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父の肖像

 先月22日、父が突然亡くなった。84歳だった。

 健康体であり、その日も普通に午前中は畑へ行き、スーパーへ寄り、母と昼食をとり、母の外出を見送ったそうである。

 翌日、父から野菜が届いた。午前中に送ってくれたのだろうか。

 二(ふた)七日、家の中をいろいろ整理していたら、18年前に私の書いた文章「父の肖像」が出てきた。いつか父に読ませようととっておいたのを、忘れていた。

 姉は「お父さんのことがよくまとめられている」と感想を述べた。

 急だったこともあり、いまだに父の死の実感がない。おそらく父は、いつまでも傍に居つづけるのだと、感じられる。

 法事のこと、ひとりになった母のことなど、しばらく日常に追われそうだが、ことある毎に父と対話しながら生きていきたい。

 

          *          *          *

 

  父の肖像

 

一 祭りの夜

 仏壇と床の間のある広い座敷の、明るい蛍光灯の下、男たちの声は賑やかだった。十一月十八日、妙見神社の祭りの夜である。十人ほどの男たちは皆、父、直(すなお)の職場仲間だった。彼らは毎年の祭りの夜には、いつも直の家で宴会をした。

「直さんな、ちいっとん、呑みならんもんなあ」

「いやー、もうわたしはよかですけん、土田さん呑みなっせー」

 少年は、台所で母の調理を手伝っていた。

 昨日から作っていたこのしろ寿司と、泡雪、こんにゃくと昆布の煮しめ、そして熱燗の入った徳利、それらを盆に載せ、廊下を抜け、男たちの話し声の中に入っていった。

「おお、直さんの息子さんの来らしたあ」

「大きゅうなったなあ、もう何年生か」

「六年です」

「あそこん掛け軸の大きか習字は、息子さんが書いたっだろう?」

「元気んよか字い、なあ」

「六年生ならもう呑むっどなあ」

 あちこちから誘いの声がかかる。屈託のない、陽気な声々がとび交う。

「なあー、お父さんないっちょん呑みならんけんなあ」

「息子さんなどやんか」

「はい、呑みます」

 父の顔はもう真っ赤である。おちょこ一杯でそうなることを、少年は知っていた。呑めない父に代わって、誘われるままに杯を受けた。父は笑っている。少年は一瞬のうちにおつおこを空にした。

「おお、よか呑みっぷりなあ」

 男たちも、もうすっかりでき上がっていた。

 しかし、呑めない男の家で毎年酒盛りとは、考えてみればおかしな話だ。おそらくこれば、直の仕掛けなのである。自分だけが呑めないから、よその家で呑むとなると気が引ける。付き合い上申し訳なく思うのだ。自分の家を提供するのは彼なりの配慮なのである。仲間たちもそれを知ってか、こころよく彼の家での宴会を楽しんだ。少年はといえば、この陽気で屈託のない男たちの間に入って呑むことは予想以上に心地よかった。年季を感じさせる太い腕、奔放な声々、熱をもった酒と煙草の匂い、それらの要素が生みだす雑然とした雰囲気の中にいると、自分の家が急にいつもと違う場所になったような気がした。自分が生きていること、そしてこれからも生きるだろうことの頼りなさを感じていた当時の少年に、それは不思議な力強さをあたえた。そして、楽しい仲間たちを連れてきてくれる父の存在を嬉しく思っていた。

「お父さんも息子さんば見習わんばんなあ」

 どっと歓声があがった。

 父はあいかわらず笑っていた。

 

二 植物栽培

 自分には厳しかったが、子供に厳格だったわけではない。二人の子供も、特に手がかかるということはなかった。ふだんの彼は、気のやさしい、寡黙な父親だった。

 近所の人は、

「直さんは、ほんに、まじめな人だけんなあ」

 京都出身の、お寺の奥さんも、

「お父さんは、ほんま、名前の通りのお人やし、お姉ちゃんも、弟くんも、まあ、おとなしい子らやし」

 事実そうなのである。家庭内でもめ事など滅多になかった。それぞれがある節度をもって自由に動いていて、干渉し合うことも少なかった。夕食時には、父はポツ、ポツと談話した。

 父は人と人の調和を大切にしていた。職場での人間関係、近所付き合い、そして家庭での対話など。息子の無口なことを気にとめてか、彼をよくバイクの後ろに乗せて、同じ趣味を持つ職場仲間のところへ出かけた。趣味とは植物栽培である。

 家屋は鉢植えの植物に囲まれていた。その数は数えられたことはなかったが、毎朝散水するのに、ゆうに三十分はかかった。ときどき、小学生の息子がそれを代りに行った。夏、近くの山々の稜線を見ながら水をかけていると、足下の苔むした植物の間を、トカゲが身体をくねらせ、ぬうように逃げていった。草むらのところどころに、へびの卵、かたつむりの殻などが転がっていた。

 鉢植えだけでなく、裏庭にはつつじ、蜜柑の木、なす、とうもろこし、、落花生、じゃがいも等を栽培していた。なぜそんなにたくさん栽培するのか、と息子が問えば、笑いながら答えた。

「なんでて言うて、意味は無かたい」

「でも、こやん、たくさん植えて。世話が大変たい」

「食わるっとも在っとだいけん、良かろうが」

 たしかに、食えるというのは魅力だったが、それはちょっといいわけめいていた。鉢植えの植物ばかりではほとんど実益にならない、それで申し訳なく思っていたのかもしれない。つれあいが山育ちで、里にはさまざまな種類の植物が栽培されていた。だから、彼女に対する配慮もあったのかもしれない。山歩きが好きだったことも、人付き合いも、関係しているだろう。しかし、一番の理由は、土を掘りかえし、水や苔をあたえ、そうやって自分の手で植物を育てること自体が、彼の精神に安らぎをあたえていたのだろう。裏庭に植えられたもの、木棚に並べられたもの、温室の内部に置かれたもの、その天井から錆びた太い針金でつるされたもの、そういった一つ一つに、遠い日の記憶がつまっていたのだろう。植物の世話をするときの彼の目には、やさしさが満ちていた。

 息子は、いつも友人たちと野原を駆けめぐっていた。日が暮れて帰ってくると、父は薪を割って風呂を沸かしていた。

「もう沸いてとっぞ。はよ入れ」

 そう言って、彼はいつも最後に湯船につかった。

 

三 運動

 植物栽培の次に父が熱心だったのが、スポーツである。町内対抗の、校区のソフトボール大会には欠かさず参加した。練習にも熱を入れ、チームのまとめ役を引き受けていた。ピッチャーで九番、守備も打撃もそつなくこなす中心選手兼マネージャーで、チームはいつも上位まで勝ち上がった。

「お父さんのおらすけん、たのもしかあ、何でん上手かけんねえ」

 と、近所のチームメイトは少年に言った。

 父は控えめな人で、自分を主張するようなことはなかった。彼にとって大切なのは、まわりをささえること、つまりチームが勝つことであり、そういう意味で、まとめ役には最適だったのだろう。彼の関与する世界において、彼はいつもそんな存在だった。几帳面で、あたえられた役割に忠実だった。それを演じることによって、その世界に自分を浸透させようとしていた。はじめは巧くなかった、にもかかわらず(だからこそ)、練習をくり返し、そのうち、控えめな性格と相まって、人々のささえになっていった。

 ソフトボールだけでなく、バレーボール大会、相撲大会、駅伝等の世話役もやっていた。息子が参加する大会にもときどき顔をのぞかせた。地蔵祭の日の小学生相撲大会のときは、珍しく、息子に取り口を説明した。

「おまえはこまんかけん、はよう攻めんば。見とってヒヤヒヤすっぞ」

「大丈夫、ぼくは下手投げとうっちゃりが得意だけん。マワシとったら勝つよ」

「そやんこつ言いよったら、負くっぞ」

 次の勝負で、息子は身体の大きな相手の寄りをうっちゃりきれずに敗退した。息子は旭國と藤ノ川のファンで、父は大鵬が好きだった。

 

四 夜勤

 平穏な家庭に一瞬不安の影がよぎったのが、父の勤める化繊工場が倒産するというニュースが入ったときだった。息子が高校に上がったころである。

「どやんなるかな」

 とだけ、彼は家族に言った。その後しばらくして会社更生法の適応を受け、会社側は人員の整理のため、希望退職者を募った。父はかいしゃにとどまり、三交代制に望みをつなぐことにした。三交代制とは、朝八時から午後四時まで、四時から深夜十二時まで、十二時から八時までの三サイクルを周期的に後退しながら勤めるというものである。「生産活動を停止させてはいけない」ということらしかった。

 夜勤のときは、生体のリズムが狂わされるのだから、当然身体が疲れる。仲間や家族とのコミュニケーションの機会も減った。仕事と慣れない睡眠との合間に、黙々と植物の世話をした。それまで息子の成績のことをとやかく言わなかった父が「良い大学へ行け」と言ったのはその頃である。農家出の父は小学校卒であった。

「ちゃんと大学ば出んばあかんぞ」

「でも、……」

「なあーんもでけん大学出のやつが良か目におうて、学歴の無かもんは無力ぞ」

「……、でもぼくはどやんなってもよかよ」

「何ばいうか。ちゃんと大学出て、良か会社に就職せんばあかんぞ」

 その後、息子が大阪の大学に入ったとき、彼ははるばる熊本(八代市)から、入学式に参列するためにやって来た。ゆっくりと、校舎を見て回った。どのような思いだったのだろう。入学式に出たとき後の父の表情は、いつになく晴れ晴れとしていた。数年ぶりの笑顔だったような気がする。涼やかな風の吹く日だった。

 父が夜勤で朝帰りのとき、彼の寝た後は三人の家族は音を立てないように気をつかった。近くの廊下を通るときは、そおーっと、足を運んだ。何事につけ敏感な父ならわずかの物音でも目を醒ますことを、皆知っていたからである。それでも彼は十分に眠られなかったはずである(夜勤に出る前にも仮眠をとっていた)。

 数年前、息子が大学に通っていた頃、父は銀行に転職した。畑違いの、慣れない仕事だったが。そこを定年退職するとき、何かで表彰されたらしい。転職がかなったことも、表彰も、彼の人柄ゆえのことと思う。

 現在は校区の体育指導員、町内会長を兼ね、何かと忙しそうにしているらしい。筆者の耳には、直さーん、という声があちらこちらから聞こえてくるような気がする。

 

                                     (『樹林』1997年12月号より)

085

(今年5月に父から貰った山紫陽花)

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