは、「死者は私たちのなかで生きている」と、よく耳にする。たしかに、いまある私たちは、死者たちに支えれれて生きている。それと意識するしないにかかわらず。

 支えられている、そのつながり方を、幾つかの短い物語を通して、この映画は例示している。

 そこにあるつながりの回路を、「私たち」はもっと大切にしていいのだと。

 そこから、生者どうしの支え方、つながり方もまた見えてくる。

 私たちはどのようにつながろうとしているか。

http://www.tsunagu-movie.net/04chara/index.html

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(海の向こうの丘の上の夕日 honolulu)

La frontiere de l'aube 愛の残像

 La frontiere de l'aube (2008). Philippe Garrel

 静かで優しい映画である。

 キャロル(女優)とフランソワ(雑誌カメラマン)の愛は、切なく、苦しい。互いの魂に触れ合いながら、水が砂に浸み込むように、少しずつ拡がっていく。

 キャロルが薬物で亡くなった後、フランソワは鏡に彼女の亡霊を見るようになる。それは彼の心が生み出したのだろうか。

 彼女を思うゆえに、生きていた時のことを後悔するように。

 あるとき彼は知った、本当は、彼女こそがすべてだったのだと。だから、自らも後を追うしかなかった。

 後を追わない新しい生は、彼には意味をもたらさなかった。ヒースクリフを思うキャサリンのように。

 だから、映像は彼を労るように優しい。記憶の一つ一つをなぞるように、キャロルのしぐさを写真のように切り取り、再現する。

 フランソワは、再び彼女に会えただろうか? 何より、彼の思いが、この世には大切なもののような気がする。

 人のそのような思いの一つ一つが、この世を純化しようとしている。

 夜明け前の僅かな光のように。

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(静かで優しい)

 

 

 

いけちゃんとぼく

 2009年公開、原作:西原理恵子。

 私も、ときどき誰かに護られている感じがする。

 誰か、ではなく、何か、かもしれない。偶然の出会いとか、偶然の救いとか、etc.

 いけちゃんは少年の「ぼく」に会いたかった。

 会いたかったから、願ったから、叶ったのだけれど、本当は、いつから会いたかったのだろう。ずっと前から、かもしれない。

 いけちゃん自身にさえ意識されていなくて、そしてそれは「いけちゃん」になる以前だったかもしれず。

 いけちゃんがずっと思っていた、ずっと大切にしてきた何かは、「ぼく」に出会い、「ぼく」を大切にし、「ぼく」に思慮と勇気を与える、そういう「何か」だった。

 子どもが成長の過程で出会うものはなんだろう? 人のあたたかさ、愛情、そしてあるときふと出会ってしまう「何か」。

 それは見知らぬものかもしれず、親しみのあるものかもしれず。それはたぶん人によってちがう。

 とても良い映画だった。いけちゃんの声も良かった。

http://www.youtube.com/watch?v=xYO78FH5_Eg

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(ふとした出会い)

The Turin Horse ニーチェの馬

 The Turin Horse ニーチェの馬.2011年.ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作

 北イタリアの寒村に住む父と娘と馬の6日間。ずっと強風が吹いている。

 父は強風の中を馬とともに帰る。食するのは茹でたジャガイモだけ。塩を少しかける。土埃の中、枯葉が吹き荒れる。

 翌日、馬は働こうとしない、秣も食べなくなる。一人の男がやって来て世界の終焉を語る。2頭立ての馬車に乗った数人の旅人が井戸の水を飲みに立ち寄り、父はそれらを追い払う。

 井戸の水が枯れる。飲み水を求め、父娘と馬は旅立とうとするが、やがて引き返してくる。相変わらず強風が吹き荒れている。

 ランプの灯が消える。点けようとするが、なぜか点かなくなる。火種もなくなり、ジャガイモも生で食べようとする。

 馬はどうなっただろう?

 このような貧しい生活を、あたり前のように私は感じた。歓楽からは遠く、最小限の物を食し、静かに生きる。水を汲み、繕い、耕し、食す、それだけで十分に豊かであるのに、多くの人は更なる何事かを付与しようとする、それが不思議なことと感じられる。

 夜が朝になり、嵐が止めば、父娘はまた土地との交感を始めるだろう。すでに始めてはいるのだが。

 感じとり、生きること、貴い暮らしである。

http://www.youtube.com/watch?v=tmhKEuxssgw

006

(春来たるらし)

Jane Eyre ジェーン・エア

 Jane Eyre(2011).イギリス-=アメリカ

 高貴な魂の物語である。

 決して媚びることのない性質。自らの考えをまっすぐに述べる。それは素直な感性と厳しい境遇に裏打ちされたもの。

 ジェーンは、家庭教師先で、その屋敷の主人ロチェスター氏に出会う。二人はその瞬間に互いの魂の類似を見てとった。だからこそ、はじめから率直に(対等に)語り合う。相手を批判もするが、語り合いは喜びであった。また、ロチェスターの結婚相手になるかもしれないイングラム嬢が現われたとき、苦しみもする。

 自分が愛するのはイングラム嬢ではなく、あなたなのだと、ロチェスターから求婚され、そして教会で誓い合おうとした時、彼に妻がいることが露見し、ジェーンは絶望する。何かに祈ることもなく、悲しみに打ちひしがれる。

 絶望した彼女を救ってくれた牧師のジョンの世話で、教師の職を得、日々を送るが、そのジョンから求婚された時、彼女に聞こえてきたのは、ロチェスターの叫びだった。

 ジョンはジェーンに対して魂の同質を口にする。しかし、それは違うと、彼女には分かっていた。分かっていたのは理性からというより、はっきりと感じられていたのだった。

 ロチェスターは、精紳を病んだ妻が引き起こした火災のために、目が見えなくなっていた。盲目の彼は、ずっとジェーンを求めていた。その心の声が彼女に聞こえた。

 求め合い、巡り合う、それは人の心の本質なのだと、作品は語っている。だからこそ、私たちは自らの心に素直になり、時にはあえてそれを超えて、より真実なる何かを求めて生きようとする。

 深く心に残りつづける物語である。

http://www.youtube.com/watch?v=Fn5sO7s8Ly8

011

(戸畑の公園にて)

 

 

 

嘆きのピエタ

 愛する息子が死に至る。母親は復讐を果たそうとする。

 息子が死んだのは借金の取り立てによる。母親は、その取立人への復讐を企てる。

 その復讐とは、肉親の死を味わわせるということ。そのために、母親を知らずに育った取立人の母親を名乗り、信じさせ、情愛を植え付けた上で、自らは取立屋に殺される、という筋書きを用意する。

 物語はほぼ筋書き通りに進行した。しかし、それは復讐にならなかった。

 母親自身は、取立人に愛を持ってしまったのだ。

 取立人も、母親という愛を知ることになる。それは彼が生まれて初めて知る幸福だった。自身の中に愛情が生じたということが、彼にとっての幸福である。

 その幸福を知らせてくれたのが、復讐のために近づいた母親と名乗る女だった。

 女は、亡くなった息子に着せるセーターを、復讐する相手の前で編み続けた。

 物語の終り、投身する前に「なぜこんなに苦しいのか」と女は独白する。母さんを殺さないで下さいと拝み縋る息子役を眼下に見て。

 息子役に情愛を齎し、母親役にそのような切ない感情を与えたのは、神の慈悲であると、映画は語る。

 さて、復讐を試みた女はどの瞬間から取立人に愛情を抱いたのだろうか?

 それは、じつは復讐に内在していたのではないか?

 復讐とは恨みを晴らすことである。しかし、本当のところ、その行為自体とは、相手への慈悲ではないのか?

 本当に憎むのなら無視するだろう。

 復讐とは? 人の行為であるなら、必然的に善を目指す。復讐という名の、それは愛である。だから彼女は切なかったのだ。

 復讐は、果たされることは、決してない。物語は、激しかった映像とは裏腹に、静かに終わる。人々を優しく包み込もうとするかのように。

016

(夕暮れの海辺で) 

重力ピエロ

 2009年。原作:伊坂幸太郎、監督:森淳一。

 人はさまざまな不遇や悲しみの中で生きている。それに押しつぶされてしまうとすれば、重力のせいだ。

 しかし、人に喜びを与えるピエロは、重力などまるで感じないかのように軽々とした身のこなしを見せる。子どもの頃間近に見た煌めく映像。

 不遇はだれのせいでもなく、世間のせいでもなく、自らの心の在り方だった。そのことに、春はいつ気づいただろう? 壁にグラフィックアートを画きながら? 生家に火をつけたとき? それよりずっと以前に、自分の絵の才能に気づいたとき?

 人からどう見られるかではなく、自分がどう考えるか? それがどう生きるかということだ。その考えは、幼いころから人に蔑まれて生きてきた春にとっては、自然と身に着いたことではなかっただろうか?

 「自分で考えなさい」。途に迷ったとき、春のお父さんは神様に相談しようとして、神様にそう言われたらしい。

 その通り。「あなたが見たいと思う世界の変化にあなたがなりなさい」(ガンジー)。映画はそうも言っていた。

 春のしたことは正しかったか? 春は、正しいとは思っていないだろう。身を苛むほどに苦しいのに違いない。それでも、やらざるを得なかったからやった。

 春には泉水という兄がいた。「どちらも spring」。

 分身のような存在。苦しみも悲しみも、分かち合いたいと願う。見守っていてくれなくても、分かってくれなくてもよかったかのしれないが、兄はいつも見守り、理解してくれた。同じ場所で、同じ時を過ごした、もうひとりの私として(本当は、まったく別の人格なのだけれど)。

 背負い、苦しみ、それでも少しずつ希望を見出して、やがてはあの軽やかなピエロになることを夢見て、春は生きていくだろう。目に見えるこの世界は光に満ちているのだから。

http://www.youtube.com/watch?v=5KZffS5qKrc

009_2   

(Spring has come!)

 

 

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