読書

トマス・アクィナス 理性と神秘

山本芳久(2017).トマス・アクィナス.岩波新書

〈ところで、ディオニシウス『神名論』第四巻によると、人間の善とは理性に即していることである〉p.54

〈敬虔な純潔があらゆる性的な快楽から離れるのは、より自由な仕方で神の観想に専心するためなのである〉p.96

〈それが真摯な信仰である限り、その人の人格に、行動の在り方に、そして物の考え方に、内的な変容が生まれてくるはずだ。だが、変容の結果成立した在り方は、それまでのその人の在り方と完全に非連続なのではない。その人のなかにもともと潜在していた可能性が、洗礼によって触発されて顕在化してきたものである〉p.99

〈愛とは、愛するものの愛されるものに対する何らかの一致または親和性である〉p.106

〈「神は愛である」という「ヨハネの第一の手紙」第四章第十六節の有名な言葉にもあるように、神は愛そのものだというのがキリスト教の根本的な教えである〉p.108

〈我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである・・・ところで、信じるということそれ自体は、神によって恩寵を通じて動かされた意志の命令に基づいて神的真理に承認を与える知性の行為であり、したがって神への秩序づけにおいて自由意志に服している〉p.151

〈至福そのものである神という最高善の力を頼りにすることによって、神そのものである至福に到達する望みを抱くのが希望という神学的徳である〉p.170

〈そして我々が神を愛するということは、神が我々を愛していることの徴(signum)なのである〉p.194

〈神の本質そのものがカリタスなのである。ちょうど、それがまた知恵でもあり、善性でもあるように〉p.202

〈その人は、神のカリタスによって一方的に肯定されていることを受動的に受け入れるのみではない。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに内在するようになる。そして、その溢れんばかりのカリタスが、自己のみではなく他者をも愛し肯定していく原動力として留まり続けるのである。・・・ここには、非常に豊かな仕方で共鳴する愛の連鎖が語り出されている〉p.226

〈受肉の神秘(incarnationis mysterium)は、神が御自身の永遠からあった状態から離れて、そうでなかった状態に何らかの仕方で変化を蒙ることによって実現されたのではなく、新しい仕方で自らを被造物に一致させることによって、いやむしろ被造物を自らに一致させることによって、実現されたのである〉p.232

〈それゆえ、聖なる教父たちに従って、われわれすべては一致して次にように教え、告白する。我々の主イエス・キリストは唯一にして同一なる子であり、神性(deitas)において完全であり、人性(humanitas)において完全である。真の神であり、真の人間であり、理性的霊魂と肉体から成る、神性において父と同一実体であり、人性において我々と同一実体である。罪を除いてあらゆる点において我々と同様である。神性においては代々に先立って父から生まれ、人性においては我々のために、また我々の救いのために、この終わりのときに神の母処女マリアから生まれた〉p.250-251

〈「神秘」と「理性」は決して相反するものではない。受肉の「神秘」と出会うことによって、人間の「理性」は、それまでは思ってもみなかったような仕方で、神について、そして人間について、新たな仕方で考察するための手がかりと動機づけを与えられる。「神秘」は「神秘」であることによって「理性」を拒むのではなく、むしろ、「理性」による新たな探求を促し続ける。だが、「理性」によって理解し尽されることは決してない。理解し尽されないからこそ、汲み尽くしえない意義と魅力の源泉であり続けることができるのだ〉p.267-268

〈人間を遥かに超えた神は、超自然的な恩寵に基づいて人間に働きかけてくる。だが、だからといって、その働きかけを受けた人間は、人間としての自然な在り方を失ってしまうのではない。また反対に、外から到来する恩寵は、人間がもともと自然に追い求めているものを都合よく満たしてくれるだけの存在でもない。「目が見たこともなく、耳が聴いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともなかったこと、これこそ、神がご自身を愛するものたちのために用意してくださったもの」(「コリントの信徒への第一の手紙」第二章第九節)と言われるほどの恩寵、「神の本性に分け与る」というような信じ難いほどの恩寵に参与させられることを通じて、自らの精神が心底追い求めていたものが、自らの元々の思いを超えた仕方で与えられ、実現させられる。人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なことなのである〉p.270-271

 人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なこと――まさに、そう。そのために私たちは生きているし、またそれが生きることである。

 ――理性は、神秘に促され、神秘に問いかけ、あるとき思いもよらない仕方で真理に至る。トマスによると、それは善である。善は、善の自己伝達性により、善そのものである神から分与される。受肉の神秘を受け入れることもまた。受肉とは、神が人になるのではなく、人が神になること。信仰を持たない私は、人は神になりえないと決めつけるのではなく、その可能性を心に蔵して生きる。私たちの生そのものが、神秘であるのなら。

鳥と砂漠と湖と

テリー・テンペスト・ウイリアムス(1991)/石井倫代(1995).鳥と砂漠と湖と.宝島社

〈私は魂の世界を信じるように育てられた。生命はこの世に現れるより前から存在しこの世の後にも存続するということ、人間一人ひとり、そして鳥もカヤツリグサも、ほかのいかなる生命のかたちもこの世に物理的に存在するようになる前に魂としての生命をもっていたということを信じるように育てられた。それぞれが割り当てられた勢力の範囲を持ち、それぞれが一つの場所と一つの目的を持っている〉p.20-21

〈渓谷で過ごした日々は瞑想であり回復なの。その孤独が私を強くしてくれる。私は今それを持っているの〉p.39

〈太陽がアンテロープ島の向こうに沈んだ。グレートソルト湖は盆地の床の上に置かれた鏡だった。光の質が変わり、山裾の丘に強く光沢がかかる今、このあたりにいると、人は水の感触を感じた〉p.45

 〈葉緑素の小さな緑色の輪が太陽光線を糖分に変えていた。私はひざまずいて手でひとすくいした。微細な動物や無数の幼虫が私の手からこぼれた。数秒以内に、小宇宙の湿原は私の指の間から抜けていった。それに続いた淋しさに私は不意を突かれた〉p.53-54

〈がんのプロセスは作品創造のプロセスに似ていなくはない。アイディアはゆっくりと静かに、はじめは目立たないかたちで現れる。多くの場合、それは異常な思考、つまり日常的なものや慣れ親しんだものを粉砕するような思考である。それは細胞分裂し、繁殖し、侵入者となる。時が経つにつれ、それは凝結し、合併し、意識的になる。一つのアイディアが浮上して全面的な注意を促す。私はそれを私のからだからとり出し、引き渡す〉p.57

 〈突然、群れは一瞬びくっと閉じる目のように固まりそれから羽毛の爆発のように開く。一羽のハヤブサが締め出されるが、戦利品がないわけではない。折り畳んだ翼で彼は一羽のムクドリを打ち、中空からそのからだを引ったくる。群れはもういちどまばたきして、ムクドリたちは離散する。一羽また一羽と埋立地に戻る〉p.72

 〈アンテロープ島はもはや私にとって容易に近づける場所ではない。それは不確かさの中に浮かんでいる私の母のからだである……私たちはみんな気が気でない。そうでないのは母だけだ。何が見つかっても関係ないと彼女は言う。今という時があるだけだ、と〉p.8182

 〈ヒナが早熟なのは多くの水鳥に共通していて、つまりそれは地面に棲む鳥を捕食する動物に対抗するための適応なのだ〉p.93

 〈私は自分自身が癒されたいという欲望によって母を傷つけたのだ〉p.95

 私の中に降りてくる想念を大切に保持する――私という場所でかたちを成すものたち。

 〈エミリー・ディキンソンが「希望とは、羽毛をまとい魂のなかで止まり木に止まっているもののことだ」と書く時、鳥がそうするように彼女も、信じることの解放感と実用性を私たちに思い起こさせる〉p.113

 〈自分自身の経験を頼りにしないように私たちは教えられている。グレートソルト湖は経験こそが財産なのだと私に教える〉p.115

 〈風が私のからだの上で回転する。砂の粒子が私の皮膚の上をかすめて飛んでいき、私の耳や鼻をいっぱいにする。呼吸していることだけを私は意識している。肺の働きが拡大される。風が勢いを増す。私は息を止める。風が私をマッサージする。カラスが数インチのところに舞い降りる。私は息を吐き出す。カラスが飛び立つ。砂漠では物事が迅速に起こる〉p.136

 すぐれた自然観察者による、グレートソルト湖の変容とそこに棲む鳥たちの描写、そしてがんを受容する家族のお話。

 表現が美しい――テリーの感性が深くて素直なのだろう。

 その感性は、ユタに生きてきた祖先から受け継いだものか、ソルトレイクの自然から分与されたものか。

 〈女である私たちはおなかの中に月を持っている。満月のエネルギーで一年三百六十五日動こうとするのは無理というものである。今私は三日月の時期にいるのだ。そして私たちが情緒的に使うエネルギーは月の見えない側に属している〉p.167

 〈彼は塩の結晶で光っている広大な水の広がりに目をやった。「むろん、この湖にも心がある。だがそいつは我われの心のことなんかおかまいなしさ」p.171

 〈月の暗さの中に成長がある。植物は昼の太陽の中でよく育つわけではなく、むしろひっそりと人目につかない新月のもとで育つのだ〉p.180

 〈悲しむことをたぶんいちども許してもらってこなかったんだと思うわ。悲しむことをたぶんいちども自分に許してこなかったのね〉p.190

 〈心に思い浮かべてみるように私は彼女を説得する。痛みはどんなふうに見えるのか、何色なのか想像し、抵抗するよりもむしろその感覚に寄りかかって入りこんでいくように彼女を誘う。私たちはいっしょに息をして瞑想する。

 光が深くなり始める。日没である〉p.193

 〈私たちは待つ。私は川に渡されたクモの糸にかかって過去と未来の間に宙吊りになっている。

「テリー、手放そうとしている最中の命を望み続けるのは、私が今いる瞬間を私から取り上げることなのよ」〉p.199

〈それから、まるで麻薬のように、希望が悲しみの中にしみいってきた〉p.202

〈「断念することって学ぶものね」と私が彼女の背中をさすっている時、母が言った。

「空っぽの静脈になって、そこを命が流れていくままに任せることを学ぶの」私には理解できない。

「あきらめているんじゃないの」と彼女が言った。「ただそれに任せようと思って。何もかも入ってくるままにさせて、何か別の命の道筋に沿って動いていっているみたいな感じなのよ。突然、闘うことはもう何もないの」〉p.203

〈ゆっくり、骨折りながら、私は自分の保護区が母の中にあるのでも祖母の中にあるのでもなく、ベア川の野鳥たちの中にあるのでさえないことを発見しつつある。私の保護区は私の愛の能力の中にあるのだ。死を愛することを学べるなら、変わりゆくことの中に保護区を見出すことができるようになるだろう〉p.219

 〈それは一千年のかなたから手を振っているのだ。工芸品は生きている。一つ一つが声(意見)を持っている。人間であるとはどういうことか――生き抜いて、美しい作品を作り、創意工夫をこらし、自分が生きている世界に対し深い注意を払うことが私たちの本性なのだということを思い出させてくれる〉p.231

〈トマス・マートンは書いている。「沈黙は私たちの精神生活の強さである……もし人生を沈黙で満たすことができるなら、私たちは希望とともに生きるだろう」p.235

 〈その木曜日、弟たちと私は学校から帰って祈った。家族みんなで私たちは居間にひざまづいた。誰も一言もしゃべらなかった。しかしその部屋の静けさの中に天使がいるのを私は感じた〉p.240

 〈魂はね。でも頭がついていけないの〉p.256

 〈何年間も、母の死の瞬間には自分が彼女のかたわらにいるものと私は思ってきた。私はその思いこみを捨てなければならない。死の瞬間などというものはないことを彼女に教えられた。それはプロセスなのだ。それに、彼女は――〉p.278

 〈私は喜びを感じる。愛を感じる。彼女の私への愛、私たちみんなへの愛、彼女の人生と誕生への愛、彼女の魂の再生を感じる〉p.282

 〈エーリッヒ・フロムがこう書いている。「個人の全生涯は、自分自身を誕生させるプロセスにほかならない。まったく、私たちは死を迎えて初めて完全に誕生するはずなのだ」〉p.283

 〈子どものころ私が耳を傾けるように教えられた「静かな小さな声」は「精霊の贈り物」だった。今では私はこの存在を聖なる直感、母性に備わる才能、として認識することを選ぶ〉p.293

 静かな小さな声を聞く、それが生きること。

 〈グノーシス派の教えはこうだ。

 というのもあなたの内部にあるものこそあなたの外部にあるものであり、あなたの外部を形作るものがあなたの内なる世界をかたちづくるものだからである。そしてあなたの外に見えるものはあなたの中に見え、それは明白なものであってあなたの衣である〉p.322-323

 〈過ぎ去った七年間が私とともにある。母とミミがいる。関係は続くのだ――予期していなかったことだけれど〉p.332

 関係は続く、そう、終わりはない。

 

愛なき世界

 三浦しをん(2018).愛なき世界.中央公論新社

 〈「植物には、脳も神経もありません。つまり、思考も感情もない。人間が言うところの、『愛』という概念がないのです。それでも旺盛に繁殖し、多様な形態を持ち、環境に適応して、地球のあちこちで生きている。不思議だと思いませんか? ……だから私は、植物を選びました。愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています。だれともつきあうことはできないし、しないのです」〉p.92

 無私なる思考。

 〈楽しい時間ってなんだろう。……でも私は、ご飯はちゃっちゃと一人で食べて、あいた時間でシロイヌナズナの種を一粒でも多く採りたいし、遊園地の乗り物に振りまわされたり落下させられたりする暇があったら、シロイヌナズナの細胞を顕微鏡で静かに眺めていたい。そのほうが楽しい〉p.116

 突き動かされている時間。

 〈一瞬かもしれなくても、なにかがたしかに結びあったのだと感じられ、うれしかった。

 ……

 それがあるから、研究をやめられない。

 それがあるから、ひととして生きるのをやめられない〉p.184

 ひととして、は必要だろうか?

 〈そうすると不思議なのは、やはり植物だ。脳も神経もない植物は、愛を必要としない。それでも光と水を糧に,、順調に成長し生きていくことができる。食べ物があるだけでは決して満たされない人間とは、「生きる」という意味がまるで違うみたいだ〉p.220

 生きるとは、光や水とともにあること。

 〈「…脳が、つまり心が紡ぎだした物語が、心を救うことがあるのでしょう…」〉.284

 心は自らを救おうとうする。

 〈翻って人間は、脳と言語に捕らわれすぎているのかもしれない。苦悩も喜びもすべて脳が生みだすもので、それに振りまわされるのも人間だからこその醍醐味だろうけれど、見かたを変えれば脳の虜囚とも言える。鉢植えの植物よりも、実は狭い範囲でしか世界を認識できない、不自由な存在〉p.341

 脳、だろうか? 心は、あるだろうか?

 〈「たまに、思うんです。植物は光合成をして生き、その植物を食べて動物は生き、その動物を食べて生きる動物もいて……。結局、地球上の生物はみんな、光を食べて生きているんだなと」〉p.444

 かがやくもの。光を孕む芒、水面を走り続ける光の粒。

 記憶を不意によぎるもの。

 

人間の建設

 小林秀雄/岡潔.人間の建設.新潮文庫

 〈矛盾がないということを説明するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです〉(p.40 岡)

 〈いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。内容が生存競争である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。しかも獣類時代のうちで最も生存競争の熾烈な時代だと思います。ここでみずからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ページが始まると思います。たいていは滅んでしまうと思うのですけれども、もしできるならば、人間とはどういうものか、したがって文化とはどういうものであるべきかということから、もう一度考え直すのが良いだろう、そう思っています〉(p.48 岡)

 〈言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世間の人とも言っておるのです〉(p.72 岡)

 〈仏教で、本当の記憶は頭の記憶などよりはるかに大きく外に広がっているといっていますが、そういうことだと思います。与謝野鉄幹の「秋の日悲し王城や昔にかわる土の色」という意味も本当にそこでその土の色を見ただけで、昔はこうだったろうかということがまざまざと感じられるのでしょう。それが記憶の本質ですね〉(p.132 岡)

 〈芭蕉に「不易流行」という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だという。 これは歴史哲学ではありません。詩人の直観なのですが、不易というのは、ある動かない観念ではない。あなたのおっしゃる記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼時を思い出さない詩人というものはいないのです。一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです〉(p.132 小林)

 〈記憶というオーケストラは鳴っているんですが、タクトは細胞が振るのです。脳がつかさどるものはただ運動です。いままでの失語症の臨床では記憶自体がそこなわれると考えたのですが、ベルグソンの証明で、タクトの運動が不可能になるのです。記憶は健全にあるのです。失語症とは記憶を運動にする機構の障害、それは物質的障害であって精神的障害ではないのです〉(p.136 小林)

 私を超える「記憶」があり、私は「感情」、「直観」によりそれとふれ合う(「情熱」が生じる)。ふれ合うことが生きることである。

 「人間の建設」とは、そのふれ合いを大切にしましょう、ということである。

Imgp3797

(静物の記憶)

 

晩禱 リルケを読む

 志村ふくみ(2012).晩禱 リルケを読む.人文書院

 リルケ『時禱詩集』、『マルテの手記』、『ドゥイノの悲歌』を読み、生と死、詩について、作者の考えが綴られている。

 私が最も気になったのは、『時禱詩集』第八編からの次の引用文である。

 〈われわれが死を熟させぬから それだからこそ最後にその死がわれわれを引き取ってゆくのです〉

 死を見つめ、育む。そのことを多くの人は成さない。リルケはそれを成そうとする。あらゆるものにある永遠(生にある死)を感受し、それを言葉にしようとする。

 そのために、苦しみは必定だろう。耐えること、その時に真実を見つめていること、ようするに、心を込めて生きること。

 それが死を熟させること。

 容易ではない。だからこそこの生を賭けるに値する。死とは、この生に充溢する、生への渇望である。懇願である。そのことを知ること。死を熟させたとき、死はどこにもないことに気づくだろう(あるのは生ばかりだ)。

 苦悩がある。それはまた歓喜でもある。そこに生は満ちていて、死も豊かに溢れている。そこにある人は限りない喜びを浴び続けている。それを感じるかどうかは、その人の存在の仕方による。

 リルケはその豊饒を画こうとした。その態度に、言葉(世界)に人は惹かれる。

003
(よろこびにみちて)

コスモスの影にはいつも誰かが隠れている

 藤原新也(2012).コスモスの影にはいつも誰かが隠れている.河出文庫

 繊細である。カメラマンだから、ではなく繊細だから人や風景をカメラに収めることができるのだと思う。

 大学生の頃『全東洋街道』(1981)を買って読んだことがある。イスタンブールから高野山までの旅の写真集である。それぞれの写真に言葉が添えられていた。写真にも言葉にも惹かれた。それで、直後にヨーロッパを旅した時、彼に倣って紀行文を書いたりもした。

 藤原さんの作品の良さは、自身や他者の心の襞がそのまま写真(風景)や言葉(物語)に置き換えられている点にある(少なくとも私にはそう感じられる)。

 見つめられているのは真実である。しかし同時に、相手の幸福を願っているので、真実は推測にとどめられるか、問われないままになることもある。

 墓参りに来なくなった別れた妻の思い、画家の奥さんの思い、などなど。

 読んでいて心あたたまるものがある。それは著者がいつも話者の心に寄り添っているからだろう。先入見なく、心に寄り添う。そのやさしさ、繊細さが読者の心に伝わる。

 文章を読んでいると、風景写真を見ているような錯覚にとらわれる。

022

(ひなたぼっこ)

Emma エマ

 ジェイン・オースティン(1815)/中野康司訳(2005).エマ.ちくま文庫

 心の奥深いところに触れてくる楽しい物語である。

 とても心地よい、とどうじに至るところで共感する。

 たとえばエマの心模様。ハリエットの幸福を願っての縁結びの計画は2度、3度とうまく行かず、却ってハリエットを苦しめることになるが、結果的に(必然的に?)彼女は幸福な結婚をする。そこに至る深い後悔、自責がエマの人格を成熟させてゆく。

 成熟に伴い、より正しく人々を見ることができるようになる。そして自分自身の気持ちも素直に見られるようになり、ナイトリー氏との幸福な結婚をもたらす。

 心の奥深いところに触れてくるのは、だれにでも身に覚えのある軽率であったり、思い過ごしであったりする登場人物たちの振舞、言葉、その描写が私たちの心に素直に語りかけてくるからだろう。

 とくにエマのそれ。なんという勘違い、でもそれは思い込みによるもの。はじめから特定のメガネでしか見ていなかったから、そのように見ようと思うから、そのようにしか見えない。

 しかし、錯覚があってこそ、真実は表れるもの。誤解を経なければ理解には至らないように物事はできている。

 人を理解するには、ある枠組み(角度から)見はじめ、その誤りに気づいたときに別の枠組みが生まれ、次第に真実へと向かう。ただ、多くの人は理解が性急なのだ。

 思い込みだけによって理解し(たと思い)、枠組みを変更することなく生きていく。でもそれは理解ではない。はじめの枠組みを見ているに過ぎない。

 人はいつでも何度でも自分の誤りに気づく。それが生まれ変わることであり、またこの世に生きることの意味である。

 エマとともに生きることの楽しさを、この書は与えてくれる。

008
(坪井川遊水公園の光)

 

 

 

 

老人と海

 ヘミングウェイ(1952)/福田恒存(1979).老人と海.新潮文庫

 初めて読んだ。

 1年以上前に、巨大な魚を描写した詩を書いた(このブログの「澪の街に」を参照)。その魚のイメージが甦ってきた。

 遠くへ、静かに私たちを誘うもの。

 〈ゆっくりと近づいてくる。くちばしが舷の外板にふれそうだ。それがあやうく舟のそばを通りすぎようとした。胴体はあくまで長く、厚く、広い。銀色に輝き、紫の縞をめぐらし、水中にはてしないひろがりを感じさせる〉p.107

 時の閾を超えてゆくもの。

 老漁師サンチャゴが魚に親しみを感じるのは、彼もまた時を超えた存在を感じたいからかもしれない。

 かつて存在したし、今も、どこにいても、いつまでもある親密なるもの。

 それと戦うことに、彼は罪悪を感じもするが、また喜びも覚える。

 ここには邂逅の歓びがある。

 畏敬する相手との交感。

 互いの孤独を感じ合うこと。

 現実への帰路にて、彼は魚を鮫たちに食い契られてしまう。今度は聖なるものを守ろうとする戦いのようだ。徒労に終ろうとも、守りたいものを守ろうと全力を注ぐ。

 私たちは、何を守ろうとして在るか。

 何を見つけたくて在るのか。

 ――どこにいても感じられる親密なるもの。

009

(親密だよ)

 

 

 

 

 

99%ありがとう

 藤田正裕(2013).99%ありがとう――ALSにも奪えないもの.ポプラ社

 著者の感性に注目したい。例えばこんな頁がある。

 

 〈僕が世界の中で一番怖いものは、海とサメ。

 2003年、13歳の女の子がサーフィン中、

 4.5メートルのイタチザメに左腕を一口で噛みとられた。

 体の血を60%なくし、1か月近く入院、

 だけど事件から1ヶ月後にはなんとまたサーフィンをしてた……。

 それ以上に衝撃的だったのが、彼女へのインタビュー。

 小さな13歳の女の子が、腕をサメに食いちぎられて言った言葉、

 「他の人じゃなくて、私でよかった」〉 p.68

 

 他の人じゃなくて、私でよかった、心からそう思う女の子に、純粋に信頼を覚えている。自分が怪我をすることで誰かの役に立ったのなら、それでいい。

 一方で、自分が病気になることで人に身体を委ね、世話を受ける、そういうあり方が念頭にある。

 重ねるのではなく、並置されている。すごい女の子がいると。

 著者は淡々と自分の境遇を顧み、表現する。とても素直だ。

 子どもの頃の話、ハワイでの就職のこと、現在のこと……。

 表現することの楽しさ、すばらしさが伝わってくる。

 その延長上に、表現できなくなっても、存在することの楽しさとすばらしさがあることを、十分に予感させてくれる。

 美しい本である。

028

(Waimea)

 

逝かない身体

 川口有美子(2009).逝かない身体――ALS的日常を生きる.医学書院

 ALSの方のヘルパーをすることになったので、勉強のために読んだ。とても考えさせられた。

 私にできるのだろうか。不安が先に立つのだが、それでも全力を傾注してやってみようと思っている。なるべく早く習熟しなくては!

 瞬きのみで意思表示をされる方についても、日々のケアをする中で、どれだけ意思を汲み取れるか。意思だけでなく、身体からの情報を感じとる必要がある。

 顔色、皮膚の状態、表情、発汗の質の違い、など。

 川口さんは、お母さんがTLS(トータル・ロックトイン)の状態になられ、自身の気持ちの揺れを率直に、詳しく語られている。

 生死に対する考え方も、患者の心理についても、社会(法制度)の問題点についても、感じられるままを綴られている。心に記憶するようして読んだ。

 どの箇所も、言葉がすっと入ってきた。例えば、

 〈重病患者のなかには、家族が望むのならどのような苦境にも耐えようと思う者、必ず治るからと誓う者、大事にしてもらっているからこそ幸せだという者が大勢いる。体温だけでもできるだけ長く幼い子どもに与えつづけようとする者もいる。身勝手には死ねないと、むしろ自分があなたたちのそばにいてあなたたちを見守るのだと誓う者もいる〉p.181-182

 〈自分が伝えたいことの内容も意味も、他者の受け取り方に委ねてしまう――。このようなコミュニケーションの延長線上に、まったく意思伝達ができなくなるといわれるTLSの世界が広がっている。コミュニケーションができるときと、できなくなったときとの状況が地続きに見えているからこそ、橋本さんは「TLSなんか怖くない」と言えるのだ。軽度の患者が重度の患者を哀れんだり怖がったりするのは、同病者間の「差別だ」ともいう〉p.211

 〈平凡な健常者の私には、彼らのイチかバチかの生き様がすごいと思われるばかりだ。どんどん悪化していくのに、「いつでも今が最善」といえる感覚がよくわからない。それに、「現在は最善と最悪の接点」というが、現在を「点」に見立てて生きる厳しさも、時間をそのように意識したことのない私には、とうてい想像できない。椿先生でさえ「健康なものにはわからない」とおっしゃっていたのだから、重病人の心理はわからないし、日々遷り変わるものなのだろう。

 だから、わざわざ確実に死なせるための準備などしない、そしてどのような生き方や死に方がよいかなどと健常の者が教えたりしないというのが、たぶん正しい接し方なのである〉p.223

 〈まるで乾いた土に落ちた種が降雨を待ち望んでいるように、ALSという過酷な環境にも耐えていられるのは、幸せな夢を見ているからだ。身体は湿った綿のように重たくても、そんな彼らの心は羽のように軽やかなのである。

 患者の豊かな空想の力を知ってしまうと、「病人に気にかけてもらっているのは家族のほうだ」というのも、橋本さんの強がりではなく、正しいと思えるようになる。実際のところ、私以外の患者の子どもたちも、病身の親の気配をいつでもどこでも感じることができるという〉p.224

 それら、様々な状況での感じとり方も、これからの介護において助けになると思う。

 まずは、精一杯感じとること。

008

(熊本に来て初めて咲いたうちの薔薇、香りがやさしい)

 

 

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