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常世の花 石牟礼道子

若松英輔(2018).常世の花 石牟礼道子.亜紀書房

《人間の苦悩を計る物差しはありえまいという悲しみ、じつはその悲しみのみが、この世を量るもっとも深い物差しかと思われます。そういう悲しみの器の中にある存在、文字や知識で量れぬ悲しみを抱えた人間の姿、すなわち存在そのものが、文字を超えた物差しであるように思われます》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈誰かの心にある、言葉にならないものに出会ったとき、それが石牟礼道子の書き手になる瞬間だった〉p.18

〈彼女にとって書くとは、おのれの心情を十分に語ることのないまま逝かねばならなかった者たちの、秘められたおもいを受け止めることだった〉p.21

〈石牟礼道子に会うとは彼女に言葉を託した亡き者たちに会うことでもある〉p.24

《わたくしの死者たちは、終わらない死へ向けてどんどん老いてゆく。そして、木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである》『苦海浄土』

〈それは存在の深みから、亡き者を含む「神さま」たちに照らし出されることを意味する。別なところでは「人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、荘厳ということがより必要になってくるかと思います」(「名残の世」)とも述べている……彼女が残した言葉は、受難を生きた者の悲痛だけではない。耐えがたい労苦を背負った者たちによって荘厳されるという出来事の証言でもあった〉〉p.31

〈きよ子さんはわたしにとっても、とてもなつかしい人で、他人の気がしないのです。もちろん会っていないのですが、会ったような心持ちがしています。魂と魂が出会うのでしょうか〉p.72

〈水俣のことは、近代詩のやり方ではどうしても言えない。詩壇に登場するための表現でもない。闘いだと思ったんです。一人で闘うつもりでした。今も闘っています〉p.77

〈そういう景色を見ていると、とっても慰められます。猫たちや犬たちや魚たちと私たちの、何ていうか、行き来があるんですね。気持ちの行き来が。共同体ですよ〉p.78

〈人間たちとは異なる姿をしているいのちとの結び付きをどう取り戻していくのか〉p.79

〈人はいつしか、造られた美しさに目を奪われ、隠れた美を見失った。語られた死を恐れ、寄り添う死者を忘れた。個であることを追究するあまり、民の叡知を放擲した。見えるものを現実とし、見えないものを虚無とした。言葉を道具にし、コトバからの信頼を喪失した。ここに近代が胚胎した〉p.85

《自分の周りの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深いさびしい気持を、ひそかに荘厳してくれるような声が聞きたいと、人は悲しみの底で想っています。そういうとき、山の声、風の歌などを、わたしどもは魂の奥で聴いているのではないでしょうか。なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈ある人の目には西行は、ひとりで旅をする者に映った。だが彼はいつも、自分のかたわらで「花」を愛でる不可視な存在を感じていた。彼にとって死者とは、彼を脅かすものではなく守護者であった〉p.94

〈「霊性」とは、万人のなかにある、自らを超える何ものかを希求する衝動である〉p.100

〈悲しみの花はけっして枯れない。それは祈りの光と涙の露によって育まれるからである〉p.103-104

〈万葉の時代において「見る」とは、その対象の魂と交わることだった。「見る」ことは、不可視な世界にふれることだった〉p.105

〈花からは「常世」のありかを示す細き光が放たれている。光源は、悲しみに生きる者の切なる願いにある〉p.106

〈「死」が、存在の終焉でないことは、死者たちの存在がそれを物語っている。生者は死者たちの日常を知らない。しかし、その存在を知っている。死者を傍らに感じることによって、死が何ごとかの始まりであることを、生者は知っている〉p.109

〈石牟礼が用いた言葉のなかで「荘厳」ほど誤認されたものはないかもしれない。それはきらびやかな何かを表す言葉ではない。むしろ、戦慄と畏敬をもってせまり、人間をひれ伏させずにはおかない、不可視なものからやってくる抗しがたいはたらきである〉p.119

〈ここにおいて「弔う」とは「葬る」ことではない。それは「愛護」することに等しい。死者は生者に生きることを託す。それだけでなく死者の方法で生者を「弔う」。その営みを生者の世界では寄り添う、と呼ぶのである〉p.121

〈見える世界を支えているのは、見えざるものたちであることを、能の伝統は、今に照らし出そうとしている……それを読むのは生者ばかりではない。誤解を恐れずにいえば、死者をあるいは精霊を最初の読者にしていないとき、言葉はコトバにはならない〉p.133

〈死者を思い、悲しむのは、逝きし者が遠く離れているからではなく、むしろ、寄り添うからではないだろうか。悲しみは、死者が生者のもとを訪れる合図である〉p.135

《死者たちの魂の遺産を唯一の遺産として、ビタ一文ない水俣行対策市民会議は発足した》(『苦海浄土』)

《詩人とは人の世に涙あるかぎり、これを変じて白玉の言葉となし、言葉の力を持って神や魔をもよびうる資質のものをいう》(「こころ燐にそまる日に」)

          *          *          * 

 大地、海、そこを棲みかとする生きもの、そして死者たちの、言葉にならない思い(悲しみ)を、それらに委託されて歌う。思いたちとともにある道子さんは、また慰められてもいる。悲しみは、悲しみが本来持っている生の力により、受けとるものを支えようとするのかもしれない。

 『おかしゃん、はなば』

 きよ子さんにとって、花とは何だろう? 傍らにあるもの、たしかに感じられているのに触れえないもの、呼びかけてくれたもの、寄り添ってくれているもの。彼女にとって大切なものを、文にしてくれた、そこに貴い何かがある。

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