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霊性の哲学

若松英輔(2015).霊性の哲学.角川選書

〈学問においても真に革新的な境域が拓かれるときには、学者の実存的かつ主体的な経験が求められるというのです。個において生起したことが、深い思索を経て、他者に開かれてゆくところに叡知が宿るというのです〉p.17

《宗教は人の霊性をつかさどるものにして、人と神(宇宙)との関係を明らかにするものなれば、政治法律のごとく人と人との関係を直接に論究せず。宗教もし愛国を論ずれば、神に対する義務としてこれを論ずるのみ》p.18 内村鑑三『伝道の精神』

〈先に触れた村岡典嗣の師は、波多野精一(18771950)という哲学者ですが、彼は同時にキリスト教・プロテスタントの信仰者でもありました。彼には代表作として『宗教哲学』と題する著作があります。そこで彼は、「宗教哲学は飽くまでも宗教的体験の理論的回顧、それの反省的自己理解でなければならぬ」、あるいは「宗教において自我は現実世界を超えてはるかに高き実在との関係に入る」と語り、内村のいう霊的体験こそ、宗教哲学の根柢になくてはならないと語ったのでした〉p.19

〈神を、あるいは神なる「霊」を語るものだけが霊性を生きるのではありません。霊性は万人に等しく宿っている自己を超えでて、真に他者と交わることの源泉となる働きです……彼(谺雄二)にとって「霊性」とは無私と同義でした。さらに晩年の彼は、霊性という言葉の代わりに「いのち」あるいは「いのちの証」という表現を用いたのです〉p.20

《宗教心の奥底に輝ける不思議の光は霊なり。その血は愛なり。それが霊の生命なり。それは大なる如来と衆生の霊とによりて互に血を通わせり》p.24 山崎弁栄『人生の帰趣』

〈人間は、どんな状況にあっても内なる聖性が損なわれることはないと弁栄はいうのです〉p.27

 深く、ただ深く、どこまでも、この心身の耐えうるまで

〈人間の霊性は如来の慈悲によって育まれる……ヨーロッパには「聖ベルナールのヴィジョン」と題される画題があります。そこにはマリアから注がれる母乳をベルナルドゥスが受ける、という光景が描かれている。こうした事実は、時代、文化あるいは宗教の違いを超えた人間と超越者、あるいは超越と共振する霊性の経験があることを示しています〉p.28-29

〈ベルナルドゥスと弁栄における母性的霊性論には、別稿をもって論じるべき重要な問題が潜んでいます。二人が論じる超越者の姿はともに、断罪する一者でなく、共に苦しむ者であり、共に困難を生き抜こうとする同伴者です〉p.29

 超越を生きる、分かたれざるもののうちに

《その時ひとは見ずして見る。そしてその時こそ本当に見るのである。なぜなら光り自体を見るのであるから。それまで見て来た全てのものはただ光り輝くものであって、光りではなかった》p.33 プロティノス

《かれはじつに美なり愛なり、われらが霊性はこれを愛慕してますます高遠に導かる。彼は最も遠きに在りて、しかも最も邇くして、つねにわれらを向上せしむ。かれを葵望し愛慕するは奥底の霊性より衝動する力なり。霊性が如来を愛するは同性相吸引する自然の勢力なり。他人より「かれを忘るるなかれ」と命ぜられて初めて動く力にあらず、自分が忘れんと欲するもあたわざる霊的の衝動なり、それが如来を葵仰して慕わしさ恋しさの近似がたき情けなり》p.35 山崎弁栄『宗祖の皮髄』

《この肉体我の奥底に仏性という霊性が伏蔵して、この霊性開発する時は即ち宇宙の目的と合致し、宇宙の大霊と自己の小霊は霊性開く時に始めて全く一致して、大霊と合致す》p.40 『人生の帰趣』

〈正統を継ぐ者とは、迷える時代の「異端者」として顕われるというのです〉p.41

〈彼にとって死は、存在の消滅ではなく、新たに生まれることだったのです。また彼にとって彼方の世界は、人間が死後にのみ行くところではない。今、ここで現成するものにほかならなかったのです〉p.44

〈ここで「見る」とは肉眼で見ることではありません。心眼でふれることです。「見る」とはもともと不可視なものにふれることを意味しました。肉眼で見ることはできないが、霊においてふれるもの、それは弁栄の考える「光」です。彼は「霊光」と記すこともあります〉p.44

〈井筒俊彦は、最晩年に行った司馬遼太郎との対談で、唐代の長安に留学していた空海は、ネストリウス派のキリスト教である景教にふれていた可能性がある、また当時の長安はいわば霊性と宗教のメッカで、空海はプロティノスの思想、新プラトン主義にすらふれていただろうと指摘しています。つまり、真言密教のなかには、キリスト教、あるいは新プラトン主義の霊性が流れ込んでいると思わせるものがあるというのです〉p.47

〈十二世紀にスペイン・コルドバを中心に活躍したこの神秘哲学者は、弁栄が大霊と呼ぶものを「存在」と呼びました。イブン・アラビーと同時代人でシリアを中心に活動したスフラワルディーはそれを「光」と呼びました……般若心経にある「色即是空 空即是色」がそれにあたります。「空」は絶対者、「色」は人間を含むすべての存在者です〉p.48

《この法は、人々の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず。証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし》p.52『正法眼蔵』

〈人間という小さな存在の手のなかにもあるが、無限でもある。語り得ない何ものかでありながら、世界に遍在している〉p.53

《如来はどこに在すかと云うに、如来在さざるところなく如来は絶対無限である。我々は如来の愛子である。我らの霊性は如来の中に投帰没入して、亡くしてしまうのではない。我ら個人の霊性を通じて如来を見る時、絶対無限の如来を知見することが出来る。絶対なる如来は一個の霊性の中に溶け入らんとしておる》p.53『無対光』

〈人間が絶対を求めるよりもいっそう強く、絶対が私たちを求めている。「溶け入る」というのは霊性を目覚めさせることであり、救うということです……如来の方こそ、私たちの救いを切望している。そうしてその招きを拒むことができようか〉p.54

〈宗教とは本来、固定した事実ではなく、人間が大いなるものを求めて止まない状態を意味しています……宗教とは単に語るものではなく、人間によって生きられたとき、はじめていのちを帯びる出来事だといえます……霊性とは、人間の困難に立ち会い、苦しみ、因果の世界にあって永遠を求めずにはいられない生の衝動だというのです〉p.55

〈大拙がいう「霊」は超越と人間の接点と置き換えてよい。より精確にいえば「超越」が自らを分有したもの、といえます……「性」とは生命の働きということですから、霊性とは形而上学的超越とつながる、いのちの根源的な働きであるといえる……あるいは「霊」は「彼方」、すなわち実在の次元、といえるかもしれません。彼方性というと奇妙に聞こえますが、霊性には私たちが暮らすこの世界に深く根を下ろしながら、しかし、それを超えて彼方を志向する働きがあります〉p.58

 弔うとは対話である

〈「読む」営みが真に行われるとき、私たちは、単に見える文字を超えて、見えない言葉を介して人と会うことができる。目に見える文字を通路に、見えない「言葉」で先人と対話する。それが儒学の伝統を深く流れる「読む」経験だったというのです〉p.67

〈それは意味を伴って私たちの現前に迫りくる、命名し難き、うごめく意味の塊です。それはときに言語であり、色でもあり、音、香り、かたち、あるいは律動でもある。絵を見るとき、私たちはそこに色や線を見る。しかし同時に言語化以前の、無形の意味も感じている。井筒は、このうごめく意味的実在をコトバと呼び、そこを基点に存在の根源へと垂線を描くように思索を繰り広げます〉p.67-68

〈ここで「信ずる」と語られていることは、理性を捨て、妄信的になることを意味しません。「信ずる」行為のなかにはいつも理性の働きが躍動しています。むしろ、信じることによって理性はよりよく働く。別な言い方をすれば、理性の働きをどこまでも高めようとすることが「信じる」ことだといえる。また、「信は天啓だといってよい」との一節は、信は人間が努力して作り上げるものではなく、何ものかから与えられるものであることを示しています〉p.81

《しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界に比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうではなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でも亡くしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです》p.85-86 鈴木大拙『仏教の大意』

 分たれざるもの、の霊性、その直接性、触れえないもの

〈神愛と神智が統合され「霊性」になる。神愛と神智という二つの働きは霊性という一なるものの二つの側面だというのです。霊性というとき、常に神愛と神智がそこに生きていると思って読んでほしい、というのです。また、「霊」と「神」は同義であり、「神」を感受する働きが霊性であり、この力によって人は世界の実相を認識する、というのです〉p.94

《霊性的自覚の人は、それ故に、「神慮」に叶った人です。神慮とは仏教的にいうと、因果です……〔神慮を見出した状態とは〕自らの内に自らならざるもの、自らよりも大にして深く遠いものを見つけたという自覚からくる安心です、無畏心です》p.95 『仏教の大意』

〈他者とは誰か、他者とはどういう存在であるのか、これはどこまでも問うべき、ある意味では答えのない大きな問題です。しかし、他者はいるのか、ということは問うべき問題ではない。なぜなら歴然たる事実だからです……眼前に他者がいるのと同様に浄土の実在を感じることができた人々がいた。自分もまたその一人だ、と柳はいうのです。柳にとって浄土は、絶対美の世界であり、絶対平和の世界です。絶対平和と浄土は同じことを示す異なる表現に過ぎません〉p.108

〈同じことを語ったのは内村鑑三です……内村の非戦論が他の非戦論と根本的に異なるのは、平和の実現は、人間の努力の彼方に起こるというよりも、彼方からの働きを招くところに起こると信じていることです〉p.109

〈そしてもう一つ、ファシズムは考えることを奪います。ファシズムに対して私たちが最初に成し得る抵抗は、内なる美に目覚め、一人で考えることです。そして隣人と対話することです〉p.110

《「悲」とは含みの多い言葉である。二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈みでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈みに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえある。基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、‘Lady of Sorrows’ の言葉を用いた。「悲しみの女」の義である》p.114 柳宗悦『南無阿弥陀仏』

〈柳はここで見えない涙があることを私たちに教えてくれています。悲しい者は皆涙を流しているとは限らない。悲しみが極まるとき、涙は涸れ、人の頬ではなく、こころを伝う。そうした無数の不可視な涙はついに無名の陶工によって生み出され、「美」の化身として新生する。そこには人知を離れた働き、「秘事」が生きている〉p.115

《芸術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。芸術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである》p.116 柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」

《美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。意識するとしないとにかかわらず、体験するとしないとにかかわらず、背中合わせになっていると思います。そしてあまり近代的な合理主義では、悲しみも美もすくいとれないです》p.119 石牟礼道子『花の億土へ』

《私は立証し得ずとも尚自存するが如き宗教を要求する。聖者は「死すとも尚生きる」生命をこそ信じた。論証によって始めて知解し得る真理に私は最後の愛を贈ることは出来ぬ、否、証明しうるが如き真理がここにあるなら、私はそれを宗教的真理とは認めまい。「浄心鏡」と呼ばれた中世の古書は次のように書いた。「知り得ぬ神のほかに、あり得る神はない」と。エックハルトによれば或師は告げている「若しも私が理解し得る神を持ち得るなら、私は彼を神とは認めまい」と》p.123 柳宗悦『即如の種々なる理解道』

《至上の真理はそれ自ら神秘である。それは論理の力によって近づく事は出来ぬ。是非の判断を許さぬからである。定義せらるる内容、実証を待つが如き真理、明白にし尽くされた思想の如きは尚幼稚な思考の痕跡に過ぎぬ》p.128 栁宗悦『即如の種々なる理解道』

《神はわれらすべてを聖者たらしめ得たもうのである。神自らの自由なる愛によってわれらの最も自由なる人格を。かくして十字架の聖ヨハネは言う「所詮はこの愛のために造られたのだ」と》p.132 吉満義彦「文学者と哲学者と聖者」

〈何かについて詳しくなることと、何かに出会うことは、根本的に違うと吉満はいう。さまざまな現象の奥にある「普遍的原理」の領域に生きること、そこからその時代を見つめ、そこに参与すること、それが哲学者の使命であると彼は信じている〉p.136

〈霊とは、私たち人間のなかにあって、人間を人間たらしめている働きです……霊とは存在を底から支える根源的な働きであるとともに、他者に、自然に、そして超越に開かれている扉です……常にそういう「霊の眼」で世界を見ているのが詩人である、リルケはそういう人だったのだ、というわけです〉p.137

 死者は傍らに、永遠にあり。

《詩は語り愛は黙す》p.140 吉満義彦『詩と愛と実存』

〈常に何ものかからの問いをわが身に引き受けながら生きる……「生存を呼吸」する。こういう手ごたえのある表現は、実際に「呼吸」していない人間には書くことができない……真剣に自分に向かって文章を書くとは、自分はそう生きるということを、自分に向かって約束するということなのです……同時に自分が書いている言葉を不可視な存在が見ている。吉満にとって、それは天使でした〉p.145

《『方法序説』で人々はデカルトの数学的分析的方法を学ぶのではなく、つまり「方法の論理」を学ぶのではなく、方法を求めそれを生活する理性の自己告白に言わば「方法の倫理」を学ばねばならない……哲学するということは予め与えられた論理や他人の論理によって考えることではなく、事物について自分自身の確固たる判断を下す自主的な知性の営みである》p.146-147 吉満義彦『哲学者の神』

《私は自ら親しき者を失って、この者が永久に消去されたとはいかにしても考え得られなかった。否な、その者ひとたび見えざる世界にうつされて以来、私には見えざる世界の実在がいよいよ具体的に確証されたごとく感ずる。もっとも抽象的観念的に思われたであろうものが最も具体的に最も実在的に思われてきた。見えざる実在の秩序を信ずることとその存在を具体的に感ずることとは自ら別である。私は親しき者を失いし多くの人々とともに、失われしものによって最も多くを与えられる所以を今感謝の念をもって告白し、このまとまらぬ感想をとどめたいと思う》p.151 吉満義彦「実在するもの」

《天使はわれらの間にある(Angels are among us)これを看過して一切を自然法則をもって説かんとするは罪である》p.153 ジョン・ヘリー・ニューマン「実在するもの」吉満義彦訳

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