思考

思考空間

 思考しているとき、見ている、あるいは感じられている「場所」を、「思考空間」と呼ぶことにする。

 親密さの感じられる巨大な魚と共に海水路をわたる情景。

 雨のような、網の目のような絹が降り注ぐ様。

 あるいは、形容しがたい、奔流のような、永遠へと続いているような開けた場所。

 おそらくはその背後に「現実」がある夢の夕焼け。

 そういう、思考にともなう、思考を促す空間。

 思考とは「見、感じられている場所にあること」と言えるかもしれない。

 そこで動きはじめるのは、だれの意思なのか?

 永遠へと続いているような場所、とは普遍のこと(自由)

 そこへと至る試みの途上に、私たちはいる(存在理由)

 実体ではなく、動き、流れ、訪れる何か。

 いまここ、の背後に、広大な「場所」がある。

 その認識、そこからの発語。

人の意思を超えるから人である

 モネはモネの意思を超えた時にモネになった。

 「一粒の麦が地に落ちて、死ななければそのままだが、死ねば多くの実をもたらすだろう」

 生まれかわり、あるいは受肉。

 恩寵、とは言えないだろうか?

 「私」が死ぬこと。

 (それが、生きること)

 そのために、私は問う。

 (星辰の明かりをよすがとして)

 「他者」との対話において、私はどこでもない場所に降り立つ。

 みちびかれ、「他者」の問いにとりこまれる。

 そこで感じられるのは、生でも愛でもなく、なにものかの意思。

 うごめくもの、わかたれざるもの。

人間ではないものの意思に生きる

 AI、ロボットの進化、宇宙開拓…。人間は、人間の意思を超える何かを欲している。

 それとの親和を求めている。

 個のレベルで言えば、私が私でないと感じられる地点を、私は求めている。あるいは、私がそこにあるとき、私は生きていると言える。

 「私」だけではなく、「人間」でも同じことが言える。

 人間は、人間の意思を超えた何かに触れているとき、生きている。

 何かとは、未知なるものである。絶対他者である。

 それは生命の根源である。

 触れている、そのことを大切にすべきである。

 「我を忘れる」とよく人は言う。私以外のすべてと一体になっている状態である。そのすべてを大切にしている時間のことである。

 高山辰雄が「アミーバーの心」と言い、清宮質文が「オバケ」と言ったものである。

 対象によりそうときも、対象を超えた何かに触れようとしている。対象といっしょに考える、対象の可能性を感じとろうとする、対象を動かそうとしている力の方へ私をシフトする、促されようとして傍にいる。

 そのために人は生きている。

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(あれは何山?)

 

論理とは何か

 論理とは、事象をその事象たらしめている形式である。

 例えば、蜂には蜂の思考(=生き方)があり、その方式(生き方)を蜂の論理と呼ぶ。

 昆虫学者は昆虫の論理を知ろうとして生きている。新しいそれを発見することが、その人の生きがいと言えよう。

 そのように存在する、存在のしかた。

 人はそれを捕捉しようとしてなし得ず、あるいはなし得ないからこそ、生をそのためにささげる。

 靴職人は靴の論理をどこまでも追究する。ある瞬間に、靴の側からの語りかけを聞くだろう。

 語りかけを聞きながら生きる(聞くことが生きることである)。

 論理とは存在のしかたである。

 存在のしかたは、存在しない側の論理にも規定されるだろう(生とは死である)。

 存在しない側の論理は、存在を促す。闇のように強く。

 深淵への親近感はそこから来るのかもしれない。

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(海辺の朝)

科学は人間の幸福のため?

 先日TVの対談番組で、1人の方が「科学は人間に幸福を提供するはずだった。科学はいったいどうなってしまうのか」と仰った。

 もう1人の方は、それに対し科学研究者の倫理に言及されていた。

 お2人の仰りたいことはよくわかるのだが、そもそも科学は人間の幸福のために生まれ、発達したのだろうか?

 おそらく科学は、自然(宇宙)が自らを知ろうとして、人の手を借りて生まれた。人は理論、技術の担い手に過ぎないのであって、主体は自然の側にある。そのことを自覚している人が少ないのではなかろうか?

 自然と共に生きる人々に共通しているのは自然への畏敬である。だから節度を守る。

 「自然に帰れ」とは、自然が自らを知ることを妨げないよう(傾聴)、共にあれ、ということである。人間社会はそのように発達してきたか?

 対象に寄り添い、その意思を感じとる、そこに人の存在理由はある。

 科学者に限らず、それはあらゆる人に言える。

 対象への畏敬に生きる、それは幸福である。

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(朝の光)

この世の外から語りかけてくるもの

 この世の外から語りかけてくるものがある。

 生を生たらしめているもの。

 つねに傍らに存在するもの。

 しかし捉えられないもの。

 画家はそれを描こうとし、音楽家はそれを奏でようとする。

 文学の表現したいのもそれである。

 生とは、それとの対話である。

 例えば、人の支援をしている人が日々感じているのは人を理解する際の労苦と、ときおり訪れる喜びであるが、それらはともに、つねに傍らに存在するものの促しによる。

 喜びとはそれとの対話である。労苦もまた。

 〈学問と忍耐、責め苦こそが必定だ〉A.R.

 考えているのは、生きているのはむろん私ではなく、その捉えられないものである。

 それを大切にするために私は存在する。いつまでも。

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(冬の光)

ほんとうの自分

 〈自分だとは気づかないほんとの自分は、誰のところに行って生まれ替るのか。自分の生まれ替りのどこかの誰かとは、一生のうちにどのように相逢うことが出来るのか。それは今までに逢ったうちの誰なんだろう。もどかしいようななつかしいような、せつなくなって躰を起し、あたりを見渡せば、木立の裾を燃えたたせながらあかあかと彼岸花の群生が、山畑(こば)の拓きの縁を経めぐり林の奥に綴れ入っている。いのちの精が燃え立っているようで、わたしはあのひとたちの気配とまじわりながら、草の穂などを嚙んでいるのだが、山童の姿などはやはり見えないのであった。秋のつばなは、しるしばかりの味がしたが、野葡萄やサセッポの実は、渋い酸味を舌の上に浮かしていると、のどの奥がちりっとするような甘味が湧いてくる。笹の葉や松葉を嚙むと鼻先がきゅんとして、兎や猿の仔になったような気がしていた〉 (石牟礼道子『椿の海の記』より)

 かつて山中で鹿と目が合ったとき、目の前の枝にとまった蝉と目が合ったとき、初めて合う木に懐かしさを感じたとき、あるいはまた人と話していたとき…、それらの物にある気配を、私は自分だと感じた。

 不意に出合う、そこに自分がいる。ほんとうの自分は、そのように、私の意を超え、私を裏切りながら存在し続けている。

 うねりのように、見しらぬ深淵からの問いのように訪れる、あるいは居つづける。他者とも呼べぬ、親密なるもの。

 あそらくいっさいは私なのだ。生まれかわりとはそのことへの気づきである。

 この世にあるとは、生きるとは、見しらぬ私に出合い続けることである。それを大切にすることである。

001
(みんな仲よし)

 

人は生きているときに生きていないのはなぜか

 「人は生きているときに生きていないのはなぜか」

 この言葉を聞いたのはどこでだろう。

 ラジオか、夢の中か。

 この言葉を解釈すれば、人は忘我の状態においてこそ生きている、ということだろう。何かに純粋に没頭している状態、そこに「私」の意思が介在しているのではない状態、である。

 たとえば絵を画いているとき、対象そのものになっているとき。それは「私」が画いているのではない。絵が「私」を通して自己表現している。同じことは音楽でもスポーツでも仕事でも、要するにあらゆる活動において言える。

 そのとき、「私」はどこにも存在しない。

 あるのは表現されようとするものたちの意思だ。それはそれらの意思としてあるのではなく、存在すること自体のとる叫びだ。

 宇宙の表出されようとする表情だ。

 その表情を「私」たちは何とかしてとらえようとする。表情の裡にあるよろこびに惹かれて。

 そこに触れ得るのであれば死を厭わない。あるいは、そこに触れ得ることを死と言う。

 生きているとき、人は死んでいる。

 死とはそのような生を言うのではないか。

 そのような場所を、人は切望しているのではないか。

 だからこそのこの世の意味である。

011

(おおきなおつきさま)

 

純化

 生きるとは純化である。

 生まれた時に連れて来た異物を、生きる途中で否応なく纏ってしまう思念を、一つ一つ剥がしていく。

 

 それは他者になることである。

 私は私ではなく、見知らぬ何かである。

 その感じ方のうちに、無限の可能性が開かれている。

 私は私を知らない。それは知りうる何かではなく、また捕捉されるものでもない。

 

 死とは生への希いである。

 死にたいのは、生きたいから。

 死につづけるのは新たに生きるため。

 死とは矛盾するあれこれを受け止めること。

 それは他者になること。

001

(日々の生まれ変わり)

聖なるもの

 表層(表現)に出てこようとしないもの。創造に加担しようとしないもの。

 しかし確実に在る。

 表層(この世)に出てこないから、聖なるものとされる。出てこないから、支配的にふるまう。一切の生を促している。

 だが力及ばぬゆえ、この世の恣意にかき消される。

 それに気づくもの、その尊さに耳を傾けるものがこの世に在ることが、何より必要である。

 あるいは自らそうであろうとすること。

 そのために自在であること、聖なるものの意のままに――必然(自然)の意味。

 怒りのように、時に荒れ狂うのもまた、故なきこと。在ることの矛盾は自覚されていよう。

 雨風に揺れる木々のように、急流に身を翻す魚のように、存在のかたちのまま、聖なるものに向き合う(ボードレール風にいえば、酔うこと)。

 対話とは、相手に成ろうとすること――共有されるのは、聖なるもの。

 私は私ではない何かである。だからこそ、私は存在する。

 「おたく花してはりますねぇ、わたし人間してます」と対話されるのは、ある意識が共有されているから。仰ぎ見、気づかれた世界の鮮烈。

 それと共に在り続けること。

 見知らぬ地からの風を感じていること。

001

(花してます♪)

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