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2019年4月

地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre

フランツ・ファノン(1961).地に呪われたる者 Les Damnés de la Terre.みすずライブラリー

〈非植民地化とは文字どおり新たな人間の創造だ。しかしこの創造は、いかなる超自然的な力からも、正統性(légitimité)を受けるものでもない。植民地化されて「物」となった原住民が、自らを解放する過程そのものにおいて人間となるのであるから〉p.37

 〈支配種族とは、何よりもまず他所からきた種族、土着民(autochtones)と似ても似つかぬ種族、「他者」である……植民地世界を破壊するとは、文字どおりひとつの地帯を破棄すること、それを地底ふかく埋葬し、あるいはこの土地から追放することにほかならない……原住民による植民地世界の否認とは、さまざまな観点を理性的に対決させることではない。それは普遍的なものにかんするお説教ではなくて、絶対的なものと見なされたひとつの独自性を遮二無二主張することだ……あえて言おう、現地人とは価値の宿敵だ。その意味で、絶対的な悪なのだ〉p.41-42

〈かくて個々人は神の決定する腐敗解体を受け入れ、コロンと運命の前にひれ伏し、一種の内的な均衡回復によって、石のような清澄さに近づいてゆく〉p.55

 〈いずれにしても重大なのは〔コロンではなく〕、神話的構造のもたらす怖るべき不幸なのであるから。いっさいが幻覚面における不断の対決のうちに解決されることに、人は気づくのである〉p.57

 他者(原住民)が生活している土地で植民地化を進めるのは、暴力行為である。

 如何にしてその暴力から身を守り、立ち上がり、平和を築き上げるか。

 一度壊された共同体を、刷新しうるか。

 独立、とは何か? ――なぜあらためて「独立」する必要があるのか?

 〈この暴力とはそもそも何か。われわれはすでにそのことを考察した。これは原住民大衆が、自分たちの解放は力によってなしとげられねばならず、またそれ以外にありえないと見なすところの直観である〉p.74

 暴力とは、「客観性」に対する怒りだ。

 手順を踏まない言説、直截の抗議だ。

 〈昨日はおよそ責任を持たなかった大衆が、今日ではすべてを理解しすべてを決定しようとする。暴力による天啓を受けた民衆の意識は、すべての和解に反抗する〉p.93

 〈若き独立国は最初の数年間というもの、戦場の雰囲気のなかで発展する。というのも後進国の政治指導者は、自分の国が越えねばならぬ厖大な道程を測定して、慄然とするからだ……創造的狂気とでもいったものに執拗にまといつかれたこの国は、巨大でおよそ不釣り合いな努力に身を投ずる〉p.94

 〈ヨーロッパの福祉と進歩とは、ニグロの、アラブの、インド人の、黄色人種の、汗と屍によってうちたてられた。その事実を、われわれは二度と再び忘れまいと決意したのである〉p.95-96

 〈今日重要なこと、われわれの視界をさえぎっている問題は、富の再分配の必要性である。人類は、この問題に答えねばならぬであろうし、それを怠るならば人類は根底からゆすぶられることになるであろう〉p.97

 〈おそらくはすべてをやり直し、輸出の性質を変え――それも単に行く先だけを変えるのではなくて――、土地や地底や河川や太陽(どうして太陽であっていけない理由があろうか)を再検討する必要があるだろう。ところでそれを実行するには、人的投資以上のものが要る。資本、技術者、技師、機械工等々が……。あえて言おう、後進国の人民が指導者に勧められて従事している絶大な努力は、所期の結果をもたらさないだろうとわれわれは考えるのだ。もし労働の条件が変わらぬ限り、帝国主義諸勢力によって家畜化されたこの世界を人間化するには、数世紀を要することだろう〉p.98-99

 〈行きつくところなき冷戦に終止符をうち、世界の核武装化の準備を停止させ、後進地域に十分な投資と技術援助を行わねばならない。世界の運命はこの問題への回答にかかっているのである〉p.102

  読むときの思考が、筆者の思考と重なること。できれば完全に重なるのが良い。

 〈政党の弱点は、ただ単に、高度に発達した資本主義社会におけるプロレタリアートの闘争を指導する組織を機械的に応用したということのみにあるのではない。組織形態という面に限っても,さまざまな改革や適応がなされるべきだった〉p.105

 その土地を、そこの人々を知ろうとするところからしか、物語は生まれない。

 土地や人々を生かすこと、そのために注意深く在ること。即するということ。

 〈政党は真に大衆に出会いそれに合流しようとはしない。その理論的知識を民衆のために役立たせようとするのではなく、ア・プリオリにひとつの図式で大衆を包みこもうとする……伝統的首長のことは見向きもせず、またときによってはこれをとっちめることもある〉p.109

 〈組合は、後背地もまた光を与えられ、組織されるべきであることを、突如として発見する。だが組合は、自分たちと農民大衆とのあいだにただの一度もパイプを設けようと心掛けたことがなかったゆえに、またこの農民大衆こそまさしくこの国唯一の自然発生的な革命勢力を構成しているゆえに、組合自身の無効性を証明し、そのプログラムのアナクロニックな性格を暴露してゆくこととなる〉p.118

 〈彼らの耳は、国の真実の声を聞き、その目は人民の大きな無限の悲惨を見る。彼らは、植民地体制にかんする無益な解説に、貴重な時を空費してきたことを理解する〉p.122

 〈民族意識は、民衆全体がその胸にふかく秘めた願望の整然たる結晶でもなく、民衆動員の生み出す最も具体的直接的成果でもなく所詮は単なる内容空疎な、脆弱な、大ざっぱな一形態にとどまるであろう……これらの弱点とそこにひそむ重大な危険とは、後進国の民族ブルジョワジーが民衆の実践を理性化(rationaliser)する能力を、つまりそこから理性をひき出す能力を欠いていたということの、歴史的帰結である〉p.143-144

 〈後進国における民族意識の典型的な、ほとんど先天的とも言えるこの弱点は、単に植民地体制に手足をもがれた原住民の不具化の結果ではない。それは、また民族ブルジョワジーの怠惰さと、貧しさと、極度に国際的(コスモポリット)な精神形成との所産でもあるのだ……後進国民族ブルジョワジーは、生産・創造・建設・労働の方向に向けられていない。その全体がそっくり仲介型の活動に集中されているのだ。回路のなか、駆け引きのなかに身を置くこと、これが彼らの深い使命であるかに思われる……後進国における真正の民族ブルジョワジーは、彼らが向かうべく運命づけられていた天職を裏切ること、人民の学校に身を置くこと、つまり、コロンの大学に通っていた当時にもぎとった知的・技術的資本を民衆の自由な使命に委ねることを、その緊急の義務とせねばならない〉p.144-145

 〈植民地主義は天然資源を明るみに出し、それを採掘し、本国の工業に向けて輸出し、かくしてこれが植民地の一部に相対的富裕を可能ならしめることで満足する――一方植民地の残余の部分は、後進性と窮乏にあえぎつづけ、あるいは少なくともそれをいっそう深めるのである〉p.153

 〈ニグロと「ビコ」に対する西欧ブルジョワジーの人種主義は、侮蔑の人種主義である。相手をないがしろにする人種主義である。しかしながらブルジョワ・イデオロギーは人間の本質的平等の宣言でもあって、自分が体現する西欧的人間性の典型を通して半人間の人間化を促すことにより、どうにか自分自身と辻つまをあわせるのである……振興民族ブルジョワジーの人種主義は防御の人種主義だ。それは本質的に、卑俗な部族主義と異なるものでなく、ましてや徒党や教団間の対立抗争と異なるものではない。世界各国の炯眼な観察者たちが、アフリカ統一の高らかな叫びを真に受けなかったことは理解できる……だからこそわれわれは、アフリカの統一が、人民の圧力と人民の指導のもとにのみ、すなわちブルジョワジーの利害を無視することにおいてのみ、達成されることを知らねばならぬ〉p.158-159

 〈後進国のブルジョワジーに対する闘争は……文字どおり彼らが何の役にも立たないからこそ、断固としてこれに反対せねばならないのだ……この特権層は、植民地時代の経済、思想、制度を、改変もせずにただ受けついだだけのことなのだから〉p.169-170

 〈独立に先立つ激動の時期、この輸入ブルジョワジーに囲まれた原住民の知識人および商人層は、これと一体になろうと努力する。原住民知識人及び商人には、本国の代理人たるこのブルジョワたちと一体化する不断の意志が存在するのである〉p.172

 〈われわれは民族的政治を、すなわち何にもまして大衆のための政治を行わなければならない。われわれは、独立と具体的な生活改善とのために戦ってきた民衆との接触をけっして失うべきではない……土着民の官吏および技術者は、図表と統計のなかに埋没するのではなく、民衆そのもののうちに没入すべきだ……党は大衆の直接的表現でなければならない……党は大衆の精力的な代弁者であり、廉潔な守護者である……〉p.180

 〈ところで政治化とは、精神を開かせることだ、精神を目ざめさせることだ、精神を産み出すことだ。セゼールが述べたように「魂を作り出す」ことだ〉p.190

 〈大衆は、政府と党とが自分たちのためにあることを知るべきだ。誇りを持った人民、すなわち自己の尊厳を意識する人民とは、これら自明の理をけっして忘れえぬ人民である……事実、誇りを持った自由な人民とは、主権を持つ人民だ。誇りを持った人民とは、責任を負うている人民だ〉p.191

 〈思考の領域において、人間は己れこそ世界の頭脳であると自負することもできる。だが、いっさいの〔外部からの〕干渉が肉体的精神的存在に影響を与えるところの具体的な生の見地よりすれば、世界こそ常に人間の頭脳なのだ〉p.193(ギニアのセク・トゥーレ大統領)

 〈個人的体験は、それが民族の体験であり、民族の生の一環であるゆえに、もはや限定され狭められた個人の体験であることをやめ、民族と世界の真理に通じることができる〉p.193

 〈民族というものは、革命指導部の手で周到に準備されたプログラム、そして大衆によって明晰かつ熱狂的にひきつがれたプログラムのなかに存在するのでなければ、どこにも存在しないのである……民族主義は、もしそれが明白されず、豊かにされず、深められぬとしたら、もしそれが急速に政治的・社会的意識に、人間主義humanismeへと転化しないなら、袋小路へと人を導くことになる〉p.195

 〈伝統にすがりつき、またはおき去りにされた伝統を再びアクチュアルなものにしようとすることは、単に歴史に逆行するのみか、民衆の意志にも反するものだ〉p.217

 〈民衆が端緒をひらき、しかもそこから発して突如すべてが問われようとしているあの揺れ動く運動のなかで、民衆に合流することが必要なのだ。民衆が身を置いているあの神秘な平衡欠如の場所にこそ、われわれは赴かねばならない〉p.220

 〈民族文化とは、抽象的民衆主義populismeがそこに民衆の真実を発見したと思いこんだあの民間伝承ではない……民族文化とは、民衆が自己を形成した行動、自己を維持した行動を、描き、正当化し、歌いあげるために、民衆によって思考の領域においてなされる努力の総体である〉p.227

 「ヨーロッパの真似はしまいと心を決めようではないか、われわれの筋肉と頭脳とを、新たな方向に向かって緊張させようではないか。全的人間を作り出すべくつとめようではないか――ヨーロッパは、その全的人間を勝利させることがついにできなかったのだ」p.310

 〈ヨーロッパのため、われわれのため、人類のために、同志たちよ、われわれの脱皮が必要だ、新たな思想を発展させ、新たな人間を立ち上がらせようと試みることが必要だ〉p.313

 

人の意思を超えるから人である

 モネはモネの意思を超えた時にモネになった。

 「一粒の麦が地に落ちて、死ななければそのままだが、死ねば多くの実をもたらすだろう」

 生まれかわり、あるいは受肉。

 恩寵、とは言えないだろうか?

 「私」が死ぬこと。

 (それが、生きること)

 そのために、私は問う。

 (星辰の明かりをよすがとして)

 「他者」との対話において、私はどこでもない場所に降り立つ。

 みちびかれ、「他者」の問いにとりこまれる。

 そこで感じられるのは、生でも愛でもなく、なにものかの意思。

 うごめくもの、わかたれざるもの。

私たちの星で

 梨木香歩,師岡カリーマ・エルサムニー(2017).私たちの星で.岩波書店

 〈でもその一方で、人は今も異質を嫌い、同化を謳い、他者を排斥せずにはいられない〉p.81

 なぜ異質を嫌うのか、不思議。むしろそれは魅力的な何かとして歓迎されるはずなのに。

 〈そうはせずに、自らの領域に侵入してきた文明を受け入れ一体化する自然の、意志とセンスに圧倒されながら最初に浮かんだ言葉は「寛大」でした。さらに言えば、完璧な美意識と自信に裏打ちされた、たくましい寛大〉p.84

 擬人化。擬人化するのではなく、人のありさまが擬物化されるほうが自然なのでは。

 〈私は、けれどよくわからないのです。こういうことを強固な信仰心、と呼んでいいのかどうか、わからない。信仰、という名前のつけ方で呼んでいいのか。宗教的組織の「教え」に従い、ブルキニを着る少女のそれも〉p.92

 〈信仰は、神でなく人のためにあると思うのです。神は人を必要としませんから。人と神との関係を司る精神の領域である信仰が、人と世界との対峙を司る自我の領域と重なったとき、信仰はイデオロギーとなり、自己定義のアイデンティティとなり、どんな責め苦にあっても譲れないプライドとなるのかもしれない。周囲を見ているとそう思えるけど、それではナショナリズムと違いません。

 結局私にも、わからない。命を捨てるほどの信仰心もまた、一部の人が持って生まれた素質だから。私には測り知れないけれど、私に与えられた使命はきっと別の次元にあるのでしょう〉p.99-100

 〈信仰も本来、そういうものなのでしょう。それは神と、自分しかいないと措定された場の話であり、――もしかしたらそこには自分しかいないのかもしれないけれど――少なくともそこは他者との関係性が入ってくる余地のない場として、人間が自らの切実な必要のために辿りつく場所……〉p.103

 信仰とは問いである。神への、存在への。

トマス・アクィナス 理性と神秘

山本芳久(2017).トマス・アクィナス.岩波新書

〈単に輝きを発するよりも照明する方がより大いなることであるように、観想の実りを他者に伝える方がより大いなることである〉p.2

 観想の実りを他者に伝えることは、大いなること、だろうか? 輝いているだけで、すでに照明しているのではないか?

〈『霊魂論』第三巻において、「魂はある意味においてすべてのものである」と言われている。なぜならば、魂はすべてのものを認識するような本性を持っているからである〉p.12

 魂とは、思考、だろうか?

〈人間精神がこの世界の秩序を認識して、それを書物に書き記したりするというのではない。むしろ、人間精神から独立して存在する「宇宙とその諸原因の全秩序」の側が主体となって、人間精神のうちに自らを刻み込むという事態が語り出されているところが大変興味深い〉p.13

 この考え方が腑におちるのはなぜか? 「人間精神」を「思考」に置き換えるとよりわかりやすい。

〈ところで、ディオニシウス『神名論』第四巻によると、人間の善とは理性に即していることである〉p.54

〈敬虔な純潔があらゆる性的な快楽から離れるのは、より自由な仕方で神の観想に専心するためなのである〉p.96

〈それが真摯な信仰である限り、その人の人格に、行動の在り方に、そして物の考え方に、内的な変容が生まれてくるはずだ。だが、変容の結果成立した在り方は、それまでのその人の在り方と完全に非連続なのではない。その人のなかにもともと潜在していた可能性が、洗礼によって触発されて顕在化してきたものである〉p.99

〈愛とは、愛するものの愛されるものに対する何らかの一致または親和性である〉p.106

〈「神は愛である」という「ヨハネの第一の手紙」第四章第十六節の有名な言葉にもあるように、神は愛そのものだというのがキリスト教の根本的な教えである〉p.108

〈我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである・・・ところで、信じるということそれ自体は、神によって恩寵を通じて動かされた意志の命令に基づいて神的真理に承認を与える知性の行為であり、したがって神への秩序づけにおいて自由意志に服している〉p.151

〈至福そのものである神という最高善の力を頼りにすることによって、神そのものである至福に到達する望みを抱くのが希望という神学的徳である〉p.170

〈そして我々が神を愛するということは、神が我々を愛していることの徴(signum)なのである〉p.194

〈神の本質そのものがカリタスなのである。ちょうど、それがまた知恵でもあり、善性でもあるように〉p.202

〈その人は、神のカリタスによって一方的に肯定されていることを受動的に受け入れるのみではない。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに内在するようになる。そして、その溢れんばかりのカリタスが、自己のみではなく他者をも愛し肯定していく原動力として留まり続けるのである。・・・ここには、非常に豊かな仕方で共鳴する愛の連鎖が語り出されている〉p.226

〈受肉の神秘(incarnationis mysterium)は、神が御自身の永遠からあった状態から離れて、そうでなかった状態に何らかの仕方で変化を蒙ることによって実現されたのではなく、新しい仕方で自らを被造物に一致させることによって、いやむしろ被造物を自らに一致させることによって、実現されたのである〉p.232

〈それゆえ、聖なる教父たちに従って、われわれすべては一致して次にように教え、告白する。我々の主イエス・キリストは唯一にして同一なる子であり、神性(deitas)において完全であり、人性(humanitas)において完全である。真の神であり、真の人間であり、理性的霊魂と肉体から成る、神性において父と同一実体であり、人性において我々と同一実体である。罪を除いてあらゆる点において我々と同様である。神性においては代々に先立って父から生まれ、人性においては我々のために、また我々の救いのために、この終わりのときに神の母処女マリアから生まれた〉p.250-251

〈「神秘」と「理性」は決して相反するものではない。受肉の「神秘」と出会うことによって、人間の「理性」は、それまでは思ってもみなかったような仕方で、神について、そして人間について、新たな仕方で考察するための手がかりと動機づけを与えられる。「神秘」は「神秘」であることによって「理性」を拒むのではなく、むしろ、「理性」による新たな探求を促し続ける。だが、「理性」によって理解し尽されることは決してない。理解し尽されないからこそ、汲み尽くしえない意義と魅力の源泉であり続けることができるのだ〉p.267-268

〈人間を遥かに超えた神は、超自然的な恩寵に基づいて人間に働きかけてくる。だが、だからといって、その働きかけを受けた人間は、人間としての自然な在り方を失ってしまうのではない。また反対に、外から到来する恩寵は、人間がもともと自然に追い求めているものを都合よく満たしてくれるだけの存在でもない。「目が見たこともなく、耳が聴いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともなかったこと、これこそ、神がご自身を愛するものたちのために用意してくださったもの」(「コリントの信徒への第一の手紙」第二章第九節)と言われるほどの恩寵、「神の本性に分け与る」というような信じ難いほどの恩寵に参与させられることを通じて、自らの精神が心底追い求めていたものが、自らの元々の思いを超えた仕方で与えられ、実現させられる。人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なことなのである〉p.270-271

 人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なこと――まさに、そう。そのために私たちは生きているし、またそれが生きることである。

 ――理性は、神秘に促され、神秘に問いかけ、あるとき思いもよらない仕方で真理に至る。トマスによると、それは善である。善は、善の自己伝達性により、善そのものである神から分与される。受肉の神秘を受け入れることもまた。受肉とは、神が人になるのではなく、人が神になること。信仰を持たない私は、人は神になりえないと決めつけるのではなく、その可能性を心に蔵して生きる。私たちの生そのものが、神秘であるのなら。

鳥と砂漠と湖と

テリー・テンペスト・ウイリアムス(1991)/石井倫代(1995).鳥と砂漠と湖と.宝島社

〈私は魂の世界を信じるように育てられた。生命はこの世に現れるより前から存在しこの世の後にも存続するということ、人間一人ひとり、そして鳥もカヤツリグサも、ほかのいかなる生命のかたちもこの世に物理的に存在するようになる前に魂としての生命をもっていたということを信じるように育てられた。それぞれが割り当てられた勢力の範囲を持ち、それぞれが一つの場所と一つの目的を持っている〉p.20-21

〈渓谷で過ごした日々は瞑想であり回復なの。その孤独が私を強くしてくれる。私は今それを持っているの〉p.39

〈太陽がアンテロープ島の向こうに沈んだ。グレートソルト湖は盆地の床の上に置かれた鏡だった。光の質が変わり、山裾の丘に強く光沢がかかる今、このあたりにいると、人は水の感触を感じた〉p.45

 〈葉緑素の小さな緑色の輪が太陽光線を糖分に変えていた。私はひざまずいて手でひとすくいした。微細な動物や無数の幼虫が私の手からこぼれた。数秒以内に、小宇宙の湿原は私の指の間から抜けていった。それに続いた淋しさに私は不意を突かれた〉p.53-54

〈がんのプロセスは作品創造のプロセスに似ていなくはない。アイディアはゆっくりと静かに、はじめは目立たないかたちで現れる。多くの場合、それは異常な思考、つまり日常的なものや慣れ親しんだものを粉砕するような思考である。それは細胞分裂し、繁殖し、侵入者となる。時が経つにつれ、それは凝結し、合併し、意識的になる。一つのアイディアが浮上して全面的な注意を促す。私はそれを私のからだからとり出し、引き渡す〉p.57

 〈突然、群れは一瞬びくっと閉じる目のように固まりそれから羽毛の爆発のように開く。一羽のハヤブサが締め出されるが、戦利品がないわけではない。折り畳んだ翼で彼は一羽のムクドリを打ち、中空からそのからだを引ったくる。群れはもういちどまばたきして、ムクドリたちは離散する。一羽また一羽と埋立地に戻る〉p.72

 〈アンテロープ島はもはや私にとって容易に近づける場所ではない。それは不確かさの中に浮かんでいる私の母のからだである……私たちはみんな気が気でない。そうでないのは母だけだ。何が見つかっても関係ないと彼女は言う。今という時があるだけだ、と〉p.8182

 〈ヒナが早熟なのは多くの水鳥に共通していて、つまりそれは地面に棲む鳥を捕食する動物に対抗するための適応なのだ〉p.93

 〈私は自分自身が癒されたいという欲望によって母を傷つけたのだ〉p.95

 私の中に降りてくる想念を大切に保持する――私という場所でかたちを成すものたち。

 〈エミリー・ディキンソンが「希望とは、羽毛をまとい魂のなかで止まり木に止まっているもののことだ」と書く時、鳥がそうするように彼女も、信じることの解放感と実用性を私たちに思い起こさせる〉p.113

 〈自分自身の経験を頼りにしないように私たちは教えられている。グレートソルト湖は経験こそが財産なのだと私に教える〉p.115

 〈風が私のからだの上で回転する。砂の粒子が私の皮膚の上をかすめて飛んでいき、私の耳や鼻をいっぱいにする。呼吸していることだけを私は意識している。肺の働きが拡大される。風が勢いを増す。私は息を止める。風が私をマッサージする。カラスが数インチのところに舞い降りる。私は息を吐き出す。カラスが飛び立つ。砂漠では物事が迅速に起こる〉p.136

 すぐれた自然観察者による、グレートソルト湖の変容とそこに棲む鳥たちの描写、そしてがんを受容する家族のお話。

 表現が美しい――テリーの感性が深くて素直なのだろう。

 その感性は、ユタに生きてきた祖先から受け継いだものか、ソルトレイクの自然から分与されたものか。

 〈女である私たちはおなかの中に月を持っている。満月のエネルギーで一年三百六十五日動こうとするのは無理というものである。今私は三日月の時期にいるのだ。そして私たちが情緒的に使うエネルギーは月の見えない側に属している〉p.167

 〈彼は塩の結晶で光っている広大な水の広がりに目をやった。「むろん、この湖にも心がある。だがそいつは我われの心のことなんかおかまいなしさ」p.171

 〈月の暗さの中に成長がある。植物は昼の太陽の中でよく育つわけではなく、むしろひっそりと人目につかない新月のもとで育つのだ〉p.180

 〈悲しむことをたぶんいちども許してもらってこなかったんだと思うわ。悲しむことをたぶんいちども自分に許してこなかったのね〉p.190

 〈心に思い浮かべてみるように私は彼女を説得する。痛みはどんなふうに見えるのか、何色なのか想像し、抵抗するよりもむしろその感覚に寄りかかって入りこんでいくように彼女を誘う。私たちはいっしょに息をして瞑想する。

 光が深くなり始める。日没である〉p.193

 〈私たちは待つ。私は川に渡されたクモの糸にかかって過去と未来の間に宙吊りになっている。

「テリー、手放そうとしている最中の命を望み続けるのは、私が今いる瞬間を私から取り上げることなのよ」〉p.199

〈それから、まるで麻薬のように、希望が悲しみの中にしみいってきた〉p.202

〈「断念することって学ぶものね」と私が彼女の背中をさすっている時、母が言った。

「空っぽの静脈になって、そこを命が流れていくままに任せることを学ぶの」私には理解できない。

「あきらめているんじゃないの」と彼女が言った。「ただそれに任せようと思って。何もかも入ってくるままにさせて、何か別の命の道筋に沿って動いていっているみたいな感じなのよ。突然、闘うことはもう何もないの」〉p.203

〈ゆっくり、骨折りながら、私は自分の保護区が母の中にあるのでも祖母の中にあるのでもなく、ベア川の野鳥たちの中にあるのでさえないことを発見しつつある。私の保護区は私の愛の能力の中にあるのだ。死を愛することを学べるなら、変わりゆくことの中に保護区を見出すことができるようになるだろう〉p.219

 〈それは一千年のかなたから手を振っているのだ。工芸品は生きている。一つ一つが声(意見)を持っている。人間であるとはどういうことか――生き抜いて、美しい作品を作り、創意工夫をこらし、自分が生きている世界に対し深い注意を払うことが私たちの本性なのだということを思い出させてくれる〉p.231

〈トマス・マートンは書いている。「沈黙は私たちの精神生活の強さである……もし人生を沈黙で満たすことができるなら、私たちは希望とともに生きるだろう」p.235

 〈その木曜日、弟たちと私は学校から帰って祈った。家族みんなで私たちは居間にひざまづいた。誰も一言もしゃべらなかった。しかしその部屋の静けさの中に天使がいるのを私は感じた〉p.240

 〈魂はね。でも頭がついていけないの〉p.256

 〈何年間も、母の死の瞬間には自分が彼女のかたわらにいるものと私は思ってきた。私はその思いこみを捨てなければならない。死の瞬間などというものはないことを彼女に教えられた。それはプロセスなのだ。それに、彼女は――〉p.278

 〈私は喜びを感じる。愛を感じる。彼女の私への愛、私たちみんなへの愛、彼女の人生と誕生への愛、彼女の魂の再生を感じる〉p.282

 〈エーリッヒ・フロムがこう書いている。「個人の全生涯は、自分自身を誕生させるプロセスにほかならない。まったく、私たちは死を迎えて初めて完全に誕生するはずなのだ」〉p.283

 〈子どものころ私が耳を傾けるように教えられた「静かな小さな声」は「精霊の贈り物」だった。今では私はこの存在を聖なる直感、母性に備わる才能、として認識することを選ぶ〉p.293

 静かな小さな声を聞く、それが生きること。

 〈グノーシス派の教えはこうだ。

 というのもあなたの内部にあるものこそあなたの外部にあるものであり、あなたの外部を形作るものがあなたの内なる世界をかたちづくるものだからである。そしてあなたの外に見えるものはあなたの中に見え、それは明白なものであってあなたの衣である〉p.322-323

 〈過ぎ去った七年間が私とともにある。母とミミがいる。関係は続くのだ――予期していなかったことだけれど〉p.332

 関係は続く、そう、終わりはない。

 

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