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2020年5月

日本的霊性

 鈴木大拙(1944).日本的霊性.角川文庫

〈元来意志――広い意味においての意志は、宇宙生成の根源力であるといってよいのであるから、それが自分らすなわち箇々の人間の上に現われるとき、心理学的意味の意志力と解せられる〉p.24-25

〈精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。何か二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つではなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相克し相殺しないで、互譲し、交驩し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。言わば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直観または自覚によりて可能となる〉p.30

〈…ただ宗教についてはどうしても霊性とでもいうべきはたらきが出てこないといけないのである。すなわち霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる……精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越して居る。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である……それから精神の意志力は霊性に裏付けられていることによってはじめて自我を超越したものになる〉p.31

〈宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むとき、自らの霊性に触著する時節があると、対立相克の悶えは自然に解消し去るのである。これを本来の意味での宗教という〉p.33

〈大いに有力な力のはたらきかけが浄土系思想を通して日本的霊性の中から出たと断定しなくてはならぬのである。このはたらきが浄土系思想を通して表現されたとき、浄土真宗は生まれた。真宗経験はじつに日本的霊性の発動に外ならぬのである〉p.38

〈日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、もっとも大胆にもっとも明白に闡明してあるのは、法然-親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁――すなわち分別を超越して居るということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである〉p.39

〈明るき心清き心というものが、意識の表面に動かないで、そのもっとも深き処に沈潜して行って、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである〉p.40

〈何か死の神秘性、永遠の生命、生死を超越した存在、水沫ならざるもの、照月のごとくに満ちまたは闕けることのないものに対するあこがれ、行方知らざるものを捉まんとする祈り、または努力、または悩みなどというものが、『万葉集』の中には少しも見あたらぬ〉p.48

〈…厭うこころ、求むる心――これが現世否定の道で、宗教はこの否定なしに、最後の肯定にはいるわけに行かぬが、その心を徹底させれば、宗教的霊性的生涯はそれから可能になる。厭いもせず、求めもせぬ大部分の万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれて居るものがないといってよい〉p.50

〈なるほど宗教は現成世界の否定性をもって居る。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。霊性そのもののおののきでなくてはならぬ〉p.58

〈本当の愛は個人的なるものの奥に、我も人もというところがなくてはいけない。ここに宗教がある。霊性の生活がある。天日だけでは宗教意識は呼びさまされぬ、大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは大地と人間と感応道交の在るところを通すとの義である〉p.62

 言葉が、文が、書が読み手の心に入りこみ、おののきを誘発するものでなくてはいけない。

〈自分はここで絶対他力教の特質に宗教の原理が含まれ、かつまた当時日本人の精神が始めて宗教的に目覚めたのと啐啄同時的な相応があったものと信ずる。ここで自分は日本的霊性の覚醒をいいたいのである〉p.74

〈業繋から解放せられることは、論理的にいえば、般若の即非観であるが、宗教信仰的にいえば無縁の大悲、すなわち弥陀の誓願に救われることである……純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でもよいのである。親鸞聖人は『歎異抄』でそういって居る。これが本当の宗教である〉p.75

〈真宗は念仏を主とするとか、浄土往生を教えるとか、その外何とかというのは、真宗信仰の真髄に触れて居ない。。真宗は弥陀の誓願を信ずるというところに、その本拠を持って居る。誓願を信ずるというは、無辺の大慈悲にすがるということである。因果を超越し業報に束縛せられず、すべてそんなものをそっち除けて、働きかけてくる無礙の慈悲の光の中に、この身をなげ入れるということが、真宗の信仰生活であると、自分は信ずる。此土の延長である浄土往生は、あってもよし、なくてもよい。光の中に包まれて居るという自覚があれば、それで足りるのである。念仏はこの自覚から出るのである〉p.77

〈われらの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに持獄も極楽もあるが、われらは大地そのものであるということに気付くと、ここが直に畢竟浄の世界である。考えそのものが大地になるのである。大地そのものが考えるのである。そこに大悲の光がひらめく〉p.78

〈この超個の人が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という、この親鸞一人である。また『百条法話随聞記』(「信道」、昭和194月号)にある「この界にわろき者はわれ一人、地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人、一切みな一人一人と覚えにける」というこの一人である。真宗の信者はこの一人に徹底することによりて、日本的霊性のうごきを体認するのである〉p.109

〈情性的というのは、情性的直観とでもいう心持ちなので、個己の超個己的経験の義である。経験といえば個己の上でのみあり得る事象であるから、超個己的は意味をなさないとも考えられる。が、この経験は個己の限られた意識の上だけでは生じ得ないもので、どうしても超個己的なものを入れて見ないと解せられないのである。これを信といって、普通の知または解または自覚などいうものと区別するのは、その理由ここにあるのである。他の宗教では「神の天啓」といって、人間理智の限りでなく、ただそのままに受け入れるべきであるという。宗教意識の受動性は実に此処に在るのである〉p.110

〈霊性には日本的なると否とを問わず、それ自体の領域があって、その動きには自ら情性と異なるものがある。これらの領域が相互に混淆して考えられると、人間生活の上に好ましからぬ紛糾を起こし、また民族的にもその進運の阻止を見ることさえある。情性的直観は一方においては、知性によりてその権衡が保持せられなければならぬが、他の一方においては霊性への流入によりて、その偏固性が矯正せられなければならぬ〉p.138

 霊性とは、内在するもの、受け継がれ、私にはたらきかけるもの

 ユダヤ教の霊性、浄土教の霊性

〈それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして、弥陀の絶対的本願力のはたらきに一切をまかせるというのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。絶対者の大悲は、善悪是非を超越するのであるから、この方からの小さき思量、小さき善悪の行為などでは、それに到達すべくもないのである。ただこの身の所有と考えられるあらゆるものを、捨てようとも、留保しようとも思わず、自然法爾〔あるがままに仏の大悲に身を任せること。親鸞の晩年の境地〕にして大悲の光被を受けるのである。これが日本的霊性の上における神ながらの自覚に外ならぬのである〉p.142-143

〈個己の一人一人が超個己の一人に触れて、前者の一人一人が「親鸞一人のため」の一人になるのである。この妙機を攫むのが信である。向こうに対象をおいてそれに向かって個己の一人が信をもつということではない。個己の一人は一人一人で、しかもそれがそのままに超個己の一人であるのである〉p.144

〈「あるがままにある」が否定道をたどって、またもとのところに還る様態に日本的なるものがある。これを日本的霊性の超出という。それは何かというに、絶対者の絶対愛を見付けたことである。この絶対愛は、その対象に向かってなんらの相対的条件を附せないで、それをそのままに、そのあるがままの姿で、取り入れるというところに、日本的霊性の直覚があるのである。善を肯定し、悪を否定するのが、普通の倫理であるが、今の場合では、善をも否定し悪をも否定して、しかる後、その善を善とし、その悪を悪とするのである。しかも絶対愛の立場からは、善も悪もそのままにして、いずれも愛自体の中に摂取して捨てないのである。穢れを見てそれを祓うでは、また対象的論理の域を出ない。祓われた穢れはまた戻ってくるにきまって居る。それが対象界の必然だからである〉p.152-153

〈…何となれば霊性的直覚の上にのみ形而上学的体系が加えられ得るのである。而してこの体系がないと感性及び情性に基づく諸直覚だけでは定着性がないからである…〉p.155

〈大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上下では大地はその秘密を打ち開けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、自らも大地となることが出来ると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けて居るからである……日本人の霊性的直覚は文字や記録の詮索ではない。それから生まれるものは知性的である。知性の大いに大事であることはもとより疑いを容れないのであるが、知性は霊性的直覚の中から出てほしいのである。これを逆にして知性的言挙げを主として、それから直覚を惹き出そうとしてはならぬ。実際はそれは出来ぬ相談である。情性的直覚を説くものも知性の言挙げを忌むが、それは霊性からするものと、同一系列には属しないということを、深く記憶しておかなくてはならぬ〉p.159

〈生きるということは長く線を引くということではない。何千年か何万年か乃至何億年でも構わないが、始めのある生き方は亦終わりがなくてはならぬ。無限は過去の方へも未来の方へもあてはめなければならぬ。これは有限な直線ではいけない……無限は直線では有り得ない。ここから始まるといえば、ここで終わるということがすでにその時定められている。そんな限定をうけるものは生きて居ない。生はどうしても無限でなくてはならぬ。すなわち直線であってはならぬ、生は円環である〉p.160-161

 霊性とは生命である

〈一人は超個己的一人で、中心のない無限大円環の中心を形成するところのものである。霊性的自覚はこの中心のない中心を認得するときに成立する。そのとき「天上天下唯我独尊」の一人者となるのである。それが真実の個己――超個己の自己限定である。個己でない個己という矛盾がすなわち、もっとも具体的事実として認得せられ、この存在が究竟性をもって来るのである〉p.164

〈…蚯蚓を蚯蚓と見るとき、蚯蚓は仏と知られるのである……自ら契ふ――これが全文の眼目である。「自ら契ふ」とは、霊性的直観の義に外ならぬ。この直覚が現前するとき、随順の真義に徹する。「百尺の竿頭に上りて手足を放って一歩を進めよ」といわれて、「はい」といって歩を運ぶとき、始めて自ら契fことが可能になり、蚯蚓蝦蟇すなわちこれ仏ということになる。この「はい」は随順だけでは出ない。やはり狐疑躊躇を何遍も繰り返して後でないと出ない。随順はまず否定せられて、それからでないと、勝義の随順ではないのである。そうなると、この場合の随順には霊性的なものがあると謂わなくてはならぬ。自契というのがすなわちそれである〉p.173

〈親鸞はまず「仰せを蒙りて」それから「信ずる外なし」というが、実際の心的経過は、信があって、それから「よき人の仰せ」がきかれたのである。彼が霊性的直覚は法然上人の指示によりて現前せられたというが、直覚と指示とは儼然として別物である。法然の指示、すなわち「仰せ」は彼のすべての弟子に向かって与えられたものであるが、後者がことごとく直覚を現前させたのではないのである。ただ親鸞のみあって、法然の「オイ」に即応して「ハイ」があったのである〉p.174

〈直覚は心に外ならぬのである……とにかく、能所を分けて話する世界では、純粋な受動性というのはあり得ないのである。仏教の通俗化をいうときにも、神仏習合をいうときにも、ただ一方向きの見方だけしかないように考えてはならぬ。両者対自の世界は、その回互性を領得することによりて、可能なのである……随順はつまり両者の相はたらきかけである。これが生命の真実の姿である〉p.175

 情性ではなく霊性、その論理性

 反省、否定と、弁証法

 個己でありつつ超個己であること

〈「悪心のみ遮って善心は曾て発らず」といい、「如何なる行を修しても、一向助かるべし共覚えぬ事こそ口惜候へ」というかれは、必ずしも地獄へ往くことを恐れたのではない。これはむしろ彼が人生に対する批判であると見たほうがよいのである。「憍慢の心のみ深して、当来の昇沈を不顧」というのは、生活に対してなんの反省もなく、萎々随々地〔他人に追従して自分の腰がきまらないさま〕にその日暮らしの動物性を肯定していたということである〉p.187

〈念仏→往生とつづき、往生→念仏とつづくとすれば、念仏即往生で、往生即念仏である。しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にまた往生の途がなくてはならぬ……念仏しつつ往生を考えて居ては、その念仏は純粋性をもたぬ。絶対の念仏ではない。法然上人は連生坊に教えて、「念仏の行はかの仏の本願の行にて候」といい、また「ただ本願の念仏ばかりにても候べし」といっている〉p.190

〈ある意味では、念仏はまた祈りである。現世の批判はその否定であり、否定はそのうちに浄土の肯定をかくして居る。このかくれたるものへの意向は祈りに外ならぬ。祈りは有意識と無意識に関係しない。現世を超えんとするところに祈りがある……彼は悪心を反省して、これを超えんとして居る。超えてのさきが何かの形で目の前に見えぬ限り、超えんとの希望は発生し能わぬ。ここに祈りがある。ここに南無阿弥陀仏がある。本願の念仏の行がある。それ故、念仏は永遠である。また仏の本願も永遠である〉p.192

〈事実上の経験からいうと、往生はこの世の否定の義であり、従って念仏はこの世を超えるの義であることが明らかである〉p.197

 霊性とは〈他なるもの〉、念仏とは〈他なるもの〉を生きること。

〈私〉の賢しらに在ることではなく、促され、感じとられた〈それ〉の意思に生きること。

《壬辰の冬、示して曰く、去る者法然上人に後生の願いやうを問ふ。法然答へて曰く、後世を願うといふは、唯今頸を切らるるものの心になりて、念仏申すべしと也。是よき教え也。誠に如是念仏せずんば我執尽くべからずと也》p.204 正三道人

〈こんな時節に出くわさぬと、「ひとりだち」の念仏、「すけをささぬ」念仏、「一心本願」の念仏は唱え出されないのである。こんな時節には、智慧も頼りにならず、持戒も道心も善悪も慈悲無慈悲も恃むに足りないのである。このときの心を白木ともいい、生まれながらともいい、信心決定ともいう〉p.204

〈霊性の覚醒は一たびは知性的否定を経過しなければならぬのである。それ故、一文不通では、本当の意味での霊性の覚醒はないともいえる。が、またより深い意味での覚醒は、霊性そのものから自ら出て来るといってもよい。知性的否定のある場合でも、霊性の自発的なものがなければ、縁だけが具わって、因が動き出さぬということにもなる〉p.215

〈霊性的直観はいつも初めてのように感じられ、珍しきものである。それ故、何遍きいても、転々挙すれば転々新たなるものがある。道宗は実にこの境地に到達した人であるので、聞書にも上人の言としてそれを伝って居るのであろう〉p.237

〈あるとき上京の節、道宗の妻は、上人から何か安心につきての指示をいただいてきてくれと頼まれた。京から遥々帰って来て、草鞋も取りあえず、妻に出して見せたのは「南無阿弥陀仏」の六文字であった。妻はこれを見て失望した。もっと何か細々と書きつけたものがほしかったのである。道宗は妻の意を知ると、ただちに「よし」といって、その鞋のままでまた京へ立ったということである〉p.240

〈われらはいずれも借金を背負って居る。そしてそれはいつか払わねばならぬのである。借金とはこの存在――個己――そのものである。それでこの存在はいつかその底に徹して覆滅させなくてはならぬ。すなわち、われらはいつか個己から超個己への飛躍を成し遂げなくてはならぬのである。これが往相回向である。それがすむと還相回向である。が、往生がすんで還相があるというのではなくて、往生がすなわち還相で、その間に回互的聯関がある。借金を払うというは個己の意識の上での話であるが、事実は払われる借金もなければ、払う借用人もなく、またそれを受け取るものもない。借金と人と共に超個の法界に頭出頭没するのである。仏者はこれを遊戯三昧とも法界縁起ともいう。しかし個己の存在としては業は尽くされねばならぬのである〉p.242

〈彼の意識が念仏に全く占領せられたといっては、なお二元論的見方たるを免れぬ。意識と念仏とが二つになって居る。才市の念仏はそんな境地から出るのではなくて、彼の主体が南無阿弥陀仏そのもので、彼の意識というのは南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を自覚するという意味になるのである。臨済の「一無位の真人」または親鸞の「おのれ一人のためなりけり」が、真人と自覚し、一人と自覚するとき、そこに臨済が生まれ、親鸞が生まれる。このとき南無阿弥陀仏が口を突いて出るのである。才市が下駄を削って居るのではなくして、南無阿弥陀仏が下駄を削って居るのである〉p.253

〈これで見ると、才市の歓喜は個己としての才市の意識的事象ではなくて、超個己の一人がこれにも参加していることが明々に看取せられる。それからまた、この歓喜は一時性のものでもなく、また一定の場所に限定せられたものでもない。常住に才市の意識を占領して居るところのものである……それ故、弥陀も亦これに与るのである〉p.254

〈「なむあみだぶつ」は霊性的直覚のまたの名である。直覚の内容であるというのが正当かもしれぬ。あるいは弥陀の個己化が「なむあみだぶつ」だと謂うべきであろうか〉p.264

 incarnation(受肉の神秘)

〈皆一つのところが「なむあみだぶつ」である。すなわち「なむあみだぶつ」であり、また光明であり、また慈悲であり、また才市である。この自覚を霊性的直覚という〉p.265

〈能所の岐れるところに禅はないので、能と所が一つにならなければならぬのである。すなわち観音様は眼そのもの、手そのものである〉p.318

〈般若系思想では、山は山ではない、川は川ではない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである……すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に、否定を媒介して、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ、というのが、般若論理の性格である……般若の智慧なるものは、これに反して、まずその物を素直に受け入れないで、これを否定する、それはそうではないという。そして、それから肯定に帰るということになるのである……山が山でないというと妙に聞こえるが、われらは始めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれるというと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気がつかないのである〉p.328-329

〈禅の修業というものは、つまり自由に動いていたものを、まず動けなくさせる修業だといってよろしい。すなわち否定の修業である。あるいはこういった方がよいかもしれない。曰く、まず否定に撞着したから禅に入ったのであると。禅は否定の修業だというよりも、まず否定があったので、それから禅を修業することになったという方がわかりやすいであろう。否定ということを感じ得るのが人間である。それは人間にのみ許された霊性的生活の故である。それで「不生」を否定した生と死の観念から脱出しようと、人間はつとめるのである〉p.334-335

〈…竹篦がただちに人生そのもの、世界そのものなのである。そこに突き出された竹篦は和尚の手裡に在るのではなくて、自分がそれなのである〉p.336

〈そこで「応無所住而生其心」、これは「応に住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読むのである。この意味は、つまり、無心または無念ということと同じである。住するというのは、何にか一定の場所、または事柄に囚われて、そこから離れられないというのが住である。それは貧著ということである〉p.338

〈非場所〉の倫理

 居付かない在り方

〈しかし禅などでいう心は、もっともっと深い意味のものである。分別心でも、思慮心でも、集起心でもない。これを無分別心と呼んでいるが、分別を超越したところに働く心である。分別心または分別意識というが、こういうものの底に無分別心が働いていると自分は言うのである〉p.343

〈…それを今度は主、すなわち自分を無にして、客の方を主にすると、道元禅師が「万法来ってわれを証する」といわれたように、自然に無所得が得られる。すなわち無功徳で、無所住で、そして活潑潑地の働きがそこから涌いて出る〉p.350

 無分別の世界が広がっていて、その中に分別の世界がある

〈大悲本願の原理は日常生活の人間性を超越したところから出て来るものである。これは没合目的性、無功徳性、無分別性、応無所住性というべき境地があって、始めて感得せられる。それで人間はこの境地を見付けなくてはならぬのである。無所住の境地に居ないと大悲はわからぬ。力の対峙の世界はここで始めて克服せられ、解消せられて、そしてそれと同時にその意義に徹し得るのである。没合目的底のところにのみ合目的性を打ち立てることが出来て、後者はその本務を果たすことになるのである〉p.351

〈…この句(応無所住而生其心)の意味は行為面で見るべきで、平易な言葉では、跡を残さないということである。跡を残さぬというは、因果にとらわれないということである。因果に堕ちずでもなく、因果を昧まさずでもなく、因果ということ、そのことに心を煩わさずということである〉p.352-353

〈…つまり報いを求めない、無功徳的に行動するということである。これを跡を止めない、跡を残さぬというのである。禅では殊にこれを貴ぶということは、ただ貴ぶという意味ではなくして、その中に含まれている霊性的立場を挙揚しようとするのである。これを禅語でいうと、「羚羊掛角」〔羚羊、角を掛く〕である〉p.354

〈…分別意識の人は自我である。この自我は分別の世界では役に立つが、これが最後のものではない。霊的生活をする人ではない。霊的生活を送る人でないと最後の実在に到達したものとはいえぬ。すなわち安心が出来ないのである。安心の出来るところは、いわゆる自我または個己なるものを滅却したところでないと見出されないのである〉p.356

〈…またこれを自然法爾ともいうのである。また「無義を義とする」という親鸞聖人の他力の定義ともなるのである。またこれをはからいなしともいうのである。またどこかで述べた無目的的と見てもよい。はからいのない、なんら計画を樹てない、目的をしておかない、報いを求めぬ、自分を主にした因果を考えない――いずれもみんな同じ意味合いの言葉である。これを自分は「無分別の分別」といって居る〉p.358

〈 生きながら死人となりてなり果てて心のままにするわざぞよき   …無難禅師はここでは人といっている。が、それは人である。この人、この心のままにする業、すなわち行為は、みな善であるというのである。これが霊的生活の模様である……無難禅師の歌にある「心のまま」という、その心、それが盤山禅師のいわれる「全仏即人」という人である。また臨済禅師の「一無位の真人」である。人も、心も、仏も、皆一つの霊性的自覚である〉p.358-359

〈…「這箇」は「これ」である。しかし「これ」もまた、月を指す指で、その指に囚えられてはならぬ。この指はつまり何も指されたもののない指である。指されて見るべき月はないのである。そしてその指も亦もとよりないものである。それ故、無い月を指すのは、指であろうが、挂枝であろうが、坊さんのもつ払子であろうが、それは何でもよいのだ。が、何にもない指で指された、何もない月は、その何もないところから照りわたるのである。この月、この心、この人が見つかるのを霊性的直覚という〉p.360

〈鏡には、ああすべく、こうすべくというように、すべきはからいをもたないところに鏡そのものがある。なんらの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。またこれを「自然法爾」の姿ともいうのである〉p.362

〈…ただ口先でそのままだというだけではいけないのである。禅には自覚がなくてはならぬ。そのままをそのままと見る知がなくてはならぬ。この知が悟りである。この知が霊的直覚である。これは分別識上の自覚ではない。「了了自知」〔あきらかに自らを知る〕ということは無分別智の上でいうことである〉p.363

〈ところが、この生滅そのものを滅し已わると、すなわち時間そのものを超越すると、その時寂滅の正体が得られる。寂滅は何もかも有無の無になったというのではない。絶対無に徹したといえばよかろう。ここで生滅のない、生死につながれない霊性的生活が可能になる。生と死は肯定と否定の世界で、これを超える、あるいは生滅滅已するところが寂滅、すなわち肯定即否定、否定即肯定ということである……寂滅為楽は、決して生を滅するの意ではないのである。生じて滅し、滅して生ずるという時間的連続の無窮性を打破して、始めて自分の本来の姿を見ることが出来る……「為楽」は「喜びもなくまた憂いもない」ところでないと可能ではないのである。それ故に、この楽は絶対である、「畢竟浄」〔完全に煩悩を浄化した究極なさとりの境地〕である〉p.372-373

レヴィナスと「場所」の倫理

藤岡俊博(2014).レヴィナスと「場所」の倫理.東京大学出版会

〈《同》が《他》へ向かいつつも、《他》の他性がふたたび《同》に回収されることのないこの運動を、レヴィナスは還帰を願うことのない欲望、「私たちの祖国であったことがない国への欲望」と呼んでいる〉p.3

〈「空間的広がりは自らの本質を場所から受け取るのであって、「空間そのもの」からではない」(ハイデガー)。かくして、西洋哲学史における場所の概念の歴史を丹念にたどったエドワード・ケーシーの大著『場所の運命』(1977年)は、ハイデガーをはじめとする現代哲学者における「場所の再出現」を論じることで締めくくられている。場所とは、「それ自身から発してそれ自身のうちに自らを示すものであり、そのまったき潜勢力……を身をもって知るためには、場所のなかに存在しなければならない」(マコウスキー)とするなら、ハイデガーはアリストテレスの場所論のうちに含まれていた現象学的な議論の萌芽を育て上げ、哲学史が隠蔽してきた豊かさをこの対象に与え返したということになるだろう〉p.8-9

〈「現象の哲学的意義、究極的な意義が獲得されるのは、われわれが現象を意識的な生のなかに、すなわち、われわれの具体的な実存(notre existence concrète)の個別性、分割不可能性のなかに置き直したときである」(レヴィナス)。つまり現象学は、個々の現象を、それが生起する個別的な場面から切り離して抽象的かつ一般的に扱うかわりに、それがわれわれの生のうちで生起する仕方をあるがままに記述することを目指すのである〉p.21

  altérité はじめてだからこそ感じられる懐かしさ(未知ゆえの近しさ)

〈そうではなく、近代科学が構築する世界、「われわれの環境世界(monde ambiant)を超越した世界」は、われわれが有している「個別的なもの、歴史的なもの、人間的なもの」についての了解、すなわち「価値と重みをもった実存」に対する了解とは根本的に異なるのではないか、とレヴィナスは問うのである。このことは、ニュートンを批判するバークリーやヒュームの感覚主義においても同様であるとされる〉p.21

《《人間的なもの》の真の本性、意識に固有の本質を特定すること、これが現象学者たちに課せられた第一の課題である。われわれは彼らの回答を知っている。意識であるようなものすべてが、事物のようにそれ自身に閉じこもっているわけではない。それは《世界》に向かっている。人間のうちにある最高度に具体的なものとは、人間の人間自身に対する超越である。あるいは現象学者たちの言葉を使えば志向性である》p.22 レヴィナス

 失われたものを取り戻すとは、未知に開かれていること

《いかにして主体は、対象に到達するために自分自身から抜け出せるか》p.27

〈人間は先在する抽象的空間のなかに事後的に措定されるのではなく、世界内存在という根本的構制をそなえた「現存在」として、つねにすでに世界のうちに存在している〉p.28

〈ハイデガーの視角においては「認識することは世界内存在としての現存在の一つの存在様態」であり、それゆえ認識問題を適切に扱うためにはまず第一に世界内存在という構造の解明が求められるのである……こうしてハイデガーは、「用具性(Zuhandenheit)」をそなえた存在者(「道具」)と現存在との関係である「配慮(Besorgen)」を、客体的存在者を前にした観想的態度や理論的知識に先行するものとして提示していくことになる〉p.29

《フッサールは、個別的なものや具体的なものの特権的役割を盲目的に受け入れていたわけではない。またマルティン・ハイデガーは、いかにして「現実的な人間的実存」の分析がわれわれを、「存在としての存在」の問題を定式化する際にアリストテレスが垣間見ていたこのうえなき哲学的次元へと導くのかを、見事な仕方で示すことができた。フライブルクには具体的なものの神秘主義(mysticisme du concret)は存在しない》p.31

〈西洋の思想的伝統において、精神の自由はつねに現実から身を引き離す能力として考えられてきた。人間存在に重くのしかかる「もっとも根深い制限」である歴史に対して最初の「素晴らしき音信」をもたらしたのはユダヤ教であり、ユダヤ教では「悔悛(repentir)」に基づく「赦し(pardon)」によって可能となるような、不可逆的な時間からの人間の解放が構想されていた。「時間はその不可逆性そのものを失う。時間は手負いの獣のようにして、いらだちながらも人間の足元にくずおれる」……人々の物質的ないし社会的条件がいかなるものであれ、魂はそれとは無関係に、「かつてあったもの、自らをつなぎ止めていたものすべて、自らを巻き込んでいたものすべて」から身を引き離す能力を有しているからだ〉p.35

《しかしながら、観念論がたどった道のなかにではなく、観念論が切望したもののなかに、疑いの余地なく西洋文明の価値がある。すなわち、観念論は当初の着想においては存在を乗り越えようとしているのである……新たな道を通って存在から抜け出ることが問題である。そのためには、常識や諸国民の叡智(la sagesse des nations)にとってこのうえなく明白に思われるいくつかの概念を転倒する危険を冒さなければならない》p.42 De l’evasion

〈異教とは、精神を否定することでもないし、唯一神を知らないということでもない……異教とは、世界から抜け出ることの根本的な無能力なのである……自足し自閉したこの世界のなかに、異教徒は閉じ込められている。異教徒はこの世界が堅固で、実に安定したものだと思っている。異教徒はこの世界が永遠だと思っているのだ……健全な精神の持ち主と呼ばれるひとたちにとって、世界がどれほどゆるぎないものに映ろうとも、世界はユダヤ教徒にとって、束の間のもの、創造されたものという痕跡を保ちつづけているのである〉p.50

〈世界が創造されたと信じることは同時に、現在の世界のありさまがいついかなるときでも失効可能であると見なすことで、現在の実存の様態を決定性から引き離すことである。それゆえ、ユダヤ教的思考は、現今の世界の土台をつねに疑うという意味で、世界への決定的な内在性から脱出し、その「外部」を指し示す「逃走の哲学」を素描していることになるだろう〉p.51

〈すなわちイスラエルと教会は、世界のうちにありながらも世界に対して異質であり、自らを含んでいるように見える世界をたえず巻き込み、問いに付しているのである……結局のところ、ユダヤ-キリスト教を異教から分けるのは、なんらかの道徳や形而上学である以上に、世界の偶然性と非安全性についての差し迫った感情であり、わが家(chez soi)にいないという不安、そしてそこから抜け出る力である〉p.52

 人に言葉を、生命を

(その言葉を探して)

〈現存の世界への内在とそれがもたらす決定性から距離を取り、そこから脱出する方途を垣間見ることを可能にするユダヤ教的思考そのものによって、まさにユダヤ人はユダヤ教に決定的な仕方で繫縛しているという逆説が生じているのである〉p.54

 他なるもの、未知なるもののもつ魅力

 想像し得ぬものの(聞いたことのない)音楽

〈一九三五年のマイモニデス論で、「世界から抜け出ることの根本的な無能力」と定義された異教は、ある特定の局地的な「場所」への固着として解釈し直され、それに対して、一切の「場所」から自由であるとされるユダヤ教的思考に範を得たレヴィナスの独自の思索が展開されることになる〉p.57

〈『全体性と無限』の用語法に従えば、欲求がおもに身体的・物理的で、その対象によって満たされうるものであるのに対し、自らとはまったく他なるものへと向かう欲望はけっして満たされることがない(むしろ他なるものによって飽くことなく惹起される)ものであると定義されている〉p.69-70

《この不確かさは、動詞の非人称形における三人称の代名詞のようなものとして、誰なのかよくわからない活動の為し手を指し示しているのではなく、いわば為し手をもたない、無名の活動そのものの性格を指し示している。非人称的で無名の、だがしかし打ち消すことのできない存在のこの「消尽(consumation)」、無それ自体の奥底でざわめいている存在の消尽を、われわれは〈ある〉(il y a)という用語で捉えようと思う。〈ある〉とは、人称的な形態を取ることの拒絶において、「存在一般」である》p.75 レヴィナス『実存から実存者へ』

〈「事物は、与えられた世界の部分として一つの内部に関係づけられており、認識の対象であれ日用的対象であれ、そのようなものとして実用性の歯車のうちに組み込まれている。そこでは事物の他性はほとんど浮かび上がることがない」(レヴィナス『実存から実存者へ』)……レヴィナスは、芸術を例に挙げながら、認識ないし行為の主体に準拠することのない事物の他性を記述することを目指す。そして、その過程で浮かび上がる事物の不定形の物質性、世界内の合目的連関との関係で意味を与えられることのない名状しえぬもののうちに〈ある〉が認められるのである〉p.77

 一期一会――出会っているのは他者である

〈レヴィナスによれば、そもそも芸術的営為は、世界内で主体と関係づけられている事物をこの帰属から引き離す機能をもつ……「絵画、彫刻、書物はわれわれの世界に属する対象であるが、それらを通して表象された事物はわれわれの世界から引き離されている」(『実存…』)。このように芸術において実現される事物の外部化、それによって事物が他性をそなえる仕方を、レヴィナスは「異郷性(exotisme)」と呼んでいる〉p.78

《われわれはこうして、現代の絵画や詩の探究を理解する。これらは芸術的現実にその異郷性を保持させ、その現実から、可視的形態を自らに従属させるこの魂を追放し、表象された対象から表現という従属的運命を取り除こうとしているのである》p.79 『実存…』

〈芸術における異郷性の分析によって明らかになったのは、いかなる「内部」とも関係せず意味を与えられることもない物質の他性であり、有意味ないし合目的なものを相互に結びつける趣向性の構造の破綻であった……レヴィナスが記述していたのは現存在の環境世界の「内部」に包摂されることのない他性の出現の契機であった。〈ある〉とはまさに、こうした内部性に穴をうがつことで、世界内に成立している内部/外部の対立を無化するものである〉p.80-81

《〈ある〉がかすめること、それが恐怖である……意識であるとは、〈ある〉から引き離されているということだ。というのも意識の実存が主体性を構成するのであり、意識は実存の主体、すなわちある程度までは存在の主人であり、夜の無名性のうちにあってすでに名前〔名詞〕であるからだ。恐怖とは言わば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動である。それは意識を無意識のなかで鎮静化することによってではなく、意識を非人称的な警戒のうちに、すなわち、レヴィ=ブリュールがその語に与えた意味における融即(participation)のうちに陥れることによってである》p.85-86 『実存…』

〈ふと背後になにかの気配を感じて背筋があわだつその瞬間、われわれの意識を〈ある〉がかすめるのだとレヴィナスは言う。知らぬまに自分がなにかの視線に曝されていたかのような気分に囚われるとき、われわれの意識には〈ある〉がそっと触れている。恐怖とともにこの知られざるなにかに向けられる瞬時の警戒は、判然とした意識から特定の対象に向けられたものではない。不眠の夜においてと同様、恐怖においてもまた、主体の内部と外部を分かつ境界が不分明となり、意識の主体性そのものが融解してしまうのである……「未開」心性を特徴づけるのは矛盾律でも同一律でもなく、論理的には対立する両項が相互に干渉しあう融即なのである〉p.86

《神秘的融即は、ある類へのプラトン的分有とは根本的に区別されるものであるが、そこでは諸項の自己同一性は失われてしまう。両項は、それらの実体性そのものを脱ぎ捨てるのである。ある項の別の項への融即は、一つの属詞を共有することのうちにあるのではない。ある項が他の項なのである》p.88 『実存…』

 書き手に訪れている意思、そこにある〈他者〉を感じとること

「やさしい青空に」訪れているもの

《トーテミズム、あるいはより一般的に、レヴィ=ブリュールがかくも強調した例の融即という概念が素朴に表現しているのは、この超越の未分化状態であり、つまりは〈存在〉への人間の参与である。たしかに、ここで〈存在〉はすでに一つの存在者と同一視されてはいる。しかし、存在者と言っても、この存在者は恐るべきものであり、かつ威光をそなえたものであり、そのうちで〈存在〉の力が光り輝いているのであるから、存在者という性質がそれとして認められることはない。かくして未開人は、世界に存在することは〈存在〉に寄与することであるという事実を経験しているのである》p.92 ミケル・デュフレンヌ「未開心性とハイデガー」

《現存在のうちには、近さへの本質的な傾向がある》p.100 ハイデガー『存在と時間』

〈「ここでア・プリオリ性とは、用具的存在者のそのつどの環境世界的な出会いにおける、(方面としての)空間の先行性を意味する」(「存在と時間」)。それゆえハイデガーにとって、諸科学が対象とするような三次元によって規定される純粋な空間は、配視的に了解された世界内存在の空間性から派生したものにすぎない。「延長せるもの」としての空間は、環境世界において開かれている空間の欠如的様態であり、環境世界の「非世界化(Entweltlichung)」によってはじめて発見されるものなのである〉p.101

 どこでもない場所(物質空間には存在しない)

 しかし布置されて在る

〈(1)意識の「ここ」は現存在の「現=そこ」とは根本的に異なること、(2)現存在がすでに世界を含んでいるのに対し、「ここ」はあらゆる了解、地平、時間に先行すること〉p.101

《デカルト的コギトのもっとも深遠な教えはまさに、思考を実体として、すなわち定位されるなにかとして発見したことにある……思考は瞬時に世界のうちに広がることもあるが、ここに凝集する可能性を保っており、思考は決して〈ここ〉から切り離されない》p.102 『実存…』

〈むしろ「ここ」という場所への定位こそが意識の出来の条件であって、「意識の局在化が主観的なものだというのではなく、この局在化が主体の主体化なのである」〉p.103

〈「一つの土台の上に定位することで、存在によってふさがれた主体は凝集し、立ち上がり、自らをふさぐもの一切の主人となる。主体のここが主体に一つの出発点を与えるのだ。主体はその上に根づく。意識の内容はすべて状態(états)である。主体としての意識の不動性、定着性は、観念論的空間の何らかの座標軸に普遍的に準拠していることに因るのではなく、意識の立ち止まり(stance)、すなわち自分自身にしか準拠しない意識の定位という出来事に因っている。この出来事は定着性一般の起源であり、始まりという概念それ自体の始まりである」(『実存…』)。自分自身にしか準拠することなく、自らとは他なるものを一切含むことのない意識の定位は、後のレヴィナスの用語を用いるなら《同》(le Même)の起源ということになるだろう〉p.104

〈場所は、一つの幾何学的空間であるまえに、ハイデガー的世界の具体的な環境=雰囲気(ambiance)であるまえに、一つの土台である。それゆえ身体とは意識の出来そのものなのだ。いかなる意味でも身体は〈もの〉ではない。それは単に魂が身体のうちに住み着いているというだけでなく、身体の存在が実体的なものの次元ではなく出来事の次元に属しているからである。身体が定位されるのではなく、身体が定位なのだ。身体はあらかじめ与えられている空間のなかに位置づけられるのではない――それは、局所化ということそれ自体による、無名の存在のうちへの侵入である。身体の外的経験を超えたところでキネステーゼの内的経験を強調するのでは、この出来事を説明することはできない〉p.106 『実存…』

〈換言すれば、身体の定位とは、一切の外的なものに関わることのない「内部」の発生であり、いかなる「他なるもの」も包含することのない《同》の成立なのである。そしてまた、この議論が、いかなる内部性にも準拠することがない芸術作品の「異郷性」の分析を通して事物の「他性」が導出されたのと対応していることにも注意する必要がある。《同》と《他》の成り立ちを見据えようとする『実存から実存者へ』の企図は、以上の議論をさらに発展させながら『全体性と無限』で体系化されることとなる〉p.107

 辿り着かれた真実たちがこの世を形作る

《地理学が空間の現象学を可能にする。ある意味で、地理学の具体的空間はわれわれを空間から、無限の空間、幾何学者や天文学者の非人間的空間から解放するのと言える》p.112 エリック・ダルデル『人間と大地』

《風景は一つの支配的な情調(tonalité affective)の周りに統一される。この情調は、一切の純粋な科学的還元には反抗するけれども、完全に根拠のあるものである。風景は人間存在の全体を、《大地》への実存的な結びつきを、あるいはこう言ってよければ、人間の根源的な地理性――人間の現実化の場所、土台(base)、手段としての《大地》――を巻き込む。愛着を覚えるにせよ違和感を覚えるにせよ、いずれにせよ風景は明瞭なものとして現れる。血肉に影響を及ぼす一つの関係の清澄さなのだ》p.113 『人間と大地』

〈レヴィナスにとって環境や歴史はあくまでも根源的な場所の所有に対して二次的なものにすぎなかった。そして現代芸術の異郷性においても身体の定位においても、自らの存在以外の参照項をもたない物質性を経由してはじめて他性の次元が考察の対象となる。すなわちレヴィナスは、人間の観念をすでに含んでしまった地理学的現実を根源的な場所へと還元することから出発して、地理学的現実のうちに含まれることのない人間の他性を考察しようと努めるのである。根源的な場所という環境世界の「手前」は、他性という環境世界の「彼方」に至るための基礎となる。同化されることのない「まったき他者」を導出するためには、まず一切の他性を包含しない《同》が記述されなければならなかったのである〉p.116-117

 死者は他者である(死ぬとは他者になること)

〈他者に対して私の権能を及ぼそうとすれば他者の全面的否定へと向かわざるをえないが、まさにこの否定そのものによって他者の他性は逃れ去ってしまうという逆説的な事態が生じる……「全面的否定の誘惑――全面的否定という企図の無際限さとその不可能性とを見積もりに入れた誘惑――それが顔の現前である。他者と対面して(face-à-face)関係に入ること、それは殺すことができないということである。それはまた言説(discours)という状況でもある」(レヴィナス「存在論は根源的か」)〉p.124

〈翻って「存在論は根源的か」には、「他者との関係はそれゆえ存在論ではない」という言明に続いて次の記述がみられる。「他者とのこの絆(lien)は、他者の表象ではなく、他者への請願に帰着するのであり、そこではなんらかの了解が請願に先立つことはない。われわれはこの絆を宗教(religion)と呼ぶ。言説の本質は祈り(prière)である」〉p.125

 宇宙という秩序(論理)

《顔の絶対的な裸性、絶対的な仕方で防御も覆いも衣服も仮面も欠いたこの顔は、それにもかかわらず、顔に対する私の権能、私の暴力に対立するものであり、絶対的な仕方で、対立そのものであるような対立によって私の権能や暴力に対立するものである。自己を表出する存在、私の正面にある存在は、その表出そのものによって私に否と言う》p.126 レヴィナス「自由と命令」

 心の奥に異郷がある

《定住的実存(l’existence sédentaire)の奥底からノマドとしての記憶が立ちのぼってくる。ノマディズムは定住状態に接近するための一つの方途なのではない。ノマディズムは、場所なき滞在(un séjour sans lieu)という、大地との還元不可能な関係である》p.131 レヴィナス「詩人の目」

〈『デカルト的省察』第30節で意識の本質的契機とされた「自らを超えて思念すること(Mehrmeinung)」に依拠しつつ、レヴィナスは、意識の顕在性のうちに含蓄されている「暗黙的なもの(l’implicite)」に注目する……『実存から実存者へ』の芸術論のなかで、思考がそのうちに迷い込む元基の非人称性として解釈されていた感覚的質は、ここではより広い意味で意識の本質的な受動性をなすものとなる〉p.135

《現象学は、自らの生を生きる具体的人間によって知覚された世界がもつ失効しえない特権性を要求している、と言うことができる。建てること(bâtir)によって描かれる場所(lieu)が幾何学的空間を含むのだと主張するとき――幾何学的空間はなにも含むことができないとされる――ハイデガーはまさにこの『イデーン』のテーゼを繰り返しているのであるp.137 レヴィナス「現象学的“技法„についての省察」

《空間は空間を前提とし、表象された空間は空間のうちへのある種の植えつけ(implantation)を前提としているのだが、この植えつけの方はと言えば、それは空間の投企(projet)としてでしか可能ではない。この見かけ上の同語反復のうちで、本質――存在体の存在――は輝く。空間は空間の経験となる。空間はもはやその啓示から、その真理から分離されることがない。空間はその真理のうちでただ伸長していくというのではなく、むしろそこで成就するのだ。存在が、存在を投企する行為を基礎づけ、行為の現在――その現在性――が過去へと変容する、しかし即座に、対象の存在が、それに対してとられる態度のうちで完成され、存在の先行性があらたに一つの未来のうちに位置づけられる、そうした逆転。人間的振る舞いが、一つの経験の成果としてではなく根源的経験として解釈されるような逆転――このような逆転こそ現象学そのものである。現象学はわれわれを、主体-客体―という範疇の外へ連れ出し、表象の至上性を瓦解させる。主体と客体はこの志向性的生の両極にすぎないのだ》p.138 レヴィナス「表象の瓦解」

〈このように理解された志向性が、次章以降で論じていく『全体性と無限』の享受の議論に理論的モデルを提供していることは強調されてよい。そこで主体における参入と離脱との弁証法は、《同》が「他なるもの」を同化しつつもこの「他なるもの」に依存しつづけるという構造へと組み替えられることになる。表象に基づいた観念論が「自我と非自我、《同》と《他》とのあいだの一致」であるのに対し、志向性は「自我と他なるものの不等性」を意味する。「他者との関係」とも言い換えられる志向性によって、「客観的ではない一つの外部性という観念」がもたらされるのである〉p.139

《「真の生が欠けている」。しかしわれわれは世界内に存在している。形而上学はこの不在(alibi)のうちで生じ、維持される。形而上学は「他所(ailleurs)」、「別の仕方で(autrement)」、「他なるもの(autre)」の方を向いている。実際、思考の歴史のなかでそれがまとったもっとも一般的な形態において、形而上学は、われわれにとって馴染み深い世界――この世界を境界づける未知の大地や、この世界が隠しもつ未知の大地がいかなるものであれ――から、あるいは、われわれが住む「わが家(chez soi)」から出発して見知らぬ自己の外部(hors-de-soi)、彼方(là-bas)へ向かう運動として現れている》p.142 Totalité et infini

 未知への憧れを形而上学という

〈…形而上学的欲望は他者を目指す、と即座に言われるのではなく、それは第一に「帰還(retour)」を望むことのない欲望であり、「われわれが生まれたのではない国」、「一切の自然に対して異邦的な国(étranger à toute nature)」、「われわれの祖国でもなくわれわれが決して移り住むこともないであろう国」への欲望なのだ〉p.143

〈レヴィナスが《同》と《他》の「形而上学的非対称性(une asymétrie métaphysique)」と言うとき、それは《同》が《他》の責任を一方的に負うから非対称的なのではなく、責任を負うべき《他》は《同》から出発することによってでしか導出されえないという点において非対称的なのである〉p.143-144

《世界という「他なるもの」に抗する《自我》の様態(manière)は、世界内でわが家に存在することで滞在し、自己同定する(s’identifier)ことに存する。当初は他なるものであった世界において、《自我》はそれでも土着的(autochtone)である。《自我》とは、この変質の豹変そのものである。《自我》は世界のうちに場所と家(maison)を見いだす……「わが家」とは一個の容器なのではなく、そこで私がなにかをなすことができる場所であり、他なる実在に依存する私が、この依存にもかかわらず、あるいはこの依存のおかげで、自由であるような場所である。歩くだけで、行為する(faire)だけで、一切の事物を捉え、手にするためには十分である。ある意味では、すべてがこの場所のうちにあり、結局のところすべてが私の手の届くところにある……一切はここにあり、一切は私に属している。場所の本源的な掌握(la prise originelle du lieu)とともに、一切があらかじめ掌握され、一切が理解=包摂されている(com-pris)のだ。所有する可能性、すなわち、最初だけ、そして私に対してだけ他なるものにすぎないものの他性そのものを中断する可能性、それが《同》の様態である》p.144-145 TI

〈他なるもの〉へ向かうこと

 それは同化のためというより、無を希求するからではないか

 あるいは、止揚という生命の運動ゆえ

〈「表象されたものとして主体が包含するものは、主体の主体としての〔能動的〕活動を支え、養うものでもある」からであり、そこでは構成されたものが即座に構成の条件に変容するからである。他なるものの否定を介した享受という活動は、この活動そのものによって文字どおり「養われる」。「身体である(Etre corps)とは、一方で身を支える=留まる(se tenir)こと、自己の主人であることであり、他方で大地の上に身を支えること、他なるもののうちに存在することであり、したがって他なるものの身体によってふさがれていることである」〉p.154

《自らの欲求を物質的欲求と見なすことで――すなわち満足することができるかぎりにおいて――自我はそれ以後、自らに不足してはいないものへと向かうことができる。自我は〈物質的なもの〉と〈精神的なもの〉を区別し、《欲望》へと開かれるのである。とはいえ労働はすでに言説を要求するものであり、《同》には還元できない《他》の高さ(hauteur)、《他者》の現前を要求する。自然宗教といったものは存在しない。人間的身体が下方から上方へと立ち上がり、高みに向かう方向〔意味〕(le sens de la hauteur)へと組み込まれることによって、人間のエゴイズムはすでに純粋な自然から抜け出ているからである。高みに向かう方向〔意味〕とは、人間のエゴイズムの経験的な幻想ではなく、その存在論的な生起(la production ontologique)であり、消し去ることのできない証言である。「私はできる」は、この高さから生じるのだ》p.155 TI

〈《同》とはつねにすでに自らの圏域のうちに、この圏域そのものとして存在しているのであり、そこでは《同》によって構成されたものが即座に構成の条件と化すような「跳ね返り」が起こっている。《同》が身を置く場所(lieu)とは、すでに《同》が浸る環境(milieu)でもあるのだ〉p.157

〈レヴィナスは芸術における「異郷性」の機能を論じる文脈で、知覚から感覚へという芸術の運動のなかで「元基の非人称性」があらわになると述べていた。主体からも対象からも乖離した感覚的質のうちに志向が迷い込むところに美的経験の本質を見ていた『実存から実存者へ』の議論は、「元基」という概念を介在させることで、誰のものでもない所有不可能な環境に享受が浸りこんでいるという『全体性と無限』の議論に接続される……「感受性は、基体を欠いた純粋な質、元基と関係づける。感受性とは享受なのだ」〉p.159-160

《享受において質は、なにかの質ではない。私を支える大地の堅さ、私の頭上の空の青さ、風のそよぎ、海の波浪、光の輝きは、ある実体に懸かっているのではない。それらはどこでもないところから到来する。どこでもない所、存在しない「なにか」から到来し、現れるものがなにもないのに現れているというこの事態、そしてまた、私がその源泉を所有することができないのにたえず到来するというこの事態によって、感受性と享受の未来が開かれる》p.162 TI

《人間が世界のうちに身を置くのは、ある私的な領域、わが家から出発して世界にやってきた者としてであり、しかも人間はいつでもわが家のうちに身を退けることができる……人間は世界のうちに乱暴に投げ出され(jeté)、遺棄されて(délaissé)いるのではない。人間は外部にあると同時に内部にあるのであり、ある内密性(intimité)から出発して外部に赴くのである》p.164 TI

《家の根源的な機能とは、建物を建築することによって存在を方向づけ、場所を発見することにあるのではなく、元基の充実を破り、そこにユートピア(utopie)を開くことにある。このユートピアにおいて、「私」はわが家に留まることで自らを集約する。しかし分離によって、私は単にこれらの元基から引き離されたかのように孤立するわけではない。分離派労働(travail)と所有(propriété)を可能にするのである》p.165 TI

〈レヴィナスにとって《同》の領域確定はあくまでも「絶対的に他なるもの」を目指す「形而上学的欲望」を記述するために要請されたものであり、それゆえボルノウが「内面的分解」と呼ぶ事態は、レヴィナスにおいては「無限の観念」に見られるような《同》と《他》の関係を積極的に表明するものなのである〉p.168

《親しさがすでに前提としている内密性は、誰かとの内密性(intimité avec quelqu’un)である。集約=内省の内部性は、すでに人間的なものである世界における一つの孤独である。集約=内省はある迎え入れ(accueil)に関係している》p.168 TI

《存在の統合体のうちに集約=内省の内密性が生起するためには、《他者》(Autrui)の現前が、自らの形態的イメージを貫通するような顔においてのみ啓示されるのではなく。この現前と同時にその撤退(retraite)と不在においても啓示されるのなければならない。この同時性は、弁証法による抽象的な構築物ではなく、慎み深さ(discrétion)の本質そのものである》p.169 TI

《人間がこの大地の上で詩的に住むという意味では、もはや「大地」も「天空」も存在しない。ロケットによって達成されたのはすなわち、この三世紀来ますます一方的かつ決然とした仕方で自然そのものとして集-立され(ge-stellt)ているものの具体化であり、今や普遍的かつ惑星間的な〈用材〉(Bestand)として用立てられているものの具体化である》p.176 ハイデガー《Aufzeichnungen aus derWerkstatt1959in Aus der Erfahrung des Denkens

〈他者〉に対する(絶対的)責任とは何か

〈レヴィナスは定住と彷徨(流謫)とを文明論的な二者択一として考えているのではなく、この二者択一を超えた一切のコンテクストからの解放のうちに人間存在の本質を見て取っている。のちの対談でハイデガーの思想と異教との関係について問われたレヴィナスは、「移住者(émigrant)」とノマドを区別したうえで次のように述べている。「いずれにせよハイデガーは、風景をなすすべてのものに関して非常に優れた感覚をもっています。風景といっても芸術家の画く風景ではなく、人間がそこに根づく場所のことです。ハイデガーの哲学は、移住してきた者(émigré)の哲学ではありません! これから移住していく者(émigrant)の哲学でもないと言ってよいでしょう。私にとって移住者であることとノマドであることとは違います。ノマド以上に根づいた者はおりません。しかし移住する者は完全な意味で人間なのであって、人間の移住は存在の意味を破壊するのでも解体するわけでもないのです」〉p.182

《未開的諸宗教における〈聖なるもの〉の非人称性は、デュルケームにとっては「まだ」非人称的な神であり、いつの日かそこから進歩した諸宗教の神が登場するようなものであったが、この非人称性が描写しているのは、それとは正反対に、神の出現がまったく準備されていないような一つの世界なのである。〈ある〉という観念はわれわれを、神というよりは神の不在に、一切の存在者の不在へと連れていく。未開人たちは絶対的に《啓示》以前、光以前にあるのだ》p.187-188 EE

《どこでもないところから到来するという点で、元基は、われわれが顔という名のもとで描写するものと対立している。顔においてはまさに、ある存在者が人格的に現前するからである。存在の面(face)によって触発されること――そのとき存在全体の厚みは未規定のまま留まり、どこでもないところから私に到来するのだが――それは明日の不確実性へと身をかがめることである。不確定性としての元基の未来は、具体的には、元基の神話的神性(divinité mythique)として生きられる。顔なき神々、話しかけることのできない非人称的な神々は、享受のエゴイズムを縁取る虚無を、元基との親和性のただなかに刻み込む。しかし、享受によって分離が達成されるのはまさにこのようにしてなのだ。異教とは、分離をあかしだて、分離が生起する場であるが、分離した存在はこのような異教の危険を冒さねばならない――これらの神々の死によって、分離した存在が無神論へ、そして真の超越へと至るまで》p.189 TI

 元基――この世の顔をしていないもの

 天才とは、ある生き方のことである

〈元基の底なしの深さは享受によって内部化されたり、把持・了解されることがないために、この不確定性との関係は必然的にある種の崇拝となるほかはないというのである。さきに引いた『実存から実存者へ』の一節で言われていた、未開的諸宗教における「聖なるもの」の非人称性はこの次元に当ると言える。他者の「顔」と対立する元基の「面」(顔なき非人称な神々)は、偶像崇拝的な「異教の永遠の誘惑」(『ハイデガー、ガガーリンとわれわれ』)をつねにはらんでいるのである。しかし《同》の「集約」の可能性が開かれているのは、享受が浸る元基が、もはや引き受けられることのない〈ある〉に縁どられているからだとレヴィナスは考えている。そうでなければ、「私はできる」という《同》の権能は元基の奥底まで延びていき、分離による《同》の凝集は不可能になってしまうだろう。したがって《同》は異教に陥る「危険」にたえず曝されながらその誘惑に屈さず、あくまでも分離されたままでありつづけなければならない〉p.189-190

〈絶対的な《他》に至るための通路として要請される絶対的な《同》は、それゆえ「無神論者」とも呼ばれる。「分離された存在が、そこから分離されている当の《存在》に融即することなく独力で実存のうちに維持されるような完全な分離、、われわれはそれを無神論(athéisme)と呼ぶことができる。分離された存在は、場合によっては、信仰によってこの《存在》に密着することも可能なのだが。融即との断絶はこの可能性のうちに含まれている。ひとは神の外で、わが家で生き、自我でありエゴイズムである。心的なものの次元である魂は分離の達成であり、そもそも無神論者なのだ」TI〉p.190

《無神論者として絶対者に関わることは、〈聖なるもの〉の暴力をぬぐい去った絶対者を迎え入れることである。絶対者の聖潔性(sainteté)、すなわちすなわち絶対者の分離は高さの次元で現前するのだが、そこで無限は、無限に向かう眼を焼くことがない。無限は語る。無限は、自我を不可視の網で捉えてしまうような、立ち向かうことのできない神話的形態を有してはいない。無限はヌミノーゼではない。無限に接近する自我は、無限との接触で無化されることも、自己の外へと運ばれることもない。自我は分離されたまま留まり、自らの「我関せず」(quant à soi)を保持している。無神論者である存在のみが《他》と関わることができ、すでにこの関係から自らを切り離す(s’absoudre)ことができる。超越は、融即による超越者との合一とは区別される。形而上学的関係――無限の観念――は、ヌミノーゼではない本体(noumène)と結びつける。融即のつながりから完全には解放されておらず、知らず知らずのうちに神話のうちに没入している自分を容認している諸実定宗教の信者たちが有する神の観念と、このような本体とは区別される。無限の観念、形而上学的関係は神話なき人間性の始まりである。しかし神話をぬぐい去った信(foi)、一神教的な信は、それ自体が形而上学的な無神論を前提としている。啓示とは言説である。啓示を迎え入れるためには、この対話者の役割に適した存在、すなわち分離された存在が必要なのである。無神論は、真なる神ソレ自体との真の関係を条件づけるのである》p.191 TI

《顔を顔として「見ること」は家に滞在するある種の仕方であり、あるいはそれほど突飛でない言い方をするならば、家政的生(vie économique)のある種の形態である。いかなる人間的関係も、あるいは間人間的関係も、家政の外側では演じられえないだろうし、手ぶらで、家が閉じられたままでは、いかなる顔にも接することはできないだろう。《他者》に開かれた家のうちへの集約――歓待性――は、人間の集約と分離の具体的かつ原初的な事実であり、それは絶対的に超越した《他者》への《欲望》と一致している。選ばれた家(la maison choisie)は、根とは正反対のものである。家が指し示しているのは一つの離脱〔脱拘束性〕(dégagement)であり、家を可能にした彷徨(errance)である。方向とは、定住より少ないものではなく、《他者》との関係ないし形而上学の余剰なのだ》p.210 TI

《…私の自我の「通常の」行使は、到達し触れることのできるすべてを「私のもの」に変形するのだが、このような行使が問いに付される。所有するとは、つねに受け取ることである。聖書において約束の地は決して、ローマ的な意味での「所有物(propriété)」となることがない。そして初穂の時期に農民が思いをめぐらすのは、彼を郷土(terroir)に結びつける恒久的なつながりではなく、アラムの子、一人のさまよい人(errant)であった彼の祖先である》p.212 Une religion d’adultes

《ユダヤ的人間は、風景や町を見つけるまえに人間を見つける。彼は、家のなかで〈わが家〉にいるよりも先に、社会において〈わが家〉にいるのである。彼が世界を理解するのは他者から出発してであって、大地に依存した存在の総体からではない。ある意味で彼は、詩編作者が言うように、この大地の上に追放されているのであり、そして彼は、人間の社会から出発して、大地に一つの意味を見いだすのである》p.213 Une religion d’adultes

 どこでもない場所――エルツェの画のような-―を保持すること

《しかし、分離した存在は自らのエゴイズムのうちに、すなわち自らの孤立の成就そのもののうちに自閉することができる。そして、《他者》の超越を忘却すること――なんら咎を受けることなく、自らの家からあらゆる歓待性を(すなわちあらゆる言語を)締め出すこと、《自我》が自らのうちに自閉することを唯一可能にした超越的関係を自らの家から締め出すこと――のこの可能性は、絶対的な真理を、分離の徹底性を証拠立てている。分離は単に、弁証法的様態において、自らの裏側としての超越に相関的であるわけではない。分離は肯定的な〔措定的な〕出来事として成就するのである。無限との関係は、住居のうちに集約した存在のもう一つの可能性として残り続ける。家の本質にとって、家が《他者》に向かって開かれる可能性は、門扉や窓が閉じられていることと同様に本質的なことなのである》p.215 TI

《《自我》と《他者》のあいだの関係は、形式論理学があらゆる関係のうちに見いだすような構造をそなえていない。この関係における各項は、関係のなかに位置づけられるにもかかわらず、絶対的な〔分離した〕(absolus)ものでありつづけるからである。《他者》との関係とは、形式論理学のこのような転覆が起こりうる唯一の関係である。しかし、そこから、分離を要求する無限の観念が無神論に至るまでに分離を要求すること、無限の観念が忘却されうるほどに深く分離を要求するということが理解される。超越の忘却は、分離した存在において一つの偶発事として生起するわけではない。この忘却の可能性は分離にとって必要不可欠なのだ》p.216 TI

《…私にとって言語は、言葉(parole)が包摂することのない人間の呼びかけにおいて(それは身振りです)、思考をそれ自身の彼方へと運んでいくものです。言葉はこの〔彼方への〕運動の痕跡を、たとえ彼方という語そのもののうちにであれ保持しているのです。自らを示すことのないものについて語ることはできるのでしょうか。たしかに、ハイデガーがそうでありうるように素朴であろうとするならば、答えは否です。しかし、おそらく彼方は〈曖昧さ〉(l’équivoque)のうちで――すなわち謎のうちで――自らを示すのです》p.225 à Jacques Derrida

〈しかし他者はなにを「意味する」のか。それは、世界の内部的意味には還元されえない、ほかならぬこの他者がこの世界のうちに「入り込む(faire une entrée)」という事実性の次元そのものである。他者の公現(épiphanie)は顔(visage)として、さらには世界への到来、「訪問(visitation)」として理解されなければならない。「…《他者》の出現という現象は顔でもあり、あるいはまた(現象の内在性と歴史性のうちへのたえざる入場を示すために)こうも言える。すなわち顔の公現とは訪問である」≪La trace de l’autre≫〉p.229

《顔において顕現する他者は、窓が自分の姿を浮かび上がらせているにもかかわらず窓を開ける者のように、言わば自分自身の造形的本質(sa propre essence plastique)を突破する。形態が他者を顕現させるにもかかわらず、他者の現前は、その当の形態を脱ぎ捨てることに存する。他者の顕現は、顕現がもつ不可避的な麻痺を超えた余剰である。それが〈顔が語る〉という定式が表現していることである。顔の顕現とは最初の言説である。語ること(parler)とは、なによりもまず、このように自らの形態の背後から到来する仕方であり、開かれ(ouverture)における開かれである》p.229-230 La trace de l’autre

《彼は絶対的に〔分離的に〕過ぎ去ってしまった(Il a absolument passé)。痕跡を残すこととして存在すること、それは過ぎ去ること(passer)、出発すること(partir)、自己を絶対化する〔分離する〕こと(s’absoudre)なのである》p.235 La trace de l’autre

 今こそ、可能なかぎり理性であること(他者に対峙して)

《すなわち他者のこうした不在こそが、まさに他者としての他者の現前なのである。他者とは隣人である――しかし、この近さは融合の堕落形態でもなければ、その一段階でもない》p.238 EE

《存在者とは人間であって、そして人間に接近できるのは、人間が隣人としてあるかぎりである。つまり顔としてあるかぎりなのだ》p.238-239 L’ontologie est-elle fondamentale?

《無限は倫理的抵抗のなかで顔として現前する。この倫理的抵抗は私の権能を麻痺させ、峻厳かつ絶対的なものとして、顔の裸性と悲惨さのうちにある無防備な眼の奥底から立ち上がってくる。この悲惨さと飢えの了解こそが《他者》との近さそのものを創設する》p.239 TI

《超越は《他者》とともにしか可能ではありません。私たちは《他者》と絶対的に異なっており、この差異がなんらかの性質に左右されることはありません。超越は私たちと《他者》との具体的諸関係の出発点であると私には思われたのです。残りのすべてはそのうえに接合されるのです》p.241 Liberté et commandement

〈ハイデガーにおける現存在が近さへの本質的な傾向をそなえているのと同様に、主体は、主体であるかぎり、絶対的かつ人間的な意味で近さのうちにあるのだ、というのがレヴィナスの主張である〉p.243-244

《近さは一つの状態(état)、休止(repos)ではなく、まさに不穏(inquiétude)、非場所(non-lieu)であり、安息の場所の外であって、一つの場所に休息する存在がもつ非遍在性の平静をかき乱し、それゆえ、あたかも抱擁のごとく、つねに、まだ近さが足りないという事態なのだ。「決して十分には近くない(jamais assez proche)」、そのような近さは構造として凝固することがない。さもなければ近さは、正義の要求のうちで表象される際に可逆的なものとなり、単なる関係にふたたび陥ってしまう。「ますます近く(de plus en plus proche)」としての近さは、主体となる。近さは私のたえざる不穏としてその最上級(superlatif)に到達して、唯一なもの(unique)――引いては一者(un)――となり、見返りを期待することのない愛におけるように、相互性を忘れる。近さとは、接近する主体である。この主体はそれゆえ一つの関係を構成し、その関係に私は項として関わっているのだが、そこで私は一つの項以上のもの――あるいは以下のもの――である》p.244-245『存在するとは別の仕方で』AE

〈近さとは、主体と隣人が不断に近づく運動そのものであり、一つの「場所」のうえで決して安定することのないたえざる動揺である。そして、この「ますます近く」という仕方で接近することをやめない近さの運動において、〈もっとも近く〉という「最上級」は一人称での「私」となる。『全体性と無限』のなかで、《自我》が絶対的な《他》へと向かうための特権的な出発点であり、《同》と《他》の関係には「形而上学的非対称性」が維持されていると言われていたのと同様、近さにおいても「相互性」は断たれている。近さの「最上級」である「私」は「唯一なもの」と化すのである〉p.245

《エートスとは、滞在地(Aufenthalt)、住む場所(Ort des Wohnens)、を意味する。この語は人間がそのうちで住む開けた領域を名指しているのである。人間の滞在地という開かれ(das Offene)が、人間の本質へと向かってきてかく到来しながら人間の近さ(Nähe)のうちに滞在するものを出現させる。人間の滞在地は、人間が自らの本質において帰属しているものの到着を含み、保持している。そのようなものが、ヘラクレイトスの言葉によればダイモーンすなわち神なのである。それゆえ、ヘラクレイトスの箴言が言うのは次のことである。人間は、人間であるかぎり、神の近さのうちに住む》p.248 M. Heidegger,Brief über den “Humanismus”

  見る側の自省

〈エートスが、人間が神との近さにおいて住むその場所という意味で理解されるならば、エートスの学としての倫理学はこの場所についての根源的な思索であり、ハイデガーの好む語を用いれば、この場所の「所在究明(Erörterung)」であることになるだろう。そして『存在と時間』が論じていたように、「開示態(Erschlossenheit)」として自らの「現=そこ(Da)」を存在する現存在が、この開示態とともにそもそも「真理のうちにある」とすれば、倫理学とは、人間の居場所である「存在の真理」を探求する思索にほかならないということになる。この書簡を端緒として展開されるハイデガーの思想が、「存在の家(Haus des Seins)」である「言葉」と、人間がとりわけ施策を通じて〈住む〉その仕方の解明へと歩を進めていったことはよく知られているし、本書第Ⅲ部でも見たとおりである〉p.248-249

〈「一切の記号体系の構成にも、また、文化やさまざまな場所によって形成される一切の共通平面の構成にも先だって一者(l’un)から他者へと与えられた記号、すなわち「非場所(non-lieu)」から「非場所」へと与えられた記号。しかし、さまざまな明証事の体系の外部にある一つの記号が、超越したままに留まりながら近さのうちに到来するということは、体系的言語(langue)以前の言語(langage)の本質そのものなのである」(E. Levinas, ≪Langage et proximité)……愛撫(caresse)という関係において他者は摑もうとする主体の手からつねに逃れ、接触のまさにその瞬間にすでにその場所を去っている。このような絶えざる逃れ去りの様態が他者の非場所性であるということができる〉p.250-251

〈痕跡は世界の秩序から切り離され超越するもの、絶対的に過ぎ去り「一度も現在になったことのないもの」を指示することで、世界の秩序のなかに時間的な攪乱をもたらす。「近さは記憶可能になった過去の攪乱」であり、「待ち合わせ(rendez-vous)を可能にするような、時計が刻む共通の時間」を狂わせてしまう。このような「時間の炸裂(éclatement du temps)」、主体の時間と隣人の時間との解消不可能なずれが、レヴィナスが「隔時性」と呼ぶ時間の根底にある構造であり、また記号一般にも見いだされるものである。不意に世界に闖入した隣人の痕跡は、「…のため」という指示連関を具現化した記号という用具的存在者として役立つことがなく、それゆえ、主体にとって身近な世界の秩序のなかで自らにふさわしい場所をもつことがないからである〉p.251

(無時間のうちに物語は生起する)

〈私〉の時間と〈他者〉の時間の交錯を〈共時性〉といい

 その交点に物語は生起する

《責任(responsabilité)から出発して捉えられた〈私〉(je)は、〈他者のために〉(pour l’autre)であり、裸出(dénudation)であり、触発への暴露であり、純粋な感受である。〈私〉は自らを定位することも、自らを所有したり承認したりすることもなく、自らを蕩尽し、自らを引き渡し、自らの位置を取り払い、場所を失い(perd sa place)、自らを追放し、自らのうちに遠ざけられる。しかし、あたかも皮膚さえもまだ存在のなかに身を護る一つの仕方であるかのように、〈私〉は傷および侮辱に曝され、非場所のうちで自らを無化し、他者の身代わりにまで至る。自らのうちにあると言えるのは、ただ自らの追放の痕跡のなかにあるものして、である》p.253-254 AE

《主体性――自己同一性の断絶の場所、非場所――はあらゆる受動性よりも受動的な受動性として生起する(se passe)。想起や歴史という表象によっては回収することのできない隔時的過去(passe diachronique)、すなわち現在とは共約不可能な隔時的過去に、引き取られることのない自己の受動性が対応し、応答する》p.254 AE

〈西洋哲学において、意識は、有為転変を経てもなお故郷に帰り着くオデュッセウスのように、「ありとあらゆる冒険を通して、自分自身をふたたび見いだし、我が家に〔自己のうちに〕回帰する」のであり、意識のさまざまな様態は結局のところ自己意識(conscience de soi)、自己同一性(identité)、自立(autonomie)に帰着する。その意味で「ヘーゲルの哲学は、哲学のこの生来のアレルギーの論理的帰結を表している」〉p.257

〈諸存在との関係――これが意識と呼ばれる――において、われわれはこれらの存在が現れる際の数々の射映(silhouette)のばらつきを貫いてそれらを同定する。自己意識において、われわれは、時間的諸相の多様性を貫いて自らを同定する〔自己同一化する〕。あたか、も、意識の姿をまとった主体的生は、存在自身が自らを喪失し、ついで自らをふたたび見いだし、ついには、自らを示し、主題として自らを提示し、真理のうちに自らを曝すことで、自らを所有する(se posséder))ことであるかのようだ〉p.258 AE

《しかし、それゆえ、実体の基底に認められる主体を生気づけているのは、相変わらず自己の奪回(reprise)ないし奪還(reconquête)であり、「対自=自己のために」である。存在すること(essence)はその努力から抜け出すことがないのだ。受肉(incarnation)としての、感受性の主体性は、回帰なき放棄であり、他者のために〔他者のかわりに〕苦しむ身体としての母性(maternité)であり、受動性かつ断念としての身体であり、純粋な〈被ること〉である。たしかに、ここには乗り越えられない両義性がある。すなわち、受肉した自我――血肉をそなえた自我――は、自らの意味作用を喪失し、自らの努力と歓喜のうちで動物的に自己肯定することもありうるのだ……しかしこの両義性は、可傷性(vulnérabilité)そのものの条件、言い換えれば、意味作用としての感受性の条件なのだ。自己満足しているかぎりにおいてのみ――〈自己に巻きつき〉、〈自我である〉かぎりにおいてのみ――他者のための好意〔良き注意〕のうちにある感受性は、〈対他=他者のために〉であり、〈自己に反して〉(malgré soi)であり、非行為であり、自己のための〔対自的な〕意味作用ではない他者のための〔対他的な〕意味作用でありつづけるのだ》p.258-259 AE

〈さまざまな代名動詞が喚起させる対自の構造の「母型」である自己は、「他者のために」という母性であり、レヴィナスが用いる別の表現によれば「同のうちへの他の懐胎」である。それでは母性であり他の懐胎であると比喩的に語られる自己、「描き出すべき大いなる秘密」である自己は、どのように理解すべきだろうか〉p.262

〈『実存から実存者へ』におけるレヴィナスは、意識が一つの「場所」をもつという出来事のうちに意識の出来そのものを見ており、このような純粋な自己準拠である「なにかをふさぐことのない唯一の所有(le seul avoir qui ne soit pas encombrant)」を意識の「条件」と見なしていた……こうした自己と自己自身の「不等性」、「離開した自己同一性(identité en diastase)」は、自己と、それが存在するためにもつはずの「場所」との不一致であり、この両者がなぜ一致に至らないかと言えば、自己という「場所」が身代わりによって他者のための「場所」となるからである。「自己というこの《非場所》のうちに追いやったものすべての身代わりになるほどに、自己のうちで〔即自的に〕自己に追いつめられていること、これがまさに自己のうちにあること〔即自〕であり、「存在することを超えて」自己のうちに潜むことである」。他者の「かわりに(pour)」という身代わりの構造は、他者の「ために(pour)」という自己の非場所性が、他者の「かわりに=場所に(à la place de/au lieu de)」という場所性と同義となることにほかならない〉p.263-264

 生きているのは、考えているのは〈私〉ではない

〈私〉は〈他〉にかぎりなく近接し、無化されている

 あるいは、〈他〉の間主体性が、考えている(生きている)

〈自己の非場所が、「他者のかわりに=他者の場所に身を置く可能性(la possibilité de se mettre à la place de l’autre)」である身代わりによって他者の場所へと転じること――本書の考えでは、この「転義」が『存在するとは別の仕方で』における主体性の分析を貫く根本的な主張であり、「母性」や「人質」――人質はなにかの〈かわりに〉取られるものである――といったさまざまな比喩はいずれもこの主張のために導入されたものである。さらにこの主張から、他者を支える場所としての責任という議論が生じてくる〉p.264

《他者のための責任は《主体》に訪れる偶然的な出来事ではなく、《主体》のうちで《存在すること》(Essence)に先立つものである。自由においても他者のための関与(engagement)はなされたかもしれないが、他者のための責任は、そのような自由を待ち望んだことはない。私はなにもしていない、それなのに私はつねに審問され迫害されてきた。自己性(ipséité)とは、自己同一性という始原(arché)をもたない受動性のうちにあり、自己性とは人質(otage)である。《私》(Je)という語が意味するのは、すべてのもの、すべての人に責任をもつわれここに(me voici)である》p.267 AE

〈「没利害〔内存在からの超脱〕(désintéressement)」という伝統的概念を用いながらもこの著作でレヴィナスが聴き取っているのは、この語のうちにこだましている存在すること(esse)の響きだからである。「他者のための責任」は、主体が「存在すること」に先行する。主体が「ある」ということの手前で、主知は他者に対する責任によって条件づけられているという〉p.267-268

〈創造においては、ある呼び声が存在者を存在せしめ、存在者はこの呼び声に対して「われここに」と応答することによって主体と化す、とレヴィナスは言う。主体とは「…逃げることができない仕方で、何者かであるように呼びかけられた者」であり、この呼び声ないしこの「選び(élection)」から主体を切り離すことはできない。そして「外傷を与える打撃のように直接的な呼び声」に対する応答は、「私に反して(malgré moi)」生起するとも言われる……呼び声が存在者を存在させると言われるとき、この存在者は自分を呼ぶ声によってはじめて存在しはじめるのだから、厳密に言って、まだ存在していないこの存在者に叫び声はまだ届いていないはずである……このパラドクスは呼び声と応答の場面に本質的に属するものとして、「われここに」という表現のもとでレヴィナスが解釈している主体性の根本的な構造をなしているものである〉p.270-271

〈ハイデガーが規定する現存在は世界内存在という根本的な構成を有しており、つねに世界において内存在的に存在している。しかしこのことは、世界という客体のなかに一つの主体として存在することを意味するのではなく、現存在はその「現(Da)」のうちにすでに空間的な広がりを含んだものであって、自身のそのつどの「開かれ」のうちで存在していると言われる〉p.274

〈まず、良心の呼び声のなかで話題になっている事柄とは、呼び声のうちで呼ばれているものであって、すなわち現存在自身である。さきの区別に従うと、世間的自己としてある現存在が、ひとごとでないおのれの自己に向かって呼びかけられているということになる。次に、良心の呼び声のうちでなにが話されているのかというと、良心の呼び声はひとえに現存在をその固有な存在へ向かって呼びかけるのだから、それはなんらかの情報の伝達ではありえない。良心の呼び声には、特定の意味内容を表す音声的な表明が欠けており、それゆえ良心の呼び声は「黙止」の様態で話すのだと言われる〉p.275

〈レヴィナスにおいて、打撃としての呼び声に対する応答が「私に反して」生起するのに対して、ハイデガーにとって、良心の呼び声を聴取し了解することはほかならぬ「良心をもとうとする意志(Gewissen-haben-wollen)」に基づいているのであり、この意志において、現存在に世界そのものを開示する「不安」、良心の呼びかけによって呼び起こされる「負い目ある存在」、および「禁止」の様態で語りかける呼び声が、それぞれ状態性・了解・話という現存在の根源的な開示性として結節する〉p.276

〈「無起源的な応答、他者のための私の責任のうちには、謎めいた仕方で〈一度も聞かれたことのない語ること〉(dire inouï)がある」AE。「われここに」という表現に言及する際に、レヴィナスがサムエルやアブラハムではなくイザヤの形象に依拠しているのは、おそらくイザヤが他の二人とは異なり、自分の名が呼ばれるよりもまえに「呼び声」に「応えて」いるからだろう。レヴィナスが好んで用いる表現を援用するなら、イザヤは、いかなる確信ももつことのないまま、「彼岸から到来する声(voix venant d’une autre rive)」に文字どおり身を捧げている〉p.277

《レヴィナスが行った存在論批判は、プラトン的および新プラトン主義的な〈存在の彼方〉を取り上げ直すことのうちにそのもっとも美しくもっとも完成された表現を見いだしていたが……実のところこの批判もまた、あらゆる存在とあらゆる現前の彼方にある根底的な否定的構造、あらゆる私とあらゆるこのものに先行する彼(ille)、そして、あらゆる〈語られたこと〉の彼方にある〈語ること〉を明るみに出すことしかしていない(しかし、レヴィナスの思想において倫理に力点が置かれていることは――このゼミナールの観点から――なおも問うてみなければならない)》p.279 Giorgio Agamben, Le langage et la mort.

〈「近さのための近さの言語、存在の真理の言語よりも古い言語――おそらくは近さの言語がこの言語を担い、耐え支えている――諸言語の中での最初の言語、問いに先立つ応答、隣人のための責任である。それが、自らの〈他者のために=他者のかわりに〉によって、与えるということの驚異の一切を可能にするのだ」Emmanuel Levinas,≪De l’être à l’autre≫。ツェランの手になる唯一の詩論とされる「子午線」の次の簡潔な言明が、レヴィナスの行論を支えているように思われる。「ともかくも詩は語るものなのです!」Paul Celan,≪Der Meridien≫〉p.283

〈「初歩的で啓示なきコミュニケーション、言説のたどたどしい幼年期であり、例の語る言葉、例の〈言葉か語る〉のうちへの非常に不器用な紛れ込みである。存在の住処のなかに、物乞いが入り込むのである」。≪De l’être à l’autre≫「他者のため」の言語とは、コミュニケーション以前のコミュニケーションと言うべき、言説に先立ち言説のもととなる言語であり、まさに「語ること」である〉p.283

〈存在を秘匿する家であり豊饒な自然の発露でもある言語と、貧者たる他者に贈与そのものとして差し出される手のような言語――「詩は他者の方に向かう」と書くレヴィナスは、ツェランの詩が後者に属するものであり、しかもそれがハイデガーではなくブーバーの思想と親近性をもっていることを強調している。「詩は対話になります、詩はしばしば絶望的な対話です……出会い、注意深い君に向かう声の道――ブーバーの範疇ではないか! 神秘的な〈黒い森〉から威厳をもって降り来たり、、世界と、そして大地と天空のあいだの場所を開示するものとして試作を提示する、ヘルダーリン、トラークル、リルケについてのかくも天才的な注釈よりも、ブーバーの範疇の方が好まれているのだろうか」〉p.284

《この特異な外は、もう一つの風景ではない。芸術における単なる奇異なものを超えて、そして存在者の存在への開けを超えて、詩はさらにもう一歩まえに進む。奇異なもの(l’étrange)とは、異邦人(l’étranger)ないし隣人(le prochain)である。他なる人間よりも奇異なものはないし、異質なものはなく、人間が示されるのはまさにいユートピアの光のなかなのである。一切の根づき、一切の居住の外側である。本来性としての無国籍である!》p.286 De l’être à l’autre

《しかし私はこう思います――この考えはもう皆さんを驚かせることはないでしょう――私が思いますに、かねてより詩の願いに属していたのは、まさにこのようなやり方で、奇異なもののためにも――いや、この語はもはや使うことができません――まさにこのようなやり方で、ある他者のために語ることである、ということです。もしかすると――誰にも分からないことですが――あるまったき他者のために語ること、です》p.286 Der Meridien

〈熱帯地方(die Tropen)を――さらには、まさに回帰線(tropique)を――横断して自分自身に回帰する子午線は、前章で見たレヴィナスの用語に従うなら、他者を経由して自己へと回帰する「転義(trope)」の契機をうちに含んでいる。すなわち、「他者のための一者」、他者のためにあるものとしての一者の発見であり、この再帰は他なる自己との出会いではなく、デリダの用語を借りれば、「他者のような=他者としての私自身、他者のような=他者としての一月二〇日」との出会いである〉p.289

《ツェランがハイデガーを読んだことがあると言うだけでは足りないだろう。ハイデガーの思索の「承認」さえも超えて――たとえそれが留保なき承認であれ――ツェランの詩作(poésie)はその全体がハイデガーの思索(pensée)との一つの対話である,すなわち,本質的にはこの思索においてヘルダーリンの詩作との対話であったものとの一つの対話である,と言うことができると私は思う》p.290 Philippe Lacoue-Labarthe, La poésie comme expérience

〈レヴィナスにおいて他者との近さは、他者との融合や合一に至ることではなく、他者との隔たりを保ったまま他者との「錯綜」のうちに身を置くことであり、レヴィナスにおける「出会いの秘密」とは、前章で論じた表現を用いるなら、「他者のために=他者のかわりに」が「転義」によって「一者」に再帰することにほかならない。ただし、レヴィナスにおける「秘密」は故郷の場所に秘匿されたものではないだろう。これは場所のうちではなくあくまでも人間のうちで――「われわれのあいだで〔ここだけのはなし〕(entre nous)」――保たれる「秘密」であるに違いない〉p.293

 詩とは非場所から届けられるもの

《ツェランが示唆しているのはむしろ、存在と非存在の限界のあいだに住まう様態とは異なる様態のことではないだろうか。ツェランが示唆しているのは、存在するとは別の仕方でという前代未聞の様態としての詩それ自体ではないだろうか》p.294 De l’être à l’autre

《私が私であるとき、私は君である》p.295 Paul Celan, ≪Lob der Ferne≫「遠くをたたえて」(『罌粟と記憶』)

《真の詩人が一つの場所を占めるというのは本当だろうか。真の詩人とは、語の卓越した意味で、自らの場所を失い、まさしく占領をやめる者であり、それゆえ空間の開けそのものではないだろうか。透明とか空虚と言ってもまだ――夜や諸存在の嵩と同様に――この空間の底なし、ないし衝‐天(ex-cellence)を――そこで可能となる天空を、あるいはこのような造語を用いてよいのであれば、天空の「天空性(caelumnité célestité)」を――示してはいない。どのような内部性も、外部性そのもの以上に外的な空気に触れてその核に至るまで引き裂かれ、この底なしあるいは高み――ジャベスによれば「もっとも高い深淵」――のうちに沈んでいく。あたかも、ただの人間的呼吸は、すでに喘ぎにすぎないかのようだ。あたかも、詩的な語ることがこの息切れを克服し、ようやく深々とした呼吸へと、吸気=霊感(inspiration)へと至るかのようだ。この吸気は、万物の閉所からの開放、存在の核分裂――もしくは存在の超越――であり、そこに欠けているのはもはや隣人のみである。ジャベスは言う。「私は言葉でしかない。わたしには顔が必要だ」》p.296 Edmond Jabès aujourd’hui

《世界も場所ももたない自己の開け、ユートピアとしての空間の開けは、壁に囲まれていないということであり、そして、最後まで吸い込んで呼気〔臨終〕に至るまでの吸気とは《他者》の近さであり、この近さは他者のための責任としてでしかありえず、この責任は他者への身代わりとしてでしかありえない》p.299 AE

〈ジャベスにとって「ユダヤである」とは、自らが空虚の苦悩であることを認めることであり、それは同時に、「ユダヤ性」を通じて「ユダヤ性」をたえず問い直すことによって生じる苦悩を引き受けることでもあるだろう。ジャベスにおいて「ユダヤ的条件」が作家の条件と同じなのは(Le livre des questions)、そのどちらもが、安定を知ることのない「非場所」に身を置きながらこの空虚と格闘することにほかならないからである。いずれにせよ、ジャベスにおける「ユダヤ性」の問いが、「一つの答えの場所ではなく、たえず保持された問いの場所」(Henri Raczymow, Qui est Edmond Jabès≫)であることは間違いない〉p.302

《そしておそらく……空間の開けとは、なにかがなにかを覆うことのない外を、保護されていないこと(non-protection)、壁の裏側を、住まいなし(sans-domicile)を、非世界を、住まないことを、危険な吹きさらしを意味している……空間の空虚が、不可視の空気で……知覚されないにもかかわらず私の内部の奥底まで浸透している空気で満たされているということ、この不可視性ないしこの空虚が呼吸されるものであり、恐怖を引き起こすものだということ、私に関わらざるをえないこの不可視性はあらゆる主題化に先立って私を強迫するということ、単なる環境(ambiance)が雰囲気(atmosphère)としてのしかかり、主体はそれに服従し、肺腑までも晒されるということ――これらのことが意味しているのは、存在のうちに足をつけるよりもまえに苦しみ、自らを差し出す主体性である。受動性であり、そのすべてが耐え支えること(supporter)なのだ》p.309 AE

《ありうるかぎりでもっとも長い息――それが精神である。人間とは、吸気(inspiration)にあたっては中断することなく、呼気(expiration)にあたっては戻ることのないような、もっとも長い息が可能な生物ではないだろうか……世界も場所ももたない自己の開け、ユートピアとしての空間の開けは、壁に囲まれていないということであり、そして、最後まで吸い込んで呼気〔臨終〕に至るまでの呼気とは《他者》の近さであり、この近さは他者のための責任としてでしかありえず、この責任は他者への身代わりとしてでしかありえない》p.310 AE

《私なら彼にこう言うでしょう。哲学とは、人間が語る事柄について、そして思考しながら自らに語る事柄について人間が自問することを可能にするものである、と。言葉のリズムや、言葉が指示する一般概念に揺すられたり、酔わされたりすることをやめ、この現実における唯一者の唯一性、すなわち他者の唯一性に身を開くことである、と。言い換えるなら、結局のところ、愛に身を開く、ということです。歌うときとは違って、本当の意味で語るということであり、覚醒することであり、酔いから醒めることであり、単調な繰り言から身を解き放つことです》p.312 De l’utilié desinsomnies

〈一方で具体的空間の自然な「雰囲気」のうちでそれに酔うことなく他者の他性に耳を傾けることと、他方で〈ある〉という他性の侵襲に流されることなくそれを「耐え支えること」――したがってこれがレヴィナスの思想を貫いている二重の要請であり、この点で『存在するとは別の仕方で』の最終部と、最初期のリトアニア語論文とが接続する〉p.313

《人間の自立……を厳密に肯定すること、そして、聖なるもののうちにあるヌミノーゼ的概念を破壊することには、無神論の危険がはらまれている。しかし、この危険は冒されなければならないのである。この危険を通過してはじめて、人間は《超越者》という霊的観念へと高まっていく。神話と熱狂の威光のなかで《創造者》に異を唱え、《創造者》を否定したあとにようやく《創造者》を肯定する、そのような存在を生み出したことが《創造者》の偉大な栄光である。神との分離、無神論から出発して、遠くから神を探し求め、その声に聴従することのできる、そのような存在を創造したことが《創造者》の偉大な栄光なのである……一神教は無神論を乗り越え、それを包括する。しかし、懐疑と、孤独と、犯行の年齢に到達していない者には、一神教は不可能である》p.324 Une religion d’adultes

〈前代未聞の迫害によって惹起された「ユダヤ教の意識そのものの目覚め」は、古来のユダヤ教の伝統に回帰して諸国民に背を向けることを意味するのではなく、むしろ「ユダヤ的ヒューマニズムという欲求」を呼び覚ましたのだとレヴィナスは言う。「ユダヤ的ヒューマニズム」とは、ユダヤ的条件を通して人間そのものの条件を問う姿勢であると考えてよいが、それは同時に西洋的な「普遍性」をユダヤ教のうちに引き受けることでもある〉p.331

《…それは、ユダヤ教にとっては、人間からその隣人へと至る道の途上において、意識〔良心〕の最初の微光が灯るからである。個人とは――孤独な個人とは――自らが圧殺し破壊するすべてのものを考慮することなく成長し、養分や空気や陽光を独占する樹木でないとしたらなんであろうか。自らの本性(nature)と存在が十分に正当化された存在でないとしたらなんであろうか。簒奪者(usurpateur)でないとしたら、個人とはなんであろうか。意識の到来とは――そして精神の最初の輝きでさえ――私の脇に死体が転がっていることの発見でないとしたら、、そして殺人を犯しながら存在していることへの私の恐れでないとしたらなにを意味するのであろうか。他者たちへの注意と、その結果として私を他者たちの一員として考え、私を裁くことの可能性――意識とは正義(justice)である》p.339 Le lieu et l’utopie

《正義なきままの世界のなかで《救済》を口にすることは、魂とは不死の要請ではなく殺人の不可能性であることを忘れることであり、それゆえ、精神とは正義の社会(société juste)の配慮そのものだということを忘れることで羅う。イスラエルを作らなければならないのだ》p.340 Ibid.

《…《聖地》がメシア的《治世》に近づくのは、この土地が一つの国家の形態を取っているからではない。そうではなく、この土地に住む人間たちが政治の誘惑に抵抗することができるからである。アウシュヴィッツの直後に建国を宣言されたこの国家が、預言者たちの教えを自らのものとして引き受けているからである。この国家が献身と犠牲をかき立てるからである……イスラエル国の復活と、その危険かつ純粋な生はもはや、二重に宗教的なその起源から分離されることはない。その起源とはすなわち、国家によって、この国家が自らに与えている世俗的な形態にもかかわらずよみがえりつつある《聖地》である。イスラエルに「昇ること」、それは間違いなくフランスのユダヤ人にとっては、国家を変更することではなく、一つの使命に応答することである。ほかのひとたちは、誓願を立てたり修道院に入ったり布教に出かける。あるいは革命政党に加入する。ユダヤ人たちは《聖地》の呼び声を通じて、彼らの古き書物がもつ新しい真理を聴き取り、そして、教義神学としてではなく、一つの歴史として要約される宗教的運命のうちに入っていく…》p.354-355 L’espace n’est pas à une dimension

《政治的・民族的なカテゴリーに収まることのない真理と運命である。それらは、ほかのさまざまな精神的冒険と同様に――とはいえわれわれの冒険はもっとも古く、もっとも高度なもののうちに含まれるが――フランスへの忠誠を脅かすことはない。十全な意識をもったユダヤ人であること、十全な意識をもったキリスト教徒であること、十全な意識をもった共産主義者であること、これらは、たえず〈《存在》において不安定であること〉(se trouver en porte-à-faux dans l’Etre)である。ムスリムの友よ、六日戦争による憎悪なき私の敵であるあなたがたもそうなのだ! しかし、偉大な近代国家――すなわち人類の僕――は、まさにその国家の市民によって冒されているこのような冒険に、自らの偉大さと、現在の注意と、世界への存在感とを負っているのである》p.355-356 Ibid. 

〈他者に対する唯一的責任を負う「非場所」という倫理性〉p.363

もっと、海を――想起のパサージュ

イルマ・ラクーザ(2009)/新本史斉(2018).もっと、海を.鳥影社    Mehr Meer. Erinnerungspassageen

〈電話ではすぐに要件に切りこんだ、おしゃべりは一切しなかった。おまえは誰よりも美しく私のことを愛してくれる、こんなことを言ったことがあった。誰よりもではなく、誰よりも美しく。私の胸の裡にしまっておいた言葉だ〉p.15

〈雪は降り、溶け、そしてまた降る。あらゆるものの上に、何ら分け隔てなく。垣根も白、牧草地も白。そして世界は弱音器をかけたように静まりかえる〉p.16

〈わたしたちの生が交差することはなかった。かつて、ずっと以前に、夜行列車でキエフからブダペシュトへ向かったことがある。夜明けの薄明の中、窓越しに、わたしは丘という丘すべてに木造りの教会が建っているのを目にした。ウージュホロドで下車することはなかった。国境の町のチョプで長い車両交換があり、それからどこまでも続く平地を抜けて南西へ、ハンガリーの首都へ向かった〉p.24

〈わたしが返事をかえす前に、別れはもう訪れている。先へ、どんどん先へ、枕木の刻むリズムにのって。この「先へ」というやつはどうも変てこで、、満ち足りているわけでもなく、到着を目指しているわけでもなく、むしろ別離の連続となって私の前に立ち現れる〉p.25

〈雪をかぶって柵がたわんでいる。もちろんそう、たわんだ柵。村で見るような。影、黒丸鳥、すべてがそろっている。そしてわたしは何番目かの過去に落ちてゆく。過去以前の過去へ。七つの山と小人たちの彼方へ〉p.26

〈時は円錐形をしている。生は容赦なき先端へ向けて流れてゆく。わたしはそれを始まりと呼ぼう。なせなら群れはすでに待っているのだから。煙は流れる方へ流れるのだから。わたしは理由など問わない〉p.27

〈ラビ・ナハマンは言う、喜びによって心は住処を与えられる、しかし憂鬱によって心は流謫の憂き目にあう。またこうも言う、世界は回転する骰子のようなもの。すべては反対にひっくり返る〉p.31

〈どの言語の中にあるとき、わが家にいると感じますか。生まれた町の感じはどうですか。ホームシックにはならないのですか。書くときにはどんな感じがするのですか。わたしは言葉を家のように感じるということを話す、けれども書くことと叫ぶことが似ていることについては触れないでおく……私は遠方からやって来た、自分がここに属しているのかどうかを試すために〉p.32

〈けれども不意に、わたしはある家に歩み入り、そこには今日のカティンカが座っていて、話し、問い、お肉や焼菓子を勧めてくれる。そしてわたしは、〈いま〉の中に沈んでいく〉p.33

〈鮮やかなオレンジ色は、碧青のモロッコ皿の上のクレメンティーノ。葉っぱのついた蔕をつんと宙に突き出し、小さな掻き傷がある。観ると、観られたものは像へ固まる。それが色と配列とともにゆっくり内へ浸透する、そして静寂を残していく〉p.36

 魂とは素描である、その人の姿、その人の振舞。

〈今日、この日。兎は下生えに身を潜める。母ツグミは注意深く様子をうかがう。凍りつくような寒さ。そして温もりを生み出すべく、線影をつけた思考。イワーノフの魂は明日という日を恐れて震える、なぜなら今日という日に吐き気がするから。彼は木々を見ず、ジレンマばかりを見つめている。ユダヤ人の妻のことをもう愛してはおらず、別の女を愛することもできないでいる。チェーホフが、彼の代わりに状況を解決する、みずからを裁く迅速な弾丸によって。イワーノフは道のない暗い森。そして自身の森を手探りでさまよう愚者。前へ、後ろへ、ぐるぐると、どんな鳥の鳴き声も彼を魅了することはできない。狂気への誘いとなるときを除けば。そして確信がやってくると、そこにとどまり、おしのけられぬまでになると、わたしは囚われの身となり、銃声が炸裂する。是で十分だ。

ふたたび太った母ツグミ、茂みの中で羽を広げている。敏捷なコマドリは白樺の枝間を飛び回り囀っている。霧を透かして幽かに太陽が差し、わすかに透明度が増す。寒さがざわめきを呑み込む。あるいは、ざわめきは動物たちのように身をかがめる。垣根の静けさ。皿の林檎たちの静けさ〉p.37

〈ギュル・ババに雪が降っていた。おひさまが顔をのぞかせた。お話は日々を経て語られ続ける。わたしは子ども用の韻文と短い子どもの歌(デブレッツェンの街の七面鳥の歌)を学んだ。そしてブダペシュトを後にするときには、バラが何か、哀しいメロディーがどのようなものかを知っていた。あのメロディー、歌われ、ジプシーのヴァイオリンで弾かれ、クラリネットで吹かれるメロディーは、以来、一度たりとも、わたしの心から離れたことはない。

 わたしの耳はハンガリー平原の耳。草原のペンタトーンの耳。チャールダーシュとのあの一筋縄ではいかぬリズムの耳。そのリズムはあやまつことなくきみの足どりを狂わせる。きみは少しばかりよろめいて、そして到着を踏み外す。(それが、ハンガリー的性格と呼ばれるのかもしれない)〉p.50

 私の生を促しているものの正体を見究めること(それは〈他者〉なのか?)

 澪の街を泳ぐ巨大な魚

 雫の夢に現れた白い魚

 心は夢を欲しがっている

 そこで光を放っているもの

 絶えざる変容のうちにあるということ

〈カルスト地方では天候が急激に変わる。霧のもやが白く残り、松の黒い輪郭が石灰地の上方に浮かぶ。樫、杜松、針金雀枝ハリエニシダ。赤土。玉石。遠くに点在する集落の教会塔は尖塔ではなく鐘楼。地中海が近い証拠だ。

カルスト台地が尽き、トリエステ湾に向けて急降下するところまで来ると、すぐそこだ。巨大な半円を描いて海がひろがっている。薄青色にきらめく、唯一無二の約束〉p.59

〈わたしは庭に出たいとは思わなかった。藤棚のあるヴェランダまでがせいぜいだった。それよりも行きたかったのは海、いつも海だった〉p.61

〈海辺の町の豹変した姿にわたしは驚愕した。なんと一夜にして爪を剥き、不気味になったことか。なんと人びとは退却を強いられたことか。四天が荒れ狂うとき、対話は途切れる。家は要塞となり、他のすべてはよそものとなる。

 わたしのうちの何かがこの急激な変化に、この突風の独裁に、この為すすべの無さに抗っていた。わたしはきかん気の強い子どもだった〉p.67

 時が加速する

 ぐつぐつと 世界が底のほうから変化しはじめている

 わたしは幾つの脱皮(再生)をくり返しているのだろう

 変転の果てを夢見て

 細部の夢までも

 あらゆる出来事が無時間のうちに生起している

 始原へ

 走馬灯の加速を超えて

 見たことのない空間へ

〈ミシは控えめで、そう、無口で、鋭敏な観察者だった。けれどもいったん話し始めるや、機知、皮肉、辛辣さがさえわたった。今日は誰の命日かわかるかい? 彼の絶望は、突然、姿を見せた、それはあらゆるものの背後に潜んでいた。(ずっとそうだった、五十歳のときにロンドンで自死するまで)〉p.80

〈たがいに似ていない夫婦は死にざまも似ていなかった。ミシは――苦渋と疲労ゆえに――薬物で生に終止符を打ち、クラーラはその二〇年後に癌で死んだ。最期まで彼女はクロスワードパズルを解き、イギリスの推理小説を読んでいた。彼女は自分自身から目を逸らす、生来の才能をもっていた。BBCのアナウンサーとして声だけを世のために使った。感情の点では、自分自身も含め、あらゆるものから一歩距離を置いていた。一生かけて取り分けてきたもの、口を使って貯えてきたものを、彼女はユダヤ人組織に遺贈したのだった〉p.83

〈奇異に響くかもしれないけれど、わたしは慈しまれていると感じていた。陰影に富んだ白につつまれて。ブーンと響くような静けさにつつまれて。梁のどこかで鳩がクルクル鳴いていた。それは特別な場所だった〉p.94-95

《トリエステは決してか鏡を覗きこもうとしなかった、自らの全体像を見ようとしなかった、決して率直に口を開こうとしなかった、真偽がごたまぜになった、にもかかわらず説明されないままの魔法を、半ば大声でみずからに信じこませようとするとき以外は……スキアーヴィ――1945年まで、政治的経済的支配階級によってスロヴェニア人はこう呼ばれていた――を軽蔑する権利を、わがもの顔に振り回す、気違いじみたトリエステ俗物市民の悪意はよく知られるところである。しかし、19世紀のトリエステはどうなっていただろう、どうやって発展できただろう、もし港湾人夫、車大工、アウリシーナ採石場の石工の力がなかったら、セルヴォラの鋳物工場、軍需品倉庫の労働者そしてザウレとサン・ジョバンニの農民の力がなかったら、あの古代貨物集散場を思わせる、急激に集積された富ゆえに神経症に陥った貿易商会の建物で、身を粉にして働いた家事手伝いの女たちの力がなかったならば》p.99 フェルッチオ・フェルケル『5744年の物語』

 ここに永遠がある

 生起する場所が

(純粋経験)

〈本当に自由になったのは、眠りによって忘却へ押し流されたときだけだった。眠りの中では、時の仕切り、境界の仕切りは消えた。「先へ」を思わせるトランクもなかった。わたしはやわらかいものの中に沈みこみ、運び去られるままとなった。そう、眠りは庇護だった。空間からも時間からも解き放たれて〉p.107

〈読んでいるとき、わたしはどこか別の場所にいる。書いているとき、わたしはどこか別の場所にいる。わたしはわたしなのだろうか。それともとうに、ある別のお話の一部になっているのだろうか?〉p.131

〈意識的に決断を下すことができるようになると、わたしは自分の異質性に対して「イエス」と言った。自らを絞めつけ外面を見せかけるより、異質であるほうが良い。だって、異質であることは多くのことなのだから〉p.134

〈この悪癖はバッハの『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集』によって駆逐された。楽譜の判読は運動の進行に変わった。運動は規律正しく力強く、わたしを運んでいった。反抗もなかった、離脱もなかった、バッハだ。以来、バッハから離れることは決してなかった。それはわたしの生の脈動と切り離せないかのようだった〉p.137

 自らが他者である

(私はもはやどこにもない)

 他者であることの愉悦

〈私〉にはたらきかける無限

〈というよりむしろ、わたしは生を舞台演出のようなものと考えていた。その際に自分のことは、他にもいる登場人物の一人、つまり受動的な存在、より高次の恣意に委ねられている存在にとどまらず、想像上の演出家だと考えていた〉p.178

〈いったい何だったのだろう? この背中合わせの至福と興醒めは、天にも昇るほどの歓喜と死ぬほどの幻滅は? 過度の期待に惑わされたとでもいうのか? 楽園はいつもどこか別の場所にあるとでも?

そんなことは知りたくなかった。わたしはいつも、求め、喜び、夢中になり、我を忘れていたかった、まるで分別の無い子どものように……祈ることは償うことである、と告解の授業で言われていた。何を償うのか。わたしの罪を償うのだ〉p.180-181

《しかしここではもう新しい物語が始まっている、ある人間のゆっくりとした再生の物語、ゆっくりとした変容の物語、一つの世界からもう一つの世界へゆっくりと移りゆく物語、新しい、それまではまったく予感していなかった現実との出会いの物語である》p.203 ドストエフスキー『罪と罰』

〈しかしわたしは突然、前代未聞の物事を知る。何よりも前代未聞なのは人間の魂だ。それ以外にはないような深淵で、熱っぽい夢、矛盾、理想の数々で溢れかえっている。ほかならぬ理想こそがとりわけ危険なのだ。特に、あの頭の人、ラスコーリニコフのように、ある人間が頭脳の中で理論を練り上げるときが。ソーニャは心で考える。それに謙虚だ。ラスコーリニコフとソーニャにおいては高慢と謙虚が、自己愛と人間愛が出会う、そして後者は神の愛に境を接している〉p.203-204

〈英国南部のデヴォンシャーにあるダーティントン・ホール。ジャクリーヌ・デュ・プレが名演とはどんなものかを実演した。ブラームスのチェロソナタ第2番ヘ長調を客席が揺れるほどに激しく弾いた。弦にあてて奏でるその前に、弓で空気を切り裂く赤髪の狂乱する女。野性的、それでいて繊細。それは響いた。そして歌った。

 学ぶこと、わたしはそれを、ジャクリーヌが見せてくれた理想への、厳密かつ困難なる接近の試みとして理解した。練習、そして技術、そしてまた練習。なお辿り着けぬものが先へ駆り立てる。それが快感に満ちた状態であったのか、快感を断念することであったのかはわからない。いずれにせよ、性急であってはうまくいかなかった。音楽は求めれば与えられるものではなかった、その場の熱狂でやってくるものではなかった。それは小さな歩みの積み重ね、繊細極まりない仕上げを要求してきた。わたしたちは足を引きずりながら音楽のあとを追い続けたのだ〉p.213

《行きなさい、さあ、さあ、と鳥が言った。人間たちは/あまりに多くの真実には耐えられないのです……わたしたちは揺れる樹木の上空を/葉むらに注ぐ光の中を移動する/下界の湿原のうちに/猟犬と雄猪の鳴き声を聞く/以前と同じ型に従いながら/星辰の下で和解している……きみでないものに達するには/きみがいない道を行かねばならぬ。/きみが知らぬものが、きみの知る唯一のもの。/きみの持つものは、きみの持たぬもの。/きみのいる場所は、きみのいない場所……もしや問題なのは勝利ではなく/敗北でもないのかもしれぬ。我らにとって大切なのは試みのみ。/あとは我らのなし得るところにあらず》p.214-215 T.S.エリオット『四つの四重奏』

〈このことを語っているのが詩篇の142篇で、マルティン・ブーバー訳ではこうなる。「わたしの内でわたしの霊が弱るとき/あなたこそがわたしの道を知る者……あなたはわたしの救い/生の地におけるわたしの分」。

 しだいに一つにつながってくるものがあった。わたし自身と、古の聖書の時代のほかなる存在。わたしたちは旧約聖書を読んだ、それは避難、迫害、戦闘、しかしまた神の摂理に満ちていた。信頼しなさい、神はそこにいる〉p.220

〈彼はわたしの飢えを(わたしの探究を)見ていてくれた。彼は言った、一番大切なのは自分自身の内面世界を持ち続けることだと〉p.222

《苦痛の限界でやめてはいけない……言葉もう一つ、先へ進みなさい……空の中に復活祭の花をつかみなさい》p.222 マリー=ルイーゼ・カシュニッツ

〈たおやかな、しかし、きっぱりとした音。音色はちっちゃな真珠の粒が転がるように響き渡った。小さく立体的な形象、くっきりした輪郭、軽やかだ。曖昧なところ、暈されたところ、ペダルを使った余韻は一切ない。その旋律は浮遊し、スタッカート和音はまるで小さなボールさながらだ。しかし、そのしなやかさの背後で、そこここに、深淵めいたものが顔をのぞかせる。この落差がモーツァルトだ〉p.225

〈現在のただ中にあること。それが助けとなる。見放された気分の渦に巻きこまれることに抗うのだ。たとえ、「わたし」が油断ならない審級のままであるとしても……いったいどんな力が――こちらへと、あちらへと――わたしを動かしているのか、どこでわたしは失われてしまったのか? どんな記憶が残っているのか?〉p.238

〈しかし、今は暗闇の中、転換の前の緊張が支配していた。事実の逆説的転覆を前にした緊張。死があったところに、永遠の生がある〉p.241

〈そこに美しいアリスが漂っているのが見える、水草のなす垣根のただ中に、口が、顎がずれている。病の名は「溶解」だった。薬の効かない病気だった。庭が彼女を突き落としたのだった〉p.255

〈わたしたちは足下に不動の地面を踏んでいることがなお信じられぬかのように、両眼をこすった。葦の群生する汽水域を行く無言の滑走は、出生以前の記憶を呼び覚ました。ともかくもわたしにはそう思われた〉p.259

〈「世界は」とブーバーはラビ・ナハマンの言葉を伝えていた、「回転する骰子のようなものですべては戻ってくる、人間は天使となり天使は人間となり、頭は足となり足は頭となり、そんなふうに万物は回り変容し、これはあれあれはこれに、もっとも上のものはもっとも下に、もっとも下のものはもっとも上になる。というのも、根において万物は一つであり、事物の変化と再来のうちに救済は含まれているのだから」〉p.267-268

〈覚醒体験のことを考えているのなら、ノー。〈真実の口〉は音を立てて閉じはしなかった、わたしには改心の光線は当たらなかった。でも、自分は帰属しているという感情、わたしはかつてここに、そもそもこの世に存在していたという感覚を持った。わたしはここを知っているという感覚は大きかった〉p.272-273

《ブルッフのヴァイオリン協奏曲を聞いてみて、第2楽章よ》p.278

〈彼らは世界を広くのみならず深くとらえた。あらゆる大きな問いを底の底まで究明した。デデクは「底」という言葉を強調した。そして危険を顧みなかった(イムレ・ケルテースは書いている。「わたしたちは死ななければならないのだから大胆に思考するほうがよい、いや、わたしたちはそうすべく義務づけられているのだ」)〉p.287

〈わたしは背を向け、サン=ジャック通りをサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会へ急ぐ。小さな教会が公園の中に、樹々に隠れるように建っている。ノートルダムの斜め向かいだ……ロマネスク様式の後陣、優美な柱列、聖画壁、枝付き燭台を備えた、蜜蠟と香煙が芳しい隠れ家。ここでは、東方の儀式を保持するシリアとレバノンのキリスト教徒、メルキト派が礼拝を行っている。わたしは聖人たちの厳しい顔を見上げる。蝋燭に火を灯す。耳を澄ます。ここはわたしが夢見ていた以上に東方。わたしの部屋はここだ〉p.302-303

〈典礼は波のようで、司祭や助祭の髭のように、立ち昇る香煙のように、拝礼、歌唱、連禱のように波打っている。動いているもののうちにこそ陶酔はある。この時間の暗黙の合意だ。それは続く……教化? いや違う、呼び覚ましだ。これは聖なる劇場だ。わが家ロシアの温もりと、高邁なる遠方憧憬との混淆なのだ(最後に辿り着くべきは、愛する神)〉p.305

〈終わることを望んでいる者はいない。もっと、そしてもっと、もう少しだけもっと。音楽がすべてを満たすよう、夜ははからってくれる。わたしたちはもういない、いるとしても、音楽の一部にすぎない。そんなふうに、わたしたちの愛は音楽の中で始まる〉p.309

〈赤に白十字のパスポートを手に入れるや、わたしはプラハ行き学生ツアーを予約する。カフカへ、ゴーレムへ、スメタナのヴルタヴァへ。まったく未知の国の中へ〉p.314

〈「地球は回転し、暗闇へ向かう、聞く耳をもたず、ペテンにかけられて」、ヴェンツローヴァの言葉だ。そしてこう続く、「残されたのは、謎と、耐えることと、パンと、ワインだけ」

 六時、数機の飛行機が着陸態勢に入る。幾重もの雲の絨毯の彼方には、満月。とにかく待つことヴァルテ・ヌーア。待つことヴァルテ〉p.320

〈オムスク、ノヴォシビルスク、ウラジオストクの文字が見える。わたしは地名を見ると熱くなったり冷たくなったりする、遠方への憧れにとらえられもすれば、それ以上に強烈な憂愁にとらわれもする、自身の生からの亡命を強いられるような気分になる。いつもこの引き裂かれる思い。あるいはこう言ってみようか――死して成れ。出立への衝動が喪失への不安と対をなしている。いまだ旅足りぬ、ということか。それで先へいけるか試しているのか〉p.326-327

〈おはよう、プーシキン・プレイヤッド、こんばんは、書簡、格言、悲歌、献詩。バラトィンスキーはこの友人の輪の中の一人に過ぎない、その中でもっとも陰鬱な星。けれども、それが夜空に引くメランコリックな尾に、わたしは東方の三博士のようについていく(存在は何のためにあるのか? 地上世界の形象は変わることなく現象する/わたしたちはそれらをよく知っている。古きものの再来のみが/未来の懐において待っている)〉p.335

〈リヒテルのバッハは、まさにこの世ならぬ場所から聞こえてくるかのようだ。「宇宙的」とバラトィンスキーなら言うところだろう。主観ならぬ、客観的法則が統べる場所から届けられるもの。呼吸がゆったりと、心臓の鼓動がゆっくりとしてくる……それは自然な、おのずからあるような平静さから流れ出してくる。まさにバッハの音楽(より大いなる神の栄光のために)にふさわしく〉p.336-337

〈「これがロシアなのです――粗暴でありながら志操高く、飲んだくれでアナーキーでありながら詩心に溢れているのです」

 別の言葉で言うなら、ここでは皆、頭がどうかしている、しかしそれだけではない。ロシア人のことは弁証法的にのみ理解することができる。そしてアレクセイはわかっている、なぜ、自分が「とはいえ」や「しかし」をこれほど頻繁に口にするかを〉p.339-340

〈重荷は担う人の肩にのしかかる。レーナは担い、つねに新たな荷を背負いこみ続けた……レーナは全力を出し尽くし、ついには重病がストップをかけた。すると彼女が急に貧しくなった〉p.350-351

〈レニングラードはもはやこの世界の一部ではなくなり、現実と虚構の間を漂っているようだ。もろもろの問題も重みを失い、痛みのないままに集団的高揚の空間を揺れている。すべてがスウィングしている、きみもそれにかっさらわれるといい。いかなる大胆な企ても、始める前から成功している〉p.356

〈チェロを抱えたスラーヴァはどこ? リヒテルが演奏する、スラーヴァはいない。前回、ストラスブールで会ったとき、力を集中するようにとのアドヴァイスをくれた。細い10本の光より、太い1本の光の方が素晴らしいと〉p.363-364

〈この退廃的な西側の個人主義! 対して、ロシアの「わたしたち感覚」はみずからの優位を誇る。わたしはそれを友人たちの間で連帯として体験する。自由闊達な付き合い、無関心などありえない。きみが病気になる、ともう、みんながやってくる。手を差し伸べるスピードの記録更新だ〉p.364

《濡れたつるつるの大通りが、まさに90度の角をなして濡れた大通りと交差した。交差点には巡査が立っていた……そしてまさに同じ家々がそびえ、同じ灰色の人の流れが通過して行き、同じ緑黄色の霧がよどんでいた。そこをいくつもの顔が密集して通り過ぎていった。歩道はささやき、ずるずる音を立てている。オーバーシューズですり潰されている。勝ち誇ったようにブルジョワの鼻が一人闊歩する。鼻が大勢通り過ぎてゆく。鷲鼻、鴨鼻、兎鼻、緑っぽい鼻、白い鼻。ここではいかなる鼻の不在もまた流れてゆく……無限に延びている大通りの無限があり、無限に交差する幻影の無限がある。全ペテルブルグが、N乗された大通りの無限なのである。ペテルブルグの向こうには何もない》p.365 アンドレイ・ベールイ『ペテルブルグ』

〈わたしたちはとどまることなく先へ進んだ、ガタガタ揺れるバスで森の中へ。そこには――ユーラの秘密情報だ――東方正教会の女子修道院が隠れるように建っていた。さほど古い建物ではなく、教会の木材は木の匂いがした。教会内陣は香煙と蜜蠟の香りがしていた。黒い鳥のように尼僧たちが薄闇の中を掠め過ぎ、蝋燭を灯した。晩方の礼拝が始まった。こんなふうに人間は時間、空間の外に、自由の中に落ちてゆくのだろうか? ここに不正、虚偽はなかった。ユーラがきっぱりと言う。この場所を「恐れることなかれ」と命名しようと。わたしは考えた。奴らは本当に何一つわたしたちに危害を加えることができないのだと。この汚れのない歌には。

まるで泥沼から抜け出してきたかのようだった。澄んだ、光に満ちた高みへ。呼吸は落ち着き、両足は大地を踏んだ。そして心にはただ一つの望み。善きことを為せ〉p.366-367

〈礼拝堂の丸屋根(トルコブルー)、絹のカフタン(絣の文様)、絨毯の、香辛料の市場。黒いミルク。明るい穂をつけた葦。塩砂漠。国境、密輸ルートはフェイドアウトさせよう。しかし黒い衣をまとった女たちは消したりしない。トルクメニスタンの色彩豊かな衣装をまとった女たち。

 何かが呼んでいる、呼んでいる、もうずっと以前から。絹の道。シルクロード。マルコ・ポーロが子どものファンタジーに住みついたのか〉p.376

〈眼に飛びこんでくるものは、混乱させるほどに豊かだ。そして、どこかで会ったことがあるように思うこともある。私が追っているのは、夢、それとも記憶? 憧れてやまぬ好奇心、それとも太古の呼び声? わたしは追う。異質なものと思い、同時に、馴染みのものと思う……しかし、わたしは別なる存在に挑戦しようとは思わない、ただただわたしの毛孔を開いていたい。わたしの感覚と思考空間を広げたい。幸福はそこにこそある(手を差しのばす幸福)〉p.381

《忘れること――何一つ忘れてはいない記憶の中で、忘却に寄り添うこと》p.391 ブランショ

〈ほら、わたしは子どもに言う、コンパスカード/風の薔薇があるでしょう。それが行き先を教えてくれるはず。眼をしっかり見開いて、信じなさい〉p.395

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