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詩と出会う 詩と生きる

若松英輔(2019).詩と出会う 詩と生きる.NHK出版

〈詩とは、言葉を扉にしてもう一つの世界とつながろうとする営みだといえるのかもしれません。そのもう一つの世界は、さまざまな呼び方をされていますが、批評家の小林秀雄はそれを「意味の世界」と名づけています。今、私たちが暮らしている世界が言葉の世界であり、その奥に「意味の世界がある」というのです〉p.98

〈悲しみには層がある。悲しみは生きることによって深まってくる、と賢治は考えています。人は誰もが、あるときから、悲しみの光によって導かれ、人生の深みをかいまみようとする旅に出ることになる。それが定めだ、というのです〉p.101

〈詩とは、事実の奥に、事実という視座では把捉できない「真実」を描き出そうとする試みだといえるかもしれません。賢治は、この世界は、生者が暮らす人間界だけでなく、それを包み込むもう一つの世界があることを描き出そうとするのです〉p.109

〈阿弥陀仏が描かれることで、私たちはその背後に大きな余白を感じます。その無形の、そして無音の存在こそ、万物を生かしている「はたらき」にほかなりません〉p.110

〈「ひとのせかいのゆめはうすれ」と賢治はいいます。ここでの「ゆめ」とは五感がすべてだと感じていることです。そうした認識こそが幻影だというのです。夢幻の雲が薄れ、世界の深みが浮かび上がってくる。そこには「あたらしくさわやかな感官」、すなわち、これまでとはまったくことなる認識のちからが浮かび上がってくる、というのです〉p.115

《この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りいだすだろう》p.121 八木重吉「素朴な琴」

〈誤解を恐れずにいえば,キリスト者であるとはキリスト教的世界に留まることを潔しとせず,その枠の外にいる人々に言葉を届けようとする者の謂いであるように感じられます〉p.121

〈「願い」は、私たちの思いを大いなるものに届けようとすることですが、「祈り」は違います。神父にとって祈りは、神の無言の「声」を聞くことでした。人間のおもいを神に語ることではなく、神のおもいを受け止めようとすることでした〉p.125

〈詩を書こうと机に向かう。そのときキーツは、自分の周囲を過去の詩人たちが取り巻いているのを感じる、というのです。キーツにとって詩作とは、個で行う営みであると共に詩の伝統のちからを借りて行うものだったことが、この詩の一節から伝わってきます〉p.131

《どんな

 微細な光をも

 捉える

 眼を養うための

 くらやみ》p.155 岩崎航

 〈この詩は私の悲しみを深いところから照らし出してくれました。人は、悲しみの深みにあるとき、他者に向かって広く、そして深く開かれていることをこの詩人は教えてくれました。

 悲嘆にくれ、人は部屋から出ることができないときもある。しかし、そのとき人は、感情の世界において、悲しみによって未知なる他者とつながっている、ということを彼女の詩が教えてくれたのです〉p.177

〈意識的な自我に対し、意識、無意識を包含する「自己」という存在があるとユングは考えました。そして、自我と自己が、統合し、かつ均衡した状態(ある種の調和)にあることの重要性を説きました……「読む」と「書く」という営みは、何かを表現するだけでなく、人が、真の自分に近づいていく道程なのではないかと考えています〉p.193-194

〈小林にとって「批評」とは、対象を評価することではありません。その本質を見極め、言葉をつうじて他者とわかち合うことです。「詩人」は本質を詩として歌う。内なる批評家がその準備をするのです〉p.198

〈人は誰もが、耐えがたい悲しみを経験しなくてはならない。しかし、その悲しみの奥に人が探している、朽ちることのないものがあることもまた、確かで、人はやはり、生きることによってそれと出会うことになる、というのでしょう〉p.200-201

〈詩人のもとを訪れるのも言語ではなく「心象風景」であると須賀はいいます。さらにそれは「超自然の世界から送られてくる」と明言します。詩人とは、耳には聞こえない微かな「信号音」と須賀がいう存在の暗号を聞き分け、それを詩として世にもたらす者の呼び名だというのです〉p.208

《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落とさぬとも璆鏘(きゅうそう)の音は胸裏に起る》p.215 夏目漱石『草枕』

《若し私が此の胸中の氤氳(いんうん)を言葉によって吐き出すことをしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない》 p.218 高村光太郎

《あなたは万物となって私に満ちる》p.222 高村光太郎『智恵子抄』

〈深層心理学者の河合隼雄(1928~2007)は、鎌倉時代の僧明恵を論じながら、真に心理学と呼べるものは、人間を思想(イデオロギー)の世界から内なる宇宙の理(コスモロジー)へと導くものでなくてはならないと述べています〉p.226

《たいていの出来事は口に出して言えないものです、全然言葉などの踏み込んだことのない領域で行われるものです。それにまた芸術作品ほど言語に絶したものはありません。それは秘密に満ちた存在で、その生命は、過ぎ去る我々の生命のそばにあって、永続するものなのです》p.232 リルケ『若き詩人への手紙』

〈詩を読んだ者が、過ぎ行くことのない何かを感じ得ること、それが詩であることの基盤だとリルケはいうのです〉p.233

 若松のいう〈死者〉とは、永遠のことではないか。

 この世は永遠に委託されてある。

 受肉とは神が人間となることではなく、人間が神になることだとすれば、詩作とは、思念が言葉をまとうのではなく、言葉が思念になることではないだろうか。つまり、言葉が星々のようにこの宇宙に広がること。

 私とは、その媒体である。

〈理性の目には「幻」として感じられるが、詩情の世界では不可視な実在として感じられるもの、その一つに死者たち、すなわち、亡き者たちがいるのではないでしょうか〉p.274

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