思考

この世の外から語りかけてくるもの

 この世の外から語りかけてくるものがある。

 生を生たらしめているもの。

 つねに傍らに存在するもの。

 しかし捉えられないもの。

 画家はそれを描こうとし、音楽家はそれを奏でようとする。

 文学の表現したいのもそれである。

 生とは、それとの対話である。

 例えば、人の支援をしている人が日々感じているのは人を理解する際の労苦と、ときおり訪れる喜びであるが、それらはともに、つねに傍らに存在するものの促しによる。

 喜びとはそれとの対話である。労苦もまた。

 〈学問と忍耐、責め苦こそが必定だ〉A.R.

 考えているのは、生きているのはむろん私ではなく、その捉えられないものである。

 それを大切にするために私は存在する。いつまでも。

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(冬の光)

共にあること

 共にあることのよろこびを 今かみしめている

 美しい心と共にあることの

 かけがえのない時間

 あなたの再生の時間

 オルゴールの響きの中で

 幾重にもふり積もった 思い出せない記憶の中で

 泣き笑い 悲しみ

 何度も生きなおして

 これはここにあるよろこび

 生まれたてのよろこび

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(キラキラ)

ほんとうの自分

 〈自分だとは気づかないほんとの自分は、誰のところに行って生まれ替るのか。自分の生まれ替りのどこかの誰かとは、一生のうちにどのように相逢うことが出来るのか。それは今までに逢ったうちの誰なんだろう。もどかしいようななつかしいような、せつなくなって躰を起し、あたりを見渡せば、木立の裾を燃えたたせながらあかあかと彼岸花の群生が、山畑(こば)の拓きの縁を経めぐり林の奥に綴れ入っている。いのちの精が燃え立っているようで、わたしはあのひとたちの気配とまじわりながら、草の穂などを嚙んでいるのだが、山童の姿などはやはり見えないのであった。秋のつばなは、しるしばかりの味がしたが、野葡萄やサセッポの実は、渋い酸味を舌の上に浮かしていると、のどの奥がちりっとするような甘味が湧いてくる。笹の葉や松葉を嚙むと鼻先がきゅんとして、兎や猿の仔になったような気がしていた〉 (石牟礼道子『椿の海の記』より)

 かつて山中で鹿と目が合ったとき、目の前の枝にとまった蝉と目が合ったとき、初めて合う木に懐かしさを感じたとき、あるいはまた人と話していたとき…、それらの物にある気配を、私は自分だと感じた。

 不意に出合う、そこに自分がいる。ほんとうの自分は、そのように、私の意を超え、私を裏切りながら存在し続けている。

 うねりのように、見しらぬ深淵からの問いのように訪れる、あるいは居つづける。他者とも呼べぬ、親密なるもの。

 あそらくいっさいは私なのだ。生まれかわりとはそのことへの気づきである。

 この世にあるとは、生きるとは、見しらぬ私に出合い続けることである。それを大切にすることである。

001
(みんな仲よし)

 

人は生きているときに生きていないのはなぜか

 「人は生きているときに生きていないのはなぜか」

 この言葉を聞いたのはどこでだろう。

 ラジオか、夢の中か。

 この言葉を解釈すれば、人は忘我の状態においてこそ生きている、ということだろう。何かに純粋に没頭している状態、そこに「私」の意思が介在しているのではない状態、である。

 たとえば絵を画いているとき、対象そのものになっているとき。それは「私」が画いているのではない。絵が「私」を通して自己表現している。同じことは音楽でもスポーツでも仕事でも、要するにあらゆる活動において言える。

 そのとき、「私」はどこにも存在しない。

 あるのは表現されようとするものたちの意思だ。それはそれらの意思としてあるのではなく、存在すること自体のとる叫びだ。

 宇宙の表出されようとする表情だ。

 その表情を「私」たちは何とかしてとらえようとする。表情の裡にあるよろこびに惹かれて。

 そこに触れ得るのであれば死を厭わない。あるいは、そこに触れ得ることを死と言う。

 生きているとき、人は死んでいる。

 死とはそのような生を言うのではないか。

 そのような場所を、人は切望しているのではないか。

 だからこそのこの世の意味である。

011

(おおきなおつきさま)

 

純化

 生きるとは純化である。

 生まれた時に連れて来た異物を、生きる途中で否応なく纏ってしまう思念を、一つ一つ剥がしていく。

 

 それは他者になることである。

 私は私ではなく、見知らぬ何かである。

 その感じ方のうちに、無限の可能性が開かれている。

 私は私を知らない。それは知りうる何かではなく、また捕捉されるものでもない。

 

 死とは生への希いである。

 死にたいのは、生きたいから。

 死につづけるのは新たに生きるため。

 死とは矛盾するあれこれを受け止めること。

 それは他者になること。

001

(日々の生まれ変わり)

聖なるもの

 表層(表現)に出てこようとしないもの。創造に加担しようとしないもの。

 しかし確実に在る。

 表層(この世)に出てこないから、聖なるものとされる。出てこないから、支配的にふるまう。一切の生を促している。

 だが力及ばぬゆえ、この世の恣意にかき消される。

 それに気づくもの、その尊さに耳を傾けるものがこの世に在ることが、何より必要である。

 あるいは自らそうであろうとすること。

 そのために自在であること、聖なるものの意のままに――必然(自然)の意味。

 怒りのように、時に荒れ狂うのもまた、故なきこと。在ることの矛盾は自覚されていよう。

 雨風に揺れる木々のように、急流に身を翻す魚のように、存在のかたちのまま、聖なるものに向き合う(ボードレール風にいえば、酔うこと)。

 対話とは、相手に成ろうとすること――共有されるのは、聖なるもの。

 私は私ではない何かである。だからこそ、私は存在する。

 「おたく花してはりますねぇ、わたし人間してます」と対話されるのは、ある意識が共有されているから。仰ぎ見、気づかれた世界の鮮烈。

 それと共に在り続けること。

 見知らぬ地からの風を感じていること。

001

(花してます♪)

論理

 死とは生きようとする力である。

 私の中にある生命を感じてみよう。その核にある(ない)ものが死である。

 生きようとするそれは、発現のかたちをつねに模索している。

 それは無限の可能性である。

 可能性は夢を見ている。今あるそれを否定しつくしてなお生まれる思念を捕捉しようとする。その営みを論理と呼ぼう。

 植物に花が咲くこと、実が生ること、繰り返されること、別のかたちが生じること。一切は論理である。

 だからつねに論理とともにある。

 その閃きに酔い、不条理を受け入れる。

 望むのではなく、心を傾ける、砕く。変容に生きる。

 私の死を対象の動きにシフトさせる。拾い集め、纏い、晒され、すべてを感じとろうとする。それは人の営み。

 千たび死に(生き)、なお論理の生成を見守る。

 可能な限り意識を拡げ、どこまでも深化させる。人の存在理由である。

 この世が生まれる前まで遡り、生まれない(生まれたくない)可能性を感じとる。

 帰還し続ける。

 見たことのない風景に出合おうとして、自らを否定する。

 死が生に満ちてこそ、生は輝く。

001

(大切な命)

 

 

 

私の中にある死が私の生を欲望している

 私の生の連続性(生起)は、私の中にある死(他者)の欲望によると、感じられる。

 私の死とは、私ではない何かである。それを私は感知し得ない。だから他者と呼ぶしかない。生を欲しているのは、生ではないもの、つまり死である。

 例えば虚無に近い状態に至ったときに感じられるのは、生きようとする、何かの促し(力)である。

 この力は強い。生命そのもののような、論理のようなもの、否応なく生じようとするものである。

 この世のものではないかもしれない。ある人々はそれを霊と呼ぶのかもしれない。そのような何か。それに触れたいと思っているのだが、うまく感じ得ない。

 高山辰雄は「アミーバの心」と呼んでいた。清宮質文は「オバケ」と言っていた。かれらはそれを絵画に表現しようとしていた。

 音楽家ならば、それを音で表現しようとするだろう。

 そのためには労苦が必定だ。技巧と、「他者」を感じとること。つまり未知へと、不可能へと開かれてあること。

 それが生きること。

 私の中にある死は、一切の自己中心性を捨て去り、生とは何かの問いのうちに、あらゆる事象を感受しようと、全位相に開かれて在る。

 いまここの死がすべてである。

 始原の力である。その力が、全世界を掴もうと瞬時(無時間)に拡がる。

 だからこそ、私は無時間に生きる。

013

(名はミケランジェロ。小首を傾げた彫刻のよう)

 

 

 

超本性的

〈本性的な能力によって把握されるものはどれもこれもあやふやなものである。超本性的な愛だけが根拠をもつ。こうしてわれわれは共創造者となる。

 われわれは自分自身を遡創造することによって、世界の創造に参与する〉

  «Tout ce qui est saisi par les facultés naturelles est hypothétique. Seul l’amour surnaturel pose. Ainsi nous sommes cocréateurs.

  Nous participons à la création du monde en nous décréant nous-même»

                                           シモーヌ・ヴェイユ

          *          *          *

 私が生きているのは、私ではないものを大切にするためである。

 私が私でないことを実感し生きることを、遡創造(脱創造)と言う。その生き方が尊いというより、それが「生きる」ことである。それが世界の創造に参与することである。

 私が、愛するのではない。私でない何かが、私を通して愛するのである。それゆえに、それは代償を求めないし、また満足することもない。それは愛であると自覚されないかもしれない。しかしそれは、世界と共に、世界を創ろうとする行為である。

 「私ではない」対象といっしょに、世界を創ること。対象から感得される大切なものを探しつづけること。生きるとは、そういうことである。

014

(暖かな日差しを浴びて)

 

死とはなにか

 生を生たらしめているもの。

 生によりそい、生を支えているもの。何かしらあたたかなもの!

 無限とも言える。生命そのもの、と言ってもいい。

 物事の核心、所謂0地点。

 存在の輪郭は消え、生を渇望する気配に満ちた場所。

 言葉の溢れ出す場所、時の止まる瞬間。

 死とはそのようなもの。

055

(冬の光を浴びて/熊本再春荘病院)

 

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