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もっと、海を――想起のパサージュ

イルマ・ラクーザ(2009)/新本史斉(2018).もっと、海を.鳥影社    Mehr Meer. Erinnerungspassageen

〈電話ではすぐに要件に切りこんだ、おしゃべりは一切しなかった。おまえは誰よりも美しく私のことを愛してくれる、こんなことを言ったことがあった。誰よりもではなく、誰よりも美しく。私の胸の裡にしまっておいた言葉だ〉p.15

〈雪は降り、溶け、そしてまた降る。あらゆるものの上に、何ら分け隔てなく。垣根も白、牧草地も白。そして世界は弱音器をかけたように静まりかえる〉p.16

〈わたしたちの生が交差することはなかった。かつて、ずっと以前に、夜行列車でキエフからブダペシュトへ向かったことがある。夜明けの薄明の中、窓越しに、わたしは丘という丘すべてに木造りの教会が建っているのを目にした。ウージュホロドで下車することはなかった。国境の町のチョプで長い車両交換があり、それからどこまでも続く平地を抜けて南西へ、ハンガリーの首都へ向かった〉p.24

〈わたしが返事をかえす前に、別れはもう訪れている。先へ、どんどん先へ、枕木の刻むリズムにのって。この「先へ」というやつはどうも変てこで、、満ち足りているわけでもなく、到着を目指しているわけでもなく、むしろ別離の連続となって私の前に立ち現れる〉p.25

〈雪をかぶって柵がたわんでいる。もちろんそう、たわんだ柵。村で見るような。影、黒丸鳥、すべてがそろっている。そしてわたしは何番目かの過去に落ちてゆく。過去以前の過去へ。七つの山と小人たちの彼方へ〉p.26

〈時は円錐形をしている。生は容赦なき先端へ向けて流れてゆく。わたしはそれを始まりと呼ぼう。なせなら群れはすでに待っているのだから。煙は流れる方へ流れるのだから。わたしは理由など問わない〉p.27

〈ラビ・ナハマンは言う、喜びによって心は住処を与えられる、しかし憂鬱によって心は流謫の憂き目にあう。またこうも言う、世界は回転する骰子のようなもの。すべては反対にひっくり返る〉p.31

〈どの言語の中にあるとき、わが家にいると感じますか。生まれた町の感じはどうですか。ホームシックにはならないのですか。書くときにはどんな感じがするのですか。わたしは言葉を家のように感じるということを話す、けれども書くことと叫ぶことが似ていることについては触れないでおく……私は遠方からやって来た、自分がここに属しているのかどうかを試すために〉p.32

〈けれども不意に、わたしはある家に歩み入り、そこには今日のカティンカが座っていて、話し、問い、お肉や焼菓子を勧めてくれる。そしてわたしは、〈いま〉の中に沈んでいく〉p.33

〈鮮やかなオレンジ色は、碧青のモロッコ皿の上のクレメンティーノ。葉っぱのついた蔕をつんと宙に突き出し、小さな掻き傷がある。観ると、観られたものは像へ固まる。それが色と配列とともにゆっくり内へ浸透する、そして静寂を残していく〉p.36

 魂とは素描である、その人の姿、その人の振舞。

〈今日、この日。兎は下生えに身を潜める。母ツグミは注意深く様子をうかがう。凍りつくような寒さ。そして温もりを生み出すべく、線影をつけた思考。イワーノフの魂は明日という日を恐れて震える、なぜなら今日という日に吐き気がするから。彼は木々を見ず、ジレンマばかりを見つめている。ユダヤ人の妻のことをもう愛してはおらず、別の女を愛することもできないでいる。チェーホフが、彼の代わりに状況を解決する、みずからを裁く迅速な弾丸によって。イワーノフは道のない暗い森。そして自身の森を手探りでさまよう愚者。前へ、後ろへ、ぐるぐると、どんな鳥の鳴き声も彼を魅了することはできない。狂気への誘いとなるときを除けば。そして確信がやってくると、そこにとどまり、おしのけられぬまでになると、わたしは囚われの身となり、銃声が炸裂する。是で十分だ。

ふたたび太った母ツグミ、茂みの中で羽を広げている。敏捷なコマドリは白樺の枝間を飛び回り囀っている。霧を透かして幽かに太陽が差し、わすかに透明度が増す。寒さがざわめきを呑み込む。あるいは、ざわめきは動物たちのように身をかがめる。垣根の静けさ。皿の林檎たちの静けさ〉p.37

〈ギュル・ババに雪が降っていた。おひさまが顔をのぞかせた。お話は日々を経て語られ続ける。わたしは子ども用の韻文と短い子どもの歌(デブレッツェンの街の七面鳥の歌)を学んだ。そしてブダペシュトを後にするときには、バラが何か、哀しいメロディーがどのようなものかを知っていた。あのメロディー、歌われ、ジプシーのヴァイオリンで弾かれ、クラリネットで吹かれるメロディーは、以来、一度たりとも、わたしの心から離れたことはない。

 わたしの耳はハンガリー平原の耳。草原のペンタトーンの耳。チャールダーシュとのあの一筋縄ではいかぬリズムの耳。そのリズムはあやまつことなくきみの足どりを狂わせる。きみは少しばかりよろめいて、そして到着を踏み外す。(それが、ハンガリー的性格と呼ばれるのかもしれない)〉p.50

 私の生を促しているものの正体を見究めること(それは〈他者〉なのか?)

 澪の街を泳ぐ巨大な魚

 雫の夢に現れた白い魚

 心は夢を欲しがっている

 そこで光を放っているもの

 絶えざる変容のうちにあるということ

〈カルスト地方では天候が急激に変わる。霧のもやが白く残り、松の黒い輪郭が石灰地の上方に浮かぶ。樫、杜松、針金雀枝ハリエニシダ。赤土。玉石。遠くに点在する集落の教会塔は尖塔ではなく鐘楼。地中海が近い証拠だ。

カルスト台地が尽き、トリエステ湾に向けて急降下するところまで来ると、すぐそこだ。巨大な半円を描いて海がひろがっている。薄青色にきらめく、唯一無二の約束〉p.59

〈わたしは庭に出たいとは思わなかった。藤棚のあるヴェランダまでがせいぜいだった。それよりも行きたかったのは海、いつも海だった〉p.61

〈海辺の町の豹変した姿にわたしは驚愕した。なんと一夜にして爪を剥き、不気味になったことか。なんと人びとは退却を強いられたことか。四天が荒れ狂うとき、対話は途切れる。家は要塞となり、他のすべてはよそものとなる。

 わたしのうちの何かがこの急激な変化に、この突風の独裁に、この為すすべの無さに抗っていた。わたしはきかん気の強い子どもだった〉p.67

 時が加速する

 ぐつぐつと 世界が底のほうから変化しはじめている

 わたしは幾つの脱皮(再生)をくり返しているのだろう

 変転の果てを夢見て

 細部の夢までも

 あらゆる出来事が無時間のうちに生起している

 始原へ

 走馬灯の加速を超えて

 見たことのない空間へ

〈ミシは控えめで、そう、無口で、鋭敏な観察者だった。けれどもいったん話し始めるや、機知、皮肉、辛辣さがさえわたった。今日は誰の命日かわかるかい? 彼の絶望は、突然、姿を見せた、それはあらゆるものの背後に潜んでいた。(ずっとそうだった、五十歳のときにロンドンで自死するまで)〉p.80

〈たがいに似ていない夫婦は死にざまも似ていなかった。ミシは――苦渋と疲労ゆえに――薬物で生に終止符を打ち、クラーラはその二〇年後に癌で死んだ。最期まで彼女はクロスワードパズルを解き、イギリスの推理小説を読んでいた。彼女は自分自身から目を逸らす、生来の才能をもっていた。BBCのアナウンサーとして声だけを世のために使った。感情の点では、自分自身も含め、あらゆるものから一歩距離を置いていた。一生かけて取り分けてきたもの、口を使って貯えてきたものを、彼女はユダヤ人組織に遺贈したのだった〉p.83

〈奇異に響くかもしれないけれど、わたしは慈しまれていると感じていた。陰影に富んだ白につつまれて。ブーンと響くような静けさにつつまれて。梁のどこかで鳩がクルクル鳴いていた。それは特別な場所だった〉p.94-95

《トリエステは決してか鏡を覗きこもうとしなかった、自らの全体像を見ようとしなかった、決して率直に口を開こうとしなかった、真偽がごたまぜになった、にもかかわらず説明されないままの魔法を、半ば大声でみずからに信じこませようとするとき以外は……スキアーヴィ――1945年まで、政治的経済的支配階級によってスロヴェニア人はこう呼ばれていた――を軽蔑する権利を、わがもの顔に振り回す、気違いじみたトリエステ俗物市民の悪意はよく知られるところである。しかし、19世紀のトリエステはどうなっていただろう、どうやって発展できただろう、もし港湾人夫、車大工、アウリシーナ採石場の石工の力がなかったら、セルヴォラの鋳物工場、軍需品倉庫の労働者そしてザウレとサン・ジョバンニの農民の力がなかったら、あの古代貨物集散場を思わせる、急激に集積された富ゆえに神経症に陥った貿易商会の建物で、身を粉にして働いた家事手伝いの女たちの力がなかったならば》p.99 フェルッチオ・フェルケル『5744年の物語』

 ここに永遠がある

 生起する場所が

(純粋経験)

〈本当に自由になったのは、眠りによって忘却へ押し流されたときだけだった。眠りの中では、時の仕切り、境界の仕切りは消えた。「先へ」を思わせるトランクもなかった。わたしはやわらかいものの中に沈みこみ、運び去られるままとなった。そう、眠りは庇護だった。空間からも時間からも解き放たれて〉p.107

〈読んでいるとき、わたしはどこか別の場所にいる。書いているとき、わたしはどこか別の場所にいる。わたしはわたしなのだろうか。それともとうに、ある別のお話の一部になっているのだろうか?〉p.131

〈意識的に決断を下すことができるようになると、わたしは自分の異質性に対して「イエス」と言った。自らを絞めつけ外面を見せかけるより、異質であるほうが良い。だって、異質であることは多くのことなのだから〉p.134

〈この悪癖はバッハの『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集』によって駆逐された。楽譜の判読は運動の進行に変わった。運動は規律正しく力強く、わたしを運んでいった。反抗もなかった、離脱もなかった、バッハだ。以来、バッハから離れることは決してなかった。それはわたしの生の脈動と切り離せないかのようだった〉p.137

 自らが他者である

(私はもはやどこにもない)

 他者であることの愉悦

〈私〉にはたらきかける無限

〈というよりむしろ、わたしは生を舞台演出のようなものと考えていた。その際に自分のことは、他にもいる登場人物の一人、つまり受動的な存在、より高次の恣意に委ねられている存在にとどまらず、想像上の演出家だと考えていた〉p.178

〈いったい何だったのだろう? この背中合わせの至福と興醒めは、天にも昇るほどの歓喜と死ぬほどの幻滅は? 過度の期待に惑わされたとでもいうのか? 楽園はいつもどこか別の場所にあるとでも?

そんなことは知りたくなかった。わたしはいつも、求め、喜び、夢中になり、我を忘れていたかった、まるで分別の無い子どものように……祈ることは償うことである、と告解の授業で言われていた。何を償うのか。わたしの罪を償うのだ〉p.180-181

《しかしここではもう新しい物語が始まっている、ある人間のゆっくりとした再生の物語、ゆっくりとした変容の物語、一つの世界からもう一つの世界へゆっくりと移りゆく物語、新しい、それまではまったく予感していなかった現実との出会いの物語である》p.203 ドストエフスキー『罪と罰』

〈しかしわたしは突然、前代未聞の物事を知る。何よりも前代未聞なのは人間の魂だ。それ以外にはないような深淵で、熱っぽい夢、矛盾、理想の数々で溢れかえっている。ほかならぬ理想こそがとりわけ危険なのだ。特に、あの頭の人、ラスコーリニコフのように、ある人間が頭脳の中で理論を練り上げるときが。ソーニャは心で考える。それに謙虚だ。ラスコーリニコフとソーニャにおいては高慢と謙虚が、自己愛と人間愛が出会う、そして後者は神の愛に境を接している〉p.203-204

〈英国南部のデヴォンシャーにあるダーティントン・ホール。ジャクリーヌ・デュ・プレが名演とはどんなものかを実演した。ブラームスのチェロソナタ第2番ヘ長調を客席が揺れるほどに激しく弾いた。弦にあてて奏でるその前に、弓で空気を切り裂く赤髪の狂乱する女。野性的、それでいて繊細。それは響いた。そして歌った。

 学ぶこと、わたしはそれを、ジャクリーヌが見せてくれた理想への、厳密かつ困難なる接近の試みとして理解した。練習、そして技術、そしてまた練習。なお辿り着けぬものが先へ駆り立てる。それが快感に満ちた状態であったのか、快感を断念することであったのかはわからない。いずれにせよ、性急であってはうまくいかなかった。音楽は求めれば与えられるものではなかった、その場の熱狂でやってくるものではなかった。それは小さな歩みの積み重ね、繊細極まりない仕上げを要求してきた。わたしたちは足を引きずりながら音楽のあとを追い続けたのだ〉p.213

《行きなさい、さあ、さあ、と鳥が言った。人間たちは/あまりに多くの真実には耐えられないのです……わたしたちは揺れる樹木の上空を/葉むらに注ぐ光の中を移動する/下界の湿原のうちに/猟犬と雄猪の鳴き声を聞く/以前と同じ型に従いながら/星辰の下で和解している……きみでないものに達するには/きみがいない道を行かねばならぬ。/きみが知らぬものが、きみの知る唯一のもの。/きみの持つものは、きみの持たぬもの。/きみのいる場所は、きみのいない場所……もしや問題なのは勝利ではなく/敗北でもないのかもしれぬ。我らにとって大切なのは試みのみ。/あとは我らのなし得るところにあらず》p.214-215 T.S.エリオット『四つの四重奏』

〈このことを語っているのが詩篇の142篇で、マルティン・ブーバー訳ではこうなる。「わたしの内でわたしの霊が弱るとき/あなたこそがわたしの道を知る者……あなたはわたしの救い/生の地におけるわたしの分」。

 しだいに一つにつながってくるものがあった。わたし自身と、古の聖書の時代のほかなる存在。わたしたちは旧約聖書を読んだ、それは避難、迫害、戦闘、しかしまた神の摂理に満ちていた。信頼しなさい、神はそこにいる〉p.220

〈彼はわたしの飢えを(わたしの探究を)見ていてくれた。彼は言った、一番大切なのは自分自身の内面世界を持ち続けることだと〉p.222

《苦痛の限界でやめてはいけない……言葉もう一つ、先へ進みなさい……空の中に復活祭の花をつかみなさい》p.222 マリー=ルイーゼ・カシュニッツ

〈たおやかな、しかし、きっぱりとした音。音色はちっちゃな真珠の粒が転がるように響き渡った。小さく立体的な形象、くっきりした輪郭、軽やかだ。曖昧なところ、暈されたところ、ペダルを使った余韻は一切ない。その旋律は浮遊し、スタッカート和音はまるで小さなボールさながらだ。しかし、そのしなやかさの背後で、そこここに、深淵めいたものが顔をのぞかせる。この落差がモーツァルトだ〉p.225

〈現在のただ中にあること。それが助けとなる。見放された気分の渦に巻きこまれることに抗うのだ。たとえ、「わたし」が油断ならない審級のままであるとしても……いったいどんな力が――こちらへと、あちらへと――わたしを動かしているのか、どこでわたしは失われてしまったのか? どんな記憶が残っているのか?〉p.238

〈しかし、今は暗闇の中、転換の前の緊張が支配していた。事実の逆説的転覆を前にした緊張。死があったところに、永遠の生がある〉p.241

〈そこに美しいアリスが漂っているのが見える、水草のなす垣根のただ中に、口が、顎がずれている。病の名は「溶解」だった。薬の効かない病気だった。庭が彼女を突き落としたのだった〉p.255

〈わたしたちは足下に不動の地面を踏んでいることがなお信じられぬかのように、両眼をこすった。葦の群生する汽水域を行く無言の滑走は、出生以前の記憶を呼び覚ました。ともかくもわたしにはそう思われた〉p.259

〈「世界は」とブーバーはラビ・ナハマンの言葉を伝えていた、「回転する骰子のようなものですべては戻ってくる、人間は天使となり天使は人間となり、頭は足となり足は頭となり、そんなふうに万物は回り変容し、これはあれあれはこれに、もっとも上のものはもっとも下に、もっとも下のものはもっとも上になる。というのも、根において万物は一つであり、事物の変化と再来のうちに救済は含まれているのだから」〉p.267-268

〈覚醒体験のことを考えているのなら、ノー。〈真実の口〉は音を立てて閉じはしなかった、わたしには改心の光線は当たらなかった。でも、自分は帰属しているという感情、わたしはかつてここに、そもそもこの世に存在していたという感覚を持った。わたしはここを知っているという感覚は大きかった〉p.272-273

《ブルッフのヴァイオリン協奏曲を聞いてみて、第2楽章よ》p.278

〈彼らは世界を広くのみならず深くとらえた。あらゆる大きな問いを底の底まで究明した。デデクは「底」という言葉を強調した。そして危険を顧みなかった(イムレ・ケルテースは書いている。「わたしたちは死ななければならないのだから大胆に思考するほうがよい、いや、わたしたちはそうすべく義務づけられているのだ」)〉p.287

〈わたしは背を向け、サン=ジャック通りをサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会へ急ぐ。小さな教会が公園の中に、樹々に隠れるように建っている。ノートルダムの斜め向かいだ……ロマネスク様式の後陣、優美な柱列、聖画壁、枝付き燭台を備えた、蜜蠟と香煙が芳しい隠れ家。ここでは、東方の儀式を保持するシリアとレバノンのキリスト教徒、メルキト派が礼拝を行っている。わたしは聖人たちの厳しい顔を見上げる。蝋燭に火を灯す。耳を澄ます。ここはわたしが夢見ていた以上に東方。わたしの部屋はここだ〉p.302-303

〈典礼は波のようで、司祭や助祭の髭のように、立ち昇る香煙のように、拝礼、歌唱、連禱のように波打っている。動いているもののうちにこそ陶酔はある。この時間の暗黙の合意だ。それは続く……教化? いや違う、呼び覚ましだ。これは聖なる劇場だ。わが家ロシアの温もりと、高邁なる遠方憧憬との混淆なのだ(最後に辿り着くべきは、愛する神)〉p.305

〈終わることを望んでいる者はいない。もっと、そしてもっと、もう少しだけもっと。音楽がすべてを満たすよう、夜ははからってくれる。わたしたちはもういない、いるとしても、音楽の一部にすぎない。そんなふうに、わたしたちの愛は音楽の中で始まる〉p.309

〈赤に白十字のパスポートを手に入れるや、わたしはプラハ行き学生ツアーを予約する。カフカへ、ゴーレムへ、スメタナのヴルタヴァへ。まったく未知の国の中へ〉p.314

〈「地球は回転し、暗闇へ向かう、聞く耳をもたず、ペテンにかけられて」、ヴェンツローヴァの言葉だ。そしてこう続く、「残されたのは、謎と、耐えることと、パンと、ワインだけ」

 六時、数機の飛行機が着陸態勢に入る。幾重もの雲の絨毯の彼方には、満月。とにかく待つことヴァルテ・ヌーア。待つことヴァルテ〉p.320

〈オムスク、ノヴォシビルスク、ウラジオストクの文字が見える。わたしは地名を見ると熱くなったり冷たくなったりする、遠方への憧れにとらえられもすれば、それ以上に強烈な憂愁にとらわれもする、自身の生からの亡命を強いられるような気分になる。いつもこの引き裂かれる思い。あるいはこう言ってみようか――死して成れ。出立への衝動が喪失への不安と対をなしている。いまだ旅足りぬ、ということか。それで先へいけるか試しているのか〉p.326-327

〈おはよう、プーシキン・プレイヤッド、こんばんは、書簡、格言、悲歌、献詩。バラトィンスキーはこの友人の輪の中の一人に過ぎない、その中でもっとも陰鬱な星。けれども、それが夜空に引くメランコリックな尾に、わたしは東方の三博士のようについていく(存在は何のためにあるのか? 地上世界の形象は変わることなく現象する/わたしたちはそれらをよく知っている。古きものの再来のみが/未来の懐において待っている)〉p.335

〈リヒテルのバッハは、まさにこの世ならぬ場所から聞こえてくるかのようだ。「宇宙的」とバラトィンスキーなら言うところだろう。主観ならぬ、客観的法則が統べる場所から届けられるもの。呼吸がゆったりと、心臓の鼓動がゆっくりとしてくる……それは自然な、おのずからあるような平静さから流れ出してくる。まさにバッハの音楽(より大いなる神の栄光のために)にふさわしく〉p.336-337

〈「これがロシアなのです――粗暴でありながら志操高く、飲んだくれでアナーキーでありながら詩心に溢れているのです」

 別の言葉で言うなら、ここでは皆、頭がどうかしている、しかしそれだけではない。ロシア人のことは弁証法的にのみ理解することができる。そしてアレクセイはわかっている、なぜ、自分が「とはいえ」や「しかし」をこれほど頻繁に口にするかを〉p.339-340

〈重荷は担う人の肩にのしかかる。レーナは担い、つねに新たな荷を背負いこみ続けた……レーナは全力を出し尽くし、ついには重病がストップをかけた。すると彼女が急に貧しくなった〉p.350-351

〈レニングラードはもはやこの世界の一部ではなくなり、現実と虚構の間を漂っているようだ。もろもろの問題も重みを失い、痛みのないままに集団的高揚の空間を揺れている。すべてがスウィングしている、きみもそれにかっさらわれるといい。いかなる大胆な企ても、始める前から成功している〉p.356

〈チェロを抱えたスラーヴァはどこ? リヒテルが演奏する、スラーヴァはいない。前回、ストラスブールで会ったとき、力を集中するようにとのアドヴァイスをくれた。細い10本の光より、太い1本の光の方が素晴らしいと〉p.363-364

〈この退廃的な西側の個人主義! 対して、ロシアの「わたしたち感覚」はみずからの優位を誇る。わたしはそれを友人たちの間で連帯として体験する。自由闊達な付き合い、無関心などありえない。きみが病気になる、ともう、みんながやってくる。手を差し伸べるスピードの記録更新だ〉p.364

《濡れたつるつるの大通りが、まさに90度の角をなして濡れた大通りと交差した。交差点には巡査が立っていた……そしてまさに同じ家々がそびえ、同じ灰色の人の流れが通過して行き、同じ緑黄色の霧がよどんでいた。そこをいくつもの顔が密集して通り過ぎていった。歩道はささやき、ずるずる音を立てている。オーバーシューズですり潰されている。勝ち誇ったようにブルジョワの鼻が一人闊歩する。鼻が大勢通り過ぎてゆく。鷲鼻、鴨鼻、兎鼻、緑っぽい鼻、白い鼻。ここではいかなる鼻の不在もまた流れてゆく……無限に延びている大通りの無限があり、無限に交差する幻影の無限がある。全ペテルブルグが、N乗された大通りの無限なのである。ペテルブルグの向こうには何もない》p.365 アンドレイ・ベールイ『ペテルブルグ』

〈わたしたちはとどまることなく先へ進んだ、ガタガタ揺れるバスで森の中へ。そこには――ユーラの秘密情報だ――東方正教会の女子修道院が隠れるように建っていた。さほど古い建物ではなく、教会の木材は木の匂いがした。教会内陣は香煙と蜜蠟の香りがしていた。黒い鳥のように尼僧たちが薄闇の中を掠め過ぎ、蝋燭を灯した。晩方の礼拝が始まった。こんなふうに人間は時間、空間の外に、自由の中に落ちてゆくのだろうか? ここに不正、虚偽はなかった。ユーラがきっぱりと言う。この場所を「恐れることなかれ」と命名しようと。わたしは考えた。奴らは本当に何一つわたしたちに危害を加えることができないのだと。この汚れのない歌には。

まるで泥沼から抜け出してきたかのようだった。澄んだ、光に満ちた高みへ。呼吸は落ち着き、両足は大地を踏んだ。そして心にはただ一つの望み。善きことを為せ〉p.366-367

〈礼拝堂の丸屋根(トルコブルー)、絹のカフタン(絣の文様)、絨毯の、香辛料の市場。黒いミルク。明るい穂をつけた葦。塩砂漠。国境、密輸ルートはフェイドアウトさせよう。しかし黒い衣をまとった女たちは消したりしない。トルクメニスタンの色彩豊かな衣装をまとった女たち。

 何かが呼んでいる、呼んでいる、もうずっと以前から。絹の道。シルクロード。マルコ・ポーロが子どものファンタジーに住みついたのか〉p.376

〈眼に飛びこんでくるものは、混乱させるほどに豊かだ。そして、どこかで会ったことがあるように思うこともある。私が追っているのは、夢、それとも記憶? 憧れてやまぬ好奇心、それとも太古の呼び声? わたしは追う。異質なものと思い、同時に、馴染みのものと思う……しかし、わたしは別なる存在に挑戦しようとは思わない、ただただわたしの毛孔を開いていたい。わたしの感覚と思考空間を広げたい。幸福はそこにこそある(手を差しのばす幸福)〉p.381

《忘れること――何一つ忘れてはいない記憶の中で、忘却に寄り添うこと》p.391 ブランショ

〈ほら、わたしは子どもに言う、コンパスカード/風の薔薇があるでしょう。それが行き先を教えてくれるはず。眼をしっかり見開いて、信じなさい〉p.395

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