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トマス・アクィナス 理性と神秘

山本芳久(2017).トマス・アクィナス.岩波新書

〈単に輝きを発するよりも照明する方がより大いなることであるように、観想の実りを他者に伝える方がより大いなることである〉p.2

 観想の実りを他者に伝えることは、大いなること、だろうか? 輝いているだけで、すでに照明しているのではないか?

〈『霊魂論』第三巻において、「魂はある意味においてすべてのものである」と言われている。なぜならば、魂はすべてのものを認識するような本性を持っているからである〉p.12

 魂とは、思考、だろうか?

〈人間精神がこの世界の秩序を認識して、それを書物に書き記したりするというのではない。むしろ、人間精神から独立して存在する「宇宙とその諸原因の全秩序」の側が主体となって、人間精神のうちに自らを刻み込むという事態が語り出されているところが大変興味深い〉p.13

 この考え方が腑におちるのはなぜか? 「人間精神」を「思考」に置き換えるとよりわかりやすい。

〈ところで、ディオニシウス『神名論』第四巻によると、人間の善とは理性に即していることである〉p.54

〈敬虔な純潔があらゆる性的な快楽から離れるのは、より自由な仕方で神の観想に専心するためなのである〉p.96

〈それが真摯な信仰である限り、その人の人格に、行動の在り方に、そして物の考え方に、内的な変容が生まれてくるはずだ。だが、変容の結果成立した在り方は、それまでのその人の在り方と完全に非連続なのではない。その人のなかにもともと潜在していた可能性が、洗礼によって触発されて顕在化してきたものである〉p.99

〈愛とは、愛するものの愛されるものに対する何らかの一致または親和性である〉p.106

〈「神は愛である」という「ヨハネの第一の手紙」第四章第十六節の有名な言葉にもあるように、神は愛そのものだというのがキリスト教の根本的な教えである〉p.108

〈我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである・・・ところで、信じるということそれ自体は、神によって恩寵を通じて動かされた意志の命令に基づいて神的真理に承認を与える知性の行為であり、したがって神への秩序づけにおいて自由意志に服している〉p.151

〈至福そのものである神という最高善の力を頼りにすることによって、神そのものである至福に到達する望みを抱くのが希望という神学的徳である〉p.170

〈そして我々が神を愛するということは、神が我々を愛していることの徴(signum)なのである〉p.194

〈神の本質そのものがカリタスなのである。ちょうど、それがまた知恵でもあり、善性でもあるように〉p.202

〈その人は、神のカリタスによって一方的に肯定されていることを受動的に受け入れるのみではない。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに内在するようになる。そして、その溢れんばかりのカリタスが、自己のみではなく他者をも愛し肯定していく原動力として留まり続けるのである。・・・ここには、非常に豊かな仕方で共鳴する愛の連鎖が語り出されている〉p.226

〈受肉の神秘(incarnationis mysterium)は、神が御自身の永遠からあった状態から離れて、そうでなかった状態に何らかの仕方で変化を蒙ることによって実現されたのではなく、新しい仕方で自らを被造物に一致させることによって、いやむしろ被造物を自らに一致させることによって、実現されたのである〉p.232

〈それゆえ、聖なる教父たちに従って、われわれすべては一致して次にように教え、告白する。我々の主イエス・キリストは唯一にして同一なる子であり、神性(deitas)において完全であり、人性(humanitas)において完全である。真の神であり、真の人間であり、理性的霊魂と肉体から成る、神性において父と同一実体であり、人性において我々と同一実体である。罪を除いてあらゆる点において我々と同様である。神性においては代々に先立って父から生まれ、人性においては我々のために、また我々の救いのために、この終わりのときに神の母処女マリアから生まれた〉p.250-251

〈「神秘」と「理性」は決して相反するものではない。受肉の「神秘」と出会うことによって、人間の「理性」は、それまでは思ってもみなかったような仕方で、神について、そして人間について、新たな仕方で考察するための手がかりと動機づけを与えられる。「神秘」は「神秘」であることによって「理性」を拒むのではなく、むしろ、「理性」による新たな探求を促し続ける。だが、「理性」によって理解し尽されることは決してない。理解し尽されないからこそ、汲み尽くしえない意義と魅力の源泉であり続けることができるのだ〉p.267-268

〈人間を遥かに超えた神は、超自然的な恩寵に基づいて人間に働きかけてくる。だが、だからといって、その働きかけを受けた人間は、人間としての自然な在り方を失ってしまうのではない。また反対に、外から到来する恩寵は、人間がもともと自然に追い求めているものを都合よく満たしてくれるだけの存在でもない。「目が見たこともなく、耳が聴いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともなかったこと、これこそ、神がご自身を愛するものたちのために用意してくださったもの」(「コリントの信徒への第一の手紙」第二章第九節)と言われるほどの恩寵、「神の本性に分け与る」というような信じ難いほどの恩寵に参与させられることを通じて、自らの精神が心底追い求めていたものが、自らの元々の思いを超えた仕方で与えられ、実現させられる。人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なことなのである〉p.270-271

 人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なこと――まさに、そう。そのために私たちは生きているし、またそれが生きることである。

 ――理性は、神秘に促され、神秘に問いかけ、あるとき思いもよらない仕方で真理に至る。トマスによると、それは善である。善は、善の自己伝達性により、善そのものである神から分与される。受肉の神秘を受け入れることもまた。受肉とは、神が人になるのではなく、人が神になること。信仰を持たない私は、人は神になりえないと決めつけるのではなく、その可能性を心に蔵して生きる。私たちの生そのものが、神秘であるのなら。

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