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2020年2月

新実存主義

マルクス・ガブリエル(2020).新実存主義.岩波新書

〈かりにマクベスが存在したとしても、あくまで想像の産物としていたにすぎず、その意味で、現実に存在するといえるものではない〉p.15             

〈新実存主義とは、「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である。ふつう「心」という看板でひとくくりにされている現象は、明らかに物理的なものも現実には存在しないものも幅広く含む、ひとつのスペクトル上に位置づけられると考えるのだ。では、なぜ「心」という雑多な概念にさまざまな現象が包摂されるのだろうか。その理由は、いずれの現象も、純粋に物理的な世界や動物界のほかのメンバーから、人間が自分を区別しようとする試みに由来していることにある。そうした試みのなかで、心をもつ生き物というわれわれの自画像は形づくられてきたのだ。人間以外のものが存在するとはどういうことかについて、同じように多様な説明を踏まえながら〉p.16

〈世界は、あらゆるものを包含する一個の対象領域でも、あらゆることがらを包含する一個の事実領域でもなく、私の言い方では「あらゆる意味の場からなる意味の場」として理解すべきである。ここでいう「意味の場」(field of sense: FOS)とは、対象領域を表す私の言い方だ……宇宙はさまざまなFOSからなる開いた系のなかに位置を占めるのだ。だが、すべてを包含するFOSはない。FOSの存在論から導かれるこの帰結を、私は「無世界観」と呼んでいる。「世界は存在しない」(Gabriel 2015b)というフレーズはそれを要約したものだ。新実存主義の考えでは、心は自然の秩序(宇宙)にも世界にも属さない……それでも心的語彙には、それを取りまとめる不変の統一構造がある。この構造を私は「精神ガイスト」と呼ぶ。精神は、雑多で、多様な変化をみせる心的語彙の背景にある不変なものを説明するテクニカルな概念だ〉p.19

〈しかし、形而上学的自然主義や唯物論は、どこでもないところからの眺めがわれわれに可能である(そういうものを想定することができる)という前提に立っているように見える。というのも、議論の対象である物理的なもの全体のなかで自身が占める場所について、正統な主張のできる位置にいないにもかかわらず、万物について云々してみせるからである〉p.35

〈マーチャーズは、意識をもつ心を、意識をもたない基本的な物質のレベルにまで還元することはできないが、それを自然の秩序に統合することは可能だという……過去100年にわたって多くの論者がそうしたように、マーチャーズも量子力学のさまざまな解釈に着目する……そこには、意識をもった、あるいは意識の萌芽を宿した、新たな不思議な組織をつかさどる自然法則が含まれるかもしれないと考えるわけだ〉p.52-53

 統合から逃れよう、抵抗しようとするのが、心ではないだろうか?

 それは、つねに可能性を広げ、無限を希求する何かである。

〈近著『心と宇宙』でトマス・ネーゲルは、プラトン、シェリング、ヘーゲルの系譜にみずからを連ねている。宇宙における心の位置について、彼らは目的論による説明を全面的に展開したが、ネーゲルが同書で提示したのはその簡易版である……弱いかたちの人間原理によれば、われわれのような科学的観測者が存在するという事実から、そもそも宇宙は思考が及ばないものであることが言える。思考は宇宙それ自体から生まれ、宇宙をつかさどる法則にどうにかして適応したいからだ。心というものを、人間の心や理性では原理的に理解しえない法則によって支配されているかのように描くのは、根拠のない懐疑論のような感じがする。しかし、理性が実在すること、理性は理性の外部にある原理(たとえば進化生物学が発見した原理)に還元できないことを説得的に論じたあと、ネーゲルはいきなり結論に飛びつく。いわく、われわれには新たな未来型の科学が必要だ。宇宙には宇宙のことを理解する知的生命体を生みだす傾向があるという、弱いかたちの人間原理を尊重する科学が〉p.54-55

 宇宙は自分のことを理解しようとしているのだろうか。

 無限を希求するとは何か?

〈心というものにかんしては、現われと実在の区別、言葉の表層的な使用とその本質的な指示の働き――ふつうの話者には隠れて見えないかもしれない――の区別は、ある地点で成り立たなくなると多くの論者が指摘してきたデネットのように唯物論者を自認する者たちであっても、意識にかんして、現われと実在の区別が成り立たないことを彼らなりのやり方で示している。意識の場合、何らかのレベルで、現われが実在なのだ〉p.59

〈社会と歴史と政治の領域は、その全体が虚構の物語をつむぐわれわれの能力にもとづいている。そしてこの能力こそ、18世紀のカントの「視霊者の夢」(Kant 1992)に始まる、「精神」の哲学の伝統で中心的位置を占めてきたものだ。この伝統の考え方――そこにはヘーゲル、マルクス、ニーチェが属し、デネットなど唯物論の衣をまとった哲学者にも受け継がれている――によれば、精神は自然種ではない。心的語彙のもとに包摂される現象に対してわれわれがもつ関係は、自然現象に対するわれわれの関係と大きく異なるから、というのがその理由である〉p.61-62

〈肝心なのは、精神は一個の自然種でも、複数の自然種がかたちづくる複雑な構造体でもなく、「精神」の現象を指摘するのに用いられる具体的記述を離れては存在すらしない、何ものかであるという点である……哲学の存在そのものが、精神とかたく結ばれているのだ。哲学は精神的なものなのである〉p.62-63

〈心のありようの絶えざるうつろいは、人間がみずからの行為を大きな文脈で理解しようとしている事実を物語っている。そしてその文脈はふつう、創造しうる限りでもっとも大きなもの、すなわちひとつの全体としての世界だと人間が信じるものである〉p.66

〈精神は、行為を説明する文脈で援用される説明構造である。行為主体である人間が行うことの一部は、その行為が歴史的に変転していく人間観に照らしてなされるものであるという事実を十分に踏まえることで、はじめて説明される〉p.67

〈行為主体としての自分を誤解して、人間であることは動物種のひとつであることと同じであり、われわれはその動物種のメンバーにすぎないと間違って信じ込むならば、行為主体のあり方はたちまち変化してしまう〉p.68

 分たれざるもののひとりとして

 みずからの無限を希求するもののひとりとして存在する

〈文学、宗教、哲学、科学、法律、告解の慣行、政治などの歴史から受け継がれた心的語彙には、形式的な核があるだけだ。話者や文化のあらゆる違いを超えて、人間の心というものを特徴づける統一的な素朴心理学など存在しないのである。新実存主義の考えでは、この形式的な核は人間を理解するという活動そのものにある……この形式的な核こそが、既知のあらゆる生命体とわれわれとを分かつのだ〉p.69-70

〈現象が生起するとされるもっとも大きな枠組みは、自然の秩序ではない……何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象、われわれが心のなかで起きるその経験を記録してきた現象が、自然のなかにその等価物を見つけることで、あますところなく理論的に統一できるなどと期待すべきではない――〉p.70-71

〈実際、進化理論の用語やそこで実質的に妥当とされる推論を心的語彙に統合すると、その副作用として精神のレベルで変化が生じてしまう〉p.72

〈われわれは自分自身を作り変えるわけだが、そうした作り変えによって、われわれは自分のなかに宿る真の可能性の実現にどれほど近づくのだろうか。それとも遠ざかるのだろうか。「ありのままの自分になる」という言葉は、そうした真のアイデンティティへと進んでいくことを意味している(そしてまた要求している)ように見える。ものが完全に発展した姿がそのものの「真理」だというのがヘーゲルの見方だが、この真理概念はそうした確かな終点を前提しているようだ〉p.88-89 チャールズ・テイラー

 自己(精神)の共有性

 私が思考しているのではない

 思考している〈他者〉と共に在ること

〈つまりこういうことだ。宇宙は、われわれが完全に把握するのは無理かもしれないが、(おそらく)はっきりした輪郭をもっている。しかし人間の文化は、その特異なあり方ゆえに、そうしたものではありえない。いまの文化に限界があるとしても、それを超えた先にまで分化は必ず進んでいける。逆説的な言い方をすれば、われわれのように自分自身を解釈する動物の世界は、その性質上、限界を定めることができないということだ。宇宙と同じように、実在についても輪郭がはっきりしていると考えるのは、われわれ自身から目をそむけること、みずからを激しく誤解することを意味するのである〉p.90-91

 自然が表現しているもの

 キラキラは、物質としてのみずからの、無限への希求(呼応の在りか)

〈心の文法は自然の文法と同じではないということだ〉p.97 ジョスラン・ブノワ

〈すなわち、心とは――あるいは少なくとも「精神」とは――思考の営み以外の実質をもたないということだ。何らかの活動に関わることを抜きにして精神はない〉p.98-99

《行為が「精神的」なものであるためには、行為が思考の発露としてなされたものである必要はない。思考そのものは行為ではない。行為自体が精神的なものなのだ》p.100

 自由が、心である

〈「精神的」なものには、そのもの自体であることも、そうでないあり方をすることもできる能力がある。ところが精神的ではないもの――「自然」なもの――は、ただそのもの自体であるしかない。その意味で、精神的なものは、存在論とつねに本質的にへだたっている。精神的なものが〝そのもの自体〟に完全に帰着することは決してないのだ〉p.103

〈ヘーゲルはカントを非難した。カントは自己意識をもつ存在を〝生きた存在としてではなく、たんに思考するものとして自分をとらえる存在〟と見做している、といって責めたのだ……カントの定義によれば、無限の知性は対象の根源的直感、「すなわち、直観の客体の現実存在さえも与えることのできる直観」、「根源的存在者にのみ帰せられる直観」をもつ。したがって、〝「私」を考える人は、自分が感性的条件に依存していると考える〟という思想は、自己意識をもつ存在だから抱くわけではない〉p.115-116アンドレ―ア・ケルン

〈自己意識を、べつの何か――つまり「動物種のひとつ」――の存在を前提することではじめて完全に説明される能力と見るとしたら、それは誤った見方だとヘーゲルは結論する。自己意識をそうした前提に依存する意識と見るのは誤解だと考えるのである〉p.117

〈アリストテレスは、彼のいう「魂」に着目し、三種類の形相によって区別した。「魂」とは、掛け値なしに生きているものの形相である、というのが彼の定義だ……アリストテレスの「魂」の観念は生命形相の観念であり……植物的生の形相、動物的生の形相、理性的生の形相である〉p.122-123

〈脳がなければ心的活動はない。しかし、だからといって心脳同一説が支持されるわけではない。たんに、人間の心的活動に必要な条件の一部が、自然の過程――自然種の観点から考えるのがもっともふさわしい過程――と同一視できるという考えを裏づけてくれるだけである〉p.136 マルクス・ガブリエル

〈哲学的志向のある一部の科学者は、形而上学のレベルでは、現在の科学的知識を自然主義的に解釈することに反対しており、現代版の本格的なプラトニズム、スピノザ主義、モナドロジー、ヒンドゥー教的一元論に共鳴するような見方さえ述べている。科学を重んじるということは、科学者を重んじるということでもある。(アインシュタイン、シュレーディンガー、ハイゼンベルクなど)もっとも成功をおさめた自然科学者の一部は、現在の理論哲学における物理主義や自然主義の主流派とまったく相容れないかたちで科学の形而上学を解釈しているが、この事実は、そうした主流派にとってあまり都合のいい話ではない〉p.137-138

 言葉とは、氷山の一角である。

 その言葉の纏う数多の思念、できごと、躊躇い、超越。

 纏うものがつくり上げる心。

〈私が「無世界観」と呼ぶ考え方によれば、一個の全体としての実在などというものはない。自然科学が研究する意味の場としての宇宙もまた、おそらくひとつのまとまりではない〉p.138

〈新実存主義は、心の哲学の基礎を再考する枠組みを提供する。ひとたび基礎が整えば、もっと具体的な問題についての判断がつくはずだ。つまり、大きな一個の課題としての心脳問題はありえないことになる。問題があるとすればそれは、同じかたちすらもつとはかぎらない多様な問題なのだ〉p.139-140

〈新実存主義の新しさは、実存主義の伝統の共通項を、現代の形而上学と心の哲学の問題に適用することにある。私の考えでは、その共通項とは、テイラーがいうように、「われわれがみずからを決定する動物であることは逃れようのない事実である」という思想にほかならない〉p.143

〈スタンリー・カヴェルがいみじくも述べたように、「自分が人間であることを否定しようと思うことほど、人間らしいことはないのだ」(Cavell 1979:109)〉p.147

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