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2019年12月

霊性の哲学

若松英輔(2015).霊性の哲学.角川選書

〈学問においても真に革新的な境域が拓かれるときには、学者の実存的かつ主体的な経験が求められるというのです。個において生起したことが、深い思索を経て、他者に開かれてゆくところに叡知が宿るというのです〉p.17

《宗教は人の霊性をつかさどるものにして、人と神(宇宙)との関係を明らかにするものなれば、政治法律のごとく人と人との関係を直接に論究せず。宗教もし愛国を論ずれば、神に対する義務としてこれを論ずるのみ》p.18 内村鑑三『伝道の精神』

〈先に触れた村岡典嗣の師は、波多野精一(18771950)という哲学者ですが、彼は同時にキリスト教・プロテスタントの信仰者でもありました。彼には代表作として『宗教哲学』と題する著作があります。そこで彼は、「宗教哲学は飽くまでも宗教的体験の理論的回顧、それの反省的自己理解でなければならぬ」、あるいは「宗教において自我は現実世界を超えてはるかに高き実在との関係に入る」と語り、内村のいう霊的体験こそ、宗教哲学の根柢になくてはならないと語ったのでした〉p.19

〈神を、あるいは神なる「霊」を語るものだけが霊性を生きるのではありません。霊性は万人に等しく宿っている自己を超えでて、真に他者と交わることの源泉となる働きです……彼(谺雄二)にとって「霊性」とは無私と同義でした。さらに晩年の彼は、霊性という言葉の代わりに「いのち」あるいは「いのちの証」という表現を用いたのです〉p.20

《宗教心の奥底に輝ける不思議の光は霊なり。その血は愛なり。それが霊の生命なり。それは大なる如来と衆生の霊とによりて互に血を通わせり》p.24 山崎弁栄『人生の帰趣』

〈人間は、どんな状況にあっても内なる聖性が損なわれることはないと弁栄はいうのです〉p.27

 深く、ただ深く、どこまでも、この心身の耐えうるまで

〈人間の霊性は如来の慈悲によって育まれる……ヨーロッパには「聖ベルナールのヴィジョン」と題される画題があります。そこにはマリアから注がれる母乳をベルナルドゥスが受ける、という光景が描かれている。こうした事実は、時代、文化あるいは宗教の違いを超えた人間と超越者、あるいは超越と共振する霊性の経験があることを示しています〉p.28-29

〈ベルナルドゥスと弁栄における母性的霊性論には、別稿をもって論じるべき重要な問題が潜んでいます。二人が論じる超越者の姿はともに、断罪する一者でなく、共に苦しむ者であり、共に困難を生き抜こうとする同伴者です〉p.29

 超越を生きる、分かたれざるもののうちに

《その時ひとは見ずして見る。そしてその時こそ本当に見るのである。なぜなら光り自体を見るのであるから。それまで見て来た全てのものはただ光り輝くものであって、光りではなかった》p.33 プロティノス

《かれはじつに美なり愛なり、われらが霊性はこれを愛慕してますます高遠に導かる。彼は最も遠きに在りて、しかも最も邇くして、つねにわれらを向上せしむ。かれを葵望し愛慕するは奥底の霊性より衝動する力なり。霊性が如来を愛するは同性相吸引する自然の勢力なり。他人より「かれを忘るるなかれ」と命ぜられて初めて動く力にあらず、自分が忘れんと欲するもあたわざる霊的の衝動なり、それが如来を葵仰して慕わしさ恋しさの近似がたき情けなり》p.35 山崎弁栄『宗祖の皮髄』

《この肉体我の奥底に仏性という霊性が伏蔵して、この霊性開発する時は即ち宇宙の目的と合致し、宇宙の大霊と自己の小霊は霊性開く時に始めて全く一致して、大霊と合致す》p.40 『人生の帰趣』

〈正統を継ぐ者とは、迷える時代の「異端者」として顕われるというのです〉p.41

〈彼にとって死は、存在の消滅ではなく、新たに生まれることだったのです。また彼にとって彼方の世界は、人間が死後にのみ行くところではない。今、ここで現成するものにほかならなかったのです〉p.44

〈ここで「見る」とは肉眼で見ることではありません。心眼でふれることです。「見る」とはもともと不可視なものにふれることを意味しました。肉眼で見ることはできないが、霊においてふれるもの、それは弁栄の考える「光」です。彼は「霊光」と記すこともあります〉p.44

〈井筒俊彦は、最晩年に行った司馬遼太郎との対談で、唐代の長安に留学していた空海は、ネストリウス派のキリスト教である景教にふれていた可能性がある、また当時の長安はいわば霊性と宗教のメッカで、空海はプロティノスの思想、新プラトン主義にすらふれていただろうと指摘しています。つまり、真言密教のなかには、キリスト教、あるいは新プラトン主義の霊性が流れ込んでいると思わせるものがあるというのです〉p.47

〈十二世紀にスペイン・コルドバを中心に活躍したこの神秘哲学者は、弁栄が大霊と呼ぶものを「存在」と呼びました。イブン・アラビーと同時代人でシリアを中心に活動したスフラワルディーはそれを「光」と呼びました……般若心経にある「色即是空 空即是色」がそれにあたります。「空」は絶対者、「色」は人間を含むすべての存在者です〉p.48

《この法は、人々の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず。証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし》p.52『正法眼蔵』

〈人間という小さな存在の手のなかにもあるが、無限でもある。語り得ない何ものかでありながら、世界に遍在している〉p.53

《如来はどこに在すかと云うに、如来在さざるところなく如来は絶対無限である。我々は如来の愛子である。我らの霊性は如来の中に投帰没入して、亡くしてしまうのではない。我ら個人の霊性を通じて如来を見る時、絶対無限の如来を知見することが出来る。絶対なる如来は一個の霊性の中に溶け入らんとしておる》p.53『無対光』

〈人間が絶対を求めるよりもいっそう強く、絶対が私たちを求めている。「溶け入る」というのは霊性を目覚めさせることであり、救うということです……如来の方こそ、私たちの救いを切望している。そうしてその招きを拒むことができようか〉p.54

〈宗教とは本来、固定した事実ではなく、人間が大いなるものを求めて止まない状態を意味しています……宗教とは単に語るものではなく、人間によって生きられたとき、はじめていのちを帯びる出来事だといえます……霊性とは、人間の困難に立ち会い、苦しみ、因果の世界にあって永遠を求めずにはいられない生の衝動だというのです〉p.55

〈大拙がいう「霊」は超越と人間の接点と置き換えてよい。より精確にいえば「超越」が自らを分有したもの、といえます……「性」とは生命の働きということですから、霊性とは形而上学的超越とつながる、いのちの根源的な働きであるといえる……あるいは「霊」は「彼方」、すなわち実在の次元、といえるかもしれません。彼方性というと奇妙に聞こえますが、霊性には私たちが暮らすこの世界に深く根を下ろしながら、しかし、それを超えて彼方を志向する働きがあります〉p.58

 弔うとは対話である

〈「読む」営みが真に行われるとき、私たちは、単に見える文字を超えて、見えない言葉を介して人と会うことができる。目に見える文字を通路に、見えない「言葉」で先人と対話する。それが儒学の伝統を深く流れる「読む」経験だったというのです〉p.67

〈それは意味を伴って私たちの現前に迫りくる、命名し難き、うごめく意味の塊です。それはときに言語であり、色でもあり、音、香り、かたち、あるいは律動でもある。絵を見るとき、私たちはそこに色や線を見る。しかし同時に言語化以前の、無形の意味も感じている。井筒は、このうごめく意味的実在をコトバと呼び、そこを基点に存在の根源へと垂線を描くように思索を繰り広げます〉p.67-68

〈ここで「信ずる」と語られていることは、理性を捨て、妄信的になることを意味しません。「信ずる」行為のなかにはいつも理性の働きが躍動しています。むしろ、信じることによって理性はよりよく働く。別な言い方をすれば、理性の働きをどこまでも高めようとすることが「信じる」ことだといえる。また、「信は天啓だといってよい」との一節は、信は人間が努力して作り上げるものではなく、何ものかから与えられるものであることを示しています〉p.81

《しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界に比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうではなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でも亡くしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです》p.85-86 鈴木大拙『仏教の大意』

 分たれざるもの、の霊性、その直接性、触れえないもの

〈神愛と神智が統合され「霊性」になる。神愛と神智という二つの働きは霊性という一なるものの二つの側面だというのです。霊性というとき、常に神愛と神智がそこに生きていると思って読んでほしい、というのです。また、「霊」と「神」は同義であり、「神」を感受する働きが霊性であり、この力によって人は世界の実相を認識する、というのです〉p.94

《霊性的自覚の人は、それ故に、「神慮」に叶った人です。神慮とは仏教的にいうと、因果です……〔神慮を見出した状態とは〕自らの内に自らならざるもの、自らよりも大にして深く遠いものを見つけたという自覚からくる安心です、無畏心です》p.95 『仏教の大意』

〈他者とは誰か、他者とはどういう存在であるのか、これはどこまでも問うべき、ある意味では答えのない大きな問題です。しかし、他者はいるのか、ということは問うべき問題ではない。なぜなら歴然たる事実だからです……眼前に他者がいるのと同様に浄土の実在を感じることができた人々がいた。自分もまたその一人だ、と柳はいうのです。柳にとって浄土は、絶対美の世界であり、絶対平和の世界です。絶対平和と浄土は同じことを示す異なる表現に過ぎません〉p.108

〈同じことを語ったのは内村鑑三です……内村の非戦論が他の非戦論と根本的に異なるのは、平和の実現は、人間の努力の彼方に起こるというよりも、彼方からの働きを招くところに起こると信じていることです〉p.109

〈そしてもう一つ、ファシズムは考えることを奪います。ファシズムに対して私たちが最初に成し得る抵抗は、内なる美に目覚め、一人で考えることです。そして隣人と対話することです〉p.110

《「悲」とは含みの多い言葉である。二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈みでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。信仰は慈みに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえある。基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、‘Lady of Sorrows’ の言葉を用いた。「悲しみの女」の義である》p.114 柳宗悦『南無阿弥陀仏』

〈柳はここで見えない涙があることを私たちに教えてくれています。悲しい者は皆涙を流しているとは限らない。悲しみが極まるとき、涙は涸れ、人の頬ではなく、こころを伝う。そうした無数の不可視な涙はついに無名の陶工によって生み出され、「美」の化身として新生する。そこには人知を離れた働き、「秘事」が生きている〉p.115

《芸術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。芸術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである》p.116 柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」

《美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。意識するとしないとにかかわらず、体験するとしないとにかかわらず、背中合わせになっていると思います。そしてあまり近代的な合理主義では、悲しみも美もすくいとれないです》p.119 石牟礼道子『花の億土へ』

《私は立証し得ずとも尚自存するが如き宗教を要求する。聖者は「死すとも尚生きる」生命をこそ信じた。論証によって始めて知解し得る真理に私は最後の愛を贈ることは出来ぬ、否、証明しうるが如き真理がここにあるなら、私はそれを宗教的真理とは認めまい。「浄心鏡」と呼ばれた中世の古書は次のように書いた。「知り得ぬ神のほかに、あり得る神はない」と。エックハルトによれば或師は告げている「若しも私が理解し得る神を持ち得るなら、私は彼を神とは認めまい」と》p.123 柳宗悦『即如の種々なる理解道』

《至上の真理はそれ自ら神秘である。それは論理の力によって近づく事は出来ぬ。是非の判断を許さぬからである。定義せらるる内容、実証を待つが如き真理、明白にし尽くされた思想の如きは尚幼稚な思考の痕跡に過ぎぬ》p.128 栁宗悦『即如の種々なる理解道』

《神はわれらすべてを聖者たらしめ得たもうのである。神自らの自由なる愛によってわれらの最も自由なる人格を。かくして十字架の聖ヨハネは言う「所詮はこの愛のために造られたのだ」と》p.132 吉満義彦「文学者と哲学者と聖者」

〈何かについて詳しくなることと、何かに出会うことは、根本的に違うと吉満はいう。さまざまな現象の奥にある「普遍的原理」の領域に生きること、そこからその時代を見つめ、そこに参与すること、それが哲学者の使命であると彼は信じている〉p.136

〈霊とは、私たち人間のなかにあって、人間を人間たらしめている働きです……霊とは存在を底から支える根源的な働きであるとともに、他者に、自然に、そして超越に開かれている扉です……常にそういう「霊の眼」で世界を見ているのが詩人である、リルケはそういう人だったのだ、というわけです〉p.137

 死者は傍らに、永遠にあり。

《詩は語り愛は黙す》p.140 吉満義彦『詩と愛と実存』

〈常に何ものかからの問いをわが身に引き受けながら生きる……「生存を呼吸」する。こういう手ごたえのある表現は、実際に「呼吸」していない人間には書くことができない……真剣に自分に向かって文章を書くとは、自分はそう生きるということを、自分に向かって約束するということなのです……同時に自分が書いている言葉を不可視な存在が見ている。吉満にとって、それは天使でした〉p.145

《『方法序説』で人々はデカルトの数学的分析的方法を学ぶのではなく、つまり「方法の論理」を学ぶのではなく、方法を求めそれを生活する理性の自己告白に言わば「方法の倫理」を学ばねばならない……哲学するということは予め与えられた論理や他人の論理によって考えることではなく、事物について自分自身の確固たる判断を下す自主的な知性の営みである》p.146-147 吉満義彦『哲学者の神』

《私は自ら親しき者を失って、この者が永久に消去されたとはいかにしても考え得られなかった。否な、その者ひとたび見えざる世界にうつされて以来、私には見えざる世界の実在がいよいよ具体的に確証されたごとく感ずる。もっとも抽象的観念的に思われたであろうものが最も具体的に最も実在的に思われてきた。見えざる実在の秩序を信ずることとその存在を具体的に感ずることとは自ら別である。私は親しき者を失いし多くの人々とともに、失われしものによって最も多くを与えられる所以を今感謝の念をもって告白し、このまとまらぬ感想をとどめたいと思う》p.151 吉満義彦「実在するもの」

《天使はわれらの間にある(Angels are among us)これを看過して一切を自然法則をもって説かんとするは罪である》p.153 ジョン・ヘリー・ニューマン「実在するもの」吉満義彦訳

ユング 魂の現実性

 河合俊雄(1998).ユング 魂の現実性.岩波現代文庫

〈魂Seele, Psycheというのは、ユングにとって個人が所有している自分の心のようなものではない。むしろesse in anima(魂における存在、魂の内の存在)ということが言われるように、逆に魂の内に自分が住んでいるのであって、魂とはそこに自分の住んでいる世界のようなものである。このニュアンスのときには圧倒的にPsycheが用いられる〉p.275

〈元型Archetypusとはある行動をしたりイメージを生みだしたりするためのアプリオリに与えられた可能性のことであり、個人的に習得されたものでなくて無意識に先在している普遍的な型である〉p.276

〈夢やヴィジョンなどは個人の経験や記憶に必ずしも基づいていないし、時には自分の伝統にも基づいていないこともあり、それは人類に普遍的な無意識に存在する元型によるものと考えられている〉p.276

〈ユングは抑圧や忘却によって形成されてきていて、個人の経験や記憶に遡ることのできる個人的無意識に対して、個人的な経験を超えている集合的無意識kollektives Unbewußteを提唱した……集合的無意識の内容が元型である〉p.277

〈ユングが外的な社会に内的な集合的無意識を対応させているように、集合的無意識は自分を包む世界のようなものである。さらには集合的無意識は、外から自分を圧倒してくる力を持っていて、それゆえに自分から区別された他者である。また他者と言っても、集合的無意識は自我意識にとっての対象ではなくて、逆に集合的無意識が主体で、自我がその対象となる視点の転換をもたらす〉p.277

〈集合的無意識の典型的な現れは、社会に対する顔である「ペルソナ」、自我の生きてこなかった面で同性の顔で現れてくる「影」(Schatten)、異性像としてのアニマ・アニムス、意識の中心ではなくてこころ全体の中心としての「自己」(Selbst)のイメージである〉p.277

〈つまりユングにおける無意識は個人の過去における抑圧されたものにとどまらず、個人を越えたいわゆる「集合的無意識」なのである〉p.5

 自己はどこにもない

 経験とは再生である

〈自己実現とは、文字どおり自分自身になることであり、何か違ったものになるのではなくて、はじめからそうであるものになることなのである〉p.6

〈しかし個々のものを深めるからこそ、逆に常に自己実現している同じものが見えてくると思われる〉p.6-7

《子どもたちは両親に属しているのではなく、また両親から生まれてきたようにみえるだけです……若い世代は根源から生を始めねばならず、絶対に必要な場合にのみ過去の重荷を背負うことができるのです》p.12 ユング

〈…ユングの母親は人間の次元を超えた世界、ユングの言葉で言うならば元型的な世界のことをどこか知っていたと思われる。この夢でユングが最後に目覚めるときに母親が登場するのも興味深い。つまり母親は元型的な世界に迷い込んだユングにとって、覚醒時の生活、現実生活への唯一の接点なのである〉p.16

〈全体性というユングの個性化は個人の出来事を超えた、宇宙の出来事なのである〉p.18

〈それゆえにファルスは異界の側、意識や自我でない向こう側、無意識の側に属する……ファルスが目を持っていて、ファルスが人喰いであることは、向こう側、無意識の側が主体となっていることを示していると考えられる……後にユングは、目が輝いている蛇の夢に対して、無意識の持つ光、意識性について言及している。そしてユングがこれを大地での一種の葬式であると述べているように、これはユングが異界の存在に食われるイニシエーションであったと考えられるのである〉p.19-20

〈〈私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか〉……ユングにとっては、ユングという「私」が主体でもあるし、石も「私」ということのできる主体なのである〉p.23

〈ユングが最晩年になって著した最後の大著『結合の神秘』において、錬金術における「一なる世界」(unus mundus)という概念が重要になる。これは全体性となった人間が世界との結合を遂げることであるけれども、一なる世界は「根源的な差異のない世界や存在の統一性」とか、「創造の第一日における潜在的な世界」とか言われている(『結合の神秘Ⅱ』GGW14/, §325, 414)。ユングの石との体験には、この一なる世界の思想が感じられるのである〉p.25

 脱創造、創造以前の潜在的世界を想起すること

〈伝統的な直接の道すじを通らずに個々人の心に入ってくる原始的な心の構成要素……人類に遍在するいわゆる元型の存在……それより大切なのは、ユングが魂のリアリティーをどのようの感じていたかということと、ユングがどのような魂の概念を生きていたかということなのである〉p.32

〈人形とか石は、自我とそれとは区別された祖霊、魂のようなものと言えよう。ここではユングはそれの現実性を完全に生きており、またそれは祖霊や魂とも呼べないほど具体的でリアルなものになっている〉p.34

《神経症の本当の原因は今日にある。なぜならば神経症は現在に存在するから。神経症は決して過去に由来していつまでもひっかかっている無価値なもの(caput mortuum)ではなくて、日々維持され、いやいわば日々新たに創造されるのである。そして今日において神経症は「治癒される」のであって、しかし昨日ではないのである。(「心理療法の現在の状況」GW10, §363)》p.41

 神経症、隣人愛

〈そうすると、「体験しそして知らなくちゃ」というユングには、神との合体や、食べる食べられる関係についても、、儀式でない形が必要であったのではなかろうか。その形を探すことこそ、それに見合った論理を見つけることこそユングの課題であったように思われる〉p.58-59

〈周知のようにカントはイデア的世界であるヌーメノンと現象界であるファイノメノンを分ける。このように世界をいわば層構造でみようとするのは意識の下に無意識を仮定する深層心理学にも認められるパラダイムである。また元型を仮定しつつ、扱うことのでき、現象になるのはそのイメージだけであるとするユングの元型に対する考え方も、カント哲学に類似していると言えようp.60-61

〈…第二人格はそれだけで存在するのではなくて、それはいわば第一人格の光が生み出す幻影なのである〉p.62

 すべてを肯定する、そこに光を見出す、あるいは理性をあてる

〈だから『自伝』のなかでユング自身が述べているように、霊媒現象とのかかわりは第二人格についての関心として理解すべきなのである〉p.69

〈しかしながら魂の生み出すファンタジーが第一の原因であるので、これが時系列的に後に来ず、時には時間関係が逆になることがある。これがいわゆる共時的できごとなのである。その意味では必ずしも共時性ということで疑似科学的に捉える必要はなくて、それは魂の生み出すファンタジー、魂の生み出す現実性の極限の形に過ぎないのである……しかし全人格というのは、後のユングの思想の発展を見ればわかるように、狭い意味での人格を超えていくということにも留意する必要があろう〉p.71

〈意味を理解するだけでは不十分で、妄想やイメージの現実性を感じることができてこそ治療がはじまるのである。また後で述べるように、元型という考え方は、まさにもうそうにいたるまでのファンタジーやイメージの現実性を捉えているのである〉p.75

〈このように意識的な思考や行動を妨げるという形で現れてきて、意識から独立している感情や観念の複合体をユングはコンプレックスと名づけたのである〉p.79

〈コンプレックスは自律性を持っていて、自我のコントロールに従わない。コンプレックスは自我の中心性を疑問に付すのである。だからこの意味では誰かがあるコンプレックスを持っているというよりも、ユングの言うように「コンプレックスが誰かを持っている、支配している」という表現の方が適切なのである。さらにユングは、自我も一つのコンプレックスであるにすぎないとして(『心理学的タイプ論』GW6, §810)、自我の特権的な地位を奪う。つまり自我は様々なコンプレックスと並んで存在していて、理論的には他のコンプレックスが自我にとって代わることが可能なのである。だからこそユングは自我を「自我コンプレックス」(Ichkomplex)としばしば呼ぶのである〉p.80

〈あれほども無意識の世界に入り込んでいきながら、意識と無意識の両方の世界に支点を持つのが重要であることを常に強調していた立場〉p.86

〈たしかにフロイトからすれば宗教は性的なことに還元されるかもしれないけれども、これは性か宗教かという問題ではなくて、何を究極の存在として仮定し、何を実体化するかという問題なのである。だから本当の心理学は、ユングがフロイトにおける性を象徴として見抜いていったように、実体化されたものを見抜いていく作業を必要としていると考えられる〉p.93

〈しかしながら実体化することなしに、いわば勘違いすることなしに心理学は可能なのであろうかという疑問もある……心理学は避けられない実体化と、それを見通していくことを繰り返していく運動なのである〉p.94

 読み方は思考を形づくり、思考は生き方を形づくる

〈連想や背後の思想を考えないということは、水平的に横滑りしてそのイメージから離れていくことを避けて、どこまでもそのイメージにとどまって深く入っていこうということなのである。そのためにはイメージをそのまま取るのではなくて、それの意味を見抜いていったりすることも必要になる。しかしながらイメージを現象学的に受け止めることは、個々のイメージ、ハイデガーの用語で言うならばJeweiligheit(その都度のもの)を大切にする姿勢につながるのである〉p.97

〈無意識は言語として構造化されているといみじくもラカンが言ったように〉p.98

〈ユングのパラダイムは、「イメージは魂である」とまで言ったように、イメージであり、象徴である〉p.99

〈「それは、私にとって個人的なこころの下に先験的に存在している集合的な心の最初のほのめかしであった」と『自伝』で述べているように、この夢をいわゆる集合的無意識の概念に関係づけた……つまり魂は個人の経験した記憶から成り立っているだけではなくて、ローマ時代から石器時代へと、経験したはずのない遠い過去にまで広がっていって、それどころか最後は「動物のたましいの活動と境を接して」いたのである〉p.101

 再会、そしてアミーバーの心

〈ユングにおける集合的無意識の考え方は、常に個人を越えた人格の存在を感じていたユングにとって極めて自然なことなのである〉p.102

〈あえて元型という言葉をユングが用いるのは、それがイメージのリアリティー、魂の現実性を表しており、またそれによってイメージに関するコミットのし方が全く異なってくるからである……元型ということでユングが表そうとしたのは、人間の主観を越えた自律的な魂の現実性なのである……つまりユングにとっては、いわゆる現実的に具体的に存在するものの存在が疑えないのと同じように、空想やイメージも真に存在するものなのである〉p.108-109

〈自分の主観的な受け止め方や患者に対する思いやりから出発するのではなくて、個人を越えた魂の現実性から出発するところに元型の理論の本当の意味があると言えよう。だから厳密に言えば集合的無意識を個人的無意識の下にある主体の深みとしてみなすことも適切でないと言えよう。ユングが集合的無意識を「自分の心的な非-自我(私)」と呼んでいるように(『転移の心理学』GW16, §470)、集合的無意識とはその意味では主体の深みではなくて他者なのである。それでこそ第二人格というユングの体験に沿ってゆくのである〉p.110

〈ユングの元型理論はこの主観主義的な見方をもう一度転覆して、主観の深みではなくてむしろ主観から独立した魂の現実性、言うならば意識に独立で意識にとっての他者である無意識に出会ったところに意義があると言えよう〉p.111

〈さらにユングは、単に自分の神話が何かを問うているのではなくて、自分がその中で生きている神話が何かを問うている〉p.113

〈犠牲として流された血は生命を生みだすのである……もしもユングが考えるように犠牲としてささげられる人は同時に犠牲を捧げる人でもあるとすると、犠牲として捧げられた血は、ユングの分け与えられている甘いぶどうの汁として、人々のところに戻ってきているのかもしれない〉p.121

〈何人かについては、この人のせいで地震が起こったに違いないという奇妙な確信を起こさせるほどであった。ユングが集合的無意識ということを言うように、深いところで悩み苦闘していればいるほど、そのような符合は生じやすいのかもしれない〉p.122

 なぜ自分の意思の通りにならないことが心地よいのか?

 再生の度に、個を超える

 再生とは、未知にまみえること(他者とは、未知なる何かである)

〈角笛を吹く狩人は動物を犠牲に捧げると同時に、自らも犠牲に捧げる者である。そして自らを犠牲に捧げることによって再生してくるのである〉p.126

〈フィレモンやその他の像は、それらの人格をユングが作りだしているのではなくて、自分自身の生命を持つのだということを実感させた……一人の女性が自分の心の中から自分と衝突するという事実にユングは大いに興味をそそられこの女性は原始的な意味での「魂」であるとみなして、アニマと名づけた〉p.127

〈ここで無意識と冥界をほとんど等置したように、ユングは無意識を神話的な死者の国とも対応すると述べている。ユングの魂が消失して死者の国を訪れ、その死者たちがユングのもとに現れた結果が『死者への七つの語らい』なのである〉p.129

〈プレロマとは充満を意味し、グノーシスの世界観では究極の聖なる世界である〉p.130

〈神が充満や、善として特性を持って規定されてしまうと、何も特性も持たず、また全ての特性でもある存在そのものに至らないのが問題なのである。逆に言うとユングはプレロマから見て、アプラクサスなどを通しつつ、キリスト教的な神を苦労して位置付けているとも言えよう〉p.131

〈意識の中心としての自我ではなくて、無意識を含むこころ全体の中心としての自己〉p.135

〈普遍論争をタイプ論的に捉えているところで、ユングは観念の実在に基づく実在論の立場をesse in intellectu(知性における存在)、観念の実在を否定し、個々の物から出発しようとする唯名論の立場をesse in re(物における存在)とする。前者にはふれることのできる現実、後者には精神が欠けているとしたあとで、観念と物は人間の魂の中で出会うとユングは言う。そして現実は物の客観的な行動によっても、観念的な定式によっても与えられるものではなくて、心理学的な過程によって、esse in anima(魂の中の存在)によってできるとされるのである。「魂は日々現実性を作り出す。私はこの活動をファンタジーという表現でしか名づけることができない」(GW6, §73)〉p.141

〈心理学はどこまでも心理学的な事実、ファンタジーを扱うのであり、それ以上に遡れないのである……われわれの持っている魂が現実を作りだすのではなくて、むしろわれわれは魂の中にいるのである。これはハイデガーが「世界=内=存在」と言ったのと同じような意味で、人間からはじまるのではなく、存在から、魂からはじまるのである〉p.142

 魂とは何か? ――遍在する、何ものかの意思

〈無意識から生じてくる出来事を個人的な人間関係に還元しない、魂をクライエントと治療者の間にある第三のものとして考えるという姿勢に個人を超えた集合的無意識の考え方が認められるのが大切なのである。そうでないと集合的無意識も客観的データから導き出されたものになってしまう〉p.146-147

〈後戻りするのではなくて、ユングは先に進もうとする。治療者の解釈による介入で止めてしまうのでなくて、無意識の過程を見守ろうとする態度を持っている。ユングにおいて印象的なのは、無意識的なものに対する信頼感である〉p.147

〈ユングはこころを閉じられた一つの全体系として捉えていて、しかもこころ全体に自己調節機能を認めている。全体としてみると、あるところでエネルギーが失われていてもどこかにエネルギーが流れていって貯えられていることになる……エネルギーがないように思われるのはエネルギーが意識から無意識の領域に引いていっただけで、それはまた再び意識に現れてくるとみなしているのである〉p.148

〈無意識の目的性とは、現実の深みに入っていくことであり、現在の深みに入っていくことなのである〉p.150

〈素朴に無意識を現実として受け止めても、それは本当の現実ではないのである〉p.153

〈自我と無意識の関係には補償(Kompensation)作用が認められるというのはユングの重要な思想である。補償というところに、お互いが相補い合っているという一つの全体性を仮定する立場が認められる。自分の生きてこなかった面の人格化である影や無意識における自律した人格であるコンプレックスは、意識的自我を補償するものなのである。そのような自立した人格の代表的なものがアニマとアニムスである〉p.155-156

〈自己には、意識と無意識の対立を止揚し統合した中間の第三のものというニュアンスと同時に、こころ全体の中心というイメージもある〉p.159

〈その意味でたとえば生け花も、花を生けている人の内的世界の表現や個性化として捉えられるのではなくて、むしろ花がそれ自体として美しくおかれるという花の個性化であり、自己実現なのである〉p.163

〈『自我と無意識の関係』は意識と無意識という対立を鮮明に捉えて、さまざまな人格を区別しているようで、それが入り混じってしまっているのが興味深い。典型的なのがペルソナで、社会に対する仮面に過ぎないように思われたペルソナがアニマと並ぶような人格にもなっている……魂はときには自我、ときにはアニマとして現れてくる。それはそのときの魂の現れ方に過ぎないのである……だから夢のイメージもそのときに意識された魂の現われなのである〉p.166-167

《別の観点からして無意識でないような意識の内容は存在しない。同時に意識的でないような無意識的な心的なものも存在しない》(GW8, §385p.168

〈ユングと東洋とのかかわりで重要なのは「自己」(Selbst)の概念であろう。意識を超えた魂全体の中心ということをユングは第二人格などの自分の体験を通してつかんでいったが、それは東洋思想を通じて確かめたとも言えるのである……西洋において「自己」というのがつかみがたいのは、一つは自我意識の強さであり、もう一つは神というものをつねにたてることであろう。自我意識があまりにはっきりしていると、こころ全体の中心というものから遠ざかってしまう〉p.171

〈そもそも体験の現実性とは意味とか解釈によって導き出されるものではなくて、体験されるときに自明に存在するからである〉p.174-175

 信じる、あるいは問う、そのかたちを神という

《われわれは毎日、われわれの父が天空を横切る手伝いをしている……もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らないであろう》p.175 アメリカインディアンの言葉

〈意識の誕生、それによる動物の世界から人間への飛躍についてはユングが興味を抱いていた境目である……アフリカのサヴァンナで地平線の彼方まで動物しか見えないところに入ったときに、ユングは同行者の見えなくなるところまで離れていって、そこでただ一人でいるのだという感じを味わった。ここには永遠の原始の静寂があり、非存在の状態にある世界があった〉p.177-178

 再生、という神

 死とは、バトンを渡すこと

〈象徴の貧困に対して、たとえば東洋の象徴を借りたりして、それを埋めるべきではないという。「それよりももっとよいのは、象徴がないという精神的な貧困をはっきりと認めることのように思われる」(「集合的無意識の元型について」GW9/I, §28)〉p.189

〈結合はまず、自我と無意識、意識と無意識の結合として登場する……これの典型的なのが、ユングの概念で言うと影の統合であり、劣等機能の統合であろう。影というのは自分の人格のなかの生きてこられなかった反面であり、劣等機能とは……自分の苦手とする心的機能のことである〉p.192

〈そこでは結合というよりはむしろ集合的無意識を自我から区別することが中心になっている。アニマを自我とは異なる自律した人格として認め、それを対象化してはじめて、それと対話したりして関係を持ったりできるのである。さらにはアニマを意識化することによってアニマはその自律性を失って無意識との関係の機能になり、それがアニマの統合であると理解されている〉p.193-194

〈心の中の対立するものが、どちらかが選択されるのではなくて、第三のものによって止揚され、結合されるというのはユングの基本的な立場である。その第三のものとして新しい象徴が生じてくるのである。もっともその第三のものは、最初から具体的にあげるのではなくて、tertium non datur(与えられていない第三のもの、あるいは第三のものは存在しない)としていつも示唆されているのは大切であろう〉p.196

〈このようなキリスト教のコスモロジーは、教義や形而上学の問題にとどまらない。まさにそのような世界観で生きているからこそ、西洋では排除されている悪や身体性を個々人がどのように心理学的に統合するかが問題になり、また教義上では存在しないはずのものが夢などを通じて現れてくることをユングは心理療法家として問題にせざるをえなかったのである〉p.199

〈グノーシス主義においては、世界は神からの流出によって創られたものであるので、確かに世界は階層的になって、霊的な世界、魂の世界、物質世界に分かれるが、物質世界も神から流出してきたものとして連続的に霊的な世界につながっていて、排除されていたり、分裂しているわけではないのである〉p.199-200

 創造においては、創造とは逆向きの力がはたらく、それがさまざまな感情、愛情、苦悩、悲しみ等を生み出し、世界に秩序をもたらした。

〈ユングにおける結合は、対立性であると同時に対立するものの結合として捉えられている(『アイオーン』GW9/IL, §216)だから自我と無意識の関係においても、集合的無意識の内容を統合するのではなくて、むしろ意識から区別することが大切になる……錬金術が分離や解体と融合の両方のプロセスから成り立っているように、結合と分化は一方的なものではなくて、互いに切り離せない動きなのである……英雄とそれを呑み込む竜や魚は、敵対している全く別のものではなくて、同一のものの二つの側面なのである〉p.205

〈だから精神と身体、善と悪、男性と女性などのコスモロジーとしての対立も、もともと別々のものではなくて、実は同じものから出ていると考えられる〉p.206

〈まず対立するものが同一とみなすからこそ、一方からすると他方は自分のあり方や見方から離れた単なる対象ではなくて、自分のあり方と密接に関係しているものとなるのである。つまり対象やイメージはつねに客観だけではなくて、それは主観でもある……また結合というのが対立であると同時に結合であるならば、最初に対立しているとみなされているものも実はすでに結合しているのであり、逆に最後に結合したとみなされるものも実は最初から結合していることになる〉p.208

〈対象について述べたことは他者にも当てはまる。つまり治療関係、ひいては人間関係も、同一のものの対立であるからこそ成立するのである。他者は他者であるけれども、すでにつながっている〉p.209

〈……『詩篇』八二・六に「あなた方は神だ、あなた方は皆、いと高き者の子だ」と言われているように、人間はすべて神の子なのであるとユングは考える。対立性と同一性についての考察からしても、神が人間から完全に隔絶されているのはありえないことなのである〉p.210

 魂とは何か? ――遍在する何ものかの意思、この世界(の秩序)を作りだしている思念

〈……ここで自我と自己を二つの別々の実体とみなす見方は通用しなくなっている。むしろ自我も自己も実体ではなくて創造のはたらきとしてみた場合には同じものなのである〉p.213

〈「暗いものをより暗いもので、知られざるものをより知られざるもので」(obscurum per obscurius, ignotum per ignotius)という錬金術のモットーがあるように、錬金術の書き方は、非常に不明瞭で、荒唐無稽な印象すら与える。類似のイメージが際限なく積み重ねられていくのである〉p.218

〈錬金術が心理学にとってのモデルとなってしまっては、ユングの本当の精神は生きてこないと思われる。むしろ錬金術自体が心理学なのである……キリスト教では神による人間の救済が問題になるのに対して、錬金術では物質に沈んで閉じこめられている精神の救済が課題になる。メルクリウスも物質に閉じ込められている精神なのである。人間ではなくて物質の救済が問題になるからこそ、錬金術師は錬金術におけるプリマ・マテリアやラピス(錬金術における石)を自分と同一視したり、自分を神と同一視したりしなくて、むしろラピスとキリストを関係づけた。ユングはこれを、自我と神を同一視するのではなくて、自己を問題にする姿勢として解釈するのである。だから、結合も自分自身のこととか、自分自身が結合に参加することとして受け取ってはいけないことになろう〉p.220

〈最初の黒化(ニグレド)は、心理療法のはじまりにおいて、治療者に症状がうつったりなどとして、いわば心的な感染状態や、治療者とクライエントとの間に無意識的同一化が生じることである……白化(albedo)は,『転移の心理学』では浄化(Reinigung)であって、死んで一体となっているヘルマフロディテに天から露が落ちてくる図で表されている。ユングは混じり合ったものを区別することとして浄化を説明している。この場合にも心理学的に一度融合したものを心理学的に区別することが大切なのである〉p.221-222

〈錬金術とは古代神話に基づいた宗教儀礼なのである〉p.223

〈ハイデガーの『存在と時間』における「死への存在」(Sein zum Tode)もそのようなニュアンスを含んでしまっているように、近代人にとっての死が、しばしば死を前にした恐怖や不安になり、あくまでもこの世の視点から離れられないのに対して、シャーマニズムのイニシエーションとは死を既に後にすることであり、死の側からこの世や身体を見ることなのである〉p.224-225

〈つまり動物を生け贄に捧げることは、生け贄を捧げる者が自ら犠牲に捧げられることでもある。だからこそシャーマンは動物霊によって解体されるのである。これはミサに関して、犠牲を捧げる者は犠牲に捧げられるものでもあることを確かめたのと同じ事態なのである。ゾシモスのヴィジョンでは、祭司が自分の歯で自分の肉をずたずたに裂くところに表れている。これはまさに、自分のしっぽをかむウロボロスと同じである。このように主体の弁証法的関係があってこそ、主体というものは成立するのである〉p.225-226

〈…光っていて目を持つファルスこそ無意識の側、魂の側から見ている主体で…〉p.226-227

《ああ、彼が私について黙想している人間だ。彼は夢をみ、私は彼の夢なのだ》p.227

〈ユングは意識が完全に無意識に融合してしまうことを死にたとえているけれども、死とは完全な結合にほかならない。死に至る完全な結合があるからこそ、魂が再生してくるような絶対的な反転が生じるのである〉p.230

〈たとえば、ユングが『転移の心理学』で扱った「賢者の薔薇園」においては、男女の性的結合が描かれているけれども、これも文字どおりにとるならば、キリスト教文化において抑圧されていた性的な面を補償しているということになるはずである。そうではなくて、ユングはこれを対立するものの結合や、心理学的な融合状態として扱っている〉p.232

〈物質として登場するということは、神話的存在、イメージがすでに抽象化されていることであり、また抽象化された次元で心理学的なことを問題にしていることなのである。それを物質を文字どおりに受け取ることは、まさに錬金術の行っている抽象化の作業を無視してしまうことになる〉p.233

〈錬金術はイメージの宝庫というよりは、むしろ概念の連鎖、シニフィアンの連鎖と言った方が近い〉p.237

〈死がイメージや物語として表象されてしまうと、死はこの世に属してしまって、一様な世界に取り込まれてしまう。むしろ死に向かって広げていこうとするのではなくて、本当に閉じこもるときに逆説的に無限の次元が開けるこの弁証法が大切であろう……イニシエーションもむしろ向こう側へは絶対に越えられないことがわかるとき、こちら側と向こう側の絶対的な差異がわかるときに、違う次元が開けてくるのである。あるいは逆説的であるが、向こう側に越えられないことが本当にわかる時に、すでに向こう側にいることになるのである。その意味で、あの世、神の世界とこの世を拡大していくのではなく、この世に本当にとどまれるときにこそ、逆説的に無限の世界が開けてくるのではなかろうか……このような認知において、われわれは自分自身を限定されたものとして、そして同時に永遠なるものとして、経験する〉p.256

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