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「他者」の倫理学

 青木孝平(2016).「他者」の倫理学 レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む.社会評論社

 

〈すなわち意識の志向性によってのみ、事象は初めて「対象Objekt」となる。それゆえ、のちのフランスの実存的現象学においては、それは「対象化objectivation」あるいは「意識事象の主題化thématisation」とも言い換えられるのである〉p.30

 

〈それゆえフッサールは、本質直観ないし本質観取による認識を、意識の「内在immanent」による世界存在の本質還元と呼んだ。この内在から出発して意識のうちで事象経験を構成することを「超越transzendent」と呼ぶ。すなわち現象学とは、意識に内在的に与えられた事象の超越論的な再構成を意味する〉p.32

 

〈これらの批判に応答すべく、フッサールは、その現象学のなかに「他者das Andere」を位置づけ、自己が他者とともに共属する「間主観的世界Intersubjektivität」を構成しようと企てるのである〉p.33

 

〈それゆえレヴィナスによれば、主体としての「自己」から分離した「他者l’autre」は、文字どおり「同」に対する「他」として、自我の全体性を喰い破って向こう側から出現するしかない。すなわち「他者」の「他性altérité」、「全体性」の内部からではなく、逆にその絶対的な「外部」に顕現する以外にない。他者はいわば「無限infini」としてのみ存在する、というのである〉p.63

 

〈「他者」は自己の思いもよらぬものであり、自己の認識を超えた、いわば「超越transcendance」としての存在である。それは自己と同じ度量衡をもってしては計算できないものである。それゆえ、レヴィナスは強調する、「絶対的に他なるもの、それが他者であるl’absolument Autre, c’est Atrui」〉p.64

 

《『他者』の未知性とは,他者を私の思考,私の所有物すなわち『自我』に還元することの不可能性であり,それゆえ『他者』の未知性は,ほかでもない私の自発性に対する審問として,すなわち倫理としてのみ成就される(全体性と無限 p.47)》p.66

 

《存在者に対する存在の優越を肯定することは、ただそれだけすでに哲学の本質について一つの学説を述べることに等しい。つまりそれは、一個の存在者である誰かとの関係(倫理的関係)を存在者の存在との関係(知の関係)に従属させることであり、存在者のこの存在が、非人称的存在としての存在者の掌握、支配を許すのである。それはまた正義を自由に従属させることでもある。もし『他』の只中にあって『同』でありつづける仕方が自由の特質であるとすれば、知が自由の究極的意味を内包していることになる。その場合、自由は正義と対立することになろう……存在者とのいかなる関係をも存在との関係に従属させるハイデガーの存在論は、倫理に対する自由の優越を追う呈することになる(同 p.67)》p.67

 

〈こうしてレヴィナスは,「他者」を,自己の知によって理解しがたいもの、自己の「知」の範囲を超えた「絶対的他者」として捉える。すなわち「他者」は,自己の意識作用とは関係のないところから,自己に向かって到来する。私(自己)にできることは,そうした「他者」を,自己の認識とは無関係に,ただひたすら受動的に受け入れることだけであり,私は否応なく他者を受容せざるをえないのである〉p.68

 

《顔は活き活きとした現前である。表現の生命は形を壊すことにある。形において存在者は、主題として身を晒すことで自らを隠してしまうのである。顔は語る。顔の顕現はすでにしてそれ自体が言説である…他者の『顔』は,その顔が私に残す形状的なイメージを絶えず破壊し,そこからはみ出す。すなわち私の尺度にあった観念,観念されたものの尺度にあった観念を絶えず破壊して、この十然たる観念からはみ出すのである(p.60)p.70

 

「顔」と「死者」はどう違うのか。

 

〈この著書においてレヴィナスは、先の『全体性と無限』において、自我の自同性ないし全体性をあらわす概念として用いた「同」を「存在l’être」に置き換え、これに対して、逆に、無限をあらわす「他」を、「存在とは別の仕方autrement qu’être」あるいは「存在することの彼方au-delà de l’essence」といった奇妙な用語で表現することになる〉p.75-76

 

 この世の外からの語りかけである。

 この世の外までも 無限へと開かれてあることの可能性として 無限への通路としての芸術。

 

〈レヴィナスにとって,「存在」とは存在すること,すなわちない存在への不屈の固執であり,存在することは,他なるものを出口のない宿命(内存在)のうちに幽閉してしまうことであった。「存在」は,その否定や無化,非存在といった存在からのあらゆる逸脱さえも、存在のなかに包含し回収してしまう。それゆえ『存在の彼方へ』は、存在からの剥離が、「存在しないこと」さえも超えて、どのようにして可能なのかを示さなければならない」p.77

 

〈顔の無言の要求に応えて、私は他者の顔に向けて語りかける。レヴィナスによれば、このかぎりで、「語ること、それはもっとも受動的な受動性」であり、そこに他者に対する無限の責任があらわれることになる〉p.78

 

 死者からの語りかけを聞くこと 原民喜の死者たち

 

《顔は彼性の痕跡である。彼性は、存在の他者性の起源であり、対称性の即時性は彼性を裏切りつつそれと融即する。……神の似姿であることは、神のイコンであることを意味するのではない。そうではなく神の痕跡のなかに自らを見出すということである。……痕跡の輝きは謎を秘め曖昧である。このことが痕跡の輝きを現象のあらわれから区別しているのである。痕跡の輝きは論証の出発点として役に立たないであろう。論証は容赦なく内在と存在のうちに引き込んでしまうことになるからである(存在の彼方へ p.44)p.83

 

〈私は、他者の悲惨によって、同情ではなく触発され、他者の悲惨を苦しみ、害を受け、かつそれに耐えている自己を発見する。なぜなら私は、他者のために、他者の代わりにあらかじめ存在する「一者l'un-pour-l'autre」にすぎないからである……このように倫理はつねに無根拠であり無起源であり、逆にいえば、そうした定言命法に無条件に従うことこそが倫理なのである〉p.87

 

《私とは一つの特権、ないしは一つの(顔による)選びélectionなのである》p.87

 

《善は私の自由に対して差し出されたものではない。私が善を選ぶ以前に善が私を選んだのである。自分の意志によって善良であるようなひとは誰もいない(存在の彼方へ p.41)》p.88

 

〈これらの思想には、「自己」という存在者の意味は、他者を主体とする能動性によってしか明証されないという人間の根源的な「受苦性」が刻印されている。私(自己)という一者l’un-pour-l’autreに憑依する逃れようのない受苦性、この無条件の肯定こそが市民社会という正義の裏に潜んだ超越論的な救いへの希求だったのではなかろうか〉p.98

 

〈このように親鸞の「他力」は、絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての「自己」の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な得心が対置されることになる。それは先にみた、レヴィナスにおける主体としての他者と従属者としての自己という非対称性の構図と、いみじくも重なり合わせることができるように思われる。阿弥陀仏とは、まさに現世の「存在」と区別された、自己の認識の彼方(浄土)にある「絶対的に他なるもの」である。衆生は、自己から仏(他者)に向かう行をいっさい許されず、ただ「他者」の命令に従うことによってのみ、初めてその「身代わり」になることができる。すなわち、「他者(仏)」だけが、「自己(衆生)」を成仏させることのできる唯一の主体なのである〉p.196

 

〈自分の没後の行き先が地獄であろうと極楽浄土であろうと、それは自分の預かり知らぬことである。自力(悟り)か他力(救い)か、あるいは自らが善人か悪人かという二者択一のあらゆる詮索(はからい)をやめて、すべてを弥陀の本願に任せるというのである〉p.211-212

 

《商品交換は、共同体と共同体とのあいだに発生して、後に共同体の内部にもその形態の浸透をみることになる、と考えられるので、商品交換をはじめて行なう共同体と共同体とが、交換以前に私有財産制と社会的分業(労働)とをいかにして共通にもっていたかが疑問となる。むしろ商品形態自身がその前提とする私有財産制と分業とを全体制的に完成させるものと考えるべきである(宇野著作集第二巻 p.190)》p.270-271

 

〈「商品」は、まさに、人間の労働過程の「外部」に、間主体的intersubjektivにのみ登場する。こうして宇野『原論』は、「人間」の労働ではなく、前もってその外部にある「絶対的に他なるもの」としての商品を端緒に分析を開始することになるのである〉p.271

 

〈レヴィナス流にいえば、商品世界に対して貨幣とはひとつの「外性extérité」であり「絶対的に他なるもの」である。親鸞の用語を使えば、商品(自己)は自力で貨幣に転生するわけではなく、あくまでも貨幣(他者)の他力によってのみその販売が実現されるのである〉p.275

 

〈商品から貨幣が内在的に導き出されたのではないのと同様に,けっして貨幣もまた直接に資本に転化することはありえない。資本は,貨幣という主体の彼方に存在し,それを超越して増殖するいわば「無限者」である。それはまさに,商品流通という「同le Même」に対して「外性extérité」としての資金から顕現するのである〉p.278

 

〈あくまでも資本主義の「主体」は資本という外的な流通形態であり、これまで「主体sujet」とみなされてきた人間は、どこまでもその「従属者sujet」でしかない。この「他者」としての資本が「自己」としての人間をその内部に包摂しえたとき、資本主義はひとつの社会として「他なるもの」による完全な支配を確立する。すなわち「人間」なる主体は、自己を「いかなる受動性よりも受動的な受動者」として、他者による無限なる能動的支配を受け入れざるをえないことになる〉p.279

 

〈このような、いっさいの他性をもたない負荷なき自我は、自己の超越論的意識のうちに世界を構成することもできなければ、自己の労働の表出によって商品を所有することもできない〉p.280

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