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2019年10月

詩と出会う 詩と生きる

若松英輔(2019).詩と出会う 詩と生きる.NHK出版

〈詩とは、言葉を扉にしてもう一つの世界とつながろうとする営みだといえるのかもしれません。そのもう一つの世界は、さまざまな呼び方をされていますが、批評家の小林秀雄はそれを「意味の世界」と名づけています。今、私たちが暮らしている世界が言葉の世界であり、その奥に「意味の世界がある」というのです〉p.98

〈悲しみには層がある。悲しみは生きることによって深まってくる、と賢治は考えています。人は誰もが、あるときから、悲しみの光によって導かれ、人生の深みをかいまみようとする旅に出ることになる。それが定めだ、というのです〉p.101

〈詩とは、事実の奥に、事実という視座では把捉できない「真実」を描き出そうとする試みだといえるかもしれません。賢治は、この世界は、生者が暮らす人間界だけでなく、それを包み込むもう一つの世界があることを描き出そうとするのです〉p.109

〈阿弥陀仏が描かれることで、私たちはその背後に大きな余白を感じます。その無形の、そして無音の存在こそ、万物を生かしている「はたらき」にほかなりません〉p.110

〈「ひとのせかいのゆめはうすれ」と賢治はいいます。ここでの「ゆめ」とは五感がすべてだと感じていることです。そうした認識こそが幻影だというのです。夢幻の雲が薄れ、世界の深みが浮かび上がってくる。そこには「あたらしくさわやかな感官」、すなわち、これまでとはまったくことなる認識のちからが浮かび上がってくる、というのです〉p.115

《この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りいだすだろう》p.121 八木重吉「素朴な琴」

〈誤解を恐れずにいえば,キリスト者であるとはキリスト教的世界に留まることを潔しとせず,その枠の外にいる人々に言葉を届けようとする者の謂いであるように感じられます〉p.121

〈「願い」は、私たちの思いを大いなるものに届けようとすることですが、「祈り」は違います。神父にとって祈りは、神の無言の「声」を聞くことでした。人間のおもいを神に語ることではなく、神のおもいを受け止めようとすることでした〉p.125

〈詩を書こうと机に向かう。そのときキーツは、自分の周囲を過去の詩人たちが取り巻いているのを感じる、というのです。キーツにとって詩作とは、個で行う営みであると共に詩の伝統のちからを借りて行うものだったことが、この詩の一節から伝わってきます〉p.131

《どんな

 微細な光をも

 捉える

 眼を養うための

 くらやみ》p.155 岩崎航

 〈この詩は私の悲しみを深いところから照らし出してくれました。人は、悲しみの深みにあるとき、他者に向かって広く、そして深く開かれていることをこの詩人は教えてくれました。

 悲嘆にくれ、人は部屋から出ることができないときもある。しかし、そのとき人は、感情の世界において、悲しみによって未知なる他者とつながっている、ということを彼女の詩が教えてくれたのです〉p.177

〈意識的な自我に対し、意識、無意識を包含する「自己」という存在があるとユングは考えました。そして、自我と自己が、統合し、かつ均衡した状態(ある種の調和)にあることの重要性を説きました……「読む」と「書く」という営みは、何かを表現するだけでなく、人が、真の自分に近づいていく道程なのではないかと考えています〉p.193-194

〈小林にとって「批評」とは、対象を評価することではありません。その本質を見極め、言葉をつうじて他者とわかち合うことです。「詩人」は本質を詩として歌う。内なる批評家がその準備をするのです〉p.198

〈人は誰もが、耐えがたい悲しみを経験しなくてはならない。しかし、その悲しみの奥に人が探している、朽ちることのないものがあることもまた、確かで、人はやはり、生きることによってそれと出会うことになる、というのでしょう〉p.200-201

〈詩人のもとを訪れるのも言語ではなく「心象風景」であると須賀はいいます。さらにそれは「超自然の世界から送られてくる」と明言します。詩人とは、耳には聞こえない微かな「信号音」と須賀がいう存在の暗号を聞き分け、それを詩として世にもたらす者の呼び名だというのです〉p.208

《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落とさぬとも璆鏘(きゅうそう)の音は胸裏に起る》p.215 夏目漱石『草枕』

《若し私が此の胸中の氤氳(いんうん)を言葉によって吐き出すことをしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない》 p.218 高村光太郎

《あなたは万物となって私に満ちる》p.222 高村光太郎『智恵子抄』

〈深層心理学者の河合隼雄(1928~2007)は、鎌倉時代の僧明恵を論じながら、真に心理学と呼べるものは、人間を思想(イデオロギー)の世界から内なる宇宙の理(コスモロジー)へと導くものでなくてはならないと述べています〉p.226

《たいていの出来事は口に出して言えないものです、全然言葉などの踏み込んだことのない領域で行われるものです。それにまた芸術作品ほど言語に絶したものはありません。それは秘密に満ちた存在で、その生命は、過ぎ去る我々の生命のそばにあって、永続するものなのです》p.232 リルケ『若き詩人への手紙』

〈詩を読んだ者が、過ぎ行くことのない何かを感じ得ること、それが詩であることの基盤だとリルケはいうのです〉p.233

 若松のいう〈死者〉とは、永遠のことではないか。

 この世は永遠に委託されてある。

 受肉とは神が人間となることではなく、人間が神になることだとすれば、詩作とは、思念が言葉をまとうのではなく、言葉が思念になることではないだろうか。つまり、言葉が星々のようにこの宇宙に広がること。

 私とは、その媒体である。

〈理性の目には「幻」として感じられるが、詩情の世界では不可視な実在として感じられるもの、その一つに死者たち、すなわち、亡き者たちがいるのではないでしょうか〉p.274

ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考

 熊野純彦(2002).ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考.筑摩書房

〈近代化の哲学的基底を手繰りよせようとしたヘーゲルの思考が、その展開のさなかで〈近代批判〉をむしろ孕まざるをえなかったのは、ヘーゲルの哲学がその根底にあって、近代的な思考の枠組みから溢れでてしまう発想の核を内部に懐胎していたからにほかならない。いわゆる〈体系〉は、ここでもまた軋んでゆく〉p.5

〈真なるもの、真理は、とはいえ第一義的には「主体として」、すなわちみずからのうちに運動の原理を孕むものとして「とらえ表現」されなければならないのである〉p.9-10

〈知が「真なるもの」(das Wahre)、存在者のほんとうのありかたを追いもとめようとするかぎり、知は直接に現前するものを超えて、その背後へとさかのぼろうとする。そのようにとらえられた「背後」(Hintergrund)こそが存在の真なるありかた、つまり「本質」ないしは「実在」(Wesen ウーシア)にほかならない〉p.13

〈これにたいして、知の運動が同時に存在の運動であり、知と存在が運動にあって相即し、いわば共変的であるならば、生成するものはたんに知の真理であるだけではなく、同時に存在の真理である……そこでは、真理それ自体が生成する……「存在」がそれ自体として〈生成〉の相のもとにとらえられるとき、真理それ自身も運動をまぬがれることはできない。真理もまた〈他なるもの〉となり、〈他なるもの〉との関係のうちにある〉p.17

〈〈あるもの〉つまり意識にとっての対象は、意識とはべつのものであり、意識にとって〈他なるもの〉でありながら、意識はこの〈他なるもの〉に関係している。このような区別と関係が存在するとき、〈あるものについての意識〉が存在している。〈あるものについての意識〉が存在する、とは、ことばをかえれば「あるものが意識にたいして存在している」(es ist etwas für dasselbe)ことであるといってもよい〉p.32

《同時に、意識にとって〔自体という〕この他なるものはたんに意識にたいして存在するばかりではなく、この関係の外部に、あるいは自体的にも存在する》(zugleich ist ihm dies Andere nicht nur für es, sondern auch außer dieser Beziehung oder an sich) p.41

〈このように(知覚し、ときに錯覚もして、錯覚もまずは知覚としてあたえられるような)経験する意識そのものに密着してかたるかぎり、変化するのはたんに「知」(「見え」あるいは「おもいなし」)ばかりではない。知が変容するとき、対象もまた変化する。経験する「意識にとって」存在する「自体」が変容する。対象にかんする知が変貌するというよりも、むしろあらたな対象が生成するのである〉p.50

〈あらたな〈自体〉がうまれるとき、真理それ自身があらためて生成する。生成した真理は経験する意識にたいしても存在するが、真理の生成そのものはただ〈われわれ〉にたいしてのみ存在する。〈生成する真理〉じたいには、しかしたしかに意識そのものがあずかっている。このことの消息を、それではどのようにとらえればよいのだろうか。真理の生成とともに意識の経験が進展するとすれば、経験のそうしたすすみゆきはどのような意味をもつのだろうか〉p.53-54

《意識が自己じしんにそくして、みずからの知についても、みずからの対象にかんしても遂行する、この弁証法的運動が、意識にとってあらたな真なる対象がそこから生じてくるかぎり、ほんらい経験と呼ばれるものである》p.54

〈ここに、ヘーゲルの意識観にとって本質的なことがらが、目立たないかたちで述べられているとおもわれる。それは、意識はみずからを超えでてゆくということ、つまり意識は〈自己超越〉という性格を有しており、その性格はしかも意識の〈地平〉構造とむすびついている、ということにほかならない〉p.59

〈〈自己超越〉は、「自然」的には「死」を意味する。死である自己超越は、しかし当の死にゆくものに意識されることがない〉p.60

〈知と対象の変様を介して経験は生成し、〈真理〉はそれ自体もまた生成する経験のなかでのみあらわれる。ことばをかえれば、経験は生成してゆく真理へとみずからあずかってゆくことで、それじしん生成し変容するのである〉p.67

〈個別的なものを対象としながら、しかし同時にその「かたわらで戯れているもの」たちへ、るいは、「制限されたもののかたわらに存在する」ものたちへ、つまりは個別的なものを裏うちする地平へとむかってゆくとき、意識はいわば「みずからを二重化」(sich verdoppeln)している。意識は、一方では個別的な「このもの」へとむかい、他方では「このもの」の「かたわら」にある、無数の「このもの」たちにむかっているのである。意識がみずからを二重化し、〈分裂〉(sich entzweien)するときはじめて「普遍的なものが普遍的なものにたいして存在する」(das Allgemeine für das Allgemeine zu sein)ことになる〉p.66-67

〈レヴィナスにとって、西欧の思索はつねに「存在の思考」であって、そのそもそもの始原にあって排除されたものが「存在するとはべつのしかたで」開示されるもの、つまり「他者」にほかならない。レヴィナスとしては、むしろこの「他なるもの」の排除のうちにこそ、西欧の理性の歴史がはらむ暴力の問題を見てとっている〉p.81

〈よく知られているようにヘーゲルは、絶対的な知の構造を「絶対的に他なる存在のうちで純粋に自己を認識すること」(das reine Selbsterkennen im absoluten Anderssein)のうちに見さだめていた。こうした知が他なるものへの暴力、つまり他者の殲滅へと転化する回路を遮断するための論理を、ヘーゲルは用意していたのであろうか?〉p.101-102

《ここで罪はひたすら認識のうちにある。認識が罪ふかきものであり、認識によって人間は自然な幸福を破壊したのである。これは、意識のうちに悪があるというふかい真理なのである》p.110

〈純粋洞見は「精神の自己意識」であり、「実在を実在としてではなく絶対的な自己として知る」意識である。実在はもはや、自己意識にとって疎遠な自体として存在しているのではない。世界もまた、自我と無縁な存在者の総体ではありえない。実在するものは、そこで精神が自己を認識する当のものであり、しかも「絶対的に」自己を認識する〉p.113

〈ヘーゲルにあって自己とは関係として存在する個体であって、関係をはなれて自己はない。関係とはそのとき、自己にかかわる他者のかたちそのものでもある〉p.158

〈他者の存在は、私の存在とひとしい。他者は、そのひとしさにおいて私と関係している。そうでなければ、他なる存在は他者ではない。他者の存在はしかし他方、私の存在とはことなっている。私とひとしく、それが私であるものは他者ではない。他者は、私との関係から逃れでて、溢れでてゆくものである。他者とはかくして、私と同等で、同時に私にとって異他的なあるものとなる。あるいは、私との差異そのもののことであるといってもよい。他者とは、かくてそれ自体として一箇の問題なのである。他者は私にたいして現前する。他者はしかし、私からへだてられて現前している。他者は私からへだてられているばかりではない。他者とは隔たりそのものでもある。他者について考えるとは、隔たりであり差異であって、しかもなお「私」にかかわり「私」のうちに食いこんでくるものを、どのように思考すればよいのか、という問題それ自体であるといってもよい〉p.158-159

 人は生きているときに生きていないのはなぜか。

 この世の外から語りかけてくるもの、〈他なるもの〉

〈生ける存在者のおのおのは、むしろ生命一般とは区別され、そこから分離していることで、生あるものである。生ある存在者はつまり、生命そのものとはへだたっている。その隔たりが解消し、生ける存在者が生命一般と完全に一致するのは、かえってそれが死滅するときであろう。生あるものは生命そのものではない〉p.163

掃除婦のための手引書

 ルシア・ベルリン(2015)/岸本佐知子(2019).掃除婦のための手引書.講談社

《神よ 変えることのできないものを受け入れる心の平穏を 我に与えたまえ》p.11

〈わたしは訳もわからず無性に腹が立った。自分でも意外なことに、わたしは彼女という人が好きになりはじめていた、彼女の愚直で純粋な一生懸命さや、あきらめの悪さが……ただ彼女はわたしにやりたくないことをさせたがり、わたしはそれをやりたくない自分、世界にはびこる不平等なんかどうでもいいと思ってしまう自分を悪者のように感じた〉p.109 ルシア・ベルリン「いいと悪い」

〈だれも何が起こったか知らなかった。ほかの子たちは彼女がいなくなって喜んだ。授業はみんな自習になった――おかげで私たちはアメリカの大学に入ってから、アメリカ史を自分ででっち上げなければならなくなってしまったけれど。わたしには話す相手がいなかった。ごめんなさいと言う相手が〉p.114

〈だがベニテスの右膝がマットに触れた。ほんの一瞬のことだった。カトリックの信者がちょっと跪いてから退席するように。けれどもそのわずかな恭順のしぐさが戦いの終わりを告げていた。ベニテスは負けた。カルロッタはささやくように言った。「お願い神さま、どうかあたしを助けて」〉p.145「ステップ」

〈彼女は無言だった。だが死が彼女に作用しているのが私にはわかった。死には癒しの力がある。死は人に許すことを教え、独りぼっちで死ぬのはいやだと気づかせる〉p.168 「喪の仕事」

〈ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。狂っていたの、それとも見えすぎていた? どちらにしても、あなたみたいになるのは耐えられない。わたしはいま恐れている……だんだん美しいものや正しいものを感じられなくなっていくようで〉p.175 「苦しみの殿堂」

〈家に着くと、パパはあなたが寝つくまで枕元で物語を読み聞かせた。素晴らしい物語だとあなたは涙を流した。悲しいからではなく美しいから、そして世界中の何もかもが醜く安っぽいから〉p.176

 何かが、ある種の平衡を保とうとして、物語は綴られているように感じる。

 それは作者の心の中で輝きたいと願っている美しさと正さだ。

 否応なく語り出されてしまうもの、悲しみ。

〈死には手引き書がない。どうすればいいのか,何が起こるのか,誰も教えてくれない〉p.183

〈いま思いだすと可笑しいけれど、そのときは母が胸が破れるみたいに泣いて泣いて、すこしも可笑しくなかった。そっと肩に触れると、母はびくっと身を引いた。触られるのが嫌なのだ。だからわたしは窓の網戸から射しこむ街灯の光のなか、ただ母を見ていた。泣いている母を。ママはまったくの独りぼっちだった、ちょうどいま、同じように泣く妹のサリーがまったくの独りぼっちなように〉p.185-186

〈サリーの死だけではない。ロドニー・キングとあの暴動いらい、わたしの祖国も死にかけている。世界のいたるところに怒りと絶望がある〉p.200 「ソー・ロング」

 世界に蔓延しているもの。それに触れていること。

〈サリ―が静かに泣いている。「かわいそうに、かわいそうに」そう言っている。「もう一度だけママと話せたら。すごく愛してるって、ママに伝えられたら」わたしは……わたしにそんな優しさはない〉p.212「ママ」

《いいか、もし誰かのことを憎く思ったら、その人のために祈ることだ。やってみればわかるさ。そしてメイミーのために祈りながら、ときどきは家の手伝いもしてあげろ。お前みたいな可愛げのないガキんちょでも好きになる理由を、メイミーに作ってやらなきゃ》p.230「沈黙」

〈奴はマサイの戦士みたいに見えるときもあれば、ブッダかマヤの神かと思うときもあった。じっと動かず、まばたき一つせずに三十分でも立っていた。神のごとき静かな無関心が、彼にはあった。我ながら言ってることがイカれたたわごとみたいだがな。とにかく、奴は何かふしぎな作用を周囲にもたらした〉p.239「さあ土曜日だ」

〈今までの人生で、”正面ポーチ”ではなく“裏のポーチ”にいたことが、はたして何度あっただろう? わたしに向かって発せられたのに聞きそこねた、どんな言葉があっただろう? 気づかずに過ぎてしまった、どんな愛があっただろう?〉p.273-274「巣に帰る」

現代の超克

 中島岳志・若松英輔(2014).現代の超克.ミシマ社

〈超越にふれることが救済である、あるいは、すでにふれていることを認識することが救済であるというのは、多くの宗教において、さまざまな表現を取りながらではあっても、共通した認識だといえると思います。柳は、美とは、超越がこの世界に自らの姿をまざまざと顕現させる力強い姿であることに気がつきます。柳は美にふれることもまた、一個の恩寵の経験だというのです〉p.14

〈論理の働きとは、いつか、論理の彼方へと飛翔するためのものであることを忘れてはならない〉p.15

 

〈柳は、いたずらに意味を解析するのではなく、音に還ろうと訴える。別な言い方をすれば、音に還るというのは、言語という言葉だけでなく、音ということば――井筒俊彦がいう高次な言語としての「コトバ」――との関係をとりもどすことを強く促す。

 音に還るというのは、押しつけられた理ではなくて霊的な衝動に還れということです。ここでの「衝動」とは、短絡的な行動原理のことではなく、人間の精神の深みから湧き上がる、打ち消しがたい、確かな、人間を超えた者を渇望する感覚です〉p.18

 

《彼らはいずれも哲学者である以前に神秘家であった》p.21 井筒俊彦

 

〈絶対他力を、今はあえて「超越」あるいは「超越の働き」と呼ぶことにします。論理で超越を語ろうとする近代に向かって彼は、超越があるから論理が存在するのであって、論理とは、人間が超越に向かおうとするときに歩く、長い道程のなかにある場面の呼称にすぎないというのです〉p.22

 

〈人間のもつ光で彼方の世界を見るのではなく,彼方の世界からの光でこの世界を見,その光に導かれて光源に至ろうとすることを,彼は「信仰」と呼んでいます〉p.23

 

〈一遍は言語を極点まで無化しようとする。人間が念仏を唱えるのではなく「念仏が念仏する」(『南無阿弥陀仏』p.5)のである,と一遍は語ったと柳は言います〉p.26

 

《しかるに、やりたくてやる以上の自由さがあるのである。やりたい心などに囚われる縁がない仕事だともいえる》p.27 (『美の法門』p.51)

 

〈どこまでが自分の言葉で,どこまでが法然の言葉かわからない。そのような死者との真の交わりが『教行信証』において成立していたのではないかと思うのです〉p.29

 

〈つまり念仏は絶対他力の働きであって、自己の主体的な意思によるものではないというのです。私が念仏を唱えるのではなく、絶対他力が私をして念仏を唱えせしめている〉p.30

 

〈悲しむ者は、他者の悲しみを感じるとき、そこにぬくもりを見出す。悲しみは、意識されないところで別の悲しみを慰めていると柳は言うのです」p.34

 

〈どの宗教も自分の宗派を信仰する者が救われる、といいます。そこまではよい。しかし、信じない者はどうなるのでしょうか。信じることができない人々の救済を願うことこそ善ではないでしょうか〉p.46

 

〈現代では真も善も、いたく脆い。現代においては、美がもっとも力強く民衆を救いえるのだと柳は信じていた。柳がいう「美」とは、美醜を超えた、美醜の彼方の「美」です。これは美しい、これは美しくない、という相対的なものではありません〉p.47

 

〈読むというのは,それを書いたものと出会い,対話する,ということです。そして,書くとは,先人の叡知に助けられながら未知の自分に出会うということです〉p.67

 

《[すべての宗教は,聖なる霊に触発されて生まれたものですが,それらは人間の精神の所産であり,人間によって説かれたものですから,不完全です]一なる完全な宗教は,いっさいの言語を超えたものです》p.77-78 ガンディー

 

〈先の一節でガンディーが「霊」と呼んでいた超越的絶対者を、(十三世紀イスラーム神秘哲学の租)イブン・アラビーは、「存在」と呼びます。彼によれば、「花が存在する」のではなく「『存在』が花する」ということになる……万物が「存在」の顕われだというのです。問題は、その顕現の度合いにある。しかし、存在するすべての物に超越の働きがある、という認識は動かない〉p.84

 

〈彼(井筒俊彦)は「存在はコトバである」といいます。ここでの「存在」がイブン・アラビーのいう「存在」、宗教的な言葉でいえば「神」です。それが「コトバ」として顕われる……文章を書くとき、人は言語をコトバにしますが、絵を描くときは色や線がコトバです。歌うときは音律がコトバです。悲しむ人に寄り添いながら抱きしめる、その行為すらコトバとなる〉p.84-85

 

〈人間は、自分にとって好ましいものに対しては、意識下で、自分と同じ源流から生まれたものである、という感覚を抱いています。姿が異なるものでも、共振、共鳴するものは、深いところでつながっていると感じている。しかし、不二一元論の思想はそこにとどまらない烈しさを秘めている。敵対するもの、あるいは理解が困難であると感じられるものでも、その源流は一なるものに帰っていくというのです〉p.85

 

《わたしたちは,いまだ神を実感し悟得していないのですから,宗教を完全には理解していません。わたしたちが頭に思い描いている宗教は,このように不完全なのですから,つねにそれは発展途上にあり,理解を新たにする必要があります》p.91 ガンディー

 

《真に勇敢であるならば,そこには敵意,怒り,不信,死や肉体的苦痛への恐れは存在しない。このような本質的な特性を欠いている人々は,非暴力ではない》p.95 ガンディー

 

《欲望が消滅すれば、もはや肉体の必要性はなくなり、人は生死の循環から解放されます。霊魂は遍在しています。それなのに、どうして霊魂は鳥籠のような肉体に閉じ込められたがるのでしょうか。あるいはまた、そんな鳥籠[肉体]のために悪をなし、人殺しまでしなければならないのでしょうか。このことに気づくとき、わたしたちは完全な自己放棄の理想に到達し、そして肉体が存続するかぎり、奉仕のためにこれを用いるべきことを知るのです》p.100-101 ガンディー

 

〈ガンディーが「塩の行進」をする。そこには数万人の生者の傍らに無数の死者が寄り添っている……真理に向かって独り立つとき人は、無数の死者の助力を得る、それはガンディーの深い実感だったように思われます……人は、「独り」であることで他者と結びつく、ということを石牟礼さんもガンディーもその生涯で証しているように思います〉p.102

 

〈不可視なものに本当につきあっている人間は、必ず可視的な問題の世界に戻ってくる。別な言い方をすれば、深く現実世界にしっかりと参与できているということが、不可視なものにより深く出会っていることの証なのだろうと思います〉p.112

 

《インドをイギリス人が取ったのではなく、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力でいられたのではなく、私たちがイギリス人たちをいさせたのです》p.118 ガンディー

 

〈自己と他者の関係は、「我」と「それ」、「我」と「汝」という二つの在り方がある、とユダヤ人哲学者マルティン・ブーバー(18781965)が言いました。「それ」は、不特定の他者、「汝」は相互、相補的に存在する。「我」がいて「汝」もいる。「汝」がいて、はじめて「我」たりえる。人はときに「我」を忘れる。しかし、「汝」と呼ぶべき他者はけっして「我」から目を離さない。人はときに自分を見つめることを忘れる。しかし、死者は私たちの魂から目を離さない〉p.133

 

〈「読む」とは、言葉である死者にまみえることだともいえる。別な言い方をすればみなさんが心のなかで死者を感じるということ、それだけで十分創造的な営為なのです〉p.141

 

〈そして僕は、「ここに死者がいる」と思ったとき、慄くとともに、少しほっとするのです。人間は誰ひとり単独の存在ではなくて、死者や過去とつながり、大きな生命の器として生きているのです。私が命を生きているのではなくて、命が私を生きているのです〉p.150-151 中島岳志

 

〈ここでの「記憶」は、個々の生者の意識現象です。人類の記憶ということとは違います。人類の記憶は「歴史」そのものです。一方の小林秀雄のいう「思い出」はこの記憶にとどまらない人類の記憶に開かれているものです。「思い出」は訪れるものであり、宿るものであり、私はやはり「死者からの呼びかけ」だと思います。リルケ(1875-1926)は生理的な意味での「記憶」ではなく、「回想」という流れこそ大切だのだといいますが、同じことです。「記憶」と「思い出」あるいは「回想」は根本的に違います〉p.154-155

 

〈世の中には理性的認識だけでは捉えきれないものがある。むしろ、理性を超えているものによって私たちは支えられている。この矛盾の中に芸術が宿る。哲学だってそうです〉p.162

 

〈悲しみが深いからこそ、死者を近くに感じることがある。死者を自分の魂と感じるように、あるときはそれ以上に近く感じる。私はこうしたときにも幸福を実感する。耐えがたい悲嘆をつうじてこそ、それまで見ることのなかった光を見た、とすら思います〉p.163

 

〈「読む」ことは、そこに書かれていることが生まれる場所、コトバの源泉へと接近することです。憲法学者は憲法を解釈する前に、「読む」ことの必要性を語ってほしい。哲学者には法とは何かを語る前に「読む」とは何か、その創造的な意味を語ってほしい。中島さんが言うように死者の言葉を引き受けるということは、すなわち「読む」ということです〉p.166

 

〈大切なのは、読んだときに何が自分に接近してくるか、です。不意にやってくるままならないものと出会うことが、「読む」という行為です〉p.171 中島

 

〈無私であることにおいて、個は究極的に輝く。どこまでも個であろうとすることは、他者の存在をいっそう際立たせる。また、自己は、自己のみによって存在するのではなく、他者とは開かれた自己への別な呼び名であることも明らかになってくる。別な言い方をすれば、他を深く感じることが、自己を、個を深めることになるというのです〉p.197-198

 

〈誤解を恐れずにいえば、霊性論とは眼前の他者にいかに超越の顕現を見るかという問いになるはずです〉p.203

 

〈現代の科学は、本当の意味で「生きた」ものになっているかどうか。「生きたものである」とは、いつも人間にとって知りえない領域をもっている、ということです〉p.218

 

〈哲学の思惟とは、常に未知なるものへの営みです〉p.221

「他者」の倫理学

 青木孝平(2016).「他者」の倫理学 レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む.社会評論社

 

〈すなわち意識の志向性によってのみ、事象は初めて「対象Objekt」となる。それゆえ、のちのフランスの実存的現象学においては、それは「対象化objectivation」あるいは「意識事象の主題化thématisation」とも言い換えられるのである〉p.30

 

〈それゆえフッサールは、本質直観ないし本質観取による認識を、意識の「内在immanent」による世界存在の本質還元と呼んだ。この内在から出発して意識のうちで事象経験を構成することを「超越transzendent」と呼ぶ。すなわち現象学とは、意識に内在的に与えられた事象の超越論的な再構成を意味する〉p.32

 

〈これらの批判に応答すべく、フッサールは、その現象学のなかに「他者das Andere」を位置づけ、自己が他者とともに共属する「間主観的世界Intersubjektivität」を構成しようと企てるのである〉p.33

 

〈それゆえレヴィナスによれば、主体としての「自己」から分離した「他者l’autre」は、文字どおり「同」に対する「他」として、自我の全体性を喰い破って向こう側から出現するしかない。すなわち「他者」の「他性altérité」、「全体性」の内部からではなく、逆にその絶対的な「外部」に顕現する以外にない。他者はいわば「無限infini」としてのみ存在する、というのである〉p.63

 

〈「他者」は自己の思いもよらぬものであり、自己の認識を超えた、いわば「超越transcendance」としての存在である。それは自己と同じ度量衡をもってしては計算できないものである。それゆえ、レヴィナスは強調する、「絶対的に他なるもの、それが他者であるl’absolument Autre, c’est Atrui」〉p.64

 

《『他者』の未知性とは,他者を私の思考,私の所有物すなわち『自我』に還元することの不可能性であり,それゆえ『他者』の未知性は,ほかでもない私の自発性に対する審問として,すなわち倫理としてのみ成就される(全体性と無限 p.47)》p.66

 

《存在者に対する存在の優越を肯定することは、ただそれだけすでに哲学の本質について一つの学説を述べることに等しい。つまりそれは、一個の存在者である誰かとの関係(倫理的関係)を存在者の存在との関係(知の関係)に従属させることであり、存在者のこの存在が、非人称的存在としての存在者の掌握、支配を許すのである。それはまた正義を自由に従属させることでもある。もし『他』の只中にあって『同』でありつづける仕方が自由の特質であるとすれば、知が自由の究極的意味を内包していることになる。その場合、自由は正義と対立することになろう……存在者とのいかなる関係をも存在との関係に従属させるハイデガーの存在論は、倫理に対する自由の優越を追う呈することになる(同 p.67)》p.67

 

〈こうしてレヴィナスは,「他者」を,自己の知によって理解しがたいもの、自己の「知」の範囲を超えた「絶対的他者」として捉える。すなわち「他者」は,自己の意識作用とは関係のないところから,自己に向かって到来する。私(自己)にできることは,そうした「他者」を,自己の認識とは無関係に,ただひたすら受動的に受け入れることだけであり,私は否応なく他者を受容せざるをえないのである〉p.68

 

《顔は活き活きとした現前である。表現の生命は形を壊すことにある。形において存在者は、主題として身を晒すことで自らを隠してしまうのである。顔は語る。顔の顕現はすでにしてそれ自体が言説である…他者の『顔』は,その顔が私に残す形状的なイメージを絶えず破壊し,そこからはみ出す。すなわち私の尺度にあった観念,観念されたものの尺度にあった観念を絶えず破壊して、この十然たる観念からはみ出すのである(p.60)p.70

 

「顔」と「死者」はどう違うのか。

 

〈この著書においてレヴィナスは、先の『全体性と無限』において、自我の自同性ないし全体性をあらわす概念として用いた「同」を「存在l’être」に置き換え、これに対して、逆に、無限をあらわす「他」を、「存在とは別の仕方autrement qu’être」あるいは「存在することの彼方au-delà de l’essence」といった奇妙な用語で表現することになる〉p.75-76

 

 この世の外からの語りかけである。

 この世の外までも 無限へと開かれてあることの可能性として 無限への通路としての芸術。

 

〈レヴィナスにとって,「存在」とは存在すること,すなわちない存在への不屈の固執であり,存在することは,他なるものを出口のない宿命(内存在)のうちに幽閉してしまうことであった。「存在」は,その否定や無化,非存在といった存在からのあらゆる逸脱さえも、存在のなかに包含し回収してしまう。それゆえ『存在の彼方へ』は、存在からの剥離が、「存在しないこと」さえも超えて、どのようにして可能なのかを示さなければならない」p.77

 

〈顔の無言の要求に応えて、私は他者の顔に向けて語りかける。レヴィナスによれば、このかぎりで、「語ること、それはもっとも受動的な受動性」であり、そこに他者に対する無限の責任があらわれることになる〉p.78

 

 死者からの語りかけを聞くこと 原民喜の死者たち

 

《顔は彼性の痕跡である。彼性は、存在の他者性の起源であり、対称性の即時性は彼性を裏切りつつそれと融即する。……神の似姿であることは、神のイコンであることを意味するのではない。そうではなく神の痕跡のなかに自らを見出すということである。……痕跡の輝きは謎を秘め曖昧である。このことが痕跡の輝きを現象のあらわれから区別しているのである。痕跡の輝きは論証の出発点として役に立たないであろう。論証は容赦なく内在と存在のうちに引き込んでしまうことになるからである(存在の彼方へ p.44)p.83

 

〈私は、他者の悲惨によって、同情ではなく触発され、他者の悲惨を苦しみ、害を受け、かつそれに耐えている自己を発見する。なぜなら私は、他者のために、他者の代わりにあらかじめ存在する「一者l'un-pour-l'autre」にすぎないからである……このように倫理はつねに無根拠であり無起源であり、逆にいえば、そうした定言命法に無条件に従うことこそが倫理なのである〉p.87

 

《私とは一つの特権、ないしは一つの(顔による)選びélectionなのである》p.87

 

《善は私の自由に対して差し出されたものではない。私が善を選ぶ以前に善が私を選んだのである。自分の意志によって善良であるようなひとは誰もいない(存在の彼方へ p.41)》p.88

 

〈これらの思想には、「自己」という存在者の意味は、他者を主体とする能動性によってしか明証されないという人間の根源的な「受苦性」が刻印されている。私(自己)という一者l’un-pour-l’autreに憑依する逃れようのない受苦性、この無条件の肯定こそが市民社会という正義の裏に潜んだ超越論的な救いへの希求だったのではなかろうか〉p.98

 

〈このように親鸞の「他力」は、絶対他者としての仏による無限の能動的救済を指すことばであり、これに、凡夫としての「自己」の、いっさい選択の余地のない徹底的に受動的な得心が対置されることになる。それは先にみた、レヴィナスにおける主体としての他者と従属者としての自己という非対称性の構図と、いみじくも重なり合わせることができるように思われる。阿弥陀仏とは、まさに現世の「存在」と区別された、自己の認識の彼方(浄土)にある「絶対的に他なるもの」である。衆生は、自己から仏(他者)に向かう行をいっさい許されず、ただ「他者」の命令に従うことによってのみ、初めてその「身代わり」になることができる。すなわち、「他者(仏)」だけが、「自己(衆生)」を成仏させることのできる唯一の主体なのである〉p.196

 

〈自分の没後の行き先が地獄であろうと極楽浄土であろうと、それは自分の預かり知らぬことである。自力(悟り)か他力(救い)か、あるいは自らが善人か悪人かという二者択一のあらゆる詮索(はからい)をやめて、すべてを弥陀の本願に任せるというのである〉p.211-212

 

《商品交換は、共同体と共同体とのあいだに発生して、後に共同体の内部にもその形態の浸透をみることになる、と考えられるので、商品交換をはじめて行なう共同体と共同体とが、交換以前に私有財産制と社会的分業(労働)とをいかにして共通にもっていたかが疑問となる。むしろ商品形態自身がその前提とする私有財産制と分業とを全体制的に完成させるものと考えるべきである(宇野著作集第二巻 p.190)》p.270-271

 

〈「商品」は、まさに、人間の労働過程の「外部」に、間主体的intersubjektivにのみ登場する。こうして宇野『原論』は、「人間」の労働ではなく、前もってその外部にある「絶対的に他なるもの」としての商品を端緒に分析を開始することになるのである〉p.271

 

〈レヴィナス流にいえば、商品世界に対して貨幣とはひとつの「外性extérité」であり「絶対的に他なるもの」である。親鸞の用語を使えば、商品(自己)は自力で貨幣に転生するわけではなく、あくまでも貨幣(他者)の他力によってのみその販売が実現されるのである〉p.275

 

〈商品から貨幣が内在的に導き出されたのではないのと同様に,けっして貨幣もまた直接に資本に転化することはありえない。資本は,貨幣という主体の彼方に存在し,それを超越して増殖するいわば「無限者」である。それはまさに,商品流通という「同le Même」に対して「外性extérité」としての資金から顕現するのである〉p.278

 

〈あくまでも資本主義の「主体」は資本という外的な流通形態であり、これまで「主体sujet」とみなされてきた人間は、どこまでもその「従属者sujet」でしかない。この「他者」としての資本が「自己」としての人間をその内部に包摂しえたとき、資本主義はひとつの社会として「他なるもの」による完全な支配を確立する。すなわち「人間」なる主体は、自己を「いかなる受動性よりも受動的な受動者」として、他者による無限なる能動的支配を受け入れざるをえないことになる〉p.279

 

〈このような、いっさいの他性をもたない負荷なき自我は、自己の超越論的意識のうちに世界を構成することもできなければ、自己の労働の表出によって商品を所有することもできない〉p.280

キリスト教講義

若松英輔+山本芳久(2018).キリスト教講義.文芸春秋

〈キリスト者とはイエスにある強度のある関係を感じる人の呼び名だとすると、キリスト教とは異なる信仰を生きている人のなかにも、「キリスト者」は存在する、とも言える〉p.26

〈先ほど「レビ記」のお話がありました。「あなたの友をあなた自身のように愛せよ」というイエスの有名な言葉があるのだと。それは別の言い方をすれば、あなたが神に愛されているように、あなたは他者を愛せよ、ということですね〉p.50

〈キリスト教的な神との一致というのは、どこまで神と人間とが深く結びついていっても区別が保たれているところに特徴があるのだと、多くの神秘主義の研究者が言うのもその意味においてです。神と人間との関係にせよ、あるいは人間と人間の関係にせよ、長い時間をかけて深く結びついていく、その極めて深い結びつきのただなかにおいて、個が個としてますます輝いてくるということをトマスなどは言うのです〉p.55

《大人にしても子どもにしても他者を求めない人が「最も利己的な人」である場合が多い……「求める愛」を心に持つことがないのは一般に冷酷な利己主義者であることのしるしである》p.59  (C.S.ルイス『四つの愛』佐栁文男訳.新教出版社.p.6-7)

 神を愛するとは、〈他者〉を大切にすること

 ヌミノースと他者

 超越

《友情は数限りない大きな美点をもっているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。それは、真の友人を見つめる者は、いわば自分の似姿を見つめることになるからだ。それ故、友人は、その場にいなくても現前し、貧しくとも富者に、弱くとも壮者になるし、これは更に曰く言いがたいことだが、死んでも生きているのだ》p.98 (キケロ『友情について』中務哲郎訳.岩波文庫.p.27)

〈他者〉の似姿としての友人

〈受肉の本質は、「神が自らを被造物に一致させること」にあるのではなく、「被造物を神に一致させること」にあるという。つまり、変化するのは神ではなくて、被造物――人間――の方なのだというのです……トマスは、「神が人になった」というよりも、神が人間性を摂取して神性に深く一致させた存在がキリストなのだと言っているのです。もう少し言えば、人間性を神性に一致させたキリストという存在が生まれることによって、人間と神とが深く結びつくことが原理的に可能であることが、人間に深く示されたのだとトマスは言うのです〉p.106

 受肉――人が人のままで神に一致すること

《実際キリストの神秘は、啻に彼が神であるということには存せず、神にして同時に人たる点に存する。この前代未聞の奇蹟によって、キリストの面に神の栄光が輝いたばかりでなく、神御自らが真の人間となり給うたのである。キリスト教の根本信条は人間の羽化登仙ではなくて、神の御言の御托身である》p.108 岩下壮一『信仰の遺産』岩波文庫.p.29

〈人間は無限の欲望を持っているけれども、それは無限である神のうちに安らぐことによって、はじめて満たされるのだというのです〉p.112

〈他者〉という扉は、無限の彼方へと開かれている

《恩寵は自然を破壊せず、むしろそれを完成させる》p.113 (神学大全)

〈信じられないほどの「恩寵」に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを越えた仕方で現れ、実現する〉p.114

《恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、はいっていけない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である》p.119 (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』ちくま学芸文庫.p.24

〈人間を存在の深みに偶発的に誘うのも神秘のはたらきの一つだと思います〉p.119

 だれが思考しているのか

 思考(他者)の宿りは、神秘といえるか

〈人間が神を求めるのではなく、まず神が人間を求めるのだという基本的なキリスト教の発想〉p.121

 死者は私から目を離さない(若松)

《神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」》p.122(「出エジプト記」より) 

 共に在るとはどういうことか

 相補ではなく、よろこびとして

 太陽と溶け合う海

 共感のありか

〈現代人はすべてを「問題」として捉えがちなのだけれども、そうではない。「神秘」とともにあるというあり方で、謎に直面することができるということなのだと思います〉p.127

Je ne sais pas ce que je crois.Gabriel Marcel 「私は私の信じているものを知らない」

〈キリスト教における神秘はわれらの間にある、死者の世界と天使の世界、この世界とあの世界が不可分に存在している、人間という存在は彼方の世界からのはたらきかけによって生かされている。神秘を生きるとはつまり、私が生き、生かされることであるのだということなのでしょう〉p.134

〈自分が言葉を書くのではなくて、言葉に助けられて書くという天使的な経験というのは、ものを書くときにあるのです〉p.139

〈私たちが普通に考えることのできる概念理解を超えたものを認識している視座ですよね。文字で書かれたものを字義通りに考えるのではなくて、形而上学的に考えていく訓練なしには、聖書の言葉の解釈をいくら積み重ねても、経験の扉は開かれない気がします〉p.143

〈やはりいま求められているのは、神学ないし神学に類するものの復権ではないでしょうか。超越に対する呼びかけ、超越との応答を学問の根幹に据えたものを復権しなければいけないのではないかと思います〉p.144

〈神を探求するとは、宇宙の彼方にいる神を自分とはまったく別の存在としてとらえることではない。むしろ真に自己に直面することで自分の奥底に神を探求する通路が開かれるのだと言う〉p.192

〈そもそもなぜ、自由意志を持った人間を神が想像したかといえば、人間と神が愛に基づいて交流することを、神は創造の目的としていたからだと考えるのです〉p.217

〈そこでアウグスティヌスは、より高次の善を犠牲にすることによって、より低い善を実現しようとすることが悪しき行為の本質なのだと考えるのです〉p.219

〈悪とは人間のなかに内在する、聖なるものを破壊しようとする衝動なのであって、それは罪とは根本的に異なるもの、つまり、本来求めなければならないものを求め損なっている、というよりも、本来求めなければならないものを破壊しようとする衝動を伴ったものが悪なのではないでしょうか〉p.223-224

〈オットーは非言語的なるもの、容易に言葉を超えてくるものとどうにか向き合おうとするわけだけれども、それをやめて言語で表現できることだけを語ろうとすると、そこには「聖なるもの」の残骸しか残らない。そして現代においては、むしろそれこそが「聖なるもの」としてみなされているのではないか〉p.262-263

〈ゲーテ(17491832)もまた「聖なるもの」について面白い言葉を残しています。「聖なるもの」とは語り得るのだろうか、いやむしろ、語り得ないものこそが「聖なるもの」ではないか、それこそが、恐るべき神秘であるとゲーテは言います〉p.263

《言葉で言えず,全く想像もつかない最高のものがまるで自分たちとあまり違わないかのように,人々は神の名をぞんざいに扱っている。そうでなければ,主なる神とか,愛する神だとか善き神などといった言い方をしないだろう。神の偉大さが骨身に沁みているのならば,沈黙するだろうし,栄誉のためにむしろ名を呼ばぬ方がよい》p.263(エッカーマン『ゲーテとの対話』下巻.岩波文庫.p.38

〈言葉で語ろうとしても語りえないもの、それこそが叡知だと思うのですが、トマスやアウグスティヌスのそうした態度には目を向けず、まるでエビデンスを読むかのように『神学大全』などをなぞっていくと、何か「聖なるもの」が剥がれ落ちてしまう気がします〉p.265

〈トマスは『神学大全』において、信仰とは最終的には言語的命題を信じることではなく、言語的命題が触れようとしている何ものかを信じることだと言っています〉p.265

 なぜ「信じる」のか 私なら「問う」

〈「美」も「神」も、人間の側がそれらを求めるだけでは何も始まらず、むしろそれらのものからの呼びかけを感受することによってすべてが始まっていく。もっと言えば、人間の側がそれらを求めるということ自体が、それらのものからの呼びかけや促しの一つの現われであり応答でとも言える〉p.284

秋吉台カルストTRAILRUN 2019

 トレイルランニングの大会に参加するのは6回目である。

 これまでに参加した大会は、森林セラピートレイルランニング in のつはる(44㎞)、カントリーレース/八幡山岳会(24㎞)、修験道トレイル in 上毛町(31㎞)、そして去年のこの大会(40㎞)。

 トレイルランニングの良さは、自然の中を走る(歩く)ことに尽きると思う。舗装された道を走るのでなく、土の上を走る、身体全体を使って岩場を登る、渓流(小川)を遡行する、不意に美しい風景に出会う…しかしそれならば、普通の山歩きでもいいのかもしれない、とも思う。でも、声を交わしながら走るのも、また楽しい。

 7時半より、大会での注意事項(マナー、走り方のコツ、ロストしない為に、など)、ゲストランナーの紹介、柔軟体操があり、陽気なDJのアナウンスとともに、8時半にスタート。

 後方からスタートしたが、練習をあまりしていなかったせいか、10㎞くらいで「脚にきている」感じが強くなり、20㎞辺りでふくらはぎが攣りそうになる。そこからあまり走れない。それで、ストレッチを兼ねて、急な上りではできるだけ歩幅を広げるように歩いた。たぶんそれがよかったのだろう、なんとか脚が持ちこたえる。それでも走ることができない。走ると攣ってしまう。27㎞からの舗装道の緩やかな下りでも走れない。光を孕んだ芒がたなびく風景は美しいのだが。

 それでも、30㎞辺りの下りのトレイルから走ることができるようになった。土のランダムな起伏が脚全体を癒してくれたのかもしれない。そこからの上りも走り続ける。37㎞手前のつづら折りの上りではストレッチ歩き、頂上を越え、下りはゆっくり歩き、ようやくゴール。

 今回得たのは、上りでの大股歩きの効果と、トレイルが脚にやさしいことへの気づきだった。次回に生かそう。

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