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2019年5月

狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ

梯久美子(2016).狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ.新潮社

〈異常な時間と空間の中で死と向き合った人間の心の動きを執念ともいえる精密さで再現したこの二作の中で、島尾は自分が死んだ後の恋人の運命に対する主人公の無頓着さをそのまま描き出している〉p.204

 〈眞鍋は、島尾はミホが日記を見るであろうことがわかっていて、彼女にとって衝撃的なことをあえて書いた可能性があると言った〉p.233-234

 〈島尾が漠然と期待していた女性像をミホは演じ、そのことに陶酔していた。それがこの夜、最高潮に達したということなのではないだろうか〉p.249

 〈二人の恋愛は、言葉、それも会話より書き言葉によって構築されたものだった。二人とも言葉の力で恋愛に昂揚と陶酔をもたらすことに長けていたが、それは同時に、言葉に囚われていたことでもある〉p.250

〈それは、ミホの中に、夫ではなく自分自身の言葉で事実を語りたい欲求があったからではないだろうか……このときすでに、ミホは「書かれる女」から一歩踏み出しかけていたのかもしれない〉p.309-310

 〈けもののように咆哮して畳を這い回るほど衝撃を受けたのは、浮気の事実によってではなく、日記に合った言葉――半世紀たってもありありと眼前に浮かぶとミホが言った十七文字――によってだったのだ〉p.311

 〈清書しながらしばしば狂乱しつつも,島尾に『死の棘』を書き続けることをうながしたミホ。それはミホ自身が,あの十七文字を帳消しにする膨大な量の言葉を島尾からささげられることを求めていたからに違いない〉p.315

 〈破綻の中で初めて見えてくるものがあるはずだという期待が作家としての島尾の中にあり、この時期、それを見たいという強い欲望を持っていたのは確かだろう。

 ミホはミホで、自分が存分に狂ってみせることが、よどんで閉塞した状況に風穴をあけることになると、無意識のうちに気づいていたかもしれない〉p.325

  書く(創造する)ことで、島尾は癒されただろうか? 癒すとは、自分の膿を見つけ出し、捨て去ることではないだろうか。

 〈自分の外出中に留守宅で何かが起ることを、おそれつつ待ち望んでいた島尾。ミホの審きを待っていたということは、すなわち、加計呂麻島による審きを待っていたということである。

 もしも島尾が、ミホが日記を見るよう仕向けたのだとすれば、それは一方では小説のためであり、もう一方では、意識下にあった「自分は審かれるべき存在だ」という考えを現実化するためだったろう〉p.349

 〈長男の伸三が「どんな試練がきても、それに耐えることで、彼は自分の魂を浄化する方法に換えることができた」(『魚は泳ぐ』)と書いているが、審かれる痛みは島尾にとって生きていることの確かめであり、その痛みに耐えることによって、ある種の安定を得ることができたのかもしれない〉p.349

  創造の過程で、自己は見つめられ、問い直される。見つめ、問うているのは絶対他者である。絶対他者が「私」を癒している。

 〈繰り返された発作は、文学仲間との浮気を知るという形でようやくミホに訪れた「戦後」に対する拒否反応でもあった。ミホが日記を見て狂乱に陥ったのは昭和二十九年だが、その前年に奄美群島は日本に返還されている。本土より遅れて奄美にやっと戦後が訪れたとき、ミホもまた、彼女にとっては陶酔そのものであった戦時下という時間に決別しなければならなかった〉p.389

 〈南島を体現したような人物だった文一郎の娘ミホ(養女ではあるが実の娘以上の存在だった)の狂気によってすでに審かれていた島尾だが、奄美に居を定めたことで、今度は直接、島とそこに住む人々から審きを受けることになった。それがあくまで島尾の主観だったとしても、奄美は彼にとって審きの場だった。だからこそ、『死の棘』は、東京ではなくこの地で書かれなければならなかったのだ〉p.449

 〈島尾の没後、ミホは島尾を聖人のように語り、自分たちの夫婦愛を神話化するのだが、その背景には、最大の負い目である「父を捨てたこと」を正当化したい気持ちがあったのではないだろうか〉p.455

 〈「妻への祈り・補遺」には「妻は私にとって神のこころみであった。私には神が見えず、妻だけが見えていたと言ってもいい」という一節がある〉p.461

 〈人間の罪を、観察可能な「物」として目の前に提示してみせること。それはまさに、『死の棘』という小説によって島尾が行おうとしたことではなかったか。全能の作者としてミホの内面に入りこんで描くことをせず、理解の及ばぬ他者として描き続けた姿勢、そして現実生活においては何があってもミホの傍を離れようとしなかった生き方の底には、自分の罪をひたすら見つめ続けることが償いにつながるというこの感覚があったのかもしれない〉p.463

 〈大平家の屋敷跡と墓は、ミホの悲しみと悔恨、憤りの象徴であり、そこに誰かが足を踏み入れることは、ミホにとって、いわば"負の聖域"を侵されることだったのではないだろうか〉p.470

 〈ミホは押角で、もはや拒み得ない「戦後」に直面させられた。それを受け入れざるを得ないことに気づいたとき、発作を起こすエネルギーも失われたのだろう。島で一晩を過ごし、港から船に乗ったときのことを、ミホは「「死の棘」から脱れて」の中で、「父が真珠の養殖をしていたクバマの沖を通った時、私ははっきりと過去に決別を告げることができました」と書いている。このときようやく、ミホの戦後が始まったのである〉p.472

 〈横たわって動かない鼠を「妻だけに属したもののように見えた」と書く島尾は、見るものと見られるものとの間に成立するひそやかで親密な関係を鋭敏に察知している。その間に自分は入り込めないことも〉p.484

 〈こうした外向きの意識だけではなく、ミホ自身の中にも、書くことへの欲求を抑圧するものが存在したように思う。自分の名前で世に出て評価されるよりも、地位ある夫に愛され、献身する妻のほうが好ましいという価値観である〉p.499

 〈さまよい出たイキマブリがたどる道筋の風景に、作者のミホは南島の習俗や信仰のあり方を示すもの――カムダハサントゥロ、サトヌミャー、マブリイシ、ナハダヌミャー――を点在させ、生き霊の存在が信じられている世界へと読み手を巧みに誘いこむ〉p.515-516

 〈ミホ自身、狂うことが起死回生の道であることを、どこかでわかっていたのではないだろうか〉p.534

 〈絶対的な夫婦愛は、ミホが作り上げようとした神話だった。それは世間に対してだけではない。島尾のために養父を捨てたという負い目を抱えたミホは、島尾がそれに値する男であったこと、自分たちが至上の愛で結ばれた幸福な夫婦だったことを、誰よりもまず、死んだ養父母に対して示さなければならなかった〉p.601

          *          *          *

 一方では、破綻の中ではじめて見えてくる何かへの期待が島尾敏雄にあり、他方では、自ら狂うことが救いとなるとの予感がミホにあったかもしれないこと、そして、かれらがその期待や予感を生きたことが、私には興味深い。誠実なのだ、生きることについて、出会いの瞬間から。大切な部分は事実を曲げることなく表現しようとしたことも。敏雄が自分の罪を見つめ続け、それを表現すること自体が償いであったということも。ミホが、夫の没後二十年間喪に服しながら生きたのはなぜだろう。感謝と、償いか。また、養父への思いもあったのかもしれない。

常世の花 石牟礼道子

若松英輔(2018).常世の花 石牟礼道子.亜紀書房

《人間の苦悩を計る物差しはありえまいという悲しみ、じつはその悲しみのみが、この世を量るもっとも深い物差しかと思われます。そういう悲しみの器の中にある存在、文字や知識で量れぬ悲しみを抱えた人間の姿、すなわち存在そのものが、文字を超えた物差しであるように思われます》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈誰かの心にある、言葉にならないものに出会ったとき、それが石牟礼道子の書き手になる瞬間だった〉p.18

〈彼女にとって書くとは、おのれの心情を十分に語ることのないまま逝かねばならなかった者たちの、秘められたおもいを受け止めることだった〉p.21

〈石牟礼道子に会うとは彼女に言葉を託した亡き者たちに会うことでもある〉p.24

《わたくしの死者たちは、終わらない死へ向けてどんどん老いてゆく。そして、木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである》『苦海浄土』

〈それは存在の深みから、亡き者を含む「神さま」たちに照らし出されることを意味する。別なところでは「人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、荘厳ということがより必要になってくるかと思います」(「名残の世」)とも述べている……彼女が残した言葉は、受難を生きた者の悲痛だけではない。耐えがたい労苦を背負った者たちによって荘厳されるという出来事の証言でもあった〉〉p.31

〈きよ子さんはわたしにとっても、とてもなつかしい人で、他人の気がしないのです。もちろん会っていないのですが、会ったような心持ちがしています。魂と魂が出会うのでしょうか〉p.72

〈水俣のことは、近代詩のやり方ではどうしても言えない。詩壇に登場するための表現でもない。闘いだと思ったんです。一人で闘うつもりでした。今も闘っています〉p.77

〈そういう景色を見ていると、とっても慰められます。猫たちや犬たちや魚たちと私たちの、何ていうか、行き来があるんですね。気持ちの行き来が。共同体ですよ〉p.78

〈人間たちとは異なる姿をしているいのちとの結び付きをどう取り戻していくのか〉p.79

〈人はいつしか、造られた美しさに目を奪われ、隠れた美を見失った。語られた死を恐れ、寄り添う死者を忘れた。個であることを追究するあまり、民の叡知を放擲した。見えるものを現実とし、見えないものを虚無とした。言葉を道具にし、コトバからの信頼を喪失した。ここに近代が胚胎した〉p.85

《自分の周りの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深いさびしい気持を、ひそかに荘厳してくれるような声が聞きたいと、人は悲しみの底で想っています。そういうとき、山の声、風の歌などを、わたしどもは魂の奥で聴いているのではないでしょうか。なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから》(「名残の世」『親鸞 不知火よりのことづて』)

〈ある人の目には西行は、ひとりで旅をする者に映った。だが彼はいつも、自分のかたわらで「花」を愛でる不可視な存在を感じていた。彼にとって死者とは、彼を脅かすものではなく守護者であった〉p.94

〈「霊性」とは、万人のなかにある、自らを超える何ものかを希求する衝動である〉p.100

〈悲しみの花はけっして枯れない。それは祈りの光と涙の露によって育まれるからである〉p.103-104

〈万葉の時代において「見る」とは、その対象の魂と交わることだった。「見る」ことは、不可視な世界にふれることだった〉p.105

〈花からは「常世」のありかを示す細き光が放たれている。光源は、悲しみに生きる者の切なる願いにある〉p.106

〈「死」が、存在の終焉でないことは、死者たちの存在がそれを物語っている。生者は死者たちの日常を知らない。しかし、その存在を知っている。死者を傍らに感じることによって、死が何ごとかの始まりであることを、生者は知っている〉p.109

〈石牟礼が用いた言葉のなかで「荘厳」ほど誤認されたものはないかもしれない。それはきらびやかな何かを表す言葉ではない。むしろ、戦慄と畏敬をもってせまり、人間をひれ伏させずにはおかない、不可視なものからやってくる抗しがたいはたらきである〉p.119

〈ここにおいて「弔う」とは「葬る」ことではない。それは「愛護」することに等しい。死者は生者に生きることを託す。それだけでなく死者の方法で生者を「弔う」。その営みを生者の世界では寄り添う、と呼ぶのである〉p.121

〈見える世界を支えているのは、見えざるものたちであることを、能の伝統は、今に照らし出そうとしている……それを読むのは生者ばかりではない。誤解を恐れずにいえば、死者をあるいは精霊を最初の読者にしていないとき、言葉はコトバにはならない〉p.133

〈死者を思い、悲しむのは、逝きし者が遠く離れているからではなく、むしろ、寄り添うからではないだろうか。悲しみは、死者が生者のもとを訪れる合図である〉p.135

《死者たちの魂の遺産を唯一の遺産として、ビタ一文ない水俣行対策市民会議は発足した》(『苦海浄土』)

《詩人とは人の世に涙あるかぎり、これを変じて白玉の言葉となし、言葉の力を持って神や魔をもよびうる資質のものをいう》(「こころ燐にそまる日に」)

          *          *          * 

 大地、海、そこを棲みかとする生きもの、そして死者たちの、言葉にならない思い(悲しみ)を、それらに委託されて歌う。思いたちとともにある道子さんは、また慰められてもいる。悲しみは、悲しみが本来持っている生の力により、受けとるものを支えようとするのかもしれない。

 『おかしゃん、はなば』

 きよ子さんにとって、花とは何だろう? 傍らにあるもの、たしかに感じられているのに触れえないもの、呼びかけてくれたもの、寄り添ってくれているもの。彼女にとって大切なものを、文にしてくれた、そこに貴い何かがある。

ドゥイノの悲歌 Duineser Elegien

Reiner Maria Rilke(1922)/手塚富雄(1957).Duineser Elegien ドゥイノの悲歌.岩波文庫

〈ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が

 はるかの高みからそれを聞こうぞ? よしんば天使の列序につらなるひとりが

 不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその

 より激しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は

 怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、

 嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを

 とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい〉p.7 第一の悲歌

 

〈死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。

 かれらは何をわたしに望むのか。かれらをつつむ悲運の外観を

 ひそやかに剥ぎ取ることだ。それがかれらの精神の

 純粋なはたらきを、時としてわずかながらも妨げることがあるゆえに〉p.12 第一の悲歌

 

〈けれどわれら人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐く息とともに

 消滅し無に帰するのだ〉p.16 第二の悲歌

 

 天使にも美にも遥かに及ばない、人であるゆえの隔絶を悲しむ。しかし、悲しみの中にすでに愛や希望は生まれていなかったか? それは天上のものから分与されたものではなかったか?

 

〈恋する若者がいとしい恋人の笑みに惹かれる心根は

 おんみら至純なものに由来するのではなかったか。かれが彼女のきよらかな顔を

 心をこめて見入るのは、あのきよらかな星辰からの贈りものではなかったか〉p.24 第三の悲歌

 

〈愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、

 その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊が磊々としてよこたわり、

 かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった〉p.27 第三の悲歌

 

〈おお乙女よ、

 このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、やがて生まれだすべきただ一つの存在ではなくて、

 沸騰ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、

 崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ

 父たちなのだ、過去の母たちの

 河床の跡なのだ――。雲におおわれた宿命、

 または晴れた宿命の空のもとに

 音もなくひろがっている全風景なのだ。このことが、乙女よ、おんみへの愛より前にあったのだ〉p.29 第三の悲歌

 

〈われら人間は大いなるものと一つに結ばれていない、渡り鳥のような、

 それとの心の通いがない〉p.31 第四の悲歌

 

〈まったく眼をこらして凝視そのものになろうとするこのわたしは。こうして

 ついにわたしの凝視の重みに対抗せんため天使が出現する、

 人形の胴体を高々と踊らせる演戯者として。私の凝視がそれを呼び出さずにはいないのだ〉p.35 第四の悲歌

 

〈しかし死を、

 全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも

 やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、

 そのことこそは言葉につくせぬことなのだ〉p.37 第四の悲歌

 

〈と突然、このたどたどしい「どこでもない場所ユルゲンツ」のなかに、突然、

 言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少が

 解しがたく変容して――あの空無の

 夥多へと急転する〉p.44 第五の悲歌

 

〈天使よ、わたしたちの知らぬ一つの広場があるのであろう、そこでは、

 名状しがたい毛氈の上で、現実の世界で自分の行為を技能化することのない

 愛人どうしが、その心情の躍動の

 敢為な、たけ高い形姿を、

 歓びできずかれた尖塔を、

 地面をはなれた宙空にいつまでもただたがいに

 支えあっているだけの二つの梯子を、おののきながら現ずることだろう〉p.45 第五の悲歌

 

〈愛する人たちよ、どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは

 ……

 多数のものの眼にはもはやそういうものはうつらない。しかもかれらはおのが内部に、

 柱や彫像もろともにより大きくそれを築く力をもたないのだ〉p.55-56 第七の悲歌

 

〈天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛めたとて! おんみは来はしない。なぜならわたしの

 声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶につねに充ちているのだから〉p.58-59 第七の悲歌

 

〈われわれはかつて一度も、一日も、

 ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る

 純粋な空間に向きあったことはない

 ……

 幼いころ

 ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に

 揺すぶり醒まされる。また、ある人は死ぬときそれになりきっている〉p.61 第八の悲歌

 

〈わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ〉p.62 第八の悲歌

 

〈故里を去りゆくものは、いくたびもいくたびもあとをふりかえる。

 何ごとをしようと、いつもわれわれはその姿態にもどるのだ。そうせずにはいられぬように〉p.65 第八の悲歌

 

〈何をわれわれはたずさえていこう? 地上でおもむろに習得した

 観照、それをたずさえては行けない、地上でしとげたこともたずさえては行けない。なにもかも。

 それゆえたずさえてゆくものは、苦痛や悲しみだ、とりわけ重くなった体験だ、

 愛のながい経過だ、――つまりは

 言葉にいえぬものばかりだ〉p.68 第九の悲歌

 

〈天使にむかって世界をたたえよ、言葉に言いえぬ世界をではない、天使には

 おまえはおまえの感受の壮麗を誇ることはできぬ。万有のなかで

 天使はより強い感じかたで感じている、そこではおまえは一箇の新参にすぎぬのだ〉p.70 第九の悲歌

 

〈大地よ、これがおんみの願うところではないか、目に見えぬものとして

 われわれの心のなかによみがえることが? ――それがおんみの夢ではないか、

 いつか目に見えぬものとなることが〉p.72 第九の悲歌

 

〈見よ、わたしは生きている、何によってか? 幼時も未来も

 減じはせぬ……みなぎる今の存在が

 わたしの心情のうちにあふれ出る〉p.73 第九の悲歌

 

〈しかし悲痛こそは

 われらを飾る常盤木、濃緑の冬蔦なのだ、

 それは秘められた、心のうちの季節のひとつ――いな季節であるばかりでない、それはまた

 所在地、集落、塒、土地、住家なのだ〉p.75 第十の悲歌

 

〈――遠いあちら。わたしたちはずっと向こうに住んでいるのです……〉p.77 第十の悲歌

 

〈しかしかれら、無限の死にはいりえた死者たちが、わたしたちの心に一つの比喩を呼び起そうとならば、

 みよ、かれはおそらく、葉の落ちつくしたはしばみの枝に芽生えた

 垂れさがる花序をゆびさすであろう、あるいは

 早春の黒い土に降りそそぐ雨にわれらの思いを誘おう〉p.82 第十の悲歌

 

〈そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる

 ものたちは、ほとんど驚愕にちかい

 感動をおぼえるであろう、

 降りくだる幸福のあることを知るときに〉p.83 第十の悲歌

          *          *          *

 私は、私の意思を超えた何かにふれているときに生きている。その「何か」は理解しえない、隔絶したものである。それはおそらく画家の高山辰雄が「アミーバーの心」、清宮質文が「オバケ」と名付けたものである。隔絶しているからこそ、求めずにはいられない。リルケはそれを「天使」と呼ぶ。彼は天使との対話の可能性を模索する。悲痛のうちに生じる力によって、大地から委託された表現(詩や歌)によって。しかし自ら対話を拒みもする、怖れゆえ。それでも呼びかけずにはいられない。目に見えない世界の純粋さを、まだ知られていない広場の存在を、無限の死にはいった死者たちの透明なやさしさを……真実の愛として。

すべての見えない光 All the Light We Cannot See

Anthony Doerr(2014)/藤井光(2016).すべての見えない光.新潮社

〈彼女の胸のなかでは巨大ななにか、熱望に満ちたなにか、恐れを知らないなにかが脈打っている〉p.48

 第二次大戦下、マリー=ロールとヴェルナー、フレデリックたちの物語。

〈そして今、あの日光、一億年前の日光が、今夜はきみの家を暖めている……家々はもやになり、炭鉱はふさがり、煙突は揃って倒れ、古代の海が通りにあふれ出し、空気からは可能性が流れ出す〉p.50

〈修道士のように、必要とするものはつつましく、現世の義務からはすっかり切り離されている。それでも、彼女にはわかる。彼を襲う恐れは、巨大で、多様で、心で脈打つ恐怖が感じられそうなほどだ。あかたも、なにかのけものが吹きかける息が津根に心の窓に当たっているかのように〉p.161

〈ときおり、暗闇のなかで、ヴェルナーは思う。もしかすると、地下室自体にかすかな光があるのかもしれない。もしかすると、瓦礫から光が発せられていて、地上で八月の太陽が夕暮れに近づくにつれて、地下にもわずかに赤みが差しているのかもしれない〉p.215

 場面の切替わりが早い、映画を観ているようだ。「私たちが見ることのできない光」の一つは石炭だ。太古の光を摂って生きた植物の化石、その光。「炎の海」にひそむもの。

 的確な比喩表現が、情景の細部を浮かび上がらせる。

〈シュルプフォルタの少年たちがどこへ行こうとも抱えていく象徴的な炎、国家の炉床を燃え上がらせる、純粋な炎の大杯について〉p.219

〈部屋は静まり返る。フレデリックの窓の外にある木々には、異邦の光がかかっている。「ヴェルナー、きみの問題はさ」とフレデリックは言う。「きみがまだ自分の人生を信じていることなんだ」〉p.227

〈だれもが自分の役割に囚われている。孤児、士官候補生、フレデリック、フォルクハイマー、上階に住むユダヤ人女性。ユッタでさえも〉p.232

 理解するとは、身体を遥かに超えて、宇宙ごとわかること。それは、世界が根底から変わること。

〈崇高さとはなにかわかるか、ペニヒ? ……あるものが、別のものに変わろうとする瞬間のことだ。昼が夜に、青虫が蝶に、小鹿が牡鹿に〉p.249

〈天使たちのなかにひとりだけ混じった人食い鬼、墓石の原を夜に渡っていく管理人〉p.251

〈生とは一種の腐敗ではないのか。ひとりの子どもが生まれると、世界はそれに取りかかる。その子どもからさまざまなものを奪い、あるいは詰めこむ。食べ物のひと口、目に入る光の粒子〉p.287

〈外の世界には、無数の避難所が待っている。鮮やかな緑色の風に満ちた庭、生け垣の王国、蝶が花の蜜のことだけを考えて漂う、森の深い陰。彼女はどこにも行くことができない〉p.305

〈数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ〉p.367

〈電池はもう一日、ふたりに雑音を与えてくれる。あるいは、もう一日の光を。だが、ライフルを使うときに、光は必要ないだろう〉p.377

〈主よ我らが神よあなたの恩寵は浄罪の炎なり〉p.379

〈目を閉じること、それは盲目であることをなにも教えてはくれない空や顔や建物でできた世界の下には、よりむき出しで、古い世界があり、そこでは表面がばらばらになり、音は無数の帯になって空中を流れる〉p.386

〈最上階の、ホテルでも一番いいと思われる部屋で、彼は六角形の浴槽のなかに立ち、手のひらの付け根で窓から汚れを拭き取る。空に浮かぶいくつかの種が風で渦巻き、家々のあいだにある影の峡谷に落ちていく〉p.399

〈ぼくらには選ぶ権利なんかないよ、人生は自分のものじゃないんだ〉p.402

〈欲に踊るこうした連中は、異なる重圧の下で必死にもがいている。だが、ここでの捕食者はフォン・ルンペンのほうだ。我慢強くいさえすればいい。障害物をひとつひとつ取り除くのだ〉p.405

〈ヴェルナー、視力を失ったとき、わたしはみんなから勇敢だと言われたわ。父さんがいなくなったときも、勇敢だと言われた。でも、それは勇敢さとは違う。ほかにどうしようもなかったのよ。朝に起きて、自分の人生を生きているの。あなただってそうでしょう?〉p.459

〈月が輝き、膨らむ。ちぎれた雲が、木々の上空を飛んでいく。いたるところで木の葉が舞っている。だが、月光は風にも動じることなく、雲や空気を抜け、ありえないと思えるほどゆっくりとした、冷静な筋になっている。倒れかけた草にかかっている。

 風はどうして光を動かさないのだろう〉p.474

〈あのころは……善人でいるのは簡単ではなかったですから〉p.505

 

〈彼にはほんのわずかな存在感しかなかった。一本の羽毛と一緒に部屋にいるようなものだった。だが、彼の魂は、生まれつきのやさしさに輝いていたのではなかっただろうか〉p.506

〈だとすると、魂もそうした道を移動するのかもしれないと信じるのは、それほど難しいことだろうか……空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら〉p.518 

〈彼女は思う。一時間が過ぎるごとに、戦争の記憶を持つだれかが、世界から落ちて消えていく。

 わたしたちは、草になってまた立ち上がる。花になって。歌になって〉p.518

 光とは何だろう? 一億年前の植物たちが自身に封じこめためぐみ、遠くにいる人と人をつなぐ希望、ヴェルナーの心を領した夜のきらめくもの、夢見るフレッデのまわりにひろがるためらいとあたたかさ、マリー=ロールの世界をかたちづくっている記憶、目に見えないものすべて。いやおうなく、戦いに巻きこまれ、生き方を変えられてしまうけれど、彼らの本質であるやさしさは変わらず心に在りつづける。それがマリー=ロールを救うことになる……光とは、人のやさしさなのかもしれない。

 

 

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