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ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考

 熊野純彦(2002).ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考.筑摩書房

〈近代化の哲学的基底を手繰りよせようとしたヘーゲルの思考が、その展開のさなかで〈近代批判〉をむしろ孕まざるをえなかったのは、ヘーゲルの哲学がその根底にあって、近代的な思考の枠組みから溢れでてしまう発想の核を内部に懐胎していたからにほかならない。いわゆる〈体系〉は、ここでもまた軋んでゆく〉p.5

〈真なるもの、真理は、とはいえ第一義的には「主体として」、すなわちみずからのうちに運動の原理を孕むものとして「とらえ表現」されなければならないのである〉p.9-10

〈知が「真なるもの」(das Wahre)、存在者のほんとうのありかたを追いもとめようとするかぎり、知は直接に現前するものを超えて、その背後へとさかのぼろうとする。そのようにとらえられた「背後」(Hintergrund)こそが存在の真なるありかた、つまり「本質」ないしは「実在」(Wesen ウーシア)にほかならない〉p.13

〈これにたいして、知の運動が同時に存在の運動であり、知と存在が運動にあって相即し、いわば共変的であるならば、生成するものはたんに知の真理であるだけではなく、同時に存在の真理である……そこでは、真理それ自体が生成する……「存在」がそれ自体として〈生成〉の相のもとにとらえられるとき、真理それ自身も運動をまぬがれることはできない。真理もまた〈他なるもの〉となり、〈他なるもの〉との関係のうちにある〉p.17

〈〈あるもの〉つまり意識にとっての対象は、意識とはべつのものであり、意識にとって〈他なるもの〉でありながら、意識はこの〈他なるもの〉に関係している。このような区別と関係が存在するとき、〈あるものについての意識〉が存在している。〈あるものについての意識〉が存在する、とは、ことばをかえれば「あるものが意識にたいして存在している」(es ist etwas für dasselbe)ことであるといってもよい〉p.32

《同時に、意識にとって〔自体という〕この他なるものはたんに意識にたいして存在するばかりではなく、この関係の外部に、あるいは自体的にも存在する》(zugleich ist ihm dies Andere nicht nur für es, sondern auch außer dieser Beziehung oder an sich) p.41

〈このように(知覚し、ときに錯覚もして、錯覚もまずは知覚としてあたえられるような)経験する意識そのものに密着してかたるかぎり、変化するのはたんに「知」(「見え」あるいは「おもいなし」)ばかりではない。知が変容するとき、対象もまた変化する。経験する「意識にとって」存在する「自体」が変容する。対象にかんする知が変貌するというよりも、むしろあらたな対象が生成するのである〉p.50

〈あらたな〈自体〉がうまれるとき、真理それ自身があらためて生成する。生成した真理は経験する意識にたいしても存在するが、真理の生成そのものはただ〈われわれ〉にたいしてのみ存在する。〈生成する真理〉じたいには、しかしたしかに意識そのものがあずかっている。このことの消息を、それではどのようにとらえればよいのだろうか。真理の生成とともに意識の経験が進展するとすれば、経験のそうしたすすみゆきはどのような意味をもつのだろうか〉p.53-54

《意識が自己じしんにそくして、みずからの知についても、みずからの対象にかんしても遂行する、この弁証法的運動が、意識にとってあらたな真なる対象がそこから生じてくるかぎり、ほんらい経験と呼ばれるものである》p.54

〈ここに、ヘーゲルの意識観にとって本質的なことがらが、目立たないかたちで述べられているとおもわれる。それは、意識はみずからを超えでてゆくということ、つまり意識は〈自己超越〉という性格を有しており、その性格はしかも意識の〈地平〉構造とむすびついている、ということにほかならない〉p.59

〈〈自己超越〉は、「自然」的には「死」を意味する。死である自己超越は、しかし当の死にゆくものに意識されることがない〉p.60

〈知と対象の変様を介して経験は生成し、〈真理〉はそれ自体もまた生成する経験のなかでのみあらわれる。ことばをかえれば、経験は生成してゆく真理へとみずからあずかってゆくことで、それじしん生成し変容するのである〉p.67

〈個別的なものを対象としながら、しかし同時にその「かたわらで戯れているもの」たちへ、るいは、「制限されたもののかたわらに存在する」ものたちへ、つまりは個別的なものを裏うちする地平へとむかってゆくとき、意識はいわば「みずからを二重化」(sich verdoppeln)している。意識は、一方では個別的な「このもの」へとむかい、他方では「このもの」の「かたわら」にある、無数の「このもの」たちにむかっているのである。意識がみずからを二重化し、〈分裂〉(sich entzweien)するときはじめて「普遍的なものが普遍的なものにたいして存在する」(das Allgemeine für das Allgemeine zu sein)ことになる〉p.66-67

〈レヴィナスにとって、西欧の思索はつねに「存在の思考」であって、そのそもそもの始原にあって排除されたものが「存在するとはべつのしかたで」開示されるもの、つまり「他者」にほかならない。レヴィナスとしては、むしろこの「他なるもの」の排除のうちにこそ、西欧の理性の歴史がはらむ暴力の問題を見てとっている〉p.81

〈よく知られているようにヘーゲルは、絶対的な知の構造を「絶対的に他なる存在のうちで純粋に自己を認識すること」(das reine Selbsterkennen im absoluten Anderssein)のうちに見さだめていた。こうした知が他なるものへの暴力、つまり他者の殲滅へと転化する回路を遮断するための論理を、ヘーゲルは用意していたのであろうか?〉p.101-102

《ここで罪はひたすら認識のうちにある。認識が罪ふかきものであり、認識によって人間は自然な幸福を破壊したのである。これは、意識のうちに悪があるというふかい真理なのである》p.110

〈純粋洞見は「精神の自己意識」であり、「実在を実在としてではなく絶対的な自己として知る」意識である。実在はもはや、自己意識にとって疎遠な自体として存在しているのではない。世界もまた、自我と無縁な存在者の総体ではありえない。実在するものは、そこで精神が自己を認識する当のものであり、しかも「絶対的に」自己を認識する〉p.113

〈ヘーゲルにあって自己とは関係として存在する個体であって、関係をはなれて自己はない。関係とはそのとき、自己にかかわる他者のかたちそのものでもある〉p.158

〈他者の存在は、私の存在とひとしい。他者は、そのひとしさにおいて私と関係している。そうでなければ、他なる存在は他者ではない。他者の存在はしかし他方、私の存在とはことなっている。私とひとしく、それが私であるものは他者ではない。他者は、私との関係から逃れでて、溢れでてゆくものである。他者とはかくして、私と同等で、同時に私にとって異他的なあるものとなる。あるいは、私との差異そのもののことであるといってもよい。他者とは、かくてそれ自体として一箇の問題なのである。他者は私にたいして現前する。他者はしかし、私からへだてられて現前している。他者は私からへだてられているばかりではない。他者とは隔たりそのものでもある。他者について考えるとは、隔たりであり差異であって、しかもなお「私」にかかわり「私」のうちに食いこんでくるものを、どのように思考すればよいのか、という問題それ自体であるといってもよい〉p.158-159

 人は生きているときに生きていないのはなぜか。

 この世の外から語りかけてくるもの、〈他なるもの〉

〈生ける存在者のおのおのは、むしろ生命一般とは区別され、そこから分離していることで、生あるものである。生ある存在者はつまり、生命そのものとはへだたっている。その隔たりが解消し、生ける存在者が生命一般と完全に一致するのは、かえってそれが死滅するときであろう。生あるものは生命そのものではない〉p.163

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