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キリスト教講義

若松英輔+山本芳久(2018).キリスト教講義.文芸春秋

〈キリスト者とはイエスにある強度のある関係を感じる人の呼び名だとすると、キリスト教とは異なる信仰を生きている人のなかにも、「キリスト者」は存在する、とも言える〉p.26

〈先ほど「レビ記」のお話がありました。「あなたの友をあなた自身のように愛せよ」というイエスの有名な言葉があるのだと。それは別の言い方をすれば、あなたが神に愛されているように、あなたは他者を愛せよ、ということですね〉p.50

〈キリスト教的な神との一致というのは、どこまで神と人間とが深く結びついていっても区別が保たれているところに特徴があるのだと、多くの神秘主義の研究者が言うのもその意味においてです。神と人間との関係にせよ、あるいは人間と人間の関係にせよ、長い時間をかけて深く結びついていく、その極めて深い結びつきのただなかにおいて、個が個としてますます輝いてくるということをトマスなどは言うのです〉p.55

《大人にしても子どもにしても他者を求めない人が「最も利己的な人」である場合が多い……「求める愛」を心に持つことがないのは一般に冷酷な利己主義者であることのしるしである》p.59  (C.S.ルイス『四つの愛』佐栁文男訳.新教出版社.p.6-7)

 神を愛するとは、〈他者〉を大切にすること

 ヌミノースと他者

 超越

《友情は数限りない大きな美点をもっているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。それは、真の友人を見つめる者は、いわば自分の似姿を見つめることになるからだ。それ故、友人は、その場にいなくても現前し、貧しくとも富者に、弱くとも壮者になるし、これは更に曰く言いがたいことだが、死んでも生きているのだ》p.98 (キケロ『友情について』中務哲郎訳.岩波文庫.p.27)

〈他者〉の似姿としての友人

〈受肉の本質は、「神が自らを被造物に一致させること」にあるのではなく、「被造物を神に一致させること」にあるという。つまり、変化するのは神ではなくて、被造物――人間――の方なのだというのです……トマスは、「神が人になった」というよりも、神が人間性を摂取して神性に深く一致させた存在がキリストなのだと言っているのです。もう少し言えば、人間性を神性に一致させたキリストという存在が生まれることによって、人間と神とが深く結びつくことが原理的に可能であることが、人間に深く示されたのだとトマスは言うのです〉p.106

 受肉――人が人のままで神に一致すること

《実際キリストの神秘は、啻に彼が神であるということには存せず、神にして同時に人たる点に存する。この前代未聞の奇蹟によって、キリストの面に神の栄光が輝いたばかりでなく、神御自らが真の人間となり給うたのである。キリスト教の根本信条は人間の羽化登仙ではなくて、神の御言の御托身である》p.108 岩下壮一『信仰の遺産』岩波文庫.p.29

〈人間は無限の欲望を持っているけれども、それは無限である神のうちに安らぐことによって、はじめて満たされるのだというのです〉p.112

〈他者〉という扉は、無限の彼方へと開かれている

《恩寵は自然を破壊せず、むしろそれを完成させる》p.113 (神学大全)

〈信じられないほどの「恩寵」に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを越えた仕方で現れ、実現する〉p.114

《恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、はいっていけない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である》p.119 (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』ちくま学芸文庫.p.24

〈人間を存在の深みに偶発的に誘うのも神秘のはたらきの一つだと思います〉p.119

 だれが思考しているのか

 思考(他者)の宿りは、神秘といえるか

〈人間が神を求めるのではなく、まず神が人間を求めるのだという基本的なキリスト教の発想〉p.121

 死者は私から目を離さない(若松)

《神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」》p.122(「出エジプト記」より) 

 共に在るとはどういうことか

 相補ではなく、よろこびとして

 太陽と溶け合う海

 共感のありか

〈現代人はすべてを「問題」として捉えがちなのだけれども、そうではない。「神秘」とともにあるというあり方で、謎に直面することができるということなのだと思います〉p.127

Je ne sais pas ce que je crois.Gabriel Marcel 「私は私の信じているものを知らない」

〈キリスト教における神秘はわれらの間にある、死者の世界と天使の世界、この世界とあの世界が不可分に存在している、人間という存在は彼方の世界からのはたらきかけによって生かされている。神秘を生きるとはつまり、私が生き、生かされることであるのだということなのでしょう〉p.134

〈自分が言葉を書くのではなくて、言葉に助けられて書くという天使的な経験というのは、ものを書くときにあるのです〉p.139

〈私たちが普通に考えることのできる概念理解を超えたものを認識している視座ですよね。文字で書かれたものを字義通りに考えるのではなくて、形而上学的に考えていく訓練なしには、聖書の言葉の解釈をいくら積み重ねても、経験の扉は開かれない気がします〉p.143

〈やはりいま求められているのは、神学ないし神学に類するものの復権ではないでしょうか。超越に対する呼びかけ、超越との応答を学問の根幹に据えたものを復権しなければいけないのではないかと思います〉p.144

〈神を探求するとは、宇宙の彼方にいる神を自分とはまったく別の存在としてとらえることではない。むしろ真に自己に直面することで自分の奥底に神を探求する通路が開かれるのだと言う〉p.192

〈そもそもなぜ、自由意志を持った人間を神が想像したかといえば、人間と神が愛に基づいて交流することを、神は創造の目的としていたからだと考えるのです〉p.217

〈そこでアウグスティヌスは、より高次の善を犠牲にすることによって、より低い善を実現しようとすることが悪しき行為の本質なのだと考えるのです〉p.219

〈悪とは人間のなかに内在する、聖なるものを破壊しようとする衝動なのであって、それは罪とは根本的に異なるもの、つまり、本来求めなければならないものを求め損なっている、というよりも、本来求めなければならないものを破壊しようとする衝動を伴ったものが悪なのではないでしょうか〉p.223-224

〈オットーは非言語的なるもの、容易に言葉を超えてくるものとどうにか向き合おうとするわけだけれども、それをやめて言語で表現できることだけを語ろうとすると、そこには「聖なるもの」の残骸しか残らない。そして現代においては、むしろそれこそが「聖なるもの」としてみなされているのではないか〉p.262-263

〈ゲーテ(17491832)もまた「聖なるもの」について面白い言葉を残しています。「聖なるもの」とは語り得るのだろうか、いやむしろ、語り得ないものこそが「聖なるもの」ではないか、それこそが、恐るべき神秘であるとゲーテは言います〉p.263

《言葉で言えず,全く想像もつかない最高のものがまるで自分たちとあまり違わないかのように,人々は神の名をぞんざいに扱っている。そうでなければ,主なる神とか,愛する神だとか善き神などといった言い方をしないだろう。神の偉大さが骨身に沁みているのならば,沈黙するだろうし,栄誉のためにむしろ名を呼ばぬ方がよい》p.263(エッカーマン『ゲーテとの対話』下巻.岩波文庫.p.38

〈言葉で語ろうとしても語りえないもの、それこそが叡知だと思うのですが、トマスやアウグスティヌスのそうした態度には目を向けず、まるでエビデンスを読むかのように『神学大全』などをなぞっていくと、何か「聖なるもの」が剥がれ落ちてしまう気がします〉p.265

〈トマスは『神学大全』において、信仰とは最終的には言語的命題を信じることではなく、言語的命題が触れようとしている何ものかを信じることだと言っています〉p.265

 なぜ「信じる」のか 私なら「問う」

〈「美」も「神」も、人間の側がそれらを求めるだけでは何も始まらず、むしろそれらのものからの呼びかけを感受することによってすべてが始まっていく。もっと言えば、人間の側がそれらを求めるということ自体が、それらのものからの呼びかけや促しの一つの現われであり応答でとも言える〉p.284

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