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2015年11月

ほんとうの自分

 〈自分だとは気づかないほんとの自分は、誰のところに行って生まれ替るのか。自分の生まれ替りのどこかの誰かとは、一生のうちにどのように相逢うことが出来るのか。それは今までに逢ったうちの誰なんだろう。もどかしいようななつかしいような、せつなくなって躰を起し、あたりを見渡せば、木立の裾を燃えたたせながらあかあかと彼岸花の群生が、山畑(こば)の拓きの縁を経めぐり林の奥に綴れ入っている。いのちの精が燃え立っているようで、わたしはあのひとたちの気配とまじわりながら、草の穂などを嚙んでいるのだが、山童の姿などはやはり見えないのであった。秋のつばなは、しるしばかりの味がしたが、野葡萄やサセッポの実は、渋い酸味を舌の上に浮かしていると、のどの奥がちりっとするような甘味が湧いてくる。笹の葉や松葉を嚙むと鼻先がきゅんとして、兎や猿の仔になったような気がしていた〉 (石牟礼道子『椿の海の記』より)

 かつて山中で鹿と目が合ったとき、目の前の枝にとまった蝉と目が合ったとき、初めて合う木に懐かしさを感じたとき、あるいはまた人と話していたとき…、それらの物にある気配を、私は自分だと感じた。

 不意に出合う、そこに自分がいる。ほんとうの自分は、そのように、私の意を超え、私を裏切りながら存在し続けている。

 うねりのように、見しらぬ深淵からの問いのように訪れる、あるいは居つづける。他者とも呼べぬ、親密なるもの。

 あそらくいっさいは私なのだ。生まれかわりとはそのことへの気づきである。

 この世にあるとは、生きるとは、見しらぬ私に出合い続けることである。それを大切にすることである。

001
(みんな仲よし)

 

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