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2019年11月

神秘哲学

井筒俊彦.神秘哲学――ギリシアの部.岩波文庫

〈抑もこの蛮神のかくも大なる魅力の秘密は何であったのか。秘密は「永遠の生命」に存したのである〉p.26

〈此等の人にとっては所謂「聖物」は感性的世界から超感性的世界に開かれた窓であり、相対的なる現象界から絶対的なる実在界へ通ずる一の通路を意味する〉p.31

〈霊魂は超越的実在に直接触れることによって最早何物を以ても永久に消すことのできぬ刻印を受けるのである〉p.32

〈然るにクセノファネスは遥かに直接に、遥かに深く、あらゆる存在者の対立の彼岸に絶対超越として、生ける霊的実在としての「一者」を洞見していた。彼の思想の主体をなすものは超越的・超感性的現実そのものであり、この思想の根底に伏在してこれに独脱無衣の風格を賦与し、深玄なる内的生命に横溢氾濫せしむるものは自然神秘主義の本質をなすところの全一体験であった〉p.38

〈人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味においても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である……この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という……神秘主義に限らず、一般に精神的生命の溌溂たる活動あるところ、常に小なるものの死は大なるものの生を意味する。かくてここでも感性的生命原理としての相対的自我の死滅は、ただちに超感性的生命原理としての絶対我の霊性開顕の機縁となるのである。人間の相対意識が自他内外一切の差別を離却して厘毛も剰すところなく絶滅し尽くされた人間無化の極処において、その澄浄絶塵の霊的虚空に皓蕩として絶対意識が現われる。否、この湛寂たる虚空そのものがすなわち絶対意識なのである。この霊的虚空に充満する息づまるばかりの生命緊張の自覚がエントゥシアスモスと呼ばれるところのものに外ならぬ〉p.42-43

《何処まで行ったとて、如何なる途を辿ったとて、霊魂の限界は見出せないだろう。それほどまでに深いのだ》p.48 (ヘラクレイトスFr.45

〈「一切より一者は来り、一者より一切は来る」(Fr.10ek panton hen kai eks henos panta)と説き「一者は一切である」(Fr.50hen panta einai)と説く彼は、一者即一切者の渾然たる「全体」を高唱する点においてはクセノファネスといささかも異なるところはなかったが、その超越的全一を自己の上に現証する体験の方向が著しく異彩を放っていた〉p.49

〈この密儀宗教の円成がすなわち哲学の始まりなのである。絶対超越的体験の飛躍によって感性的世界の絆累を一挙に裁断し、日常的人間意識が自らを尽滅して超意識的意識の主体となり、かくて其処に現成する窮玄離絶の霊的虚空において時空変転を超脱せる真実在を親しく徹見することなくしては、存在論としての哲学は窮極の実的保証を有り得ない。換言すれば、形而上学は、「形而上的なるもの」の直接把握を俟って甫めて真の出発点に立つのである〉p.56

〈自ら偉大なる哲学者であったパスカルをして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者と学者等の神ではなく」と歓喜の涙滂沱たるうちに叫ばしめた生ける神、哲学以前の神こそ、実は帰って哲学そのもの、生ける源泉であり、形而上学の現実的保証なのであった。形而上学はは形而上的体験の後に来るべきものである。「存在」密儀の堂奥に参じepopteia(霊性開顕)の秘儀開顕を許さるる以前に「存在」を語ることは聖に対する冒涜である〉p.57

〈されば彼の存在論は時空を超脱せる真実在の論究であり、彼の形而上学は純粋に「形而上的なるもの」の検察である。畢竟するに形而上学は神学なのである。パルメニデスの「存在」は後の神学に所謂「在りて在るもの」に契合する〉p.59

〈パルメニデスが存在と呼ぶところのものは、感性的立場に立つ常識的人間の観点よりすれば、存在ではなくて却って非存在であり、否寧ろ「絶対無」と呼ばるることこそふさわしき超越者なのである。「思惟と存在の一致」とは個人的人間に就いて、思惟することが存在することと等しい、或は認識の対象がすなわち存在者であるという主張なのではなく、却ってかかる個物的他者界を無限に越過せる形而上的空無の境において絶対空竟の存在者は了々たる覚体として自己自らを顕示するという超越的事態の確認に外ならない〉p.60

 他なるもの=絶対他者=絶対無=存在

 他なるものを生きる

〈思惟の対象は思惟活動そのものと同一である、と考えられねばならぬ……然して此等三者が完全に一致することは、要するにそれが「真理」であるということを意味する。パルメニデスの「思惟と存在の一致」はかくて、真理それ自体――相対的世界に肯定さるる相対的真理にあらずして、逆にすべての相対的真理を絶対的に上から保証するところの生ける真理の定立となるのである〉p.61

〈デカルトのCogito ergo sumはその本源的本来的領域においてのみ、真に全き充実性を以て主張さるべきものであった……「我れ在り」Sumと語り得るはただ独り神のみ、とエックハルトが断じているが、かく絶対窮極の密度における存在性を自らに認めるものにして甫めて同時にまた絶対窮極の意味において「我れ考う」Cogitoと言い得るのである……Cogito ergo sumは人間の意識にはあらずして、神の意識である〉p.61-62

〈絶対者の現成は、絶対者の自己意識としてのみ可能である。自然神秘主義の主体は人間の実存にあらずして、神の実存である。絶対者の超意識的意識が照々と自己自らを映すことがすなわち一者の顕現なのである……強いて言うならば体験の主体は神であって人間ではない。人間は何かを体験するのでなくして、絶対的に無に帰するのである。人間の相対的意識が完全に棄揚され、内外ともに点埃をもとどめぬ空無に没入し去る時、ここに縹渺として絶対意識が露現する〉p.63

〈言い換えれば、日常的認識の主体は抽象性という被膜を通してでなければ、普遍的存在者を把握することができない。対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである抽象性とは人間霊魂の眼の曇りである〉p.68

〈存在的見地よりすれば、対象が普遍的になればなるほど、それは抽象的になるのではなくして反対に、より具体的になるのである〉p.69

〈存在的には有であり、有の究極であるものが、認識的には無であり、無の極限なのである。しかるに、存在的秩序に従って有の究極なるものこそ、ソクラテス以前期の哲人たちが「一者」と呼び、或は「神」と呼んだもの、また今やプラトンが「善のイデア」と呼ばんとするところの絶対的存在者であるに外ならぬ〉p.70

〈プラトン的イデアリズムは儼乎たる体験の事実であって、決して単に一の思想的立場ではなかった。されば、彼自ら高唱力説するごとく、それは全人間的方向転換を必要とするのである〉p.71

〈神秘主義は一たびテオーリアの絶頂を窮めた後、自ら進んでこの美的観想の静謐を断乎として踏み破る逞しき実践の意慾に結実しなければならぬ〉p.76

〈この叡知界の最高窮極の地位を占めるものがすなわち「善のイデア」(he tou agathou idea)であるが、霊魂が叡知界に踏込んでも、その幽邃の秘境を窮めて善のイデアに逢着することは極めて困難である。しかしながら若し一たびこれを観ずるに至れば、人は善のイデアこそ一切の正しきもの及び美しきものの原因であって(panton haute orthon te kai kalon aitia)、感性界においては光と光の主を生み、叡知界においては自らこの世界の王として真理と知性との源泉であること(en te horato-i phos kai ton toutou kyrion tekousa, en te noeto-i aute kyria aletheian kai noun paraskhomene)を悟得し、且つ私的であれ公的であれ苟も思慮をもって行動せんと欲する者は全て一度これを観照した経験のある人でなければならぬ所以が明瞭に理解される筈である、と〉p.84-85

〈人間は通常その霊魂の能力を感性的世界に向け不断無休に転変して常なき生成の事物のみを把握しつつ其処に安住自足しているのみであるが、プラトンによれば人間霊魂にはかかる生成変滅の存在物とは全く異なった超越的存在者を把住証得すべき超越的能力と、そのための特殊な器官とがそなわっているのである(organon ti psyche... mono-i... auto-i aletheia horatai527 D-E)。「霊魂の眼」(to tes psykhes omma533 D)とも呼ぶべきこの特殊なる器官を誤れる方向から正しき方向に振りむかせ、かくしてそれに本来の対象を与えることこそ、後述するプラトン的弁証法の主たる目的である〉p.85-86

〈分たれざるもの〉が、霊魂の眼のうちに有る

 永遠へと向かうもの

〈これによって甫めて人は実在の影像ではなく、真実在そのものに直触する……プラトン的知性は、その極限において、いわば神の意識に通じるところの絶対超越的認識能力であり、近世思想の用語例に従えば、理性あるいは知性というより寧ろ宗教的感覚というに近き或るものなのである〉p.87

 高山辰雄の触れていたもの

 彼に画かせていたもの

〈なおプラトンによって「霊魂の眼」と名付けられた霊魂の純粋知性的尖端は、プロティノスの所謂「霊魂の中心点とでもいうべきもの」(to tes psykhes hoion kentron)アウグスティヌスの「我が霊魂の眼」(oculus animae meae)を経て基督教思想界に入り、特に聖ヴィクトール修道院のリカルド以来盛んに論じられて西洋神秘主義の重要なる術語を生んだ。「霊魂の秘奥」「霊魂の頂点」「霊魂の鋒鋩」「至聖処」を意味するラテン語adytum mentis, intimus mentis sinus, acies mentis, sancta sanctorumや、また世に有名なドイツ神秘派の「霊魂の秘花」Funke der Seele, Fünklein「霊魂の根柢」(Seelen-Grund「霊魂の内城」Burg der Seele等々の無数の術語は、いずれもプラトン的「霊魂の眼」の発展と考えることができる。なおこの器官についてエックハルトが「霊魂の中には絶対に創造されざる或るものが存する」(aliquid est in animaquod est increatum et increabile)と主張して教会側による異端宣言の一因をなしたことは周知の通りである〉p.87-88

〈霊魂の眼、すなわち純粋理性(l’œil de l’âme, c’est-à-dire la pure raison)〉p.88

〈人が善のイデアを観照するということは、それを何か自分から離れた対象として眺望することではなく、この絶対超越的実在に融即し、或る意味でこれに成ることによって窮極の真実在そのものの永遠性に参与しうるという存在的事態を意味するのである〉p.90

〈ミスティークの本質は神人の「同一性」ではなく、神と人とのパラドクスであり、パラドクス的緊張の極化である。この緊張の極化が外から観るものには恰も同一化の如く見えるのである〉p.91

〈しかしながら、それにも拘らず彼は俗界への下降を強制されねばならない。イデア観照が彼にとって如何ほど幸福であろうとも、彼はこの超越的世界に何時までも静止滞存することは許されない。存在究竟の秘奥を窮めた後、再び俗界に還り来って同胞のために奉仕すべき神聖なる義務が彼には負わされている。喧騒の巷を遁れ、寂漠たる孤独の高峯上にひとり超然として「一者」の観照にふけることによってではなく、敢て、隠逸の山を下り、身を俗事に挺して世人のために尽瘁することによってのみ、プラトン的哲人の人格は完成するのである〉p.93-94

〈弁証家が彼岸に飛躍的一歩を劃してより、絶対超越的究竟者「善のイデア」に逢着するまでの道程がすなわち嚮の直線比喩における最高部分に当る弁証法的領域であり、この部分が後世、哲学的神秘主義として発展するのである〉p.108-109

〈かくてプラトンが国家篇第六章において叙述せる弁証法は、真実在に逢着せんと志して今なお修道の途次にある未踏の人々に、踏むべき道を明示するものではなく、一たび斯道の蘊奥を極め善のイデアに直参せる達人が翻って己が踏破せる道程を反省し、この超越的存在領域の論理的構造を分析考究せるものとして、寧ろ著しく形而上学的性格を帯びるに至ったのである〉p.112

〈人間の有する最高の精神作用というべき上位知性(ヌース)は絶対に感性的事物に依倚することなく、純粋イデアをその純粋性において把握する。悟性が飽くまで感性的形象を通してイデアを観るに反し、知性はイデアを通してイデアを観る〉p.113

〈国家篇の根本主題は人間の教育(パイデイア)であり、嚮にも論述せる如くそれは畢竟するに神秘主義的人間の形成ということに外ならないのであった〉p.115

《この(超越的領域に関する)問題については、私自身は未だ嘗て著述したことはなく、また将来とても決して著述することはないであろう。何故ならばこの領域は諸他の学問とは違って、絶対に言語によって詮表し得ざる性質のものだからである。人が永き年月に亙ってこのものに親昵せる後、それは突如として(eksaiphnes)、恰も飛び散る火花から突然に燃え上がる火のごとく、魂の中に生誕し、生長していくのである》p.116 第七書簡

〈プラトンのいわゆる純粋知性(ヌース)とは、人が通常その名のもとに理解するごとき思弁的理性にあらずして、霊魂の秘奥に点火さるる神的光明であり、それは要するに神秘主義的感覚であるに外ならぬ〉p.116

〈善のイデアは実在界の太陽である。この至高の極地に登り来る道すがら、純粋知性が次々に諸実在を観照し得たのは、知性自身は全然それと気付かなかったが、実は悉く全のイデアそのものの照明によるのであった〉p.125

 善のイデア=存在の光

 それに照らされたこと、真実在に導かれたことに、人は気づかないのでは。

 夕焼けの向こうが見えないのと同様。

 しかし照らされたことは、記憶のどこかにあり、ふとその何かを感じるのかもしれない。

 はじめて出会うものになつかしさを感じるときのように。

〈観照的生の実践において自ら親しく宇宙的実存の主体となり、脱自的に個人意識の外なる客観的世界に踏み出てみた経験がなければ、人はただデカルトを捩って「我思惟す、故に我在り(と我は思惟す)」を繰り返すか、或はカントに従って先験的主観主義の呪詛に身を委すほかはないであろう〉p.203

〈すなわちアリストテレスにおいては神秘主義は飽くまで底流であって水面からはこれを見ることはできない。ただしかし水辺から終始力強き底流をなして急湍の奥に隠れひそんでいたこの体験的基体は河の最後に至って俄然滾々と表面に湧き上り恐るべき姿を外にあらわして来る〉p.204

〈蓋し神秘主義的体験とは、全宇宙から切り離された極めて特殊なる事態の体得なのではなく、宇宙的過程それ自体の窮極的顕現に外ならないのである〉p.206

〈生成的存在の世界は、超越的イデアの照映として仄かに叡知性の影響を受けるのではなく、それ自体が本源的に叡知的なのである〉p.208

〈「本質」はイデアを否定し竄貶するものではなくして、具体的事物に内在する限りでのイデアであり、従って依然としてイデアであることには違いはないのである〉p.209

〈プラトンにとっては、存在とは一言にしていえば普遍者であり一般者であった。プラトンが「真実在」(ontos on)という時、彼の念頭にあるものは感性界の個別的存在者ではなくして、それら全ての儚き事物を喩えた、超個別的なる永遠の普遍者であり、それがすなわちイデアなのであった……然るにこれに反して、アリストテレスにとっては、「実在」とは普遍者でなくしてあくまで具体的現実的なる個別者である。概念的一般者に対応するところの普遍的な人間性が実在するのではなく、現実に生きて動いている個人ソクラテスが、カリアスが実在するのである……個別者が真実在であるのは、個別者である限りにおいてではなくして、其等が夫々自己の実在性の根源を内に宿している限りにおいてである〉p.212

 哲学(考える)とは、言葉が降りてくるための場所を拓くこと

〈かくしてアリストテレスの「本質」は存在面においては個別的実有であり、論理面においては種概念なるが故に、それはまさしく内在的イデアと呼ばれるにふさわしきものと思われる。何とならば「実在する一般者」というプラトン的イデアの条件を、それはのこりなく充たすことができるから〉p.217

〈自己を動かす者は、その活動を自己以外のいかなる物からも受けるのでないから不滅でなければならぬ。かかる不滅なる自発的運動者が霊魂である。従って自然界に起るあらゆる種類の運動は、すべて霊魂の運動を原因として有するのである〉p.229

〈神は至高の自己運動者であるという考えにアリストテレスは断固として反対する。厳密な意味においては自己運動者なるものは世に存在しない。「凡そ動かされる者は何かによって動かされる」〉p.230

 何か、他者、生命そのもの。私に働きかけ、私と共にあるもの

〈すなわち動物においては霊魂は不可動の動者であり、身体は動かされる部分である……不可動の動者は全宇宙の動の究竟的源泉となる。しかして動の源泉とは生命の源泉ということにほかならない……彼の不可動の動者は畢竟するにイオニア的「一者即一切者」を新しき形態の下に思想化したものであった。「アリストテレスは宇宙それ自体を神であると説く」とキケロが言うとき(Cicero, De nat. deor, I, 13-Aristoteles... mundum ipsum dicit esse; cf. De caelo , 3, 286 a)かれはまさしくこの事実を指摘しているのである〉p.231-232

〈運動を実在性に即して考えれば、それは上述の四種の運動のうち特にすぐれて実在的な(kat’ ousian)運動である「生成」を指すほかはないであろう〉p.233

 何ものでもない私はすべてである

 人は「他者」に生かされている

「他者」への責任において行為する

〈嘗てクセノファネスによって「全体が視、全体が聴き、全体が思惟する」と謳われたかの宇宙的意識の煌了たる光りの中にあって神の自己意識と人の自己意識とが、判然たる二つの意識でありながら而も同時に、恰も中心を同じゅうする大小の二円のごとくぴったりと重なり合って、縹緲たる渾一の姿を現ずる、その霊妙な中心点に能動的知性の境位がある。小なる光円が無限大なる光円に包摂され、此等両円が相重なり相照応して全宇宙の辺際まで耿々たる燦光に煌きいでる時、果してそれは神か人か、何人もこれを論理的に裁断することはできないであろう。アリストテレスの説く観照(theoria)とは、およそかくの如きものである。彼が霊魂を肉体の形相として両者の密接不可分なる関係を強調ししかも霊魂を本質的に単一なる実有として語りながら、なお他面において能動的知性の超越性、離在性を説くの矛盾をあえてせる所以は、彼が自らかかる観照体験の持主であったことに存するのでなければならない。それは謂わば脱自体験の絶対的強制力の現われなのである〉p.242-243

 能動的知性、という他者

〈霊魂の個々の「部分」より先に霊魂全体がある特定の個別的肉体のエネルゲイアであり形相であるからには、肉体との内的関聯を離れた霊魂なるものは意味をなさない筈である〉p.244-245

〈全図形を縦に貫通するこの中軸の上端に能動的知性の場所がある。それは人間を超越する能力であるどころか、却って人間をして真に人間たらしめるところの優れて人間的なる内在的機能といわれなければならない……脱自的観照において意識面から自他内外すべての差別が湮滅して蹤跡なきとき、個人的小我の自己意識は杳然として消え失せ、全宇宙が煌々たる光と化して自己を意識する。この宇宙的「思惟の思惟」こそ能動的知性の本然の姿(touth’ hoper esti)であり、それがすなわち叡知の脱自的エネルゲイアにほかならぬ〉p.246-247

〈「かかるヌースは本質上現勢である故に、離絶的であり、非受動的であり、かつ純一無雑である」と言うとき彼はこの脱自的エネルゲイアに在る能動的知性を意味しているのである……能動的知性の本当の姿は、肉体の死によって、或は実際の死以前でも「観照」(テオーリア)における脱自的「死」によって、それが肉体の桎梏を完全に離脱せるときに甫めて自ら開顕されて来る〉p.247

〈かくして、脱自的エネルゲイアの状態にあるとき能動的知性はもはや霊魂の部分ではない。それは霊魂の最上部でないばかりか、霊魂の全体でもなくして、ただ端的に「全体」なのである。言い換えれば全宇宙であり「一者即一切者」としての宇宙的自己意識である……人間の側からでなく神の側から見るとき、ただ能動的知性のみ照々たる光を浴びて永遠の現在に在り、他はことごとく無の深闇の裡に姿を没し去る〉p.249

 私が在るのではなく他者が在る

 主客合一(西田幾多郎)

 人は生きているときに生きていないのはなぜか

〈扨て現勢的なる認識は物と同一である〉p.253

〈それは離在しているときにのみ、それが本来あるところのものであり、且つかかるもののみが不死であり永遠的である〉p.253-254

 自覚しえないこと、記憶されないこと

 他者。生成であり、永遠であるもの、私に働きかけるもの

 想起、とは何か――何を想起しているのか

 死して後はじめて与えられるものとは

 はじめて出会ったものに覚える懐かしさ――それは時空を超えたつながり

〈内在的状態にあるヌースは離在的状態にあるヌースの超時間的働きを、謂わば時間の一線上に引き伸ばして、遠廻しに、一歩ずつ実現して行くと考えてよいであろう〉p.265

〈人間的ヌースは潜勢的に全てのものを含んでいるが、それは飽くまで潜勢的、可能的にであって、決して現勢的現実的にではない。此等の潜勢的なるものを現勢化することがすなわち思惟活動ノイエーシスなのであるが…〉p.266

〈否、彼はプラトンが不文の教説の闇に包んで絶対にロゴス化しようとは試みなかった「善」を、窮極の限界までロゴス的に追求していった。其処にプロティノスの神秘哲学者としての異常なる意義が存するのである……それはプラトンとアリストテレスとをつなぐギリシア哲学主流の線上に、而も両者の思想が脱自的観照生活の一点を通じて相交叉するところに存立する〉p.271

〈超越的主体として絶対的脱自性にあった霊魂が次第に脱自性を失って遂に再び日常的生の地盤に還り来る、この下降的還行過程に伴って宇宙が形而上学的に形成されていくのである〉p.277-278

《一切者は観照を希求し、それを目的として瞻望する(panta theorias ephiesthai kai eis telos touto blepein)。ひとり叡知を有する存在者のみならず、叡知なき動物も更に植物的自然も、植物を生育する大地も一切が悉く、各自に可能なる範囲において、夫々の仕方で観照している。即ちあるものは真実の観照を、他のものは真の観照の模倣と影像を獲て観照している。……例えば現に我々は喜戯している時も、それによって観照しているのではないか。我々も、また全て喜戯するところの人は誰でも観照しているのであり、且つ観照を渇望しつつ喜戯しているのである。子供たると大人たるとを問わず、戯れているか厳粛な仕事をしているかを問わず、全て観照のために、或は戯れ、或は厳粛に働いているのである》(Enn. , 8, 1, 343p.283-284

〈かの絶対超越者たる「一者」が、永遠の無為に孤在することによって「一者」なのではなく、それは真に「一者」であり切るとき、即ち無が真に無に徹し切るとき、却って自らの外に出て自らを分与して存在界を創造せずには居られぬごとく、「霊魂もまたなんらの活動の成果を現わすことなしに、超然と独り離在すべきではない。生産すること、すなわち謂わば種子のごとき或る不可分の原理から出て感性的成果にまで発展して行くことが全てのものの本性に属する」(Enn. , 8, 6, 474)〉p.284-285

 

外の主体

 エマニュエル・レヴィナス(1987)/合田正人訳(1997).外の主体.みすず書房

〈これらすべてのことが、自分自身と対話するような魂の限界内にはとどまることなきユダヤ的省察を培っているのです。つねにそうであったように、今日でもユダヤ思想は、自己とは他なるものとの対話の最たるものなのです〉p.8

〈私が思うに、神なき世界なるものは、ドストエフスキーの言葉を使うと、すべてが許されているような世界であって、そこでは、現実的なものの意味はたんに見かけの意味でしかなく、そのような意味での「現実主義者」・で・なければならない〉p.11

〈実存すること、それはこのように、世俗的なもののなかに散逸した聖なるものを集摂することです〉p.12-13

〈神に憑依されて熱狂に陥った魂はみずからを喪失してしまう。ブーバーにとっては、高揚せる諸瞬間での神的なものとの接触は出会いであり、対話でありました。他人たちへと開かれることであると同時に自己に現前することであったのです〉p.17

〈一致はまったくなく、つねに近さが、近接があるのです。ユダヤ教は神のいかなる形での受肉にも抵抗するのと同様に、人間の一切の神格化にも抵抗するのです〉p.18

〈〈自我〉に対する対話者の現前は、私の視線によって規定されまた、述定的判断を下されるような客体の現前に還元されたりしない。こうブーバーは断言していますが、ここにブーバーの〈他者〉の哲学の基礎があるのです……対話者が主題と化し、判断の基体と化すまさにそのとき、対話者はもはや私が対話をつうじて接する者ではなく、私は彼をひとつの集合のなかの数字として、技術的に実現可能な何らかの意図に有効なものして捉えてしまうのです〉p.25

〈結局のところブーバーにとっては――そしておそらくは私たちにとっても――、本質的なのは〈われわれ〉ではなく、〈私〉-〈きみ〉だからです〉p.27

〈対象や敵として〈きみ〉を捉える代わりに、〈きみ〉に呼びかける〈私〉、そのような〈私〉が第一の事態です。そして、社会を創設するのは、国家の普遍的で匿名の法のもとでの〈自我〉の法的消失ではなく、いかなる概念によっても把握できない、〈きみ〉への呼びかけなのです〉p.28

〈〈出会い〉における〈私〉-〈きみ〉の関係の還元不可能性、出会いを規定可能で客体的なものとのどんな関係にも還元することの不可能性、西欧思想へのブーバーの貢献が依然としてこの点に存しているというのはまちがいのないところでしょう……ブーバーは大いに政治的問題やキリスト教との関係や経済的問題、教育的問題を論じましたが、これらの問題はつねに〈出会い〉の情況に帰着するのです〉p.29

〈聖なるもの(sacré)という観念がブーバーにとっては神的なものという観念を決定するものとしては現れなかったということ……ブーバーは断固とした一神教徒であって、ブーバーの言葉は、誰かが彼に話しかけるより前に話すようないかなる世界、いかなる光景、いかなる言語にも依存してはいないのです〉p.31

〈おそらくは主題化、客体化、存在論に帰着してしまうような不在と現前を超えて、世界と存在から脱出しうるということ、存在ならびに存在者を超えて、近づいたり近づかれたりしうるということ、それは、実に巨大な存在者としても、どんな隣人よりも巨大なひとりの人間的〈他人〉としても神をたてることのない、そのような探求の主題にほかならないのですが、この種の探究は、神について語るよりも先に、近さを語り、どこから声が到来するのか、いかにして痕跡が描かれるのかを記述しようとするものなのです〉p.33

〈神における〈永遠のきみ〉への祈りないし呼びかけだけが人間としてのきみとの出会いを可能にするのであって(たとえ人間的なものが客体としても扱われざるをえないとしても、です)、それゆえ、この祈りないし呼びかけが、根源的宗教における真に間-人格的な一切の関係の基礎なのです……人間的なものの精神性――その宗教性――は人間が人間のかたわらにいるということであって、人間は群衆のうちに埋没することも孤独のうちに遺棄されることもない――この点を確証することがこの発見の本義です。なによりもそれが意味しているのは、間-人間的な関係の宗教的射程であり、逆に言うなら、きみと呼びかけられる他の人間へと人間が接近することで初めて、神への連関――〈見えざるもの〉、〈与えられざるもの〉への子の連関が可能となり成就されるということです。呼びかけとしての接近、〈私〉-〈きみ〉の関係とは言い換えるなら、他者の本性や本質を知覚することとは根底的に異なる関係であって、……〉p.37-38

〈私-きみの関係は主体-客体の関係と際立った対比をなしているのですが,他でもないそれは,ブーバーにおいては,私-きみの関係がある意味では主体と客体という項に先立つものとして,《二者のあいだ》(entre-les-deux, Zwischen)として描かれているからです〉p.39

〈この伝統にとっては、〈神的なもの〉を特徴づける至上の仕方は〈神的なもの〉を存在と同一視することに他ならず、また、存在とのどんな関係も結局は経験(言い換えるなら、知識)に還元可能で、あくまでこの存在の様態にすぎません。それに対して、〈私〉-〈きみ〉の関係の独自性を確証する哲学は、社会性を社会についての経験には還元不能なものとして思考するきっかけを与えてくれます〉p.41

〈〈私〉の個別性と絶対的な〈きみ〉との間のこのような連合はいかにして可能になるのか……ブーバーの根本的な主張は「初めに〈関係〉ありき」と表明されます。〈関係〉が成就される際の具体的様相は言語であり、――言語はこうして神性の縁にまで至るのです……ブーバーは、語に内属した運動が語を言明したもののうちにはとどまりえず、語を聴取する者によってすでにして摑まれていることを強調しています。聴取する者によって語は迎え入れられ、こうして聴取する者は応答者に変貌するのです(たとえ彼が沈黙を守る、としても)〉p.42-43

〈マルセルによると、受肉が「形而上学の中心的与件」なのです。それは「身体と結びついたものとしてみずからに現れるような存在の情況」を指しています。透明ならざる情況でありましょう。受肉した〈私〉は自己意識を有したものとして単に自己に対してのみあるのではない。それは、みずからのうちに計り知れない何かを有するような仕方で実存するのです。計り知れない何か、と言いましたが、異物では決してありません! 受肉した〈私〉の自己においてあることはただちに他なるものへの曝露(exposition aux autres)であり、この意味で受肉した〈私〉それ自身が闇なのです。「中心にあるのは影である。」受肉した〈私〉のうちなる計り知れない「何か」は、思考する実体への延長-実体の添加ではなく、精神それ自体のある存在の仕方であって、それによって精神は、宇宙のいかなる主題化にも先立って、宇宙に対してあるもの、それゆえ、宇宙と連動したものと化す。これは、まさに自己とは他なるもの(autre-que-soi)に対して存在しつつ、自己において存在する(être à soi)仕方であって、この自己とは他なるものが精神を同一化するのです〉p.44

〈「私たちは全面的に私たち自身に属しているのではない。」主体は全面的に自分自身に属しているのではない――これが存在論的神秘をめぐるマルセルの考察のひとつの帰結でありましょう。私たちがそうではないところの神的存在、私たちが超越的なものとして出会う絶対的な〈きみ〉はまた、私たちを担い、私たちを愛する存在でもあるのです〉p.47-48

〈存在の神秘、それは、「神へと向かう」私たちの存在それ自体がすでに神に属しているその仕方であり、神の存在が人間の〈自我〉を支えるその仕方なのです〉p.48

〈出会いという無条件な出来事は思考と存在を凌駕するのです。それは純粋な対話、純粋な連合であって、共通ないかなる霊的現存もそれを包摂することはないのです。私は他なるものへと供せられる。が、それは先行的な近さもしくは私たちの実体的結合のためではなく、きみが絶対的に他なるものだからなのです〉p.50-51

〈存在を思考すること、それは存在の尺度に合わせて思考することであり、自己自身と一致することなのです。私はと言いうることが、存在と同等なものと化しつつ自己と同等なものと化すような認識のなかで了解され、しかもその際、何ものもこの認識の外にとどまって、それにのしかかったりはしない、そのような仕方が自由と呼ばれていたのです〉p.52

〈〈きみ〉という呼格はまさに、衒いも前提もないきみへの呼びかけの侵入でもあるのですが、それはまた、没-利害-の超脱のまったき危険、まったき恩寵、――まったき無償性でもあります。思いますに、このような倫理はすべてが忠誠であり責任であるのでしょう。ブーバーの語る〈私〉-〈きみ〉は、――世界と歴史の概念体系への何らかの依拠から引き出されるような思考のなかに否定的なものとしてあるよりもむしろ――、一切の知識に先立つ私の責任の火急性そのもののうちにあるのではないでしょうか〉p.58

〈その際、〈不可視のもの〉は単に非-感性的なものとしてではなく、本質的に認識不能で主題化不能なものとして力強く思考されるのであり、まさにそれについては何も語ることができないのです……表彰も知識も存在論も生じない。そうではなく、この意味の次元には、まずもってきみとして呼びかけられる、そのような他の人間が位置しているのです〉p.59

〈〈永遠なるきみ〉との関係が人間としてのきみとの関係の根拠なのです〉p.60

〈倫理は、他なるものの外部性を前にして、他者を前にして、私たちが好んで言うように、他者の顔を前にして始まるのです……他律性の倫理です。とはいえ、それは隷属ではなく、隣人への責任をとおして神に仕えることであり、隣人への責任において私は代替不能な者なのです……しかし、この新たな倫理は、〈私〉の可能性を理解する新たな仕方でもあり、結局は哲学の使命に応えています〉p.61

〈不可視な神としての〈きみ〉は、所与とその存在の明晰さをかき消すような社会性の意味性を有しているのではないでしょうか。倫理的関係はまさに存在の無-意味性を表しているのではないでしょか……この無-意味性を表す語を分綴しつつもう一度援用するなら、〈関係〉は没利害、内存在性からの超脱(des-inter-essement)、存在の外への根こぎ(dé-racinement)――であり、自己へと回帰することなき跳躍の直行性(droiture)なのではないでしょうか。ここでいう没利害は無関心(indifférance)ではありません。それは他なるものへの忠誠なのです〉p.62

 経験とは 死してのち蘇ることである

〈「それ(ひとつひとつの魂)は移入・共感の経験を,他人たちについての経験的意識を有している」とあるように,フッサールは移入・共感を経験と解しています……われらが哲学の歴史に忠実であったフッサールは,他者の迎接(accueil d’autrui)を他者についての経験(expérience d’autrui)に転じているのです。言い換えますと,彼は,《他者への関係》の無償性を知に還元し,この知を反省によって測る権利を自分に認めているわけです。《他者への関係》は世界についての人間的知覚の前提であるのですが,それはこのように,絶対的なものである限りでの超越論的主体には必要なものではない。この種の超越論的主体にとっては,《他者への関係》はそのすべてがこれから構成されるべきものなのです〉p.64-65

〈逆に,天使たちは地上の人間たちの優位を垣間見たのではないでしょうか。人間たちは与えることができる。ある者たちは他の者たちのために(être-les-uns-pour-les-autres),が可能である。そうすることで,人間たちは「神曲」の場面を上演することができるのですから。それも,純然たる霊たちの余儀なくされた存在了解を超えて,その彼方で,です〉p.68

〈他者は私にとって客体としては現れない、と述べること、それはただ単に、私は他の人間を私の権能に屈した事物とはみなさないと語ることではなく、私は他の人間を「何ものか」とはみなさないと語ることである〉p.71

〈それは倫理的関係という十全に有意味的な秩序であり、ここにいう倫理的関係とは、同化不能な、それゆえ厳密には内-包不能で把持や所有とは無縁な他者の他者性との関係なのである〉p.72

〈私たち自身の考察では、他者への接近はそもそも他の人間への私の呼びかけのうちにではなく、他の人間への私の責任のうちにある。それが根源的な倫理的関係なのだ。――ここにいう責任は他の人間の顔によって呼び起こされ、引き起こされ、現象性と現れることがまとう形象の断絶として描かれる。私は死へとまっすぐに曝され、他者を見捨ててはならないという命令(ないし神の言葉)が私に下される……私が他者への責務から放免されることは決してないのだ。――他の人間への責任、ただしこの責任は、その原因となるような自由行為によって条件づけられることも、それを尺度として測られることもない……他者への服従であり、根源的な奉仕である。主格ではなく「対格の一人称」である〉p.76-77

《僕たちは誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。そのうちでも僕が一ばん罪が深いのです》ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫)第二巻 p.156

〈意識の指向性は、〈他なるもの〉の超越にはみずからを閉ざした知の思考であって、知である限り、それは観念と観念されたものとの同等性を確たるものたらしめる〉p.79

〈他なるもの〉をどう感じとるか

 生きている瞬間瞬間において、つねに未知の何かと触れ合っている感覚

〈ブーバーにとっては、神は大いなる〈きみ〉もしくは永遠なる〈きみ〉であった。人間同士の諸関係は神において交叉し、また、そこへと到達する。〈神的人格〉と呼ばれるものが対話における〈きみ〉のうちに存しており、敬虔さや祈りも対話であるという点に関して、私たちはブーバーほど強い確信を有しているわけではない……神が人格的なものであるのは、神が私と私の隣人たちとの間人格的関係を惹き起こすその限りにおいてである。神は他の人間の顔を起点として意味するのだが、その意味性の構えはシニフィアンとシニフィエの連関のごときものではなく、意味される私への命令のごときものなのだ。観念への神の到来はつねに、私たちの考察では、他の人間への責任と結びついており、どんな宗教的情動もその具体性をつうじて他者への関係を意味している〉p.81

〈ターレスからヘーゲルに至るまで,哲学は人間と神と世界を全体性として総合してきたのでしたが,これらの存在は相互に還元不能なものであるがゆえに分離されてあることになります。たとえば異教における太古の経験のなかでも,これらの存在は,芸術の造形的世界,存在の隙間で生きる神話的な神,自閉せる自己性でありつつも盲目的な運命に粉砕される悲劇的な人間といった具合に,たがいに分離されたものを表していたのでした……一方,人類の生きた具体的経験では,神と人間と世界は関係づけられています〉p.95

〈神と世界――その接合はまさしく〈創造〉です。神と人間、絆はまさしく「啓示」です。人間と世界(ただし人間はすでに啓示によって照明され、世界はすでに創造の刻印を有している)――それはまさしく〈贖い〉です。こうして、〈創造〉と〈啓示〉と〈贖い〉が、カントの言葉を使うなら「範疇」や「悟性の総合」にも等しい威信をもって哲学のなかに参入するのです。神と人間、それはまずもって、人間の生のなかの神であり、神の生のなかの人間です……創造は過去の次元を開き、それを維持するのであって、過去が単に創造に宿るのではありません。これと同じ意味で、啓示を理解しなければなりません。神から人間への、人間の特異性――言い換えるなら自己性――への動きとして、啓示はただちに愛として認められることになります。愛が特異性を開くのです〉p.96

〈愛は、愛することというその特権的な今において愛を命じるのですが、その結果、愛するよう命じることは、愛を命じるそのまた愛という反復と刷新を通じて無際限に反復され、刷新されることになる……ミツヴァー〔ユダヤ教の戒律〕と呼ばれる、ユダヤ教徒に緊張を強いる命令は、道徳的な形式主義ではなく、愛の生きた現存、昨今よく言われるような現在の「時間化」そのものであり、現在と現存についての根源的経験なのです〉p.97

〈〈啓示〉は愛であり、人間の応答を待望しています。とはいえ人間の応答は、神に発する動きが開拓した道を遡上するものではない。そうではなく、神が人間に捧げる愛への応答は、みずからの隣人に対する人間の愛なのです。自らの隣人を愛すること、それは〈永遠〉へと向かい、世界を救拯し、神の王国を準備することです。人間の愛が〈贖い〉の働きそのものであり、その効力なのです……死の瞬間そのもののなかに、死に対する勝利が存しているのです〉p.98

〈このように〈永遠〉は、個体を吸収するような論理的理念性とはみなされていない。それは愛が世界に浸透していくことであり、また、どんな被造物もが「われわれ」という語に参画しうることなのですが、ただし、こうした共同性のなかで被造物が無化されてしまうことはありません。〈贖い〉とは、「〈自我〉が彼にきみと語りかける術を学ぶこと」なのです〉p.98-99

〈諸瞬間の散らばりを支配する永遠の観念と、神の王国に向けられた宗教的共同体の観念との接近がローゼンツヴァイクの思考のなかで図られ、より顕著なものと化していく〉p.99

〈ユダヤ教が「終末から始める」のに対して、キリスト教は逆に、世界の暦法を真面目に受け止めます。キリスト教はつねに端緒にあるのです。キリスト教の永遠は自閉したものではなく、時間と広がりを同じくしています……キリスト教の永遠は永遠の〈道〉であり、〈歩み〉であり、〈使命〉であるのです。〈受肉〉から〈臨在〉へと向かう、止まることのできない不可避な拡張として、キリスト教は世界を横断して、異教徒社会をキリスト教社会に変じ、数々の制度と人格を魅了すると共に数々の文化と国家を創設したのでした〉p.103

〈ユダヤ教は神のもとにある限り、生きたものであり真実のものであるが、キリスト教は、世界のなかを歩き、世界に浸透していく限りで、生きたものであり真実のものなのです〉p.105

 清宮の画きたかった〈オバケ〉

 高山の触れていた〈アミーバーの心〉

 モネの〈睡蓮〉

 そこにある他者、表れ(顔)としての

〈ところで、所有格が人間の真理に属しており、真理がつねに私の真理であるのは、真理が私を巻き込むからであり、私が私の召命からは逃れられないからです。真理は人間のためにあり、それは人格的です……真理は私の真理である、と言うことはつまり、真理は観照に還元されるものではなく、生が真理に課する試練に生による真理の立証に帰着するという意味でありましょう……このような真理論を、ローゼンツヴァイクはメシア的「認識論」と呼んだのでした〉p.106

〈たとえば、忌避不能な責任という主題……それゆえ、万人のために生き、そうすることで、盲目的な諸力の宣告に抵抗するような人格の責任であります〉p.109

〈アブラハムの家から追放された、ハガルとイシュマイル砂漠をさまよいました。用意していた水も尽きてしまいました。神はハガルの目を開き、彼に井戸を示しましたが、すると天使たちはこう抗議しました。「ああ、永遠なる主よ、あなたは、やがて敵と化すであろう子供たち――イスラエルの兄弟――の先祖となる者たちの渇きを癒そうとなさるのですか!」明日のことなどどうでもよい、と永遠なる主は申されました。私は各人を、そのものが生きているまさにその時に裁く。今日、イシュマイルに罪はない、と〉p.110

〈具体的なものへ(Vers le concret)、それは何よりも、体系という防御壁の外という意味です……具体的なものへ、それは静的な「事象との一致」をはみ出し、存在の一切の措定の彼方にあるような「形而上学的経験」へのこのような回帰なのです〉p.119-120

《ヘーゲル弁証法は、ここと今の空虚と無を示そうと努めているが、キルケゴールにとっては今とここは本質的なものだった。こことそこにしか実存はない。偶然的なものはその性格を維持しつつも、逆の性格をまとって永遠なものと化すのでなければならない。歴史的なものは永遠なもののきっかけではなく永遠なものそれ自体でなければならないのだ》p.121 (ヴァール『キルケゴール研究』(Études kierkegaardiennes

 書いているのは誰か 語っているのは 「再会」と感じさせるのは

《現前も不在もない。あるのは現前-不在であり、距離と非-距離である》p.123(ヴァール『詩・思考・知覚』)

〈自分自身との不等な同一性の緊張であり、痙攣のごときものがあるのです。ヴァールが好んで引用していた詩人トマス・トラハーン〔Thomas Traherne 1636-1674 イギリス〕の表現を用いるなら、〈まったく小さな事象のなかで絶対的なものが感じ取られる〉のです(『形而上学概論』)。自己との不均衡、それこそが具体的には主体性を表しているのです。欲望と問いかけと弁証法を表しているのです〉p.123-124

《弁証法とは不幸としての意識である。それは、たえず蘇生する隔たり――意識を諸事象ならびにそれ自身から分離する隔たり――によって引き裂かれた意識なのだが、ヘーゲルが看取していたように、われわれの宿命はおそらくこの不幸を幸福たらしめることにある。精神の数々の動きを、われわれが、事象の多様性における無限なものの表現として知覚するとき、不幸は幸福と化すのである》p.124 (ヴァール『形而上学概論』)

 他者とは、つねにここにあり、私を真理へと促すもの

 臨在、絶えざる、それに気づくとき、「降りてくる」と感じるのだろうか

 絶えざる超越への希求として

 それは、「真空」なのかもしれない

〈「われわれの宿命」、なのでしょうか。いずれにしても、ここには逆転があります。実際、「形而上学的問いは(…)世界と同様、われわれ自身をも危険にさらす」(『形而上学的経験』)のです。冒険は人間的なものをはみ出し、それゆえ、超越の生の鼓動が打たれるところで、人間的なものを描き出します。人間的なものとは――それ自体で――乗り越えという根源的な挙措ではないでしょうか……超越は、それが呼び求める数々の機関や機能には還元されたりはしません。超越は現出には還元されないのです。そこから、次のような不可思議な表現が生じることになります。「意識されているところのものは、意識されていないところのものである。思考しているのは、思考せざるものである。思考しているのが思考せざるものであり、意識されているのが意識されざるものであることの象徴としての身体(corps)。」(『詩・思考・知覚』したがって、意識と思考は、それらによっては汲み尽くすことも包括することもできないもののなかで、逆に意識と思考を引き起こしてそこでみずからを成就しようとするもののなかで生じることになります〉p.124-125

〈彼方と手前〔此岸〕との――いと高きものといと低きものとの――交換可能性は永続的な緊張であって、ヴァールはいつもそれに屈していたのですが、そうした緊張が彼の思想の最深部に属していたのです。重要なもの、それは超越なのです。形而上学的経験においては、認識することを超えて、人間の冒険が神曲を演じます。「ほとんどの偉大な形而上学者たちの宗教的経験を考慮することなしには、形而上学史をものすることは不可能であろう。」(『形而上学的経験』)ただし神、それは先に述べたような彼方ないし手前――このずれ、この連続性の断裂について語られるものです〉p.125

《人間が現前を感じるとき、感じているのは人間ではなく、神が人間を感じているのであり、人間は自分が感じられるものであることを感じるのである》p.125

〈ヴァールの形而上学的経験、それはここに先立つ彼方である。ここに先立ってであると共に、いまひとつのこことして定置されてしまうようなあそこよりも遥かなもの〉p.126

《超越,それは乗り越える行為であると同時に,この乗り越えが向かうところの対象でもある》(『形而上学的経験』)

〈「人間はつねに自分自身を超えたものである」――これは、人間の自同性が喪失されてしまうような恍惚を示した言葉ではありません。「深甚な仕方で擾乱し、高揚させる経験」、ヴァールはその最後の著書の最後の行にこう書いています〉p.127

《われわれを捉えて引き離さないのは詩句の意味ではなく、意味がわれわれのうちで示唆する他のもの、内的な随伴物である》p.130 (『詩・思考・知覚』)

〈形而上学的緊張とは絶頂に達した理性であり、意識の喪失にまで、「超-真理」――それはまた真理以下のものでもある――たる語りえないものにまで高められた意識ではありますが、決して非合理なものではないのです!〉p.131

〈この輝き――この〈同〉のなかの〈他〉――この超越――〈他〉による〈同〉のこの覚醒――輝きによってさらに際立つこの点描――それこそが、えも言われぬもの(ineffable)ではないでしょうか〉p.138

〈他者への関係の倫理的意味は責任と化して、顔を前にしながら私に要求を突きつける見えざるものに応えている。どこからともなく、何時なのかも、なぜなのかも知られないまま私に到来して私を問い質す、そのような要求に応えているのである。責任を負うべき相手たる他者は「私の同類であり私の兄弟」ではあるが、ただし同類、兄弟はまた他なるものでもあって、それゆえ私は、兄弟の守護者たることへのカイン的な拒否を己がうちに聞き取るほどなのだ〉p.152

〈ここにいう意味とは,何らかのシニフィアンからそのシニフィエに向かう準拠の論理的構造の形式性によっては単に定義されることなき意味であり,より正確に言うなら,人間の友愛・兄弟関係の《一方は他方のために》(l’un-pour-l’autre)のまったき具体性において,先の準拠をその源泉に立ち戻らせる,そのような意味なのである……問題なのは,存在論には帰着することなく,存在についての経験には基礎づけられることなき近さ,社会性の意味論なのであって,そこでは意味性は形式的には定義されることなく,他の人間への倫理的関係によって,他の人間への責任と化したこの関係によって定義されるのである〉p.153-154

〈降りてくるもの〉は、〈私〉を真理の方へと誘っているのだろうか

 ――真理へと誘うのでなければ、降りてこないだろう

 それは〈他者〉であるか?

 ――〈私〉に理解しえない、〈私〉を誘うものは〈他者〉である

 しかし、触れようとして触れられるものだろうか? 画こうと、捉えられるものだろうか?

 ――在った、痕跡としての徴

〈他者はそこで「間接的に呈示」される。数々の徴や身振りや表情の変化や言語や作品によって告知されたものとして、つねに現れるのだ……それに対して顔の秘密は、知識以上に野心的で知識としての思考とは別用に描かれるような別の思考の裏面ではなかろうか。事実、顔は静謐なる知覚に差し出された形象ではない。まずもって、顔は私を指名し、私に要請し、私を責任へと呼び覚ます。それも、いかなる経験においても私が契約したことのない責任へと、である〉p.154-155

〈他者の異邦性、ただし、まさに異邦のものたるがゆえに他者は私を問い質す。それも、どこからともなく、あるいはまた、異邦人を愛する未知の神から私に到来するような要請を私につきつけることで〉p.155

 この世界の痕跡性について

〈問題は神という語の意味、その最初の原名の回避不能な情勢(circonstances)である。最初の祈禱、最初の典礼の回避不能な情勢である。超越は、他者に対する責任のこのような倫理的情勢と不可分なのだが、そこでは等しからざるものについての思考が思考されるのであって、それはノエシスとノエマのゆるぎない相関関係でももはやなく、また、〈同一者〉の思考でももはやない。そうではなく、絶えざる責任として、かかる思考は自我としてのその唯一性を顔の公現から引き出すのだが、そこでは、諸々の存在論の要求とは別の要求が意味を獲得しつつあるのである〉p.156

〈これらの領野が還元不能なのは、認識された世界の相対性のうちに――言い換えるなら、現象学的還元に原則的には従う秩序のうちに――挿入されながらも、これらの領野が、われ思うならびにその絶対性からなるノエシスの文脈に、その素材に、まさにその肉(chair)に属しているからである〉p.158-159

〈思考の根源的な受肉、それは客観化・客体化の用語で表現しうるものではない。『ィデーン』第一巻でのフッサールは依然としてそれを、統覚という用語で示唆していたのだったが、そうした受肉は、観照的あるいは実践的などんな態度決定にも先立っている〉p.160

〈自己の身体、生。生はここにある。言い換えるなら、空間の一点にあるのだが、この場所のなかに、感覚することの出発点が、「観点」がある〉p.160-161

〈感受性は、触れることならびに見ることの「認識」とは別の仕方で、他者に接近しうるという考えは、現象学者たちの分析とは無縁であるように見える。心性は意識であり、「意識」(conscience)という語のなかでは、知識(science)という語幹が本質的で第一義的なものでありつづける。このような社会性は、知識が意識を断つことがないのと同様に、意識の秩序を断つことがないのであり、知識は、知られたものと一体化しつつ、自分にとって異質でありえたものともただちに一致してしまうのである〉p.166

〈他者は顔において、倫理的責任を惹起しつつ、抹消不能な他者性に即して接近されるのだが、他なるもの、それも絶対的に他なるものに近づきうるという人間の可能性としての社会性は、顔にもとづいて意味され――言い換えるなら、命じられる……社会性は、人間的なもののなかで、人間的なものによって人間的なものに固有な善性を証示するようなまったく新たな様態なのである。社会性の卓越、それはおそらく愛の卓越であろうが、そのような卓越のなかで統治しているのは、たんに存在とその統一性の法則だけではない。社会的なものの精神性はまさに「存在するとは別の仕方で」(autrement qu’être)を意味しているのである〉p.167

〈人間的なもの同士は互いに異邦の存在ではあるが,社会を形成することができ,社会では絆はもはや,諸部分の一個の全体への統合ではない。たぶん,この絆は人間に対して人間が《無-関心-ならざること》のうちに宿っているのだろう。愛とも呼ばれる絆であるが,それが異邦性の差異を吸収することはない。このような絆は,人間の顔を介して,世界の外なるいと高き所から到来する言葉ないし命令を起点とすることでのみ可能なのである〉p.168

 他者を感受する そこに社会性が開けている

〈「超越的〈自然〉、自然主義にいう即自と、精神やその活動やノエマの内在性とのあいだに、何かが介在しているのは疑いない」(『シーニュ』)。この何かについての存在論は感受性のうちに書き込まれており、感受性という還元不能なものにあっては、思考と延長との関係は世界への居住(habitation, incolere)――、文化(culture)を創始するこの住むという出来事であることになります。感受性においては、自我と世界という他なるものとの関係は、構成的能作によって世界を同化することではなく、外面的なもののなかでの内面的なものの表出(expression)、文化としての生でありましょう〉p.180

〈握手は差異(différence)のなかに――隣人の近さ(proximité du prochain)のなかにあるのではないでしょうか……この差異は――平和・平安の新たな意味性であって、それは指向性や主題化としての心性によっても、情報の伝達によっても担われることなく、《他者‐に対する‐責任》という《無差異・無関心ならざること》(non-indifférence)によって担われているのです……感情とは他人に自分を合わせること(s’accorder)であり、言い換えるなら、他人に自分を与えることではないでしょうか。もちろん、すべての感情が愛であるわけではありません。けれども、そんな感情も愛を想定しているか、さもなければ愛を逆転したものなのです〉p.183

〈私の思考の外にあるような思考の存在と係わり、「話しかける相手」がそこにいるという事実を開示する危篤の認識や、さらには直接的で即座の認識をも超えて――あるいはその手前で――、感情移入はそれ自体ですでに――しかも十全な仕方で――ひとつの社会的関係なのではないか……フッサールは、「私は自分を移入する」(Ich fühle mich ein)という再帰動詞の人称的形式のもとにこの感情移入を表現したのでしたが、感情移入はすでにして共感のごとき響きを、友情のごとき響きを、一種の兄弟愛的な憐憫のごとき響きを有しているのではないでしょうか。言い換えるなら、他の人間の「被ること」(subir)を自分の責任で引き受けることとしての響きを有しているのではないでしょうか〉p.185

〈「自己を他者に借りること」は感性的構成の秩序に属しているのではありません。それは他人に「先手」を認めることなのです! 自己を借りること――、当初から両義的なものたるあの接触のなかに潜んだ(s’insinuant)社会性を表す比喩に他なりません〉p.186

〈《無-関心-ならざること》、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異――《無-関心-ならざること》――、そこでは、他なるもの――それも絶対的に他なるもの――、こう言ってよければ、〈同じ類〉――自我はそこからすでに解き放たれた――に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものが私を見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものを私は「見つめる」、それは顔なのである〉p.204

〈その結果、個的なもの――アリストテレス以来知られているように、「それだけが実在する」のだが――の本性と匿名性に、心的実在の展開に、思考可能なものすべての母体と化した主体的なものに、諸観念と諸概念の普遍性ならびに理念性を、そしてまた、「われ思う」――かつては思考スルモノと延長セルモノ双方を先見的に支配しているように思われていた――の統一性を還元しようとする誘惑が生じることになる〉p.242-243

〈意識は自分とは異なる何か、その指向的相関者、その思考されたものについての意識である〉p.243

〈絶対的かつ純粋で、ノエシス-ノエマ的生がそこに遡ると共にそこから発するところの〈自我〉。そのような〈自我〉が〈超越論的還元〉のこのうえもない方法論的試練を支え、そしておそらくはそれに耐えているのであろう〉p.247-248

パブロ・カザルス 鳥の歌

 ジュリアン・ロイド・ウェッパー編/池田香代子訳(1989).パブロ・カザルス 鳥の歌.ちくま学芸文庫

《だれもカザルスがチェロを演奏しているとは思わなかった。彼は音楽を奏でているのだ》p.61 ポール・トルトゥリエ

《体はよく動くが、それはかくれた思想の動きを反映して、的確でいきいきとしている。魂の底の底まで感情がみちあふれている……》p.65 ウジェーヌ・イザイ

《私はカザルスがどんな楽器を演奏しているのかを忘れることすらあった。私たちと作曲家じしんの声のあいだにはなにもないように思われたからだ》p.66 アイヴァ・ニュートン

《バッハはこういう人だったのではないかと私は思う。人生と芸術が完璧をなしている、そういう完全無欠の人物だ》p.71-72 ポール・トルトゥリエ

《音楽に奥深いものをかんじとり、自分のもっとも深い思想や、心の奥の奥に秘められた感情を形にしたいとねがうものにとって、オーケストラは最高の手段です。そしてこれとおなじくらい魅力的なのは、共同ということです。たくさんの人があつまって音楽を作りあげるという体験に、私は夢中になっています》p.74

《カザルスのただひとつの関心は音楽に、そして作曲家の意図の解釈に向けられています。カザルスは歌います……霊感をあたえてくれます》p.79 パウ・カザルス管弦楽団の演奏者の一人

〈カザルスは、組曲第三番のクーラントをスタッカートで弾いたことについて、こういった。

「純正主義者たちは、私の奏法に憤慨している。なぜならバッハの時代にはスタッカートは存在しなかったらしい――そうらしいからっていうんだね」〉p.94

《組曲はアカデミックな作品と考えられてきた。テクニック一辺倒の、機械的で温かみのないものだと。考えてごらんよ! 広がりと詩情が一点の曇りもなく輝きあふれるあの曲が冷たいだなんて、だれがいえるだろう! あの作品はバッハの本質そのもので、バッハは音楽の本質そのものなのに》p.95

《音楽は目的のために役に立たなければならない。人間性という、音楽自体よりも大きなものの一部でなければならない。そして、現代音楽について私がいちばんいいたいのは、それが人間性を欠いているということだ》p.110

《……むつかしいのは、理解できることばを使って自分じしんの個性を作品に刻み込むことだ》p.111

《……私は芸術家です。私が私の芸術で求めているのは、人と人との平和と調和だけです》p.136

《彼の芸術は激しい。にもかかわらずそれは悪との、道義にもとるあらゆることや正義を侮辱するあらゆるものとの妥協にたいする断固とした拒否と結びついている――そしてこのことはこの堕落した時代にあって、誇り高い、堕落しようもない高潔さの手本を掲げて、芸術家とはこれほどに高尚で幅広いものかと私たちが理解するよすがとなる》p.143 トーマス・マン

《カザルスとおなじ部屋にいて、まったく変わらずに出てくるのは不可能です》p.147 ある弟子

《どんなに重要な人物の企てや活動も、高潔さと優しさが核心になければならない》p.148

《魅力的と思われることはそんなに重要ではない。いい演奏をすることの方がよっぽど重要だ》p.150

《私はあらゆるところに、音楽に、海に、葉に、優しい行為に神聖な源を見る。こうしたすべてのものに、私は人びとが神と呼ぶものの存在を見る。そして私はこの神聖な血筋を自分じしんのうちにもっている。それがより高いなにか、あまりにも高いのでその存在は信じるよりほかないなにかの存在を教えてくれるのだ。そしてほかのなににもまして、私は音楽の奇跡のなかに神性を見る。バッハやモーツァルトによって生みだされた音は、無際限に善であるなにか、神聖ななにかを想定せずには説明できない奇跡だ》p.154

〈……しかしグリーンハウスはカザルスがおなじ音楽作品を再創造するさまを、畏怖の念をもって見守った。弓遣い、運指、解釈――なにからなにまでちがっていた。しかもじつに見事だった。解放された、とグリーンハウスはかんじた。カザルスは彼に、作品が第二の天性になるまで作品の様式と構造に同化するように強制し、ついでこの野心的なチェリストに、決定的な解釈などないということを、つまり作品が演奏されるたびごとに、その再創造には無限の可能性があるのだということを示したのだった〉p.162-163

《芸術家は自分が演奏する音楽に全面的な責任を負っている》p.168

《音楽は人生そのもののように、絶え間ない動き、つぎからつぎへと湧き出る自発性であって、あらゆる束縛から自由なのに、書かれた楽譜というのは拘禁衣のようだ》p.176

《私は生きています! ほんとうに生きている人はごくわずかです》p.216

《もちろん演奏し、練習しているよ。あともう百年生きたとしても、つづけるだろうね。チェロは私のいちばん古い友達だ。見捨てられるわけがないだろう?》p.219

《……仕事をして、それに嫌気がささない人はけっして歳をとらない。仕事と価値あることにたいする興味は、不老長寿のいちばんの薬だ。毎日私は新しく生まれる。毎日私はゼロから始める》p.230

《……いとも簡単に見える演奏は最大の努力からしか生まれない》p.232

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