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地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre

フランツ・ファノン(1961).地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre.みすずライブラリー

〈非植民地化とは文字どおり新たな人間の創造だ。しかしこの創造は、いかなる超自然的な力からも、正統性(légitimité)を受けるものでもない。植民地化されて「物」となった原住民が、自らを解放する過程そのものにおいて人間となるのであるから〉p.37

 〈支配種族とは、何よりもまず他所からきた種族、土着民(autochtones)と似ても似つかぬ種族、「他者」である……植民地世界を破壊するとは、文字どおりひとつの地帯を破棄すること、それを地底ふかく埋葬し、あるいはこの土地から追放することにほかならない……原住民による植民地世界の否認とは、さまざまな観点を理性的に対決させることではない。それは普遍的なものにかんするお説教ではなくて、絶対的なものと見なされたひとつの独自性を遮二無二主張することだ……あえて言おう、現地人とは価値の宿敵だ。その意味で、絶対的な悪なのだ〉p.41-42

〈かくて個々人は神の決定する腐敗解体を受け入れ、コロンと運命の前にひれ伏し、一種の内的な均衡回復によって、石のような清澄さに近づいてゆく〉p.55

 〈いずれにしても重大なのは〔コロンではなく〕、神話的構造のもたらす怖るべき不幸なのであるから。いっさいが幻覚面における不断の対決のうちに解決されることに、人は気づくのである〉p.57

 他者(原住民)が生活している土地で植民地化を進めるのは、暴力行為である。

 如何にしてその暴力から身を守り、立ち上がり、平和を築き上げるか。

 一度壊された共同体を、刷新しうるか。

 独立、とは何か? ――なぜあらためて「独立」する必要があるのか?

 〈この暴力とはそもそも何か。われわれはすでにそのことを考察した。これは原住民大衆が、自分たちの解放は力によってなしとげられねばならず、またそれ以外にありえないと見なすところの直観である〉p.74

 暴力とは、「客観性」に対する怒りだ。

 手順を踏まない言説、直截の抗議だ。

 〈昨日はおよそ責任を持たなかった大衆が、今日ではすべてを理解しすべてを決定しようとする。暴力による天啓を受けた民衆の意識は、すべての和解に反抗する〉p.93

 〈若き独立国は最初の数年間というもの、戦場の雰囲気のなかで発展する。というのも後進国の政治指導者は、自分の国が越えねばならぬ厖大な道程を測定して、慄然とするからだ……創造的狂気とでもいったものに執拗にまといつかれたこの国は、巨大でおよそ不釣り合いな努力に身を投ずる〉p.94

 〈ヨーロッパの福祉と進歩とは、ニグロの、アラブの、インド人の、黄色人種の、汗と屍によってうちたてられた。その事実を、われわれは二度と再び忘れまいと決意したのである〉p.95-96

 〈今日重要なこと、われわれの視界をさえぎっている問題は、富の再分配の必要性である。人類は、この問題に答えねばならぬであろうし、それを怠るならば人類は根底からゆすぶられることになるであろう〉p.97

 〈おそらくはすべてをやり直し、輸出の性質を変え――それも単に行く先だけを変えるのではなくて――、土地や地底や河川や太陽(どうして太陽であっていけない理由があろうか)を再検討する必要があるだろう。ところでそれを実行するには、人的投資以上のものが要る。資本、技術者、技師、機械工等々が……。あえて言おう、後進国の人民が指導者に勧められて従事している絶大な努力は、所期の結果をもたらさないだろうとわれわれは考えるのだ。もし労働の条件が変わらぬ限り、帝国主義諸勢力によって家畜化されたこの世界を人間化するには、数世紀を要することだろう〉p.98-99

 〈行きつくところなき冷戦に終止符をうち、世界の核武装化の準備を停止させ、後進地域に十分な投資と技術援助を行わねばならない。世界の運命はこの問題への回答にかかっているのである〉p.102

  読むときの思考が、筆者の思考と重なること。できれば完全に重なるのが良い。

 〈政党の弱点は、ただ単に、高度に発達した資本主義社会におけるプロレタリアートの闘争を指導する組織を機械的に応用したということのみにあるのではない。組織形態という面に限っても,さまざまな改革や適応がなされるべきだった〉p.105

 その土地を、そこの人々を知ろうとするところからしか、物語は生まれない。

 土地や人々を生かすこと、そのために注意深く在ること。即するということ。

 〈政党は真に大衆に出会いそれに合流しようとはしない。その理論的知識を民衆のために役立たせようとするのではなく、ア・プリオリにひとつの図式で大衆を包みこもうとする……伝統的首長のことは見向きもせず、またときによってはこれをとっちめることもある〉p.109

 〈組合は、後背地もまた光を与えられ、組織されるべきであることを、突如として発見する。だが組合は、自分たちと農民大衆とのあいだにただの一度もパイプを設けようと心掛けたことがなかったゆえに、またこの農民大衆こそまさしくこの国唯一の自然発生的な革命勢力を構成しているゆえに、組合自身の無効性を証明し、そのプログラムのアナクロニックな性格を暴露してゆくこととなる〉p.118

 〈彼らの耳は、国の真実の声を聞き、その目は人民の大きな無限の悲惨を見る。彼らは、植民地体制にかんする無益な解説に、貴重な時を空費してきたことを理解する〉p.122

 〈民族意識は、民衆全体がその胸にふかく秘めた願望の整然たる結晶でもなく、民衆動員の生み出す最も具体的直接的成果でもなく所詮は単なる内容空疎な、脆弱な、大ざっぱな一形態にとどまるであろう……これらの弱点とそこにひそむ重大な危険とは、後進国の民族ブルジョワジーが民衆の実践を理性化(rationaliser)する能力を、つまりそこから理性をひき出す能力を欠いていたということの、歴史的帰結である〉p.143-144

 〈後進国における民族意識の典型的な、ほとんど先天的とも言えるこの弱点は、単に植民地体制に手足をもがれた原住民の不具化の結果ではない。それは、また民族ブルジョワジーの怠惰さと、貧しさと、極度に国際的(コスモポリット)な精神形成との所産でもあるのだ……後進国民族ブルジョワジーは、生産・創造・建設・労働の方向に向けられていない。その全体がそっくり仲介型の活動に集中されているのだ。回路のなか、駆け引きのなかに身を置くこと、これが彼らの深い使命であるかに思われる……後進国における真正の民族ブルジョワジーは、彼らが向かうべく運命づけられていた天職を裏切ること、人民の学校に身を置くこと、つまり、コロンの大学に通っていた当時にもぎとった知的・技術的資本を民衆の自由な使命に委ねることを、その緊急の義務とせねばならない〉p.144-145

 〈植民地主義は天然資源を明るみに出し、それを採掘し、本国の工業に向けて輸出し、かくしてこれが植民地の一部に相対的富裕を可能ならしめることで満足する――一方植民地の残余の部分は、後進性と窮乏にあえぎつづけ、あるいは少なくともそれをいっそう深めるのである〉p.153

 〈ニグロと「ビコ」に対する西欧ブルジョワジーの人種主義は、侮蔑の人種主義である。相手をないがしろにする人種主義である。しかしながらブルジョワ・イデオロギーは人間の本質的平等の宣言でもあって、自分が体現する西欧的人間性の典型を通して半人間の人間化を促すことにより、どうにか自分自身と辻つまをあわせるのである……振興民族ブルジョワジーの人種主義は防御の人種主義だ。それは本質的に、卑俗な部族主義と異なるものでなく、ましてや徒党や教団間の対立抗争と異なるものではない。世界各国の炯眼な観察者たちが、アフリカ統一の高らかな叫びを真に受けなかったことは理解できる……だからこそわれわれは、アフリカの統一が、人民の圧力と人民の指導のもとにのみ、すなわちブルジョワジーの利害を無視することにおいてのみ、達成されることを知らねばならぬ〉p.158-159

 〈後進国のブルジョワジーに対する闘争は……文字どおり彼らが何の役にも立たないからこそ、断固としてこれに反対せねばならないのだ……この特権層は、植民地時代の経済、思想、制度を、改変もせずにただ受けついだだけのことなのだから〉p.169-170

 〈独立に先立つ激動の時期、この輸入ブルジョワジーに囲まれた原住民の知識人および商人層は、これと一体になろうと努力する。原住民知識人及び商人には、本国の代理人たるこのブルジョワたちと一体化する不断の意志が存在するのである〉p.172

 〈われわれは民族的政治を、すなわち何にもまして大衆のための政治を行わなければならない。われわれは、独立と具体的な生活改善とのために戦ってきた民衆との接触をけっして失うべきではない……土着民の官吏および技術者は、図表と統計のなかに埋没するのではなく、民衆そのもののうちに没入すべきだ……党は大衆の直接的表現でなければならない……党は大衆の精力的な代弁者であり、廉潔な守護者である……〉p.180

 〈ところで政治化とは、精神を開かせることだ、精神を目ざめさせることだ、精神を産み出すことだ。セゼールが述べたように「魂を作り出す」ことだ〉p.190

 〈大衆は、政府と党とが自分たちのためにあることを知るべきだ。誇りを持った人民、すなわち自己の尊厳を意識する人民とは、これら自明の理をけっして忘れえぬ人民である……事実、誇りを持った自由な人民とは、主権を持つ人民だ。誇りを持った人民とは、責任を負うている人民だ〉p.191

 〈思考の領域において、人間は己れこそ世界の頭脳であると自負することもできる。だが、いっさいの〔外部からの〕干渉が肉体的精神的存在に影響を与えるところの具体的な生の見地よりすれば、世界こそ常に人間の頭脳なのだ〉p.193(ギニアのセク・トゥーレ大統領)

 〈個人的体験は、それが民族の体験であり、民族の生の一環であるゆえに、もはや限定され狭められた個人の体験であることをやめ、民族と世界の真理に通じることができる〉p.193

 〈民族というものは、革命指導部の手で周到に準備されたプログラム、そして大衆によって明晰かつ熱狂的にひきつがれたプログラムのなかに存在するのでなければ、どこにも存在しないのである……民族主義は、もしそれが明白されず、豊かにされず、深められぬとしたら、もしそれが急速に政治的・社会的意識に、人間主義humanismeへと転化しないなら、袋小路へと人を導くことになる〉p.195

 〈伝統にすがりつき、またはおき去りにされた伝統を再びアクチュアルなものにしようとすることは、単に歴史に逆行するのみか、民衆の意志にも反するものだ〉p.217

 〈民衆が端緒をひらき、しかもそこから発して突如すべてが問われようとしているあの揺れ動く運動のなかで、民衆に合流することが必要なのだ。民衆が身を置いているあの神秘な平衡欠如の場所にこそ、われわれは赴かねばならない〉p.220

 〈民族文化とは、抽象的民衆主義populismeがそこに民衆の真実を発見したと思いこんだあの民間伝承ではない……民族文化とは、民衆が自己を形成した行動、自己を維持した行動を、描き、正当化し、歌いあげるために、民衆によって思考の領域においてなされる努力の総体である〉p.227

 「ヨーロッパの真似はしまいと心を決めようではないか、われわれの筋肉と頭脳とを、新たな方向に向かって緊張させようではないか。全的人間を作り出すべくつとめようではないか――ヨーロッパは、その全的人間を勝利させることがついにできなかったのだ」p.310

 〈ヨーロッパのため、われわれのため、人類のために、同志たちよ、われわれの脱皮が必要だ、新たな思想を発展させ、新たな人間を立ち上がらせようと試みることが必要だ〉p.313

 

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