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2014年8月

純化

 生きるとは純化である。

 生まれた時に連れて来た異物を、生きる途中で否応なく纏ってしまう思念を、一つ一つ剥がしていく。

 

 それは他者になることである。

 私は私ではなく、見知らぬ何かである。

 その感じ方のうちに、無限の可能性が開かれている。

 私は私を知らない。それは知りうる何かではなく、また捕捉されるものでもない。

 

 死とは生への希いである。

 死にたいのは、生きたいから。

 死につづけるのは新たに生きるため。

 死とは矛盾するあれこれを受け止めること。

 それは他者になること。

001

(日々の生まれ変わり)

複眼

 種子のように 不意に飛んできて

 目の前の枝にとまる

 しばし見つめ合う 

 声もなく

 しかし何を伝えたがっているのだろう

 

 時が止まる

 夢の刻のよう

 眼下にはお堀の淡い緑

 その向こうには都会の夏

 

 長い年月を暗い場所で過ごし

 ようやく彩りある世界へ

 見つけた場所で羽を広げる

 閃きのかたちに

 

 「すみませ~ん」

 若いカップルから声をかけられ

 シャッターを押す

 光が華やぎ 溢れ出た

 

 先ほどの複眼は何処へ

 風が吹きはじめる

 葉がさやぎわたる

 時が幾重にも重なり合う

 私はいつからここにいたのだろうか

001

(光溢れて)   

聖なるもの

 表層(表現)に出てこようとしないもの。創造に加担しようとしないもの。

 しかし確実に在る。

 表層(この世)に出てこないから、聖なるものとされる。出てこないから、支配的にふるまう。一切の生を促している。

 だが力及ばぬゆえ、この世の恣意にかき消される。

 それに気づくもの、その尊さに耳を傾けるものがこの世に在ることが、何より必要である。

 あるいは自らそうであろうとすること。

 そのために自在であること、聖なるものの意のままに――必然(自然)の意味。

 怒りのように、時に荒れ狂うのもまた、故なきこと。在ることの矛盾は自覚されていよう。

 雨風に揺れる木々のように、急流に身を翻す魚のように、存在のかたちのまま、聖なるものに向き合う(ボードレール風にいえば、酔うこと)。

 対話とは、相手に成ろうとすること――共有されるのは、聖なるもの。

 私は私ではない何かである。だからこそ、私は存在する。

 「おたく花してはりますねぇ、わたし人間してます」と対話されるのは、ある意識が共有されているから。仰ぎ見、気づかれた世界の鮮烈。

 それと共に在り続けること。

 見知らぬ地からの風を感じていること。

001

(花してます♪)

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