読書

神の亡霊

小坂井敏晶(2018).神の亡霊.東京大学出版会

〈〈私〉はどこにもない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるだろう。プロジェクタが像をスクリーンに投影する。プロジェクタは脳だ。脳が像を投影する場所は、自らの身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する……これら対象にそのつど投影が起こり、そこに私が現れる。私は脳でもなければ、像が投影される場所でもない。私はどこにもない。私とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである〉p.30

〈今見えている星の光は数十万年も前に放たれた。星はもう寿命を終えたかも知れない。それでも私たちにとって星は輝き続け、存在感を失わない。二人称の死はそれと似ていないか……私の記憶という表現はおかしい。私とは記憶そのものだ。他者と共有した時間をすべて取り除いたら、私自身が消失する。だから身近な人を亡くすと、その写真にいつまでも語りかけ、遺品を大切に取っておくのだろう。葬式は、残された者の記憶を整理して、生前とは別の場所に死者を住まわせるための手続きだ。一人称の世界は他者との関係に絡められた、本当は二人称の社会・心理現象なのである。ビデオ・ゲームやインターネットの仮想世界で育ち、二人称の人間関係を知らない若者が他人だけでなく、自分の命にも現実感を持てない理由は、この辺りにあるのかもしれない〉p.32

〈呪術や宗教と科学は合理性の程度によって区別されるのではない。合理性とは、集団相互作用が産み出す間主観性の別名だ。独りでくつろぐ時でさえ、我々は個人として判断するのではない。集団の思考枠を通して世界の出来事を把握する〉p.51

〈だが、神は存在せず、善悪を自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった。生命倫理の分野だけでなく、同性結婚・性別適合手術・近親相姦などの是非を判断する上で、近代以前であれば聖書などの経典に依拠すれば済んだ。あるいはその解釈だけで事足りた。しかし道徳を正当化する源泉は、もはや失われた〉p.81

〈人民の下す判断を真実の定義とする。これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理だった……軽罪裁判所の判決が控訴可能なのは、職業裁判官が裁くからである。裁判官には誤判がありうる。官僚がまちがえても、それは技術的問題にすぎない。だが、重罪は人民が直接裁きを下す。したがって国民主権の原則により、異議申立ては許されない。人民の裁断を真実の定義とする以上、控訴は原理的に不可能なのである〉p.93

〈共同体の外部に投影されるブラック・ボックスを援用せずには秩序を正当化できない。人間自身が生み出した規則にすぎないと知りながら、どうしたら道徳や法の絶対性を信じられるのか。人間が決めた規則でありながら人間自身にも手の届かない存在に変換する術を見つけなければならない。だが、これは、人民主権を極限まで突き詰めたルソーが認めるように解決不可能なアポリアである〉p.95

〈普遍的だと信じられる価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしても良いということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要と相対主義は何ら矛盾しない。人間は歴史のバイアスの中でしか生きられない。社会が伝える言語・道徳・宗教・常識・迷信・偏見・イデオロギーなどを除いたら、人間の精神は消滅する。考えるとは、感じるとは、そして生きるとは、そういうことだ〉p.96

〈倫理判断や裁きは合理的行為ではない。信仰だ。それゆえに強大な力を行使する。裁判と神は同じ論理構造に支えられる。裁判は力だ。有無を言わさず、それ以上に議論を遡及させない思考停止の砦をなす。人権思想は現代の十戒である〉p.98

〈普遍と主体、この原理的に矛盾する二つの信奉が近代を特徴づける神の臨終を聞いた時、これからは自分たちが世界を築き上げるのだと人間は誓った。意志の力を信じ、歴史変遷は人間が司るのだと了解した。理性を通じて真理が明らかにされ、世界は次第に良くなると確信した。政治哲学はこの地平に立つ。普遍的価値が存在せず、人間の意思とは無関係に世界が進行するならば、議論する意味が失われる〉p.134

 普遍的価値が失われたのなら、ひとりひとりが価値を見い出していく、そのための理性である。

 客観批評、主客合一、「私は一個の他者である」

 主体は人間にではなく、理性にある(人間は理性の過る場所である)

〈突然変異と自然淘汰により種が変化するとダーウィンは説いた。進化に法則はない。生物の未来は偶然に委ねられる。適者生存の意味を誤解し、より良くなることが進化だとする歪曲は、主体と普遍を信じる近代が誘導する論理的帰結である……善悪の問いに普遍的価値は存在しない。そして歴史は人間の手を離れ、自律運動する……近代は神を殺し、真理の内部化を夢見る。しかし外部は消せず、真理は存在しない。神の亡霊はしぶとく彷徨い続ける〉p.137

〈出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性としてメリトクラシーは歓迎された。そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる。社会を開くはずのメカニズムが逆に社会構造を固定し、閉じるためのイデオロギーとして働く。しかし、それは歴史の皮肉や偶然のせいではない。近代の人間像が必然的に導く袋小路だ〉p.159-160

〈…才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。確かに偶然にも左右される。しかし偶然も外因である。能力を遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定立できなくなる。社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。認知心理学や脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。外因をいくつ掛け合わせても内因には変身しない。したがって自己責任の根拠は出てこない〉p.160

〈運命として諦める。最終責任を引き受ける外部は、神や天のように主体として表象されなければ機能しない。隠された大きな意志が関与すると感じる時、人は救われる。近代は、この外部を消し去り、原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う強迫観念が登場する〉p.163

〈生き物としての人間、生身の人間が世界を作り、営む。他者の行為に我々は単に論理だけで反応するのではない。喜びや怒り、悲しみとともに意味を把握する。感情や認知バイアスをいう濾過装置を通さなければ生きられない人間存在が、哲学者や科学者の覚めた論理で理解できるはずがない。重力により曲げられた空間を通る時、光は直進しない。二点を結ぶ最短距離は直線を描かない。意味とは何か。わかったと感じる時、何が起きているのか〉p.206

 無意志的想起、超越、普遍は、個と共にあり、個を癒す、それが生きるということ。

 過去(死者)と共にあることもまた

 見出されなかったものたちを開放すること

 耳を傾け続けること

〈合理的対処だけでは人間の葛藤や紛争を解決できない。道徳教育は、共同体の価値観を子どもに強いる精神的暴力だ。だが、それなくして共同体の絆は保てない。抵抗なく、法を受け入れさせるために宗教が不可欠だとルソーは気づいた。友愛という、曖昧で異質な要素が「社会契約論」に突然現れたのは、こういう事情による〉p.289

〈私的な欲望ではなく、一般意志こそが各人の心の奥から出て来る本当の意志である。したがって、一般意志に背く市民に服従を強要しても自由は侵害されない。人間は強制的に自由にさせられるとルソーは同著で断言する。ひとは自らの真の欲望を発見し、ついに解放される。人間革命だ。ヒトラーかスターリンの言説と見紛う論理がこうして成立する〉p.291

〈主体という内部はどこにあるのか。空間軸に投影された内部/外部という二項対立がすでに勘違いの元だ……壊れた機械を修理したりスクラップにして廃棄処分するように、社会にとって有害な人物を再教育したり、刑務所や精神病院に閉じ込めたり、あるいは死刑に処する、つまり正常に機能しない機械は修理するか壊すという発想ならば、責任は無駄な概念になる。このように、単なる自律性とは区別して、我々は人間の主体性を理解する。では主体性はどこにあるのか〉p.317

〈神という外部に依拠できなければ、根拠は個人に内在化されざるをえない。最終原因・根拠を外部に見失った近代は、こうして自由意志と称する別の主体を内部に捏造する……主体はモノでもプロセスでもない。個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。自由意志が発動される内部はどこにもない。時間軸上に置かれた行為の因果律と主体は無関係だ。主体とは、責任を問うための論理であり、認識形式である。犯罪や不平等など、不都合な事態に際して、誰かに責任を押し付けて収拾を図る社会規範であり、イデオロギーである〉p.318-319

〈数学と同じ論理構造に歴史が従うならば、世界は原初から決定されている。そもそも歴史は可能なのか。法則を破る出来事、因果律に楔を打ち込んで方向を変える契機の積み重ねが歴史であり、真の意味での変化である。時間を捨象する科学に継時変化は捉えられない〉p.381

《「原因としての意志」はあくまで擬制的存在であって、この事情を見抜くことこそ哲学的行為論の第一歩というべきである。だがそれと同時に、意志なるものが存在し、原因として作用するという観念ないし信念がわれわれの生活を動かしている重要な因果的要因である、という事実を直視しなければならない。すなわちわれわれは、意志が実在し、作動しているかのように感じ、考え、行動している。言いかえれば、ひとの意思を理解し、自分の意思を伝達する「意思表明の言語ゲーム」を不断に実行している》p.372 黒田亘『行為と規範』

《「自由な行為」とは、多年の経験を通じて形成された人格的主体の個性を明瞭に表現する行為、自我の表面に属するのではなくその深層から発する行為である。従来の自由論が説いてきたのとは逆に、その行為者の、その状況における行為であるかぎり反対の行為の可能性を考える余地のないような行為、それ以外ではありえないほどに人格的に決定された行為、それこそが「自由」のあかしとなる行為ではないか》p.381-382 黒田 前掲書

〈決定論と自由は矛盾するどころか、自由と感じられる判断や行為ほど決定論的な現象である。内在的変化、すなわち主体が法則を超えるという実存主義は変化を法則に還元する科学と原理的に相容れない〉p.382

〈ある定点に人々が引きつけられるように見える。しかし実際にはそのような定点が初めからあるのではない。人間が互いに影響しあいながら生み出すにもかかわらず、真理がもともと存在していたかのような錯覚が定点生成後に起きる。真理だから同意するのではない。善き行為だから賞賛し、美しいから愛でるのではない。人間の相互作用が真善美の出現を演出するのである〉p.386

日本的霊性

 鈴木大拙(1944).日本的霊性.角川文庫

〈元来意志――広い意味においての意志は、宇宙生成の根源力であるといってよいのであるから、それが自分らすなわち箇々の人間の上に現われるとき、心理学的意味の意志力と解せられる〉p.24-25

〈精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。何か二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つではなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相克し相殺しないで、互譲し、交驩し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。言わば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直観または自覚によりて可能となる〉p.30

〈…ただ宗教についてはどうしても霊性とでもいうべきはたらきが出てこないといけないのである。すなわち霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる……精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越して居る。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である……それから精神の意志力は霊性に裏付けられていることによってはじめて自我を超越したものになる〉p.31

〈宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むとき、自らの霊性に触著する時節があると、対立相克の悶えは自然に解消し去るのである。これを本来の意味での宗教という〉p.33

〈大いに有力な力のはたらきかけが浄土系思想を通して日本的霊性の中から出たと断定しなくてはならぬのである。このはたらきが浄土系思想を通して表現されたとき、浄土真宗は生まれた。真宗経験はじつに日本的霊性の発動に外ならぬのである〉p.38

〈日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、もっとも大胆にもっとも明白に闡明してあるのは、法然-親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁――すなわち分別を超越して居るということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである〉p.39

〈明るき心清き心というものが、意識の表面に動かないで、そのもっとも深き処に沈潜して行って、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである〉p.40

〈何か死の神秘性、永遠の生命、生死を超越した存在、水沫ならざるもの、照月のごとくに満ちまたは闕けることのないものに対するあこがれ、行方知らざるものを捉まんとする祈り、または努力、または悩みなどというものが、『万葉集』の中には少しも見あたらぬ〉p.48

〈…厭うこころ、求むる心――これが現世否定の道で、宗教はこの否定なしに、最後の肯定にはいるわけに行かぬが、その心を徹底させれば、宗教的霊性的生涯はそれから可能になる。厭いもせず、求めもせぬ大部分の万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれて居るものがないといってよい〉p.50

〈なるほど宗教は現成世界の否定性をもって居る。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。霊性そのもののおののきでなくてはならぬ〉p.58

〈本当の愛は個人的なるものの奥に、我も人もというところがなくてはいけない。ここに宗教がある。霊性の生活がある。天日だけでは宗教意識は呼びさまされぬ、大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは大地と人間と感応道交の在るところを通すとの義である〉p.62

 言葉が、文が、書が読み手の心に入りこみ、おののきを誘発するものでなくてはいけない。

〈自分はここで絶対他力教の特質に宗教の原理が含まれ、かつまた当時日本人の精神が始めて宗教的に目覚めたのと啐啄同時的な相応があったものと信ずる。ここで自分は日本的霊性の覚醒をいいたいのである〉p.74

〈業繋から解放せられることは、論理的にいえば、般若の即非観であるが、宗教信仰的にいえば無縁の大悲、すなわち弥陀の誓願に救われることである……純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でもよいのである。親鸞聖人は『歎異抄』でそういって居る。これが本当の宗教である〉p.75

〈真宗は念仏を主とするとか、浄土往生を教えるとか、その外何とかというのは、真宗信仰の真髄に触れて居ない。。真宗は弥陀の誓願を信ずるというところに、その本拠を持って居る。誓願を信ずるというは、無辺の大慈悲にすがるということである。因果を超越し業報に束縛せられず、すべてそんなものをそっち除けて、働きかけてくる無礙の慈悲の光の中に、この身をなげ入れるということが、真宗の信仰生活であると、自分は信ずる。此土の延長である浄土往生は、あってもよし、なくてもよい。光の中に包まれて居るという自覚があれば、それで足りるのである。念仏はこの自覚から出るのである〉p.77

〈われらの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに持獄も極楽もあるが、われらは大地そのものであるということに気付くと、ここが直に畢竟浄の世界である。考えそのものが大地になるのである。大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく〉p.78

〈この超個の人が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という、この親鸞一人である。また『百条法話随聞記』(「信道」、昭和194月号)にある「この界にわろき者はわれ一人、地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人、一切みな一人一人と覚えにける」というこの一人である。真宗の信者はこの一人に徹底することによりて、日本的霊性のうごきを体認するのである〉p.109

〈情性的というのは、情性的直観とでもいう心持ちなので、個己の超個己的経験の義である。経験といえば個己の上でのみあり得る事象であるから、超個己的は意味をなさないとも考えられる。が、この経験は個己の限られた意識の上だけでは生じ得ないもので、どうしても超個己的なものを入れて見ないと解せられないのである。これを信といって、普通の知または解または自覚などいうものと区別するのは、その理由ここにあるのである。他の宗教では「神の天啓」といって、人間理智の限りでなく、ただそのままに受け入れるべきであるという。宗教意識の受動性は実に此処に在るのである〉p.110

〈霊性には日本的なると否とを問わず、それ自体の領域があって、その動きには自ら情性と異なるものがある。これらの領域が相互に混淆して考えられると、人間生活の上に好ましからぬ紛糾を起こし、また民族的にもその進運の阻止を見ることさえある。情性的直観は一方においては、知性によりてその権衡が保持せられなければならぬが、他の一方においては霊性への流入によりて、その偏固性が矯正せられなければならぬ〉p.138

 霊性とは、内在するもの、受け継がれ、私にはたらきかけるもの

 ユダヤ教の霊性、浄土教の霊性

〈それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして、弥陀の絶対的本願力のはたらきに一切をまかせるというのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。絶対者の大悲は、善悪是非を超越するのであるから、この方からの小さき思量、小さき善悪の行為などでは、それに到達すべくもないのである。ただこの身の所有と考えられるあらゆるものを、捨てようとも、留保しようとも思わず、自然法爾〔あるがままに仏の大悲に身を任せること。親鸞の晩年の境地〕にして大悲の光被を受けるのである。これが日本的霊性の上における神ながらの自覚に外ならぬのである〉p.142-143

〈個己の一人一人が超個己の一人に触れて、前者の一人一人が「親鸞一人のため」の一人になるのである。この妙機を攫むのが信である。向こうに対象をおいてそれに向かって個己の一人が信をもつということではない。個己の一人は一人一人で、しかもそれがそのままに超個己の一人であるのである〉p.144

〈「あるがままにある」が否定道をたどって、またもとのところに還る様態に日本的なるものがある。これを日本的霊性の超出という。それは何かというに、絶対者の絶対愛を見付けたことである。この絶対愛は、その対象に向かってなんらの相対的条件を附せないで、それをそのままに、そのあるがままの姿で、取り入れるというところに、日本的霊性の直覚があるのである。善を肯定し、悪を否定するのが、普通の倫理であるが、今の場合では、善をも否定し悪をも否定して、しかる後、その善を善とし、その悪を悪とするのである。しかも絶対愛の立場からは、善も悪もそのままにして、いずれも愛自体の中に摂取して捨てないのである。穢れを見てそれを祓うでは、また対象的論理の域を出ない。祓われた穢れはまた戻ってくるにきまって居る。それが対象界の必然だからである〉p.152-153

〈…何となれば霊性的直覚の上にのみ形而上学的体系が加えられ得るのである。而してこの体系がないと感性及び情性に基づく諸直覚だけでは定着性がないからである…〉p.155

〈大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上下では大地はその秘密を打ち開けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、自らも大地となることが出来ると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けて居るからである……日本人の霊性的直覚は文字や記録の詮索ではない。それから生まれるものは知性的である。知性の大いに大事であることはもとより疑いを容れないのであるが、知性は霊性的直覚の中から出てほしいのである。これを逆にして知性的言挙げを主として、それから直覚を惹き出そうとしてはならぬ。実際はそれは出来ぬ相談である。情性的直覚を説くものも知性の言挙げを忌むが、それは霊性からするものと、同一系列には属しないということを、深く記憶しておかなくてはならぬ〉p.159

〈生きるということは長く線を引くということではない。何千年か何万年か乃至何億年でも構わないが、始めのある生き方は亦終わりがなくてはならぬ。無限は過去の方へも未来の方へもあてはめなければならぬ。これは有限な直線ではいけない……無限は直線では有り得ない。ここから始まるといえば、ここで終わるということがすでにその時定められている。そんな限定をうけるものは生きて居ない。生はどうしても無限でなくてはならぬ。すなわち直線であってはならぬ、生は円環である〉p.160-161

 霊性とは生命である

〈一人は超個己的一人で、中心のない無限大円環の中心を形成するところのものである。霊性的自覚はこの中心のない中心を認得するときに成立する。そのとき「天上天下唯我独尊」の一人者となるのである。それが真実の個己――超個己の自己限定である。個己でない個己という矛盾がすなわち、もっとも具体的事実として認得せられ、この存在が究竟性をもって来るのである〉p.164

〈…蚯蚓を蚯蚓と見るとき、蚯蚓は仏と知られるのである……自ら契ふ――これが全文の眼目である。「自ら契ふ」とは、霊性的直観の義に外ならぬ。この直覚が現前するとき、随順の真義に徹する。「百尺の竿頭に上りて手足を放って一歩を進めよ」といわれて、「はい」といって歩を運ぶとき、始めて自ら契fことが可能になり、蚯蚓蝦蟇すなわちこれ仏ということになる。この「はい」は随順だけでは出ない。やはり狐疑躊躇を何遍も繰り返して後でないと出ない。随順はまず否定せられて、それからでないと、勝義の随順ではないのである。そうなると、この場合の随順には霊性的なものがあると謂わなくてはならぬ。自契というのがすなわちそれである〉p.173

〈親鸞はまず「仰せを蒙りて」それから「信ずる外なし」というが、実際の心的経過は、信があって、それから「よき人の仰せ」がきかれたのである。彼が霊性的直覚は法然上人の指示によりて現前せられたというが、直覚と指示とは儼然として別物である。法然の指示、すなわち「仰せ」は彼のすべての弟子に向かって与えられたものであるが、後者がことごとく直覚を現前させたのではないのである。ただ親鸞のみあって、法然の「オイ」に即応して「ハイ」があったのである〉p.174

〈直覚は心に外ならぬのである……とにかく、能所を分けて話する世界では、純粋な受動性というのはあり得ないのである。仏教の通俗化をいうときにも、神仏習合をいうときにも、ただ一方向きの見方だけしかないように考えてはならぬ。両者対自の世界は、その回互性を領得することによりて、可能なのである……随順はつまり両者の相はたらきかけである。これが生命の真実の姿である〉p.175

 情性ではなく霊性、その論理性

 反省、否定と、弁証法

 個己でありつつ超個己であること

〈「悪心のみ遮って善心は曾て発らず」といい、「如何なる行を修しても、一向助かるべし共覚えぬ事こそ口惜候へ」というかれは、必ずしも地獄へ往くことを恐れたのではない。これはむしろ彼が人生に対する批判であると見たほうがよいのである。「憍慢の心のみ深して、当来の昇沈を不顧」というのは、生活に対してなんの反省もなく、萎々随々地〔他人に追従して自分の腰がきまらないさま〕にその日暮らしの動物性を肯定していたということである〉p.187

〈念仏→往生とつづき、往生→念仏とつづくとすれば、念仏即往生で、往生即念仏である。しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にまた往生の途がなくてはならぬ……念仏しつつ往生を考えて居ては、その念仏は純粋性をもたぬ。絶対の念仏ではない。法然上人は連生坊に教えて、「念仏の行はかの仏の本願の行にて候」といい、また「ただ本願の念仏ばかりにても候べし」といっている〉p.190

〈ある意味では、念仏はまた祈りである。現世の批判はその否定であり、否定はそのうちに浄土の肯定をかくして居る。このかくれたるものへの意向は祈りに外ならぬ。祈りは有意識と無意識に関係しない。現世を超えんとするところに祈りがある……彼は悪心を反省して、これを超えんとして居る。超えてのさきが何かの形で目の前に見えぬ限り、超えんとの希望は発生し能わぬ。ここに祈りがある。ここに南無阿弥陀仏がある。本願の念仏の行がある。それ故、念仏は永遠である。また仏の本願も永遠である〉p.192

〈事実上の経験からいうと、往生はこの世の否定の義であり、従って念仏はこの世を超えるの義であることが明らかである〉p.197

 霊性とは〈他なるもの〉、念仏とは〈他なるもの〉を生きること。

〈私〉の賢しらに在ることではなく、促され、感じとられた〈それ〉の意思に生きること。

《壬辰の冬、示して曰く、去る者法然上人に後生の願いやうを問ふ。法然答へて曰く、後世を願うといふは、唯今頸を切らるるものの心になりて、念仏申すべしと也。是よき教え也。誠に如是念仏せずんば我執尽くべからずと也》p.204 正三道人

〈こんな時節に出くわさぬと、「ひとりだち」の念仏、「すけをささぬ」念仏、「一心本願」の念仏は唱え出されないのである。こんな時節には、智慧も頼りにならず、持戒も道心も善悪も慈悲無慈悲も恃むに足りないのである。このときの心を白木ともいい、生まれながらともいい、信心決定ともいう〉p.204

〈霊性の覚醒は一たびは知性的否定を経過しなければならぬのである。それ故、一文不通では、本当の意味での霊性の覚醒はないともいえる。が、またより深い意味での覚醒は、霊性そのものから自ら出て来るといってもよい。知性的否定のある場合でも、霊性の自発的なものがなければ、縁だけが具わって、因が動き出さぬということにもなる〉p.215

〈霊性的直観はいつも初めてのように感じられ、珍しきものである。それ故、何遍きいても、転々挙すれば転々新たなるものがある。道宗は実にこの境地に到達した人であるので、聞書にも上人の言としてそれを伝って居るのであろう〉p.237

〈あるとき上京の節、道宗の妻は、上人から何か安心につきての指示をいただいてきてくれと頼まれた。京から遥々帰って来て、草鞋も取りあえず、妻に出して見せたのは「南無阿弥陀仏」の六文字であった。妻はこれを見て失望した。もっと何か細々と書きつけたものがほしかったのである。道宗は妻の意を知ると、ただちに「よし」といって、その鞋のままでまた京へ立ったということである〉p.240

〈われらはいずれも借金を背負って居る。そしてそれはいつか払わねばならぬのである。借金とはこの存在――個己――そのものである。それでこの存在はいつかその底に徹して覆滅させなくてはならぬ。すなわち、われらはいつか個己から超個己への飛躍を成し遂げなくてはならぬのである。これが往相回向である。それがすむと還相回向である。が、往生がすんで還相があるというのではなくて、往生がすなわち還相で、その間に回互的聯関がある。借金を払うというは個己の意識の上での話であるが、事実は払われる借金もなければ、払う借用人もなく、またそれを受け取るものもない。借金と人と共に超個の法界に頭出頭没するのである。仏者はこれを遊戯三昧とも法界縁起ともいう。しかし個己の存在としては業は尽くされねばならぬのである〉p.242

〈彼の意識が念仏に全く占領せられたといっては、なお二元論的見方たるを免れぬ。意識と念仏とが二つになって居る。才市の念仏はそんな境地から出るのではなくて、彼の主体が南無阿弥陀仏そのもので、彼の意識というのは南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を自覚するという意味になるのである。臨済の「一無位の真人」または親鸞の「おのれ一人のためなりけり」が、真人と自覚し、一人と自覚するとき、そこに臨済が生まれ、親鸞が生まれる。このとき南無阿弥陀仏が口を突いて出るのである。才市が下駄を削って居るのではなくして、南無阿弥陀仏が下駄を削って居るのである〉p.253

〈これで見ると、才市の歓喜は個己としての才市の意識的事象ではなくて、超個己の一人がこれにも参加していることが明々に看取せられる。それからまた、この歓喜は一時性のものでもなく、また一定の場所に限定せられたものでもない。常住に才市の意識を占領して居るところのものである……それ故、弥陀も亦これに与るのである〉p.254

〈「なむあみだぶつ」は霊性的直覚のまたの名である。直覚の内容であるというのが正当かもしれぬ。あるいは弥陀の個己化が「なむあみだぶつ」だと謂うべきであろうか〉p.264

 incarnation(受肉の神秘)

〈皆一つのところが「なむあみだぶつ」である。すなわち「なむあみだぶつ」であり、また光明であり、また慈悲であり、また才市である。この自覚を霊性的直覚という〉p.265

〈能所の岐れるところに禅はないので、能と所が一つにならなければならぬのである。すなわち観音様は眼そのもの、手そのものである〉p.318

〈般若系思想では、山は山ではない、川は川ではない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである……すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に、否定を媒介して、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ、というのが、般若論理の性格である……般若の智慧なるものは、これに反して、まずその物を素直に受け入れないで、これを否定する、それはそうではないという。そして、それから肯定に帰るということになるのである……山が山でないというと妙に聞こえるが、われらは始めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれるというと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気がつかないのである〉p.328-329

〈禅の修業というものは、つまり自由に動いていたものを、まず動けなくさせる修業だといってよろしい。すなわち否定の修業である。あるいはこういった方がよいかもしれない。曰く、まず否定に撞着したから禅に入ったのであると。禅は否定の修業だというよりも、まず否定があったので、それから禅を修業することになったという方がわかりやすいであろう。否定ということを感じ得るのが人間である。それは人間にのみ許された霊性的生活の故である。それで「不生」を否定した生と死の観念から脱出しようと、人間はつとめるのである〉p.334-335

〈…竹篦がただちに人生そのもの、世界そのものなのである。そこに突き出された竹篦は和尚の手裡に在るのではなくて、自分がそれなのである〉p.336

〈そこで「応無所住而生其心」、これは「応に住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読むのである。この意味は、つまり、無心または無念ということと同じである。住するというのは、何にか一定の場所、または事柄に囚われて、そこから離れられないというのが住である。それは貧著ということである〉p.338

〈非場所〉の倫理

 居付かない在り方

〈しかし禅などでいう心は、もっともっと深い意味のものである。分別心でも、思慮心でも、集起心でもない。これを無分別心と呼んでいるが、分別を超越したところに働く心である。分別心または分別意識というが、こういうものの底に無分別心が働いていると自分は言うのである〉p.343

〈…それを今度は主、すなわち自分を無にして、客の方を主にすると、道元禅師が「万法来ってわれを証する」といわれたように、自然に無所得が得られる。すなわち無功徳で、無所住で、そして活潑潑地の働きがそこから涌いて出る〉p.350

 無分別の世界が広がっていて、その中に分別の世界がある

〈大悲本願の原理は日常生活の人間性を超越したところから出て来るものである。これは没合目的性、無功徳性、無分別性、応無所住性というべき境地があって、始めて感得せられる。それで人間はこの境地を見付けなくてはならぬのである。無所住の境地に居ないと大悲はわからぬ。力の対峙の世界はここで始めて克服せられ、解消せられて、そしてそれと同時にその意義に徹し得るのである。没合目的底のところにのみ合目的性を打ち立てることが出来て、後者はその本務を果たすことになるのである〉p.351

〈…この句(応無所住而生其心)の意味は行為面で見るべきで、平易な言葉では、跡を残さないということである。跡を残さぬというは、因果にとらわれないということである。因果に堕ちずでもなく、因果を昧まさずでもなく、因果ということ、そのことに心を煩わさずということである〉p.352-353

〈…つまり報いを求めない、無功徳的に行動するということである。これを跡を止めない、跡を残さぬというのである。禅では殊にこれを貴ぶということは、ただ貴ぶという意味ではなくして、その中に含まれている霊性的立場を挙揚しようとするのである。これを禅語でいうと、「羚羊掛角」〔羚羊、角を掛く〕である〉p.354

〈…分別意識の人は自我である。この自我は分別の世界では役に立つが、これが最後のものではない。霊的生活をする人ではない。霊的生活を送る人でないと最後の実在に到達したものとはいえぬ。すなわち安心が出来ないのである。安心の出来るところは、いわゆる自我または個己なるものを滅却したところでないと見出されないのである〉p.356

〈…またこれを自然法爾ともいうのである。また「無義を義とする」という親鸞聖人の他力の定義ともなるのである。またこれをはからいなしともいうのである。またどこかで述べた無目的的と見てもよい。はからいのない、なんら計画を樹てない、目的をしておかない、報いを求めぬ、自分を主にした因果を考えない――いずれもみんな同じ意味合いの言葉である。これを自分は「無分別の分別」といって居る〉p.358

〈 生きながら死人となりてなり果てて心のままにするわざぞよき   …無難禅師はここでは人といっている。が、それは人である。この人、この心のままにする業、すなわち行為は、みな善であるというのである。これが霊的生活の模様である……無難禅師の歌にある「心のまま」という、その心、それが盤山禅師のいわれる「全仏即人」という人である。また臨済禅師の「一無位の真人」である。人も、心も、仏も、皆一つの霊性的自覚である〉p.358-359

〈…「這箇」は「これ」である。しかし「これ」もまた、月を指す指で、その指に囚えられてはならぬ。この指はつまり何も指されたもののない指である。指されて見るべき月はないのである。そしてその指も亦もとよりないものである。それ故、無い月を指すのは、指であろうが、挂枝であろうが、坊さんのもつ払子であろうが、それは何でもよいのだ。が、何にもない指で指された、何もない月は、その何もないところから照りわたるのである。この月、この心、この人が見つかるのを霊性的直覚という〉p.360

〈鏡には、ああすべく、こうすべくというように、すべきはからいをもたないところに鏡そのものがある。なんらの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。またこれを「自然法爾」の姿ともいうのである〉p.362

〈…ただ口先でそのままだというだけではいけないのである。禅には自覚がなくてはならぬ。そのままをそのままと見る知がなくてはならぬ。この知が悟りである。この知が霊的直覚である。これは分別識上の自覚ではない。「了了自知」〔あきらかに自らを知る〕ということは無分別智の上でいうことである〉p.363

〈ところが、この生滅そのものを滅し已わると、すなわち時間そのものを超越すると、その時寂滅の正体が得られる。寂滅は何もかも有無の無になったというのではない。絶対無に徹したといえばよかろう。ここで生滅のない、生死につながれない霊性的生活が可能になる。生と死は肯定と否定の世界で、これを超える、あるいは生滅滅已するところが寂滅、すなわち肯定即否定、否定即肯定ということである……寂滅為楽は、決して生を滅するの意ではないのである。生じて滅し、滅して生ずるという時間的連続の無窮性を打破して、始めて自分の本来の姿を見ることが出来る……「為楽」は「喜びもなくまた憂いもない」ところでないと可能ではないのである。それ故に、この楽は絶対である、「畢竟浄」〔完全に煩悩を浄化した究極なさとりの境地〕である〉p.372-373

レヴィナスと「場所」の倫理

藤岡俊博(2014).レヴィナスと「場所」の倫理.東京大学出版会

〈《同》が《他》へ向かいつつも、《他》の他性がふたたび《同》に回収されることのないこの運動を、レヴィナスは還帰を願うことのない欲望、「私たちの祖国であったことがない国への欲望」と呼んでいる〉p.3

〈「空間的広がりは自らの本質を場所から受け取るのであって、「空間そのもの」からではない」(ハイデガー)。かくして、西洋哲学史における場所の概念の歴史を丹念にたどったエドワード・ケーシーの大著『場所の運命』(1977年)は、ハイデガーをはじめとする現代哲学者における「場所の再出現」を論じることで締めくくられている。場所とは、「それ自身から発してそれ自身のうちに自らを示すものであり、そのまったき潜勢力……を身をもって知るためには、場所のなかに存在しなければならない」(マコウスキー)とするなら、ハイデガーはアリストテレスの場所論のうちに含まれていた現象学的な議論の萌芽を育て上げ、哲学史が隠蔽してきた豊かさをこの対象に与え返したということになるだろう〉p.8-9

〈「現象の哲学的意義、究極的な意義が獲得されるのは、われわれが現象を意識的な生のなかに、すなわち、われわれの具体的な実存(notre existence concrète)の個別性、分割不可能性のなかに置き直したときである」(レヴィナス)。つまり現象学は、個々の現象を、それが生起する個別的な場面から切り離して抽象的かつ一般的に扱うかわりに、それがわれわれの生のうちで生起する仕方をあるがままに記述することを目指すのである〉p.21

  altérité はじめてだからこそ感じられる懐かしさ(未知ゆえの近しさ)

〈そうではなく、近代科学が構築する世界、「われわれの環境世界(monde ambiant)を超越した世界」は、われわれが有している「個別的なもの、歴史的なもの、人間的なもの」についての了解、すなわち「価値と重みをもった実存」に対する了解とは根本的に異なるのではないか、とレヴィナスは問うのである。このことは、ニュートンを批判するバークリーやヒュームの感覚主義においても同様であるとされる〉p.21

《《人間的なもの》の真の本性、意識に固有の本質を特定すること、これが現象学者たちに課せられた第一の課題である。われわれは彼らの回答を知っている。意識であるようなものすべてが、事物のようにそれ自身に閉じこもっているわけではない。それは《世界》に向かっている。人間のうちにある最高度に具体的なものとは、人間の人間自身に対する超越である。あるいは現象学者たちの言葉を使えば志向性である》p.22 レヴィナス

 失われたものを取り戻すとは、未知に開かれていること

《いかにして主体は、対象に到達するために自分自身から抜け出せるか》p.27

〈人間は先在する抽象的空間のなかに事後的に措定されるのではなく、世界内存在という根本的構制をそなえた「現存在」として、つねにすでに世界のうちに存在している〉p.28

〈ハイデガーの視角においては「認識することは世界内存在としての現存在の一つの存在様態」であり、それゆえ認識問題を適切に扱うためにはまず第一に世界内存在という構造の解明が求められるのである……こうしてハイデガーは、「用具性(Zuhandenheit)」をそなえた存在者(「道具」)と現存在との関係である「配慮(Besorgen)」を、客体的存在者を前にした観想的態度や理論的知識に先行するものとして提示していくことになる〉p.29

《フッサールは、個別的なものや具体的なものの特権的役割を盲目的に受け入れていたわけではない。またマルティン・ハイデガーは、いかにして「現実的な人間的実存」の分析がわれわれを、「存在としての存在」の問題を定式化する際にアリストテレスが垣間見ていたこのうえなき哲学的次元へと導くのかを、見事な仕方で示すことができた。フライブルクには具体的なものの神秘主義(mysticisme du concret)は存在しない》p.31

〈西洋の思想的伝統において、精神の自由はつねに現実から身を引き離す能力として考えられてきた。人間存在に重くのしかかる「もっとも根深い制限」である歴史に対して最初の「素晴らしき音信」をもたらしたのはユダヤ教であり、ユダヤ教では「悔悛(repentir)」に基づく「赦し(pardon)」によって可能となるような、不可逆的な時間からの人間の解放が構想されていた。「時間はその不可逆性そのものを失う。時間は手負いの獣のようにして、いらだちながらも人間の足元にくずおれる」……人々の物質的ないし社会的条件がいかなるものであれ、魂はそれとは無関係に、「かつてあったもの、自らをつなぎ止めていたものすべて、自らを巻き込んでいたものすべて」から身を引き離す能力を有しているからだ〉p.35

《しかしながら、観念論がたどった道のなかにではなく、観念論が切望したもののなかに、疑いの余地なく西洋文明の価値がある。すなわち、観念論は当初の着想においては存在を乗り越えようとしているのである……新たな道を通って存在から抜け出ることが問題である。そのためには、常識や諸国民の叡智(la sagesse des nations)にとってこのうえなく明白に思われるいくつかの概念を転倒する危険を冒さなければならない》p.42 De l’evasion

〈異教とは、精神を否定することでもないし、唯一神を知らないということでもない……異教とは、世界から抜け出ることの根本的な無能力なのである……自足し自閉したこの世界のなかに、異教徒は閉じ込められている。異教徒はこの世界が堅固で、実に安定したものだと思っている。異教徒はこの世界が永遠だと思っているのだ……健全な精神の持ち主と呼ばれるひとたちにとって、世界がどれほどゆるぎないものに映ろうとも、世界はユダヤ教徒にとって、束の間のもの、創造されたものという痕跡を保ちつづけているのである〉p.50

〈世界が創造されたと信じることは同時に、現在の世界のありさまがいついかなるときでも失効可能であると見なすことで、現在の実存の様態を決定性から引き離すことである。それゆえ、ユダヤ教的思考は、現今の世界の土台をつねに疑うという意味で、世界への決定的な内在性から脱出し、その「外部」を指し示す「逃走の哲学」を素描していることになるだろう〉p.51

〈すなわちイスラエルと教会は、世界のうちにありながらも世界に対して異質であり、自らを含んでいるように見える世界をたえず巻き込み、問いに付しているのである……結局のところ、ユダヤ-キリスト教を異教から分けるのは、なんらかの道徳や形而上学である以上に、世界の偶然性と非安全性についての差し迫った感情であり、わが家(chez soi)にいないという不安、そしてそこから抜け出る力である〉p.52

 人に言葉を、生命を

(その言葉を探して)

〈現存の世界への内在とそれがもたらす決定性から距離を取り、そこから脱出する方途を垣間見ることを可能にするユダヤ教的思考そのものによって、まさにユダヤ人はユダヤ教に決定的な仕方で繫縛しているという逆説が生じているのである〉p.54

 他なるもの、未知なるもののもつ魅力

 想像し得ぬものの(聞いたことのない)音楽

〈一九三五年のマイモニデス論で、「世界から抜け出ることの根本的な無能力」と定義された異教は、ある特定の局地的な「場所」への固着として解釈し直され、それに対して、一切の「場所」から自由であるとされるユダヤ教的思考に範を得たレヴィナスの独自の思索が展開されることになる〉p.57

〈『全体性と無限』の用語法に従えば、欲求がおもに身体的・物理的で、その対象によって満たされうるものであるのに対し、自らとはまったく他なるものへと向かう欲望はけっして満たされることがない(むしろ他なるものによって飽くことなく惹起される)ものであると定義されている〉p.69-70

《この不確かさは、動詞の非人称形における三人称の代名詞のようなものとして、誰なのかよくわからない活動の為し手を指し示しているのではなく、いわば為し手をもたない、無名の活動そのものの性格を指し示している。非人称的で無名の、だがしかし打ち消すことのできない存在のこの「消尽(consumation)」、無それ自体の奥底でざわめいている存在の消尽を、われわれは〈ある〉(il y a)という用語で捉えようと思う。〈ある〉とは、人称的な形態を取ることの拒絶において、「存在一般」である》p.75 レヴィナス『実存から実存者へ』

〈「事物は、与えられた世界の部分として一つの内部に関係づけられており、認識の対象であれ日用的対象であれ、そのようなものとして実用性の歯車のうちに組み込まれている。そこでは事物の他性はほとんど浮かび上がることがない」(レヴィナス『実存から実存者へ』)……レヴィナスは、芸術を例に挙げながら、認識ないし行為の主体に準拠することのない事物の他性を記述することを目指す。そして、その過程で浮かび上がる事物の不定形の物質性、世界内の合目的連関との関係で意味を与えられることのない名状しえぬもののうちに〈ある〉が認められるのである〉p.77

 一期一会――出会っているのは他者である

〈レヴィナスによれば、そもそも芸術的営為は、世界内で主体と関係づけられている事物をこの帰属から引き離す機能をもつ……「絵画、彫刻、書物はわれわれの世界に属する対象であるが、それらを通して表象された事物はわれわれの世界から引き離されている」(『実存…』)。このように芸術において実現される事物の外部化、それによって事物が他性をそなえる仕方を、レヴィナスは「異郷性(exotisme)」と呼んでいる〉p.78

《われわれはこうして、現代の絵画や詩の探究を理解する。これらは芸術的現実にその異郷性を保持させ、その現実から、可視的形態を自らに従属させるこの魂を追放し、表象された対象から表現という従属的運命を取り除こうとしているのである》p.79 『実存…』

〈芸術における異郷性の分析によって明らかになったのは、いかなる「内部」とも関係せず意味を与えられることもない物質の他性であり、有意味ないし合目的なものを相互に結びつける趣向性の構造の破綻であった……レヴィナスが記述していたのは現存在の環境世界の「内部」に包摂されることのない他性の出現の契機であった。〈ある〉とはまさに、こうした内部性に穴をうがつことで、世界内に成立している内部/外部の対立を無化するものである〉p.80-81

《〈ある〉がかすめること、それが恐怖である……意識であるとは、〈ある〉から引き離されているということだ。というのも意識の実存が主体性を構成するのであり、意識は実存の主体、すなわちある程度までは存在の主人であり、夜の無名性のうちにあってすでに名前〔名詞〕であるからだ。恐怖とは言わば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動である。それは意識を無意識のなかで鎮静化することによってではなく、意識を非人称的な警戒のうちに、すなわち、レヴィ=ブリュールがその語に与えた意味における融即(participation)のうちに陥れることによってである》p.85-86 『実存…』

〈ふと背後になにかの気配を感じて背筋があわだつその瞬間、われわれの意識を〈ある〉がかすめるのだとレヴィナスは言う。知らぬまに自分がなにかの視線に曝されていたかのような気分に囚われるとき、われわれの意識には〈ある〉がそっと触れている。恐怖とともにこの知られざるなにかに向けられる瞬時の警戒は、判然とした意識から特定の対象に向けられたものではない。不眠の夜においてと同様、恐怖においてもまた、主体の内部と外部を分かつ境界が不分明となり、意識の主体性そのものが融解してしまうのである……「未開」心性を特徴づけるのは矛盾律でも同一律でもなく、論理的には対立する両項が相互に干渉しあう融即なのである〉p.86

《神秘的融即は、ある類へのプラトン的分有とは根本的に区別されるものであるが、そこでは諸項の自己同一性は失われてしまう。両項は、それらの実体性そのものを脱ぎ捨てるのである。ある項の別の項への融即は、一つの属詞を共有することのうちにあるのではない。ある項が他の項なのである》p.88 『実存…』

 書き手に訪れている意思、そこにある〈他者〉を感じとること

「やさしい青空に」訪れているもの

《トーテミズム、あるいはより一般的に、レヴィ=ブリュールがかくも強調した例の融即という概念が素朴に表現しているのは、この超越の未分化状態であり、つまりは〈存在〉への人間の参与である。たしかに、ここで〈存在〉はすでに一つの存在者と同一視されてはいる。しかし、存在者と言っても、この存在者は恐るべきものであり、かつ威光をそなえたものであり、そのうちで〈存在〉の力が光り輝いているのであるから、存在者という性質がそれとして認められることはない。かくして未開人は、世界に存在することは〈存在〉に寄与することであるという事実を経験しているのである》p.92 ミケル・デュフレンヌ「未開心性とハイデガー」

《現存在のうちには、近さへの本質的な傾向がある》p.100 ハイデガー『存在と時間』

〈「ここでア・プリオリ性とは、用具的存在者のそのつどの環境世界的な出会いにおける、(方面としての)空間の先行性を意味する」(「存在と時間」)。それゆえハイデガーにとって、諸科学が対象とするような三次元によって規定される純粋な空間は、配視的に了解された世界内存在の空間性から派生したものにすぎない。「延長せるもの」としての空間は、環境世界において開かれている空間の欠如的様態であり、環境世界の「非世界化(Entweltlichung)」によってはじめて発見されるものなのである〉p.101

 どこでもない場所(物質空間には存在しない)

 しかし布置されて在る

〈(1)意識の「ここ」は現存在の「現=そこ」とは根本的に異なること、(2)現存在がすでに世界を含んでいるのに対し、「ここ」はあらゆる了解、地平、時間に先行すること〉p.101

《デカルト的コギトのもっとも深遠な教えはまさに、思考を実体として、すなわち定位されるなにかとして発見したことにある……思考は瞬時に世界のうちに広がることもあるが、ここに凝集する可能性を保っており、思考は決して〈ここ〉から切り離されない》p.102 『実存…』

〈むしろ「ここ」という場所への定位こそが意識の出来の条件であって、「意識の局在化が主観的なものだというのではなく、この局在化が主体の主体化なのである」〉p.103

〈「一つの土台の上に定位することで、存在によってふさがれた主体は凝集し、立ち上がり、自らをふさぐもの一切の主人となる。主体のここが主体に一つの出発点を与えるのだ。主体はその上に根づく。意識の内容はすべて状態(états)である。主体としての意識の不動性、定着性は、観念論的空間の何らかの座標軸に普遍的に準拠していることに因るのではなく、意識の立ち止まり(stance)、すなわち自分自身にしか準拠しない意識の定位という出来事に因っている。この出来事は定着性一般の起源であり、始まりという概念それ自体の始まりである」(『実存…』)。自分自身にしか準拠することなく、自らとは他なるものを一切含むことのない意識の定位は、後のレヴィナスの用語を用いるなら《同》(le Même)の起源ということになるだろう〉p.104

〈場所は、一つの幾何学的空間であるまえに、ハイデガー的世界の具体的な環境=雰囲気(ambiance)であるまえに、一つの土台である。それゆえ身体とは意識の出来そのものなのだ。いかなる意味でも身体は〈もの〉ではない。それは単に魂が身体のうちに住み着いているというだけでなく、身体の存在が実体的なものの次元ではなく出来事の次元に属しているからである。身体が定位されるのではなく、身体が定位なのだ。身体はあらかじめ与えられている空間のなかに位置づけられるのではない――それは、局所化ということそれ自体による、無名の存在のうちへの侵入である。身体の外的経験を超えたところでキネステーゼの内的経験を強調するのでは、この出来事を説明することはできない〉p.106 『実存…』

〈換言すれば、身体の定位とは、一切の外的なものに関わることのない「内部」の発生であり、いかなる「他なるもの」も包含することのない《同》の成立なのである。そしてまた、この議論が、いかなる内部性にも準拠することがない芸術作品の「異郷性」の分析を通して事物の「他性」が導出されたのと対応していることにも注意する必要がある。《同》と《他》の成り立ちを見据えようとする『実存から実存者へ』の企図は、以上の議論をさらに発展させながら『全体性と無限』で体系化されることとなる〉p.107

 辿り着かれた真実たちがこの世を形作る

《地理学が空間の現象学を可能にする。ある意味で、地理学の具体的空間はわれわれを空間から、無限の空間、幾何学者や天文学者の非人間的空間から解放するのと言える》p.112 エリック・ダルデル『人間と大地』

《風景は一つの支配的な情調(tonalité affective)の周りに統一される。この情調は、一切の純粋な科学的還元には反抗するけれども、完全に根拠のあるものである。風景は人間存在の全体を、《大地》への実存的な結びつきを、あるいはこう言ってよければ、人間の根源的な地理性――人間の現実化の場所、土台(base)、手段としての《大地》――を巻き込む。愛着を覚えるにせよ違和感を覚えるにせよ、いずれにせよ風景は明瞭なものとして現れる。血肉に影響を及ぼす一つの関係の清澄さなのだ》p.113 『人間と大地』

〈レヴィナスにとって環境や歴史はあくまでも根源的な場所の所有に対して二次的なものにすぎなかった。そして現代芸術の異郷性においても身体の定位においても、自らの存在以外の参照項をもたない物質性を経由してはじめて他性の次元が考察の対象となる。すなわちレヴィナスは、人間の観念をすでに含んでしまった地理学的現実を根源的な場所へと還元することから出発して、地理学的現実のうちに含まれることのない人間の他性を考察しようと努めるのである。根源的な場所という環境世界の「手前」は、他性という環境世界の「彼方」に至るための基礎となる。同化されることのない「まったき他者」を導出するためには、まず一切の他性を包含しない《同》が記述されなければならなかったのである〉p.116-117

 死者は他者である(死ぬとは他者になること)

〈他者に対して私の権能を及ぼそうとすれば他者の全面的否定へと向かわざるをえないが、まさにこの否定そのものによって他者の他性は逃れ去ってしまうという逆説的な事態が生じる……「全面的否定の誘惑――全面的否定という企図の無際限さとその不可能性とを見積もりに入れた誘惑――それが顔の現前である。他者と対面して(face-à-face)関係に入ること、それは殺すことができないということである。それはまた言説(discours)という状況でもある」(レヴィナス「存在論は根源的か」)〉p.124

〈翻って「存在論は根源的か」には、「他者との関係はそれゆえ存在論ではない」という言明に続いて次の記述がみられる。「他者とのこの絆(lien)は、他者の表象ではなく、他者への請願に帰着するのであり、そこではなんらかの了解が請願に先立つことはない。われわれはこの絆を宗教(religion)と呼ぶ。言説の本質は祈り(prière)である」〉p.125

 宇宙という秩序(論理)

《顔の絶対的な裸性、絶対的な仕方で防御も覆いも衣服も仮面も欠いたこの顔は、それにもかかわらず、顔に対する私の権能、私の暴力に対立するものであり、絶対的な仕方で、対立そのものであるような対立によって私の権能や暴力に対立するものである。自己を表出する存在、私の正面にある存在は、その表出そのものによって私に否と言う》p.126 レヴィナス「自由と命令」

 心の奥に異郷がある

《定住的実存(l’existence sédentaire)の奥底からノマドとしての記憶が立ちのぼってくる。ノマディズムは定住状態に接近するための一つの方途なのではない。ノマディズムは、場所なき滞在(un séjour sans lieu)という、大地との還元不可能な関係である》p.131 レヴィナス「詩人の目」

〈『デカルト的省察』第30節で意識の本質的契機とされた「自らを超えて思念すること(Mehrmeinung)」に依拠しつつ、レヴィナスは、意識の顕在性のうちに含蓄されている「暗黙的なもの(l’implicite)」に注目する……『実存から実存者へ』の芸術論のなかで、思考がそのうちに迷い込む元基の非人称性として解釈されていた感覚的質は、ここではより広い意味で意識の本質的な受動性をなすものとなる〉p.135

《現象学は、自らの生を生きる具体的人間によって知覚された世界がもつ失効しえない特権性を要求している、と言うことができる。建てること(bâtir)によって描かれる場所(lieu)が幾何学的空間を含むのだと主張するとき――幾何学的空間はなにも含むことができないとされる――ハイデガーはまさにこの『イデーン』のテーゼを繰り返しているのであるp.137 レヴィナス「現象学的“技法„についての省察」

《空間は空間を前提とし、表象された空間は空間のうちへのある種の植えつけ(implantation)を前提としているのだが、この植えつけの方はと言えば、それは空間の投企(projet)としてでしか可能ではない。この見かけ上の同語反復のうちで、本質――存在体の存在――は輝く。空間は空間の経験となる。空間はもはやその啓示から、その真理から分離されることがない。空間はその真理のうちでただ伸長していくというのではなく、むしろそこで成就するのだ。存在が、存在を投企する行為を基礎づけ、行為の現在――その現在性――が過去へと変容する、しかし即座に、対象の存在が、それに対してとられる態度のうちで完成され、存在の先行性があらたに一つの未来のうちに位置づけられる、そうした逆転。人間的振る舞いが、一つの経験の成果としてではなく根源的経験として解釈されるような逆転――このような逆転こそ現象学そのものである。現象学はわれわれを、主体-客体―という範疇の外へ連れ出し、表象の至上性を瓦解させる。主体と客体はこの志向性的生の両極にすぎないのだ》p.138 レヴィナス「表象の瓦解」

〈このように理解された志向性が、次章以降で論じていく『全体性と無限』の享受の議論に理論的モデルを提供していることは強調されてよい。そこで主体における参入と離脱との弁証法は、《同》が「他なるもの」を同化しつつもこの「他なるもの」に依存しつづけるという構造へと組み替えられることになる。表象に基づいた観念論が「自我と非自我、《同》と《他》とのあいだの一致」であるのに対し、志向性は「自我と他なるものの不等性」を意味する。「他者との関係」とも言い換えられる志向性によって、「客観的ではない一つの外部性という観念」がもたらされるのである〉p.139

《「真の生が欠けている」。しかしわれわれは世界内に存在している。形而上学はこの不在(alibi)のうちで生じ、維持される。形而上学は「他所(ailleurs)」、「別の仕方で(autrement)」、「他なるもの(autre)」の方を向いている。実際、思考の歴史のなかでそれがまとったもっとも一般的な形態において、形而上学は、われわれにとって馴染み深い世界――この世界を境界づける未知の大地や、この世界が隠しもつ未知の大地がいかなるものであれ――から、あるいは、われわれが住む「わが家(chez soi)」から出発して見知らぬ自己の外部(hors-de-soi)、彼方(là-bas)へ向かう運動として現れている》p.142 Totalité et infini

 未知への憧れを形而上学という

〈…形而上学的欲望は他者を目指す、と即座に言われるのではなく、それは第一に「帰還(retour)」を望むことのない欲望であり、「われわれが生まれたのではない国」、「一切の自然に対して異邦的な国(étranger à toute nature)」、「われわれの祖国でもなくわれわれが決して移り住むこともないであろう国」への欲望なのだ〉p.143

〈レヴィナスが《同》と《他》の「形而上学的非対称性(une asymétrie métaphysique)」と言うとき、それは《同》が《他》の責任を一方的に負うから非対称的なのではなく、責任を負うべき《他》は《同》から出発することによってでしか導出されえないという点において非対称的なのである〉p.143-144

《世界という「他なるもの」に抗する《自我》の様態(manière)は、世界内でわが家に存在することで滞在し、自己同定する(s’identifier)ことに存する。当初は他なるものであった世界において、《自我》はそれでも土着的(autochtone)である。《自我》とは、この変質の豹変そのものである。《自我》は世界のうちに場所と家(maison)を見いだす……「わが家」とは一個の容器なのではなく、そこで私がなにかをなすことができる場所であり、他なる実在に依存する私が、この依存にもかかわらず、あるいはこの依存のおかげで、自由であるような場所である。歩くだけで、行為する(faire)だけで、一切の事物を捉え、手にするためには十分である。ある意味では、すべてがこの場所のうちにあり、結局のところすべてが私の手の届くところにある……一切はここにあり、一切は私に属している。場所の本源的な掌握(la prise originelle du lieu)とともに、一切があらかじめ掌握され、一切が理解=包摂されている(com-pris)のだ。所有する可能性、すなわち、最初だけ、そして私に対してだけ他なるものにすぎないものの他性そのものを中断する可能性、それが《同》の様態である》p.144-145 TI

〈他なるもの〉へ向かうこと

 それは同化のためというより、無を希求するからではないか

 あるいは、止揚という生命の運動ゆえ

〈「表象されたものとして主体が包含するものは、主体の主体としての〔能動的〕活動を支え、養うものでもある」からであり、そこでは構成されたものが即座に構成の条件に変容するからである。他なるものの否定を介した享受という活動は、この活動そのものによって文字どおり「養われる」。「身体である(Etre corps)とは、一方で身を支える=留まる(se tenir)こと、自己の主人であることであり、他方で大地の上に身を支えること、他なるもののうちに存在することであり、したがって他なるものの身体によってふさがれていることである」〉p.154

《自らの欲求を物質的欲求と見なすことで――すなわち満足することができるかぎりにおいて――自我はそれ以後、自らに不足してはいないものへと向かうことができる。自我は〈物質的なもの〉と〈精神的なもの〉を区別し、《欲望》へと開かれるのである。とはいえ労働はすでに言説を要求するものであり、《同》には還元できない《他》の高さ(hauteur)、《他者》の現前を要求する。自然宗教といったものは存在しない。人間的身体が下方から上方へと立ち上がり、高みに向かう方向〔意味〕(le sens de la hauteur)へと組み込まれることによって、人間のエゴイズムはすでに純粋な自然から抜け出ているからである。高みに向かう方向〔意味〕とは、人間のエゴイズムの経験的な幻想ではなく、その存在論的な生起(la production ontologique)であり、消し去ることのできない証言である。「私はできる」は、この高さから生じるのだ》p.155 TI

〈《同》とはつねにすでに自らの圏域のうちに、この圏域そのものとして存在しているのであり、そこでは《同》によって構成されたものが即座に構成の条件と化すような「跳ね返り」が起こっている。《同》が身を置く場所(lieu)とは、すでに《同》が浸る環境(milieu)でもあるのだ〉p.157

〈レヴィナスは芸術における「異郷性」の機能を論じる文脈で、知覚から感覚へという芸術の運動のなかで「元基の非人称性」があらわになると述べていた。主体からも対象からも乖離した感覚的質のうちに志向が迷い込むところに美的経験の本質を見ていた『実存から実存者へ』の議論は、「元基」という概念を介在させることで、誰のものでもない所有不可能な環境に享受が浸りこんでいるという『全体性と無限』の議論に接続される……「感受性は、基体を欠いた純粋な質、元基と関係づける。感受性とは享受なのだ」〉p.159-160

《享受において質は、なにかの質ではない。私を支える大地の堅さ、私の頭上の空の青さ、風のそよぎ、海の波浪、光の輝きは、ある実体に懸かっているのではない。それらはどこでもないところから到来する。どこでもない所、存在しない「なにか」から到来し、現れるものがなにもないのに現れているというこの事態、そしてまた、私がその源泉を所有することができないのにたえず到来するというこの事態によって、感受性と享受の未来が開かれる》p.162 TI

《人間が世界のうちに身を置くのは、ある私的な領域、わが家から出発して世界にやってきた者としてであり、しかも人間はいつでもわが家のうちに身を退けることができる……人間は世界のうちに乱暴に投げ出され(jeté)、遺棄されて(délaissé)いるのではない。人間は外部にあると同時に内部にあるのであり、ある内密性(intimité)から出発して外部に赴くのである》p.164 TI

《家の根源的な機能とは、建物を建築することによって存在を方向づけ、場所を発見することにあるのではなく、元基の充実を破り、そこにユートピア(utopie)を開くことにある。このユートピアにおいて、「私」はわが家に留まることで自らを集約する。しかし分離によって、私は単にこれらの元基から引き離されたかのように孤立するわけではない。分離派労働(travail)と所有(propriété)を可能にするのである》p.165 TI

〈レヴィナスにとって《同》の領域確定はあくまでも「絶対的に他なるもの」を目指す「形而上学的欲望」を記述するために要請されたものであり、それゆえボルノウが「内面的分解」と呼ぶ事態は、レヴィナスにおいては「無限の観念」に見られるような《同》と《他》の関係を積極的に表明するものなのである〉p.168

《親しさがすでに前提としている内密性は、誰かとの内密性(intimité avec quelqu’un)である。集約=内省の内部性は、すでに人間的なものである世界における一つの孤独である。集約=内省はある迎え入れ(accueil)に関係している》p.168 TI

《存在の統合体のうちに集約=内省の内密性が生起するためには、《他者》(Autrui)の現前が、自らの形態的イメージを貫通するような顔においてのみ啓示されるのではなく。この現前と同時にその撤退(retraite)と不在においても啓示されるのなければならない。この同時性は、弁証法による抽象的な構築物ではなく、慎み深さ(discrétion)の本質そのものである》p.169 TI

《人間がこの大地の上で詩的に住むという意味では、もはや「大地」も「天空」も存在しない。ロケットによって達成されたのはすなわち、この三世紀来ますます一方的かつ決然とした仕方で自然そのものとして集-立され(ge-stellt)ているものの具体化であり、今や普遍的かつ惑星間的な〈用材〉(Bestand)として用立てられているものの具体化である》p.176 ハイデガー《Aufzeichnungen aus derWerkstatt1959in Aus der Erfahrung des Denkens

〈他者〉に対する(絶対的)責任とは何か

〈レヴィナスは定住と彷徨(流謫)とを文明論的な二者択一として考えているのではなく、この二者択一を超えた一切のコンテクストからの解放のうちに人間存在の本質を見て取っている。のちの対談でハイデガーの思想と異教との関係について問われたレヴィナスは、「移住者(émigrant)」とノマドを区別したうえで次のように述べている。「いずれにせよハイデガーは、風景をなすすべてのものに関して非常に優れた感覚をもっています。風景といっても芸術家の画く風景ではなく、人間がそこに根づく場所のことです。ハイデガーの哲学は、移住してきた者(émigré)の哲学ではありません! これから移住していく者(émigrant)の哲学でもないと言ってよいでしょう。私にとって移住者であることとノマドであることとは違います。ノマド以上に根づいた者はおりません。しかし移住する者は完全な意味で人間なのであって、人間の移住は存在の意味を破壊するのでも解体するわけでもないのです」〉p.182

《未開的諸宗教における〈聖なるもの〉の非人称性は、デュルケームにとっては「まだ」非人称的な神であり、いつの日かそこから進歩した諸宗教の神が登場するようなものであったが、この非人称性が描写しているのは、それとは正反対に、神の出現がまったく準備されていないような一つの世界なのである。〈ある〉という観念はわれわれを、神というよりは神の不在に、一切の存在者の不在へと連れていく。未開人たちは絶対的に《啓示》以前、光以前にあるのだ》p.187-188 EE

《どこでもないところから到来するという点で、元基は、われわれが顔という名のもとで描写するものと対立している。顔においてはまさに、ある存在者が人格的に現前するからである。存在の面(face)によって触発されること――そのとき存在全体の厚みは未規定のまま留まり、どこでもないところから私に到来するのだが――それは明日の不確実性へと身をかがめることである。不確定性としての元基の未来は、具体的には、元基の神話的神性(divinité mythique)として生きられる。顔なき神々、話しかけることのできない非人称的な神々は、享受のエゴイズムを縁取る虚無を、元基との親和性のただなかに刻み込む。しかし、享受によって分離が達成されるのはまさにこのようにしてなのだ。異教とは、分離をあかしだて、分離が生起する場であるが、分離した存在はこのような異教の危険を冒さねばならない――これらの神々の死によって、分離した存在が無神論へ、そして真の超越へと至るまで》p.189 TI

 元基――この世の顔をしていないもの

 天才とは、ある生き方のことである

〈元基の底なしの深さは享受によって内部化されたり、把持・了解されることがないために、この不確定性との関係は必然的にある種の崇拝となるほかはないというのである。さきに引いた『実存から実存者へ』の一節で言われていた、未開的諸宗教における「聖なるもの」の非人称性はこの次元に当ると言える。他者の「顔」と対立する元基の「面」(顔なき非人称な神々)は、偶像崇拝的な「異教の永遠の誘惑」(『ハイデガー、ガガーリンとわれわれ』)をつねにはらんでいるのである。しかし《同》の「集約」の可能性が開かれているのは、享受が浸る元基が、もはや引き受けられることのない〈ある〉に縁どられているからだとレヴィナスは考えている。そうでなければ、「私はできる」という《同》の権能は元基の奥底まで延びていき、分離による《同》の凝集は不可能になってしまうだろう。したがって《同》は異教に陥る「危険」にたえず曝されながらその誘惑に屈さず、あくまでも分離されたままでありつづけなければならない〉p.189-190

〈絶対的な《他》に至るための通路として要請される絶対的な《同》は、それゆえ「無神論者」とも呼ばれる。「分離された存在が、そこから分離されている当の《存在》に融即することなく独力で実存のうちに維持されるような完全な分離、、われわれはそれを無神論(athéisme)と呼ぶことができる。分離された存在は、場合によっては、信仰によってこの《存在》に密着することも可能なのだが。融即との断絶はこの可能性のうちに含まれている。ひとは神の外で、わが家で生き、自我でありエゴイズムである。心的なものの次元である魂は分離の達成であり、そもそも無神論者なのだ」TI〉p.190

《無神論者として絶対者に関わることは、〈聖なるもの〉の暴力をぬぐい去った絶対者を迎え入れることである。絶対者の聖潔性(sainteté)、すなわちすなわち絶対者の分離は高さの次元で現前するのだが、そこで無限は、無限に向かう眼を焼くことがない。無限は語る。無限は、自我を不可視の網で捉えてしまうような、立ち向かうことのできない神話的形態を有してはいない。無限はヌミノーゼではない。無限に接近する自我は、無限との接触で無化されることも、自己の外へと運ばれることもない。自我は分離されたまま留まり、自らの「我関せず」(quant à soi)を保持している。無神論者である存在のみが《他》と関わることができ、すでにこの関係から自らを切り離す(s’absoudre)ことができる。超越は、融即による超越者との合一とは区別される。形而上学的関係――無限の観念――は、ヌミノーゼではない本体(noumène)と結びつける。融即のつながりから完全には解放されておらず、知らず知らずのうちに神話のうちに没入している自分を容認している諸実定宗教の信者たちが有する神の観念と、このような本体とは区別される。無限の観念、形而上学的関係は神話なき人間性の始まりである。しかし神話をぬぐい去った信(foi)、一神教的な信は、それ自体が形而上学的な無神論を前提としている。啓示とは言説である。啓示を迎え入れるためには、この対話者の役割に適した存在、すなわち分離された存在が必要なのである。無神論は、真なる神ソレ自体との真の関係を条件づけるのである》p.191 TI

《顔を顔として「見ること」は家に滞在するある種の仕方であり、あるいはそれほど突飛でない言い方をするならば、家政的生(vie économique)のある種の形態である。いかなる人間的関係も、あるいは間人間的関係も、家政の外側では演じられえないだろうし、手ぶらで、家が閉じられたままでは、いかなる顔にも接することはできないだろう。《他者》に開かれた家のうちへの集約――歓待性――は、人間の集約と分離の具体的かつ原初的な事実であり、それは絶対的に超越した《他者》への《欲望》と一致している。選ばれた家(la maison choisie)は、根とは正反対のものである。家が指し示しているのは一つの離脱〔脱拘束性〕(dégagement)であり、家を可能にした彷徨(errance)である。方向とは、定住より少ないものではなく、《他者》との関係ないし形而上学の余剰なのだ》p.210 TI

《…私の自我の「通常の」行使は、到達し触れることのできるすべてを「私のもの」に変形するのだが、このような行使が問いに付される。所有するとは、つねに受け取ることである。聖書において約束の地は決して、ローマ的な意味での「所有物(propriété)」となることがない。そして初穂の時期に農民が思いをめぐらすのは、彼を郷土(terroir)に結びつける恒久的なつながりではなく、アラムの子、一人のさまよい人(errant)であった彼の祖先である》p.212 Une religion d’adultes

《ユダヤ的人間は、風景や町を見つけるまえに人間を見つける。彼は、家のなかで〈わが家〉にいるよりも先に、社会において〈わが家〉にいるのである。彼が世界を理解するのは他者から出発してであって、大地に依存した存在の総体からではない。ある意味で彼は、詩編作者が言うように、この大地の上に追放されているのであり、そして彼は、人間の社会から出発して、大地に一つの意味を見いだすのである》p.213 Une religion d’adultes

 どこでもない場所――エルツェの画のような-―を保持すること

《しかし、分離した存在は自らのエゴイズムのうちに、すなわち自らの孤立の成就そのもののうちに自閉することができる。そして、《他者》の超越を忘却すること――なんら咎を受けることなく、自らの家からあらゆる歓待性を(すなわちあらゆる言語を)締め出すこと、《自我》が自らのうちに自閉することを唯一可能にした超越的関係を自らの家から締め出すこと――のこの可能性は、絶対的な真理を、分離の徹底性を証拠立てている。分離は単に、弁証法的様態において、自らの裏側としての超越に相関的であるわけではない。分離は肯定的な〔措定的な〕出来事として成就するのである。無限との関係は、住居のうちに集約した存在のもう一つの可能性として残り続ける。家の本質にとって、家が《他者》に向かって開かれる可能性は、門扉や窓が閉じられていることと同様に本質的なことなのである》p.215 TI

《《自我》と《他者》のあいだの関係は、形式論理学があらゆる関係のうちに見いだすような構造をそなえていない。この関係における各項は、関係のなかに位置づけられるにもかかわらず、絶対的な〔分離した〕(absolus)ものでありつづけるからである。《他者》との関係とは、形式論理学のこのような転覆が起こりうる唯一の関係である。しかし、そこから、分離を要求する無限の観念が無神論に至るまでに分離を要求すること、無限の観念が忘却されうるほどに深く分離を要求するということが理解される。超越の忘却は、分離した存在において一つの偶発事として生起するわけではない。この忘却の可能性は分離にとって必要不可欠なのだ》p.216 TI

《…私にとって言語は、言葉(parole)が包摂することのない人間の呼びかけにおいて(それは身振りです)、思考をそれ自身の彼方へと運んでいくものです。言葉はこの〔彼方への〕運動の痕跡を、たとえ彼方という語そのもののうちにであれ保持しているのです。自らを示すことのないものについて語ることはできるのでしょうか。たしかに、ハイデガーがそうでありうるように素朴であろうとするならば、答えは否です。しかし、おそらく彼方は〈曖昧さ〉(l’équivoque)のうちで――すなわち謎のうちで――自らを示すのです》p.225 à Jacques Derrida

〈しかし他者はなにを「意味する」のか。それは、世界の内部的意味には還元されえない、ほかならぬこの他者がこの世界のうちに「入り込む(faire une entrée)」という事実性の次元そのものである。他者の公現(épiphanie)は顔(visage)として、さらには世界への到来、「訪問(visitation)」として理解されなければならない。「…《他者》の出現という現象は顔でもあり、あるいはまた(現象の内在性と歴史性のうちへのたえざる入場を示すために)こうも言える。すなわち顔の公現とは訪問である」≪La trace de l’autre≫〉p.229

《顔において顕現する他者は、窓が自分の姿を浮かび上がらせているにもかかわらず窓を開ける者のように、言わば自分自身の造形的本質(sa propre essence plastique)を突破する。形態が他者を顕現させるにもかかわらず、他者の現前は、その当の形態を脱ぎ捨てることに存する。他者の顕現は、顕現がもつ不可避的な麻痺を超えた余剰である。それが〈顔が語る〉という定式が表現していることである。顔の顕現とは最初の言説である。語ること(parler)とは、なによりもまず、このように自らの形態の背後から到来する仕方であり、開かれ(ouverture)における開かれである》p.229-230 La trace de l’autre

《彼は絶対的に〔分離的に〕過ぎ去ってしまった(Il a absolument passé)。痕跡を残すこととして存在すること、それは過ぎ去ること(passer)、出発すること(partir)、自己を絶対化する〔分離する〕こと(s’absoudre)なのである》p.235 La trace de l’autre

 今こそ、可能なかぎり理性であること(他者に対峙して)

《すなわち他者のこうした不在こそが、まさに他者としての他者の現前なのである。他者とは隣人である――しかし、この近さは融合の堕落形態でもなければ、その一段階でもない》p.238 EE

《存在者とは人間であって、そして人間に接近できるのは、人間が隣人としてあるかぎりである。つまり顔としてあるかぎりなのだ》p.238-239 L’ontologie est-elle fondamentale?

《無限は倫理的抵抗のなかで顔として現前する。この倫理的抵抗は私の権能を麻痺させ、峻厳かつ絶対的なものとして、顔の裸性と悲惨さのうちにある無防備な眼の奥底から立ち上がってくる。この悲惨さと飢えの了解こそが《他者》との近さそのものを創設する》p.239 TI

《超越は《他者》とともにしか可能ではありません。私たちは《他者》と絶対的に異なっており、この差異がなんらかの性質に左右されることはありません。超越は私たちと《他者》との具体的諸関係の出発点であると私には思われたのです。残りのすべてはそのうえに接合されるのです》p.241 Liberté et commandement

〈ハイデガーにおける現存在が近さへの本質的な傾向をそなえているのと同様に、主体は、主体であるかぎり、絶対的かつ人間的な意味で近さのうちにあるのだ、というのがレヴィナスの主張である〉p.243-244

《近さは一つの状態(état)、休止(repos)ではなく、まさに不穏(inquiétude)、非場所(non-lieu)であり、安息の場所の外であって、一つの場所に休息する存在がもつ非遍在性の平静をかき乱し、それゆえ、あたかも抱擁のごとく、つねに、まだ近さが足りないという事態なのだ。「決して十分には近くない(jamais assez proche)」、そのような近さは構造として凝固することがない。さもなければ近さは、正義の要求のうちで表象される際に可逆的なものとなり、単なる関係にふたたび陥ってしまう。「ますます近く(de plus en plus proche)」としての近さは、主体となる。近さは私のたえざる不穏としてその最上級(superlatif)に到達して、唯一なもの(unique)――引いては一者(un)――となり、見返りを期待することのない愛におけるように、相互性を忘れる。近さとは、接近する主体である。この主体はそれゆえ一つの関係を構成し、その関係に私は項として関わっているのだが、そこで私は一つの項以上のもの――あるいは以下のもの――である》p.244-245『存在するとは別の仕方で』AE

〈近さとは、主体と隣人が不断に近づく運動そのものであり、一つの「場所」のうえで決して安定することのないたえざる動揺である。そして、この「ますます近く」という仕方で接近することをやめない近さの運動において、〈もっとも近く〉という「最上級」は一人称での「私」となる。『全体性と無限』のなかで、《自我》が絶対的な《他》へと向かうための特権的な出発点であり、《同》と《他》の関係には「形而上学的非対称性」が維持されていると言われていたのと同様、近さにおいても「相互性」は断たれている。近さの「最上級」である「私」は「唯一なもの」と化すのである〉p.245

《エートスとは、滞在地(Aufenthalt)、住む場所(Ort des Wohnens)、を意味する。この語は人間がそのうちで住む開けた領域を名指しているのである。人間の滞在地という開かれ(das Offene)が、人間の本質へと向かってきてかく到来しながら人間の近さ(Nähe)のうちに滞在するものを出現させる。人間の滞在地は、人間が自らの本質において帰属しているものの到着を含み、保持している。そのようなものが、ヘラクレイトスの言葉によればダイモーンすなわち神なのである。それゆえ、ヘラクレイトスの箴言が言うのは次のことである。人間は、人間であるかぎり、神の近さのうちに住む》p.248 M. Heidegger,Brief über den “Humanismus”

  見る側の自省

〈エートスが、人間が神との近さにおいて住むその場所という意味で理解されるならば、エートスの学としての倫理学はこの場所についての根源的な思索であり、ハイデガーの好む語を用いれば、この場所の「所在究明(Erörterung)」であることになるだろう。そして『存在と時間』が論じていたように、「開示態(Erschlossenheit)」として自らの「現=そこ(Da)」を存在する現存在が、この開示態とともにそもそも「真理のうちにある」とすれば、倫理学とは、人間の居場所である「存在の真理」を探求する思索にほかならないということになる。この書簡を端緒として展開されるハイデガーの思想が、「存在の家(Haus des Seins)」である「言葉」と、人間がとりわけ施策を通じて〈住む〉その仕方の解明へと歩を進めていったことはよく知られているし、本書第Ⅲ部でも見たとおりである〉p.248-249

〈「一切の記号体系の構成にも、また、文化やさまざまな場所によって形成される一切の共通平面の構成にも先だって一者(l’un)から他者へと与えられた記号、すなわち「非場所(non-lieu)」から「非場所」へと与えられた記号。しかし、さまざまな明証事の体系の外部にある一つの記号が、超越したままに留まりながら近さのうちに到来するということは、体系的言語(langue)以前の言語(langage)の本質そのものなのである」(E. Levinas, ≪Langage et proximité)……愛撫(caresse)という関係において他者は摑もうとする主体の手からつねに逃れ、接触のまさにその瞬間にすでにその場所を去っている。このような絶えざる逃れ去りの様態が他者の非場所性であるということができる〉p.250-251

〈痕跡は世界の秩序から切り離され超越するもの、絶対的に過ぎ去り「一度も現在になったことのないもの」を指示することで、世界の秩序のなかに時間的な攪乱をもたらす。「近さは記憶可能になった過去の攪乱」であり、「待ち合わせ(rendez-vous)を可能にするような、時計が刻む共通の時間」を狂わせてしまう。このような「時間の炸裂(éclatement du temps)」、主体の時間と隣人の時間との解消不可能なずれが、レヴィナスが「隔時性」と呼ぶ時間の根底にある構造であり、また記号一般にも見いだされるものである。不意に世界に闖入した隣人の痕跡は、「…のため」という指示連関を具現化した記号という用具的存在者として役立つことがなく、それゆえ、主体にとって身近な世界の秩序のなかで自らにふさわしい場所をもつことがないからである〉p.251

(無時間のうちに物語は生起する)

〈私〉の時間と〈他者〉の時間の交錯を〈共時性〉といい

 その交点に物語は生起する

《責任(responsabilité)から出発して捉えられた〈私〉(je)は、〈他者のために〉(pour l’autre)であり、裸出(dénudation)であり、触発への暴露であり、純粋な感受である。〈私〉は自らを定位することも、自らを所有したり承認したりすることもなく、自らを蕩尽し、自らを引き渡し、自らの位置を取り払い、場所を失い(perd sa place)、自らを追放し、自らのうちに遠ざけられる。しかし、あたかも皮膚さえもまだ存在のなかに身を護る一つの仕方であるかのように、〈私〉は傷および侮辱に曝され、非場所のうちで自らを無化し、他者の身代わりにまで至る。自らのうちにあると言えるのは、ただ自らの追放の痕跡のなかにあるものして、である》p.253-254 AE

《主体性――自己同一性の断絶の場所、非場所――はあらゆる受動性よりも受動的な受動性として生起する(se passe)。想起や歴史という表象によっては回収することのできない隔時的過去(passe diachronique)、すなわち現在とは共約不可能な隔時的過去に、引き取られることのない自己の受動性が対応し、応答する》p.254 AE

〈西洋哲学において、意識は、有為転変を経てもなお故郷に帰り着くオデュッセウスのように、「ありとあらゆる冒険を通して、自分自身をふたたび見いだし、我が家に〔自己のうちに〕回帰する」のであり、意識のさまざまな様態は結局のところ自己意識(conscience de soi)、自己同一性(identité)、自立(autonomie)に帰着する。その意味で「ヘーゲルの哲学は、哲学のこの生来のアレルギーの論理的帰結を表している」〉p.257

〈諸存在との関係――これが意識と呼ばれる――において、われわれはこれらの存在が現れる際の数々の射映(silhouette)のばらつきを貫いてそれらを同定する。自己意識において、われわれは、時間的諸相の多様性を貫いて自らを同定する〔自己同一化する〕。あたか、も、意識の姿をまとった主体的生は、存在自身が自らを喪失し、ついで自らをふたたび見いだし、ついには、自らを示し、主題として自らを提示し、真理のうちに自らを曝すことで、自らを所有する(se posséder))ことであるかのようだ〉p.258 AE

《しかし、それゆえ、実体の基底に認められる主体を生気づけているのは、相変わらず自己の奪回(reprise)ないし奪還(reconquête)であり、「対自=自己のために」である。存在すること(essence)はその努力から抜け出すことがないのだ。受肉(incarnation)としての、感受性の主体性は、回帰なき放棄であり、他者のために〔他者のかわりに〕苦しむ身体としての母性(maternité)であり、受動性かつ断念としての身体であり、純粋な〈被ること〉である。たしかに、ここには乗り越えられない両義性がある。すなわち、受肉した自我――血肉をそなえた自我――は、自らの意味作用を喪失し、自らの努力と歓喜のうちで動物的に自己肯定することもありうるのだ……しかしこの両義性は、可傷性(vulnérabilité)そのものの条件、言い換えれば、意味作用としての感受性の条件なのだ。自己満足しているかぎりにおいてのみ――〈自己に巻きつき〉、〈自我である〉かぎりにおいてのみ――他者のための好意〔良き注意〕のうちにある感受性は、〈対他=他者のために〉であり、〈自己に反して〉(malgré soi)であり、非行為であり、自己のための〔対自的な〕意味作用ではない他者のための〔対他的な〕意味作用でありつづけるのだ》p.258-259 AE

〈さまざまな代名動詞が喚起させる対自の構造の「母型」である自己は、「他者のために」という母性であり、レヴィナスが用いる別の表現によれば「同のうちへの他の懐胎」である。それでは母性であり他の懐胎であると比喩的に語られる自己、「描き出すべき大いなる秘密」である自己は、どのように理解すべきだろうか〉p.262

〈『実存から実存者へ』におけるレヴィナスは、意識が一つの「場所」をもつという出来事のうちに意識の出来そのものを見ており、このような純粋な自己準拠である「なにかをふさぐことのない唯一の所有(le seul avoir qui ne soit pas encombrant)」を意識の「条件」と見なしていた……こうした自己と自己自身の「不等性」、「離開した自己同一性(identité en diastase)」は、自己と、それが存在するためにもつはずの「場所」との不一致であり、この両者がなぜ一致に至らないかと言えば、自己という「場所」が身代わりによって他者のための「場所」となるからである。「自己というこの《非場所》のうちに追いやったものすべての身代わりになるほどに、自己のうちで〔即自的に〕自己に追いつめられていること、これがまさに自己のうちにあること〔即自〕であり、「存在することを超えて」自己のうちに潜むことである」。他者の「かわりに(pour)」という身代わりの構造は、他者の「ために(pour)」という自己の非場所性が、他者の「かわりに=場所に(à la place de/au lieu de)」という場所性と同義となることにほかならない〉p.263-264

 生きているのは、考えているのは〈私〉ではない

〈私〉は〈他〉にかぎりなく近接し、無化されている

 あるいは、〈他〉の間主体性が、考えている(生きている)

〈自己の非場所が、「他者のかわりに=他者の場所に身を置く可能性(la possibilité de se mettre à la place de l’autre)」である身代わりによって他者の場所へと転じること――本書の考えでは、この「転義」が『存在するとは別の仕方で』における主体性の分析を貫く根本的な主張であり、「母性」や「人質」――人質はなにかの〈かわりに〉取られるものである――といったさまざまな比喩はいずれもこの主張のために導入されたものである。さらにこの主張から、他者を支える場所としての責任という議論が生じてくる〉p.264

《他者のための責任は《主体》に訪れる偶然的な出来事ではなく、《主体》のうちで《存在すること》(Essence)に先立つものである。自由においても他者のための関与(engagement)はなされたかもしれないが、他者のための責任は、そのような自由を待ち望んだことはない。私はなにもしていない、それなのに私はつねに審問され迫害されてきた。自己性(ipséité)とは、自己同一性という始原(arché)をもたない受動性のうちにあり、自己性とは人質(otage)である。《私》(Je)という語が意味するのは、すべてのもの、すべての人に責任をもつわれここに(me voici)である》p.267 AE

〈「没利害〔内存在からの超脱〕(désintéressement)」という伝統的概念を用いながらもこの著作でレヴィナスが聴き取っているのは、この語のうちにこだましている存在すること(esse)の響きだからである。「他者のための責任」は、主体が「存在すること」に先行する。主体が「ある」ということの手前で、主知は他者に対する責任によって条件づけられているという〉p.267-268

〈創造においては、ある呼び声が存在者を存在せしめ、存在者はこの呼び声に対して「われここに」と応答することによって主体と化す、とレヴィナスは言う。主体とは「…逃げることができない仕方で、何者かであるように呼びかけられた者」であり、この呼び声ないしこの「選び(élection)」から主体を切り離すことはできない。そして「外傷を与える打撃のように直接的な呼び声」に対する応答は、「私に反して(malgré moi)」生起するとも言われる……呼び声が存在者を存在させると言われるとき、この存在者は自分を呼ぶ声によってはじめて存在しはじめるのだから、厳密に言って、まだ存在していないこの存在者に叫び声はまだ届いていないはずである……このパラドクスは呼び声と応答の場面に本質的に属するものとして、「われここに」という表現のもとでレヴィナスが解釈している主体性の根本的な構造をなしているものである〉p.270-271

〈ハイデガーが規定する現存在は世界内存在という根本的な構成を有しており、つねに世界において内存在的に存在している。しかしこのことは、世界という客体のなかに一つの主体として存在することを意味するのではなく、現存在はその「現(Da)」のうちにすでに空間的な広がりを含んだものであって、自身のそのつどの「開かれ」のうちで存在していると言われる〉p.274

〈まず、良心の呼び声のなかで話題になっている事柄とは、呼び声のうちで呼ばれているものであって、すなわち現存在自身である。さきの区別に従うと、世間的自己としてある現存在が、ひとごとでないおのれの自己に向かって呼びかけられているということになる。次に、良心の呼び声のうちでなにが話されているのかというと、良心の呼び声はひとえに現存在をその固有な存在へ向かって呼びかけるのだから、それはなんらかの情報の伝達ではありえない。良心の呼び声には、特定の意味内容を表す音声的な表明が欠けており、それゆえ良心の呼び声は「黙止」の様態で話すのだと言われる〉p.275

〈レヴィナスにおいて、打撃としての呼び声に対する応答が「私に反して」生起するのに対して、ハイデガーにとって、良心の呼び声を聴取し了解することはほかならぬ「良心をもとうとする意志(Gewissen-haben-wollen)」に基づいているのであり、この意志において、現存在に世界そのものを開示する「不安」、良心の呼びかけによって呼び起こされる「負い目ある存在」、および「禁止」の様態で語りかける呼び声が、それぞれ状態性・了解・話という現存在の根源的な開示性として結節する〉p.276

〈「無起源的な応答、他者のための私の責任のうちには、謎めいた仕方で〈一度も聞かれたことのない語ること〉(dire inouï)がある」AE。「われここに」という表現に言及する際に、レヴィナスがサムエルやアブラハムではなくイザヤの形象に依拠しているのは、おそらくイザヤが他の二人とは異なり、自分の名が呼ばれるよりもまえに「呼び声」に「応えて」いるからだろう。レヴィナスが好んで用いる表現を援用するなら、イザヤは、いかなる確信ももつことのないまま、「彼岸から到来する声(voix venant d’une autre rive)」に文字どおり身を捧げている〉p.277

《レヴィナスが行った存在論批判は、プラトン的および新プラトン主義的な〈存在の彼方〉を取り上げ直すことのうちにそのもっとも美しくもっとも完成された表現を見いだしていたが……実のところこの批判もまた、あらゆる存在とあらゆる現前の彼方にある根底的な否定的構造、あらゆる私とあらゆるこのものに先行する彼(ille)、そして、あらゆる〈語られたこと〉の彼方にある〈語ること〉を明るみに出すことしかしていない(しかし、レヴィナスの思想において倫理に力点が置かれていることは――このゼミナールの観点から――なおも問うてみなければならない)》p.279 Giorgio Agamben, Le langage et la mort.

〈「近さのための近さの言語、存在の真理の言語よりも古い言語――おそらくは近さの言語がこの言語を担い、耐え支えている――諸言語の中での最初の言語、問いに先立つ応答、隣人のための責任である。それが、自らの〈他者のために=他者のかわりに〉によって、与えるということの驚異の一切を可能にするのだ」Emmanuel Levinas,≪De l’être à l’autre≫。ツェランの手になる唯一の詩論とされる「子午線」の次の簡潔な言明が、レヴィナスの行論を支えているように思われる。「ともかくも詩は語るものなのです!」Paul Celan,≪Der Meridien≫〉p.283

〈「初歩的で啓示なきコミュニケーション、言説のたどたどしい幼年期であり、例の語る言葉、例の〈言葉か語る〉のうちへの非常に不器用な紛れ込みである。存在の住処のなかに、物乞いが入り込むのである」。≪De l’être à l’autre≫「他者のため」の言語とは、コミュニケーション以前のコミュニケーションと言うべき、言説に先立ち言説のもととなる言語であり、まさに「語ること」である〉p.283

〈存在を秘匿する家であり豊饒な自然の発露でもある言語と、貧者たる他者に贈与そのものとして差し出される手のような言語――「詩は他者の方に向かう」と書くレヴィナスは、ツェランの詩が後者に属するものであり、しかもそれがハイデガーではなくブーバーの思想と親近性をもっていることを強調している。「詩は対話になります、詩はしばしば絶望的な対話です……出会い、注意深い君に向かう声の道――ブーバーの範疇ではないか! 神秘的な〈黒い森〉から威厳をもって降り来たり、、世界と、そして大地と天空のあいだの場所を開示するものとして試作を提示する、ヘルダーリン、トラークル、リルケについてのかくも天才的な注釈よりも、ブーバーの範疇の方が好まれているのだろうか」〉p.284

《この特異な外は、もう一つの風景ではない。芸術における単なる奇異なものを超えて、そして存在者の存在への開けを超えて、詩はさらにもう一歩まえに進む。奇異なもの(l’étrange)とは、異邦人(l’étranger)ないし隣人(le prochain)である。他なる人間よりも奇異なものはないし、異質なものはなく、人間が示されるのはまさにいユートピアの光のなかなのである。一切の根づき、一切の居住の外側である。本来性としての無国籍である!》p.286 De l’être à l’autre

《しかし私はこう思います――この考えはもう皆さんを驚かせることはないでしょう――私が思いますに、かねてより詩の願いに属していたのは、まさにこのようなやり方で、奇異なもののためにも――いや、この語はもはや使うことができません――まさにこのようなやり方で、ある他者のために語ることである、ということです。もしかすると――誰にも分からないことですが――あるまったき他者のために語ること、です》p.286 Der Meridien

〈熱帯地方(die Tropen)を――さらには、まさに回帰線(tropique)を――横断して自分自身に回帰する子午線は、前章で見たレヴィナスの用語に従うなら、他者を経由して自己へと回帰する「転義(trope)」の契機をうちに含んでいる。すなわち、「他者のための一者」、他者のためにあるものとしての一者の発見であり、この再帰は他なる自己との出会いではなく、デリダの用語を借りれば、「他者のような=他者としての私自身、他者のような=他者としての一月二〇日」との出会いである〉p.289

《ツェランがハイデガーを読んだことがあると言うだけでは足りないだろう。ハイデガーの思索の「承認」さえも超えて――たとえそれが留保なき承認であれ――ツェランの詩作(poésie)はその全体がハイデガーの思索(pensée)との一つの対話である,すなわち,本質的にはこの思索においてヘルダーリンの詩作との対話であったものとの一つの対話である,と言うことができると私は思う》p.290 Philippe Lacoue-Labarthe, La poésie comme expérience

〈レヴィナスにおいて他者との近さは、他者との融合や合一に至ることではなく、他者との隔たりを保ったまま他者との「錯綜」のうちに身を置くことであり、レヴィナスにおける「出会いの秘密」とは、前章で論じた表現を用いるなら、「他者のために=他者のかわりに」が「転義」によって「一者」に再帰することにほかならない。ただし、レヴィナスにおける「秘密」は故郷の場所に秘匿されたものではないだろう。これは場所のうちではなくあくまでも人間のうちで――「われわれのあいだで〔ここだけのはなし〕(entre nous)」――保たれる「秘密」であるに違いない〉p.293

 詩とは非場所から届けられるもの

《ツェランが示唆しているのはむしろ、存在と非存在の限界のあいだに住まう様態とは異なる様態のことではないだろうか。ツェランが示唆しているのは、存在するとは別の仕方でという前代未聞の様態としての詩それ自体ではないだろうか》p.294 De l’être à l’autre

《私が私であるとき、私は君である》p.295 Paul Celan, ≪Lob der Ferne≫「遠くをたたえて」(『罌粟と記憶』)

《真の詩人が一つの場所を占めるというのは本当だろうか。真の詩人とは、語の卓越した意味で、自らの場所を失い、まさしく占領をやめる者であり、それゆえ空間の開けそのものではないだろうか。透明とか空虚と言ってもまだ――夜や諸存在の嵩と同様に――この空間の底なし、ないし衝‐天(ex-cellence)を――そこで可能となる天空を、あるいはこのような造語を用いてよいのであれば、天空の「天空性(caelumnité célestité)」を――示してはいない。どのような内部性も、外部性そのもの以上に外的な空気に触れてその核に至るまで引き裂かれ、この底なしあるいは高み――ジャベスによれば「もっとも高い深淵」――のうちに沈んでいく。あたかも、ただの人間的呼吸は、すでに喘ぎにすぎないかのようだ。あたかも、詩的な語ることがこの息切れを克服し、ようやく深々とした呼吸へと、吸気=霊感(inspiration)へと至るかのようだ。この吸気は、万物の閉所からの開放、存在の核分裂――もしくは存在の超越――であり、そこに欠けているのはもはや隣人のみである。ジャベスは言う。「私は言葉でしかない。わたしには顔が必要だ」》p.296 Edmond Jabès aujourd’hui

《世界も場所ももたない自己の開け、ユートピアとしての空間の開けは、壁に囲まれていないということであり、そして、最後まで吸い込んで呼気〔臨終〕に至るまでの吸気とは《他者》の近さであり、この近さは他者のための責任としてでしかありえず、この責任は他者への身代わりとしてでしかありえない》p.299 AE

〈ジャベスにとって「ユダヤである」とは、自らが空虚の苦悩であることを認めることであり、それは同時に、「ユダヤ性」を通じて「ユダヤ性」をたえず問い直すことによって生じる苦悩を引き受けることでもあるだろう。ジャベスにおいて「ユダヤ的条件」が作家の条件と同じなのは(Le livre des questions)、そのどちらもが、安定を知ることのない「非場所」に身を置きながらこの空虚と格闘することにほかならないからである。いずれにせよ、ジャベスにおける「ユダヤ性」の問いが、「一つの答えの場所ではなく、たえず保持された問いの場所」(Henri Raczymow, Qui est Edmond Jabès≫)であることは間違いない〉p.302

《そしておそらく……空間の開けとは、なにかがなにかを覆うことのない外を、保護されていないこと(non-protection)、壁の裏側を、住まいなし(sans-domicile)を、非世界を、住まないことを、危険な吹きさらしを意味している……空間の空虚が、不可視の空気で……知覚されないにもかかわらず私の内部の奥底まで浸透している空気で満たされているということ、この不可視性ないしこの空虚が呼吸されるものであり、恐怖を引き起こすものだということ、私に関わらざるをえないこの不可視性はあらゆる主題化に先立って私を強迫するということ、単なる環境(ambiance)が雰囲気(atmosphère)としてのしかかり、主体はそれに服従し、肺腑までも晒されるということ――これらのことが意味しているのは、存在のうちに足をつけるよりもまえに苦しみ、自らを差し出す主体性である。受動性であり、そのすべてが耐え支えること(supporter)なのだ》p.309 AE

《ありうるかぎりでもっとも長い息――それが精神である。人間とは、吸気(inspiration)にあたっては中断することなく、呼気(expiration)にあたっては戻ることのないような、もっとも長い息が可能な生物ではないだろうか……世界も場所ももたない自己の開け、ユートピアとしての空間の開けは、壁に囲まれていないということであり、そして、最後まで吸い込んで呼気〔臨終〕に至るまでの呼気とは《他者》の近さであり、この近さは他者のための責任としてでしかありえず、この責任は他者への身代わりとしてでしかありえない》p.310 AE

《私なら彼にこう言うでしょう。哲学とは、人間が語る事柄について、そして思考しながら自らに語る事柄について人間が自問することを可能にするものである、と。言葉のリズムや、言葉が指示する一般概念に揺すられたり、酔わされたりすることをやめ、この現実における唯一者の唯一性、すなわち他者の唯一性に身を開くことである、と。言い換えるなら、結局のところ、愛に身を開く、ということです。歌うときとは違って、本当の意味で語るということであり、覚醒することであり、酔いから醒めることであり、単調な繰り言から身を解き放つことです》p.312 De l’utilié desinsomnies

〈一方で具体的空間の自然な「雰囲気」のうちでそれに酔うことなく他者の他性に耳を傾けることと、他方で〈ある〉という他性の侵襲に流されることなくそれを「耐え支えること」――したがってこれがレヴィナスの思想を貫いている二重の要請であり、この点で『存在するとは別の仕方で』の最終部と、最初期のリトアニア語論文とが接続する〉p.313

《人間の自立……を厳密に肯定すること、そして、聖なるもののうちにあるヌミノーゼ的概念を破壊することには、無神論の危険がはらまれている。しかし、この危険は冒されなければならないのである。この危険を通過してはじめて、人間は《超越者》という霊的観念へと高まっていく。神話と熱狂の威光のなかで《創造者》に異を唱え、《創造者》を否定したあとにようやく《創造者》を肯定する、そのような存在を生み出したことが《創造者》の偉大な栄光である。神との分離、無神論から出発して、遠くから神を探し求め、その声に聴従することのできる、そのような存在を創造したことが《創造者》の偉大な栄光なのである……一神教は無神論を乗り越え、それを包括する。しかし、懐疑と、孤独と、犯行の年齢に到達していない者には、一神教は不可能である》p.324 Une religion d’adultes

〈前代未聞の迫害によって惹起された「ユダヤ教の意識そのものの目覚め」は、古来のユダヤ教の伝統に回帰して諸国民に背を向けることを意味するのではなく、むしろ「ユダヤ的ヒューマニズムという欲求」を呼び覚ましたのだとレヴィナスは言う。「ユダヤ的ヒューマニズム」とは、ユダヤ的条件を通して人間そのものの条件を問う姿勢であると考えてよいが、それは同時に西洋的な「普遍性」をユダヤ教のうちに引き受けることでもある〉p.331

《…それは、ユダヤ教にとっては、人間からその隣人へと至る道の途上において、意識〔良心〕の最初の微光が灯るからである。個人とは――孤独な個人とは――自らが圧殺し破壊するすべてのものを考慮することなく成長し、養分や空気や陽光を独占する樹木でないとしたらなんであろうか。自らの本性(nature)と存在が十分に正当化された存在でないとしたらなんであろうか。簒奪者(usurpateur)でないとしたら、個人とはなんであろうか。意識の到来とは――そして精神の最初の輝きでさえ――私の脇に死体が転がっていることの発見でないとしたら、、そして殺人を犯しながら存在していることへの私の恐れでないとしたらなにを意味するのであろうか。他者たちへの注意と、その結果として私を他者たちの一員として考え、私を裁くことの可能性――意識とは正義(justice)である》p.339 Le lieu et l’utopie

《正義なきままの世界のなかで《救済》を口にすることは、魂とは不死の要請ではなく殺人の不可能性であることを忘れることであり、それゆえ、精神とは正義の社会(société juste)の配慮そのものだということを忘れることで羅う。イスラエルを作らなければならないのだ》p.340 Ibid.

《…《聖地》がメシア的《治世》に近づくのは、この土地が一つの国家の形態を取っているからではない。そうではなく、この土地に住む人間たちが政治の誘惑に抵抗することができるからである。アウシュヴィッツの直後に建国を宣言されたこの国家が、預言者たちの教えを自らのものとして引き受けているからである。この国家が献身と犠牲をかき立てるからである……イスラエル国の復活と、その危険かつ純粋な生はもはや、二重に宗教的なその起源から分離されることはない。その起源とはすなわち、国家によって、この国家が自らに与えている世俗的な形態にもかかわらずよみがえりつつある《聖地》である。イスラエルに「昇ること」、それは間違いなくフランスのユダヤ人にとっては、国家を変更することではなく、一つの使命に応答することである。ほかのひとたちは、誓願を立てたり修道院に入ったり布教に出かける。あるいは革命政党に加入する。ユダヤ人たちは《聖地》の呼び声を通じて、彼らの古き書物がもつ新しい真理を聴き取り、そして、教義神学としてではなく、一つの歴史として要約される宗教的運命のうちに入っていく…》p.354-355 L’espace n’est pas à une dimension

《政治的・民族的なカテゴリーに収まることのない真理と運命である。それらは、ほかのさまざまな精神的冒険と同様に――とはいえわれわれの冒険はもっとも古く、もっとも高度なもののうちに含まれるが――フランスへの忠誠を脅かすことはない。十全な意識をもったユダヤ人であること、十全な意識をもったキリスト教徒であること、十全な意識をもった共産主義者であること、これらは、たえず〈《存在》において不安定であること〉(se trouver en porte-à-faux dans l’Etre)である。ムスリムの友よ、六日戦争による憎悪なき私の敵であるあなたがたもそうなのだ! しかし、偉大な近代国家――すなわち人類の僕――は、まさにその国家の市民によって冒されているこのような冒険に、自らの偉大さと、現在の注意と、世界への存在感とを負っているのである》p.355-356 Ibid. 

〈他者に対する唯一的責任を負う「非場所」という倫理性〉p.363

もっと、海を――想起のパサージュ

イルマ・ラクーザ(2009)/新本史斉(2018).もっと、海を.鳥影社    Mehr Meer. Erinnerungspassageen

〈電話ではすぐに要件に切りこんだ、おしゃべりは一切しなかった。おまえは誰よりも美しく私のことを愛してくれる、こんなことを言ったことがあった。誰よりもではなく、誰よりも美しく。私の胸の裡にしまっておいた言葉だ〉p.15

〈雪は降り、溶け、そしてまた降る。あらゆるものの上に、何ら分け隔てなく。垣根も白、牧草地も白。そして世界は弱音器をかけたように静まりかえる〉p.16

〈わたしたちの生が交差することはなかった。かつて、ずっと以前に、夜行列車でキエフからブダペシュトへ向かったことがある。夜明けの薄明の中、窓越しに、わたしは丘という丘すべてに木造りの教会が建っているのを目にした。ウージュホロドで下車することはなかった。国境の町のチョプで長い車両交換があり、それからどこまでも続く平地を抜けて南西へ、ハンガリーの首都へ向かった〉p.24

〈わたしが返事をかえす前に、別れはもう訪れている。先へ、どんどん先へ、枕木の刻むリズムにのって。この「先へ」というやつはどうも変てこで、、満ち足りているわけでもなく、到着を目指しているわけでもなく、むしろ別離の連続となって私の前に立ち現れる〉p.25

〈雪をかぶって柵がたわんでいる。もちろんそう、たわんだ柵。村で見るような。影、黒丸鳥、すべてがそろっている。そしてわたしは何番目かの過去に落ちてゆく。過去以前の過去へ。七つの山と小人たちの彼方へ〉p.26

〈時は円錐形をしている。生は容赦なき先端へ向けて流れてゆく。わたしはそれを始まりと呼ぼう。なせなら群れはすでに待っているのだから。煙は流れる方へ流れるのだから。わたしは理由など問わない〉p.27

〈ラビ・ナハマンは言う、喜びによって心は住処を与えられる、しかし憂鬱によって心は流謫の憂き目にあう。またこうも言う、世界は回転する骰子のようなもの。すべては反対にひっくり返る〉p.31

〈どの言語の中にあるとき、わが家にいると感じますか。生まれた町の感じはどうですか。ホームシックにはならないのですか。書くときにはどんな感じがするのですか。わたしは言葉を家のように感じるということを話す、けれども書くことと叫ぶことが似ていることについては触れないでおく……私は遠方からやって来た、自分がここに属しているのかどうかを試すために〉p.32

〈けれども不意に、わたしはある家に歩み入り、そこには今日のカティンカが座っていて、話し、問い、お肉や焼菓子を勧めてくれる。そしてわたしは、〈いま〉の中に沈んでいく〉p.33

〈鮮やかなオレンジ色は、碧青のモロッコ皿の上のクレメンティーノ。葉っぱのついた蔕をつんと宙に突き出し、小さな掻き傷がある。観ると、観られたものは像へ固まる。それが色と配列とともにゆっくり内へ浸透する、そして静寂を残していく〉p.36

 魂とは素描である、その人の姿、その人の振舞。

〈今日、この日。兎は下生えに身を潜める。母ツグミは注意深く様子をうかがう。凍りつくような寒さ。そして温もりを生み出すべく、線影をつけた思考。イワーノフの魂は明日という日を恐れて震える、なぜなら今日という日に吐き気がするから。彼は木々を見ず、ジレンマばかりを見つめている。ユダヤ人の妻のことをもう愛してはおらず、別の女を愛することもできないでいる。チェーホフが、彼の代わりに状況を解決する、みずからを裁く迅速な弾丸によって。イワーノフは道のない暗い森。そして自身の森を手探りでさまよう愚者。前へ、後ろへ、ぐるぐると、どんな鳥の鳴き声も彼を魅了することはできない。狂気への誘いとなるときを除けば。そして確信がやってくると、そこにとどまり、おしのけられぬまでになると、わたしは囚われの身となり、銃声が炸裂する。是で十分だ。

ふたたび太った母ツグミ、茂みの中で羽を広げている。敏捷なコマドリは白樺の枝間を飛び回り囀っている。霧を透かして幽かに太陽が差し、わすかに透明度が増す。寒さがざわめきを呑み込む。あるいは、ざわめきは動物たちのように身をかがめる。垣根の静けさ。皿の林檎たちの静けさ〉p.37

〈ギュル・ババに雪が降っていた。おひさまが顔をのぞかせた。お話は日々を経て語られ続ける。わたしは子ども用の韻文と短い子どもの歌(デブレッツェンの街の七面鳥の歌)を学んだ。そしてブダペシュトを後にするときには、バラが何か、哀しいメロディーがどのようなものかを知っていた。あのメロディー、歌われ、ジプシーのヴァイオリンで弾かれ、クラリネットで吹かれるメロディーは、以来、一度たりとも、わたしの心から離れたことはない。

 わたしの耳はハンガリー平原の耳。草原のペンタトーンの耳。チャールダーシュとのあの一筋縄ではいかぬリズムの耳。そのリズムはあやまつことなくきみの足どりを狂わせる。きみは少しばかりよろめいて、そして到着を踏み外す。(それが、ハンガリー的性格と呼ばれるのかもしれない)〉p.50

 私の生を促しているものの正体を見究めること(それは〈他者〉なのか?)

 澪の街を泳ぐ巨大な魚

 雫の夢に現れた白い魚

 心は夢を欲しがっている

 そこで光を放っているもの

 絶えざる変容のうちにあるということ

〈カルスト地方では天候が急激に変わる。霧のもやが白く残り、松の黒い輪郭が石灰地の上方に浮かぶ。樫、杜松、針金雀枝ハリエニシダ。赤土。玉石。遠くに点在する集落の教会塔は尖塔ではなく鐘楼。地中海が近い証拠だ。

カルスト台地が尽き、トリエステ湾に向けて急降下するところまで来ると、すぐそこだ。巨大な半円を描いて海がひろがっている。薄青色にきらめく、唯一無二の約束〉p.59

〈わたしは庭に出たいとは思わなかった。藤棚のあるヴェランダまでがせいぜいだった。それよりも行きたかったのは海、いつも海だった〉p.61

〈海辺の町の豹変した姿にわたしは驚愕した。なんと一夜にして爪を剥き、不気味になったことか。なんと人びとは退却を強いられたことか。四天が荒れ狂うとき、対話は途切れる。家は要塞となり、他のすべてはよそものとなる。

 わたしのうちの何かがこの急激な変化に、この突風の独裁に、この為すすべの無さに抗っていた。わたしはきかん気の強い子どもだった〉p.67

 時が加速する

 ぐつぐつと 世界が底のほうから変化しはじめている

 わたしは幾つの脱皮(再生)をくり返しているのだろう

 変転の果てを夢見て

 細部の夢までも

 あらゆる出来事が無時間のうちに生起している

 始原へ

 走馬灯の加速を超えて

 見たことのない空間へ

〈ミシは控えめで、そう、無口で、鋭敏な観察者だった。けれどもいったん話し始めるや、機知、皮肉、辛辣さがさえわたった。今日は誰の命日かわかるかい? 彼の絶望は、突然、姿を見せた、それはあらゆるものの背後に潜んでいた。(ずっとそうだった、五十歳のときにロンドンで自死するまで)〉p.80

〈たがいに似ていない夫婦は死にざまも似ていなかった。ミシは――苦渋と疲労ゆえに――薬物で生に終止符を打ち、クラーラはその二〇年後に癌で死んだ。最期まで彼女はクロスワードパズルを解き、イギリスの推理小説を読んでいた。彼女は自分自身から目を逸らす、生来の才能をもっていた。BBCのアナウンサーとして声だけを世のために使った。感情の点では、自分自身も含め、あらゆるものから一歩距離を置いていた。一生かけて取り分けてきたもの、口を使って貯えてきたものを、彼女はユダヤ人組織に遺贈したのだった〉p.83

〈奇異に響くかもしれないけれど、わたしは慈しまれていると感じていた。陰影に富んだ白につつまれて。ブーンと響くような静けさにつつまれて。梁のどこかで鳩がクルクル鳴いていた。それは特別な場所だった〉p.94-95

《トリエステは決してか鏡を覗きこもうとしなかった、自らの全体像を見ようとしなかった、決して率直に口を開こうとしなかった、真偽がごたまぜになった、にもかかわらず説明されないままの魔法を、半ば大声でみずからに信じこませようとするとき以外は……スキアーヴィ――1945年まで、政治的経済的支配階級によってスロヴェニア人はこう呼ばれていた――を軽蔑する権利を、わがもの顔に振り回す、気違いじみたトリエステ俗物市民の悪意はよく知られるところである。しかし、19世紀のトリエステはどうなっていただろう、どうやって発展できただろう、もし港湾人夫、車大工、アウリシーナ採石場の石工の力がなかったら、セルヴォラの鋳物工場、軍需品倉庫の労働者そしてザウレとサン・ジョバンニの農民の力がなかったら、あの古代貨物集散場を思わせる、急激に集積された富ゆえに神経症に陥った貿易商会の建物で、身を粉にして働いた家事手伝いの女たちの力がなかったならば》p.99 フェルッチオ・フェルケル『5744年の物語』

 ここに永遠がある

 生起する場所が

(純粋経験)

〈本当に自由になったのは、眠りによって忘却へ押し流されたときだけだった。眠りの中では、時の仕切り、境界の仕切りは消えた。「先へ」を思わせるトランクもなかった。わたしはやわらかいものの中に沈みこみ、運び去られるままとなった。そう、眠りは庇護だった。空間からも時間からも解き放たれて〉p.107

〈読んでいるとき、わたしはどこか別の場所にいる。書いているとき、わたしはどこか別の場所にいる。わたしはわたしなのだろうか。それともとうに、ある別のお話の一部になっているのだろうか?〉p.131

〈意識的に決断を下すことができるようになると、わたしは自分の異質性に対して「イエス」と言った。自らを絞めつけ外面を見せかけるより、異質であるほうが良い。だって、異質であることは多くのことなのだから〉p.134

〈この悪癖はバッハの『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集』によって駆逐された。楽譜の判読は運動の進行に変わった。運動は規律正しく力強く、わたしを運んでいった。反抗もなかった、離脱もなかった、バッハだ。以来、バッハから離れることは決してなかった。それはわたしの生の脈動と切り離せないかのようだった〉p.137

 自らが他者である

(私はもはやどこにもない)

 他者であることの愉悦

〈私〉にはたらきかける無限

〈というよりむしろ、わたしは生を舞台演出のようなものと考えていた。その際に自分のことは、他にもいる登場人物の一人、つまり受動的な存在、より高次の恣意に委ねられている存在にとどまらず、想像上の演出家だと考えていた〉p.178

〈いったい何だったのだろう? この背中合わせの至福と興醒めは、天にも昇るほどの歓喜と死ぬほどの幻滅は? 過度の期待に惑わされたとでもいうのか? 楽園はいつもどこか別の場所にあるとでも?

そんなことは知りたくなかった。わたしはいつも、求め、喜び、夢中になり、我を忘れていたかった、まるで分別の無い子どものように……祈ることは償うことである、と告解の授業で言われていた。何を償うのか。わたしの罪を償うのだ〉p.180-181

《しかしここではもう新しい物語が始まっている、ある人間のゆっくりとした再生の物語、ゆっくりとした変容の物語、一つの世界からもう一つの世界へゆっくりと移りゆく物語、新しい、それまではまったく予感していなかった現実との出会いの物語である》p.203 ドストエフスキー『罪と罰』

〈しかしわたしは突然、前代未聞の物事を知る。何よりも前代未聞なのは人間の魂だ。それ以外にはないような深淵で、熱っぽい夢、矛盾、理想の数々で溢れかえっている。ほかならぬ理想こそがとりわけ危険なのだ。特に、あの頭の人、ラスコーリニコフのように、ある人間が頭脳の中で理論を練り上げるときが。ソーニャは心で考える。それに謙虚だ。ラスコーリニコフとソーニャにおいては高慢と謙虚が、自己愛と人間愛が出会う、そして後者は神の愛に境を接している〉p.203-204

〈英国南部のデヴォンシャーにあるダーティントン・ホール。ジャクリーヌ・デュ・プレが名演とはどんなものかを実演した。ブラームスのチェロソナタ第2番ヘ長調を客席が揺れるほどに激しく弾いた。弦にあてて奏でるその前に、弓で空気を切り裂く赤髪の狂乱する女。野性的、それでいて繊細。それは響いた。そして歌った。

 学ぶこと、わたしはそれを、ジャクリーヌが見せてくれた理想への、厳密かつ困難なる接近の試みとして理解した。練習、そして技術、そしてまた練習。なお辿り着けぬものが先へ駆り立てる。それが快感に満ちた状態であったのか、快感を断念することであったのかはわからない。いずれにせよ、性急であってはうまくいかなかった。音楽は求めれば与えられるものではなかった、その場の熱狂でやってくるものではなかった。それは小さな歩みの積み重ね、繊細極まりない仕上げを要求してきた。わたしたちは足を引きずりながら音楽のあとを追い続けたのだ〉p.213

《行きなさい、さあ、さあ、と鳥が言った。人間たちは/あまりに多くの真実には耐えられないのです……わたしたちは揺れる樹木の上空を/葉むらに注ぐ光の中を移動する/下界の湿原のうちに/猟犬と雄猪の鳴き声を聞く/以前と同じ型に従いながら/星辰の下で和解している……きみでないものに達するには/きみがいない道を行かねばならぬ。/きみが知らぬものが、きみの知る唯一のもの。/きみの持つものは、きみの持たぬもの。/きみのいる場所は、きみのいない場所……もしや問題なのは勝利ではなく/敗北でもないのかもしれぬ。我らにとって大切なのは試みのみ。/あとは我らのなし得るところにあらず》p.214-215 T.S.エリオット『四つの四重奏』

〈このことを語っているのが詩篇の142篇で、マルティン・ブーバー訳ではこうなる。「わたしの内でわたしの霊が弱るとき/あなたこそがわたしの道を知る者……あなたはわたしの救い/生の地におけるわたしの分」。

 しだいに一つにつながってくるものがあった。わたし自身と、古の聖書の時代のほかなる存在。わたしたちは旧約聖書を読んだ、それは避難、迫害、戦闘、しかしまた神の摂理に満ちていた。信頼しなさい、神はそこにいる〉p.220

〈彼はわたしの飢えを(わたしの探究を)見ていてくれた。彼は言った、一番大切なのは自分自身の内面世界を持ち続けることだと〉p.222

《苦痛の限界でやめてはいけない……言葉もう一つ、先へ進みなさい……空の中に復活祭の花をつかみなさい》p.222 マリー=ルイーゼ・カシュニッツ

〈たおやかな、しかし、きっぱりとした音。音色はちっちゃな真珠の粒が転がるように響き渡った。小さく立体的な形象、くっきりした輪郭、軽やかだ。曖昧なところ、暈されたところ、ペダルを使った余韻は一切ない。その旋律は浮遊し、スタッカート和音はまるで小さなボールさながらだ。しかし、そのしなやかさの背後で、そこここに、深淵めいたものが顔をのぞかせる。この落差がモーツァルトだ〉p.225

〈現在のただ中にあること。それが助けとなる。見放された気分の渦に巻きこまれることに抗うのだ。たとえ、「わたし」が油断ならない審級のままであるとしても……いったいどんな力が――こちらへと、あちらへと――わたしを動かしているのか、どこでわたしは失われてしまったのか? どんな記憶が残っているのか?〉p.238

〈しかし、今は暗闇の中、転換の前の緊張が支配していた。事実の逆説的転覆を前にした緊張。死があったところに、永遠の生がある〉p.241

〈そこに美しいアリスが漂っているのが見える、水草のなす垣根のただ中に、口が、顎がずれている。病の名は「溶解」だった。薬の効かない病気だった。庭が彼女を突き落としたのだった〉p.255

〈わたしたちは足下に不動の地面を踏んでいることがなお信じられぬかのように、両眼をこすった。葦の群生する汽水域を行く無言の滑走は、出生以前の記憶を呼び覚ました。ともかくもわたしにはそう思われた〉p.259

〈「世界は」とブーバーはラビ・ナハマンの言葉を伝えていた、「回転する骰子のようなものですべては戻ってくる、人間は天使となり天使は人間となり、頭は足となり足は頭となり、そんなふうに万物は回り変容し、これはあれあれはこれに、もっとも上のものはもっとも下に、もっとも下のものはもっとも上になる。というのも、根において万物は一つであり、事物の変化と再来のうちに救済は含まれているのだから」〉p.267-268

〈覚醒体験のことを考えているのなら、ノー。〈真実の口〉は音を立てて閉じはしなかった、わたしには改心の光線は当たらなかった。でも、自分は帰属しているという感情、わたしはかつてここに、そもそもこの世に存在していたという感覚を持った。わたしはここを知っているという感覚は大きかった〉p.272-273

《ブルッフのヴァイオリン協奏曲を聞いてみて、第2楽章よ》p.278

〈彼らは世界を広くのみならず深くとらえた。あらゆる大きな問いを底の底まで究明した。デデクは「底」という言葉を強調した。そして危険を顧みなかった(イムレ・ケルテースは書いている。「わたしたちは死ななければならないのだから大胆に思考するほうがよい、いや、わたしたちはそうすべく義務づけられているのだ」)〉p.287

〈わたしは背を向け、サン=ジャック通りをサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会へ急ぐ。小さな教会が公園の中に、樹々に隠れるように建っている。ノートルダムの斜め向かいだ……ロマネスク様式の後陣、優美な柱列、聖画壁、枝付き燭台を備えた、蜜蠟と香煙が芳しい隠れ家。ここでは、東方の儀式を保持するシリアとレバノンのキリスト教徒、メルキト派が礼拝を行っている。わたしは聖人たちの厳しい顔を見上げる。蝋燭に火を灯す。耳を澄ます。ここはわたしが夢見ていた以上に東方。わたしの部屋はここだ〉p.302-303

〈典礼は波のようで、司祭や助祭の髭のように、立ち昇る香煙のように、拝礼、歌唱、連禱のように波打っている。動いているもののうちにこそ陶酔はある。この時間の暗黙の合意だ。それは続く……教化? いや違う、呼び覚ましだ。これは聖なる劇場だ。わが家ロシアの温もりと、高邁なる遠方憧憬との混淆なのだ(最後に辿り着くべきは、愛する神)〉p.305

〈終わることを望んでいる者はいない。もっと、そしてもっと、もう少しだけもっと。音楽がすべてを満たすよう、夜ははからってくれる。わたしたちはもういない、いるとしても、音楽の一部にすぎない。そんなふうに、わたしたちの愛は音楽の中で始まる〉p.309

〈赤に白十字のパスポートを手に入れるや、わたしはプラハ行き学生ツアーを予約する。カフカへ、ゴーレムへ、スメタナのヴルタヴァへ。まったく未知の国の中へ〉p.314

〈「地球は回転し、暗闇へ向かう、聞く耳をもたず、ペテンにかけられて」、ヴェンツローヴァの言葉だ。そしてこう続く、「残されたのは、謎と、耐えることと、パンと、ワインだけ」

 六時、数機の飛行機が着陸態勢に入る。幾重もの雲の絨毯の彼方には、満月。とにかく待つことヴァルテ・ヌーア。待つことヴァルテ〉p.320

〈オムスク、ノヴォシビルスク、ウラジオストクの文字が見える。わたしは地名を見ると熱くなったり冷たくなったりする、遠方への憧れにとらえられもすれば、それ以上に強烈な憂愁にとらわれもする、自身の生からの亡命を強いられるような気分になる。いつもこの引き裂かれる思い。あるいはこう言ってみようか――死して成れ。出立への衝動が喪失への不安と対をなしている。いまだ旅足りぬ、ということか。それで先へいけるか試しているのか〉p.326-327

〈おはよう、プーシキン・プレイヤッド、こんばんは、書簡、格言、悲歌、献詩。バラトィンスキーはこの友人の輪の中の一人に過ぎない、その中でもっとも陰鬱な星。けれども、それが夜空に引くメランコリックな尾に、わたしは東方の三博士のようについていく(存在は何のためにあるのか? 地上世界の形象は変わることなく現象する/わたしたちはそれらをよく知っている。古きものの再来のみが/未来の懐において待っている)〉p.335

〈リヒテルのバッハは、まさにこの世ならぬ場所から聞こえてくるかのようだ。「宇宙的」とバラトィンスキーなら言うところだろう。主観ならぬ、客観的法則が統べる場所から届けられるもの。呼吸がゆったりと、心臓の鼓動がゆっくりとしてくる……それは自然な、おのずからあるような平静さから流れ出してくる。まさにバッハの音楽(より大いなる神の栄光のために)にふさわしく〉p.336-337

〈「これがロシアなのです――粗暴でありながら志操高く、飲んだくれでアナーキーでありながら詩心に溢れているのです」

 別の言葉で言うなら、ここでは皆、頭がどうかしている、しかしそれだけではない。ロシア人のことは弁証法的にのみ理解することができる。そしてアレクセイはわかっている、なぜ、自分が「とはいえ」や「しかし」をこれほど頻繁に口にするかを〉p.339-340

〈重荷は担う人の肩にのしかかる。レーナは担い、つねに新たな荷を背負いこみ続けた……レーナは全力を出し尽くし、ついには重病がストップをかけた。すると彼女が急に貧しくなった〉p.350-351

〈レニングラードはもはやこの世界の一部ではなくなり、現実と虚構の間を漂っているようだ。もろもろの問題も重みを失い、痛みのないままに集団的高揚の空間を揺れている。すべてがスウィングしている、きみもそれにかっさらわれるといい。いかなる大胆な企ても、始める前から成功している〉p.356

〈チェロを抱えたスラーヴァはどこ? リヒテルが演奏する、スラーヴァはいない。前回、ストラスブールで会ったとき、力を集中するようにとのアドヴァイスをくれた。細い10本の光より、太い1本の光の方が素晴らしいと〉p.363-364

〈この退廃的な西側の個人主義! 対して、ロシアの「わたしたち感覚」はみずからの優位を誇る。わたしはそれを友人たちの間で連帯として体験する。自由闊達な付き合い、無関心などありえない。きみが病気になる、ともう、みんながやってくる。手を差し伸べるスピードの記録更新だ〉p.364

《濡れたつるつるの大通りが、まさに90度の角をなして濡れた大通りと交差した。交差点には巡査が立っていた……そしてまさに同じ家々がそびえ、同じ灰色の人の流れが通過して行き、同じ緑黄色の霧がよどんでいた。そこをいくつもの顔が密集して通り過ぎていった。歩道はささやき、ずるずる音を立てている。オーバーシューズですり潰されている。勝ち誇ったようにブルジョワの鼻が一人闊歩する。鼻が大勢通り過ぎてゆく。鷲鼻、鴨鼻、兎鼻、緑っぽい鼻、白い鼻。ここではいかなる鼻の不在もまた流れてゆく……無限に延びている大通りの無限があり、無限に交差する幻影の無限がある。全ペテルブルグが、N乗された大通りの無限なのである。ペテルブルグの向こうには何もない》p.365 アンドレイ・ベールイ『ペテルブルグ』

〈わたしたちはとどまることなく先へ進んだ、ガタガタ揺れるバスで森の中へ。そこには――ユーラの秘密情報だ――東方正教会の女子修道院が隠れるように建っていた。さほど古い建物ではなく、教会の木材は木の匂いがした。教会内陣は香煙と蜜蠟の香りがしていた。黒い鳥のように尼僧たちが薄闇の中を掠め過ぎ、蝋燭を灯した。晩方の礼拝が始まった。こんなふうに人間は時間、空間の外に、自由の中に落ちてゆくのだろうか? ここに不正、虚偽はなかった。ユーラがきっぱりと言う。この場所を「恐れることなかれ」と命名しようと。わたしは考えた。奴らは本当に何一つわたしたちに危害を加えることができないのだと。この汚れのない歌には。

まるで泥沼から抜け出してきたかのようだった。澄んだ、光に満ちた高みへ。呼吸は落ち着き、両足は大地を踏んだ。そして心にはただ一つの望み。善きことを為せ〉p.366-367

〈礼拝堂の丸屋根(トルコブルー)、絹のカフタン(絣の文様)、絨毯の、香辛料の市場。黒いミルク。明るい穂をつけた葦。塩砂漠。国境、密輸ルートはフェイドアウトさせよう。しかし黒い衣をまとった女たちは消したりしない。トルクメニスタンの色彩豊かな衣装をまとった女たち。

 何かが呼んでいる、呼んでいる、もうずっと以前から。絹の道。シルクロード。マルコ・ポーロが子どものファンタジーに住みついたのか〉p.376

〈眼に飛びこんでくるものは、混乱させるほどに豊かだ。そして、どこかで会ったことがあるように思うこともある。私が追っているのは、夢、それとも記憶? 憧れてやまぬ好奇心、それとも太古の呼び声? わたしは追う。異質なものと思い、同時に、馴染みのものと思う……しかし、わたしは別なる存在に挑戦しようとは思わない、ただただわたしの毛孔を開いていたい。わたしの感覚と思考空間を広げたい。幸福はそこにこそある(手を差しのばす幸福)〉p.381

《忘れること――何一つ忘れてはいない記憶の中で、忘却に寄り添うこと》p.391 ブランショ

〈ほら、わたしは子どもに言う、コンパスカード/風の薔薇があるでしょう。それが行き先を教えてくれるはず。眼をしっかり見開いて、信じなさい〉p.395

新実存主義

マルクス・ガブリエル(2020).新実存主義.岩波新書

〈かりにマクベスが存在したとしても、あくまで想像の産物としていたにすぎず、その意味で、現実に存在するといえるものではない〉p.15             

〈新実存主義とは、「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である。ふつう「心」という看板でひとくくりにされている現象は、明らかに物理的なものも現実には存在しないものも幅広く含む、ひとつのスペクトル上に位置づけられると考えるのだ。では、なぜ「心」という雑多な概念にさまざまな現象が包摂されるのだろうか。その理由は、いずれの現象も、純粋に物理的な世界や動物界のほかのメンバーから、人間が自分を区別しようとする試みに由来していることにある。そうした試みのなかで、心をもつ生き物というわれわれの自画像は形づくられてきたのだ。人間以外のものが存在するとはどういうことかについて、同じように多様な説明を踏まえながら〉p.16

〈世界は、あらゆるものを包含する一個の対象領域でも、あらゆることがらを包含する一個の事実領域でもなく、私の言い方では「あらゆる意味の場からなる意味の場」として理解すべきである。ここでいう「意味の場」(field of sense: FOS)とは、対象領域を表す私の言い方だ……宇宙はさまざまなFOSからなる開いた系のなかに位置を占めるのだ。だが、すべてを包含するFOSはない。FOSの存在論から導かれるこの帰結を、私は「無世界観」と呼んでいる。「世界は存在しない」(Gabriel 2015b)というフレーズはそれを要約したものだ。新実存主義の考えでは、心は自然の秩序(宇宙)にも世界にも属さない……それでも心的語彙には、それを取りまとめる不変の統一構造がある。この構造を私は「精神ガイスト」と呼ぶ。精神は、雑多で、多様な変化をみせる心的語彙の背景にある不変なものを説明するテクニカルな概念だ〉p.19

〈しかし、形而上学的自然主義や唯物論は、どこでもないところからの眺めがわれわれに可能である(そういうものを想定することができる)という前提に立っているように見える。というのも、議論の対象である物理的なもの全体のなかで自身が占める場所について、正統な主張のできる位置にいないにもかかわらず、万物について云々してみせるからである〉p.35

〈マーチャーズは、意識をもつ心を、意識をもたない基本的な物質のレベルにまで還元することはできないが、それを自然の秩序に統合することは可能だという……過去100年にわたって多くの論者がそうしたように、マーチャーズも量子力学のさまざまな解釈に着目する……そこには、意識をもった、あるいは意識の萌芽を宿した、新たな不思議な組織をつかさどる自然法則が含まれるかもしれないと考えるわけだ〉p.52-53

 統合から逃れよう、抵抗しようとするのが、心ではないだろうか?

 それは、つねに可能性を広げ、無限を希求する何かである。

〈近著『心と宇宙』でトマス・ネーゲルは、プラトン、シェリング、ヘーゲルの系譜にみずからを連ねている。宇宙における心の位置について、彼らは目的論による説明を全面的に展開したが、ネーゲルが同書で提示したのはその簡易版である……弱いかたちの人間原理によれば、われわれのような科学的観測者が存在するという事実から、そもそも宇宙は思考が及ばないものであることが言える。思考は宇宙それ自体から生まれ、宇宙をつかさどる法則にどうにかして適応したいからだ。心というものを、人間の心や理性では原理的に理解しえない法則によって支配されているかのように描くのは、根拠のない懐疑論のような感じがする。しかし、理性が実在すること、理性は理性の外部にある原理(たとえば進化生物学が発見した原理)に還元できないことを説得的に論じたあと、ネーゲルはいきなり結論に飛びつく。いわく、われわれには新たな未来型の科学が必要だ。宇宙には宇宙のことを理解する知的生命体を生みだす傾向があるという、弱いかたちの人間原理を尊重する科学が〉p.54-55

 宇宙は自分のことを理解しようとしているのだろうか。

 無限を希求するとは何か?

〈心というものにかんしては、現われと実在の区別、言葉の表層的な使用とその本質的な指示の働き――ふつうの話者には隠れて見えないかもしれない――の区別は、ある地点で成り立たなくなると多くの論者が指摘してきたデネットのように唯物論者を自認する者たちであっても、意識にかんして、現われと実在の区別が成り立たないことを彼らなりのやり方で示している。意識の場合、何らかのレベルで、現われが実在なのだ〉p.59

〈社会と歴史と政治の領域は、その全体が虚構の物語をつむぐわれわれの能力にもとづいている。そしてこの能力こそ、18世紀のカントの「視霊者の夢」(Kant 1992)に始まる、「精神」の哲学の伝統で中心的位置を占めてきたものだ。この伝統の考え方――そこにはヘーゲル、マルクス、ニーチェが属し、デネットなど唯物論の衣をまとった哲学者にも受け継がれている――によれば、精神は自然種ではない。心的語彙のもとに包摂される現象に対してわれわれがもつ関係は、自然現象に対するわれわれの関係と大きく異なるから、というのがその理由である〉p.61-62

〈肝心なのは、精神は一個の自然種でも、複数の自然種がかたちづくる複雑な構造体でもなく、「精神」の現象を指摘するのに用いられる具体的記述を離れては存在すらしない、何ものかであるという点である……哲学の存在そのものが、精神とかたく結ばれているのだ。哲学は精神的なものなのである〉p.62-63

〈心のありようの絶えざるうつろいは、人間がみずからの行為を大きな文脈で理解しようとしている事実を物語っている。そしてその文脈はふつう、創造しうる限りでもっとも大きなもの、すなわちひとつの全体としての世界だと人間が信じるものである〉p.66

〈精神は、行為を説明する文脈で援用される説明構造である。行為主体である人間が行うことの一部は、その行為が歴史的に変転していく人間観に照らしてなされるものであるという事実を十分に踏まえることで、はじめて説明される〉p.67

〈行為主体としての自分を誤解して、人間であることは動物種のひとつであることと同じであり、われわれはその動物種のメンバーにすぎないと間違って信じ込むならば、行為主体のあり方はたちまち変化してしまう〉p.68

 分たれざるもののひとりとして

 みずからの無限を希求するもののひとりとして存在する

〈文学、宗教、哲学、科学、法律、告解の慣行、政治などの歴史から受け継がれた心的語彙には、形式的な核があるだけだ。話者や文化のあらゆる違いを超えて、人間の心というものを特徴づける統一的な素朴心理学など存在しないのである。新実存主義の考えでは、この形式的な核は人間を理解するという活動そのものにある……この形式的な核こそが、既知のあらゆる生命体とわれわれとを分かつのだ〉p.69-70

〈現象が生起するとされるもっとも大きな枠組みは、自然の秩序ではない……何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象、われわれが心のなかで起きるその経験を記録してきた現象が、自然のなかにその等価物を見つけることで、あますところなく理論的に統一できるなどと期待すべきではない――〉p.70-71

〈実際、進化理論の用語やそこで実質的に妥当とされる推論を心的語彙に統合すると、その副作用として精神のレベルで変化が生じてしまう〉p.72

〈われわれは自分自身を作り変えるわけだが、そうした作り変えによって、われわれは自分のなかに宿る真の可能性の実現にどれほど近づくのだろうか。それとも遠ざかるのだろうか。「ありのままの自分になる」という言葉は、そうした真のアイデンティティへと進んでいくことを意味している(そしてまた要求している)ように見える。ものが完全に発展した姿がそのものの「真理」だというのがヘーゲルの見方だが、この真理概念はそうした確かな終点を前提しているようだ〉p.88-89 チャールズ・テイラー

 自己(精神)の共有性

 私が思考しているのではない

 思考している〈他者〉と共に在ること

〈つまりこういうことだ。宇宙は、われわれが完全に把握するのは無理かもしれないが、(おそらく)はっきりした輪郭をもっている。しかし人間の文化は、その特異なあり方ゆえに、そうしたものではありえない。いまの文化に限界があるとしても、それを超えた先にまで分化は必ず進んでいける。逆説的な言い方をすれば、われわれのように自分自身を解釈する動物の世界は、その性質上、限界を定めることができないということだ。宇宙と同じように、実在についても輪郭がはっきりしていると考えるのは、われわれ自身から目をそむけること、みずからを激しく誤解することを意味するのである〉p.90-91

 自然が表現しているもの

 キラキラは、物質としてのみずからの、無限への希求(呼応の在りか)

〈心の文法は自然の文法と同じではないということだ〉p.97 ジョスラン・ブノワ

〈すなわち、心とは――あるいは少なくとも「精神」とは――思考の営み以外の実質をもたないということだ。何らかの活動に関わることを抜きにして精神はない〉p.98-99

《行為が「精神的」なものであるためには、行為が思考の発露としてなされたものである必要はない。思考そのものは行為ではない。行為自体が精神的なものなのだ》p.100

 自由が、心である

〈「精神的」なものには、そのもの自体であることも、そうでないあり方をすることもできる能力がある。ところが精神的ではないもの――「自然」なもの――は、ただそのもの自体であるしかない。その意味で、精神的なものは、存在論とつねに本質的にへだたっている。精神的なものが〝そのもの自体〟に完全に帰着することは決してないのだ〉p.103

〈ヘーゲルはカントを非難した。カントは自己意識をもつ存在を〝生きた存在としてではなく、たんに思考するものとして自分をとらえる存在〟と見做している、といって責めたのだ……カントの定義によれば、無限の知性は対象の根源的直感、「すなわち、直観の客体の現実存在さえも与えることのできる直観」、「根源的存在者にのみ帰せられる直観」をもつ。したがって、〝「私」を考える人は、自分が感性的条件に依存していると考える〟という思想は、自己意識をもつ存在だから抱くわけではない〉p.115-116アンドレ―ア・ケルン

〈自己意識を、べつの何か――つまり「動物種のひとつ」――の存在を前提することではじめて完全に説明される能力と見るとしたら、それは誤った見方だとヘーゲルは結論する。自己意識をそうした前提に依存する意識と見るのは誤解だと考えるのである〉p.117

〈アリストテレスは、彼のいう「魂」に着目し、三種類の形相によって区別した。「魂」とは、掛け値なしに生きているものの形相である、というのが彼の定義だ……アリストテレスの「魂」の観念は生命形相の観念であり……植物的生の形相、動物的生の形相、理性的生の形相である〉p.122-123

〈脳がなければ心的活動はない。しかし、だからといって心脳同一説が支持されるわけではない。たんに、人間の心的活動に必要な条件の一部が、自然の過程――自然種の観点から考えるのがもっともふさわしい過程――と同一視できるという考えを裏づけてくれるだけである〉p.136 マルクス・ガブリエル

〈哲学的志向のある一部の科学者は、形而上学のレベルでは、現在の科学的知識を自然主義的に解釈することに反対しており、現代版の本格的なプラトニズム、スピノザ主義、モナドロジー、ヒンドゥー教的一元論に共鳴するような見方さえ述べている。科学を重んじるということは、科学者を重んじるということでもある。(アインシュタイン、シュレーディンガー、ハイゼンベルクなど)もっとも成功をおさめた自然科学者の一部は、現在の理論哲学における物理主義や自然主義の主流派とまったく相容れないかたちで科学の形而上学を解釈しているが、この事実は、そうした主流派にとってあまり都合のいい話ではない〉p.137-138

 言葉とは、氷山の一角である。

 その言葉の纏う数多の思念、できごと、躊躇い、超越。

 纏うものがつくり上げる心。

〈私が「無世界観」と呼ぶ考え方によれば、一個の全体としての実在などというものはない。自然科学が研究する意味の場としての宇宙もまた、おそらくひとつのまとまりではない〉p.138

〈新実存主義は、心の哲学の基礎を再考する枠組みを提供する。ひとたび基礎が整えば、もっと具体的な問題についての判断がつくはずだ。つまり、大きな一個の課題としての心脳問題はありえないことになる。問題があるとすればそれは、同じかたちすらもつとはかぎらない多様な問題なのだ〉p.139-140

〈新実存主義の新しさは、実存主義の伝統の共通項を、現代の形而上学と心の哲学の問題に適用することにある。私の考えでは、その共通項とは、テイラーがいうように、「われわれがみずからを決定する動物であることは逃れようのない事実である」という思想にほかならない〉p.143

〈スタンリー・カヴェルがいみじくも述べたように、「自分が人間であることを否定しようと思うことほど、人間らしいことはないのだ」(Cavell 1979:109)〉p.147

霊性の哲学

若松英輔(2015).霊性の哲学.角川選書

〈学問においても真に革新的な境域が拓かれるときには、学者の実存的かつ主体的な経験が求められるというのです。個において生起したことが、深い思索を経て、他者に開かれてゆくところに叡知が宿るというのです〉p.17

《宗教は人の霊性をつかさどるものにして、人と神(宇宙)との関係を明らかにするものなれば、政治法律のごとく人と人との関係を直接に論究せず。宗教もし愛国を論ずれば、神に対する義務としてこれを論ずるのみ》p.18 内村鑑三『伝道の精神』

〈先に触れた村岡典嗣の師は、波多野精一(18771950)という哲学者ですが、彼は同時にキリスト教・プロテスタントの信仰者でもありました。彼には代表作として『宗教哲学』と題する著作があります。そこで彼は、「宗教哲学は飽くまでも宗教的体験の理論的回顧、それの反省的自己理解でなければならぬ」、あるいは「宗教において自我は現実世界を超えてはるかに高き実在との関係に入る」と語り、内村のいう霊的体験こそ、宗教哲学の根柢になくてはならないと語ったのでした〉p.19

〈神を、あるいは神なる「霊」を語るものだけが霊性を生きるのではありません。霊性は万人に等しく宿っている自己を超えでて、真に他者と交わることの源泉となる働きです……彼(谺雄二)にとって「霊性」とは無私と同義でした。さらに晩年の彼は、霊性という言葉の代わりに「いのち」あるいは「いのちの証」という表現を用いたのです〉p.20

《宗教心の奥底に輝ける不思議の光は霊なり。その血は愛なり。それが霊の生命なり。それは大なる如来と衆生の霊とによりて互に血を通わせり》p.24 山崎弁栄『人生の帰趣』

〈人間は、どんな状況にあっても内なる聖性が損なわれることはないと弁栄はいうのです〉p.27

 深く、ただ深く、どこまでも、この心身の耐えうるまで

〈人間の霊性は如来の慈悲によって育まれる……ヨーロッパには「聖ベルナールのヴィジョン」と題される画題があります。そこにはマリアから注がれる母乳をベルナルドゥスが受ける、という光景が描かれている。こうした事実は、時代、文化あるいは宗教の違いを超えた人間と超越者、あるいは超越と共振する霊性の経験があることを示しています〉p.28-29

〈ベルナルドゥスと弁栄における母性的霊性論には、別稿をもって論じるべき重要な問題が潜んでいます。二人が論じる超越者の姿はともに、断罪する一者でなく、共に苦しむ者であり、共に困難を生き抜こうとする同伴者です〉p.29

 超越を生きる、分かたれざるもののうちに

《その時ひとは見ずして見る。そしてその時こそ本当に見るのである。なぜなら光り自体を見るのであるから。それまで見て来た全てのものはただ光り輝くものであって、光りではなかった》p.33 プロティノス

《かれはじつに美なり愛なり、われらが霊性はこれを愛慕してますます高遠に導かる。彼は最も遠きに在りて、しかも最も邇くして、つねにわれらを向上せしむ。かれを葵望し愛慕するは奥底の霊性より衝動する力なり。霊性が如来を愛するは同性相吸引する自然の勢力なり。他人より「かれを忘るるなかれ」と命ぜられて初めて動く力にあらず、自分が忘れんと欲するもあたわざる霊的の衝動なり、それが如来を葵仰して慕わしさ恋しさの近似がたき情けなり》p.35 山崎弁栄『宗祖の皮髄』

《この肉体我の奥底に仏性という霊性が伏蔵して、この霊性開発する時は即ち宇宙の目的と合致し、宇宙の大霊と自己の小霊は霊性開く時に始めて全く一致して、大霊と合致す》p.40 『人生の帰趣』

〈正統を継ぐ者とは、迷える時代の「異端者」として顕われるというのです〉p.41

〈彼にとって死は、存在の消滅ではなく、新たに生まれることだったのです。また彼にとって彼方の世界は、人間が死後にのみ行くところではない。今、ここで現成するものにほかならなかったのです〉p.44

〈ここで「見る」とは肉眼で見ることではありません。心眼でふれることです。「見る」とはもともと不可視なものにふれることを意味しました。肉眼で見ることはできないが、霊においてふれるもの、それは弁栄の考える「光」です。彼は「霊光」と記すこともあります〉p.44

〈井筒俊彦は、最晩年に行った司馬遼太郎との対談で、唐代の長安に留学していた空海は、ネストリウス派のキリスト教である景教にふれていた可能性がある、また当時の長安はいわば霊性と宗教のメッカで、空海はプロティノスの思想、新プラトン主義にすらふれていただろうと指摘しています。つまり、真言密教のなかには、キリスト教、あるいは新プラトン主義の霊性が流れ込んでいると思わせるものがあるというのです〉p.47

〈十二世紀にスペイン・コルドバを中心に活躍したこの神秘哲学者は、弁栄が大霊と呼ぶものを「存在」と呼びました。イブン・アラビーと同時代人でシリアを中心に活動したスフラワルディーはそれを「光」と呼びました……般若心経にある「色即是空 空即是色」がそれにあたります。「空」は絶対者、「色」は人間を含むすべての存在者です〉p.48

《この法は、人々の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず。証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし》p.52『正法眼蔵』

〈人間という小さな存在の手のなかにもあるが、無限でもある。語り得ない何ものかでありながら、世界に遍在している〉p.53

《如来はどこに在すかと云うに、如来在さざるところなく如来は絶対無限である。我々は如来の愛子である。我らの霊性は如来の中に投帰没入して、亡くしてしまうのではない。我ら個人の霊性を通じて如来を見る時、絶対無限の如来を知見することが出来る。絶対なる如来は一個の霊性の中に溶け入らんとしておる》p.53『無対光』

〈人間が絶対を求めるよりもいっそう強く、絶対が私たちを求めている。「溶け入る」というのは霊性を目覚めさせることであり、救うということです……如来の方こそ、私たちの救いを切望している。そうしてその招きを拒むことができようか〉p.54

〈宗教とは本来、固定した事実ではなく、人間が大いなるものを求めて止まない状態を意味しています……宗教とは単に語るものではなく、人間によって生きられたとき、はじめていのちを帯びる出来事だといえます……霊性とは、人間の困難に立ち会い、苦しみ、因果の世界にあって永遠を求めずにはいられない生の衝動だというのです〉p.55

〈大拙がいう「霊」は超越と人間の接点と置き換えてよい。より精確にいえば「超越」が自らを分有したもの、といえます……「性」とは生命の働きということですから、霊性とは形而上学的超越とつながる、いのちの根源的な働きであるといえる……あるいは「霊」は「彼方」、すなわち実在の次元、といえるかもしれません。彼方性というと奇妙に聞こえますが、霊性には私たちが暮らすこの世界に深く根を下ろしながら、しかし、それを超えて彼方を志向する働きがあります〉p.58

 弔うとは対話である

〈「読む」営みが真に行われるとき、私たちは、単に見える文字を超えて、見えない言葉を介して人と会うことができる。目に見える文字を通路に、見えない「言葉」で先人と対話する。それが儒学の伝統を深く流れる「読む」経験だったというのです〉p.67

〈それは意味を伴って私たちの現前に迫りくる、命名し難き、うごめく意味の塊です。それはときに言語であり、色でもあり、音、香り、かたち、あるいは律動でもある。絵を見るとき、私たちはそこに色や線を見る。しかし同時に言語化以前の、無形の意味も感じている。井筒は、このうごめく意味的実在をコトバと呼び、そこを基点に存在の根源へと垂線を描くように思索を繰り広げます〉p.67-68

〈ここで「信ずる」と語られていることは、理性を捨て、妄信的になることを意味しません。「信ずる」行為のなかにはいつも理性の働きが躍動しています。むしろ、信じることによって理性はよりよく働く。別な言い方をすれば、理性の働きをどこまでも高めようとすることが「信じる」ことだといえる。また、「信は天啓だといってよい」との一節は、信は人間が努力して作り上げるものではなく、何ものかから与えられるものであることを示しています〉p.81

《しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界に比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうではなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でも亡くしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです》p.85-86 鈴木大拙『仏教の大意』

 分たれざるもの、の霊性、その直接性、触れえないもの

〈神愛と神智が統合され「霊性」になる。神愛と神智という二つの働きは霊性という一なるものの二つの側面だというのです。霊性というとき、常に神愛と神智がそこに生きていると思って読んでほしい、というのです。また、「霊」と「神」は同義であり、「神」を感受する働きが霊性であり、この力によって人は世界の実相を認識する、というのです〉p.94

《霊性的自覚の人は、それ故に、「神慮」に叶った人です。神慮とは仏教的にいうと、因果です……〔神慮を見出した状態とは〕自らの内に自らならざるもの、自らよりも大にして深く遠いものを見つけたという自覚からくる安心です、無畏心です》p.95 『仏教の大意』

〈他者とは誰か、他者とはどういう存在であるのか、これはどこまでも問うべき、ある意味では答えのない大きな問題です。しかし、他者はいるのか、ということは問うべき問題ではない。なぜなら歴然たる事実だからです……眼前に他者がいるのと同様に浄土の実在を感じることができた人々がいた。自分もまたその一人だ、と柳はいうのです。柳にとって浄土は、絶対美の世界であり、絶対平和の世界です。絶対平和と浄土は同じことを示す異なる表現に過ぎません〉p.108

〈同じことを語ったのは内村鑑三です……内村の非戦論が他の非戦論と根本的に異なるのは、平和の実現は、人間の努力の彼方に起こるというよりも、彼方からの働きを招くところに起こると信じていることです〉p.109

〈そしてもう一つ、ファシズムは考えることを奪います。ファシズムに対して私たちが最初に成し得る抵抗は、内なる美に目覚め、一人で考えることです。そして隣人と対話することです〉p.110

《「悲」とは含みの多い言葉である。二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈みでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈みに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえある。基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、‘Lady of Sorrows’ の言葉を用いた。「悲しみの女」の義である》p.114 柳宗悦『南無阿弥陀仏』

〈柳はここで見えない涙があることを私たちに教えてくれています。悲しい者は皆涙を流しているとは限らない。悲しみが極まるとき、涙は涸れ、人の頬ではなく、こころを伝う。そうした無数の不可視な涙はついに無名の陶工によって生み出され、「美」の化身として新生する。そこには人知を離れた働き、「秘事」が生きている〉p.115

《芸術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。芸術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである》p.116 柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」

《美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。意識するとしないとにかかわらず、体験するとしないとにかかわらず、背中合わせになっていると思います。そしてあまり近代的な合理主義では、悲しみも美もすくいとれないです》p.119 石牟礼道子『花の億土へ』

《私は立証し得ずとも尚自存するが如き宗教を要求する。聖者は「死すとも尚生きる」生命をこそ信じた。論証によって始めて知解し得る真理に私は最後の愛を贈ることは出来ぬ、否、証明しうるが如き真理がここにあるなら、私はそれを宗教的真理とは認めまい。「浄心鏡」と呼ばれた中世の古書は次のように書いた。「知り得ぬ神のほかに、あり得る神はない」と。エックハルトによれば或師は告げている「若しも私が理解し得る神を持ち得るなら、私は彼を神とは認めまい」と》p.123 柳宗悦『即如の種々なる理解道』

《至上の真理はそれ自ら神秘である。それは論理の力によって近づく事は出来ぬ。是非の判断を許さぬからである。定義せらるる内容、実証を待つが如き真理、明白にし尽くされた思想の如きは尚幼稚な思考の痕跡に過ぎぬ》p.128 栁宗悦『即如の種々なる理解道』

《神はわれらすべてを聖者たらしめ得たもうのである。神自らの自由なる愛によってわれらの最も自由なる人格を。かくして十字架の聖ヨハネは言う「所詮はこの愛のために造られたのだ」と》p.132 吉満義彦「文学者と哲学者と聖者」

〈何かについて詳しくなることと、何かに出会うことは、根本的に違うと吉満はいう。さまざまな現象の奥にある「普遍的原理」の領域に生きること、そこからその時代を見つめ、そこに参与すること、それが哲学者の使命であると彼は信じている〉p.136

〈霊とは、私たち人間のなかにあって、人間を人間たらしめている働きです……霊とは存在を底から支える根源的な働きであるとともに、他者に、自然に、そして超越に開かれている扉です……常にそういう「霊の眼」で世界を見ているのが詩人である、リルケはそういう人だったのだ、というわけです〉p.137

 死者は傍らに、永遠にあり。

《詩は語り愛は黙す》p.140 吉満義彦『詩と愛と実存』

〈常に何ものかからの問いをわが身に引き受けながら生きる……「生存を呼吸」する。こういう手ごたえのある表現は、実際に「呼吸」していない人間には書くことができない……真剣に自分に向かって文章を書くとは、自分はそう生きるということを、自分に向かって約束するということなのです……同時に自分が書いている言葉を不可視な存在が見ている。吉満にとって、それは天使でした〉p.145

《『方法序説』で人々はデカルトの数学的分析的方法を学ぶのではなく、つまり「方法の論理」を学ぶのではなく、方法を求めそれを生活する理性の自己告白に言わば「方法の倫理」を学ばねばならない……哲学するということは予め与えられた論理や他人の論理によって考えることではなく、事物について自分自身の確固たる判断を下す自主的な知性の営みである》p.146-147 吉満義彦『哲学者の神』

《私は自ら親しき者を失って、この者が永久に消去されたとはいかにしても考え得られなかった。否な、その者ひとたび見えざる世界にうつされて以来、私には見えざる世界の実在がいよいよ具体的に確証されたごとく感ずる。もっとも抽象的観念的に思われたであろうものが最も具体的に最も実在的に思われてきた。見えざる実在の秩序を信ずることとその存在を具体的に感ずることとは自ら別である。私は親しき者を失いし多くの人々とともに、失われしものによって最も多くを与えられる所以を今感謝の念をもって告白し、このまとまらぬ感想をとどめたいと思う》p.151 吉満義彦「実在するもの」

《天使はわれらの間にある(Angels are among us)これを看過して一切を自然法則をもって説かんとするは罪である》p.153 ジョン・ヘリー・ニューマン「実在するもの」吉満義彦訳

ユング 魂の現実性

 河合俊雄(1998).ユング 魂の現実性.岩波現代文庫

〈魂Seele, Psycheというのは、ユングにとって個人が所有している自分の心のようなものではない。むしろesse in anima(魂における存在、魂の内の存在)ということが言われるように、逆に魂の内に自分が住んでいるのであって、魂とはそこに自分の住んでいる世界のようなものである。このニュアンスのときには圧倒的にPsycheが用いられる〉p.275

〈元型Archetypusとはある行動をしたりイメージを生みだしたりするためのアプリオリに与えられた可能性のことであり、個人的に習得されたものでなくて無意識に先在している普遍的な型である〉p.276

〈夢やヴィジョンなどは個人の経験や記憶に必ずしも基づいていないし、時には自分の伝統にも基づいていないこともあり、それは人類に普遍的な無意識に存在する元型によるものと考えられている〉p.276

〈ユングは抑圧や忘却によって形成されてきていて、個人の経験や記憶に遡ることのできる個人的無意識に対して、個人的な経験を超えている集合的無意識kollektives Unbewußteを提唱した……集合的無意識の内容が元型である〉p.277

〈ユングが外的な社会に内的な集合的無意識を対応させているように、集合的無意識は自分を包む世界のようなものである。さらには集合的無意識は、外から自分を圧倒してくる力を持っていて、それゆえに自分から区別された他者である。また他者と言っても、集合的無意識は自我意識にとっての対象ではなくて、逆に集合的無意識が主体で、自我がその対象となる視点の転換をもたらす〉p.277

〈集合的無意識の典型的な現れは、社会に対する顔である「ペルソナ」、自我の生きてこなかった面で同性の顔で現れてくる「影」(Schatten)、異性像としてのアニマ・アニムス、意識の中心ではなくてこころ全体の中心としての「自己」(Selbst)のイメージである〉p.277

〈つまりユングにおける無意識は個人の過去における抑圧されたものにとどまらず、個人を越えたいわゆる「集合的無意識」なのである〉p.5

 自己はどこにもない

 経験とは再生である

〈自己実現とは、文字どおり自分自身になることであり、何か違ったものになるのではなくて、はじめからそうであるものになることなのである〉p.6

〈しかし個々のものを深めるからこそ、逆に常に自己実現している同じものが見えてくると思われる〉p.6-7

《子どもたちは両親に属しているのではなく、また両親から生まれてきたようにみえるだけです……若い世代は根源から生を始めねばならず、絶対に必要な場合にのみ過去の重荷を背負うことができるのです》p.12 ユング

〈…ユングの母親は人間の次元を超えた世界、ユングの言葉で言うならば元型的な世界のことをどこか知っていたと思われる。この夢でユングが最後に目覚めるときに母親が登場するのも興味深い。つまり母親は元型的な世界に迷い込んだユングにとって、覚醒時の生活、現実生活への唯一の接点なのである〉p.16

〈全体性というユングの個性化は個人の出来事を超えた、宇宙の出来事なのである〉p.18

〈それゆえにファルスは異界の側、意識や自我でない向こう側、無意識の側に属する……ファルスが目を持っていて、ファルスが人喰いであることは、向こう側、無意識の側が主体となっていることを示していると考えられる……後にユングは、目が輝いている蛇の夢に対して、無意識の持つ光、意識性について言及している。そしてユングがこれを大地での一種の葬式であると述べているように、これはユングが異界の存在に食われるイニシエーションであったと考えられるのである〉p.19-20

〈〈私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか〉……ユングにとっては、ユングという「私」が主体でもあるし、石も「私」ということのできる主体なのである〉p.23

〈ユングが最晩年になって著した最後の大著『結合の神秘』において、錬金術における「一なる世界」(unus mundus)という概念が重要になる。これは全体性となった人間が世界との結合を遂げることであるけれども、一なる世界は「根源的な差異のない世界や存在の統一性」とか、「創造の第一日における潜在的な世界」とか言われている(『結合の神秘Ⅱ』GGW14/, §325, 414)。ユングの石との体験には、この一なる世界の思想が感じられるのである〉p.25

 脱創造、創造以前の潜在的世界を想起すること

〈伝統的な直接の道すじを通らずに個々人の心に入ってくる原始的な心の構成要素……人類に遍在するいわゆる元型の存在……それより大切なのは、ユングが魂のリアリティーをどのようの感じていたかということと、ユングがどのような魂の概念を生きていたかということなのである〉p.32

〈人形とか石は、自我とそれとは区別された祖霊、魂のようなものと言えよう。ここではユングはそれの現実性を完全に生きており、またそれは祖霊や魂とも呼べないほど具体的でリアルなものになっている〉p.34

《神経症の本当の原因は今日にある。なぜならば神経症は現在に存在するから。神経症は決して過去に由来していつまでもひっかかっている無価値なもの(caput mortuum)ではなくて、日々維持され、いやいわば日々新たに創造されるのである。そして今日において神経症は「治癒される」のであって、しかし昨日ではないのである。(「心理療法の現在の状況」GW10, §363)》p.41

 神経症、隣人愛

〈そうすると、「体験しそして知らなくちゃ」というユングには、神との合体や、食べる食べられる関係についても、、儀式でない形が必要であったのではなかろうか。その形を探すことこそ、それに見合った論理を見つけることこそユングの課題であったように思われる〉p.58-59

〈周知のようにカントはイデア的世界であるヌーメノンと現象界であるファイノメノンを分ける。このように世界をいわば層構造でみようとするのは意識の下に無意識を仮定する深層心理学にも認められるパラダイムである。また元型を仮定しつつ、扱うことのでき、現象になるのはそのイメージだけであるとするユングの元型に対する考え方も、カント哲学に類似していると言えようp.60-61

〈…第二人格はそれだけで存在するのではなくて、それはいわば第一人格の光が生み出す幻影なのである〉p.62

 すべてを肯定する、そこに光を見出す、あるいは理性をあてる

〈だから『自伝』のなかでユング自身が述べているように、霊媒現象とのかかわりは第二人格についての関心として理解すべきなのである〉p.69

〈しかしながら魂の生み出すファンタジーが第一の原因であるので、これが時系列的に後に来ず、時には時間関係が逆になることがある。これがいわゆる共時的できごとなのである。その意味では必ずしも共時性ということで疑似科学的に捉える必要はなくて、それは魂の生み出すファンタジー、魂の生み出す現実性の極限の形に過ぎないのである……しかし全人格というのは、後のユングの思想の発展を見ればわかるように、狭い意味での人格を超えていくということにも留意する必要があろう〉p.71

〈意味を理解するだけでは不十分で、妄想やイメージの現実性を感じることができてこそ治療がはじまるのである。また後で述べるように、元型という考え方は、まさにもうそうにいたるまでのファンタジーやイメージの現実性を捉えているのである〉p.75

〈このように意識的な思考や行動を妨げるという形で現れてきて、意識から独立している感情や観念の複合体をユングはコンプレックスと名づけたのである〉p.79

〈コンプレックスは自律性を持っていて、自我のコントロールに従わない。コンプレックスは自我の中心性を疑問に付すのである。だからこの意味では誰かがあるコンプレックスを持っているというよりも、ユングの言うように「コンプレックスが誰かを持っている、支配している」という表現の方が適切なのである。さらにユングは、自我も一つのコンプレックスであるにすぎないとして(『心理学的タイプ論』GW6, §810)、自我の特権的な地位を奪う。つまり自我は様々なコンプレックスと並んで存在していて、理論的には他のコンプレックスが自我にとって代わることが可能なのである。だからこそユングは自我を「自我コンプレックス」(Ichkomplex)としばしば呼ぶのである〉p.80

〈あれほども無意識の世界に入り込んでいきながら、意識と無意識の両方の世界に支点を持つのが重要であることを常に強調していた立場〉p.86

〈たしかにフロイトからすれば宗教は性的なことに還元されるかもしれないけれども、これは性か宗教かという問題ではなくて、何を究極の存在として仮定し、何を実体化するかという問題なのである。だから本当の心理学は、ユングがフロイトにおける性を象徴として見抜いていったように、実体化されたものを見抜いていく作業を必要としていると考えられる〉p.93

〈しかしながら実体化することなしに、いわば勘違いすることなしに心理学は可能なのであろうかという疑問もある……心理学は避けられない実体化と、それを見通していくことを繰り返していく運動なのである〉p.94

 読み方は思考を形づくり、思考は生き方を形づくる

〈連想や背後の思想を考えないということは、水平的に横滑りしてそのイメージから離れていくことを避けて、どこまでもそのイメージにとどまって深く入っていこうということなのである。そのためにはイメージをそのまま取るのではなくて、それの意味を見抜いていったりすることも必要になる。しかしながらイメージを現象学的に受け止めることは、個々のイメージ、ハイデガーの用語で言うならばJeweiligheit(その都度のもの)を大切にする姿勢につながるのである〉p.97

〈無意識は言語として構造化されているといみじくもラカンが言ったように〉p.98

〈ユングのパラダイムは、「イメージは魂である」とまで言ったように、イメージであり、象徴である〉p.99

〈「それは、私にとって個人的なこころの下に先験的に存在している集合的な心の最初のほのめかしであった」と『自伝』で述べているように、この夢をいわゆる集合的無意識の概念に関係づけた……つまり魂は個人の経験した記憶から成り立っているだけではなくて、ローマ時代から石器時代へと、経験したはずのない遠い過去にまで広がっていって、それどころか最後は「動物のたましいの活動と境を接して」いたのである〉p.101

 再会、そしてアミーバーの心

〈ユングにおける集合的無意識の考え方は、常に個人を越えた人格の存在を感じていたユングにとって極めて自然なことなのである〉p.102

〈あえて元型という言葉をユングが用いるのは、それがイメージのリアリティー、魂の現実性を表しており、またそれによってイメージに関するコミットのし方が全く異なってくるからである……元型ということでユングが表そうとしたのは、人間の主観を越えた自律的な魂の現実性なのである……つまりユングにとっては、いわゆる現実的に具体的に存在するものの存在が疑えないのと同じように、空想やイメージも真に存在するものなのである〉p.108-109

〈自分の主観的な受け止め方や患者に対する思いやりから出発するのではなくて、個人を越えた魂の現実性から出発するところに元型の理論の本当の意味があると言えよう。だから厳密に言えば集合的無意識を個人的無意識の下にある主体の深みとしてみなすことも適切でないと言えよう。ユングが集合的無意識を「自分の心的な非-自我(私)」と呼んでいるように(『転移の心理学』GW16, §470)、集合的無意識とはその意味では主体の深みではなくて他者なのである。それでこそ第二人格というユングの体験に沿ってゆくのである〉p.110

〈ユングの元型理論はこの主観主義的な見方をもう一度転覆して、主観の深みではなくてむしろ主観から独立した魂の現実性、言うならば意識に独立で意識にとっての他者である無意識に出会ったところに意義があると言えよう〉p.111

〈さらにユングは、単に自分の神話が何かを問うているのではなくて、自分がその中で生きている神話が何かを問うている〉p.113

〈犠牲として流された血は生命を生みだすのである……もしもユングが考えるように犠牲としてささげられる人は同時に犠牲を捧げる人でもあるとすると、犠牲として捧げられた血は、ユングの分け与えられている甘いぶどうの汁として、人々のところに戻ってきているのかもしれない〉p.121

〈何人かについては、この人のせいで地震が起こったに違いないという奇妙な確信を起こさせるほどであった。ユングが集合的無意識ということを言うように、深いところで悩み苦闘していればいるほど、そのような符合は生じやすいのかもしれない〉p.122

 なぜ自分の意思の通りにならないことが心地よいのか?

 再生の度に、個を超える

 再生とは、未知にまみえること(他者とは、未知なる何かである)

〈角笛を吹く狩人は動物を犠牲に捧げると同時に、自らも犠牲に捧げる者である。そして自らを犠牲に捧げることによって再生してくるのである〉p.126

〈フィレモンやその他の像は、それらの人格をユングが作りだしているのではなくて、自分自身の生命を持つのだということを実感させた……一人の女性が自分の心の中から自分と衝突するという事実にユングは大いに興味をそそられこの女性は原始的な意味での「魂」であるとみなして、アニマと名づけた〉p.127

〈ここで無意識と冥界をほとんど等置したように、ユングは無意識を神話的な死者の国とも対応すると述べている。ユングの魂が消失して死者の国を訪れ、その死者たちがユングのもとに現れた結果が『死者への七つの語らい』なのである〉p.129

〈プレロマとは充満を意味し、グノーシスの世界観では究極の聖なる世界である〉p.130

〈神が充満や、善として特性を持って規定されてしまうと、何も特性も持たず、また全ての特性でもある存在そのものに至らないのが問題なのである。逆に言うとユングはプレロマから見て、アプラクサスなどを通しつつ、キリスト教的な神を苦労して位置付けているとも言えよう〉p.131

〈意識の中心としての自我ではなくて、無意識を含むこころ全体の中心としての自己〉p.135

〈普遍論争をタイプ論的に捉えているところで、ユングは観念の実在に基づく実在論の立場をesse in intellectu(知性における存在)、観念の実在を否定し、個々の物から出発しようとする唯名論の立場をesse in re(物における存在)とする。前者にはふれることのできる現実、後者には精神が欠けているとしたあとで、観念と物は人間の魂の中で出会うとユングは言う。そして現実は物の客観的な行動によっても、観念的な定式によっても与えられるものではなくて、心理学的な過程によって、esse in anima(魂の中の存在)によってできるとされるのである。「魂は日々現実性を作り出す。私はこの活動をファンタジーという表現でしか名づけることができない」(GW6, §73)〉p.141

〈心理学はどこまでも心理学的な事実、ファンタジーを扱うのであり、それ以上に遡れないのである……われわれの持っている魂が現実を作りだすのではなくて、むしろわれわれは魂の中にいるのである。これはハイデガーが「世界=内=存在」と言ったのと同じような意味で、人間からはじまるのではなく、存在から、魂からはじまるのである〉p.142

 魂とは何か? ――遍在する、何ものかの意思

〈無意識から生じてくる出来事を個人的な人間関係に還元しない、魂をクライエントと治療者の間にある第三のものとして考えるという姿勢に個人を超えた集合的無意識の考え方が認められるのが大切なのである。そうでないと集合的無意識も客観的データから導き出されたものになってしまう〉p.146-147

〈後戻りするのではなくて、ユングは先に進もうとする。治療者の解釈による介入で止めてしまうのでなくて、無意識の過程を見守ろうとする態度を持っている。ユングにおいて印象的なのは、無意識的なものに対する信頼感である〉p.147

〈ユングはこころを閉じられた一つの全体系として捉えていて、しかもこころ全体に自己調節機能を認めている。全体としてみると、あるところでエネルギーが失われていてもどこかにエネルギーが流れていって貯えられていることになる……エネルギーがないように思われるのはエネルギーが意識から無意識の領域に引いていっただけで、それはまた再び意識に現れてくるとみなしているのである〉p.148

〈無意識の目的性とは、現実の深みに入っていくことであり、現在の深みに入っていくことなのである〉p.150

〈素朴に無意識を現実として受け止めても、それは本当の現実ではないのである〉p.153

〈自我と無意識の関係には補償(Kompensation)作用が認められるというのはユングの重要な思想である。補償というところに、お互いが相補い合っているという一つの全体性を仮定する立場が認められる。自分の生きてこなかった面の人格化である影や無意識における自律した人格であるコンプレックスは、意識的自我を補償するものなのである。そのような自立した人格の代表的なものがアニマとアニムスである〉p.155-156

〈自己には、意識と無意識の対立を止揚し統合した中間の第三のものというニュアンスと同時に、こころ全体の中心というイメージもある〉p.159

〈その意味でたとえば生け花も、花を生けている人の内的世界の表現や個性化として捉えられるのではなくて、むしろ花がそれ自体として美しくおかれるという花の個性化であり、自己実現なのである〉p.163

〈『自我と無意識の関係』は意識と無意識という対立を鮮明に捉えて、さまざまな人格を区別しているようで、それが入り混じってしまっているのが興味深い。典型的なのがペルソナで、社会に対する仮面に過ぎないように思われたペルソナがアニマと並ぶような人格にもなっている……魂はときには自我、ときにはアニマとして現れてくる。それはそのときの魂の現れ方に過ぎないのである……だから夢のイメージもそのときに意識された魂の現われなのである〉p.166-167

《別の観点からして無意識でないような意識の内容は存在しない。同時に意識的でないような無意識的な心的なものも存在しない》(GW8, §385p.168

〈ユングと東洋とのかかわりで重要なのは「自己」(Selbst)の概念であろう。意識を超えた魂全体の中心ということをユングは第二人格などの自分の体験を通してつかんでいったが、それは東洋思想を通じて確かめたとも言えるのである……西洋において「自己」というのがつかみがたいのは、一つは自我意識の強さであり、もう一つは神というものをつねにたてることであろう。自我意識があまりにはっきりしていると、こころ全体の中心というものから遠ざかってしまう〉p.171

〈そもそも体験の現実性とは意味とか解釈によって導き出されるものではなくて、体験されるときに自明に存在するからである〉p.174-175

 信じる、あるいは問う、そのかたちを神という

《われわれは毎日、われわれの父が天空を横切る手伝いをしている……もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らないであろう》p.175 アメリカインディアンの言葉

〈意識の誕生、それによる動物の世界から人間への飛躍についてはユングが興味を抱いていた境目である……アフリカのサヴァンナで地平線の彼方まで動物しか見えないところに入ったときに、ユングは同行者の見えなくなるところまで離れていって、そこでただ一人でいるのだという感じを味わった。ここには永遠の原始の静寂があり、非存在の状態にある世界があった〉p.177-178

 再生、という神

 死とは、バトンを渡すこと

〈象徴の貧困に対して、たとえば東洋の象徴を借りたりして、それを埋めるべきではないという。「それよりももっとよいのは、象徴がないという精神的な貧困をはっきりと認めることのように思われる」(「集合的無意識の元型について」GW9/I, §28)〉p.189

〈結合はまず、自我と無意識、意識と無意識の結合として登場する……これの典型的なのが、ユングの概念で言うと影の統合であり、劣等機能の統合であろう。影というのは自分の人格のなかの生きてこられなかった反面であり、劣等機能とは……自分の苦手とする心的機能のことである〉p.192

〈そこでは結合というよりはむしろ集合的無意識を自我から区別することが中心になっている。アニマを自我とは異なる自律した人格として認め、それを対象化してはじめて、それと対話したりして関係を持ったりできるのである。さらにはアニマを意識化することによってアニマはその自律性を失って無意識との関係の機能になり、それがアニマの統合であると理解されている〉p.193-194

〈心の中の対立するものが、どちらかが選択されるのではなくて、第三のものによって止揚され、結合されるというのはユングの基本的な立場である。その第三のものとして新しい象徴が生じてくるのである。もっともその第三のものは、最初から具体的にあげるのではなくて、tertium non datur(与えられていない第三のもの、あるいは第三のものは存在しない)としていつも示唆されているのは大切であろう〉p.196

〈このようなキリスト教のコスモロジーは、教義や形而上学の問題にとどまらない。まさにそのような世界観で生きているからこそ、西洋では排除されている悪や身体性を個々人がどのように心理学的に統合するかが問題になり、また教義上では存在しないはずのものが夢などを通じて現れてくることをユングは心理療法家として問題にせざるをえなかったのである〉p.199

〈グノーシス主義においては、世界は神からの流出によって創られたものであるので、確かに世界は階層的になって、霊的な世界、魂の世界、物質世界に分かれるが、物質世界も神から流出してきたものとして連続的に霊的な世界につながっていて、排除されていたり、分裂しているわけではないのである〉p.199-200

 創造においては、創造とは逆向きの力がはたらく、それがさまざまな感情、愛情、苦悩、悲しみ等を生み出し、世界に秩序をもたらした。

〈ユングにおける結合は、対立性であると同時に対立するものの結合として捉えられている(『アイオーン』GW9/IL, §216)だから自我と無意識の関係においても、集合的無意識の内容を統合するのではなくて、むしろ意識から区別することが大切になる……錬金術が分離や解体と融合の両方のプロセスから成り立っているように、結合と分化は一方的なものではなくて、互いに切り離せない動きなのである……英雄とそれを呑み込む竜や魚は、敵対している全く別のものではなくて、同一のものの二つの側面なのである〉p.205

〈だから精神と身体、善と悪、男性と女性などのコスモロジーとしての対立も、もともと別々のものではなくて、実は同じものから出ていると考えられる〉p.206

〈まず対立するものが同一とみなすからこそ、一方からすると他方は自分のあり方や見方から離れた単なる対象ではなくて、自分のあり方と密接に関係しているものとなるのである。つまり対象やイメージはつねに客観だけではなくて、それは主観でもある……また結合というのが対立であると同時に結合であるならば、最初に対立しているとみなされているものも実はすでに結合しているのであり、逆に最後に結合したとみなされるものも実は最初から結合していることになる〉p.208

〈対象について述べたことは他者にも当てはまる。つまり治療関係、ひいては人間関係も、同一のものの対立であるからこそ成立するのである。他者は他者であるけれども、すでにつながっている〉p.209

〈……『詩篇』八二・六に「あなた方は神だ、あなた方は皆、いと高き者の子だ」と言われているように、人間はすべて神の子なのであるとユングは考える。対立性と同一性についての考察からしても、神が人間から完全に隔絶されているのはありえないことなのである〉p.210

 魂とは何か? ――遍在する何ものかの意思、この世界(の秩序)を作りだしている思念

〈……ここで自我と自己を二つの別々の実体とみなす見方は通用しなくなっている。むしろ自我も自己も実体ではなくて創造のはたらきとしてみた場合には同じものなのである〉p.213

〈「暗いものをより暗いもので、知られざるものをより知られざるもので」(obscurum per obscurius, ignotum per ignotius)という錬金術のモットーがあるように、錬金術の書き方は、非常に不明瞭で、荒唐無稽な印象すら与える。類似のイメージが際限なく積み重ねられていくのである〉p.218

〈錬金術が心理学にとってのモデルとなってしまっては、ユングの本当の精神は生きてこないと思われる。むしろ錬金術自体が心理学なのである……キリスト教では神による人間の救済が問題になるのに対して、錬金術では物質に沈んで閉じこめられている精神の救済が課題になる。メルクリウスも物質に閉じ込められている精神なのである。人間ではなくて物質の救済が問題になるからこそ、錬金術師は錬金術におけるプリマ・マテリアやラピス(錬金術における石)を自分と同一視したり、自分を神と同一視したりしなくて、むしろラピスとキリストを関係づけた。ユングはこれを、自我と神を同一視するのではなくて、自己を問題にする姿勢として解釈するのである。だから、結合も自分自身のこととか、自分自身が結合に参加することとして受け取ってはいけないことになろう〉p.220

〈最初の黒化(ニグレド)は、心理療法のはじまりにおいて、治療者に症状がうつったりなどとして、いわば心的な感染状態や、治療者とクライエントとの間に無意識的同一化が生じることである……白化(albedo)は,『転移の心理学』では浄化(Reinigung)であって、死んで一体となっているヘルマフロディテに天から露が落ちてくる図で表されている。ユングは混じり合ったものを区別することとして浄化を説明している。この場合にも心理学的に一度融合したものを心理学的に区別することが大切なのである〉p.221-222

〈錬金術とは古代神話に基づいた宗教儀礼なのである〉p.223

〈ハイデガーの『存在と時間』における「死への存在」(Sein zum Tode)もそのようなニュアンスを含んでしまっているように、近代人にとっての死が、しばしば死を前にした恐怖や不安になり、あくまでもこの世の視点から離れられないのに対して、シャーマニズムのイニシエーションとは死を既に後にすることであり、死の側からこの世や身体を見ることなのである〉p.224-225

〈つまり動物を生け贄に捧げることは、生け贄を捧げる者が自ら犠牲に捧げられることでもある。だからこそシャーマンは動物霊によって解体されるのである。これはミサに関して、犠牲を捧げる者は犠牲に捧げられるものでもあることを確かめたのと同じ事態なのである。ゾシモスのヴィジョンでは、祭司が自分の歯で自分の肉をずたずたに裂くところに表れている。これはまさに、自分のしっぽをかむウロボロスと同じである。このように主体の弁証法的関係があってこそ、主体というものは成立するのである〉p.225-226

〈…光っていて目を持つファルスこそ無意識の側、魂の側から見ている主体で…〉p.226-227

《ああ、彼が私について黙想している人間だ。彼は夢をみ、私は彼の夢なのだ》p.227

〈ユングは意識が完全に無意識に融合してしまうことを死にたとえているけれども、死とは完全な結合にほかならない。死に至る完全な結合があるからこそ、魂が再生してくるような絶対的な反転が生じるのである〉p.230

〈たとえば、ユングが『転移の心理学』で扱った「賢者の薔薇園」においては、男女の性的結合が描かれているけれども、これも文字どおりにとるならば、キリスト教文化において抑圧されていた性的な面を補償しているということになるはずである。そうではなくて、ユングはこれを対立するものの結合や、心理学的な融合状態として扱っている〉p.232

〈物質として登場するということは、神話的存在、イメージがすでに抽象化されていることであり、また抽象化された次元で心理学的なことを問題にしていることなのである。それを物質を文字どおりに受け取ることは、まさに錬金術の行っている抽象化の作業を無視してしまうことになる〉p.233

〈錬金術はイメージの宝庫というよりは、むしろ概念の連鎖、シニフィアンの連鎖と言った方が近い〉p.237

〈死がイメージや物語として表象されてしまうと、死はこの世に属してしまって、一様な世界に取り込まれてしまう。むしろ死に向かって広げていこうとするのではなくて、本当に閉じこもるときに逆説的に無限の次元が開けるこの弁証法が大切であろう……イニシエーションもむしろ向こう側へは絶対に越えられないことがわかるとき、こちら側と向こう側の絶対的な差異がわかるときに、違う次元が開けてくるのである。あるいは逆説的であるが、向こう側に越えられないことが本当にわかる時に、すでに向こう側にいることになるのである。その意味で、あの世、神の世界とこの世を拡大していくのではなく、この世に本当にとどまれるときにこそ、逆説的に無限の世界が開けてくるのではなかろうか……このような認知において、われわれは自分自身を限定されたものとして、そして同時に永遠なるものとして、経験する〉p.256

神秘哲学

井筒俊彦.神秘哲学――ギリシアの部.岩波文庫

〈抑もこの蛮神のかくも大なる魅力の秘密は何であったのか。秘密は「永遠の生命」に存したのである〉p.26

〈此等の人にとっては所謂「聖物」は感性的世界から超感性的世界に開かれた窓であり、相対的なる現象界から絶対的なる実在界へ通ずる一の通路を意味する〉p.31

〈霊魂は超越的実在に直接触れることによって最早何物を以ても永久に消すことのできぬ刻印を受けるのである〉p.32

〈然るにクセノファネスは遥かに直接に、遥かに深く、あらゆる存在者の対立の彼岸に絶対超越として、生ける霊的実在としての「一者」を洞見していた。彼の思想の主体をなすものは超越的・超感性的現実そのものであり、この思想の根底に伏在してこれに独脱無衣の風格を賦与し、深玄なる内的生命に横溢氾濫せしむるものは自然神秘主義の本質をなすところの全一体験であった〉p.38

〈人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味においても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である……この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という……神秘主義に限らず、一般に精神的生命の溌溂たる活動あるところ、常に小なるものの死は大なるものの生を意味する。かくてここでも感性的生命原理としての相対的自我の死滅は、ただちに超感性的生命原理としての絶対我の霊性開顕の機縁となるのである。人間の相対意識が自他内外一切の差別を離却して厘毛も剰すところなく絶滅し尽くされた人間無化の極処において、その澄浄絶塵の霊的虚空に皓蕩として絶対意識が現われる。否、この湛寂たる虚空そのものがすなわち絶対意識なのである。この霊的虚空に充満する息づまるばかりの生命緊張の自覚がエントゥシアスモスと呼ばれるところのものに外ならぬ〉p.42-43

《何処まで行ったとて、如何なる途を辿ったとて、霊魂の限界は見出せないだろう。それほどまでに深いのだ》p.48 (ヘラクレイトスFr.45

〈「一切より一者は来り、一者より一切は来る」(Fr.10ek panton hen kai eks henos panta)と説き「一者は一切である」(Fr.50hen panta einai)と説く彼は、一者即一切者の渾然たる「全体」を高唱する点においてはクセノファネスといささかも異なるところはなかったが、その超越的全一を自己の上に現証する体験の方向が著しく異彩を放っていた〉p.49

〈この密儀宗教の円成がすなわち哲学の始まりなのである。絶対超越的体験の飛躍によって感性的世界の絆累を一挙に裁断し、日常的人間意識が自らを尽滅して超意識的意識の主体となり、かくて其処に現成する窮玄離絶の霊的虚空において時空変転を超脱せる真実在を親しく徹見することなくしては、存在論としての哲学は窮極の実的保証を有り得ない。換言すれば、形而上学は、「形而上的なるもの」の直接把握を俟って甫めて真の出発点に立つのである〉p.56

〈自ら偉大なる哲学者であったパスカルをして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者と学者等の神ではなく」と歓喜の涙滂沱たるうちに叫ばしめた生ける神、哲学以前の神こそ、実は帰って哲学そのもの、生ける源泉であり、形而上学の現実的保証なのであった。形而上学はは形而上的体験の後に来るべきものである。「存在」密儀の堂奥に参じepopteia(霊性開顕)の秘儀開顕を許さるる以前に「存在」を語ることは聖に対する冒涜である〉p.57

〈されば彼の存在論は時空を超脱せる真実在の論究であり、彼の形而上学は純粋に「形而上的なるもの」の検察である。畢竟するに形而上学は神学なのである。パルメニデスの「存在」は後の神学に所謂「在りて在るもの」に契合する〉p.59

〈パルメニデスが存在と呼ぶところのものは、感性的立場に立つ常識的人間の観点よりすれば、存在ではなくて却って非存在であり、否寧ろ「絶対無」と呼ばるることこそふさわしき超越者なのである。「思惟と存在の一致」とは個人的人間に就いて、思惟することが存在することと等しい、或は認識の対象がすなわち存在者であるという主張なのではなく、却ってかかる個物的他者界を無限に越過せる形而上的空無の境において絶対空竟の存在者は了々たる覚体として自己自らを顕示するという超越的事態の確認に外ならない〉p.60

 他なるもの=絶対他者=絶対無=存在

 他なるものを生きる

〈思惟の対象は思惟活動そのものと同一である、と考えられねばならぬ……然して此等三者が完全に一致することは、要するにそれが「真理」であるということを意味する。パルメニデスの「思惟と存在の一致」はかくて、真理それ自体――相対的世界に肯定さるる相対的真理にあらずして、逆にすべての相対的真理を絶対的に上から保証するところの生ける真理の定立となるのである〉p.61

〈デカルトのCogito ergo sumはその本源的本来的領域においてのみ、真に全き充実性を以て主張さるべきものであった……「我れ在り」Sumと語り得るはただ独り神のみ、とエックハルトが断じているが、かく絶対窮極の密度における存在性を自らに認めるものにして甫めて同時にまた絶対窮極の意味において「我れ考う」Cogitoと言い得るのである……Cogito ergo sumは人間の意識にはあらずして、神の意識である〉p.61-62

〈絶対者の現成は、絶対者の自己意識としてのみ可能である。自然神秘主義の主体は人間の実存にあらずして、神の実存である。絶対者の超意識的意識が照々と自己自らを映すことがすなわち一者の顕現なのである……強いて言うならば体験の主体は神であって人間ではない。人間は何かを体験するのでなくして、絶対的に無に帰するのである。人間の相対的意識が完全に棄揚され、内外ともに点埃をもとどめぬ空無に没入し去る時、ここに縹渺として絶対意識が露現する〉p.63

〈言い換えれば、日常的認識の主体は抽象性という被膜を通してでなければ、普遍的存在者を把握することができない。対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである抽象性とは人間霊魂の眼の曇りである〉p.68

〈存在的見地よりすれば、対象が普遍的になればなるほど、それは抽象的になるのではなくして反対に、より具体的になるのである〉p.69

〈存在的には有であり、有の究極であるものが、認識的には無であり、無の極限なのである。しかるに、存在的秩序に従って有の究極なるものこそ、ソクラテス以前期の哲人たちが「一者」と呼び、或は「神」と呼んだもの、また今やプラトンが「善のイデア」と呼ばんとするところの絶対的存在者であるに外ならぬ〉p.70

〈プラトン的イデアリズムは儼乎たる体験の事実であって、決して単に一の思想的立場ではなかった。されば、彼自ら高唱力説するごとく、それは全人間的方向転換を必要とするのである〉p.71

〈神秘主義は一たびテオーリアの絶頂を窮めた後、自ら進んでこの美的観想の静謐を断乎として踏み破る逞しき実践の意慾に結実しなければならぬ〉p.76

〈この叡知界の最高窮極の地位を占めるものがすなわち「善のイデア」(he tou agathou idea)であるが、霊魂が叡知界に踏込んでも、その幽邃の秘境を窮めて善のイデアに逢着することは極めて困難である。しかしながら若し一たびこれを観ずるに至れば、人は善のイデアこそ一切の正しきもの及び美しきものの原因であって(panton haute orthon te kai kalon aitia)、感性界においては光と光の主を生み、叡知界においては自らこの世界の王として真理と知性との源泉であること(en te horato-i phos kai ton toutou kyrion tekousa, en te noeto-i aute kyria aletheian kai noun paraskhomene)を悟得し、且つ私的であれ公的であれ苟も思慮をもって行動せんと欲する者は全て一度これを観照した経験のある人でなければならぬ所以が明瞭に理解される筈である、と〉p.84-85

〈人間は通常その霊魂の能力を感性的世界に向け不断無休に転変して常なき生成の事物のみを把握しつつ其処に安住自足しているのみであるが、プラトンによれば人間霊魂にはかかる生成変滅の存在物とは全く異なった超越的存在者を把住証得すべき超越的能力と、そのための特殊な器官とがそなわっているのである(organon ti psyche... mono-i... auto-i aletheia horatai527 D-E)。「霊魂の眼」(to tes psykhes omma533 D)とも呼ぶべきこの特殊なる器官を誤れる方向から正しき方向に振りむかせ、かくしてそれに本来の対象を与えることこそ、後述するプラトン的弁証法の主たる目的である〉p.85-86

〈分たれざるもの〉が、霊魂の眼のうちに有る

 永遠へと向かうもの

〈これによって甫めて人は実在の影像ではなく、真実在そのものに直触する……プラトン的知性は、その極限において、いわば神の意識に通じるところの絶対超越的認識能力であり、近世思想の用語例に従えば、理性あるいは知性というより寧ろ宗教的感覚というに近き或るものなのである〉p.87

 高山辰雄の触れていたもの

 彼に画かせていたもの

〈なおプラトンによって「霊魂の眼」と名付けられた霊魂の純粋知性的尖端は、プロティノスの所謂「霊魂の中心点とでもいうべきもの」(to tes psykhes hoion kentron)アウグスティヌスの「我が霊魂の眼」(oculus animae meae)を経て基督教思想界に入り、特に聖ヴィクトール修道院のリカルド以来盛んに論じられて西洋神秘主義の重要なる術語を生んだ。「霊魂の秘奥」「霊魂の頂点」「霊魂の鋒鋩」「至聖処」を意味するラテン語adytum mentis, intimus mentis sinus, acies mentis, sancta sanctorumや、また世に有名なドイツ神秘派の「霊魂の秘花」Funke der Seele, Fünklein「霊魂の根柢」(Seelen-Grund「霊魂の内城」Burg der Seele等々の無数の術語は、いずれもプラトン的「霊魂の眼」の発展と考えることができる。なおこの器官についてエックハルトが「霊魂の中には絶対に創造されざる或るものが存する」(aliquid est in animaquod est increatum et increabile)と主張して教会側による異端宣言の一因をなしたことは周知の通りである〉p.87-88

〈霊魂の眼、すなわち純粋理性(l’œil de l’âme, c’est-à-dire la pure raison)〉p.88

〈人が善のイデアを観照するということは、それを何か自分から離れた対象として眺望することではなく、この絶対超越的実在に融即し、或る意味でこれに成ることによって窮極の真実在そのものの永遠性に参与しうるという存在的事態を意味するのである〉p.90

〈ミスティークの本質は神人の「同一性」ではなく、神と人とのパラドクスであり、パラドクス的緊張の極化である。この緊張の極化が外から観るものには恰も同一化の如く見えるのである〉p.91

〈しかしながら、それにも拘らず彼は俗界への下降を強制されねばならない。イデア観照が彼にとって如何ほど幸福であろうとも、彼はこの超越的世界に何時までも静止滞存することは許されない。存在究竟の秘奥を窮めた後、再び俗界に還り来って同胞のために奉仕すべき神聖なる義務が彼には負わされている。喧騒の巷を遁れ、寂漠たる孤独の高峯上にひとり超然として「一者」の観照にふけることによってではなく、敢て、隠逸の山を下り、身を俗事に挺して世人のために尽瘁することによってのみ、プラトン的哲人の人格は完成するのである〉p.93-94

〈弁証家が彼岸に飛躍的一歩を劃してより、絶対超越的究竟者「善のイデア」に逢着するまでの道程がすなわち嚮の直線比喩における最高部分に当る弁証法的領域であり、この部分が後世、哲学的神秘主義として発展するのである〉p.108-109

〈かくてプラトンが国家篇第六章において叙述せる弁証法は、真実在に逢着せんと志して今なお修道の途次にある未踏の人々に、踏むべき道を明示するものではなく、一たび斯道の蘊奥を極め善のイデアに直参せる達人が翻って己が踏破せる道程を反省し、この超越的存在領域の論理的構造を分析考究せるものとして、寧ろ著しく形而上学的性格を帯びるに至ったのである〉p.112

〈人間の有する最高の精神作用というべき上位知性(ヌース)は絶対に感性的事物に依倚することなく、純粋イデアをその純粋性において把握する。悟性が飽くまで感性的形象を通してイデアを観るに反し、知性はイデアを通してイデアを観る〉p.113

〈国家篇の根本主題は人間の教育(パイデイア)であり、嚮にも論述せる如くそれは畢竟するに神秘主義的人間の形成ということに外ならないのであった〉p.115

《この(超越的領域に関する)問題については、私自身は未だ嘗て著述したことはなく、また将来とても決して著述することはないであろう。何故ならばこの領域は諸他の学問とは違って、絶対に言語によって詮表し得ざる性質のものだからである。人が永き年月に亙ってこのものに親昵せる後、それは突如として(eksaiphnes)、恰も飛び散る火花から突然に燃え上がる火のごとく、魂の中に生誕し、生長していくのである》p.116 第七書簡

〈プラトンのいわゆる純粋知性(ヌース)とは、人が通常その名のもとに理解するごとき思弁的理性にあらずして、霊魂の秘奥に点火さるる神的光明であり、それは要するに神秘主義的感覚であるに外ならぬ〉p.116

〈善のイデアは実在界の太陽である。この至高の極地に登り来る道すがら、純粋知性が次々に諸実在を観照し得たのは、知性自身は全然それと気付かなかったが、実は悉く全のイデアそのものの照明によるのであった〉p.125

 善のイデア=存在の光

 それに照らされたこと、真実在に導かれたことに、人は気づかないのでは。

 夕焼けの向こうが見えないのと同様。

 しかし照らされたことは、記憶のどこかにあり、ふとその何かを感じるのかもしれない。

 はじめて出会うものになつかしさを感じるときのように。

〈観照的生の実践において自ら親しく宇宙的実存の主体となり、脱自的に個人意識の外なる客観的世界に踏み出てみた経験がなければ、人はただデカルトを捩って「我思惟す、故に我在り(と我は思惟す)」を繰り返すか、或はカントに従って先験的主観主義の呪詛に身を委すほかはないであろう〉p.203

〈すなわちアリストテレスにおいては神秘主義は飽くまで底流であって水面からはこれを見ることはできない。ただしかし水辺から終始力強き底流をなして急湍の奥に隠れひそんでいたこの体験的基体は河の最後に至って俄然滾々と表面に湧き上り恐るべき姿を外にあらわして来る〉p.204

〈蓋し神秘主義的体験とは、全宇宙から切り離された極めて特殊なる事態の体得なのではなく、宇宙的過程それ自体の窮極的顕現に外ならないのである〉p.206

〈生成的存在の世界は、超越的イデアの照映として仄かに叡知性の影響を受けるのではなく、それ自体が本源的に叡知的なのである〉p.208

〈「本質」はイデアを否定し竄貶するものではなくして、具体的事物に内在する限りでのイデアであり、従って依然としてイデアであることには違いはないのである〉p.209

〈プラトンにとっては、存在とは一言にしていえば普遍者であり一般者であった。プラトンが「真実在」(ontos on)という時、彼の念頭にあるものは感性界の個別的存在者ではなくして、それら全ての儚き事物を喩えた、超個別的なる永遠の普遍者であり、それがすなわちイデアなのであった……然るにこれに反して、アリストテレスにとっては、「実在」とは普遍者でなくしてあくまで具体的現実的なる個別者である。概念的一般者に対応するところの普遍的な人間性が実在するのではなく、現実に生きて動いている個人ソクラテスが、カリアスが実在するのである……個別者が真実在であるのは、個別者である限りにおいてではなくして、其等が夫々自己の実在性の根源を内に宿している限りにおいてである〉p.212

 哲学(考える)とは、言葉が降りてくるための場所を拓くこと

〈かくしてアリストテレスの「本質」は存在面においては個別的実有であり、論理面においては種概念なるが故に、それはまさしく内在的イデアと呼ばれるにふさわしきものと思われる。何とならば「実在する一般者」というプラトン的イデアの条件を、それはのこりなく充たすことができるから〉p.217

〈自己を動かす者は、その活動を自己以外のいかなる物からも受けるのでないから不滅でなければならぬ。かかる不滅なる自発的運動者が霊魂である。従って自然界に起るあらゆる種類の運動は、すべて霊魂の運動を原因として有するのである〉p.229

〈神は至高の自己運動者であるという考えにアリストテレスは断固として反対する。厳密な意味においては自己運動者なるものは世に存在しない。「凡そ動かされる者は何かによって動かされる」〉p.230

 何か、他者、生命そのもの。私に働きかけ、私と共にあるもの

〈すなわち動物においては霊魂は不可動の動者であり、身体は動かされる部分である……不可動の動者は全宇宙の動の究竟的源泉となる。しかして動の源泉とは生命の源泉ということにほかならない……彼の不可動の動者は畢竟するにイオニア的「一者即一切者」を新しき形態の下に思想化したものであった。「アリストテレスは宇宙それ自体を神であると説く」とキケロが言うとき(Cicero, De nat. deor, I, 13-Aristoteles... mundum ipsum dicit esse; cf. De caelo , 3, 286 a)かれはまさしくこの事実を指摘しているのである〉p.231-232

〈運動を実在性に即して考えれば、それは上述の四種の運動のうち特にすぐれて実在的な(kat’ ousian)運動である「生成」を指すほかはないであろう〉p.233

 何ものでもない私はすべてである

 人は「他者」に生かされている

「他者」への責任において行為する

〈嘗てクセノファネスによって「全体が視、全体が聴き、全体が思惟する」と謳われたかの宇宙的意識の煌了たる光りの中にあって神の自己意識と人の自己意識とが、判然たる二つの意識でありながら而も同時に、恰も中心を同じゅうする大小の二円のごとくぴったりと重なり合って、縹緲たる渾一の姿を現ずる、その霊妙な中心点に能動的知性の境位がある。小なる光円が無限大なる光円に包摂され、此等両円が相重なり相照応して全宇宙の辺際まで耿々たる燦光に煌きいでる時、果してそれは神か人か、何人もこれを論理的に裁断することはできないであろう。アリストテレスの説く観照(theoria)とは、およそかくの如きものである。彼が霊魂を肉体の形相として両者の密接不可分なる関係を強調ししかも霊魂を本質的に単一なる実有として語りながら、なお他面において能動的知性の超越性、離在性を説くの矛盾をあえてせる所以は、彼が自らかかる観照体験の持主であったことに存するのでなければならない。それは謂わば脱自体験の絶対的強制力の現われなのである〉p.242-243

 能動的知性、という他者

〈霊魂の個々の「部分」より先に霊魂全体がある特定の個別的肉体のエネルゲイアであり形相であるからには、肉体との内的関聯を離れた霊魂なるものは意味をなさない筈である〉p.244-245

〈全図形を縦に貫通するこの中軸の上端に能動的知性の場所がある。それは人間を超越する能力であるどころか、却って人間をして真に人間たらしめるところの優れて人間的なる内在的機能といわれなければならない……脱自的観照において意識面から自他内外すべての差別が湮滅して蹤跡なきとき、個人的小我の自己意識は杳然として消え失せ、全宇宙が煌々たる光と化して自己を意識する。この宇宙的「思惟の思惟」こそ能動的知性の本然の姿(touth’ hoper esti)であり、それがすなわち叡知の脱自的エネルゲイアにほかならぬ〉p.246-247

〈「かかるヌースは本質上現勢である故に、離絶的であり、非受動的であり、かつ純一無雑である」と言うとき彼はこの脱自的エネルゲイアに在る能動的知性を意味しているのである……能動的知性の本当の姿は、肉体の死によって、或は実際の死以前でも「観照」(テオーリア)における脱自的「死」によって、それが肉体の桎梏を完全に離脱せるときに甫めて自ら開顕されて来る〉p.247

〈かくして、脱自的エネルゲイアの状態にあるとき能動的知性はもはや霊魂の部分ではない。それは霊魂の最上部でないばかりか、霊魂の全体でもなくして、ただ端的に「全体」なのである。言い換えれば全宇宙であり「一者即一切者」としての宇宙的自己意識である……人間の側からでなく神の側から見るとき、ただ能動的知性のみ照々たる光を浴びて永遠の現在に在り、他はことごとく無の深闇の裡に姿を没し去る〉p.249

 私が在るのではなく他者が在る

 主客合一(西田幾多郎)

 人は生きているときに生きていないのはなぜか

〈扨て現勢的なる認識は物と同一である〉p.253

〈それは離在しているときにのみ、それが本来あるところのものであり、且つかかるもののみが不死であり永遠的である〉p.253-254

 自覚しえないこと、記憶されないこと

 他者。生成であり、永遠であるもの、私に働きかけるもの

 想起、とは何か――何を想起しているのか

 死して後はじめて与えられるものとは

 はじめて出会ったものに覚える懐かしさ――それは時空を超えたつながり

〈内在的状態にあるヌースは離在的状態にあるヌースの超時間的働きを、謂わば時間の一線上に引き伸ばして、遠廻しに、一歩ずつ実現して行くと考えてよいであろう〉p.265

〈人間的ヌースは潜勢的に全てのものを含んでいるが、それは飽くまで潜勢的、可能的にであって、決して現勢的現実的にではない。此等の潜勢的なるものを現勢化することがすなわち思惟活動ノイエーシスなのであるが…〉p.266

〈否、彼はプラトンが不文の教説の闇に包んで絶対にロゴス化しようとは試みなかった「善」を、窮極の限界までロゴス的に追求していった。其処にプロティノスの神秘哲学者としての異常なる意義が存するのである……それはプラトンとアリストテレスとをつなぐギリシア哲学主流の線上に、而も両者の思想が脱自的観照生活の一点を通じて相交叉するところに存立する〉p.271

〈超越的主体として絶対的脱自性にあった霊魂が次第に脱自性を失って遂に再び日常的生の地盤に還り来る、この下降的還行過程に伴って宇宙が形而上学的に形成されていくのである〉p.277-278

《一切者は観照を希求し、それを目的として瞻望する(panta theorias ephiesthai kai eis telos touto blepein)。ひとり叡知を有する存在者のみならず、叡知なき動物も更に植物的自然も、植物を生育する大地も一切が悉く、各自に可能なる範囲において、夫々の仕方で観照している。即ちあるものは真実の観照を、他のものは真の観照の模倣と影像を獲て観照している。……例えば現に我々は喜戯している時も、それによって観照しているのではないか。我々も、また全て喜戯するところの人は誰でも観照しているのであり、且つ観照を渇望しつつ喜戯しているのである。子供たると大人たるとを問わず、戯れているか厳粛な仕事をしているかを問わず、全て観照のために、或は戯れ、或は厳粛に働いているのである》(Enn. , 8, 1, 343p.283-284

〈かの絶対超越者たる「一者」が、永遠の無為に孤在することによって「一者」なのではなく、それは真に「一者」であり切るとき、即ち無が真に無に徹し切るとき、却って自らの外に出て自らを分与して存在界を創造せずには居られぬごとく、「霊魂もまたなんらの活動の成果を現わすことなしに、超然と独り離在すべきではない。生産すること、すなわち謂わば種子のごとき或る不可分の原理から出て感性的成果にまで発展して行くことが全てのものの本性に属する」(Enn. , 8, 6, 474)〉p.284-285

 

外の主体

 エマニュエル・レヴィナス(1987)/合田正人訳(1997).外の主体.みすず書房

〈これらすべてのことが、自分自身と対話するような魂の限界内にはとどまることなきユダヤ的省察を培っているのです。つねにそうであったように、今日でもユダヤ思想は、自己とは他なるものとの対話の最たるものなのです〉p.8

〈私が思うに、神なき世界なるものは、ドストエフスキーの言葉を使うと、すべてが許されているような世界であって、そこでは、現実的なものの意味はたんに見かけの意味でしかなく、そのような意味での「現実主義者」・で・なければならない〉p.11

〈実存すること、それはこのように、世俗的なもののなかに散逸した聖なるものを集摂することです〉p.12-13

〈神に憑依されて熱狂に陥った魂はみずからを喪失してしまう。ブーバーにとっては、高揚せる諸瞬間での神的なものとの接触は出会いであり、対話でありました。他人たちへと開かれることであると同時に自己に現前することであったのです〉p.17

〈一致はまったくなく、つねに近さが、近接があるのです。ユダヤ教は神のいかなる形での受肉にも抵抗するのと同様に、人間の一切の神格化にも抵抗するのです〉p.18

〈〈自我〉に対する対話者の現前は、私の視線によって規定されまた、述定的判断を下されるような客体の現前に還元されたりしない。こうブーバーは断言していますが、ここにブーバーの〈他者〉の哲学の基礎があるのです……対話者が主題と化し、判断の基体と化すまさにそのとき、対話者はもはや私が対話をつうじて接する者ではなく、私は彼をひとつの集合のなかの数字として、技術的に実現可能な何らかの意図に有効なものして捉えてしまうのです〉p.25

〈結局のところブーバーにとっては――そしておそらくは私たちにとっても――、本質的なのは〈われわれ〉ではなく、〈私〉-〈きみ〉だからです〉p.27

〈対象や敵として〈きみ〉を捉える代わりに、〈きみ〉に呼びかける〈私〉、そのような〈私〉が第一の事態です。そして、社会を創設するのは、国家の普遍的で匿名の法のもとでの〈自我〉の法的消失ではなく、いかなる概念によっても把握できない、〈きみ〉への呼びかけなのです〉p.28

〈〈出会い〉における〈私〉-〈きみ〉の関係の還元不可能性、出会いを規定可能で客体的なものとのどんな関係にも還元することの不可能性、西欧思想へのブーバーの貢献が依然としてこの点に存しているというのはまちがいのないところでしょう……ブーバーは大いに政治的問題やキリスト教との関係や経済的問題、教育的問題を論じましたが、これらの問題はつねに〈出会い〉の情況に帰着するのです〉p.29

〈聖なるもの(sacré)という観念がブーバーにとっては神的なものという観念を決定するものとしては現れなかったということ……ブーバーは断固とした一神教徒であって、ブーバーの言葉は、誰かが彼に話しかけるより前に話すようないかなる世界、いかなる光景、いかなる言語にも依存してはいないのです〉p.31

〈おそらくは主題化、客体化、存在論に帰着してしまうような不在と現前を超えて、世界と存在から脱出しうるということ、存在ならびに存在者を超えて、近づいたり近づかれたりしうるということ、それは、実に巨大な存在者としても、どんな隣人よりも巨大なひとりの人間的〈他人〉としても神をたてることのない、そのような探求の主題にほかならないのですが、この種の探究は、神について語るよりも先に、近さを語り、どこから声が到来するのか、いかにして痕跡が描かれるのかを記述しようとするものなのです〉p.33

〈神における〈永遠のきみ〉への祈りないし呼びかけだけが人間としてのきみとの出会いを可能にするのであって(たとえ人間的なものが客体としても扱われざるをえないとしても、です)、それゆえ、この祈りないし呼びかけが、根源的宗教における真に間-人格的な一切の関係の基礎なのです……人間的なものの精神性――その宗教性――は人間が人間のかたわらにいるということであって、人間は群衆のうちに埋没することも孤独のうちに遺棄されることもない――この点を確証することがこの発見の本義です。なによりもそれが意味しているのは、間-人間的な関係の宗教的射程であり、逆に言うなら、きみと呼びかけられる他の人間へと人間が接近することで初めて、神への連関――〈見えざるもの〉、〈与えられざるもの〉への子の連関が可能となり成就されるということです。呼びかけとしての接近、〈私〉-〈きみ〉の関係とは言い換えるなら、他者の本性や本質を知覚することとは根底的に異なる関係であって、……〉p.37-38

〈私-きみの関係は主体-客体の関係と際立った対比をなしているのですが,他でもないそれは,ブーバーにおいては,私-きみの関係がある意味では主体と客体という項に先立つものとして,《二者のあいだ》(entre-les-deux, Zwischen)として描かれているからです〉p.39

〈この伝統にとっては、〈神的なもの〉を特徴づける至上の仕方は〈神的なもの〉を存在と同一視することに他ならず、また、存在とのどんな関係も結局は経験(言い換えるなら、知識)に還元可能で、あくまでこの存在の様態にすぎません。それに対して、〈私〉-〈きみ〉の関係の独自性を確証する哲学は、社会性を社会についての経験には還元不能なものとして思考するきっかけを与えてくれます〉p.41

〈〈私〉の個別性と絶対的な〈きみ〉との間のこのような連合はいかにして可能になるのか……ブーバーの根本的な主張は「初めに〈関係〉ありき」と表明されます。〈関係〉が成就される際の具体的様相は言語であり、――言語はこうして神性の縁にまで至るのです……ブーバーは、語に内属した運動が語を言明したもののうちにはとどまりえず、語を聴取する者によってすでにして摑まれていることを強調しています。聴取する者によって語は迎え入れられ、こうして聴取する者は応答者に変貌するのです(たとえ彼が沈黙を守る、としても)〉p.42-43

〈マルセルによると、受肉が「形而上学の中心的与件」なのです。それは「身体と結びついたものとしてみずからに現れるような存在の情況」を指しています。透明ならざる情況でありましょう。受肉した〈私〉は自己意識を有したものとして単に自己に対してのみあるのではない。それは、みずからのうちに計り知れない何かを有するような仕方で実存するのです。計り知れない何か、と言いましたが、異物では決してありません! 受肉した〈私〉の自己においてあることはただちに他なるものへの曝露(exposition aux autres)であり、この意味で受肉した〈私〉それ自身が闇なのです。「中心にあるのは影である。」受肉した〈私〉のうちなる計り知れない「何か」は、思考する実体への延長-実体の添加ではなく、精神それ自体のある存在の仕方であって、それによって精神は、宇宙のいかなる主題化にも先立って、宇宙に対してあるもの、それゆえ、宇宙と連動したものと化す。これは、まさに自己とは他なるもの(autre-que-soi)に対して存在しつつ、自己において存在する(être à soi)仕方であって、この自己とは他なるものが精神を同一化するのです〉p.44

〈「私たちは全面的に私たち自身に属しているのではない。」主体は全面的に自分自身に属しているのではない――これが存在論的神秘をめぐるマルセルの考察のひとつの帰結でありましょう。私たちがそうではないところの神的存在、私たちが超越的なものとして出会う絶対的な〈きみ〉はまた、私たちを担い、私たちを愛する存在でもあるのです〉p.47-48

〈存在の神秘、それは、「神へと向かう」私たちの存在それ自体がすでに神に属しているその仕方であり、神の存在が人間の〈自我〉を支えるその仕方なのです〉p.48

〈出会いという無条件な出来事は思考と存在を凌駕するのです。それは純粋な対話、純粋な連合であって、共通ないかなる霊的現存もそれを包摂することはないのです。私は他なるものへと供せられる。が、それは先行的な近さもしくは私たちの実体的結合のためではなく、きみが絶対的に他なるものだからなのです〉p.50-51

〈存在を思考すること、それは存在の尺度に合わせて思考することであり、自己自身と一致することなのです。私はと言いうることが、存在と同等なものと化しつつ自己と同等なものと化すような認識のなかで了解され、しかもその際、何ものもこの認識の外にとどまって、それにのしかかったりはしない、そのような仕方が自由と呼ばれていたのです〉p.52

〈〈きみ〉という呼格はまさに、衒いも前提もないきみへの呼びかけの侵入でもあるのですが、それはまた、没-利害-の超脱のまったき危険、まったき恩寵、――まったき無償性でもあります。思いますに、このような倫理はすべてが忠誠であり責任であるのでしょう。ブーバーの語る〈私〉-〈きみ〉は、――世界と歴史の概念体系への何らかの依拠から引き出されるような思考のなかに否定的なものとしてあるよりもむしろ――、一切の知識に先立つ私の責任の火急性そのもののうちにあるのではないでしょうか〉p.58

〈その際、〈不可視のもの〉は単に非-感性的なものとしてではなく、本質的に認識不能で主題化不能なものとして力強く思考されるのであり、まさにそれについては何も語ることができないのです……表彰も知識も存在論も生じない。そうではなく、この意味の次元には、まずもってきみとして呼びかけられる、そのような他の人間が位置しているのです〉p.59

〈〈永遠なるきみ〉との関係が人間としてのきみとの関係の根拠なのです〉p.60

〈倫理は、他なるものの外部性を前にして、他者を前にして、私たちが好んで言うように、他者の顔を前にして始まるのです……他律性の倫理です。とはいえ、それは隷属ではなく、隣人への責任をとおして神に仕えることであり、隣人への責任において私は代替不能な者なのです……しかし、この新たな倫理は、〈私〉の可能性を理解する新たな仕方でもあり、結局は哲学の使命に応えています〉p.61

〈不可視な神としての〈きみ〉は、所与とその存在の明晰さをかき消すような社会性の意味性を有しているのではないでしょうか。倫理的関係はまさに存在の無-意味性を表しているのではないでしょか……この無-意味性を表す語を分綴しつつもう一度援用するなら、〈関係〉は没利害、内存在性からの超脱(des-inter-essement)、存在の外への根こぎ(dé-racinement)――であり、自己へと回帰することなき跳躍の直行性(droiture)なのではないでしょうか。ここでいう没利害は無関心(indifférance)ではありません。それは他なるものへの忠誠なのです〉p.62

 経験とは 死してのち蘇ることである

〈「それ(ひとつひとつの魂)は移入・共感の経験を,他人たちについての経験的意識を有している」とあるように,フッサールは移入・共感を経験と解しています……われらが哲学の歴史に忠実であったフッサールは,他者の迎接(accueil d’autrui)を他者についての経験(expérience d’autrui)に転じているのです。言い換えますと,彼は,《他者への関係》の無償性を知に還元し,この知を反省によって測る権利を自分に認めているわけです。《他者への関係》は世界についての人間的知覚の前提であるのですが,それはこのように,絶対的なものである限りでの超越論的主体には必要なものではない。この種の超越論的主体にとっては,《他者への関係》はそのすべてがこれから構成されるべきものなのです〉p.64-65

〈逆に,天使たちは地上の人間たちの優位を垣間見たのではないでしょうか。人間たちは与えることができる。ある者たちは他の者たちのために(être-les-uns-pour-les-autres),が可能である。そうすることで,人間たちは「神曲」の場面を上演することができるのですから。それも,純然たる霊たちの余儀なくされた存在了解を超えて,その彼方で,です〉p.68

〈他者は私にとって客体としては現れない、と述べること、それはただ単に、私は他の人間を私の権能に屈した事物とはみなさないと語ることではなく、私は他の人間を「何ものか」とはみなさないと語ることである〉p.71

〈それは倫理的関係という十全に有意味的な秩序であり、ここにいう倫理的関係とは、同化不能な、それゆえ厳密には内-包不能で把持や所有とは無縁な他者の他者性との関係なのである〉p.72

〈私たち自身の考察では、他者への接近はそもそも他の人間への私の呼びかけのうちにではなく、他の人間への私の責任のうちにある。それが根源的な倫理的関係なのだ。――ここにいう責任は他の人間の顔によって呼び起こされ、引き起こされ、現象性と現れることがまとう形象の断絶として描かれる。私は死へとまっすぐに曝され、他者を見捨ててはならないという命令(ないし神の言葉)が私に下される……私が他者への責務から放免されることは決してないのだ。――他の人間への責任、ただしこの責任は、その原因となるような自由行為によって条件づけられることも、それを尺度として測られることもない……他者への服従であり、根源的な奉仕である。主格ではなく「対格の一人称」である〉p.76-77

《僕たちは誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。そのうちでも僕が一ばん罪が深いのです》ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫)第二巻 p.156

〈意識の指向性は、〈他なるもの〉の超越にはみずからを閉ざした知の思考であって、知である限り、それは観念と観念されたものとの同等性を確たるものたらしめる〉p.79

〈他なるもの〉をどう感じとるか

 生きている瞬間瞬間において、つねに未知の何かと触れ合っている感覚

〈ブーバーにとっては、神は大いなる〈きみ〉もしくは永遠なる〈きみ〉であった。人間同士の諸関係は神において交叉し、また、そこへと到達する。〈神的人格〉と呼ばれるものが対話における〈きみ〉のうちに存しており、敬虔さや祈りも対話であるという点に関して、私たちはブーバーほど強い確信を有しているわけではない……神が人格的なものであるのは、神が私と私の隣人たちとの間人格的関係を惹き起こすその限りにおいてである。神は他の人間の顔を起点として意味するのだが、その意味性の構えはシニフィアンとシニフィエの連関のごときものではなく、意味される私への命令のごときものなのだ。観念への神の到来はつねに、私たちの考察では、他の人間への責任と結びついており、どんな宗教的情動もその具体性をつうじて他者への関係を意味している〉p.81

〈ターレスからヘーゲルに至るまで,哲学は人間と神と世界を全体性として総合してきたのでしたが,これらの存在は相互に還元不能なものであるがゆえに分離されてあることになります。たとえば異教における太古の経験のなかでも,これらの存在は,芸術の造形的世界,存在の隙間で生きる神話的な神,自閉せる自己性でありつつも盲目的な運命に粉砕される悲劇的な人間といった具合に,たがいに分離されたものを表していたのでした……一方,人類の生きた具体的経験では,神と人間と世界は関係づけられています〉p.95

〈神と世界――その接合はまさしく〈創造〉です。神と人間、絆はまさしく「啓示」です。人間と世界(ただし人間はすでに啓示によって照明され、世界はすでに創造の刻印を有している)――それはまさしく〈贖い〉です。こうして、〈創造〉と〈啓示〉と〈贖い〉が、カントの言葉を使うなら「範疇」や「悟性の総合」にも等しい威信をもって哲学のなかに参入するのです。神と人間、それはまずもって、人間の生のなかの神であり、神の生のなかの人間です……創造は過去の次元を開き、それを維持するのであって、過去が単に創造に宿るのではありません。これと同じ意味で、啓示を理解しなければなりません。神から人間への、人間の特異性――言い換えるなら自己性――への動きとして、啓示はただちに愛として認められることになります。愛が特異性を開くのです〉p.96

〈愛は、愛することというその特権的な今において愛を命じるのですが、その結果、愛するよう命じることは、愛を命じるそのまた愛という反復と刷新を通じて無際限に反復され、刷新されることになる……ミツヴァー〔ユダヤ教の戒律〕と呼ばれる、ユダヤ教徒に緊張を強いる命令は、道徳的な形式主義ではなく、愛の生きた現存、昨今よく言われるような現在の「時間化」そのものであり、現在と現存についての根源的経験なのです〉p.97

〈〈啓示〉は愛であり、人間の応答を待望しています。とはいえ人間の応答は、神に発する動きが開拓した道を遡上するものではない。そうではなく、神が人間に捧げる愛への応答は、みずからの隣人に対する人間の愛なのです。自らの隣人を愛すること、それは〈永遠〉へと向かい、世界を救拯し、神の王国を準備することです。人間の愛が〈贖い〉の働きそのものであり、その効力なのです……死の瞬間そのもののなかに、死に対する勝利が存しているのです〉p.98

〈このように〈永遠〉は、個体を吸収するような論理的理念性とはみなされていない。それは愛が世界に浸透していくことであり、また、どんな被造物もが「われわれ」という語に参画しうることなのですが、ただし、こうした共同性のなかで被造物が無化されてしまうことはありません。〈贖い〉とは、「〈自我〉が彼にきみと語りかける術を学ぶこと」なのです〉p.98-99

〈諸瞬間の散らばりを支配する永遠の観念と、神の王国に向けられた宗教的共同体の観念との接近がローゼンツヴァイクの思考のなかで図られ、より顕著なものと化していく〉p.99

〈ユダヤ教が「終末から始める」のに対して、キリスト教は逆に、世界の暦法を真面目に受け止めます。キリスト教はつねに端緒にあるのです。キリスト教の永遠は自閉したものではなく、時間と広がりを同じくしています……キリスト教の永遠は永遠の〈道〉であり、〈歩み〉であり、〈使命〉であるのです。〈受肉〉から〈臨在〉へと向かう、止まることのできない不可避な拡張として、キリスト教は世界を横断して、異教徒社会をキリスト教社会に変じ、数々の制度と人格を魅了すると共に数々の文化と国家を創設したのでした〉p.103

〈ユダヤ教は神のもとにある限り、生きたものであり真実のものであるが、キリスト教は、世界のなかを歩き、世界に浸透していく限りで、生きたものであり真実のものなのです〉p.105

 清宮の画きたかった〈オバケ〉

 高山の触れていた〈アミーバーの心〉

 モネの〈睡蓮〉

 そこにある他者、表れ(顔)としての

〈ところで、所有格が人間の真理に属しており、真理がつねに私の真理であるのは、真理が私を巻き込むからであり、私が私の召命からは逃れられないからです。真理は人間のためにあり、それは人格的です……真理は私の真理である、と言うことはつまり、真理は観照に還元されるものではなく、生が真理に課する試練に生による真理の立証に帰着するという意味でありましょう……このような真理論を、ローゼンツヴァイクはメシア的「認識論」と呼んだのでした〉p.106

〈たとえば、忌避不能な責任という主題……それゆえ、万人のために生き、そうすることで、盲目的な諸力の宣告に抵抗するような人格の責任であります〉p.109

〈アブラハムの家から追放された、ハガルとイシュマイル砂漠をさまよいました。用意していた水も尽きてしまいました。神はハガルの目を開き、彼に井戸を示しましたが、すると天使たちはこう抗議しました。「ああ、永遠なる主よ、あなたは、やがて敵と化すであろう子供たち――イスラエルの兄弟――の先祖となる者たちの渇きを癒そうとなさるのですか!」明日のことなどどうでもよい、と永遠なる主は申されました。私は各人を、そのものが生きているまさにその時に裁く。今日、イシュマイルに罪はない、と〉p.110

〈具体的なものへ(Vers le concret)、それは何よりも、体系という防御壁の外という意味です……具体的なものへ、それは静的な「事象との一致」をはみ出し、存在の一切の措定の彼方にあるような「形而上学的経験」へのこのような回帰なのです〉p.119-120

《ヘーゲル弁証法は、ここと今の空虚と無を示そうと努めているが、キルケゴールにとっては今とここは本質的なものだった。こことそこにしか実存はない。偶然的なものはその性格を維持しつつも、逆の性格をまとって永遠なものと化すのでなければならない。歴史的なものは永遠なもののきっかけではなく永遠なものそれ自体でなければならないのだ》p.121 (ヴァール『キルケゴール研究』(Études kierkegaardiennes

 書いているのは誰か 語っているのは 「再会」と感じさせるのは

《現前も不在もない。あるのは現前-不在であり、距離と非-距離である》p.123(ヴァール『詩・思考・知覚』)

〈自分自身との不等な同一性の緊張であり、痙攣のごときものがあるのです。ヴァールが好んで引用していた詩人トマス・トラハーン〔Thomas Traherne 1636-1674 イギリス〕の表現を用いるなら、〈まったく小さな事象のなかで絶対的なものが感じ取られる〉のです(『形而上学概論』)。自己との不均衡、それこそが具体的には主体性を表しているのです。欲望と問いかけと弁証法を表しているのです〉p.123-124

《弁証法とは不幸としての意識である。それは、たえず蘇生する隔たり――意識を諸事象ならびにそれ自身から分離する隔たり――によって引き裂かれた意識なのだが、ヘーゲルが看取していたように、われわれの宿命はおそらくこの不幸を幸福たらしめることにある。精神の数々の動きを、われわれが、事象の多様性における無限なものの表現として知覚するとき、不幸は幸福と化すのである》p.124 (ヴァール『形而上学概論』)

 他者とは、つねにここにあり、私を真理へと促すもの

 臨在、絶えざる、それに気づくとき、「降りてくる」と感じるのだろうか

 絶えざる超越への希求として

 それは、「真空」なのかもしれない

〈「われわれの宿命」、なのでしょうか。いずれにしても、ここには逆転があります。実際、「形而上学的問いは(…)世界と同様、われわれ自身をも危険にさらす」(『形而上学的経験』)のです。冒険は人間的なものをはみ出し、それゆえ、超越の生の鼓動が打たれるところで、人間的なものを描き出します。人間的なものとは――それ自体で――乗り越えという根源的な挙措ではないでしょうか……超越は、それが呼び求める数々の機関や機能には還元されたりはしません。超越は現出には還元されないのです。そこから、次のような不可思議な表現が生じることになります。「意識されているところのものは、意識されていないところのものである。思考しているのは、思考せざるものである。思考しているのが思考せざるものであり、意識されているのが意識されざるものであることの象徴としての身体(corps)。」(『詩・思考・知覚』したがって、意識と思考は、それらによっては汲み尽くすことも包括することもできないもののなかで、逆に意識と思考を引き起こしてそこでみずからを成就しようとするもののなかで生じることになります〉p.124-125

〈彼方と手前〔此岸〕との――いと高きものといと低きものとの――交換可能性は永続的な緊張であって、ヴァールはいつもそれに屈していたのですが、そうした緊張が彼の思想の最深部に属していたのです。重要なもの、それは超越なのです。形而上学的経験においては、認識することを超えて、人間の冒険が神曲を演じます。「ほとんどの偉大な形而上学者たちの宗教的経験を考慮することなしには、形而上学史をものすることは不可能であろう。」(『形而上学的経験』)ただし神、それは先に述べたような彼方ないし手前――このずれ、この連続性の断裂について語られるものです〉p.125

《人間が現前を感じるとき、感じているのは人間ではなく、神が人間を感じているのであり、人間は自分が感じられるものであることを感じるのである》p.125

〈ヴァールの形而上学的経験、それはここに先立つ彼方である。ここに先立ってであると共に、いまひとつのこことして定置されてしまうようなあそこよりも遥かなもの〉p.126

《超越,それは乗り越える行為であると同時に,この乗り越えが向かうところの対象でもある》(『形而上学的経験』)

〈「人間はつねに自分自身を超えたものである」――これは、人間の自同性が喪失されてしまうような恍惚を示した言葉ではありません。「深甚な仕方で擾乱し、高揚させる経験」、ヴァールはその最後の著書の最後の行にこう書いています〉p.127

《われわれを捉えて引き離さないのは詩句の意味ではなく、意味がわれわれのうちで示唆する他のもの、内的な随伴物である》p.130 (『詩・思考・知覚』)

〈形而上学的緊張とは絶頂に達した理性であり、意識の喪失にまで、「超-真理」――それはまた真理以下のものでもある――たる語りえないものにまで高められた意識ではありますが、決して非合理なものではないのです!〉p.131

〈この輝き――この〈同〉のなかの〈他〉――この超越――〈他〉による〈同〉のこの覚醒――輝きによってさらに際立つこの点描――それこそが、えも言われぬもの(ineffable)ではないでしょうか〉p.138

〈他者への関係の倫理的意味は責任と化して、顔を前にしながら私に要求を突きつける見えざるものに応えている。どこからともなく、何時なのかも、なぜなのかも知られないまま私に到来して私を問い質す、そのような要求に応えているのである。責任を負うべき相手たる他者は「私の同類であり私の兄弟」ではあるが、ただし同類、兄弟はまた他なるものでもあって、それゆえ私は、兄弟の守護者たることへのカイン的な拒否を己がうちに聞き取るほどなのだ〉p.152

〈ここにいう意味とは,何らかのシニフィアンからそのシニフィエに向かう準拠の論理的構造の形式性によっては単に定義されることなき意味であり,より正確に言うなら,人間の友愛・兄弟関係の《一方は他方のために》(l’un-pour-l’autre)のまったき具体性において,先の準拠をその源泉に立ち戻らせる,そのような意味なのである……問題なのは,存在論には帰着することなく,存在についての経験には基礎づけられることなき近さ,社会性の意味論なのであって,そこでは意味性は形式的には定義されることなく,他の人間への倫理的関係によって,他の人間への責任と化したこの関係によって定義されるのである〉p.153-154

〈降りてくるもの〉は、〈私〉を真理の方へと誘っているのだろうか

 ――真理へと誘うのでなければ、降りてこないだろう

 それは〈他者〉であるか?

 ――〈私〉に理解しえない、〈私〉を誘うものは〈他者〉である

 しかし、触れようとして触れられるものだろうか? 画こうと、捉えられるものだろうか?

 ――在った、痕跡としての徴

〈他者はそこで「間接的に呈示」される。数々の徴や身振りや表情の変化や言語や作品によって告知されたものとして、つねに現れるのだ……それに対して顔の秘密は、知識以上に野心的で知識としての思考とは別用に描かれるような別の思考の裏面ではなかろうか。事実、顔は静謐なる知覚に差し出された形象ではない。まずもって、顔は私を指名し、私に要請し、私を責任へと呼び覚ます。それも、いかなる経験においても私が契約したことのない責任へと、である〉p.154-155

〈他者の異邦性、ただし、まさに異邦のものたるがゆえに他者は私を問い質す。それも、どこからともなく、あるいはまた、異邦人を愛する未知の神から私に到来するような要請を私につきつけることで〉p.155

 この世界の痕跡性について

〈問題は神という語の意味、その最初の原名の回避不能な情勢(circonstances)である。最初の祈禱、最初の典礼の回避不能な情勢である。超越は、他者に対する責任のこのような倫理的情勢と不可分なのだが、そこでは等しからざるものについての思考が思考されるのであって、それはノエシスとノエマのゆるぎない相関関係でももはやなく、また、〈同一者〉の思考でももはやない。そうではなく、絶えざる責任として、かかる思考は自我としてのその唯一性を顔の公現から引き出すのだが、そこでは、諸々の存在論の要求とは別の要求が意味を獲得しつつあるのである〉p.156

〈これらの領野が還元不能なのは、認識された世界の相対性のうちに――言い換えるなら、現象学的還元に原則的には従う秩序のうちに――挿入されながらも、これらの領野が、われ思うならびにその絶対性からなるノエシスの文脈に、その素材に、まさにその肉(chair)に属しているからである〉p.158-159

〈思考の根源的な受肉、それは客観化・客体化の用語で表現しうるものではない。『ィデーン』第一巻でのフッサールは依然としてそれを、統覚という用語で示唆していたのだったが、そうした受肉は、観照的あるいは実践的などんな態度決定にも先立っている〉p.160

〈自己の身体、生。生はここにある。言い換えるなら、空間の一点にあるのだが、この場所のなかに、感覚することの出発点が、「観点」がある〉p.160-161

〈感受性は、触れることならびに見ることの「認識」とは別の仕方で、他者に接近しうるという考えは、現象学者たちの分析とは無縁であるように見える。心性は意識であり、「意識」(conscience)という語のなかでは、知識(science)という語幹が本質的で第一義的なものでありつづける。このような社会性は、知識が意識を断つことがないのと同様に、意識の秩序を断つことがないのであり、知識は、知られたものと一体化しつつ、自分にとって異質でありえたものともただちに一致してしまうのである〉p.166

〈他者は顔において、倫理的責任を惹起しつつ、抹消不能な他者性に即して接近されるのだが、他なるもの、それも絶対的に他なるものに近づきうるという人間の可能性としての社会性は、顔にもとづいて意味され――言い換えるなら、命じられる……社会性は、人間的なもののなかで、人間的なものによって人間的なものに固有な善性を証示するようなまったく新たな様態なのである。社会性の卓越、それはおそらく愛の卓越であろうが、そのような卓越のなかで統治しているのは、たんに存在とその統一性の法則だけではない。社会的なものの精神性はまさに「存在するとは別の仕方で」(autrement qu’être)を意味しているのである〉p.167

〈人間的なもの同士は互いに異邦の存在ではあるが,社会を形成することができ,社会では絆はもはや,諸部分の一個の全体への統合ではない。たぶん,この絆は人間に対して人間が《無-関心-ならざること》のうちに宿っているのだろう。愛とも呼ばれる絆であるが,それが異邦性の差異を吸収することはない。このような絆は,人間の顔を介して,世界の外なるいと高き所から到来する言葉ないし命令を起点とすることでのみ可能なのである〉p.168

 他者を感受する そこに社会性が開けている

〈「超越的〈自然〉、自然主義にいう即自と、精神やその活動やノエマの内在性とのあいだに、何かが介在しているのは疑いない」(『シーニュ』)。この何かについての存在論は感受性のうちに書き込まれており、感受性という還元不能なものにあっては、思考と延長との関係は世界への居住(habitation, incolere)――、文化(culture)を創始するこの住むという出来事であることになります。感受性においては、自我と世界という他なるものとの関係は、構成的能作によって世界を同化することではなく、外面的なもののなかでの内面的なものの表出(expression)、文化としての生でありましょう〉p.180

〈握手は差異(différence)のなかに――隣人の近さ(proximité du prochain)のなかにあるのではないでしょうか……この差異は――平和・平安の新たな意味性であって、それは指向性や主題化としての心性によっても、情報の伝達によっても担われることなく、《他者‐に対する‐責任》という《無差異・無関心ならざること》(non-indifférence)によって担われているのです……感情とは他人に自分を合わせること(s’accorder)であり、言い換えるなら、他人に自分を与えることではないでしょうか。もちろん、すべての感情が愛であるわけではありません。けれども、そんな感情も愛を想定しているか、さもなければ愛を逆転したものなのです〉p.183

〈私の思考の外にあるような思考の存在と係わり、「話しかける相手」がそこにいるという事実を開示する危篤の認識や、さらには直接的で即座の認識をも超えて――あるいはその手前で――、感情移入はそれ自体ですでに――しかも十全な仕方で――ひとつの社会的関係なのではないか……フッサールは、「私は自分を移入する」(Ich fühle mich ein)という再帰動詞の人称的形式のもとにこの感情移入を表現したのでしたが、感情移入はすでにして共感のごとき響きを、友情のごとき響きを、一種の兄弟愛的な憐憫のごとき響きを有しているのではないでしょうか。言い換えるなら、他の人間の「被ること」(subir)を自分の責任で引き受けることとしての響きを有しているのではないでしょうか〉p.185

〈「自己を他者に借りること」は感性的構成の秩序に属しているのではありません。それは他人に「先手」を認めることなのです! 自己を借りること――、当初から両義的なものたるあの接触のなかに潜んだ(s’insinuant)社会性を表す比喩に他なりません〉p.186

〈《無-関心-ならざること》、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異――《無-関心-ならざること》――、そこでは、他なるもの――それも絶対的に他なるもの――、こう言ってよければ、〈同じ類〉――自我はそこからすでに解き放たれた――に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものが私を見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものを私は「見つめる」、それは顔なのである〉p.204

〈その結果、個的なもの――アリストテレス以来知られているように、「それだけが実在する」のだが――の本性と匿名性に、心的実在の展開に、思考可能なものすべての母体と化した主体的なものに、諸観念と諸概念の普遍性ならびに理念性を、そしてまた、「われ思う」――かつては思考スルモノと延長セルモノ双方を先見的に支配しているように思われていた――の統一性を還元しようとする誘惑が生じることになる〉p.242-243

〈意識は自分とは異なる何か、その指向的相関者、その思考されたものについての意識である〉p.243

〈絶対的かつ純粋で、ノエシス-ノエマ的生がそこに遡ると共にそこから発するところの〈自我〉。そのような〈自我〉が〈超越論的還元〉のこのうえもない方法論的試練を支え、そしておそらくはそれに耐えているのであろう〉p.247-248

ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考

 熊野純彦(2002).ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考.筑摩書房

〈近代化の哲学的基底を手繰りよせようとしたヘーゲルの思考が、その展開のさなかで〈近代批判〉をむしろ孕まざるをえなかったのは、ヘーゲルの哲学がその根底にあって、近代的な思考の枠組みから溢れでてしまう発想の核を内部に懐胎していたからにほかならない。いわゆる〈体系〉は、ここでもまた軋んでゆく〉p.5

〈真なるもの、真理は、とはいえ第一義的には「主体として」、すなわちみずからのうちに運動の原理を孕むものとして「とらえ表現」されなければならないのである〉p.9-10

〈知が「真なるもの」(das Wahre)、存在者のほんとうのありかたを追いもとめようとするかぎり、知は直接に現前するものを超えて、その背後へとさかのぼろうとする。そのようにとらえられた「背後」(Hintergrund)こそが存在の真なるありかた、つまり「本質」ないしは「実在」(Wesen ウーシア)にほかならない〉p.13

〈これにたいして、知の運動が同時に存在の運動であり、知と存在が運動にあって相即し、いわば共変的であるならば、生成するものはたんに知の真理であるだけではなく、同時に存在の真理である……そこでは、真理それ自体が生成する……「存在」がそれ自体として〈生成〉の相のもとにとらえられるとき、真理それ自身も運動をまぬがれることはできない。真理もまた〈他なるもの〉となり、〈他なるもの〉との関係のうちにある〉p.17

〈〈あるもの〉つまり意識にとっての対象は、意識とはべつのものであり、意識にとって〈他なるもの〉でありながら、意識はこの〈他なるもの〉に関係している。このような区別と関係が存在するとき、〈あるものについての意識〉が存在している。〈あるものについての意識〉が存在する、とは、ことばをかえれば「あるものが意識にたいして存在している」(es ist etwas für dasselbe)ことであるといってもよい〉p.32

《同時に、意識にとって〔自体という〕この他なるものはたんに意識にたいして存在するばかりではなく、この関係の外部に、あるいは自体的にも存在する》(zugleich ist ihm dies Andere nicht nur für es, sondern auch außer dieser Beziehung oder an sich) p.41

〈このように(知覚し、ときに錯覚もして、錯覚もまずは知覚としてあたえられるような)経験する意識そのものに密着してかたるかぎり、変化するのはたんに「知」(「見え」あるいは「おもいなし」)ばかりではない。知が変容するとき、対象もまた変化する。経験する「意識にとって」存在する「自体」が変容する。対象にかんする知が変貌するというよりも、むしろあらたな対象が生成するのである〉p.50

〈あらたな〈自体〉がうまれるとき、真理それ自身があらためて生成する。生成した真理は経験する意識にたいしても存在するが、真理の生成そのものはただ〈われわれ〉にたいしてのみ存在する。〈生成する真理〉じたいには、しかしたしかに意識そのものがあずかっている。このことの消息を、それではどのようにとらえればよいのだろうか。真理の生成とともに意識の経験が進展するとすれば、経験のそうしたすすみゆきはどのような意味をもつのだろうか〉p.53-54

《意識が自己じしんにそくして、みずからの知についても、みずからの対象にかんしても遂行する、この弁証法的運動が、意識にとってあらたな真なる対象がそこから生じてくるかぎり、ほんらい経験と呼ばれるものである》p.54

〈ここに、ヘーゲルの意識観にとって本質的なことがらが、目立たないかたちで述べられているとおもわれる。それは、意識はみずからを超えでてゆくということ、つまり意識は〈自己超越〉という性格を有しており、その性格はしかも意識の〈地平〉構造とむすびついている、ということにほかならない〉p.59

〈〈自己超越〉は、「自然」的には「死」を意味する。死である自己超越は、しかし当の死にゆくものに意識されることがない〉p.60

〈知と対象の変様を介して経験は生成し、〈真理〉はそれ自体もまた生成する経験のなかでのみあらわれる。ことばをかえれば、経験は生成してゆく真理へとみずからあずかってゆくことで、それじしん生成し変容するのである〉p.67

〈個別的なものを対象としながら、しかし同時にその「かたわらで戯れているもの」たちへ、るいは、「制限されたもののかたわらに存在する」ものたちへ、つまりは個別的なものを裏うちする地平へとむかってゆくとき、意識はいわば「みずからを二重化」(sich verdoppeln)している。意識は、一方では個別的な「このもの」へとむかい、他方では「このもの」の「かたわら」にある、無数の「このもの」たちにむかっているのである。意識がみずからを二重化し、〈分裂〉(sich entzweien)するときはじめて「普遍的なものが普遍的なものにたいして存在する」(das Allgemeine für das Allgemeine zu sein)ことになる〉p.66-67

〈レヴィナスにとって、西欧の思索はつねに「存在の思考」であって、そのそもそもの始原にあって排除されたものが「存在するとはべつのしかたで」開示されるもの、つまり「他者」にほかならない。レヴィナスとしては、むしろこの「他なるもの」の排除のうちにこそ、西欧の理性の歴史がはらむ暴力の問題を見てとっている〉p.81

〈よく知られているようにヘーゲルは、絶対的な知の構造を「絶対的に他なる存在のうちで純粋に自己を認識すること」(das reine Selbsterkennen im absoluten Anderssein)のうちに見さだめていた。こうした知が他なるものへの暴力、つまり他者の殲滅へと転化する回路を遮断するための論理を、ヘーゲルは用意していたのであろうか?〉p.101-102

《ここで罪はひたすら認識のうちにある。認識が罪ふかきものであり、認識によって人間は自然な幸福を破壊したのである。これは、意識のうちに悪があるというふかい真理なのである》p.110

〈純粋洞見は「精神の自己意識」であり、「実在を実在としてではなく絶対的な自己として知る」意識である。実在はもはや、自己意識にとって疎遠な自体として存在しているのではない。世界もまた、自我と無縁な存在者の総体ではありえない。実在するものは、そこで精神が自己を認識する当のものであり、しかも「絶対的に」自己を認識する〉p.113

〈ヘーゲルにあって自己とは関係として存在する個体であって、関係をはなれて自己はない。関係とはそのとき、自己にかかわる他者のかたちそのものでもある〉p.158

〈他者の存在は、私の存在とひとしい。他者は、そのひとしさにおいて私と関係している。そうでなければ、他なる存在は他者ではない。他者の存在はしかし他方、私の存在とはことなっている。私とひとしく、それが私であるものは他者ではない。他者は、私との関係から逃れでて、溢れでてゆくものである。他者とはかくして、私と同等で、同時に私にとって異他的なあるものとなる。あるいは、私との差異そのもののことであるといってもよい。他者とは、かくてそれ自体として一箇の問題なのである。他者は私にたいして現前する。他者はしかし、私からへだてられて現前している。他者は私からへだてられているばかりではない。他者とは隔たりそのものでもある。他者について考えるとは、隔たりであり差異であって、しかもなお「私」にかかわり「私」のうちに食いこんでくるものを、どのように思考すればよいのか、という問題それ自体であるといってもよい〉p.158-159

 人は生きているときに生きていないのはなぜか。

 この世の外から語りかけてくるもの、〈他なるもの〉

〈生ける存在者のおのおのは、むしろ生命一般とは区別され、そこから分離していることで、生あるものである。生ある存在者はつまり、生命そのものとはへだたっている。その隔たりが解消し、生ける存在者が生命一般と完全に一致するのは、かえってそれが死滅するときであろう。生あるものは生命そのものではない〉p.163

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