読書

人間の建設

 小林秀雄/岡潔.人間の建設.新潮文庫

 〈矛盾がないということを説明するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです〉(p.40 岡)

 〈いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。内容が生存競争である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。しかも獣類時代のうちで最も生存競争の熾烈な時代だと思います。ここでみずからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ページが始まると思います。たいていは滅んでしまうと思うのですけれども、もしできるならば、人間とはどういうものか、したがって文化とはどういうものであるべきかということから、もう一度考え直すのが良いだろう、そう思っています〉(p.48 岡)

 〈言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世間の人とも言っておるのです〉(p.72 岡)

 〈仏教で、本当の記憶は頭の記憶などよりはるかに大きく外に広がっているといっていますあg、そういうことだと思います。与謝野鉄幹の「秋の日悲し王城や昔にかわる土の色」という意味も本当にそこでその土の色を見ただけで、昔はこうだったろうかということがまざまざと感じられるのでしょう。それが記憶の本質ですね〉(p.132 岡)

 〈芭蕉に「不易流行」という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だという。 これは歴史哲学ではありません。詩人の直観なのですが、不易というのは、ある動かない観念ではない。あなたのおっしゃる記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼時を思い出さない詩人というものはいないのです。一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです〉(p.132 小林)

 〈記憶というオーケストラは鳴っているんですが、タクトは細胞が振るのです。脳がつかさどるものはただ運動です。いままでの失語症の臨床では記憶自体がそこなわれると考えたのですが、ベルグソンの証明で、タクトの運動が不可能になるのです。記憶は健全にあるのです。失語症とは記憶を運動にする機構の障害、それは物質的障害であって精神的障害ではないのです〉(p.136 小林)

 私を超える「記憶」があり、私は「感情」、「直観」によりそれとふれ合う(「情熱」が生じる)。ふれ合うことが生きることである。

 「人間の建設」とは、そのふれ合いを大切にしましょう、ということである。

Imgp3797

(静物の記憶)

 

晩禱 リルケを読む

 志村ふくみ(2012).晩禱 リルケを読む.人文書院

 リルケ『時禱詩集』、『マルテの手記』、『ドゥイノの悲歌』を読み、生と死、詩について、作者の考えが綴られている。

 私が最も気になったのは、『時禱詩集』第八編からの次の引用文である。

 〈われわれが死を熟させぬから それだからこそ最後にその死がわれわれを引き取ってゆくのです〉

 死を見つめ、育む。そのことを多くの人は成さない。リルケはそれを成そうとする。あらゆるものにある永遠(生にある死)を感受し、それを言葉にしようとする。

 そのために、苦しみは必定だろう。耐えること、その時に真実を見つめていること、ようするに、心を込めて生きること。

 それが死を熟させること。

 容易ではない。だからこそこの生を賭けるに値する。死とは、この生に充溢する、生への渇望である。懇願である。そのことを知ること。死を熟させたとき、死はどこにもないことに気づくだろう(あるのは生ばかりだ)。

 苦悩がある。それはまた歓喜でもある。そこに生は満ちていて、死も豊かに溢れている。そこにある人は限りない喜びを浴び続けている。それを感じるかどうかは、その人の存在の仕方による。

 リルケはその豊饒を画こうとした。その態度に、言葉(世界)に人は惹かれる。

003
(よろこびにみちて)

コスモスの影にはいつも誰かが隠れている

 藤原新也(2012).コスモスの影にはいつも誰かが隠れている.河出文庫

 繊細である。カメラマンだから、ではなく繊細だから人や風景をカメラに収めることができるのだと思う。

 大学生の頃『全東洋街道』(1981)を買って読んだことがある。イスタンブールから高野山までの旅の写真集である。それぞれの写真に言葉が添えられていた。写真にも言葉にも惹かれた。それで、直後にヨーロッパを旅した時、彼に倣って紀行文を書いたりもした。

 藤原さんの作品の良さは、自身や他者の心の襞がそのまま写真(風景)や言葉(物語)に置き換えられている点にある(少なくとも私にはそう感じられる)。

 見つめられているのは真実である。しかし同時に、相手の幸福を願っているので、真実は推測にとどめられるか、問われないままになることもある。

 墓参りに来なくなった別れた妻の思い、画家の奥さんの思い、などなど。

 読んでいて心あたたまるものがある。それは著者がいつも話者の心に寄り添っているからだろう。先入見なく、心に寄り添う。そのやさしさ、繊細さが読者の心に伝わる。

 文章を読んでいると、風景写真を見ているような錯覚にとらわれる。

022

(ひなたぼっこ)

Emma エマ

 ジェイン・オースティン(1815)/中野康司訳(2005).エマ.ちくま文庫

 心の奥深いところに触れてくる楽しい物語である。

 とても心地よい、とどうじに至るところで共感する。

 たとえばエマの心模様。ハリエットの幸福を願っての縁結びの計画は2度、3度とうまく行かず、却ってハリエットを苦しめることになるが、結果的に(必然的に?)彼女は幸福な結婚をする。そこに至る深い後悔、自責がエマの人格を成熟させてゆく。

 成熟に伴い、より正しく人々を見ることができるようになる。そして自分自身の気持ちも素直に見られるようになり、ナイトリー氏との幸福な結婚をもたらす。

 心の奥深いところに触れてくるのは、だれにでも身に覚えのある軽率であったり、思い過ごしであったりする登場人物たちの振舞、言葉、その描写が私たちの心に素直に語りかけてくるからだろう。

 とくにエマのそれ。なんという勘違い、でもそれは思い込みによるもの。はじめから特定のメガネでしか見ていなかったから、そのように見ようと思うから、そのようにしか見えない。

 しかし、錯覚があってこそ、真実は表れるもの。誤解を経なければ理解には至らないように物事はできている。

 人を理解するには、ある枠組み(角度から)見はじめ、その誤りに気づいたときに別の枠組みが生まれ、次第に真実へと向かう。ただ、多くの人は理解が性急なのだ。

 思い込みだけによって理解し(たと思い)、枠組みを変更することなく生きていく。でもそれは理解ではない。はじめの枠組みを見ているに過ぎない。

 人はいつでも何度でも自分の誤りに気づく。それが生まれ変わることであり、またこの世に生きることの意味である。

 エマとともに生きることの楽しさを、この書は与えてくれる。

008
(坪井川遊水公園の光)

 

 

 

 

老人と海

 ヘミングウェイ(1952)/福田恒存(1979).老人と海.新潮文庫

 初めて読んだ。

 1年以上前に、巨大な魚を描写した詩を書いた(このブログの「澪の街に」を参照)。その魚のイメージが甦ってきた。

 遠くへ、静かに私たちを誘うもの。

 〈ゆっくりと近づいてくる。くちばしが舷の外板にふれそうだ。それがあやうく舟のそばを通りすぎようとした。胴体はあくまで長く、厚く、広い。銀色に輝き、紫の縞をめぐらし、水中にはてしないひろがりを感じさせる〉p.107

 時の閾を超えてゆくもの。

 老漁師サンチャゴが魚に親しみを感じるのは、彼もまた時を超えた存在を感じたいからかもしれない。

 かつて存在したし、今も、どこにいても、いつまでもある親密なるもの。

 それと戦うことに、彼は罪悪を感じもするが、また喜びも覚える。

 ここには邂逅の歓びがある。

 畏敬する相手との交感。

 互いの孤独を感じ合うこと。

 現実への帰路にて、彼は魚を鮫たちに食い契られてしまう。今度は聖なるものを守ろうとする戦いのようだ。徒労に終ろうとも、守りたいものを守ろうと全力を注ぐ。

 私たちは、何を守ろうとして在るか。

 何を見つけたくて在るのか。

 ――どこにいても感じられる親密なるもの。

009

(親密だよ)

 

 

 

 

 

99%ありがとう

 藤田正裕(2013).99%ありがとう――ALSにも奪えないもの.ポプラ社

 著者の感性に注目したい。例えばこんな頁がある。

 

 〈僕が世界の中で一番怖いものは、海とサメ。

 2003年、13歳の女の子がサーフィン中、

 4.5メートルのイタチザメに左腕を一口で噛みとられた。

 体の血を60%なくし、1か月近く入院、

 だけど事件から1ヶ月後にはなんとまたサーフィンをしてた……。

 それ以上に衝撃的だったのが、彼女へのインタビュー。

 小さな13歳の女の子が、腕をサメに食いちぎられて言った言葉、

 「他の人じゃなくて、私でよかった」〉 p.68

 

 他の人じゃなくて、私でよかった、心からそう思う女の子に、純粋に信頼を覚えている。自分が怪我をすることで誰かの役に立ったのなら、それでいい。

 一方で、自分が病気になることで人に身体を委ね、世話を受ける、そういうあり方が念頭にある。

 重ねるのではなく、並置されている。すごい女の子がいると。

 著者は淡々と自分の境遇を顧み、表現する。とても素直だ。

 子どもの頃の話、ハワイでの就職のこと、現在のこと……。

 表現することの楽しさ、すばらしさが伝わってくる。

 その延長上に、表現できなくなっても、存在することの楽しさとすばらしさがあることを、十分に予感させてくれる。

 美しい本である。

028

(Waimea)

 

逝かない身体

 川口有美子(2009).逝かない身体――ALS的日常を生きる.医学書院

 ALSの方のヘルパーをすることになったので、勉強のために読んだ。とても考えさせられた。

 私にできるのだろうか。不安が先に立つのだが、それでも全力を傾注してやってみようと思っている。なるべく早く習熟しなくては!

 瞬きのみで意思表示をされる方についても、日々のケアをする中で、どれだけ意思を汲み取れるか。意思だけでなく、身体からの情報を感じとる必要がある。

 顔色、皮膚の状態、表情、発汗の質の違い、など。

 川口さんは、お母さんがTLS(トータル・ロックトイン)の状態になられ、自身の気持ちの揺れを率直に、詳しく語られている。

 生死に対する考え方も、患者の心理についても、社会(法制度)の問題点についても、感じられるままを綴られている。心に記憶するようして読んだ。

 どの箇所も、言葉がすっと入ってきた。例えば、

 〈重病患者のなかには、家族が望むのならどのような苦境にも耐えようと思う者、必ず治るからと誓う者、大事にしてもらっているからこそ幸せだという者が大勢いる。体温だけでもできるだけ長く幼い子どもに与えつづけようとする者もいる。身勝手には死ねないと、むしろ自分があなたたちのそばにいてあなたたちを見守るのだと誓う者もいる〉p.181-182

 〈自分が伝えたいことの内容も意味も、他者の受け取り方に委ねてしまう――。このようなコミュニケーションの延長線上に、まったく意思伝達ができなくなるといわれるTLSの世界が広がっている。コミュニケーションができるときと、できなくなったときとの状況が地続きに見えているからこそ、橋本さんは「TLSなんか怖くない」と言えるのだ。軽度の患者が重度の患者を哀れんだり怖がったりするのは、同病者間の「差別だ」ともいう〉p.211

 〈平凡な健常者の私には、彼らのイチかバチかの生き様がすごいと思われるばかりだ。どんどん悪化していくのに、「いつでも今が最善」といえる感覚がよくわからない。それに、「現在は最善と最悪の接点」というが、現在を「点」に見立てて生きる厳しさも、時間をそのように意識したことのない私には、とうてい想像できない。椿先生でさえ「健康なものにはわからない」とおっしゃっていたのだから、重病人の心理はわからないし、日々遷り変わるものなのだろう。

 だから、わざわざ確実に死なせるための準備などしない、そしてどのような生き方や死に方がよいかなどと健常の者が教えたりしないというのが、たぶん正しい接し方なのである〉p.223

 〈まるで乾いた土に落ちた種が降雨を待ち望んでいるように、ALSという過酷な環境にも耐えていられるのは、幸せな夢を見ているからだ。身体は湿った綿のように重たくても、そんな彼らの心は羽のように軽やかなのである。

 患者の豊かな空想の力を知ってしまうと、「病人に気にかけてもらっているのは家族のほうだ」というのも、橋本さんの強がりではなく、正しいと思えるようになる。実際のところ、私以外の患者の子どもたちも、病身の親の気配をいつでもどこでも感じることができるという〉p.224

 それら、様々な状況での感じとり方も、これからの介護において助けになると思う。

 まずは、精一杯感じとること。

008

(熊本に来て初めて咲いたうちの薔薇、香りがやさしい)

 

 

のさり

 藤崎童士(2013).のさり――水俣漁師、杉本家の記憶より.新日本出版社

 のさりとは?

 

 〈――雄(たけし)と栄子が生死の崖っぷちから見いだした、救いの境地がある。

 それを〈のさり〉という。

 自分が求めなくても天の恵みを授かった、という熊本の漁師言葉であるが、現在でも、杉本家では大漁不漁という言葉は滅多矢鱈に使わない。

 海に行き、運よく大漁に恵まれれば「のさった」と言う。不漁のときには「のさらんかった」と言う。そして「明日はもっとのさろう」と己の心を奮い立たせる〉 「はじめに」より

 

 私の妻は大分県中津市の魚屋の子だったが、母親から「おまえはのさっちょん」(恵まれている)とよく言われていたらしい。

 さて、この物語は壮絶である。一家が罹った水俣病により、村の人々、同業者からいじめられ、身体的に、精神的に追い詰められていく。それでも、訴訟を続けていく。けっして諦めない。その生き方は尊い。

 村人から傷つけられ、業を煮やした栄子が父親に諭される場面がある。

 

 〈「……もう、たいがい堪えきらんとぞ。おっちゃん。あん人を殺したかッ」

 目を真っ赤にした栄子には殺気が漲っている。

 「ならん」

 「ここまでされて黙っとるとは、そこまでもうろくしてしまわれたかッ。人がよかにも限りがある。情けなか!」

 進は栄子の肩をわしづかみにし、大きな呼吸をしながら言った。

 「……その人がどげんした魂胆で言わすか、心の中まで見通せ! 見通すくらいの人に栄子がなれ! 目ば離すな! そげんすれば生き残らるっぞ! 人が言うたことは全部そん人に持って帰ってもらえ!」〉 p.132

 

 また、栄子の父親進は、こんなことも言っていた。

 

 〈病気に罹ってきつか、死んでも死にきれんほどきつか

 いいか、水俣病は〈のさり〉と思え 人のいじめは海の時化と思え

 こん時化は長かねえ だけど人は恨むなぞ 時代ば恨め わらは網元になるとじゃっで人を好きになれ そして漁師は木と水を大事にせんばんぞ

 ばってん、人にはしてはならんこつのあっと それは、こげんしたこつぞ 病んで身を絞るほど辛かこつば知っとるからこそ、こげんこつはしてはならんとぞ 母ちゃんより早よ死んじゃならんとぞ

 だっどん(誰)が悪かか、裁判が白黒つけちくる くたばらずにやれ 人をのろうてん、会社の悪口いうてん、なんもならん

 十年経ちゃ本当こつはわかる それまで家族の気持ちがばらばらにならんごつ、人に騙されてん、人を騙さんごつ……〉 p.142

 

 水俣病を〈のさり〉と思えとは、なんという思考か。しかし真理でもある。堪えて、自らの生き方をまっとうする。そうとしか生きられないし、そう生きなくてはならない。

 栄子の婿になった雄も栄子に諭される。

 

 〈「人間ばニワトリ扱いすんなッ、ならば一粒でん米ばおらたちに持って来え!」

 と怒鳴ったが、栄子が懸命にそれを制した。

 「堪えろ、父ちゃん」

 「こげんまでいわれて、なして堪えんばならんとか!」

 「いじめる人は変われないから、自分が変わっていくしかなかっぞ、堪えていこうわい。それしかなかっぞ、父ちゃん」〉 p.179

 

 いじめる人は、チッソに刃向かう者を攻撃したとアピールすることで、自分の立場を守ろうとする。そういう考え方(生き方)を、当時の雄は想像することもできなかった。

 愈々生きることに疲れてしまい、雄と栄子は、海に出て死のことを考えているとき、魚たちに救われる。

 

 〈チッチッ

 鈴のように微かな響きを奏でているのは舟魂だ。"海の神" が発する声に誘われるように雄は舵をゆるゆると切る。

 チッチッ

 二人はじっと耳を海に傾けていた。

 これほどまでに大きい舟魂が聞こえたことはかつて一度もない。それほど、今の自分たちは死に向かって進んでいるのかもしれない、とも思う。

 雄は栄子の決心が定まるのを待っていた。栄子が海に向かって身を翻したとき、同時に自分も飛び込むつもりであった。

 そのとき、船腹がコツコツと鳴る音がした。

 「――父ちゃん、音がすっと」

 「そう言う栄子に雄は大きくかぶりを振って言った。

 「――聞こえん」

 向こうの海の一部に波立っている場所がある。それは幻影ではなかった。魚影である。栄子がまた言った。

 「……飛び込めん」

 みるみるうちにそれは大きく膨らんでいく。波間をうねり、一直線に船に押し寄せている。すべて銀鱗である。

 「わー、父ちゃん、イリコぞ。見えるか?」

 この年初めて目にするイリコの大群だった。やがてそれは渦になって船を取り巻いた。

 「見えん! 気にせんでよかが!」

 雄は頭を何度も横に振った。……このまま生き延びて何の意味があろう。たとえこのまま陸にも戻ったとしても、どうせまた無間地獄の娑婆生活が待っているのだ。

 「父ちゃんにはこん魚どんが見えんとか? こっでもわからんとか?」

 「見えんッ、魚なんかおらんとやっで、余計なこと考えるなとやっで!」

 「うんにゃ、魚どんたちが迎えに来らっとじゃ。私に獲ってくれろち言うとらすもん!」

 「もうよかッ、死に神に連れて行かれるのももう時間の問題じゃッ」

 「父ちゃん、イリコば獲るぞッ、獲らんとじゃ!」

 海の上で二人の意見が会わないのは初めてだ。だが、なにかに憑かれたように栄子は身を乗り出し、大手を広げて船べりをバンバンと叩いている。

 あれよあれよと海はひしめきあっていく。

 ついには沸騰するように大きく船が旋回しながら盛り上がったとき、栄子は体勢を崩し、ゴロンと倒れた。その身体を抱き起したとき、雄はぞくっとした。栄子の瞳に燃えるような生命力が宿っていたからだった。

 「……死んじゃならんとじゃ。おっどんたちは漁師たい。イリコば獲るんじゃ」

 それは落ち着いた声であった。

 「……よし、獲ろう」

 雄は小さく頷いた。これは運命(さだめ)なのだ、と思った〉 p.184-186

 

 2人は海に生かされて来た。このときもまた、海に生かされた。それも〈のさり〉である。

 身体の自由が利かなくなってから、栄子は語り部となる。

 〈茂道弁丸出しの語り口調、漁師ならではの気っ風のよさと飾らないユーモア、壮絶ないじめ体験、そこからいかにして這い上がってきたかを切々と語る栄子の言葉の迫力は、その場にいた聴衆の心を大きく揺さぶった。

 この頃から、栄子は、「お金があるのものさり、ないのものさり、病気ものさり、のさりとは自分が求めずして与えられたもの」と、ことあるごとに〈のさり〉という、哲学にも似た心境を語り出したと、雄は記憶している〉 p.257

 

 「自分が求めずして与えられたもの」。生きて今ここにあることも、のさりである。それを自覚して生きていけるのは、強い。体験からそれをつかんだ人の言葉には、優しい力がある。

 栄子が語っているとき、語っているのは栄子ではなく、魚であり、海である。恵みを受けた尊い生がここにある。

 

 〈今生きとる者ば大切にする そは一番たい

 じゃばってん 昔生きとった者んも思い出してくれんな!/

 人は人 魚は魚ち思うとらす者もいっぱいおらすばってん そるがほんなこつじゃろか?/

 みんな目にみえん小まんかもんから とてつもなか太かもんまで

 お互いに 生かし生かされながら みんな繋がっとっとばい〉 p.260

044

(太陽と溶け合った海!)

 

 

 

 

 

古武術に学ぶ身体操法

 甲野善紀(2014).古武術に学ぶ身体操法.岩波現代新書

 半年前、介護の研修で、岡田慎一郎氏の古武術介護を紹介した。岡田氏は甲野善紀氏に学んだということで、甲野氏の著書を読んでみた。

 甲野氏は、つねに自身の身体操法について考え、日々進化している。それがとても参考になる。

 古武術という視点から、あるいはそれ以前の彼自身の感性によって、現代の人々が忘れてしまっている身体の動かし方、つまり生き方を、本書は問い直している。

 例えば、「居付き」について、

〈普通はみんな足で蹴って逃げるでしょう。ところが蹴っている間はその場に居付いて、拘束されてしまうんです。そこで身体の支えをはずすようにして、いきなり身体が倒れるようにすれば、もちろん倒れてはだめですが、倒れようとする重力のエネルギーが使えるでしょう〉p.30

 「居付い」てはいけないというのは、身体だけでなく、日常生活のあらゆる場面で言える。一つの考えに囚われてはいけないなど。

 より柔軟に、合理的に、彼は思考する。それが身体感覚として身についている。だから日々更新できる。

 居付かないというのは、「ためをつくらない」発想と近似する。瞬時に動く、ということである。

 身体の使い方として、私は以前マラソンをしている時、強い向かい風にどう対処するか考えたことがある。その方法とは、前傾姿勢をとり、吹いてくる風に身体を乗せる、というものである。さらにヨットの要領で、身体を左右に分割したうえで、上体を帆に見立て、向かい風を推進力に利用するつもりで走る。すると、実際に速く走ることができ、以来向かい風が苦にならなくなった。これなどは、甲野氏の古武術身体操法と似ているかもしれない。

 日々介護をするなかで、自他の身体に負担をかけない方法について、つねに考えていきたい。

017

(桜の花びらは雪のよう:熊本市国府)

 

狭き門 La Porte Etroite

 A.ジッド(1909)/山内義男訳.狭き門.新潮文庫

 幸福になりたいと、よく人は言うけれど、私にはその感覚がよくわかっていない。なぜ幸福を求めるのか? 幸福とは?

 この恋愛小説の主人公アリサは、私たちは幸福になるために生まれてきたのではないと言い、魂が聖らかになることを望む、と言う。それはよく理解できる。魂が聖らかであるために、私たちは生きている。

 〈「わたし、あなたのおそばにいると、もうこれ以上幸福なことはないと思われるほど幸福な気持になりますの……でも、じつは、わたしたちは、幸福になるために生まれてきたのではないんですわ」

 「では、魂は、幸福以上に何を望むというんだろう?」と、私は性急に叫んだ。彼女は小声でつぶやいた。

 「聖らかさ……」それはいかにも低く言われたので、わたしは、それを聞いたというよりも、むしろそれと察したのだった〉p.164-165

 聖らかであるために、私たちは何をするか? 善をなす以外には何もない。その善とは、思考の対象に即して思考すること。よりそい、感じ、はぐくみ、あたためること。

 ときに苦しみを伴う。それは必定の苦しみであり、ともに拡がり、世界に満ちる。ジェロームがアリサやロベール姉弟に接した時のように。

 〈ジェロームは、それをただ責任の気持から――それに、おそらくわたしをよろこばせたいと思って――やってくれているように思います。なぜかと申せば、ロベールとジェロームとでは、その性質にはほとんど似たところがないのですもの。ともかく、ジェロームには、自分に課せられた義務が苦しければ苦しいだけ、それだけ魂がはぐくまれ、魂が引き上げられるということがわかったろうと思います〉p.112

 必要なこと、しなくてはいけないことをしながら、私たちは生きている。そして、死は生とともにあり、あらゆる生にぴったりよりそい、支えているように、私には感じられる。

 〈「ではあなたは、死んだら二人は別々になってしまうと思っている?」と、アリサが言った。

 「それはね……」

 「わたしの考えでは、死ぬっていうのはかえって近づけてくれることだと思うわ……そう、生きているうちに離れていたものを、近づけてくれることだと思うわ」

 これらの言葉は、深くわたしたちの心のなかにしみこんで、そのときの二人の言葉の調子までが耳に残っているような気持がする〉p.53

 幸福とは、おそらく、魂の有様のことをいうのだと、私は考える。それが聖らかであろうとするときのその姿を。

 〈……ところが今、妹を幸福にしているものは、かつて妹の考えていたような、そしてまた彼女の幸福がそれにかかっていると思われていたようなものとはまったく別なものなのです。……ああ、《幸福》と呼ばれるものは、どうしてこれほど魂と関係の深いものなのでしょう。そして外部からそれを形作っているかにみえるもろもろのものは、なんと価値がないのでしょう〉p.138

 そのように思考し生きたアリサは、私たちのなかにいつまでも生きつづけている。

Awashima

(恋愛の神社?)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ