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ドゥイノの悲歌 Duineser Elegien

Reiner Maria Rilke(1922)/手塚富雄(1957).Duineser Elegien ドゥイノの悲歌.岩波文庫

〈ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が

 はるかの高みからそれを聞こうぞ? よしんば天使の列序につらなるひとりが

 不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその

 より激しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は

 怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、

 嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを

 とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい〉p.7 第一の悲歌

 

〈死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

 かれらは何をわたしに望むのか。かれらをつつむ悲運の外観を

 ひそやかに剥ぎ取ることだ。それがかれらの精神の

 純粋なはたらきを、時としてわずかながらも妨げることがあるゆえに〉p.12 第一の悲歌

 

〈けれどわれら人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐く息とともに

 消滅し無に帰するのだ〉p.16 第二の悲歌

 

 天使にも美にも遥かに及ばない、人であるゆえの隔絶を悲しむ。しかし、悲しみの中にすでに愛や希望は生まれていなかったか? それは天上のものから分与されたものではなかったか?

 

〈恋する若者がいとしい恋人の笑みに惹かれる心根は

 おんみら至純なものに由来するのではなかったか。かれが彼女のきよらかな顔を

 心をこめて見入るのは、あのきよらかな星辰からの贈りものではなかったか〉p.24 第三の悲歌

 

〈愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、

 その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊が磊々としてよこたわり、

 かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった〉p.27 第三の悲歌

 

〈おお乙女よ、

 このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、やがて生まれだすべきただ一つの存在ではなくて、

 沸騰ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、

 崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ

 父たちなのだ、過去の母たちの

 河床の跡なのだ――。雲におおわれた宿命、

 または晴れた宿命の空のもとに

 音もなくひろがっている全風景なのだ。このことが、乙女よ、おんみへの愛より前にあったのだ〉p.29 第三の悲歌

 

〈われら人間は大いなるものと一つに結ばれていない、渡り鳥のような、

 それとの心の通いがない〉p.31 第四の悲歌

 

〈まったく眼をこらして凝視そのものになろうとするこのわたしは。こうして

 ついにわたしの凝視の重みに対抗せんため天使が出現する、

 人形の胴体を高々と踊らせる演戯者として。私の凝視がそれを呼び出さずにはいないのだ〉p.35 第四の悲歌

 

〈しかし死を、

 全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも

 やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、

 そのことこそは言葉につくせぬことなのだ〉p.37 第四の悲歌

 

〈と突然、このたどたどしい「どこでもない場所ユルゲンツ」のなかに、突然、

 言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少が

 解しがたく変容して――あの空無の

 夥多へと急転する〉p.44 第五の悲歌

 

〈天使よ、わたしたちの知らぬ一つの広場があるのであろう、そこでは、

 名状しがたい毛氈の上で、現実の世界で自分の行為を技能化することのない

 愛人どうしが、その心情の躍動の

 敢為な、たけ高い形姿を、

 歓びできずかれた尖塔を、

 地面をはなれた宙空にいつまでもただたがいに

 支えあっているだけの二つの梯子を、おののきながら現ずることだろう〉p.45 第五の悲歌

 

〈愛する人たちよ、どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは

 ……

 多数のものの眼にはもはやそういうものはうつらない。しかもかれらはおのが内部に、

 柱や彫像もろともにより大きくそれを築く力をもたないのだ〉p.55-56 第七の悲歌

 

〈天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛めたとて! おんみは来はしない。なぜならわたしの

 声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶につねに充ちているのだから〉p.58-59 第七の悲歌

 

〈われわれはかつて一度も、一日も、

 ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る

 純粋な空間に向きあったことはない

 ……

 幼いころ

 ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に

 揺すぶり醒まされる。また、ある人は死ぬときそれになりきっている〉p.61 第八の悲歌

 

〈わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ〉p.62 第八の悲歌

 

〈故里を去りゆくものは、いくたびもいくたびもあとをふりかえる。

 何ごとをしようと、いつもわれわれはその姿態にもどるのだ。そうせずにはいられぬように〉p.65 第八の悲歌

 

〈何をわれわれはたずさえていこう? 地上でおもむろに習得した

 観照、それをたずさえては行けない、地上でしとげたこともたずさえては行けない。なにもかも。

 それゆえたずさえてゆくものは、苦痛や悲しみだ、とりわけ重くなった体験だ、

 愛のながい経過だ、――つまりは

 言葉にいえぬものばかりだ〉p.68 第九の悲歌

 

〈天使にむかって世界をたたえよ、言葉に言いえぬ世界をではない、天使には

 おまえはおまえの感受の壮麗を誇ることはできぬ。万有のなかで

 天使はより強い感じかたで感じている、そこではおまえは一箇の新参にすぎぬのだ〉p.70 第九の悲歌

 

〈大地よ、これがおんみの願うところではないか、目に見えぬものとして

 われわれの心のなかによみがえることが? ――それがおんみの夢ではないか、

 いつか目に見えぬものとなることが〉p.72 第九の悲歌

 

〈見よ、わたしは生きている、何によってか? 幼時も未来も

 減じはせぬ……みなぎる今の存在が

 わたしの心情のうちにあふれ出る〉p.73 第九の悲歌

 

〈しかし悲痛こそは

 われらを飾る常盤木、濃緑の冬蔦なのだ、

 それは秘められた、心のうちの季節のひとつ――いな季節であるばかりでない、それはまた

 所在地、集落、塒、土地、住家なのだ〉p.75 第十の悲歌

 

〈――遠いあちら。わたしたちはずっと向こうに住んでいるのです……〉p.77 第十の悲歌

 

〈しかしかれら、無限の死にはいりえた死者たちが、わたしたちの心に一つの比喩を呼び起そうとならば、

 みよ、かれはおそらく、葉の落ちつくしたはしばみの枝に芽生えた

 垂れさがる花序をゆびさすであろう、あるいは

 早春の黒い土に降りそそぐ雨にわれらの思いを誘おう〉p.82 第十の悲歌

 

〈そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる

 ものたちは、ほとんど驚愕にちかい

 感動をおぼえるであろう、

 降りくだる幸福のあることを知るときに〉p.83 第十の悲歌

          *          *          *

 私は、私の意思を超えた何かにふれているときに生きている。その「何か」は理解しえない、隔絶したものである。それはおそらく画家の高山辰雄が「アミーバーの心」、清宮質文が「オバケ」と名付けたものである。隔絶しているからこそ、求めずにはいられない。リルケはそれを「天使」と呼ぶ。彼は天使との対話の可能性を模索する。悲痛のうちに生じる力によって、大地から委託された表現(詩や歌)によって。しかし自ら対話を拒みもする、怖れゆえ。それでも呼びかけずにはいられない。目に見えない世界の純粋さを、まだ知られていない広場の存在を、無限の死にはいった死者たちの透明なやさしさを……真実の愛として。

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