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現代の超克

 中島岳志・若松英輔(2014).現代の超克.ミシマ社

〈超越にふれることが救済である、あるいは、すでにふれていることを認識することが救済であるというのは、多くの宗教において、さまざまな表現を取りながらではあっても、共通した認識だといえると思います。柳は、美とは、超越がこの世界に自らの姿をまざまざと顕現させる力強い姿であることに気がつきます。柳は美にふれることもまた、一個の恩寵の経験だというのです〉p.14

〈論理の働きとは、いつか、論理の彼方へと飛翔するためのものであることを忘れてはならない〉p.15

 

〈柳は、いたずらに意味を解析するのではなく、音に還ろうと訴える。別な言い方をすれば、音に還るというのは、言語という言葉だけでなく、音ということば――井筒俊彦がいう高次な言語としての「コトバ」――との関係をとりもどすことを強く促す。

 音に還るというのは、押しつけられた理ではなくて霊的な衝動に還れということです。ここでの「衝動」とは、短絡的な行動原理のことではなく、人間の精神の深みから湧き上がる、打ち消しがたい、確かな、人間を超えた者を渇望する感覚です〉p.18

 

《彼らはいずれも哲学者である以前に神秘家であった》p.21 井筒俊彦

 

〈絶対他力を、今はあえて「超越」あるいは「超越の働き」と呼ぶことにします。論理で超越を語ろうとする近代に向かって彼は、超越があるから論理が存在するのであって、論理とは、人間が超越に向かおうとするときに歩く、長い道程のなかにある場面の呼称にすぎないというのです〉p.22

 

〈人間のもつ光で彼方の世界を見るのではなく,彼方の世界からの光でこの世界を見,その光に導かれて光源に至ろうとすることを,彼は「信仰」と呼んでいます〉p.23

 

〈一遍は言語を極点まで無化しようとする。人間が念仏を唱えるのではなく「念仏が念仏する」(『南無阿弥陀仏』p.5)のである,と一遍は語ったと柳は言います〉p.26

 

《しかるに、やりたくてやる以上の自由さがあるのである。やりたい心などに囚われる縁がない仕事だともいえる》p.27 (『美の法門』p.51)

 

〈どこまでが自分の言葉で,どこまでが法然の言葉かわからない。そのような死者との真の交わりが『教行信証』において成立していたのではないかと思うのです〉p.29

 

〈つまり念仏は絶対他力の働きであって、自己の主体的な意思によるものではないというのです。私が念仏を唱えるのではなく、絶対他力が私をして念仏を唱えせしめている〉p.30

 

〈悲しむ者は、他者の悲しみを感じるとき、そこにぬくもりを見出す。悲しみは、意識されないところで別の悲しみを慰めていると柳は言うのです」p.34

 

〈どの宗教も自分の宗派を信仰する者が救われる、といいます。そこまではよい。しかし、信じない者はどうなるのでしょうか。信じることができない人々の救済を願うことこそ善ではないでしょうか〉p.46

 

〈現代では真も善も、いたく脆い。現代においては、美がもっとも力強く民衆を救いえるのだと柳は信じていた。柳がいう「美」とは、美醜を超えた、美醜の彼方の「美」です。これは美しい、これは美しくない、という相対的なものではありません〉p.47

 

〈読むというのは,それを書いたものと出会い,対話する,ということです。そして,書くとは,先人の叡知に助けられながら未知の自分に出会うということです〉p.67

 

《[すべての宗教は,聖なる霊に触発されて生まれたものですが,それらは人間の精神の所産であり,人間によって説かれたものですから,不完全です]一なる完全な宗教は,いっさいの言語を超えたものです》p.77-78 ガンディー

 

〈先の一節でガンディーが「霊」と呼んでいた超越的絶対者を、(十三世紀イスラーム神秘哲学の租)イブン・アラビーは、「存在」と呼びます。彼によれば、「花が存在する」のではなく「『存在』が花する」ということになる……万物が「存在」の顕われだというのです。問題は、その顕現の度合いにある。しかし、存在するすべての物に超越の働きがある、という認識は動かない〉p.84

 

〈彼(井筒俊彦)は「存在はコトバである」といいます。ここでの「存在」がイブン・アラビーのいう「存在」、宗教的な言葉でいえば「神」です。それが「コトバ」として顕われる……文章を書くとき、人は言語をコトバにしますが、絵を描くときは色や線がコトバです。歌うときは音律がコトバです。悲しむ人に寄り添いながら抱きしめる、その行為すらコトバとなる〉p.84-85

 

〈人間は、自分にとって好ましいものに対しては、意識下で、自分と同じ源流から生まれたものである、という感覚を抱いています。姿が異なるものでも、共振、共鳴するものは、深いところでつながっていると感じている。しかし、不二一元論の思想はそこにとどまらない烈しさを秘めている。敵対するもの、あるいは理解が困難であると感じられるものでも、その源流は一なるものに帰っていくというのです〉p.85

 

《わたしたちは,いまだ神を実感し悟得していないのですから,宗教を完全には理解していません。わたしたちが頭に思い描いている宗教は,このように不完全なのですから,つねにそれは発展途上にあり,理解を新たにする必要があります》p.91 ガンディー

 

《真に勇敢であるならば,そこには敵意,怒り,不信,死や肉体的苦痛への恐れは存在しない。このような本質的な特性を欠いている人々は,非暴力ではない》p.95 ガンディー

 

《欲望が消滅すれば、もはや肉体の必要性はなくなり、人は生死の循環から解放されます。霊魂は遍在しています。それなのに、どうして霊魂は鳥籠のような肉体に閉じ込められたがるのでしょうか。あるいはまた、そんな鳥籠[肉体]のために悪をなし、人殺しまでしなければならないのでしょうか。このことに気づくとき、わたしたちは完全な自己放棄の理想に到達し、そして肉体が存続するかぎり、奉仕のためにこれを用いるべきことを知るのです》p.100-101 ガンディー

 

〈ガンディーが「塩の行進」をする。そこには数万人の生者の傍らに無数の死者が寄り添っている……真理に向かって独り立つとき人は、無数の死者の助力を得る、それはガンディーの深い実感だったように思われます……人は、「独り」であることで他者と結びつく、ということを石牟礼さんもガンディーもその生涯で証しているように思います〉p.102

 

〈不可視なものに本当につきあっている人間は、必ず可視的な問題の世界に戻ってくる。別な言い方をすれば、深く現実世界にしっかりと参与できているということが、不可視なものにより深く出会っていることの証なのだろうと思います〉p.112

 

《インドをイギリス人が取ったのではなく、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力でいられたのではなく、私たちがイギリス人たちをいさせたのです》p.118 ガンディー

 

〈自己と他者の関係は、「我」と「それ」、「我」と「汝」という二つの在り方がある、とユダヤ人哲学者マルティン・ブーバー(18781965)が言いました。「それ」は、不特定の他者、「汝」は相互、相補的に存在する。「我」がいて「汝」もいる。「汝」がいて、はじめて「我」たりえる。人はときに「我」を忘れる。しかし、「汝」と呼ぶべき他者はけっして「我」から目を離さない。人はときに自分を見つめることを忘れる。しかし、死者は私たちの魂から目を離さない〉p.133

 

〈「読む」とは、言葉である死者にまみえることだともいえる。別な言い方をすればみなさんが心のなかで死者を感じるということ、それだけで十分創造的な営為なのです〉p.141

 

〈そして僕は、「ここに死者がいる」と思ったとき、慄くとともに、少しほっとするのです。人間は誰ひとり単独の存在ではなくて、死者や過去とつながり、大きな生命の器として生きているのです。私が命を生きているのではなくて、命が私を生きているのです〉p.150-151 中島岳志

 

〈ここでの「記憶」は、個々の生者の意識現象です。人類の記憶ということとは違います。人類の記憶は「歴史」そのものです。一方の小林秀雄のいう「思い出」はこの記憶にとどまらない人類の記憶に開かれているものです。「思い出」は訪れるものであり、宿るものであり、私はやはり「死者からの呼びかけ」だと思います。リルケ(1875-1926)は生理的な意味での「記憶」ではなく、「回想」という流れこそ大切だのだといいますが、同じことです。「記憶」と「思い出」あるいは「回想」は根本的に違います〉p.154-155

 

〈世の中には理性的認識だけでは捉えきれないものがある。むしろ、理性を超えているものによって私たちは支えられている。この矛盾の中に芸術が宿る。哲学だってそうです〉p.162

 

〈悲しみが深いからこそ、死者を近くに感じることがある。死者を自分の魂と感じるように、あるときはそれ以上に近く感じる。私はこうしたときにも幸福を実感する。耐えがたい悲嘆をつうじてこそ、それまで見ることのなかった光を見た、とすら思います〉p.163

 

〈「読む」ことは、そこに書かれていることが生まれる場所、コトバの源泉へと接近することです。憲法学者は憲法を解釈する前に、「読む」ことの必要性を語ってほしい。哲学者には法とは何かを語る前に「読む」とは何か、その創造的な意味を語ってほしい。中島さんが言うように死者の言葉を引き受けるということは、すなわち「読む」ということです〉p.166

 

〈大切なのは、読んだときに何が自分に接近してくるか、です。不意にやってくるままならないものと出会うことが、「読む」という行為です〉p.171 中島

 

〈無私であることにおいて、個は究極的に輝く。どこまでも個であろうとすることは、他者の存在をいっそう際立たせる。また、自己は、自己のみによって存在するのではなく、他者とは開かれた自己への別な呼び名であることも明らかになってくる。別な言い方をすれば、他を深く感じることが、自己を、個を深めることになるというのです〉p.197-198

 

〈誤解を恐れずにいえば、霊性論とは眼前の他者にいかに超越の顕現を見るかという問いになるはずです〉p.203

 

〈現代の科学は、本当の意味で「生きた」ものになっているかどうか。「生きたものである」とは、いつも人間にとって知りえない領域をもっている、ということです〉p.218

 

〈哲学の思惟とは、常に未知なるものへの営みです〉p.221

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