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神の亡霊

小坂井敏晶(2018).神の亡霊.東京大学出版会

〈〈私〉はどこにもない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるだろう。プロジェクタが像をスクリーンに投影する。プロジェクタは脳だ。脳が像を投影する場所は、自らの身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する……これら対象にそのつど投影が起こり、そこに私が現れる。私は脳でもなければ、像が投影される場所でもない。私はどこにもない。私とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである〉p.30

〈今見えている星の光は数十万年も前に放たれた。星はもう寿命を終えたかも知れない。それでも私たちにとって星は輝き続け、存在感を失わない。二人称の死はそれと似ていないか……私の記憶という表現はおかしい。私とは記憶そのものだ。他者と共有した時間をすべて取り除いたら、私自身が消失する。だから身近な人を亡くすと、その写真にいつまでも語りかけ、遺品を大切に取っておくのだろう。葬式は、残された者の記憶を整理して、生前とは別の場所に死者を住まわせるための手続きだ。一人称の世界は他者との関係に絡められた、本当は二人称の社会・心理現象なのである。ビデオ・ゲームやインターネットの仮想世界で育ち、二人称の人間関係を知らない若者が他人だけでなく、自分の命にも現実感を持てない理由は、この辺りにあるのかもしれない〉p.32

〈呪術や宗教と科学は合理性の程度によって区別されるのではない。合理性とは、集団相互作用が産み出す間主観性の別名だ。独りでくつろぐ時でさえ、我々は個人として判断するのではない。集団の思考枠を通して世界の出来事を把握する〉p.51

〈だが、神は存在せず、善悪を自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった。生命倫理の分野だけでなく、同性結婚・性別適合手術・近親相姦などの是非を判断する上で、近代以前であれば聖書などの経典に依拠すれば済んだ。あるいはその解釈だけで事足りた。しかし道徳を正当化する源泉は、もはや失われた〉p.81

〈人民の下す判断を真実の定義とする。これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理だった……軽罪裁判所の判決が控訴可能なのは、職業裁判官が裁くからである。裁判官には誤判がありうる。官僚がまちがえても、それは技術的問題にすぎない。だが、重罪は人民が直接裁きを下す。したがって国民主権の原則により、異議申立ては許されない。人民の裁断を真実の定義とする以上、控訴は原理的に不可能なのである〉p.93

〈共同体の外部に投影されるブラック・ボックスを援用せずには秩序を正当化できない。人間自身が生み出した規則にすぎないと知りながら、どうしたら道徳や法の絶対性を信じられるのか。人間が決めた規則でありながら人間自身にも手の届かない存在に変換する術を見つけなければならない。だが、これは、人民主権を極限まで突き詰めたルソーが認めるように解決不可能なアポリアである〉p.95

〈普遍的だと信じられる価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしても良いということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要と相対主義は何ら矛盾しない。人間は歴史のバイアスの中でしか生きられない。社会が伝える言語・道徳・宗教・常識・迷信・偏見・イデオロギーなどを除いたら、人間の精神は消滅する。考えるとは、感じるとは、そして生きるとは、そういうことだ〉p.96

〈倫理判断や裁きは合理的行為ではない。信仰だ。それゆえに強大な力を行使する。裁判と神は同じ論理構造に支えられる。裁判は力だ。有無を言わさず、それ以上に議論を遡及させない思考停止の砦をなす。人権思想は現代の十戒である〉p.98

〈普遍と主体、この原理的に矛盾する二つの信奉が近代を特徴づける神の臨終を聞いた時、これからは自分たちが世界を築き上げるのだと人間は誓った。意志の力を信じ、歴史変遷は人間が司るのだと了解した。理性を通じて真理が明らかにされ、世界は次第に良くなると確信した。政治哲学はこの地平に立つ。普遍的価値が存在せず、人間の意思とは無関係に世界が進行するならば、議論する意味が失われる〉p.134

 普遍的価値が失われたのなら、ひとりひとりが価値を見い出していく、そのための理性である。

 客観批評、主客合一、「私は一個の他者である」

 主体は人間にではなく、理性にある(人間は理性の過る場所である)

〈突然変異と自然淘汰により種が変化するとダーウィンは説いた。進化に法則はない。生物の未来は偶然に委ねられる。適者生存の意味を誤解し、より良くなることが進化だとする歪曲は、主体と普遍を信じる近代が誘導する論理的帰結である……善悪の問いに普遍的価値は存在しない。そして歴史は人間の手を離れ、自律運動する……近代は神を殺し、真理の内部化を夢見る。しかし外部は消せず、真理は存在しない。神の亡霊はしぶとく彷徨い続ける〉p.137

〈出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性としてメリトクラシーは歓迎された。そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる。社会を開くはずのメカニズムが逆に社会構造を固定し、閉じるためのイデオロギーとして働く。しかし、それは歴史の皮肉や偶然のせいではない。近代の人間像が必然的に導く袋小路だ〉p.159-160

〈…才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。確かに偶然にも左右される。しかし偶然も外因である。能力を遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定立できなくなる。社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。認知心理学や脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。外因をいくつ掛け合わせても内因には変身しない。したがって自己責任の根拠は出てこない〉p.160

〈運命として諦める。最終責任を引き受ける外部は、神や天のように主体として表象されなければ機能しない。隠された大きな意志が関与すると感じる時、人は救われる。近代は、この外部を消し去り、原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う強迫観念が登場する〉p.163

〈生き物としての人間、生身の人間が世界を作り、営む。他者の行為に我々は単に論理だけで反応するのではない。喜びや怒り、悲しみとともに意味を把握する。感情や認知バイアスをいう濾過装置を通さなければ生きられない人間存在が、哲学者や科学者の覚めた論理で理解できるはずがない。重力により曲げられた空間を通る時、光は直進しない。二点を結ぶ最短距離は直線を描かない。意味とは何か。わかったと感じる時、何が起きているのか〉p.206

 無意志的想起、超越、普遍は、個と共にあり、個を癒す、それが生きるということ。

 過去(死者)と共にあることもまた

 見出されなかったものたちを開放すること

 耳を傾け続けること

〈合理的対処だけでは人間の葛藤や紛争を解決できない。道徳教育は、共同体の価値観を子どもに強いる精神的暴力だ。だが、それなくして共同体の絆は保てない。抵抗なく、法を受け入れさせるために宗教が不可欠だとルソーは気づいた。友愛という、曖昧で異質な要素が「社会契約論」に突然現れたのは、こういう事情による〉p.289

〈私的な欲望ではなく、一般意志こそが各人の心の奥から出て来る本当の意志である。したがって、一般意志に背く市民に服従を強要しても自由は侵害されない。人間は強制的に自由にさせられるとルソーは同著で断言する。ひとは自らの真の欲望を発見し、ついに解放される。人間革命だ。ヒトラーかスターリンの言説と見紛う論理がこうして成立する〉p.291

〈主体という内部はどこにあるのか。空間軸に投影された内部/外部という二項対立がすでに勘違いの元だ……壊れた機械を修理したりスクラップにして廃棄処分するように、社会にとって有害な人物を再教育したり、刑務所や精神病院に閉じ込めたり、あるいは死刑に処する、つまり正常に機能しない機械は修理するか壊すという発想ならば、責任は無駄な概念になる。このように、単なる自律性とは区別して、我々は人間の主体性を理解する。では主体性はどこにあるのか〉p.317

〈神という外部に依拠できなければ、根拠は個人に内在化されざるをえない。最終原因・根拠を外部に見失った近代は、こうして自由意志と称する別の主体を内部に捏造する……主体はモノでもプロセスでもない。個人の心理状態でもなければ、脳あるいは身体のどこかに位置づけられる実体でもない。自由意志が発動される内部はどこにもない。時間軸上に置かれた行為の因果律と主体は無関係だ。主体とは、責任を問うための論理であり、認識形式である。犯罪や不平等など、不都合な事態に際して、誰かに責任を押し付けて収拾を図る社会規範であり、イデオロギーである〉p.318-319

〈数学と同じ論理構造に歴史が従うならば、世界は原初から決定されている。そもそも歴史は可能なのか。法則を破る出来事、因果律に楔を打ち込んで方向を変える契機の積み重ねが歴史であり、真の意味での変化である。時間を捨象する科学に継時変化は捉えられない〉p.381

《「原因としての意志」はあくまで擬制的存在であって、この事情を見抜くことこそ哲学的行為論の第一歩というべきである。だがそれと同時に、意志なるものが存在し、原因として作用するという観念ないし信念がわれわれの生活を動かしている重要な因果的要因である、という事実を直視しなければならない。すなわちわれわれは、意志が実在し、作動しているかのように感じ、考え、行動している。言いかえれば、ひとの意思を理解し、自分の意思を伝達する「意思表明の言語ゲーム」を不断に実行している》p.372 黒田亘『行為と規範』

《「自由な行為」とは、多年の経験を通じて形成された人格的主体の個性を明瞭に表現する行為、自我の表面に属するのではなくその深層から発する行為である。従来の自由論が説いてきたのとは逆に、その行為者の、その状況における行為であるかぎり反対の行為の可能性を考える余地のないような行為、それ以外ではありえないほどに人格的に決定された行為、それこそが「自由」のあかしとなる行為ではないか》p.381-382 黒田 前掲書

〈決定論と自由は矛盾するどころか、自由と感じられる判断や行為ほど決定論的な現象である。内在的変化、すなわち主体が法則を超えるという実存主義は変化を法則に還元する科学と原理的に相容れない〉p.382

〈ある定点に人々が引きつけられるように見える。しかし実際にはそのような定点が初めからあるのではない。人間が互いに影響しあいながら生み出すにもかかわらず、真理がもともと存在していたかのような錯覚が定点生成後に起きる。真理だから同意するのではない。善き行為だから賞賛し、美しいから愛でるのではない。人間の相互作用が真善美の出現を演出するのである〉p.386

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