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日本的霊性

 鈴木大拙(1944).日本的霊性.角川文庫

〈元来意志――広い意味においての意志は、宇宙生成の根源力であるといってよいのであるから、それが自分らすなわち箇々の人間の上に現われるとき、心理学的意味の意志力と解せられる〉p.24-25

〈精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。何か二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つではなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相克し相殺しないで、互譲し、交驩し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。言わば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直観または自覚によりて可能となる〉p.30

〈…ただ宗教についてはどうしても霊性とでもいうべきはたらきが出てこないといけないのである。すなわち霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる……精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越して居る。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である……それから精神の意志力は霊性に裏付けられていることによってはじめて自我を超越したものになる〉p.31

〈宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むとき、自らの霊性に触著する時節があると、対立相克の悶えは自然に解消し去るのである。これを本来の意味での宗教という〉p.33

〈大いに有力な力のはたらきかけが浄土系思想を通して日本的霊性の中から出たと断定しなくてはならぬのである。このはたらきが浄土系思想を通して表現されたとき、浄土真宗は生まれた。真宗経験はじつに日本的霊性の発動に外ならぬのである〉p.38

〈日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、もっとも大胆にもっとも明白に闡明してあるのは、法然-親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁――すなわち分別を超越して居るということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである〉p.39

〈明るき心清き心というものが、意識の表面に動かないで、そのもっとも深き処に沈潜して行って、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである〉p.40

〈何か死の神秘性、永遠の生命、生死を超越した存在、水沫ならざるもの、照月のごとくに満ちまたは闕けることのないものに対するあこがれ、行方知らざるものを捉まんとする祈り、または努力、または悩みなどというものが、『万葉集』の中には少しも見あたらぬ〉p.48

〈…厭うこころ、求むる心――これが現世否定の道で、宗教はこの否定なしに、最後の肯定にはいるわけに行かぬが、その心を徹底させれば、宗教的霊性的生涯はそれから可能になる。厭いもせず、求めもせぬ大部分の万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれて居るものがないといってよい〉p.50

〈なるほど宗教は現成世界の否定性をもって居る。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。霊性そのもののおののきでなくてはならぬ〉p.58

〈本当の愛は個人的なるものの奥に、我も人もというところがなくてはいけない。ここに宗教がある。霊性の生活がある。天日だけでは宗教意識は呼びさまされぬ、大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは大地と人間と感応道交の在るところを通すとの義である〉p.62

 言葉が、文が、書が読み手の心に入りこみ、おののきを誘発するものでなくてはいけない。

〈自分はここで絶対他力教の特質に宗教の原理が含まれ、かつまた当時日本人の精神が始めて宗教的に目覚めたのと啐啄同時的な相応があったものと信ずる。ここで自分は日本的霊性の覚醒をいいたいのである〉p.74

〈業繋から解放せられることは、論理的にいえば、般若の即非観であるが、宗教信仰的にいえば無縁の大悲、すなわち弥陀の誓願に救われることである……純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でもよいのである。親鸞聖人は『歎異抄』でそういって居る。これが本当の宗教である〉p.75

〈真宗は念仏を主とするとか、浄土往生を教えるとか、その外何とかというのは、真宗信仰の真髄に触れて居ない。。真宗は弥陀の誓願を信ずるというところに、その本拠を持って居る。誓願を信ずるというは、無辺の大慈悲にすがるということである。因果を超越し業報に束縛せられず、すべてそんなものをそっち除けて、働きかけてくる無礙の慈悲の光の中に、この身をなげ入れるということが、真宗の信仰生活であると、自分は信ずる。此土の延長である浄土往生は、あってもよし、なくてもよい。光の中に包まれて居るという自覚があれば、それで足りるのである。念仏はこの自覚から出るのである〉p.77

〈われらの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに持獄も極楽もあるが、われらは大地そのものであるということに気付くと、ここが直に畢竟浄の世界である。考えそのものが大地になるのである。大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく〉p.78

〈この超個の人が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という、この親鸞一人である。また『百条法話随聞記』(「信道」、昭和194月号)にある「この界にわろき者はわれ一人、地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人、一切みな一人一人と覚えにける」というこの一人である。真宗の信者はこの一人に徹底することによりて、日本的霊性のうごきを体認するのである〉p.109

〈情性的というのは、情性的直観とでもいう心持ちなので、個己の超個己的経験の義である。経験といえば個己の上でのみあり得る事象であるから、超個己的は意味をなさないとも考えられる。が、この経験は個己の限られた意識の上だけでは生じ得ないもので、どうしても超個己的なものを入れて見ないと解せられないのである。これを信といって、普通の知または解または自覚などいうものと区別するのは、その理由ここにあるのである。他の宗教では「神の天啓」といって、人間理智の限りでなく、ただそのままに受け入れるべきであるという。宗教意識の受動性は実に此処に在るのである〉p.110

〈霊性には日本的なると否とを問わず、それ自体の領域があって、その動きには自ら情性と異なるものがある。これらの領域が相互に混淆して考えられると、人間生活の上に好ましからぬ紛糾を起こし、また民族的にもその進運の阻止を見ることさえある。情性的直観は一方においては、知性によりてその権衡が保持せられなければならぬが、他の一方においては霊性への流入によりて、その偏固性が矯正せられなければならぬ〉p.138

 霊性とは、内在するもの、受け継がれ、私にはたらきかけるもの

 ユダヤ教の霊性、浄土教の霊性

〈それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして、弥陀の絶対的本願力のはたらきに一切をまかせるというのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。絶対者の大悲は、善悪是非を超越するのであるから、この方からの小さき思量、小さき善悪の行為などでは、それに到達すべくもないのである。ただこの身の所有と考えられるあらゆるものを、捨てようとも、留保しようとも思わず、自然法爾〔あるがままに仏の大悲に身を任せること。親鸞の晩年の境地〕にして大悲の光被を受けるのである。これが日本的霊性の上における神ながらの自覚に外ならぬのである〉p.142-143

〈個己の一人一人が超個己の一人に触れて、前者の一人一人が「親鸞一人のため」の一人になるのである。この妙機を攫むのが信である。向こうに対象をおいてそれに向かって個己の一人が信をもつということではない。個己の一人は一人一人で、しかもそれがそのままに超個己の一人であるのである〉p.144

〈「あるがままにある」が否定道をたどって、またもとのところに還る様態に日本的なるものがある。これを日本的霊性の超出という。それは何かというに、絶対者の絶対愛を見付けたことである。この絶対愛は、その対象に向かってなんらの相対的条件を附せないで、それをそのままに、そのあるがままの姿で、取り入れるというところに、日本的霊性の直覚があるのである。善を肯定し、悪を否定するのが、普通の倫理であるが、今の場合では、善をも否定し悪をも否定して、しかる後、その善を善とし、その悪を悪とするのである。しかも絶対愛の立場からは、善も悪もそのままにして、いずれも愛自体の中に摂取して捨てないのである。穢れを見てそれを祓うでは、また対象的論理の域を出ない。祓われた穢れはまた戻ってくるにきまって居る。それが対象界の必然だからである〉p.152-153

〈…何となれば霊性的直覚の上にのみ形而上学的体系が加えられ得るのである。而してこの体系がないと感性及び情性に基づく諸直覚だけでは定着性がないからである…〉p.155

〈大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上下では大地はその秘密を打ち開けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、自らも大地となることが出来ると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けて居るからである……日本人の霊性的直覚は文字や記録の詮索ではない。それから生まれるものは知性的である。知性の大いに大事であることはもとより疑いを容れないのであるが、知性は霊性的直覚の中から出てほしいのである。これを逆にして知性的言挙げを主として、それから直覚を惹き出そうとしてはならぬ。実際はそれは出来ぬ相談である。情性的直覚を説くものも知性の言挙げを忌むが、それは霊性からするものと、同一系列には属しないということを、深く記憶しておかなくてはならぬ〉p.159

〈生きるということは長く線を引くということではない。何千年か何万年か乃至何億年でも構わないが、始めのある生き方は亦終わりがなくてはならぬ。無限は過去の方へも未来の方へもあてはめなければならぬ。これは有限な直線ではいけない……無限は直線では有り得ない。ここから始まるといえば、ここで終わるということがすでにその時定められている。そんな限定をうけるものは生きて居ない。生はどうしても無限でなくてはならぬ。すなわち直線であってはならぬ、生は円環である〉p.160-161

 霊性とは生命である

〈一人は超個己的一人で、中心のない無限大円環の中心を形成するところのものである。霊性的自覚はこの中心のない中心を認得するときに成立する。そのとき「天上天下唯我独尊」の一人者となるのである。それが真実の個己――超個己の自己限定である。個己でない個己という矛盾がすなわち、もっとも具体的事実として認得せられ、この存在が究竟性をもって来るのである〉p.164

〈…蚯蚓を蚯蚓と見るとき、蚯蚓は仏と知られるのである……自ら契ふ――これが全文の眼目である。「自ら契ふ」とは、霊性的直観の義に外ならぬ。この直覚が現前するとき、随順の真義に徹する。「百尺の竿頭に上りて手足を放って一歩を進めよ」といわれて、「はい」といって歩を運ぶとき、始めて自ら契fことが可能になり、蚯蚓蝦蟇すなわちこれ仏ということになる。この「はい」は随順だけでは出ない。やはり狐疑躊躇を何遍も繰り返して後でないと出ない。随順はまず否定せられて、それからでないと、勝義の随順ではないのである。そうなると、この場合の随順には霊性的なものがあると謂わなくてはならぬ。自契というのがすなわちそれである〉p.173

〈親鸞はまず「仰せを蒙りて」それから「信ずる外なし」というが、実際の心的経過は、信があって、それから「よき人の仰せ」がきかれたのである。彼が霊性的直覚は法然上人の指示によりて現前せられたというが、直覚と指示とは儼然として別物である。法然の指示、すなわち「仰せ」は彼のすべての弟子に向かって与えられたものであるが、後者がことごとく直覚を現前させたのではないのである。ただ親鸞のみあって、法然の「オイ」に即応して「ハイ」があったのである〉p.174

〈直覚は心に外ならぬのである……とにかく、能所を分けて話する世界では、純粋な受動性というのはあり得ないのである。仏教の通俗化をいうときにも、神仏習合をいうときにも、ただ一方向きの見方だけしかないように考えてはならぬ。両者対自の世界は、その回互性を領得することによりて、可能なのである……随順はつまり両者の相はたらきかけである。これが生命の真実の姿である〉p.175

 情性ではなく霊性、その論理性

 反省、否定と、弁証法

 個己でありつつ超個己であること

〈「悪心のみ遮って善心は曾て発らず」といい、「如何なる行を修しても、一向助かるべし共覚えぬ事こそ口惜候へ」というかれは、必ずしも地獄へ往くことを恐れたのではない。これはむしろ彼が人生に対する批判であると見たほうがよいのである。「憍慢の心のみ深して、当来の昇沈を不顧」というのは、生活に対してなんの反省もなく、萎々随々地〔他人に追従して自分の腰がきまらないさま〕にその日暮らしの動物性を肯定していたということである〉p.187

〈念仏→往生とつづき、往生→念仏とつづくとすれば、念仏即往生で、往生即念仏である。しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にまた往生の途がなくてはならぬ……念仏しつつ往生を考えて居ては、その念仏は純粋性をもたぬ。絶対の念仏ではない。法然上人は連生坊に教えて、「念仏の行はかの仏の本願の行にて候」といい、また「ただ本願の念仏ばかりにても候べし」といっている〉p.190

〈ある意味では、念仏はまた祈りである。現世の批判はその否定であり、否定はそのうちに浄土の肯定をかくして居る。このかくれたるものへの意向は祈りに外ならぬ。祈りは有意識と無意識に関係しない。現世を超えんとするところに祈りがある……彼は悪心を反省して、これを超えんとして居る。超えてのさきが何かの形で目の前に見えぬ限り、超えんとの希望は発生し能わぬ。ここに祈りがある。ここに南無阿弥陀仏がある。本願の念仏の行がある。それ故、念仏は永遠である。また仏の本願も永遠である〉p.192

〈事実上の経験からいうと、往生はこの世の否定の義であり、従って念仏はこの世を超えるの義であることが明らかである〉p.197

 霊性とは〈他なるもの〉、念仏とは〈他なるもの〉を生きること。

〈私〉の賢しらに在ることではなく、促され、感じとられた〈それ〉の意思に生きること。

《壬辰の冬、示して曰く、去る者法然上人に後生の願いやうを問ふ。法然答へて曰く、後世を願うといふは、唯今頸を切らるるものの心になりて、念仏申すべしと也。是よき教え也。誠に如是念仏せずんば我執尽くべからずと也》p.204 正三道人

〈こんな時節に出くわさぬと、「ひとりだち」の念仏、「すけをささぬ」念仏、「一心本願」の念仏は唱え出されないのである。こんな時節には、智慧も頼りにならず、持戒も道心も善悪も慈悲無慈悲も恃むに足りないのである。このときの心を白木ともいい、生まれながらともいい、信心決定ともいう〉p.204

〈霊性の覚醒は一たびは知性的否定を経過しなければならぬのである。それ故、一文不通では、本当の意味での霊性の覚醒はないともいえる。が、またより深い意味での覚醒は、霊性そのものから自ら出て来るといってもよい。知性的否定のある場合でも、霊性の自発的なものがなければ、縁だけが具わって、因が動き出さぬということにもなる〉p.215

〈霊性的直観はいつも初めてのように感じられ、珍しきものである。それ故、何遍きいても、転々挙すれば転々新たなるものがある。道宗は実にこの境地に到達した人であるので、聞書にも上人の言としてそれを伝って居るのであろう〉p.237

〈あるとき上京の節、道宗の妻は、上人から何か安心につきての指示をいただいてきてくれと頼まれた。京から遥々帰って来て、草鞋も取りあえず、妻に出して見せたのは「南無阿弥陀仏」の六文字であった。妻はこれを見て失望した。もっと何か細々と書きつけたものがほしかったのである。道宗は妻の意を知ると、ただちに「よし」といって、その鞋のままでまた京へ立ったということである〉p.240

〈われらはいずれも借金を背負って居る。そしてそれはいつか払わねばならぬのである。借金とはこの存在――個己――そのものである。それでこの存在はいつかその底に徹して覆滅させなくてはならぬ。すなわち、われらはいつか個己から超個己への飛躍を成し遂げなくてはならぬのである。これが往相回向である。それがすむと還相回向である。が、往生がすんで還相があるというのではなくて、往生がすなわち還相で、その間に回互的聯関がある。借金を払うというは個己の意識の上での話であるが、事実は払われる借金もなければ、払う借用人もなく、またそれを受け取るものもない。借金と人と共に超個の法界に頭出頭没するのである。仏者はこれを遊戯三昧とも法界縁起ともいう。しかし個己の存在としては業は尽くされねばならぬのである〉p.242

〈彼の意識が念仏に全く占領せられたといっては、なお二元論的見方たるを免れぬ。意識と念仏とが二つになって居る。才市の念仏はそんな境地から出るのではなくて、彼の主体が南無阿弥陀仏そのもので、彼の意識というのは南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を自覚するという意味になるのである。臨済の「一無位の真人」または親鸞の「おのれ一人のためなりけり」が、真人と自覚し、一人と自覚するとき、そこに臨済が生まれ、親鸞が生まれる。このとき南無阿弥陀仏が口を突いて出るのである。才市が下駄を削って居るのではなくして、南無阿弥陀仏が下駄を削って居るのである〉p.253

〈これで見ると、才市の歓喜は個己としての才市の意識的事象ではなくて、超個己の一人がこれにも参加していることが明々に看取せられる。それからまた、この歓喜は一時性のものでもなく、また一定の場所に限定せられたものでもない。常住に才市の意識を占領して居るところのものである……それ故、弥陀も亦これに与るのである〉p.254

〈「なむあみだぶつ」は霊性的直覚のまたの名である。直覚の内容であるというのが正当かもしれぬ。あるいは弥陀の個己化が「なむあみだぶつ」だと謂うべきであろうか〉p.264

 incarnation(受肉の神秘)

〈皆一つのところが「なむあみだぶつ」である。すなわち「なむあみだぶつ」であり、また光明であり、また慈悲であり、また才市である。この自覚を霊性的直覚という〉p.265

〈能所の岐れるところに禅はないので、能と所が一つにならなければならぬのである。すなわち観音様は眼そのもの、手そのものである〉p.318

〈般若系思想では、山は山ではない、川は川ではない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである……すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に、否定を媒介して、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ、というのが、般若論理の性格である……般若の智慧なるものは、これに反して、まずその物を素直に受け入れないで、これを否定する、それはそうではないという。そして、それから肯定に帰るということになるのである……山が山でないというと妙に聞こえるが、われらは始めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれるというと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気がつかないのである〉p.328-329

〈禅の修業というものは、つまり自由に動いていたものを、まず動けなくさせる修業だといってよろしい。すなわち否定の修業である。あるいはこういった方がよいかもしれない。曰く、まず否定に撞着したから禅に入ったのであると。禅は否定の修業だというよりも、まず否定があったので、それから禅を修業することになったという方がわかりやすいであろう。否定ということを感じ得るのが人間である。それは人間にのみ許された霊性的生活の故である。それで「不生」を否定した生と死の観念から脱出しようと、人間はつとめるのである〉p.334-335

〈…竹篦がただちに人生そのもの、世界そのものなのである。そこに突き出された竹篦は和尚の手裡に在るのではなくて、自分がそれなのである〉p.336

〈そこで「応無所住而生其心」、これは「応に住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読むのである。この意味は、つまり、無心または無念ということと同じである。住するというのは、何にか一定の場所、または事柄に囚われて、そこから離れられないというのが住である。それは貧著ということである〉p.338

〈非場所〉の倫理

 居付かない在り方

〈しかし禅などでいう心は、もっともっと深い意味のものである。分別心でも、思慮心でも、集起心でもない。これを無分別心と呼んでいるが、分別を超越したところに働く心である。分別心または分別意識というが、こういうものの底に無分別心が働いていると自分は言うのである〉p.343

〈…それを今度は主、すなわち自分を無にして、客の方を主にすると、道元禅師が「万法来ってわれを証する」といわれたように、自然に無所得が得られる。すなわち無功徳で、無所住で、そして活潑潑地の働きがそこから涌いて出る〉p.350

 無分別の世界が広がっていて、その中に分別の世界がある

〈大悲本願の原理は日常生活の人間性を超越したところから出て来るものである。これは没合目的性、無功徳性、無分別性、応無所住性というべき境地があって、始めて感得せられる。それで人間はこの境地を見付けなくてはならぬのである。無所住の境地に居ないと大悲はわからぬ。力の対峙の世界はここで始めて克服せられ、解消せられて、そしてそれと同時にその意義に徹し得るのである。没合目的底のところにのみ合目的性を打ち立てることが出来て、後者はその本務を果たすことになるのである〉p.351

〈…この句(応無所住而生其心)の意味は行為面で見るべきで、平易な言葉では、跡を残さないということである。跡を残さぬというは、因果にとらわれないということである。因果に堕ちずでもなく、因果を昧まさずでもなく、因果ということ、そのことに心を煩わさずということである〉p.352-353

〈…つまり報いを求めない、無功徳的に行動するということである。これを跡を止めない、跡を残さぬというのである。禅では殊にこれを貴ぶということは、ただ貴ぶという意味ではなくして、その中に含まれている霊性的立場を挙揚しようとするのである。これを禅語でいうと、「羚羊掛角」〔羚羊、角を掛く〕である〉p.354

〈…分別意識の人は自我である。この自我は分別の世界では役に立つが、これが最後のものではない。霊的生活をする人ではない。霊的生活を送る人でないと最後の実在に到達したものとはいえぬ。すなわち安心が出来ないのである。安心の出来るところは、いわゆる自我または個己なるものを滅却したところでないと見出されないのである〉p.356

〈…またこれを自然法爾ともいうのである。また「無義を義とする」という親鸞聖人の他力の定義ともなるのである。またこれをはからいなしともいうのである。またどこかで述べた無目的的と見てもよい。はからいのない、なんら計画を樹てない、目的をしておかない、報いを求めぬ、自分を主にした因果を考えない――いずれもみんな同じ意味合いの言葉である。これを自分は「無分別の分別」といって居る〉p.358

〈 生きながら死人となりてなり果てて心のままにするわざぞよき   …無難禅師はここでは人といっている。が、それは人である。この人、この心のままにする業、すなわち行為は、みな善であるというのである。これが霊的生活の模様である……無難禅師の歌にある「心のまま」という、その心、それが盤山禅師のいわれる「全仏即人」という人である。また臨済禅師の「一無位の真人」である。人も、心も、仏も、皆一つの霊性的自覚である〉p.358-359

〈…「這箇」は「これ」である。しかし「これ」もまた、月を指す指で、その指に囚えられてはならぬ。この指はつまり何も指されたもののない指である。指されて見るべき月はないのである。そしてその指も亦もとよりないものである。それ故、無い月を指すのは、指であろうが、挂枝であろうが、坊さんのもつ払子であろうが、それは何でもよいのだ。が、何にもない指で指された、何もない月は、その何もないところから照りわたるのである。この月、この心、この人が見つかるのを霊性的直覚という〉p.360

〈鏡には、ああすべく、こうすべくというように、すべきはからいをもたないところに鏡そのものがある。なんらの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。またこれを「自然法爾」の姿ともいうのである〉p.362

〈…ただ口先でそのままだというだけではいけないのである。禅には自覚がなくてはならぬ。そのままをそのままと見る知がなくてはならぬ。この知が悟りである。この知が霊的直覚である。これは分別識上の自覚ではない。「了了自知」〔あきらかに自らを知る〕ということは無分別智の上でいうことである〉p.363

〈ところが、この生滅そのものを滅し已わると、すなわち時間そのものを超越すると、その時寂滅の正体が得られる。寂滅は何もかも有無の無になったというのではない。絶対無に徹したといえばよかろう。ここで生滅のない、生死につながれない霊性的生活が可能になる。生と死は肯定と否定の世界で、これを超える、あるいは生滅滅已するところが寂滅、すなわち肯定即否定、否定即肯定ということである……寂滅為楽は、決して生を滅するの意ではないのである。生じて滅し、滅して生ずるという時間的連続の無窮性を打破して、始めて自分の本来の姿を見ることが出来る……「為楽」は「喜びもなくまた憂いもない」ところでないと可能ではないのである。それ故に、この楽は絶対である、「畢竟浄」〔完全に煩悩を浄化した究極なさとりの境地〕である〉p.372-373

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