読書

妻を帽子とまちがえた男

オリヴァー・サックス(1985)/高見幸郎・金沢泰子(1992).妻を帽子とまちがえた男.晶文社

《もし私が処方箋を書くとしたら、あなたにはまったく音楽だけの生活を、とすすめたいところです。これまで音楽はあなたの生活の中心でした。でもこれからは、音楽があなたの生活のすべて、というふうにしていいと思いますね》p.46

〈記憶にきざみつけることができない、というのではどうやらないらしい。記憶へのきざみつけかたが弱いためにじきに消えてしまう、ということらしいのである……いっぽう知性や知覚能力は、ぜんぜん損なわれることなく保存され、依然としてきわめてすぐれているのである〉p.62-63

《彼という人間は、瞬間だけの存在だ。いわば、忘却というか空白という濠でとり囲まれて完全に孤立しているようなものだ。彼には過去もなければ未来もない。たえず変動してなんの意味もない瞬間瞬間にはりついているだけだ》p.66

「なんの意味もない」とは著者の主観である。「失われた魂」とも、「彼には根がないのだ」とも言う。

《でも人間は、記憶だけでできているわけではありません。人間は感情、意志、感受性をもっており、倫理的存在です。神経心理学は、それらについて語ることはできません。それだからこそ、心理学のおよばぬこの領域において、あなたは彼の心に達し、彼を変えることができるかもしれないのです》p.73-74

〈あらゆるもの、あらゆる経験、あらゆる出来事が完全に消えさった底なしの穴。いっさいの世界をのみこんで、何もあとに残さないような深淵〉p.76

〈コルサコフ症候群や痴呆やその他の悲惨な状態において、たとえ器質的障害やヒュームのいう溶解がどんなにひどくても、芸術や聖体拝礼や魂のふれ合いなどによって、人間らしさは回復される〉p.83

〈しかし、もっと根本的な変化がおこったということはないだろうか。固有感覚による身体イメージがなくなってしまったのだから、脳のなかに視覚的にえがかれる身体イメージが、補償や代用としてはたらいたのではないだろうか。視覚によるイメージが、高揚した異常な力をもつようになったのではないか……視覚によるイメージのほかに、前庭によるイメージもある程度高まって、代用としてはたらいたのであろう。どちらも、われわれの予想や希望をはるかに越えるほど高まったのかもしれないのだ〉p.100

〈クリスチーナは、ことばで言いあらわせない、想像もできないような世界に住まざるをえないのだ。いや、それは「非世界」、「無」の世界と言ったほうがいいかもしれない〉p.104

 脳機能、神経の損傷による生きにくさは、私の想像をはるかに超えているようだ。だからこそ、私は私の想像力を深め、高めなくては。どのようにして? 注意と集中、以外にはないけれど。

《自我とは、何よりもまず肉体的なものである》p.106 フロイト

《インテグレーションは行動のうちにある》p.121 ロイ・キャンベル

〈彼女にさわられたとき、あたかもそれは、瞑想的で、想像力ゆたかで、美的感覚のすぐれた、生まれながらの芸術家――正しくは、生まれたばかりの、だろうが――によって撫でられている感じがしたものだった〉p.125

《肢切断患者にとって、ファントムの価値は極めて多きい。たとえば下肢が義足の場合、安心して歩けるためには、そこにファントムがあることが必要である。いわゆる身体イメージというものがその義足の部分にぴたりとおさまって、一体化したように感じられなければ、満足に歩くことはできないのである》p.132マイケル・クリーマー

《失認がはげしいと、患者は、まるで世界の半分が、とつぜん意味のあるかたちでは存在しなくなったかのようにふるまう。……片側失認の患者は、左側の世界では何もおこっていないかのようにふるまうばかりでなく、そこでは重要なことは何ひとつおきるはずがないかのようにふるまうのである》p.150 M・マーセル・メシュラム

〈ヘンリー・ヘッドはもっと鋭い感覚をもっていた。彼は失語症について一九二六年に書いた論文のなかで、「感情的調子」について述べている。失語症患者は「フィーリングトーン」を感じとる力を失っておらず、ときにはより敏感になっていることさえあるというのだ……彼らは言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ〉p.155

《説得力がないわね。文章がだめだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ》p.158 エミリー・D(右側頭葉に神経膠腫)

〈トゥレット症の特徴である異常に迅速で気まぐれな想像力や反応…〉p.175

〈したがって、トゥレット症は、臨床的にみても生理学的にみても、肉体と精神をつなぐ「失われた環」のようなものであり、いわば、舞踏病と躁病の中間に位置するものといえよう〉p.176

〈トゥレット症患者も歌ったり演じたりしているときには、病気から完全に解放されている。そこでは、I(理性的自我)がIt(本能的自我)をうち負かし、支配しているのである〉p.177

〈「……大きな苦痛を乗り越えてこそ、精神は最終的に解放されるのだ」 逆説的ではあるが、生き物として本来もっているはずの生理学的健康をうばわれていたからこそ、レイはあらたな健康、あらたな自由を見いだしたのである〉p.186

〈しらふの状態でなく酩酊状態にこそ、真実が存在するかもしれないのである〉p.195

〈われわれは「物語」をつくってはそれを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう……トンプソン氏が、なぜあのようにむきになって作話し、おしゃべりするかといえば、物語、ドラマが必要だからである〉p.200-201

 〈しかも、彼には自己を見失ってしまったという感覚、内的世界を失ったという感覚がない(はかり知れないほど奥深いところにある神秘的な内面世界こそ、アイデンティティや現実性の獲得に必須であろうに)〉p.202

〈彼はおそろしい口をあけている記憶喪失という深淵をとび越えようとして、たえずつくり話をする。それは大した才能ではあるが、逆説的にいえば、その才能こそが呪いでもあるのだ。もし彼がおとなしく黙っていることさえできたなら、もし彼が偽りの幻想と手を切ることさえできたなら、そのとき――ああ、そのときこそ!――彼のなかに現実がはいってくるかもしれないのだ。本物の、真実の、深みのある、真に感得された何かが、彼の魂のなかに入ってくるかもしれないのだ。彼の場合、最大の「実存的」な惨禍は記憶にあるのではなかった。彼の記憶がまったく荒廃していたことは事実だったが、変りはてたのは記憶だけではない。感じるという基本的な能力がなくなってしまったのである。「失われた魂」というのは、このことを言うのである。ルリアはこのような無関心を「均一化」と呼び、時にはこれを、世界や自己を最終的に破壊してしまう究極の病変と考えているようだ〉p.206

〈静寂と、十全にして満ち足りた雰囲気、しかもまわりはすべて人間以外のものばかりとあって、はじめて彼は静穏と充足感を味わうのである人間のアイデンティティだの人間関係だのはもはや問題ではなくなり、あるのはただ、自然との、ことばによらない深い一体感である。そしてこの一体感を通じて彼は、この世に生きていること、偽りのない真正な存在であることを感じとるのだ〉p.208

〈そもそも音楽とは情感にあふれ、意味のあるもので、内面の奥ふかくに存在する何かを――トーマス・マンの言う「音楽の背後にある世界」を――あらわそうとするものである〉p.238

〈ペンフィールドも指摘したことだが、そのようなてんかん性の幻覚・夢想は、けっして空想ではなく、記憶なのである。きわめて明確で鮮やかな記憶であり、しかも、原体験のときの感情もいっしょに思い出される。そのような記憶は、大脳皮質が刺激されるたびに呼びおこされる。普通の状態で思い出される記憶は、鮮明さにおいてとてもこれにかなわない〉p.241

〈「無意識の記憶」についてみごとな本を書いたエスター・サラマンは、そのなかで、「子供時代の神聖で貴重な記憶」を保持していること、あるいはそれをとりもどすことがいかに必要であるかを述べている(『時のつどい』一九七〇)。もし子供時代の記憶がないと、人生はひどく味気ない、拠り所のないものになるという。そのような記憶を呼びもどさせたことで得られる深い喜びや存在感について、彼女はドストエフスキーやプルーストなどの自伝から数多く引用して述べている。われわれはみな「過去に住むことができない亡命者」である、だからこそそれをとりもどさなければならないのだと〉p.250-251

〈経験は、それが図象的にまとめられるようでなければ経験とはいえない。行為は、図象敵にまとめられるようでなければ行為とはいえないのだ。「脳にとどめられたすべての物についての記録」は、図象的なものにちがいない。これが脳における最終的なかたちである。たとえそこへいくまでの予備段階で算定的・プログラム的なかたちをとったとしても、脳における表現の最終的な形態は「芸術」である。あるいは芸術を容認する、と言いかえてもいい。すなわち経験や行為は場面や旋律となって表現されるのである〉p.259

 《私が幻視を見たのは、眠っているときでも夢のなかでもありません。もちろん、狂気の状態で見たのでもありません。肉体の目や耳で感じたのではないのです。秘密の場所に閉じこもってみたのでもありません。ひらけた場所で、油断なく気を配っているときに、心の目と内なる耳とではっきりと感じとるのです。それは神のご意思なのです……私はそれを「生命の光の雲」と名づけました。水面に太陽や星や月の光が反射するように、人間の書いたもの、言い伝え、徳や行いなどすべてその光のなかで輝いているのです……ときおり私は、この光のなかに、「生命の光そのもの」と名づけたもうひとつの光を見ます。それを見ると、悲しみや苦痛をすべて忘れ、私は、もう一度、老女ではなく純真な乙女になるのです》p.289-291

《ほんの五、六秒のみじかい時間だが、永遠の調和の存在を感じるときがある。おそろしいことに、それは驚くべき明晰さで姿をあらわし、魂に法悦をもたらす。もしこの状態が五秒以上続くなら、魂はそれに耐えられず消滅してしまうだろう。この五秒間に、私は人間としての全存在を生きる。そのためなら、私は命をも賭けるだろうし、賭けても惜しいとは思わないだろう》p.292 ドストエフスキー

「永遠の調和の存在」とは、リルケの「天使」ではないだろうか? あるいは「太陽と溶け合った海」か?

〈それは心の「質」と関係するものである。それも、すこしも損なわれることなく、かえって高められてさえいる心の「質」である〉p.295-296

〈「具体性」こそ、新たな解明へのきっかけであり、障壁でもある。それを通して感受性、想像力、内面へと入っていくこともできるが、同時に、それにとり憑かれると、意味のない細目に固執するようになりかねないのだから〉p.299

〈具体的なものは、容易に、美しいもの、喜劇的なもの、象徴的なものにもなり、芸術や精神といった奥の深いものに昇華することが可能なのだ。概念的には、知恵遅れの人は不具かもしれない。しかし具体的なもの、象徴的なものを理解する力は、いかなる健常者にも劣らない〉p.300-301

〈日常の生活では簡単な説明や教えさえ理解できないのに、深遠な意味をもつ詩のなかの比喩や象徴を理解することには、ほとんど困難を感じないようだった。感情や具体性をあらわすことば,イメージや象徴をあらわすことばがひとつの世界を生みだし、彼女はそれを愛し、おどろくほど深くそこに入りこむことができたのである……しゃべるのはたどたどしかったが,彼女は一種の詩人,生まれながらの詩人といってよかった。はっとさせるような比喩や修辞が自然にうかび,思いがけない瞬間に、叫びのように発せられるのだった〉p.304

《おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの》p.310

〈興味深いことに夢もまた、彼女の支えとなった。夢を語るとなると、彼女はいつも生き生きとしてきた。夢には、喪に服しているあいだの彼女の心の変化がはっきりとあらわれていた〉p.311

〈基本的に言えることは、抽象的で体系的な方法が役立たないときにも、音楽には、組織しまとめる力、効果的に楽しくまとめる力があるということだ〉p.316

〈父親にとって大切だったこと、それがマーチンにとっても大切だった。二人は、音楽の魂、わけても宗教音楽の魂、声の魂を共有していたのである。声こそ、喜びと神の賛美に用いられるべく神がつくり給うた楽器なのである〉p.324

〈たとえ特殊なせまい領域であっても、彼らの能力が発揮できるのは、マーチンやホセ、そして双子の兄弟のような知恵遅れの人々に「創造的な知性」があるからである。理解し大切に育てなくてはならないのは、このような知性なのである〉p.328

《調和をもってつくられた者は、調和によろこびを感じ、……宇宙(の妙なる音楽)を創った〈第一作()者〉を深くしずかに思う。瞑想する彼の心には、耳が聞いて感じとる以上に、神々しいものが伝わってくる。それは全世界を解きあかす啓示であり、謎めいた象形文字のごとくいわば象徴的なかたちで告げられるかくれたる教えである。神の耳には知的に鳴って聞こえている調和の音楽といえよう。……人間の魂はハーモニカルであって、音楽にもっとも共鳴しやすいのである》p.346 サー・トーマス・ブラウン

〈あの双子の兄弟は、知恵遅れではあったけれど、宇宙のシンフォニーが聞こえていたのだろうと思う。それは、数のかたちをとって聞こえていたのであろう〉p.349-350

 創造的な知性、調和的なもの、具体性……。双子の兄弟にとって、数は生そのものであった。

 〈その兄弟は、天使とおなじ直覚的認識力をもっているかのようだった。彼らには、数にみちた宇宙が、天空が、なんら労することなく見えていたのである〉p.354

〈もしゲーデルの言うとおりのことがおこっているのだとすれば、双子の兄弟やそれと同類の人たちは、数の世界に住んでいるばかりでなく、世界のなかで数として生きている、ということが考えられる。彼らが数で遊んだり、数を出してくることは、人生そのものを生きようとしていることではないだろうか〉p.361-362

〈これまで彼の絵には――彼の人生にも――相互作用がつねに欠けていた。だがこの日ようやく、遊びのなかで、しかも象徴的なかたちではあったが、相互作用がもどったのである……安全な場所にもどるのが一番だと私は感じた。自由勝手な連想はもうやめておこう。私は将来にむかっての可能性を見つけたが、危険にも気がついていた。安全な場所、エデンの園、堕落前の母なる自然へ早くもどろう〉p.380-381

〈以前の彼は、話せないという状態を、希望もなく自虐的に受け入れていただけだった。だから、ことばやその他の手段による他人とのコミュニケーションすべてにそっぽをむいていたのである。話すことができないことと話すことを拒んできたことが、二重に病状を悪化させていた〉p.382

〈彼の心は観念的・抽象的なものを理解するようにはつくられていない。抽象的なものをとおして真実を見いだすことはできないのだ。しかし、具体的な個々のものに熱中し、それを表現する能力をもっている。それらを愛し、直観的に理解し、再創造する。彼にとっては、具体的なものこそ真実と現実に通じる道なのである……したがって、彼らはユニバース(単一の世界)に住んでいるのではなく、ウィリアム・ジェイムズのいうマルチバース(複合世界)に住んでいる。確固とした強烈な無数の「個」でできた世界なのである……ボルヘスの『記憶の人フネス』で描かれているのが、まさしくそのような心である〉p.386

〈自閉症の者は、生来めったに外部からの影響をうけない。そのため孤立化する運命にある。しかし、だからこそ彼らには独自性がある。彼らのヴィジョンをもし垣間見ることができるとすれば、それは内側から生まれるもの、彼らがもともともっていたものであろう〉p.388-389

 

《ヤナムラの才能を伸ばすために私がしたことは、彼の魂をわが魂とすることでした。教師は、美しく正直な知恵遅れの生徒を愛し、その清らかな世界をともに生きるべきなのです》p.39424

緋の舟

志村ふくみ・若松英輔(2016).緋の舟 往復書簡.求龍堂

〈ここでの「吹雪」は、容易に先を見通すことのできない、人生の試練です。試練はしばしば困難を伴う。だが、先が見えないという困難こそが、絶対的に待望しているものの到来を告げ知らせているように感じられる……私を守護する何かが、来るべきものの接近を語ってくれているように感じられることがある。リルケにならって、そうした存在を天使と呼ぶなら、天使の声は試練のとき、もっとも鮮明に、また確かに、胸に響きわたるように思います〉p.32 (若松)

 

〈私も同様の経験があります。そのとき私は、死者が私に付いてきているのではない、私が彼らに導かれて来ているのだ、と思いました〉p.35 (若松)

 

〈自分にとって、書くとは内心の思いを表明することであるよりも、どこからともなく自らを訪れる言葉の通路となることだと、石牟礼さんは穏やかにですが確信に裏打ちされた面持ちで、語ってくれました〉p.43 (若松)

 

〈同じ人間として目を覆い、直視することのできないこの暗黒の中に、その暗闇が底なしに深い故に、石牟礼さんの言葉が浮かんでくるのです〉p.51 (志村)

 

〈先生にお目に掛るとき、私だけでなく、私の死者もまた、喜びを感じるのが分かります〉p.56 (若松)

〈ここに宇宙がある、そうほとんど直観的に感じたのです。

 そう認識したのは私だったのか、むしろ、見よ、ここに宇宙があると、何ものかに示されたようにすら思われました〉p.76 (若松)

 

〈「人間が知らなくてはならないことはすべてその魂に宿っている」というプラトンの「想起」、「内なる叡知の存在に気がつきさえすれば、人は必ず変わる」という池田晶子の思想〉p.82 (志村)

 

〈イスラームの神秘哲学者にとって「哲学」とは、人間による単独の思惟ではなく、超越者からの呼びかけに対する応答でした〉p.104 (若松)

 

〈その矢先、「宣長はいう。「意ト事ト言ハミナ相カナヘルモノニシテ」と。つまり精神と行為と言葉とは同じものだというのだ。この三位一体が彼の認識論の基本的方法である」と『吉田健一』(長谷川郁夫著)の中に書かれていて〉p.112 (志村)

 

〈ここでの霊とは、先生も幾度も書かれているように存在の根源であり、人間が超越と交わる場でもあります……美は、いつも霊に語りかける。私たちは美にふれることで内なる霊があることを知る……〉p.122 (若松)

 

〈少し奇妙な感じがするのですが、この大聖堂は、見る者を大宇宙にではなくむしろ、小宇宙へと導きます。自分のほか、誰も顧みることのない思い、祈り、あるいは願い、そうしたことが絶対的な意味をもって存在していることはっきりわかるのです。

 誰の胸にもかけがえのない宝珠のような、自分でも気が付かない悲願があって、それが人間と人間を深くつなぎ止めていることを思い出させてくれる、そう思われました〉p.130 (若松)

 

〈ゲーテアヌムを訪れてのち、この黒板絵がどんな役割を持って私に迫ってくるか、これも今回の数々の共時性のふしぎの中に入っているのです。人はある時、目に見えない紗幕ヴェールをとおって何かが見えてくるようです〉p.144 (志村)

 

〈とくにクレーの墓碑銘「わたしの存在はこの世ではとてもとらえきれない」にはじまる詩と、「芸術とは目に見えるものを再現することではなく、目に見えるようにする」という一句、この言葉を考え考え、今日に至っています〉p.158 (志村)

 

〈この像は年を重ねるごとに存在の重みを深めていくであろうことが感じられ、今日に生きる私たちは、像が掘り出された当時の人々が見ることのできなかった光にふれているのではないかとすら感じられました。言葉が読まれることによって結実するように、像は、その前で人々が捧げる祈りによって育ってゆくのではないでしょうか〉p.181 (若松)

 

〈貧において豊かであること、これが芸術の源泉のように思われます。ここでの貧は金銭における、あるいは状況における貧しさと必ずしも同じではありません。むしろ、それは魂において空であることと書くことができるかもしれません〉p.183-184 (若松)

 

〈芸術とは、畢竟、光の業なのではないか……芸術家とは光の通路となることを志願し、その実現を祈る者の呼び名なのではないでしょうか……文学者とは言葉の光、あるいは光である言葉の眷属になることです。そうでなければ言葉が、歴史の住人たちに届くはずはありません〉p.185 (若松)

 

〈どんな時も現実を越えた思念の世界に私達はこの足のつま先でも届いていなければならない〉p.191 (志村)

 

          *          *          *

 

 死者とは何か? 言葉の通路であるこの私を形づくっているもの、私の思いを過ぎるたしかな存在、いつでも傍にいて、私の生を促しているもの。お二人の書簡を読み、死者とともに在ることの大切さを思う。また、リルケとクレーの対話、原民喜と石牟礼道子の共通性。語り、表現しようとしているのは、ほんとうは誰なのか? 言葉をもたないもの、死者でも、天使でもなく、なにものでもないもの。

灯台へ To the Lighthouse

Virginia Woolf(1927)・御輿哲也(2004).灯台へ.岩波文庫

〈争いや仲たがい、意見の相違や存在の織り糸fiber of beingにまで染みついた偏見――こうした問題を、いかに早くから子どもたちが抱えこんでしまうことか、とラムジー夫人は嘆いた〉p.16

〈確かに夫人のまわりにはいつも何かがあった。時によっていろいろな印象を受けたが、どういうわけか絶えず彼の気持ちを高揚させたり取り乱させたりする何かがあったのだ〉p.20-21

〈そう、頭の中の構想と実際の作業とを結ぶこの細道は、幼い子にとっての真っ暗な夜道と同じくらい恐怖心をそそるものだった。こういう気分に見舞われるのは珍しいことではなかった。とても勝ち目がなさそうな状況の中で、リリーは勇気を振りしぼって「でもわたしにはこう見える、こう見えるのよ」と叫ぼうとする。だが目には見えない無数の力が押し寄せてきて彼女のヴィジョンを奪い去り、もぎ取ろうとするので、彼女にできるのは、せめてそのヴィジョンの無残な残骸を胸に抱きしめることだけだった〉p.35

〈すると楽しさではなく、なにか言い知れぬ寂しさが襲ってきた……彼方に広がる眺めは、それを見る者よりはるかに長い生命をもっていて、やがてすっかり静まった大地を見下ろすはずの天空と、すでに静かに対話を始めているような気配があるからだろう〉p.38

〈一方でそのような感覚に押し流されつつも、他方バンクス氏の存在のエッセンスが、そこに霧のように立ち昇るのを見届けた気もした。彼女は自ら知覚したものの激しさ、強さに圧倒されたが、それはバンクス氏のこの上なく厳格で善良な姿にほかならなかった〉p.44

〈ちょうど陽光の中を飛んできた鳥の翼が静かに閉じるとき、羽の青さが明るい鋼色から柔らかな紫に変わることがあるように、夫人の周囲のすべてが静まりかえり、柔らかく折りたたまれていくような気配がした……こんなに悲しそうな顔があったろうか。陽光のあたる明るい場所から深淵まで届く暗い立杭の中ほどに、苦く黒く、たぶん一滴の涙が生まれる。涙は落ちる。水は、あちらへこちらへと揺れながら涙を受けとめ、やがて静まった。こんなに悲しそうな顔があったろうか……持ち前の純粋な精神で、小石のようにまっすぐ、小鳥のように的確に目指した所に向かうや、彼女の魂は、またたく間に舞い降りて獲物を捕らえる手際のよさで、一直線に真実をつかみ取ってみせるかのようだった〉p.51-53

〈それは蒸留され不純物を取り除かれた愛他だ、とキャンバスを動かすふりをしながら彼女は思う、決して対象をわしづかみにしようとはせず、ちょうど数学者が記号に対して、詩人が言葉に対して抱く愛にも似て、人々の間に広く長く伝えられ、やがて人間全体の財産の一部と化しうるような、そんな愛なのだろう〉p.87

〈リリーはやっとの思いで顔をあげたが、夫人はリリーが何を笑っていたのかは全く知らず、それでもその場を支配していた。ただ、片意地な様子はすっかり姿を消して、その代わり、厚い雲が途切れた時に姿を見せる澄みきった空間のようなもの、月のそばで静かに眠る小さな空の切れ端のようなたたずまいが感じられた〉p.92-93

〈でも絵は見られてしまった、手からもぎ取られたような気分だ。この人は、わたしの心の奥にある内密なものを分けもつことになった〉p.98

〈考えること,いや考えることでさえなく,ただ黙って一人になること。すると日ごろの自分のあり方や行動,きらきら輝き,響き合いながら広がっていたすべてのものが,ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに,自分が本来の自分に帰っていくような,他人には見えない楔形をした暗闇の芯になるような,そんな気がする。相変わらずすわって編物を続けながら,夫人はこんなふうに自分の存在を感じていた。そしてこの隠れた自分は,余分なもの一切を脱ぎ捨てているので自由に未知の冒険に乗り出すこともできそうだった〉p.115

〈外見の下は黒々として、果てしなく広くどこまでも深い。それでも時折は表面に浮き上がって顔を出すこともあるので、まわりの皆には、それが自分だと思われるのだろう。わたしにとって、世界の広さは無限なのだ。見たことのない場所が数多含まれる。インドの大平原もあれば、ローマの教会の分厚い革のカーテンをくぐる自分を想像することもできる……そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめ上げる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた〉p.116

〈あれはわたしの光だ〉p.117

〈木々や流れや花など――に心が傾き、それらが自分を表わしているような気がしてくる。それらは自分をよく知っていて、ある意味では自分の一部のようにも思え(彼女は灯台の長くしっかりした光に目をやった)、うまく説明できないが、それらに対して自分に対するのと同じような優しい気持ちになるのだ〉p.118

〈自分の子どもの頃を思い返してみると、きっとローズくらいの歳の女の子が母親に対して抱く特別な感情というのがあって、それは深く静かに埋もれた感情、うまく言葉にならない気持ちなのだろう〉p.151

〈こうして心の中の思いと実際にやっていること――スープをよそうこと――のギャップに思わず眉をしかめつつ、夫人はますます強く,自分が渦の外にいるのを感じた。あるいは何か影が降りかかり、多様な色彩が奪われて、もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった〉p.156

〈そしてリリーは、このわくわくするような気持ちは何のせいだろうと考えて、夕方ラムジー夫妻とともにテニスコートにいた時、突然何か堅い実体が溶け去って、広漠とした空間が身の回りに広がった気がしたことを思い出した〉p.183

〈その大気は皆を包んで、確実にそこにあった。そしてそれは、と夫人は、特に柔らかい部分をバンクス氏の皿に盛りながら感じた、どこか永遠を思わせるものだ……こういった瞬間の体験から、と彼女は思う、後々まで残るようなものが産み出されるはずだ。今、手にした思いもきっと残るだろう……物事の核心、中心のまわりにはとても静かで穏やかな空間があるものだ〉p.197-198

〈まるで意識の仕切り壁がとても薄くなり、事実上(それはほっとするような幸福感となったが)すべてが一つの大きな流れに溶け込んでいき、たとえば椅子もテーブルも、夫人のものでありつつ彼らのものでもあり、あるいはもはや誰のものでもないような気がした。ポールとミンタは、わたしが死んだ後も、きっとこの流れを引き継いでくれることだろう〉p.214

〈わたしには求めているものがある――その何かのためにここに来たのだ。そしてそれが何なのかもわからないまま、彼女は目を閉じて、さらに奥へと降りていった。編物を続け、思いをめぐらせながら、しばらく待っていると、やがて夕食のテーブルで聞いた詩の一節「バラは盛りの花を咲かせ、黄蜂は辺りを忙しく舞う」がゆっくり蘇えり、リズムに乗って彼女の心の岸辺を洗い始めた。それにつれて一つ一つの言葉が、赤や青青や黄色の笠をつけた小さなランプのように、心の暗がりの中で輝きだし、さらには小鳥のように止まり木を離れて飛び回り、高い声で鳴いては心地よいこだまを響かせ始めもしたのだ〉p.224

〈それは生命そのもの、あるいは生命の持つ力であり、思わず夫に膝を打たせたのも、人間の情感の持つ途方もない力に他ならなかったはずだ〉p.226

〈まるで虚無を相手に冗談でも言っているかのように〉p.240

〈……秋の木々は、黄金色の月の光の下でひっそりと輝く。それは収穫期の満月の光であり、人々の働く力を熟させ、切り株を滑らかにし、打ち寄せる波を青く染め上げる光なのだ。

人間の悔悟とその労苦にあえぐさまに心打たれて神がとばりを開かれ、その奥にあるものを、ほんの少しわれわれに示されたかのようだった〉p.244

〈たとえば肉体が風に舞い散る原子の群れと化し、無数の星が彼らの心にきらめき、崖も海も雲も空も、心の中の断片的なヴィジョンを目に見える形にまとめ上げるべく、たがいに寄り添うように結ばれ合う――そんな不思議なイメージだった。この済んだ鏡ともいうべき人間の心、絶えず雲が行き交い影が横切る不安な水をたたえた池のような人間の精神の中には、いつも夢がうずくまり続けていた〉p.252-253

〈自然は人間が推し進めることを、手助けしてくれるだろうか? 人が手掛けたことを、完成に導いてくれるだろうか? むしろ、いつも同じような平静さで、自然は人間の悲惨を見つめ、その卑小さを許容し、その苦痛を黙認してきた。とすれば、そんな自然と何かを分かち合い、完成させようとしたり、一人で浜辺に出て、そこに何らかの答えを見出そうとする夢は、いわば心の鏡に映る空しい影のようなものではなかったか? そしてその鏡自体が、より気高い力が奥で眠っている間に静かに生み出された、表面だけのなめらかな輝きにすぎないのではあるまいか?〉p.256-267

〈しかし、何かある力が働こうとしていた――それは、自分の役割をはっきりとは意識していない何か、横目でにらみつけ、よろめき歩く何か、だった〉p.268

 〈まるで物事をつなぎとめていた絆が切り果てて、いろいろな物が、わけもなくあちらこちらへと漂っているかのようだ。何の目的もなく、混沌としていて、まったく現実感がない〉p.281-282

〈夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ〉p.311

〈つい最近までは、夫人のことを思い出しても何の問題もなかった。幽霊であれ空気であれ無そのものであれ、要するに昼でも夜でもたやすく安心して向きあえるもの――いわば夫人はそういう存在だったのだ。ところが、それが急に手を伸ばしてきて、今のように激しく心臓を絞めつけるのだ〉p.346

〈こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表わそうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ〉p.347-348

〈なぜってわたしを取り巻くこの水には、はかり知れないほどの深さがあるのだから。この水の中には、実にたくさんの生命が注ぎ込まれている。ラムジー夫妻の生命や子どもの生命、その他ありとあらゆる日常の雑多なものの寄せ集めが〉p.374

〈だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体なのだ。とにかくそれをつかまえて始めからやり直そう、つかまえてやり直すんだ〉p.376

          *         *          *

 夢の世界のように、何でもないことの描写がくり返され、ふいにラムジー夫人の心(あるいは作者の心?)が映し出される。広く清浄で、洞窟のようなそれは、人々の内面をも映し出すスクリーンのよう。その光は、さまざまな心の襞を干渉により通り抜け、陰影を際立たせる。描写の一つ一つが親密で心地よい。生きる過程で心のなかに造形されるやさしさや悲しみ、思考を辿りなおし、解し、より広大な場所に至る流れに誘っているよう。そこここに生命のあたたかさが感じられた。

 

狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ

梯久美子(2016).狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ.新潮社

〈異常な時間と空間の中で死と向き合った人間の心の動きを執念ともいえる精密さで再現したこの二作の中で、島尾は自分が死んだ後の恋人の運命に対する主人公の無頓着さをそのまま描き出している〉p.204

 〈眞鍋は、島尾はミホが日記を見るであろうことがわかっていて、彼女にとって衝撃的なことをあえて書いた可能性があると言った〉p.233-234

 〈島尾が漠然と期待していた女性像をミホは演じ、そのことに陶酔していた。それがこの夜、最高潮に達したということなのではないだろうか〉p.249

 〈二人の恋愛は、言葉、それも会話より書き言葉によって構築されたものだった。二人とも言葉の力で恋愛に昂揚と陶酔をもたらすことに長けていたが、それは同時に、言葉に囚われていたことでもある〉p.250

〈それは、ミホの中に、夫ではなく自分自身の言葉で事実を語りたい欲求があったからではないだろうか……このときすでに、ミホは「書かれる女」から一歩踏み出しかけていたのかもしれない〉p.309-310

 〈けもののように咆哮して畳を這い回るほど衝撃を受けたのは、浮気の事実によってではなく、日記に合った言葉――半世紀たってもありありと眼前に浮かぶとミホが言った十七文字――によってだったのだ〉p.311

 〈清書しながらしばしば狂乱しつつも,島尾に『死の棘』を書き続けることをうながしたミホ。それはミホ自身が,あの十七文字を帳消しにする膨大な量の言葉を島尾からささげられることを求めていたからに違いない〉p.315

 〈破綻の中で初めて見えてくるものがあるはずだという期待が作家としての島尾の中にあり、この時期、それを見たいという強い欲望を持っていたのは確かだろう。

 ミホはミホで、自分が存分に狂ってみせることが、よどんで閉塞した状況に風穴をあけることになると、無意識のうちに気づいていたかもしれない〉p.325

  書く(創造する)ことで、島尾は癒されただろうか? 癒すとは、自分の膿を見つけ出し、捨て去ることではないだろうか。

 〈自分の外出中に留守宅で何かが起ることを、おそれつつ待ち望んでいた島尾。ミホの審きを待っていたということは、すなわち、加計呂麻島による審きを待っていたということである。

 もしも島尾が、ミホが日記を見るよう仕向けたのだとすれば、それは一方では小説のためであり、もう一方では、意識下にあった「自分は審かれるべき存在だ」という考えを現実化するためだったろう〉p.349

 〈長男の伸三が「どんな試練がきても、それに耐えることで、彼は自分の魂を浄化する方法に換えることができた」(『魚は泳ぐ』)と書いているが、審かれる痛みは島尾にとって生きていることの確かめであり、その痛みに耐えることによって、ある種の安定を得ることができたのかもしれない〉p.349

  創造の過程で、自己は見つめられ、問い直される。見つめ、問うているのは絶対他者である。絶対他者が「私」を癒している。

 〈繰り返された発作は、文学仲間との浮気を知るという形でようやくミホに訪れた「戦後」に対する拒否反応でもあった。ミホが日記を見て狂乱に陥ったのは昭和二十九年だが、その前年に奄美群島は日本に返還されている。本土より遅れて奄美にやっと戦後が訪れたとき、ミホもまた、彼女にとっては陶酔そのものであった戦時下という時間に決別しなければならなかった〉p.389

 〈南島を体現したような人物だった文一郎の娘ミホ(養女ではあるが実の娘以上の存在だった)の狂気によってすでに審かれていた島尾だが、奄美に居を定めたことで、今度は直接、島とそこに住む人々から審きを受けることになった。それがあくまで島尾の主観だったとしても、奄美は彼にとって審きの場だった。だからこそ、『死の棘』は、東京ではなくこの地で書かれなければならなかったのだ〉p.449

 〈島尾の没後、ミホは島尾を聖人のように語り、自分たちの夫婦愛を神話化するのだが、その背景には、最大の負い目である「父を捨てたこと」を正当化したい気持ちがあったのではないだろうか〉p.455

 〈「妻への祈り・補遺」には「妻は私にとって神のこころみであった。私には神が見えず、妻だけが見えていたと言ってもいい」という一節がある〉p.461

 〈人間の罪を、観察可能な「物」として目の前に提示してみせること。それはまさに、『死の棘』という小説によって島尾が行おうとしたことではなかったか。全能の作者としてミホの内面に入りこんで描くことをせず、理解の及ばぬ他者として描き続けた姿勢、そして現実生活においては何があってもミホの傍を離れようとしなかった生き方の底には、自分の罪をひたすら見つめ続けることが償いにつながるというこの感覚があったのかもしれない〉p.463

 〈大平家の屋敷跡と墓は、ミホの悲しみと悔恨、憤りの象徴であり、そこに誰かが足を踏み入れることは、ミホにとって、いわば"負の聖域"を侵されることだったのではないだろうか〉p.470

 〈ミホは押角で、もはや拒み得ない「戦後」に直面させられた。それを受け入れざるを得ないことに気づいたとき、発作を起こすエネルギーも失われたのだろう。島で一晩を過ごし、港から船に乗ったときのことを、ミホは「「死の棘」から脱れて」の中で、「父が真珠の養殖をしていたクバマの沖を通った時、私ははっきりと過去に決別を告げることができました」と書いている。このときようやく、ミホの戦後が始まったのである〉p.472

 〈横たわって動かない鼠を「妻だけに属したもののように見えた」と書く島尾は、見るものと見られるものとの間に成立するひそやかで親密な関係を鋭敏に察知している。その間に自分は入り込めないことも〉p.484

 〈こうした外向きの意識だけではなく、ミホ自身の中にも、書くことへの欲求を抑圧するものが存在したように思う。自分の名前で世に出て評価されるよりも、地位ある夫に愛され、献身する妻のほうが好ましいという価値観である〉p.499

 〈さまよい出たイキマブリがたどる道筋の風景に、作者のミホは南島の習俗や信仰のあり方を示すもの――カムダハサントゥロ、サトヌミャー、マブリイシ、ナハダヌミャー――を点在させ、生き霊の存在が信じられている世界へと読み手を巧みに誘いこむ〉p.515-516

 〈ミホ自身、狂うことが起死回生の道であることを、どこかでわかっていたのではないだろうか〉p.534

 〈絶対的な夫婦愛は、ミホが作り上げようとした神話だった。それは世間に対してだけではない。島尾のために養父を捨てたという負い目を抱えたミホは、島尾がそれに値する男であったこと、自分たちが至上の愛で結ばれた幸福な夫婦だったことを、誰よりもまず、死んだ養父母に対して示さなければならなかった〉p.601

          *          *          *

 一方では、破綻の中ではじめて見えてくる何かへの期待が島尾敏雄にあり、他方では、自ら狂うことが救いとなるとの予感がミホにあったかもしれないこと、そして、かれらがその期待や予感を生きたことが、私には興味深い。誠実なのだ、生きることについて、出会いの瞬間から。大切な部分は事実を曲げることなく表現しようとしたことも。敏雄が自分の罪を見つめ続け、それを表現すること自体が償いであったということも。ミホが、夫の没後二十年間喪に服しながら生きたのはなぜだろう。感謝と、償いか。また、養父への思いもあったのかもしれない。

常世の花 石牟礼道子

若松英輔(2018).常世の花 石牟礼道子.亜紀書房

《人間の苦悩を計る物差しはありえまいという悲しみ、じつはその悲しみのみが、この世を量るもっとも深い物差しかと思われます。そういう悲しみの器の中にある存在、文字や知識で量れぬ悲しみを抱えた人間の姿、すなわち存在そのものが、文字を超えた物差しであるように思われます》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈誰かの心にある、言葉にならないものに出会ったとき、それが石牟礼道子の書き手になる瞬間だった〉p.18

〈彼女にとって書くとは、おのれの心情を十分に語ることのないまま逝かねばならなかった者たちの、秘められたおもいを受け止めることだった〉p.21

〈石牟礼道子に会うとは彼女に言葉を託した亡き者たちに会うことでもある〉p.24

《わたくしの死者たちは、終わらない死へ向けてどんどん老いてゆく。そして、木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである》『苦海浄土』

〈それは存在の深みから、亡き者を含む「神さま」たちに照らし出されることを意味する。別なところでは「人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、荘厳ということがより必要になってくるかと思います」(「名残の世」)とも述べている……彼女が残した言葉は、受難を生きた者の悲痛だけではない。耐えがたい労苦を背負った者たちによって荘厳されるという出来事の証言でもあった〉〉p.31

〈きよ子さんはわたしにとっても、とてもなつかしい人で、他人の気がしないのです。もちろん会っていないのですが、会ったような心持ちがしています。魂と魂が出会うのでしょうか〉p.72

〈水俣のことは、近代詩のやり方ではどうしても言えない。詩壇に登場するための表現でもない。闘いだと思ったんです。一人で闘うつもりでした。今も闘っています〉p.77

〈そういう景色を見ていると、とっても慰められます。猫たちや犬たちや魚たちと私たちの、何ていうか、行き来があるんですね。気持ちの行き来が。共同体ですよ〉p.78

〈人間たちとは異なる姿をしているいのちとの結び付きをどう取り戻していくのか〉p.79

〈人はいつしか、造られた美しさに目を奪われ、隠れた美を見失った。語られた死を恐れ、寄り添う死者を忘れた。個であることを追究するあまり、民の叡知を放擲した。見えるものを現実とし、見えないものを虚無とした。言葉を道具にし、コトバからの信頼を喪失した。ここに近代が胚胎した〉p.85

《自分の周りの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深いさびしい気持を、ひそかに荘厳してくれるような声が聞きたいと、人は悲しみの底で想っています。そういうとき、山の声、風の歌などを、わたしどもは魂の奥で聴いているのではないでしょうか。なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈ある人の目には西行は、ひとりで旅をする者に映った。だが彼はいつも、自分のかたわらで「花」を愛でる不可視な存在を感じていた。彼にとって死者とは、彼を脅かすものではなく守護者であった〉p.94

〈「霊性」とは、万人のなかにある、自らを超える何ものかを希求する衝動である〉p.100

〈悲しみの花はけっして枯れない。それは祈りの光と涙の露によって育まれるからである〉p.103-104

〈万葉の時代において「見る」とは、その対象の魂と交わることだった。「見る」ことは、不可視な世界にふれることだった〉p.105

〈花からは「常世」のありかを示す細き光が放たれている。光源は、悲しみに生きる者の切なる願いにある〉p.106

〈「死」が、存在の終焉でないことは、死者たちの存在がそれを物語っている。生者は死者たちの日常を知らない。しかし、その存在を知っている。死者を傍らに感じることによって、死が何ごとかの始まりであることを、生者は知っている〉p.109

〈石牟礼が用いた言葉のなかで「荘厳」ほど誤認されたものはないかもしれない。それはきらびやかな何かを表す言葉ではない。むしろ、戦慄と畏敬をもってせまり、人間をひれ伏させずにはおかない、不可視なものからやってくる抗しがたいはたらきである〉p.119

〈ここにおいて「弔う」とは「葬る」ことではない。それは「愛護」することに等しい。死者は生者に生きることを託す。それだけでなく死者の方法で生者を「弔う」。その営みを生者の世界では寄り添う、と呼ぶのである〉p.121

〈見える世界を支えているのは、見えざるものたちであることを、能の伝統は、今に照らし出そうとしている……それを読むのは生者ばかりではない。誤解を恐れずにいえば、死者をあるいは精霊を最初の読者にしていないとき、言葉はコトバにはならない〉p.133

〈死者を思い、悲しむのは、逝きし者が遠く離れているからではなく、むしろ、寄り添うからではないだろうか。悲しみは、死者が生者のもとを訪れる合図である〉p.135

《死者たちの魂の遺産を唯一の遺産として、ビタ一文ない水俣行対策市民会議は発足した》(『苦海浄土』)

《詩人とは人の世に涙あるかぎり、これを変じて白玉の言葉となし、言葉の力を持って神や魔をもよびうる資質のものをいう》(「こころ燐にそまる日に」)

          *          *          * 

 大地、海、そこを棲みかとする生きもの、そして死者たちの、言葉にならない思い(悲しみ)を、それらに委託されて歌う。思いたちとともにある道子さんは、また慰められてもいる。悲しみは、悲しみが本来持っている生の力により、受けとるものを支えようとするのかもしれない。

 『おかしゃん、はなば』

 きよ子さんにとって、花とは何だろう? 傍らにあるもの、たしかに感じられているのに触れえないもの、呼びかけてくれたもの、寄り添ってくれているもの。彼女にとって大切なものを、文にしてくれた、そこに貴い何かがある。

ドゥイノの悲歌 Duineser Elegien

Reiner Maria Rilke(1922)/手塚富雄(1957).Duineser Elegien ドゥイノの悲歌.岩波文庫

〈ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が

 はるかの高みからそれを聞こうぞ? よしんば天使の列序につらなるひとりが

 不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその

 より激しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は

 怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、

 嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを

 とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい〉p.7 第一の悲歌

 

〈死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

 かれらは何をわたしに望むのか。かれらをつつむ悲運の外観を

 ひそやかに剥ぎ取ることだ。それがかれらの精神の

 純粋なはたらきを、時としてわずかながらも妨げることがあるゆえに〉p.12 第一の悲歌

 

〈けれどわれら人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐く息とともに

 消滅し無に帰するのだ〉p.16 第二の悲歌

 

 天使にも美にも遥かに及ばない、人であるゆえの隔絶を悲しむ。しかし、悲しみの中にすでに愛や希望は生まれていなかったか? それは天上のものから分与されたものではなかったか?

 

〈恋する若者がいとしい恋人の笑みに惹かれる心根は

 おんみら至純なものに由来するのではなかったか。かれが彼女のきよらかな顔を

 心をこめて見入るのは、あのきよらかな星辰からの贈りものではなかったか〉p.24 第三の悲歌

 

〈愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、

 その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊が磊々としてよこたわり、

 かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった〉p.27 第三の悲歌

 

〈おお乙女よ、

 このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、やがて生まれだすべきただ一つの存在ではなくて、

 沸騰ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、

 崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ

 父たちなのだ、過去の母たちの

 河床の跡なのだ――。雲におおわれた宿命、

 または晴れた宿命の空のもとに

 音もなくひろがっている全風景なのだ。このことが、乙女よ、おんみへの愛より前にあったのだ〉p.29 第三の悲歌

 

〈われら人間は大いなるものと一つに結ばれていない、渡り鳥のような、

 それとの心の通いがない〉p.31 第四の悲歌

 

〈まったく眼をこらして凝視そのものになろうとするこのわたしは。こうして

 ついにわたしの凝視の重みに対抗せんため天使が出現する、

 人形の胴体を高々と踊らせる演戯者として。私の凝視がそれを呼び出さずにはいないのだ〉p.35 第四の悲歌

 

〈しかし死を、

 全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも

 やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、

 そのことこそは言葉につくせぬことなのだ〉p.37 第四の悲歌

 

〈と突然、このたどたどしい「どこでもない場所ユルゲンツ」のなかに、突然、

 言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少が

 解しがたく変容して――あの空無の

 夥多へと急転する〉p.44 第五の悲歌

 

〈天使よ、わたしたちの知らぬ一つの広場があるのであろう、そこでは、

 名状しがたい毛氈の上で、現実の世界で自分の行為を技能化することのない

 愛人どうしが、その心情の躍動の

 敢為な、たけ高い形姿を、

 歓びできずかれた尖塔を、

 地面をはなれた宙空にいつまでもただたがいに

 支えあっているだけの二つの梯子を、おののきながら現ずることだろう〉p.45 第五の悲歌

 

〈愛する人たちよ、どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは

 ……

 多数のものの眼にはもはやそういうものはうつらない。しかもかれらはおのが内部に、

 柱や彫像もろともにより大きくそれを築く力をもたないのだ〉p.55-56 第七の悲歌

 

〈天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛めたとて! おんみは来はしない。なぜならわたしの

 声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶につねに充ちているのだから〉p.58-59 第七の悲歌

 

〈われわれはかつて一度も、一日も、

 ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る

 純粋な空間に向きあったことはない

 ……

 幼いころ

 ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に

 揺すぶり醒まされる。また、ある人は死ぬときそれになりきっている〉p.61 第八の悲歌

 

〈わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ〉p.62 第八の悲歌

 

〈故里を去りゆくものは、いくたびもいくたびもあとをふりかえる。

 何ごとをしようと、いつもわれわれはその姿態にもどるのだ。そうせずにはいられぬように〉p.65 第八の悲歌

 

〈何をわれわれはたずさえていこう? 地上でおもむろに習得した

 観照、それをたずさえては行けない、地上でしとげたこともたずさえては行けない。なにもかも。

 それゆえたずさえてゆくものは、苦痛や悲しみだ、とりわけ重くなった体験だ、

 愛のながい経過だ、――つまりは

 言葉にいえぬものばかりだ〉p.68 第九の悲歌

 

〈天使にむかって世界をたたえよ、言葉に言いえぬ世界をではない、天使には

 おまえはおまえの感受の壮麗を誇ることはできぬ。万有のなかで

 天使はより強い感じかたで感じている、そこではおまえは一箇の新参にすぎぬのだ〉p.70 第九の悲歌

 

〈大地よ、これがおんみの願うところではないか、目に見えぬものとして

 われわれの心のなかによみがえることが? ――それがおんみの夢ではないか、

 いつか目に見えぬものとなることが〉p.72 第九の悲歌

 

〈見よ、わたしは生きている、何によってか? 幼時も未来も

 減じはせぬ……みなぎる今の存在が

 わたしの心情のうちにあふれ出る〉p.73 第九の悲歌

 

〈しかし悲痛こそは

 われらを飾る常盤木、濃緑の冬蔦なのだ、

 それは秘められた、心のうちの季節のひとつ――いな季節であるばかりでない、それはまた

 所在地、集落、塒、土地、住家なのだ〉p.75 第十の悲歌

 

〈――遠いあちら。わたしたちはずっと向こうに住んでいるのです……〉p.77 第十の悲歌

 

〈しかしかれら、無限の死にはいりえた死者たちが、わたしたちの心に一つの比喩を呼び起そうとならば、

 みよ、かれはおそらく、葉の落ちつくしたはしばみの枝に芽生えた

 垂れさがる花序をゆびさすであろう、あるいは

 早春の黒い土に降りそそぐ雨にわれらの思いを誘おう〉p.82 第十の悲歌

 

〈そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる

 ものたちは、ほとんど驚愕にちかい

 感動をおぼえるであろう、

 降りくだる幸福のあることを知るときに〉p.83 第十の悲歌

          *          *          *

 私は、私の意思を超えた何かにふれているときに生きている。その「何か」は理解しえない、隔絶したものである。それはおそらく画家の高山辰雄が「アミーバーの心」、清宮質文が「オバケ」と名付けたものである。隔絶しているからこそ、求めずにはいられない。リルケはそれを「天使」と呼ぶ。彼は天使との対話の可能性を模索する。悲痛のうちに生じる力によって、大地から委託された表現(詩や歌)によって。しかし自ら対話を拒みもする、怖れゆえ。それでも呼びかけずにはいられない。目に見えない世界の純粋さを、まだ知られていない広場の存在を、無限の死にはいった死者たちの透明なやさしさを……真実の愛として。

すべての見えない光 All the Light We Cannot See

Anthony Doerr(2014)/藤井光(2016).すべての見えない光.新潮社

〈彼女の胸のなかでは巨大ななにか、熱望に満ちたなにか、恐れを知らないなにかが脈打っている〉p.48

 第二次大戦下、マリー=ロールとヴェルナー、フレデリックたちの物語。

〈そして今、あの日光、一億年前の日光が、今夜はきみの家を暖めている……家々はもやになり、炭鉱はふさがり、煙突は揃って倒れ、古代の海が通りにあふれ出し、空気からは可能性が流れ出す〉p.50

〈修道士のように、必要とするものはつつましく、現世の義務からはすっかり切り離されている。それでも、彼女にはわかる。彼を襲う恐れは、巨大で、多様で、心で脈打つ恐怖が感じられそうなほどだ。あかたも、なにかのけものが吹きかける息が津根に心の窓に当たっているかのように〉p.161

〈ときおり、暗闇のなかで、ヴェルナーは思う。もしかすると、地下室自体にかすかな光があるのかもしれない。もしかすると、瓦礫から光が発せられていて、地上で八月の太陽が夕暮れに近づくにつれて、地下にもわずかに赤みが差しているのかもしれない〉p.215

 場面の切替わりが早い、映画を観ているようだ。「私たちが見ることのできない光」の一つは石炭だ。太古の光を摂って生きた植物の化石、その光。「炎の海」にひそむもの。

 的確な比喩表現が、情景の細部を浮かび上がらせる。

〈シュルプフォルタの少年たちがどこへ行こうとも抱えていく象徴的な炎、国家の炉床を燃え上がらせる、純粋な炎の大杯について〉p.219

〈部屋は静まり返る。フレデリックの窓の外にある木々には、異邦の光がかかっている。「ヴェルナー、きみの問題はさ」とフレデリックは言う。「きみがまだ自分の人生を信じていることなんだ」〉p.227

〈だれもが自分の役割に囚われている。孤児、士官候補生、フレデリック、フォルクハイマー、上階に住むユダヤ人女性。ユッタでさえも〉p.232

 理解するとは、身体を遥かに超えて、宇宙ごとわかること。それは、世界が根底から変わること。

〈崇高さとはなにかわかるか、ペニヒ? ……あるものが、別のものに変わろうとする瞬間のことだ。昼が夜に、青虫が蝶に、小鹿が牡鹿に〉p.249

〈天使たちのなかにひとりだけ混じった人食い鬼、墓石の原を夜に渡っていく管理人〉p.251

〈生とは一種の腐敗ではないのか。ひとりの子どもが生まれると、世界はそれに取りかかる。その子どもからさまざまなものを奪い、あるいは詰めこむ。食べ物のひと口、目に入る光の粒子〉p.287

〈外の世界には、無数の避難所が待っている。鮮やかな緑色の風に満ちた庭、生け垣の王国、蝶が花の蜜のことだけを考えて漂う、森の深い陰。彼女はどこにも行くことができない〉p.305

〈数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ〉p.367

〈電池はもう一日、ふたりに雑音を与えてくれる。あるいは、もう一日の光を。だが、ライフルを使うときに、光は必要ないだろう〉p.377

〈主よ我らが神よあなたの恩寵は浄罪の炎なり〉p.379

〈目を閉じること、それは盲目であることをなにも教えてはくれない空や顔や建物でできた世界の下には、よりむき出しで、古い世界があり、そこでは表面がばらばらになり、音は無数の帯になって空中を流れる〉p.386

〈最上階の、ホテルでも一番いいと思われる部屋で、彼は六角形の浴槽のなかに立ち、手のひらの付け根で窓から汚れを拭き取る。空に浮かぶいくつかの種が風で渦巻き、家々のあいだにある影の峡谷に落ちていく〉p.399

〈ぼくらには選ぶ権利なんかないよ、人生は自分のものじゃないんだ〉p.402

〈欲に踊るこうした連中は、異なる重圧の下で必死にもがいている。だが、ここでの捕食者はフォン・ルンペンのほうだ。我慢強くいさえすればいい。障害物をひとつひとつ取り除くのだ〉p.405

〈ヴェルナー、視力を失ったとき、わたしはみんなから勇敢だと言われたわ。父さんがいなくなったときも、勇敢だと言われた。でも、それは勇敢さとは違う。ほかにどうしようもなかったのよ。朝に起きて、自分の人生を生きているの。あなただってそうでしょう?〉p.459

〈月が輝き、膨らむ。ちぎれた雲が、木々の上空を飛んでいく。いたるところで木の葉が舞っている。だが、月光は風にも動じることなく、雲や空気を抜け、ありえないと思えるほどゆっくりとした、冷静な筋になっている。倒れかけた草にかかっている。

 風はどうして光を動かさないのだろう〉p.474

〈あのころは……善人でいるのは簡単ではなかったですから〉p.505

 

〈彼にはほんのわずかな存在感しかなかった。一本の羽毛と一緒に部屋にいるようなものだった。だが、彼の魂は、生まれつきのやさしさに輝いていたのではなかっただろうか〉p.506

〈だとすると、魂もそうした道を移動するのかもしれないと信じるのは、それほど難しいことだろうか……空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら〉p.518 

〈彼女は思う。一時間が過ぎるごとに、戦争の記憶を持つだれかが、世界から落ちて消えていく。

 わたしたちは、草になってまた立ち上がる。花になって。歌になって〉p.518

 光とは何だろう? 一億年前の植物たちが自身に封じこめためぐみ、遠くにいる人と人をつなぐ希望、ヴェルナーの心を領した夜のきらめくもの、夢見るフレッデのまわりにひろがるためらいとあたたかさ、マリー=ロールの世界をかたちづくっている記憶、目に見えないものすべて。いやおうなく、戦いに巻きこまれ、生き方を変えられてしまうけれど、彼らの本質であるやさしさは変わらず心に在りつづける。それがマリー=ロールを救うことになる……光とは、人のやさしさなのかもしれない。

 

 

地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre

フランツ・ファノン(1961).地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre.みすずライブラリー

〈非植民地化とは文字どおり新たな人間の創造だ。しかしこの創造は、いかなる超自然的な力からも、正統性(légitimité)を受けるものでもない。植民地化されて「物」となった原住民が、自らを解放する過程そのものにおいて人間となるのであるから〉p.37

 〈支配種族とは、何よりもまず他所からきた種族、土着民(autochtones)と似ても似つかぬ種族、「他者」である……植民地世界を破壊するとは、文字どおりひとつの地帯を破棄すること、それを地底ふかく埋葬し、あるいはこの土地から追放することにほかならない……原住民による植民地世界の否認とは、さまざまな観点を理性的に対決させることではない。それは普遍的なものにかんするお説教ではなくて、絶対的なものと見なされたひとつの独自性を遮二無二主張することだ……あえて言おう、現地人とは価値の宿敵だ。その意味で、絶対的な悪なのだ〉p.41-42

〈かくて個々人は神の決定する腐敗解体を受け入れ、コロンと運命の前にひれ伏し、一種の内的な均衡回復によって、石のような清澄さに近づいてゆく〉p.55

 〈いずれにしても重大なのは〔コロンではなく〕、神話的構造のもたらす怖るべき不幸なのであるから。いっさいが幻覚面における不断の対決のうちに解決されることに、人は気づくのである〉p.57

 他者(原住民)が生活している土地で植民地化を進めるのは、暴力行為である。

 如何にしてその暴力から身を守り、立ち上がり、平和を築き上げるか。

 一度壊された共同体を、刷新しうるか。

 独立、とは何か? ――なぜあらためて「独立」する必要があるのか?

 〈この暴力とはそもそも何か。われわれはすでにそのことを考察した。これは原住民大衆が、自分たちの解放は力によってなしとげられねばならず、またそれ以外にありえないと見なすところの直観である〉p.74

 暴力とは、「客観性」に対する怒りだ。

 手順を踏まない言説、直截の抗議だ。

 〈昨日はおよそ責任を持たなかった大衆が、今日ではすべてを理解しすべてを決定しようとする。暴力による天啓を受けた民衆の意識は、すべての和解に反抗する〉p.93

 〈若き独立国は最初の数年間というもの、戦場の雰囲気のなかで発展する。というのも後進国の政治指導者は、自分の国が越えねばならぬ厖大な道程を測定して、慄然とするからだ……創造的狂気とでもいったものに執拗にまといつかれたこの国は、巨大でおよそ不釣り合いな努力に身を投ずる〉p.94

 〈ヨーロッパの福祉と進歩とは、ニグロの、アラブの、インド人の、黄色人種の、汗と屍によってうちたてられた。その事実を、われわれは二度と再び忘れまいと決意したのである〉p.95-96

 〈今日重要なこと、われわれの視界をさえぎっている問題は、富の再分配の必要性である。人類は、この問題に答えねばならぬであろうし、それを怠るならば人類は根底からゆすぶられることになるであろう〉p.97

 〈おそらくはすべてをやり直し、輸出の性質を変え――それも単に行く先だけを変えるのではなくて――、土地や地底や河川や太陽(どうして太陽であっていけない理由があろうか)を再検討する必要があるだろう。ところでそれを実行するには、人的投資以上のものが要る。資本、技術者、技師、機械工等々が……。あえて言おう、後進国の人民が指導者に勧められて従事している絶大な努力は、所期の結果をもたらさないだろうとわれわれは考えるのだ。もし労働の条件が変わらぬ限り、帝国主義諸勢力によって家畜化されたこの世界を人間化するには、数世紀を要することだろう〉p.98-99

 〈行きつくところなき冷戦に終止符をうち、世界の核武装化の準備を停止させ、後進地域に十分な投資と技術援助を行わねばならない。世界の運命はこの問題への回答にかかっているのである〉p.102

  読むときの思考が、筆者の思考と重なること。できれば完全に重なるのが良い。

 〈政党の弱点は、ただ単に、高度に発達した資本主義社会におけるプロレタリアートの闘争を指導する組織を機械的に応用したということのみにあるのではない。組織形態という面に限っても,さまざまな改革や適応がなされるべきだった〉p.105

 その土地を、そこの人々を知ろうとするところからしか、物語は生まれない。

 土地や人々を生かすこと、そのために注意深く在ること。即するということ。

 〈政党は真に大衆に出会いそれに合流しようとはしない。その理論的知識を民衆のために役立たせようとするのではなく、ア・プリオリにひとつの図式で大衆を包みこもうとする……伝統的首長のことは見向きもせず、またときによってはこれをとっちめることもある〉p.109

 〈組合は、後背地もまた光を与えられ、組織されるべきであることを、突如として発見する。だが組合は、自分たちと農民大衆とのあいだにただの一度もパイプを設けようと心掛けたことがなかったゆえに、またこの農民大衆こそまさしくこの国唯一の自然発生的な革命勢力を構成しているゆえに、組合自身の無効性を証明し、そのプログラムのアナクロニックな性格を暴露してゆくこととなる〉p.118

 〈彼らの耳は、国の真実の声を聞き、その目は人民の大きな無限の悲惨を見る。彼らは、植民地体制にかんする無益な解説に、貴重な時を空費してきたことを理解する〉p.122

 〈民族意識は、民衆全体がその胸にふかく秘めた願望の整然たる結晶でもなく、民衆動員の生み出す最も具体的直接的成果でもなく所詮は単なる内容空疎な、脆弱な、大ざっぱな一形態にとどまるであろう……これらの弱点とそこにひそむ重大な危険とは、後進国の民族ブルジョワジーが民衆の実践を理性化(rationaliser)する能力を、つまりそこから理性をひき出す能力を欠いていたということの、歴史的帰結である〉p.143-144

 〈後進国における民族意識の典型的な、ほとんど先天的とも言えるこの弱点は、単に植民地体制に手足をもがれた原住民の不具化の結果ではない。それは、また民族ブルジョワジーの怠惰さと、貧しさと、極度に国際的(コスモポリット)な精神形成との所産でもあるのだ……後進国民族ブルジョワジーは、生産・創造・建設・労働の方向に向けられていない。その全体がそっくり仲介型の活動に集中されているのだ。回路のなか、駆け引きのなかに身を置くこと、これが彼らの深い使命であるかに思われる……後進国における真正の民族ブルジョワジーは、彼らが向かうべく運命づけられていた天職を裏切ること、人民の学校に身を置くこと、つまり、コロンの大学に通っていた当時にもぎとった知的・技術的資本を民衆の自由な使命に委ねることを、その緊急の義務とせねばならない〉p.144-145

 〈植民地主義は天然資源を明るみに出し、それを採掘し、本国の工業に向けて輸出し、かくしてこれが植民地の一部に相対的富裕を可能ならしめることで満足する――一方植民地の残余の部分は、後進性と窮乏にあえぎつづけ、あるいは少なくともそれをいっそう深めるのである〉p.153

 〈ニグロと「ビコ」に対する西欧ブルジョワジーの人種主義は、侮蔑の人種主義である。相手をないがしろにする人種主義である。しかしながらブルジョワ・イデオロギーは人間の本質的平等の宣言でもあって、自分が体現する西欧的人間性の典型を通して半人間の人間化を促すことにより、どうにか自分自身と辻つまをあわせるのである……振興民族ブルジョワジーの人種主義は防御の人種主義だ。それは本質的に、卑俗な部族主義と異なるものでなく、ましてや徒党や教団間の対立抗争と異なるものではない。世界各国の炯眼な観察者たちが、アフリカ統一の高らかな叫びを真に受けなかったことは理解できる……だからこそわれわれは、アフリカの統一が、人民の圧力と人民の指導のもとにのみ、すなわちブルジョワジーの利害を無視することにおいてのみ、達成されることを知らねばならぬ〉p.158-159

 〈後進国のブルジョワジーに対する闘争は……文字どおり彼らが何の役にも立たないからこそ、断固としてこれに反対せねばならないのだ……この特権層は、植民地時代の経済、思想、制度を、改変もせずにただ受けついだだけのことなのだから〉p.169-170

 〈独立に先立つ激動の時期、この輸入ブルジョワジーに囲まれた原住民の知識人および商人層は、これと一体になろうと努力する。原住民知識人及び商人には、本国の代理人たるこのブルジョワたちと一体化する不断の意志が存在するのである〉p.172

 〈われわれは民族的政治を、すなわち何にもまして大衆のための政治を行わなければならない。われわれは、独立と具体的な生活改善とのために戦ってきた民衆との接触をけっして失うべきではない……土着民の官吏および技術者は、図表と統計のなかに埋没するのではなく、民衆そのもののうちに没入すべきだ……党は大衆の直接的表現でなければならない……党は大衆の精力的な代弁者であり、廉潔な守護者である……〉p.180

 〈ところで政治化とは、精神を開かせることだ、精神を目ざめさせることだ、精神を産み出すことだ。セゼールが述べたように「魂を作り出す」ことだ〉p.190

 〈大衆は、政府と党とが自分たちのためにあることを知るべきだ。誇りを持った人民、すなわち自己の尊厳を意識する人民とは、これら自明の理をけっして忘れえぬ人民である……事実、誇りを持った自由な人民とは、主権を持つ人民だ。誇りを持った人民とは、責任を負うている人民だ〉p.191

 〈思考の領域において、人間は己れこそ世界の頭脳であると自負することもできる。だが、いっさいの〔外部からの〕干渉が肉体的精神的存在に影響を与えるところの具体的な生の見地よりすれば、世界こそ常に人間の頭脳なのだ〉p.193(ギニアのセク・トゥーレ大統領)

 〈個人的体験は、それが民族の体験であり、民族の生の一環であるゆえに、もはや限定され狭められた個人の体験であることをやめ、民族と世界の真理に通じることができる〉p.193

 〈民族というものは、革命指導部の手で周到に準備されたプログラム、そして大衆によって明晰かつ熱狂的にひきつがれたプログラムのなかに存在するのでなければ、どこにも存在しないのである……民族主義は、もしそれが明白されず、豊かにされず、深められぬとしたら、もしそれが急速に政治的・社会的意識に、人間主義humanismeへと転化しないなら、袋小路へと人を導くことになる〉p.195

 〈伝統にすがりつき、またはおき去りにされた伝統を再びアクチュアルなものにしようとすることは、単に歴史に逆行するのみか、民衆の意志にも反するものだ〉p.217

 〈民衆が端緒をひらき、しかもそこから発して突如すべてが問われようとしているあの揺れ動く運動のなかで、民衆に合流することが必要なのだ。民衆が身を置いているあの神秘な平衡欠如の場所にこそ、われわれは赴かねばならない〉p.220

 〈民族文化とは、抽象的民衆主義populismeがそこに民衆の真実を発見したと思いこんだあの民間伝承ではない……民族文化とは、民衆が自己を形成した行動、自己を維持した行動を、描き、正当化し、歌いあげるために、民衆によって思考の領域においてなされる努力の総体である〉p.227

 「ヨーロッパの真似はしまいと心を決めようではないか、われわれの筋肉と頭脳とを、新たな方向に向かって緊張させようではないか。全的人間を作り出すべくつとめようではないか――ヨーロッパは、その全的人間を勝利させることがついにできなかったのだ」p.310

 〈ヨーロッパのため、われわれのため、人類のために、同志たちよ、われわれの脱皮が必要だ、新たな思想を発展させ、新たな人間を立ち上がらせようと試みることが必要だ〉p.313

 

私たちの星で

 梨木香歩,師岡カリーマ・エルサムニー(2017).私たちの星で.岩波書店

 〈でもその一方で、人は今も異質を嫌い、同化を謳い、他者を排斥せずにはいられない〉p.81

 なぜ異質を嫌うのか、不思議。むしろそれは魅力的な何かとして歓迎されるはずなのに。

 〈そうはせずに、自らの領域に侵入してきた文明を受け入れ一体化する自然の、意志とセンスに圧倒されながら最初に浮かんだ言葉は「寛大」でした。さらに言えば、完璧な美意識と自信に裏打ちされた、たくましい寛大〉p.84

 擬人化。擬人化するのではなく、人のありさまが擬物化されるほうが自然なのでは。

 〈私は、けれどよくわからないのです。こういうことを強固な信仰心、と呼んでいいのかどうか、わからない。信仰、という名前のつけ方で呼んでいいのか。宗教的組織の「教え」に従い、ブルキニを着る少女のそれも〉p.92

 〈信仰は、神でなく人のためにあると思うのです。神は人を必要としませんから。人と神との関係を司る精神の領域である信仰が、人と世界との対峙を司る自我の領域と重なったとき、信仰はイデオロギーとなり、自己定義のアイデンティティとなり、どんな責め苦にあっても譲れないプライドとなるのかもしれない。周囲を見ているとそう思えるけど、それではナショナリズムと違いません。

 結局私にも、わからない。命を捨てるほどの信仰心もまた、一部の人が持って生まれた素質だから。私には測り知れないけれど、私に与えられた使命はきっと別の次元にあるのでしょう〉p.99-100

 〈信仰も本来、そういうものなのでしょう。それは神と、自分しかいないと措定された場の話であり、――もしかしたらそこには自分しかいないのかもしれないけれど――少なくともそこは他者との関係性が入ってくる余地のない場として、人間が自らの切実な必要のために辿りつく場所……〉p.103

 信仰とは問いである。神への、存在への。

トマス・アクィナス 理性と神秘

山本芳久(2017).トマス・アクィナス.岩波新書

〈単に輝きを発するよりも照明する方がより大いなることであるように、観想の実りを他者に伝える方がより大いなることである〉p.2

 観想の実りを他者に伝えることは、大いなること、だろうか? 輝いているだけで、すでに照明しているのではないか?

〈『霊魂論』第三巻において、「魂はある意味においてすべてのものである」と言われている。なぜならば、魂はすべてのものを認識するような本性を持っているからである〉p.12

 魂とは、思考、だろうか?

〈人間精神がこの世界の秩序を認識して、それを書物に書き記したりするというのではない。むしろ、人間精神から独立して存在する「宇宙とその諸原因の全秩序」の側が主体となって、人間精神のうちに自らを刻み込むという事態が語り出されているところが大変興味深い〉p.13

 この考え方が腑におちるのはなぜか? 「人間精神」を「思考」に置き換えるとよりわかりやすい。

〈ところで、ディオニシウス『神名論』第四巻によると、人間の善とは理性に即していることである〉p.54

〈敬虔な純潔があらゆる性的な快楽から離れるのは、より自由な仕方で神の観想に専心するためなのである〉p.96

〈それが真摯な信仰である限り、その人の人格に、行動の在り方に、そして物の考え方に、内的な変容が生まれてくるはずだ。だが、変容の結果成立した在り方は、それまでのその人の在り方と完全に非連続なのではない。その人のなかにもともと潜在していた可能性が、洗礼によって触発されて顕在化してきたものである〉p.99

〈愛とは、愛するものの愛されるものに対する何らかの一致または親和性である〉p.106

〈「神は愛である」という「ヨハネの第一の手紙」第四章第十六節の有名な言葉にもあるように、神は愛そのものだというのがキリスト教の根本的な教えである〉p.108

〈我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである・・・ところで、信じるということそれ自体は、神によって恩寵を通じて動かされた意志の命令に基づいて神的真理に承認を与える知性の行為であり、したがって神への秩序づけにおいて自由意志に服している〉p.151

〈至福そのものである神という最高善の力を頼りにすることによって、神そのものである至福に到達する望みを抱くのが希望という神学的徳である〉p.170

〈そして我々が神を愛するということは、神が我々を愛していることの徴(signum)なのである〉p.194

〈神の本質そのものがカリタスなのである。ちょうど、それがまた知恵でもあり、善性でもあるように〉p.202

〈その人は、神のカリタスによって一方的に肯定されていることを受動的に受け入れるのみではない。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに内在するようになる。そして、その溢れんばかりのカリタスが、自己のみではなく他者をも愛し肯定していく原動力として留まり続けるのである。・・・ここには、非常に豊かな仕方で共鳴する愛の連鎖が語り出されている〉p.226

〈受肉の神秘(incarnationis mysterium)は、神が御自身の永遠からあった状態から離れて、そうでなかった状態に何らかの仕方で変化を蒙ることによって実現されたのではなく、新しい仕方で自らを被造物に一致させることによって、いやむしろ被造物を自らに一致させることによって、実現されたのである〉p.232

〈それゆえ、聖なる教父たちに従って、われわれすべては一致して次にように教え、告白する。我々の主イエス・キリストは唯一にして同一なる子であり、神性(deitas)において完全であり、人性(humanitas)において完全である。真の神であり、真の人間であり、理性的霊魂と肉体から成る、神性において父と同一実体であり、人性において我々と同一実体である。罪を除いてあらゆる点において我々と同様である。神性においては代々に先立って父から生まれ、人性においては我々のために、また我々の救いのために、この終わりのときに神の母処女マリアから生まれた〉p.250-251

〈「神秘」と「理性」は決して相反するものではない。受肉の「神秘」と出会うことによって、人間の「理性」は、それまでは思ってもみなかったような仕方で、神について、そして人間について、新たな仕方で考察するための手がかりと動機づけを与えられる。「神秘」は「神秘」であることによって「理性」を拒むのではなく、むしろ、「理性」による新たな探求を促し続ける。だが、「理性」によって理解し尽されることは決してない。理解し尽されないからこそ、汲み尽くしえない意義と魅力の源泉であり続けることができるのだ〉p.267-268

〈人間を遥かに超えた神は、超自然的な恩寵に基づいて人間に働きかけてくる。だが、だからといって、その働きかけを受けた人間は、人間としての自然な在り方を失ってしまうのではない。また反対に、外から到来する恩寵は、人間がもともと自然に追い求めているものを都合よく満たしてくれるだけの存在でもない。「目が見たこともなく、耳が聴いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともなかったこと、これこそ、神がご自身を愛するものたちのために用意してくださったもの」(「コリントの信徒への第一の手紙」第二章第九節)と言われるほどの恩寵、「神の本性に分け与る」というような信じ難いほどの恩寵に参与させられることを通じて、自らの精神が心底追い求めていたものが、自らの元々の思いを超えた仕方で与えられ、実現させられる。人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なことなのである〉p.270-271

 人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なこと――まさに、そう。そのために私たちは生きているし、またそれが生きることである。

 ――理性は、神秘に促され、神秘に問いかけ、あるとき思いもよらない仕方で真理に至る。トマスによると、それは善である。善は、善の自己伝達性により、善そのものである神から分与される。受肉の神秘を受け入れることもまた。受肉とは、神が人になるのではなく、人が神になること。信仰を持たない私は、人は神になりえないと決めつけるのではなく、その可能性を心に蔵して生きる。私たちの生そのものが、神秘であるのなら。

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