« 外の主体 | トップページ | ユング 魂の現実性 »

神秘哲学

井筒俊彦.神秘哲学――ギリシアの部.岩波文庫

〈抑もこの蛮神のかくも大なる魅力の秘密は何であったのか。秘密は「永遠の生命」に存したのである〉p.26

〈此等の人にとっては所謂「聖物」は感性的世界から超感性的世界に開かれた窓であり、相対的なる現象界から絶対的なる実在界へ通ずる一の通路を意味する〉p.31

〈霊魂は超越的実在に直接触れることによって最早何物を以ても永久に消すことのできぬ刻印を受けるのである〉p.32

〈然るにクセノファネスは遥かに直接に、遥かに深く、あらゆる存在者の対立の彼岸に絶対超越として、生ける霊的実在としての「一者」を洞見していた。彼の思想の主体をなすものは超越的・超感性的現実そのものであり、この思想の根底に伏在してこれに独脱無衣の風格を賦与し、深玄なる内的生命に横溢氾濫せしむるものは自然神秘主義の本質をなすところの全一体験であった〉p.38

〈人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味においても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である……この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という……神秘主義に限らず、一般に精神的生命の溌溂たる活動あるところ、常に小なるものの死は大なるものの生を意味する。かくてここでも感性的生命原理としての相対的自我の死滅は、ただちに超感性的生命原理としての絶対我の霊性開顕の機縁となるのである。人間の相対意識が自他内外一切の差別を離却して厘毛も剰すところなく絶滅し尽くされた人間無化の極処において、その澄浄絶塵の霊的虚空に皓蕩として絶対意識が現われる。否、この湛寂たる虚空そのものがすなわち絶対意識なのである。この霊的虚空に充満する息づまるばかりの生命緊張の自覚がエントゥシアスモスと呼ばれるところのものに外ならぬ〉p.42-43

《何処まで行ったとて、如何なる途を辿ったとて、霊魂の限界は見出せないだろう。それほどまでに深いのだ》p.48 (ヘラクレイトスFr.45

〈「一切より一者は来り、一者より一切は来る」(Fr.10ek panton hen kai eks henos panta)と説き「一者は一切である」(Fr.50hen panta einai)と説く彼は、一者即一切者の渾然たる「全体」を高唱する点においてはクセノファネスといささかも異なるところはなかったが、その超越的全一を自己の上に現証する体験の方向が著しく異彩を放っていた〉p.49

〈この密儀宗教の円成がすなわち哲学の始まりなのである。絶対超越的体験の飛躍によって感性的世界の絆累を一挙に裁断し、日常的人間意識が自らを尽滅して超意識的意識の主体となり、かくて其処に現成する窮玄離絶の霊的虚空において時空変転を超脱せる真実在を親しく徹見することなくしては、存在論としての哲学は窮極の実的保証を有り得ない。換言すれば、形而上学は、「形而上的なるもの」の直接把握を俟って甫めて真の出発点に立つのである〉p.56

〈自ら偉大なる哲学者であったパスカルをして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者と学者等の神ではなく」と歓喜の涙滂沱たるうちに叫ばしめた生ける神、哲学以前の神こそ、実は帰って哲学そのもの、生ける源泉であり、形而上学の現実的保証なのであった。形而上学はは形而上的体験の後に来るべきものである。「存在」密儀の堂奥に参じepopteia(霊性開顕)の秘儀開顕を許さるる以前に「存在」を語ることは聖に対する冒涜である〉p.57

〈されば彼の存在論は時空を超脱せる真実在の論究であり、彼の形而上学は純粋に「形而上的なるもの」の検察である。畢竟するに形而上学は神学なのである。パルメニデスの「存在」は後の神学に所謂「在りて在るもの」に契合する〉p.59

〈パルメニデスが存在と呼ぶところのものは、感性的立場に立つ常識的人間の観点よりすれば、存在ではなくて却って非存在であり、否寧ろ「絶対無」と呼ばるることこそふさわしき超越者なのである。「思惟と存在の一致」とは個人的人間に就いて、思惟することが存在することと等しい、或は認識の対象がすなわち存在者であるという主張なのではなく、却ってかかる個物的他者界を無限に越過せる形而上的空無の境において絶対空竟の存在者は了々たる覚体として自己自らを顕示するという超越的事態の確認に外ならない〉p.60

 他なるもの=絶対他者=絶対無=存在

 他なるものを生きる

〈思惟の対象は思惟活動そのものと同一である、と考えられねばならぬ……然して此等三者が完全に一致することは、要するにそれが「真理」であるということを意味する。パルメニデスの「思惟と存在の一致」はかくて、真理それ自体――相対的世界に肯定さるる相対的真理にあらずして、逆にすべての相対的真理を絶対的に上から保証するところの生ける真理の定立となるのである〉p.61

〈デカルトのCogito ergo sumはその本源的本来的領域においてのみ、真に全き充実性を以て主張さるべきものであった……「我れ在り」Sumと語り得るはただ独り神のみ、とエックハルトが断じているが、かく絶対窮極の密度における存在性を自らに認めるものにして甫めて同時にまた絶対窮極の意味において「我れ考う」Cogitoと言い得るのである……Cogito ergo sumは人間の意識にはあらずして、神の意識である〉p.61-62

〈絶対者の現成は、絶対者の自己意識としてのみ可能である。自然神秘主義の主体は人間の実存にあらずして、神の実存である。絶対者の超意識的意識が照々と自己自らを映すことがすなわち一者の顕現なのである……強いて言うならば体験の主体は神であって人間ではない。人間は何かを体験するのでなくして、絶対的に無に帰するのである。人間の相対的意識が完全に棄揚され、内外ともに点埃をもとどめぬ空無に没入し去る時、ここに縹渺として絶対意識が露現する〉p.63

〈言い換えれば、日常的認識の主体は抽象性という被膜を通してでなければ、普遍的存在者を把握することができない。対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである抽象性とは人間霊魂の眼の曇りである〉p.68

〈存在的見地よりすれば、対象が普遍的になればなるほど、それは抽象的になるのではなくして反対に、より具体的になるのである〉p.69

〈存在的には有であり、有の究極であるものが、認識的には無であり、無の極限なのである。しかるに、存在的秩序に従って有の究極なるものこそ、ソクラテス以前期の哲人たちが「一者」と呼び、或は「神」と呼んだもの、また今やプラトンが「善のイデア」と呼ばんとするところの絶対的存在者であるに外ならぬ〉p.70

〈プラトン的イデアリズムは儼乎たる体験の事実であって、決して単に一の思想的立場ではなかった。されば、彼自ら高唱力説するごとく、それは全人間的方向転換を必要とするのである〉p.71

〈神秘主義は一たびテオーリアの絶頂を窮めた後、自ら進んでこの美的観想の静謐を断乎として踏み破る逞しき実践の意慾に結実しなければならぬ〉p.76

〈この叡知界の最高窮極の地位を占めるものがすなわち「善のイデア」(he tou agathou idea)であるが、霊魂が叡知界に踏込んでも、その幽邃の秘境を窮めて善のイデアに逢着することは極めて困難である。しかしながら若し一たびこれを観ずるに至れば、人は善のイデアこそ一切の正しきもの及び美しきものの原因であって(panton haute orthon te kai kalon aitia)、感性界においては光と光の主を生み、叡知界においては自らこの世界の王として真理と知性との源泉であること(en te horato-i phos kai ton toutou kyrion tekousa, en te noeto-i aute kyria aletheian kai noun paraskhomene)を悟得し、且つ私的であれ公的であれ苟も思慮をもって行動せんと欲する者は全て一度これを観照した経験のある人でなければならぬ所以が明瞭に理解される筈である、と〉p.84-85

〈人間は通常その霊魂の能力を感性的世界に向け不断無休に転変して常なき生成の事物のみを把握しつつ其処に安住自足しているのみであるが、プラトンによれば人間霊魂にはかかる生成変滅の存在物とは全く異なった超越的存在者を把住証得すべき超越的能力と、そのための特殊な器官とがそなわっているのである(organon ti psyche... mono-i... auto-i aletheia horatai527 D-E)。「霊魂の眼」(to tes psykhes omma533 D)とも呼ぶべきこの特殊なる器官を誤れる方向から正しき方向に振りむかせ、かくしてそれに本来の対象を与えることこそ、後述するプラトン的弁証法の主たる目的である〉p.85-86

〈分たれざるもの〉が、霊魂の眼のうちに有る

 永遠へと向かうもの

〈これによって甫めて人は実在の影像ではなく、真実在そのものに直触する……プラトン的知性は、その極限において、いわば神の意識に通じるところの絶対超越的認識能力であり、近世思想の用語例に従えば、理性あるいは知性というより寧ろ宗教的感覚というに近き或るものなのである〉p.87

 高山辰雄の触れていたもの

 彼に画かせていたもの

〈なおプラトンによって「霊魂の眼」と名付けられた霊魂の純粋知性的尖端は、プロティノスの所謂「霊魂の中心点とでもいうべきもの」(to tes psykhes hoion kentron)アウグスティヌスの「我が霊魂の眼」(oculus animae meae)を経て基督教思想界に入り、特に聖ヴィクトール修道院のリカルド以来盛んに論じられて西洋神秘主義の重要なる術語を生んだ。「霊魂の秘奥」「霊魂の頂点」「霊魂の鋒鋩」「至聖処」を意味するラテン語adytum mentis, intimus mentis sinus, acies mentis, sancta sanctorumや、また世に有名なドイツ神秘派の「霊魂の秘花」Funke der Seele, Fünklein「霊魂の根柢」(Seelen-Grund「霊魂の内城」Burg der Seele等々の無数の術語は、いずれもプラトン的「霊魂の眼」の発展と考えることができる。なおこの器官についてエックハルトが「霊魂の中には絶対に創造されざる或るものが存する」(aliquid est in animaquod est increatum et increabile)と主張して教会側による異端宣言の一因をなしたことは周知の通りである〉p.87-88

〈霊魂の眼、すなわち純粋理性(l’œil de l’âme, c’est-à-dire la pure raison)〉p.88

〈人が善のイデアを観照するということは、それを何か自分から離れた対象として眺望することではなく、この絶対超越的実在に融即し、或る意味でこれに成ることによって窮極の真実在そのものの永遠性に参与しうるという存在的事態を意味するのである〉p.90

〈ミスティークの本質は神人の「同一性」ではなく、神と人とのパラドクスであり、パラドクス的緊張の極化である。この緊張の極化が外から観るものには恰も同一化の如く見えるのである〉p.91

〈しかしながら、それにも拘らず彼は俗界への下降を強制されねばならない。イデア観照が彼にとって如何ほど幸福であろうとも、彼はこの超越的世界に何時までも静止滞存することは許されない。存在究竟の秘奥を窮めた後、再び俗界に還り来って同胞のために奉仕すべき神聖なる義務が彼には負わされている。喧騒の巷を遁れ、寂漠たる孤独の高峯上にひとり超然として「一者」の観照にふけることによってではなく、敢て、隠逸の山を下り、身を俗事に挺して世人のために尽瘁することによってのみ、プラトン的哲人の人格は完成するのである〉p.93-94

〈弁証家が彼岸に飛躍的一歩を劃してより、絶対超越的究竟者「善のイデア」に逢着するまでの道程がすなわち嚮の直線比喩における最高部分に当る弁証法的領域であり、この部分が後世、哲学的神秘主義として発展するのである〉p.108-109

〈かくてプラトンが国家篇第六章において叙述せる弁証法は、真実在に逢着せんと志して今なお修道の途次にある未踏の人々に、踏むべき道を明示するものではなく、一たび斯道の蘊奥を極め善のイデアに直参せる達人が翻って己が踏破せる道程を反省し、この超越的存在領域の論理的構造を分析考究せるものとして、寧ろ著しく形而上学的性格を帯びるに至ったのである〉p.112

〈人間の有する最高の精神作用というべき上位知性(ヌース)は絶対に感性的事物に依倚することなく、純粋イデアをその純粋性において把握する。悟性が飽くまで感性的形象を通してイデアを観るに反し、知性はイデアを通してイデアを観る〉p.113

〈国家篇の根本主題は人間の教育(パイデイア)であり、嚮にも論述せる如くそれは畢竟するに神秘主義的人間の形成ということに外ならないのであった〉p.115

《この(超越的領域に関する)問題については、私自身は未だ嘗て著述したことはなく、また将来とても決して著述することはないであろう。何故ならばこの領域は諸他の学問とは違って、絶対に言語によって詮表し得ざる性質のものだからである。人が永き年月に亙ってこのものに親昵せる後、それは突如として(eksaiphnes)、恰も飛び散る火花から突然に燃え上がる火のごとく、魂の中に生誕し、生長していくのである》p.116 第七書簡

〈プラトンのいわゆる純粋知性(ヌース)とは、人が通常その名のもとに理解するごとき思弁的理性にあらずして、霊魂の秘奥に点火さるる神的光明であり、それは要するに神秘主義的感覚であるに外ならぬ〉p.116

〈善のイデアは実在界の太陽である。この至高の極地に登り来る道すがら、純粋知性が次々に諸実在を観照し得たのは、知性自身は全然それと気付かなかったが、実は悉く全のイデアそのものの照明によるのであった〉p.125

 善のイデア=存在の光

 それに照らされたこと、真実在に導かれたことに、人は気づかないのでは。

 夕焼けの向こうが見えないのと同様。

 しかし照らされたことは、記憶のどこかにあり、ふとその何かを感じるのかもしれない。

 はじめて出会うものになつかしさを感じるときのように。

〈観照的生の実践において自ら親しく宇宙的実存の主体となり、脱自的に個人意識の外なる客観的世界に踏み出てみた経験がなければ、人はただデカルトを捩って「我思惟す、故に我在り(と我は思惟す)」を繰り返すか、或はカントに従って先験的主観主義の呪詛に身を委すほかはないであろう〉p.203

〈すなわちアリストテレスにおいては神秘主義は飽くまで底流であって水面からはこれを見ることはできない。ただしかし水辺から終始力強き底流をなして急湍の奥に隠れひそんでいたこの体験的基体は河の最後に至って俄然滾々と表面に湧き上り恐るべき姿を外にあらわして来る〉p.204

〈蓋し神秘主義的体験とは、全宇宙から切り離された極めて特殊なる事態の体得なのではなく、宇宙的過程それ自体の窮極的顕現に外ならないのである〉p.206

〈生成的存在の世界は、超越的イデアの照映として仄かに叡知性の影響を受けるのではなく、それ自体が本源的に叡知的なのである〉p.208

〈「本質」はイデアを否定し竄貶するものではなくして、具体的事物に内在する限りでのイデアであり、従って依然としてイデアであることには違いはないのである〉p.209

〈プラトンにとっては、存在とは一言にしていえば普遍者であり一般者であった。プラトンが「真実在」(ontos on)という時、彼の念頭にあるものは感性界の個別的存在者ではなくして、それら全ての儚き事物を喩えた、超個別的なる永遠の普遍者であり、それがすなわちイデアなのであった……然るにこれに反して、アリストテレスにとっては、「実在」とは普遍者でなくしてあくまで具体的現実的なる個別者である。概念的一般者に対応するところの普遍的な人間性が実在するのではなく、現実に生きて動いている個人ソクラテスが、カリアスが実在するのである……個別者が真実在であるのは、個別者である限りにおいてではなくして、其等が夫々自己の実在性の根源を内に宿している限りにおいてである〉p.212

 哲学(考える)とは、言葉が降りてくるための場所を拓くこと

〈かくしてアリストテレスの「本質」は存在面においては個別的実有であり、論理面においては種概念なるが故に、それはまさしく内在的イデアと呼ばれるにふさわしきものと思われる。何とならば「実在する一般者」というプラトン的イデアの条件を、それはのこりなく充たすことができるから〉p.217

〈自己を動かす者は、その活動を自己以外のいかなる物からも受けるのでないから不滅でなければならぬ。かかる不滅なる自発的運動者が霊魂である。従って自然界に起るあらゆる種類の運動は、すべて霊魂の運動を原因として有するのである〉p.229

〈神は至高の自己運動者であるという考えにアリストテレスは断固として反対する。厳密な意味においては自己運動者なるものは世に存在しない。「凡そ動かされる者は何かによって動かされる」〉p.230

 何か、他者、生命そのもの。私に働きかけ、私と共にあるもの

〈すなわち動物においては霊魂は不可動の動者であり、身体は動かされる部分である……不可動の動者は全宇宙の動の究竟的源泉となる。しかして動の源泉とは生命の源泉ということにほかならない……彼の不可動の動者は畢竟するにイオニア的「一者即一切者」を新しき形態の下に思想化したものであった。「アリストテレスは宇宙それ自体を神であると説く」とキケロが言うとき(Cicero, De nat. deor, I, 13-Aristoteles... mundum ipsum dicit esse; cf. De caelo , 3, 286 a)かれはまさしくこの事実を指摘しているのである〉p.231-232

〈運動を実在性に即して考えれば、それは上述の四種の運動のうち特にすぐれて実在的な(kat’ ousian)運動である「生成」を指すほかはないであろう〉p.233

 何ものでもない私はすべてである

 人は「他者」に生かされている

「他者」への責任において行為する

〈嘗てクセノファネスによって「全体が視、全体が聴き、全体が思惟する」と謳われたかの宇宙的意識の煌了たる光りの中にあって神の自己意識と人の自己意識とが、判然たる二つの意識でありながら而も同時に、恰も中心を同じゅうする大小の二円のごとくぴったりと重なり合って、縹緲たる渾一の姿を現ずる、その霊妙な中心点に能動的知性の境位がある。小なる光円が無限大なる光円に包摂され、此等両円が相重なり相照応して全宇宙の辺際まで耿々たる燦光に煌きいでる時、果してそれは神か人か、何人もこれを論理的に裁断することはできないであろう。アリストテレスの説く観照(theoria)とは、およそかくの如きものである。彼が霊魂を肉体の形相として両者の密接不可分なる関係を強調ししかも霊魂を本質的に単一なる実有として語りながら、なお他面において能動的知性の超越性、離在性を説くの矛盾をあえてせる所以は、彼が自らかかる観照体験の持主であったことに存するのでなければならない。それは謂わば脱自体験の絶対的強制力の現われなのである〉p.242-243

 能動的知性、という他者

〈霊魂の個々の「部分」より先に霊魂全体がある特定の個別的肉体のエネルゲイアであり形相であるからには、肉体との内的関聯を離れた霊魂なるものは意味をなさない筈である〉p.244-245

〈全図形を縦に貫通するこの中軸の上端に能動的知性の場所がある。それは人間を超越する能力であるどころか、却って人間をして真に人間たらしめるところの優れて人間的なる内在的機能といわれなければならない……脱自的観照において意識面から自他内外すべての差別が湮滅して蹤跡なきとき、個人的小我の自己意識は杳然として消え失せ、全宇宙が煌々たる光と化して自己を意識する。この宇宙的「思惟の思惟」こそ能動的知性の本然の姿(touth’ hoper esti)であり、それがすなわち叡知の脱自的エネルゲイアにほかならぬ〉p.246-247

〈「かかるヌースは本質上現勢である故に、離絶的であり、非受動的であり、かつ純一無雑である」と言うとき彼はこの脱自的エネルゲイアに在る能動的知性を意味しているのである……能動的知性の本当の姿は、肉体の死によって、或は実際の死以前でも「観照」(テオーリア)における脱自的「死」によって、それが肉体の桎梏を完全に離脱せるときに甫めて自ら開顕されて来る〉p.247

〈かくして、脱自的エネルゲイアの状態にあるとき能動的知性はもはや霊魂の部分ではない。それは霊魂の最上部でないばかりか、霊魂の全体でもなくして、ただ端的に「全体」なのである。言い換えれば全宇宙であり「一者即一切者」としての宇宙的自己意識である……人間の側からでなく神の側から見るとき、ただ能動的知性のみ照々たる光を浴びて永遠の現在に在り、他はことごとく無の深闇の裡に姿を没し去る〉p.249

 私が在るのではなく他者が在る

 主客合一(西田幾多郎)

 人は生きているときに生きていないのはなぜか

〈扨て現勢的なる認識は物と同一である〉p.253

〈それは離在しているときにのみ、それが本来あるところのものであり、且つかかるもののみが不死であり永遠的である〉p.253-254

 自覚しえないこと、記憶されないこと

 他者。生成であり、永遠であるもの、私に働きかけるもの

 想起、とは何か――何を想起しているのか

 死して後はじめて与えられるものとは

 はじめて出会ったものに覚える懐かしさ――それは時空を超えたつながり

〈内在的状態にあるヌースは離在的状態にあるヌースの超時間的働きを、謂わば時間の一線上に引き伸ばして、遠廻しに、一歩ずつ実現して行くと考えてよいであろう〉p.265

〈人間的ヌースは潜勢的に全てのものを含んでいるが、それは飽くまで潜勢的、可能的にであって、決して現勢的現実的にではない。此等の潜勢的なるものを現勢化することがすなわち思惟活動ノイエーシスなのであるが…〉p.266

〈否、彼はプラトンが不文の教説の闇に包んで絶対にロゴス化しようとは試みなかった「善」を、窮極の限界までロゴス的に追求していった。其処にプロティノスの神秘哲学者としての異常なる意義が存するのである……それはプラトンとアリストテレスとをつなぐギリシア哲学主流の線上に、而も両者の思想が脱自的観照生活の一点を通じて相交叉するところに存立する〉p.271

〈超越的主体として絶対的脱自性にあった霊魂が次第に脱自性を失って遂に再び日常的生の地盤に還り来る、この下降的還行過程に伴って宇宙が形而上学的に形成されていくのである〉p.277-278

《一切者は観照を希求し、それを目的として瞻望する(panta theorias ephiesthai kai eis telos touto blepein)。ひとり叡知を有する存在者のみならず、叡知なき動物も更に植物的自然も、植物を生育する大地も一切が悉く、各自に可能なる範囲において、夫々の仕方で観照している。即ちあるものは真実の観照を、他のものは真の観照の模倣と影像を獲て観照している。……例えば現に我々は喜戯している時も、それによって観照しているのではないか。我々も、また全て喜戯するところの人は誰でも観照しているのであり、且つ観照を渇望しつつ喜戯しているのである。子供たると大人たるとを問わず、戯れているか厳粛な仕事をしているかを問わず、全て観照のために、或は戯れ、或は厳粛に働いているのである》(Enn. , 8, 1, 343p.283-284

〈かの絶対超越者たる「一者」が、永遠の無為に孤在することによって「一者」なのではなく、それは真に「一者」であり切るとき、即ち無が真に無に徹し切るとき、却って自らの外に出て自らを分与して存在界を創造せずには居られぬごとく、「霊魂もまたなんらの活動の成果を現わすことなしに、超然と独り離在すべきではない。生産すること、すなわち謂わば種子のごとき或る不可分の原理から出て感性的成果にまで発展して行くことが全てのものの本性に属する」(Enn. , 8, 6, 474)〉p.284-285

 

« 外の主体 | トップページ | ユング 魂の現実性 »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 外の主体 | トップページ | ユング 魂の現実性 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ