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妻を帽子とまちがえた男

オリヴァー・サックス(1985)/高見幸郎・金沢泰子(1992).妻を帽子とまちがえた男.晶文社

《もし私が処方箋を書くとしたら、あなたにはまったく音楽だけの生活を、とすすめたいところです。これまで音楽はあなたの生活の中心でした。でもこれからは、音楽があなたの生活のすべて、というふうにしていいと思いますね》p.46

〈記憶にきざみつけることができない、というのではどうやらないらしい。記憶へのきざみつけかたが弱いためにじきに消えてしまう、ということらしいのである……いっぽう知性や知覚能力は、ぜんぜん損なわれることなく保存され、依然としてきわめてすぐれているのである〉p.62-63

《彼という人間は、瞬間だけの存在だ。いわば、忘却というか空白という濠でとり囲まれて完全に孤立しているようなものだ。彼には過去もなければ未来もない。たえず変動してなんの意味もない瞬間瞬間にはりついているだけだ》p.66

「なんの意味もない」とは著者の主観である。「失われた魂」とも、「彼には根がないのだ」とも言う。

《でも人間は、記憶だけでできているわけではありません。人間は感情、意志、感受性をもっており、倫理的存在です。神経心理学は、それらについて語ることはできません。それだからこそ、心理学のおよばぬこの領域において、あなたは彼の心に達し、彼を変えることができるかもしれないのです》p.73-74

〈あらゆるもの、あらゆる経験、あらゆる出来事が完全に消えさった底なしの穴。いっさいの世界をのみこんで、何もあとに残さないような深淵〉p.76

〈コルサコフ症候群や痴呆やその他の悲惨な状態において、たとえ器質的障害やヒュームのいう溶解がどんなにひどくても、芸術や聖体拝礼や魂のふれ合いなどによって、人間らしさは回復される〉p.83

〈しかし、もっと根本的な変化がおこったということはないだろうか。固有感覚による身体イメージがなくなってしまったのだから、脳のなかに視覚的にえがかれる身体イメージが、補償や代用としてはたらいたのではないだろうか。視覚によるイメージが、高揚した異常な力をもつようになったのではないか……視覚によるイメージのほかに、前庭によるイメージもある程度高まって、代用としてはたらいたのであろう。どちらも、われわれの予想や希望をはるかに越えるほど高まったのかもしれないのだ〉p.100

〈クリスチーナは、ことばで言いあらわせない、想像もできないような世界に住まざるをえないのだ。いや、それは「非世界」、「無」の世界と言ったほうがいいかもしれない〉p.104

 脳機能、神経の損傷による生きにくさは、私の想像をはるかに超えているようだ。だからこそ、私は私の想像力を深め、高めなくては。どのようにして? 注意と集中、以外にはないけれど。

《自我とは、何よりもまず肉体的なものである》p.106 フロイト

《インテグレーションは行動のうちにある》p.121 ロイ・キャンベル

〈彼女にさわられたとき、あたかもそれは、瞑想的で、想像力ゆたかで、美的感覚のすぐれた、生まれながらの芸術家――正しくは、生まれたばかりの、だろうが――によって撫でられている感じがしたものだった〉p.125

《肢切断患者にとって、ファントムの価値は極めて多きい。たとえば下肢が義足の場合、安心して歩けるためには、そこにファントムがあることが必要である。いわゆる身体イメージというものがその義足の部分にぴたりとおさまって、一体化したように感じられなければ、満足に歩くことはできないのである》p.132マイケル・クリーマー

《失認がはげしいと、患者は、まるで世界の半分が、とつぜん意味のあるかたちでは存在しなくなったかのようにふるまう。……片側失認の患者は、左側の世界では何もおこっていないかのようにふるまうばかりでなく、そこでは重要なことは何ひとつおきるはずがないかのようにふるまうのである》p.150 M・マーセル・メシュラム

〈ヘンリー・ヘッドはもっと鋭い感覚をもっていた。彼は失語症について一九二六年に書いた論文のなかで、「感情的調子」について述べている。失語症患者は「フィーリングトーン」を感じとる力を失っておらず、ときにはより敏感になっていることさえあるというのだ……彼らは言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ〉p.155

《説得力がないわね。文章がだめだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ》p.158 エミリー・D(右側頭葉に神経膠腫)

〈トゥレット症の特徴である異常に迅速で気まぐれな想像力や反応…〉p.175

〈したがって、トゥレット症は、臨床的にみても生理学的にみても、肉体と精神をつなぐ「失われた環」のようなものであり、いわば、舞踏病と躁病の中間に位置するものといえよう〉p.176

〈トゥレット症患者も歌ったり演じたりしているときには、病気から完全に解放されている。そこでは、I(理性的自我)がIt(本能的自我)をうち負かし、支配しているのである〉p.177

〈「……大きな苦痛を乗り越えてこそ、精神は最終的に解放されるのだ」 逆説的ではあるが、生き物として本来もっているはずの生理学的健康をうばわれていたからこそ、レイはあらたな健康、あらたな自由を見いだしたのである〉p.186

〈しらふの状態でなく酩酊状態にこそ、真実が存在するかもしれないのである〉p.195

〈われわれは「物語」をつくってはそれを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう……トンプソン氏が、なぜあのようにむきになって作話し、おしゃべりするかといえば、物語、ドラマが必要だからである〉p.200-201

 〈しかも、彼には自己を見失ってしまったという感覚、内的世界を失ったという感覚がない(はかり知れないほど奥深いところにある神秘的な内面世界こそ、アイデンティティや現実性の獲得に必須であろうに)〉p.202

〈彼はおそろしい口をあけている記憶喪失という深淵をとび越えようとして、たえずつくり話をする。それは大した才能ではあるが、逆説的にいえば、その才能こそが呪いでもあるのだ。もし彼がおとなしく黙っていることさえできたなら、もし彼が偽りの幻想と手を切ることさえできたなら、そのとき――ああ、そのときこそ!――彼のなかに現実がはいってくるかもしれないのだ。本物の、真実の、深みのある、真に感得された何かが、彼の魂のなかに入ってくるかもしれないのだ。彼の場合、最大の「実存的」な惨禍は記憶にあるのではなかった。彼の記憶がまったく荒廃していたことは事実だったが、変りはてたのは記憶だけではない。感じるという基本的な能力がなくなってしまったのである。「失われた魂」というのは、このことを言うのである。ルリアはこのような無関心を「均一化」と呼び、時にはこれを、世界や自己を最終的に破壊してしまう究極の病変と考えているようだ〉p.206

〈静寂と、十全にして満ち足りた雰囲気、しかもまわりはすべて人間以外のものばかりとあって、はじめて彼は静穏と充足感を味わうのである人間のアイデンティティだの人間関係だのはもはや問題ではなくなり、あるのはただ、自然との、ことばによらない深い一体感である。そしてこの一体感を通じて彼は、この世に生きていること、偽りのない真正な存在であることを感じとるのだ〉p.208

〈そもそも音楽とは情感にあふれ、意味のあるもので、内面の奥ふかくに存在する何かを――トーマス・マンの言う「音楽の背後にある世界」を――あらわそうとするものである〉p.238

〈ペンフィールドも指摘したことだが、そのようなてんかん性の幻覚・夢想は、けっして空想ではなく、記憶なのである。きわめて明確で鮮やかな記憶であり、しかも、原体験のときの感情もいっしょに思い出される。そのような記憶は、大脳皮質が刺激されるたびに呼びおこされる。普通の状態で思い出される記憶は、鮮明さにおいてとてもこれにかなわない〉p.241

〈「無意識の記憶」についてみごとな本を書いたエスター・サラマンは、そのなかで、「子供時代の神聖で貴重な記憶」を保持していること、あるいはそれをとりもどすことがいかに必要であるかを述べている(『時のつどい』一九七〇)。もし子供時代の記憶がないと、人生はひどく味気ない、拠り所のないものになるという。そのような記憶を呼びもどさせたことで得られる深い喜びや存在感について、彼女はドストエフスキーやプルーストなどの自伝から数多く引用して述べている。われわれはみな「過去に住むことができない亡命者」である、だからこそそれをとりもどさなければならないのだと〉p.250-251

〈経験は、それが図象的にまとめられるようでなければ経験とはいえない。行為は、図象敵にまとめられるようでなければ行為とはいえないのだ。「脳にとどめられたすべての物についての記録」は、図象的なものにちがいない。これが脳における最終的なかたちである。たとえそこへいくまでの予備段階で算定的・プログラム的なかたちをとったとしても、脳における表現の最終的な形態は「芸術」である。あるいは芸術を容認する、と言いかえてもいい。すなわち経験や行為は場面や旋律となって表現されるのである〉p.259

 《私が幻視を見たのは、眠っているときでも夢のなかでもありません。もちろん、狂気の状態で見たのでもありません。肉体の目や耳で感じたのではないのです。秘密の場所に閉じこもってみたのでもありません。ひらけた場所で、油断なく気を配っているときに、心の目と内なる耳とではっきりと感じとるのです。それは神のご意思なのです……私はそれを「生命の光の雲」と名づけました。水面に太陽や星や月の光が反射するように、人間の書いたもの、言い伝え、徳や行いなどすべてその光のなかで輝いているのです……ときおり私は、この光のなかに、「生命の光そのもの」と名づけたもうひとつの光を見ます。それを見ると、悲しみや苦痛をすべて忘れ、私は、もう一度、老女ではなく純真な乙女になるのです》p.289-291

《ほんの五、六秒のみじかい時間だが、永遠の調和の存在を感じるときがある。おそろしいことに、それは驚くべき明晰さで姿をあらわし、魂に法悦をもたらす。もしこの状態が五秒以上続くなら、魂はそれに耐えられず消滅してしまうだろう。この五秒間に、私は人間としての全存在を生きる。そのためなら、私は命をも賭けるだろうし、賭けても惜しいとは思わないだろう》p.292 ドストエフスキー

「永遠の調和の存在」とは、リルケの「天使」ではないだろうか? あるいは「太陽と溶け合った海」か?

〈それは心の「質」と関係するものである。それも、すこしも損なわれることなく、かえって高められてさえいる心の「質」である〉p.295-296

〈「具体性」こそ、新たな解明へのきっかけであり、障壁でもある。それを通して感受性、想像力、内面へと入っていくこともできるが、同時に、それにとり憑かれると、意味のない細目に固執するようになりかねないのだから〉p.299

〈具体的なものは、容易に、美しいもの、喜劇的なもの、象徴的なものにもなり、芸術や精神といった奥の深いものに昇華することが可能なのだ。概念的には、知恵遅れの人は不具かもしれない。しかし具体的なもの、象徴的なものを理解する力は、いかなる健常者にも劣らない〉p.300-301

〈日常の生活では簡単な説明や教えさえ理解できないのに、深遠な意味をもつ詩のなかの比喩や象徴を理解することには、ほとんど困難を感じないようだった。感情や具体性をあらわすことば,イメージや象徴をあらわすことばがひとつの世界を生みだし、彼女はそれを愛し、おどろくほど深くそこに入りこむことができたのである……しゃべるのはたどたどしかったが,彼女は一種の詩人,生まれながらの詩人といってよかった。はっとさせるような比喩や修辞が自然にうかび,思いがけない瞬間に、叫びのように発せられるのだった〉p.304

《おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの》p.310

〈興味深いことに夢もまた、彼女の支えとなった。夢を語るとなると、彼女はいつも生き生きとしてきた。夢には、喪に服しているあいだの彼女の心の変化がはっきりとあらわれていた〉p.311

〈基本的に言えることは、抽象的で体系的な方法が役立たないときにも、音楽には、組織しまとめる力、効果的に楽しくまとめる力があるということだ〉p.316

〈父親にとって大切だったこと、それがマーチンにとっても大切だった。二人は、音楽の魂、わけても宗教音楽の魂、声の魂を共有していたのである。声こそ、喜びと神の賛美に用いられるべく神がつくり給うた楽器なのである〉p.324

〈たとえ特殊なせまい領域であっても、彼らの能力が発揮できるのは、マーチンやホセ、そして双子の兄弟のような知恵遅れの人々に「創造的な知性」があるからである。理解し大切に育てなくてはならないのは、このような知性なのである〉p.328

《調和をもってつくられた者は、調和によろこびを感じ、……宇宙(の妙なる音楽)を創った〈第一作()者〉を深くしずかに思う。瞑想する彼の心には、耳が聞いて感じとる以上に、神々しいものが伝わってくる。それは全世界を解きあかす啓示であり、謎めいた象形文字のごとくいわば象徴的なかたちで告げられるかくれたる教えである。神の耳には知的に鳴って聞こえている調和の音楽といえよう。……人間の魂はハーモニカルであって、音楽にもっとも共鳴しやすいのである》p.346 サー・トーマス・ブラウン

〈あの双子の兄弟は、知恵遅れではあったけれど、宇宙のシンフォニーが聞こえていたのだろうと思う。それは、数のかたちをとって聞こえていたのであろう〉p.349-350

 創造的な知性、調和的なもの、具体性……。双子の兄弟にとって、数は生そのものであった。

 〈その兄弟は、天使とおなじ直覚的認識力をもっているかのようだった。彼らには、数にみちた宇宙が、天空が、なんら労することなく見えていたのである〉p.354

〈もしゲーデルの言うとおりのことがおこっているのだとすれば、双子の兄弟やそれと同類の人たちは、数の世界に住んでいるばかりでなく、世界のなかで数として生きている、ということが考えられる。彼らが数で遊んだり、数を出してくることは、人生そのものを生きようとしていることではないだろうか〉p.361-362

〈これまで彼の絵には――彼の人生にも――相互作用がつねに欠けていた。だがこの日ようやく、遊びのなかで、しかも象徴的なかたちではあったが、相互作用がもどったのである……安全な場所にもどるのが一番だと私は感じた。自由勝手な連想はもうやめておこう。私は将来にむかっての可能性を見つけたが、危険にも気がついていた。安全な場所、エデンの園、堕落前の母なる自然へ早くもどろう〉p.380-381

〈以前の彼は、話せないという状態を、希望もなく自虐的に受け入れていただけだった。だから、ことばやその他の手段による他人とのコミュニケーションすべてにそっぽをむいていたのである。話すことができないことと話すことを拒んできたことが、二重に病状を悪化させていた〉p.382

〈彼の心は観念的・抽象的なものを理解するようにはつくられていない。抽象的なものをとおして真実を見いだすことはできないのだ。しかし、具体的な個々のものに熱中し、それを表現する能力をもっている。それらを愛し、直観的に理解し、再創造する。彼にとっては、具体的なものこそ真実と現実に通じる道なのである……したがって、彼らはユニバース(単一の世界)に住んでいるのではなく、ウィリアム・ジェイムズのいうマルチバース(複合世界)に住んでいる。確固とした強烈な無数の「個」でできた世界なのである……ボルヘスの『記憶の人フネス』で描かれているのが、まさしくそのような心である〉p.386

〈自閉症の者は、生来めったに外部からの影響をうけない。そのため孤立化する運命にある。しかし、だからこそ彼らには独自性がある。彼らのヴィジョンをもし垣間見ることができるとすれば、それは内側から生まれるもの、彼らがもともともっていたものであろう〉p.388-389

 

《ヤナムラの才能を伸ばすために私がしたことは、彼の魂をわが魂とすることでした。教師は、美しく正直な知恵遅れの生徒を愛し、その清らかな世界をともに生きるべきなのです》p.39424

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