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外の主体

 エマニュエル・レヴィナス(1987)/合田正人訳(1997).外の主体.みすず書房

〈これらすべてのことが、自分自身と対話するような魂の限界内にはとどまることなきユダヤ的省察を培っているのです。つねにそうであったように、今日でもユダヤ思想は、自己とは他なるものとの対話の最たるものなのです〉p.8

〈私が思うに、神なき世界なるものは、ドストエフスキーの言葉を使うと、すべてが許されているような世界であって、そこでは、現実的なものの意味はたんに見かけの意味でしかなく、そのような意味での「現実主義者」・で・なければならない〉p.11

〈実存すること、それはこのように、世俗的なもののなかに散逸した聖なるものを集摂することです〉p.12-13

〈神に憑依されて熱狂に陥った魂はみずからを喪失してしまう。ブーバーにとっては、高揚せる諸瞬間での神的なものとの接触は出会いであり、対話でありました。他人たちへと開かれることであると同時に自己に現前することであったのです〉p.17

〈一致はまったくなく、つねに近さが、近接があるのです。ユダヤ教は神のいかなる形での受肉にも抵抗するのと同様に、人間の一切の神格化にも抵抗するのです〉p.18

〈〈自我〉に対する対話者の現前は、私の視線によって規定されまた、述定的判断を下されるような客体の現前に還元されたりしない。こうブーバーは断言していますが、ここにブーバーの〈他者〉の哲学の基礎があるのです……対話者が主題と化し、判断の基体と化すまさにそのとき、対話者はもはや私が対話をつうじて接する者ではなく、私は彼をひとつの集合のなかの数字として、技術的に実現可能な何らかの意図に有効なものして捉えてしまうのです〉p.25

〈結局のところブーバーにとっては――そしておそらくは私たちにとっても――、本質的なのは〈われわれ〉ではなく、〈私〉-〈きみ〉だからです〉p.27

〈対象や敵として〈きみ〉を捉える代わりに、〈きみ〉に呼びかける〈私〉、そのような〈私〉が第一の事態です。そして、社会を創設するのは、国家の普遍的で匿名の法のもとでの〈自我〉の法的消失ではなく、いかなる概念によっても把握できない、〈きみ〉への呼びかけなのです〉p.28

〈〈出会い〉における〈私〉-〈きみ〉の関係の還元不可能性、出会いを規定可能で客体的なものとのどんな関係にも還元することの不可能性、西欧思想へのブーバーの貢献が依然としてこの点に存しているというのはまちがいのないところでしょう……ブーバーは大いに政治的問題やキリスト教との関係や経済的問題、教育的問題を論じましたが、これらの問題はつねに〈出会い〉の情況に帰着するのです〉p.29

〈聖なるもの(sacré)という観念がブーバーにとっては神的なものという観念を決定するものとしては現れなかったということ……ブーバーは断固とした一神教徒であって、ブーバーの言葉は、誰かが彼に話しかけるより前に話すようないかなる世界、いかなる光景、いかなる言語にも依存してはいないのです〉p.31

〈おそらくは主題化、客体化、存在論に帰着してしまうような不在と現前を超えて、世界と存在から脱出しうるということ、存在ならびに存在者を超えて、近づいたり近づかれたりしうるということ、それは、実に巨大な存在者としても、どんな隣人よりも巨大なひとりの人間的〈他人〉としても神をたてることのない、そのような探求の主題にほかならないのですが、この種の探究は、神について語るよりも先に、近さを語り、どこから声が到来するのか、いかにして痕跡が描かれるのかを記述しようとするものなのです〉p.33

〈神における〈永遠のきみ〉への祈りないし呼びかけだけが人間としてのきみとの出会いを可能にするのであって(たとえ人間的なものが客体としても扱われざるをえないとしても、です)、それゆえ、この祈りないし呼びかけが、根源的宗教における真に間-人格的な一切の関係の基礎なのです……人間的なものの精神性――その宗教性――は人間が人間のかたわらにいるということであって、人間は群衆のうちに埋没することも孤独のうちに遺棄されることもない――この点を確証することがこの発見の本義です。なによりもそれが意味しているのは、間-人間的な関係の宗教的射程であり、逆に言うなら、きみと呼びかけられる他の人間へと人間が接近することで初めて、神への連関――〈見えざるもの〉、〈与えられざるもの〉への子の連関が可能となり成就されるということです。呼びかけとしての接近、〈私〉-〈きみ〉の関係とは言い換えるなら、他者の本性や本質を知覚することとは根底的に異なる関係であって、……〉p.37-38

〈私-きみの関係は主体-客体の関係と際立った対比をなしているのですが,他でもないそれは,ブーバーにおいては,私-きみの関係がある意味では主体と客体という項に先立つものとして,《二者のあいだ》(entre-les-deux, Zwischen)として描かれているからです〉p.39

〈この伝統にとっては、〈神的なもの〉を特徴づける至上の仕方は〈神的なもの〉を存在と同一視することに他ならず、また、存在とのどんな関係も結局は経験(言い換えるなら、知識)に還元可能で、あくまでこの存在の様態にすぎません。それに対して、〈私〉-〈きみ〉の関係の独自性を確証する哲学は、社会性を社会についての経験には還元不能なものとして思考するきっかけを与えてくれます〉p.41

〈〈私〉の個別性と絶対的な〈きみ〉との間のこのような連合はいかにして可能になるのか……ブーバーの根本的な主張は「初めに〈関係〉ありき」と表明されます。〈関係〉が成就される際の具体的様相は言語であり、――言語はこうして神性の縁にまで至るのです……ブーバーは、語に内属した運動が語を言明したもののうちにはとどまりえず、語を聴取する者によってすでにして摑まれていることを強調しています。聴取する者によって語は迎え入れられ、こうして聴取する者は応答者に変貌するのです(たとえ彼が沈黙を守る、としても)〉p.42-43

〈マルセルによると、受肉が「形而上学の中心的与件」なのです。それは「身体と結びついたものとしてみずからに現れるような存在の情況」を指しています。透明ならざる情況でありましょう。受肉した〈私〉は自己意識を有したものとして単に自己に対してのみあるのではない。それは、みずからのうちに計り知れない何かを有するような仕方で実存するのです。計り知れない何か、と言いましたが、異物では決してありません! 受肉した〈私〉の自己においてあることはただちに他なるものへの曝露(exposition aux autres)であり、この意味で受肉した〈私〉それ自身が闇なのです。「中心にあるのは影である。」受肉した〈私〉のうちなる計り知れない「何か」は、思考する実体への延長-実体の添加ではなく、精神それ自体のある存在の仕方であって、それによって精神は、宇宙のいかなる主題化にも先立って、宇宙に対してあるもの、それゆえ、宇宙と連動したものと化す。これは、まさに自己とは他なるもの(autre-que-soi)に対して存在しつつ、自己において存在する(être à soi)仕方であって、この自己とは他なるものが精神を同一化するのです〉p.44

〈「私たちは全面的に私たち自身に属しているのではない。」主体は全面的に自分自身に属しているのではない――これが存在論的神秘をめぐるマルセルの考察のひとつの帰結でありましょう。私たちがそうではないところの神的存在、私たちが超越的なものとして出会う絶対的な〈きみ〉はまた、私たちを担い、私たちを愛する存在でもあるのです〉p.47-48

〈存在の神秘、それは、「神へと向かう」私たちの存在それ自体がすでに神に属しているその仕方であり、神の存在が人間の〈自我〉を支えるその仕方なのです〉p.48

〈出会いという無条件な出来事は思考と存在を凌駕するのです。それは純粋な対話、純粋な連合であって、共通ないかなる霊的現存もそれを包摂することはないのです。私は他なるものへと供せられる。が、それは先行的な近さもしくは私たちの実体的結合のためではなく、きみが絶対的に他なるものだからなのです〉p.50-51

〈存在を思考すること、それは存在の尺度に合わせて思考することであり、自己自身と一致することなのです。私はと言いうることが、存在と同等なものと化しつつ自己と同等なものと化すような認識のなかで了解され、しかもその際、何ものもこの認識の外にとどまって、それにのしかかったりはしない、そのような仕方が自由と呼ばれていたのです〉p.52

〈〈きみ〉という呼格はまさに、衒いも前提もないきみへの呼びかけの侵入でもあるのですが、それはまた、没-利害-の超脱のまったき危険、まったき恩寵、――まったき無償性でもあります。思いますに、このような倫理はすべてが忠誠であり責任であるのでしょう。ブーバーの語る〈私〉-〈きみ〉は、――世界と歴史の概念体系への何らかの依拠から引き出されるような思考のなかに否定的なものとしてあるよりもむしろ――、一切の知識に先立つ私の責任の火急性そのもののうちにあるのではないでしょうか〉p.58

〈その際、〈不可視のもの〉は単に非-感性的なものとしてではなく、本質的に認識不能で主題化不能なものとして力強く思考されるのであり、まさにそれについては何も語ることができないのです……表彰も知識も存在論も生じない。そうではなく、この意味の次元には、まずもってきみとして呼びかけられる、そのような他の人間が位置しているのです〉p.59

〈〈永遠なるきみ〉との関係が人間としてのきみとの関係の根拠なのです〉p.60

〈倫理は、他なるものの外部性を前にして、他者を前にして、私たちが好んで言うように、他者の顔を前にして始まるのです……他律性の倫理です。とはいえ、それは隷属ではなく、隣人への責任をとおして神に仕えることであり、隣人への責任において私は代替不能な者なのです……しかし、この新たな倫理は、〈私〉の可能性を理解する新たな仕方でもあり、結局は哲学の使命に応えています〉p.61

〈不可視な神としての〈きみ〉は、所与とその存在の明晰さをかき消すような社会性の意味性を有しているのではないでしょうか。倫理的関係はまさに存在の無-意味性を表しているのではないでしょか……この無-意味性を表す語を分綴しつつもう一度援用するなら、〈関係〉は没利害、内存在性からの超脱(des-inter-essement)、存在の外への根こぎ(dé-racinement)――であり、自己へと回帰することなき跳躍の直行性(droiture)なのではないでしょうか。ここでいう没利害は無関心(indifférance)ではありません。それは他なるものへの忠誠なのです〉p.62

 経験とは 死してのち蘇ることである

〈「それ(ひとつひとつの魂)は移入・共感の経験を,他人たちについての経験的意識を有している」とあるように,フッサールは移入・共感を経験と解しています……われらが哲学の歴史に忠実であったフッサールは,他者の迎接(accueil d’autrui)を他者についての経験(expérience d’autrui)に転じているのです。言い換えますと,彼は,《他者への関係》の無償性を知に還元し,この知を反省によって測る権利を自分に認めているわけです。《他者への関係》は世界についての人間的知覚の前提であるのですが,それはこのように,絶対的なものである限りでの超越論的主体には必要なものではない。この種の超越論的主体にとっては,《他者への関係》はそのすべてがこれから構成されるべきものなのです〉p.64-65

〈逆に,天使たちは地上の人間たちの優位を垣間見たのではないでしょうか。人間たちは与えることができる。ある者たちは他の者たちのために(être-les-uns-pour-les-autres),が可能である。そうすることで,人間たちは「神曲」の場面を上演することができるのですから。それも,純然たる霊たちの余儀なくされた存在了解を超えて,その彼方で,です〉p.68

〈他者は私にとって客体としては現れない、と述べること、それはただ単に、私は他の人間を私の権能に屈した事物とはみなさないと語ることではなく、私は他の人間を「何ものか」とはみなさないと語ることである〉p.71

〈それは倫理的関係という十全に有意味的な秩序であり、ここにいう倫理的関係とは、同化不能な、それゆえ厳密には内-包不能で把持や所有とは無縁な他者の他者性との関係なのである〉p.72

〈私たち自身の考察では、他者への接近はそもそも他の人間への私の呼びかけのうちにではなく、他の人間への私の責任のうちにある。それが根源的な倫理的関係なのだ。――ここにいう責任は他の人間の顔によって呼び起こされ、引き起こされ、現象性と現れることがまとう形象の断絶として描かれる。私は死へとまっすぐに曝され、他者を見捨ててはならないという命令(ないし神の言葉)が私に下される……私が他者への責務から放免されることは決してないのだ。――他の人間への責任、ただしこの責任は、その原因となるような自由行為によって条件づけられることも、それを尺度として測られることもない……他者への服従であり、根源的な奉仕である。主格ではなく「対格の一人称」である〉p.76-77

《僕たちは誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。そのうちでも僕が一ばん罪が深いのです》ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫)第二巻 p.156

〈意識の指向性は、〈他なるもの〉の超越にはみずからを閉ざした知の思考であって、知である限り、それは観念と観念されたものとの同等性を確たるものたらしめる〉p.79

〈他なるもの〉をどう感じとるか

 生きている瞬間瞬間において、つねに未知の何かと触れ合っている感覚

〈ブーバーにとっては、神は大いなる〈きみ〉もしくは永遠なる〈きみ〉であった。人間同士の諸関係は神において交叉し、また、そこへと到達する。〈神的人格〉と呼ばれるものが対話における〈きみ〉のうちに存しており、敬虔さや祈りも対話であるという点に関して、私たちはブーバーほど強い確信を有しているわけではない……神が人格的なものであるのは、神が私と私の隣人たちとの間人格的関係を惹き起こすその限りにおいてである。神は他の人間の顔を起点として意味するのだが、その意味性の構えはシニフィアンとシニフィエの連関のごときものではなく、意味される私への命令のごときものなのだ。観念への神の到来はつねに、私たちの考察では、他の人間への責任と結びついており、どんな宗教的情動もその具体性をつうじて他者への関係を意味している〉p.81

〈ターレスからヘーゲルに至るまで,哲学は人間と神と世界を全体性として総合してきたのでしたが,これらの存在は相互に還元不能なものであるがゆえに分離されてあることになります。たとえば異教における太古の経験のなかでも,これらの存在は,芸術の造形的世界,存在の隙間で生きる神話的な神,自閉せる自己性でありつつも盲目的な運命に粉砕される悲劇的な人間といった具合に,たがいに分離されたものを表していたのでした……一方,人類の生きた具体的経験では,神と人間と世界は関係づけられています〉p.95

〈神と世界――その接合はまさしく〈創造〉です。神と人間、絆はまさしく「啓示」です。人間と世界(ただし人間はすでに啓示によって照明され、世界はすでに創造の刻印を有している)――それはまさしく〈贖い〉です。こうして、〈創造〉と〈啓示〉と〈贖い〉が、カントの言葉を使うなら「範疇」や「悟性の総合」にも等しい威信をもって哲学のなかに参入するのです。神と人間、それはまずもって、人間の生のなかの神であり、神の生のなかの人間です……創造は過去の次元を開き、それを維持するのであって、過去が単に創造に宿るのではありません。これと同じ意味で、啓示を理解しなければなりません。神から人間への、人間の特異性――言い換えるなら自己性――への動きとして、啓示はただちに愛として認められることになります。愛が特異性を開くのです〉p.96

〈愛は、愛することというその特権的な今において愛を命じるのですが、その結果、愛するよう命じることは、愛を命じるそのまた愛という反復と刷新を通じて無際限に反復され、刷新されることになる……ミツヴァー〔ユダヤ教の戒律〕と呼ばれる、ユダヤ教徒に緊張を強いる命令は、道徳的な形式主義ではなく、愛の生きた現存、昨今よく言われるような現在の「時間化」そのものであり、現在と現存についての根源的経験なのです〉p.97

〈〈啓示〉は愛であり、人間の応答を待望しています。とはいえ人間の応答は、神に発する動きが開拓した道を遡上するものではない。そうではなく、神が人間に捧げる愛への応答は、みずからの隣人に対する人間の愛なのです。自らの隣人を愛すること、それは〈永遠〉へと向かい、世界を救拯し、神の王国を準備することです。人間の愛が〈贖い〉の働きそのものであり、その効力なのです……死の瞬間そのもののなかに、死に対する勝利が存しているのです〉p.98

〈このように〈永遠〉は、個体を吸収するような論理的理念性とはみなされていない。それは愛が世界に浸透していくことであり、また、どんな被造物もが「われわれ」という語に参画しうることなのですが、ただし、こうした共同性のなかで被造物が無化されてしまうことはありません。〈贖い〉とは、「〈自我〉が彼にきみと語りかける術を学ぶこと」なのです〉p.98-99

〈諸瞬間の散らばりを支配する永遠の観念と、神の王国に向けられた宗教的共同体の観念との接近がローゼンツヴァイクの思考のなかで図られ、より顕著なものと化していく〉p.99

〈ユダヤ教が「終末から始める」のに対して、キリスト教は逆に、世界の暦法を真面目に受け止めます。キリスト教はつねに端緒にあるのです。キリスト教の永遠は自閉したものではなく、時間と広がりを同じくしています……キリスト教の永遠は永遠の〈道〉であり、〈歩み〉であり、〈使命〉であるのです。〈受肉〉から〈臨在〉へと向かう、止まることのできない不可避な拡張として、キリスト教は世界を横断して、異教徒社会をキリスト教社会に変じ、数々の制度と人格を魅了すると共に数々の文化と国家を創設したのでした〉p.103

〈ユダヤ教は神のもとにある限り、生きたものであり真実のものであるが、キリスト教は、世界のなかを歩き、世界に浸透していく限りで、生きたものであり真実のものなのです〉p.105

 清宮の画きたかった〈オバケ〉

 高山の触れていた〈アミーバーの心〉

 モネの〈睡蓮〉

 そこにある他者、表れ(顔)としての

〈ところで、所有格が人間の真理に属しており、真理がつねに私の真理であるのは、真理が私を巻き込むからであり、私が私の召命からは逃れられないからです。真理は人間のためにあり、それは人格的です……真理は私の真理である、と言うことはつまり、真理は観照に還元されるものではなく、生が真理に課する試練に生による真理の立証に帰着するという意味でありましょう……このような真理論を、ローゼンツヴァイクはメシア的「認識論」と呼んだのでした〉p.106

〈たとえば、忌避不能な責任という主題……それゆえ、万人のために生き、そうすることで、盲目的な諸力の宣告に抵抗するような人格の責任であります〉p.109

〈アブラハムの家から追放された、ハガルとイシュマイル砂漠をさまよいました。用意していた水も尽きてしまいました。神はハガルの目を開き、彼に井戸を示しましたが、すると天使たちはこう抗議しました。「ああ、永遠なる主よ、あなたは、やがて敵と化すであろう子供たち――イスラエルの兄弟――の先祖となる者たちの渇きを癒そうとなさるのですか!」明日のことなどどうでもよい、と永遠なる主は申されました。私は各人を、そのものが生きているまさにその時に裁く。今日、イシュマイルに罪はない、と〉p.110

〈具体的なものへ(Vers le concret)、それは何よりも、体系という防御壁の外という意味です……具体的なものへ、それは静的な「事象との一致」をはみ出し、存在の一切の措定の彼方にあるような「形而上学的経験」へのこのような回帰なのです〉p.119-120

《ヘーゲル弁証法は、ここと今の空虚と無を示そうと努めているが、キルケゴールにとっては今とここは本質的なものだった。こことそこにしか実存はない。偶然的なものはその性格を維持しつつも、逆の性格をまとって永遠なものと化すのでなければならない。歴史的なものは永遠なもののきっかけではなく永遠なものそれ自体でなければならないのだ》p.121 (ヴァール『キルケゴール研究』(Études kierkegaardiennes

 書いているのは誰か 語っているのは 「再会」と感じさせるのは

《現前も不在もない。あるのは現前-不在であり、距離と非-距離である》p.123(ヴァール『詩・思考・知覚』)

〈自分自身との不等な同一性の緊張であり、痙攣のごときものがあるのです。ヴァールが好んで引用していた詩人トマス・トラハーン〔Thomas Traherne 1636-1674 イギリス〕の表現を用いるなら、〈まったく小さな事象のなかで絶対的なものが感じ取られる〉のです(『形而上学概論』)。自己との不均衡、それこそが具体的には主体性を表しているのです。欲望と問いかけと弁証法を表しているのです〉p.123-124

《弁証法とは不幸としての意識である。それは、たえず蘇生する隔たり――意識を諸事象ならびにそれ自身から分離する隔たり――によって引き裂かれた意識なのだが、ヘーゲルが看取していたように、われわれの宿命はおそらくこの不幸を幸福たらしめることにある。精神の数々の動きを、われわれが、事象の多様性における無限なものの表現として知覚するとき、不幸は幸福と化すのである》p.124 (ヴァール『形而上学概論』)

 他者とは、つねにここにあり、私を真理へと促すもの

 臨在、絶えざる、それに気づくとき、「降りてくる」と感じるのだろうか

 絶えざる超越への希求として

 それは、「真空」なのかもしれない

〈「われわれの宿命」、なのでしょうか。いずれにしても、ここには逆転があります。実際、「形而上学的問いは(…)世界と同様、われわれ自身をも危険にさらす」(『形而上学的経験』)のです。冒険は人間的なものをはみ出し、それゆえ、超越の生の鼓動が打たれるところで、人間的なものを描き出します。人間的なものとは――それ自体で――乗り越えという根源的な挙措ではないでしょうか……超越は、それが呼び求める数々の機関や機能には還元されたりはしません。超越は現出には還元されないのです。そこから、次のような不可思議な表現が生じることになります。「意識されているところのものは、意識されていないところのものである。思考しているのは、思考せざるものである。思考しているのが思考せざるものであり、意識されているのが意識されざるものであることの象徴としての身体(corps)。」(『詩・思考・知覚』したがって、意識と思考は、それらによっては汲み尽くすことも包括することもできないもののなかで、逆に意識と思考を引き起こしてそこでみずからを成就しようとするもののなかで生じることになります〉p.124-125

〈彼方と手前〔此岸〕との――いと高きものといと低きものとの――交換可能性は永続的な緊張であって、ヴァールはいつもそれに屈していたのですが、そうした緊張が彼の思想の最深部に属していたのです。重要なもの、それは超越なのです。形而上学的経験においては、認識することを超えて、人間の冒険が神曲を演じます。「ほとんどの偉大な形而上学者たちの宗教的経験を考慮することなしには、形而上学史をものすることは不可能であろう。」(『形而上学的経験』)ただし神、それは先に述べたような彼方ないし手前――このずれ、この連続性の断裂について語られるものです〉p.125

《人間が現前を感じるとき、感じているのは人間ではなく、神が人間を感じているのであり、人間は自分が感じられるものであることを感じるのである》p.125

〈ヴァールの形而上学的経験、それはここに先立つ彼方である。ここに先立ってであると共に、いまひとつのこことして定置されてしまうようなあそこよりも遥かなもの〉p.126

《超越,それは乗り越える行為であると同時に,この乗り越えが向かうところの対象でもある》(『形而上学的経験』)

〈「人間はつねに自分自身を超えたものである」――これは、人間の自同性が喪失されてしまうような恍惚を示した言葉ではありません。「深甚な仕方で擾乱し、高揚させる経験」、ヴァールはその最後の著書の最後の行にこう書いています〉p.127

《われわれを捉えて引き離さないのは詩句の意味ではなく、意味がわれわれのうちで示唆する他のもの、内的な随伴物である》p.130 (『詩・思考・知覚』)

〈形而上学的緊張とは絶頂に達した理性であり、意識の喪失にまで、「超-真理」――それはまた真理以下のものでもある――たる語りえないものにまで高められた意識ではありますが、決して非合理なものではないのです!〉p.131

〈この輝き――この〈同〉のなかの〈他〉――この超越――〈他〉による〈同〉のこの覚醒――輝きによってさらに際立つこの点描――それこそが、えも言われぬもの(ineffable)ではないでしょうか〉p.138

〈他者への関係の倫理的意味は責任と化して、顔を前にしながら私に要求を突きつける見えざるものに応えている。どこからともなく、何時なのかも、なぜなのかも知られないまま私に到来して私を問い質す、そのような要求に応えているのである。責任を負うべき相手たる他者は「私の同類であり私の兄弟」ではあるが、ただし同類、兄弟はまた他なるものでもあって、それゆえ私は、兄弟の守護者たることへのカイン的な拒否を己がうちに聞き取るほどなのだ〉p.152

〈ここにいう意味とは,何らかのシニフィアンからそのシニフィエに向かう準拠の論理的構造の形式性によっては単に定義されることなき意味であり,より正確に言うなら,人間の友愛・兄弟関係の《一方は他方のために》(l’un-pour-l’autre)のまったき具体性において,先の準拠をその源泉に立ち戻らせる,そのような意味なのである……問題なのは,存在論には帰着することなく,存在についての経験には基礎づけられることなき近さ,社会性の意味論なのであって,そこでは意味性は形式的には定義されることなく,他の人間への倫理的関係によって,他の人間への責任と化したこの関係によって定義されるのである〉p.153-154

〈降りてくるもの〉は、〈私〉を真理の方へと誘っているのだろうか

 ――真理へと誘うのでなければ、降りてこないだろう

 それは〈他者〉であるか?

 ――〈私〉に理解しえない、〈私〉を誘うものは〈他者〉である

 しかし、触れようとして触れられるものだろうか? 画こうと、捉えられるものだろうか?

 ――在った、痕跡としての徴

〈他者はそこで「間接的に呈示」される。数々の徴や身振りや表情の変化や言語や作品によって告知されたものとして、つねに現れるのだ……それに対して顔の秘密は、知識以上に野心的で知識としての思考とは別用に描かれるような別の思考の裏面ではなかろうか。事実、顔は静謐なる知覚に差し出された形象ではない。まずもって、顔は私を指名し、私に要請し、私を責任へと呼び覚ます。それも、いかなる経験においても私が契約したことのない責任へと、である〉p.154-155

〈他者の異邦性、ただし、まさに異邦のものたるがゆえに他者は私を問い質す。それも、どこからともなく、あるいはまた、異邦人を愛する未知の神から私に到来するような要請を私につきつけることで〉p.155

 この世界の痕跡性について

〈問題は神という語の意味、その最初の原名の回避不能な情勢(circonstances)である。最初の祈禱、最初の典礼の回避不能な情勢である。超越は、他者に対する責任のこのような倫理的情勢と不可分なのだが、そこでは等しからざるものについての思考が思考されるのであって、それはノエシスとノエマのゆるぎない相関関係でももはやなく、また、〈同一者〉の思考でももはやない。そうではなく、絶えざる責任として、かかる思考は自我としてのその唯一性を顔の公現から引き出すのだが、そこでは、諸々の存在論の要求とは別の要求が意味を獲得しつつあるのである〉p.156

〈これらの領野が還元不能なのは、認識された世界の相対性のうちに――言い換えるなら、現象学的還元に原則的には従う秩序のうちに――挿入されながらも、これらの領野が、われ思うならびにその絶対性からなるノエシスの文脈に、その素材に、まさにその肉(chair)に属しているからである〉p.158-159

〈思考の根源的な受肉、それは客観化・客体化の用語で表現しうるものではない。『ィデーン』第一巻でのフッサールは依然としてそれを、統覚という用語で示唆していたのだったが、そうした受肉は、観照的あるいは実践的などんな態度決定にも先立っている〉p.160

〈自己の身体、生。生はここにある。言い換えるなら、空間の一点にあるのだが、この場所のなかに、感覚することの出発点が、「観点」がある〉p.160-161

〈感受性は、触れることならびに見ることの「認識」とは別の仕方で、他者に接近しうるという考えは、現象学者たちの分析とは無縁であるように見える。心性は意識であり、「意識」(conscience)という語のなかでは、知識(science)という語幹が本質的で第一義的なものでありつづける。このような社会性は、知識が意識を断つことがないのと同様に、意識の秩序を断つことがないのであり、知識は、知られたものと一体化しつつ、自分にとって異質でありえたものともただちに一致してしまうのである〉p.166

〈他者は顔において、倫理的責任を惹起しつつ、抹消不能な他者性に即して接近されるのだが、他なるもの、それも絶対的に他なるものに近づきうるという人間の可能性としての社会性は、顔にもとづいて意味され――言い換えるなら、命じられる……社会性は、人間的なもののなかで、人間的なものによって人間的なものに固有な善性を証示するようなまったく新たな様態なのである。社会性の卓越、それはおそらく愛の卓越であろうが、そのような卓越のなかで統治しているのは、たんに存在とその統一性の法則だけではない。社会的なものの精神性はまさに「存在するとは別の仕方で」(autrement qu’être)を意味しているのである〉p.167

〈人間的なもの同士は互いに異邦の存在ではあるが,社会を形成することができ,社会では絆はもはや,諸部分の一個の全体への統合ではない。たぶん,この絆は人間に対して人間が《無-関心-ならざること》のうちに宿っているのだろう。愛とも呼ばれる絆であるが,それが異邦性の差異を吸収することはない。このような絆は,人間の顔を介して,世界の外なるいと高き所から到来する言葉ないし命令を起点とすることでのみ可能なのである〉p.168

 他者を感受する そこに社会性が開けている

〈「超越的〈自然〉、自然主義にいう即自と、精神やその活動やノエマの内在性とのあいだに、何かが介在しているのは疑いない」(『シーニュ』)。この何かについての存在論は感受性のうちに書き込まれており、感受性という還元不能なものにあっては、思考と延長との関係は世界への居住(habitation, incolere)――、文化(culture)を創始するこの住むという出来事であることになります。感受性においては、自我と世界という他なるものとの関係は、構成的能作によって世界を同化することではなく、外面的なもののなかでの内面的なものの表出(expression)、文化としての生でありましょう〉p.180

〈握手は差異(différence)のなかに――隣人の近さ(proximité du prochain)のなかにあるのではないでしょうか……この差異は――平和・平安の新たな意味性であって、それは指向性や主題化としての心性によっても、情報の伝達によっても担われることなく、《他者‐に対する‐責任》という《無差異・無関心ならざること》(non-indifférence)によって担われているのです……感情とは他人に自分を合わせること(s’accorder)であり、言い換えるなら、他人に自分を与えることではないでしょうか。もちろん、すべての感情が愛であるわけではありません。けれども、そんな感情も愛を想定しているか、さもなければ愛を逆転したものなのです〉p.183

〈私の思考の外にあるような思考の存在と係わり、「話しかける相手」がそこにいるという事実を開示する危篤の認識や、さらには直接的で即座の認識をも超えて――あるいはその手前で――、感情移入はそれ自体ですでに――しかも十全な仕方で――ひとつの社会的関係なのではないか……フッサールは、「私は自分を移入する」(Ich fühle mich ein)という再帰動詞の人称的形式のもとにこの感情移入を表現したのでしたが、感情移入はすでにして共感のごとき響きを、友情のごとき響きを、一種の兄弟愛的な憐憫のごとき響きを有しているのではないでしょうか。言い換えるなら、他の人間の「被ること」(subir)を自分の責任で引き受けることとしての響きを有しているのではないでしょうか〉p.185

〈「自己を他者に借りること」は感性的構成の秩序に属しているのではありません。それは他人に「先手」を認めることなのです! 自己を借りること――、当初から両義的なものたるあの接触のなかに潜んだ(s’insinuant)社会性を表す比喩に他なりません〉p.186

〈《無-関心-ならざること》、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異――《無-関心-ならざること》――、そこでは、他なるもの――それも絶対的に他なるもの――、こう言ってよければ、〈同じ類〉――自我はそこからすでに解き放たれた――に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものが私を見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものを私は「見つめる」、それは顔なのである〉p.204

〈その結果、個的なもの――アリストテレス以来知られているように、「それだけが実在する」のだが――の本性と匿名性に、心的実在の展開に、思考可能なものすべての母体と化した主体的なものに、諸観念と諸概念の普遍性ならびに理念性を、そしてまた、「われ思う」――かつては思考スルモノと延長セルモノ双方を先見的に支配しているように思われていた――の統一性を還元しようとする誘惑が生じることになる〉p.242-243

〈意識は自分とは異なる何か、その指向的相関者、その思考されたものについての意識である〉p.243

〈絶対的かつ純粋で、ノエシス-ノエマ的生がそこに遡ると共にそこから発するところの〈自我〉。そのような〈自我〉が〈超越論的還元〉のこのうえもない方法論的試練を支え、そしておそらくはそれに耐えているのであろう〉p.247-248

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