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2014年5月

私の中にある死が私の生を欲望している

 私の生の連続性(生起)は、私の中にある死(他者)の欲望によると、感じられる。

 私の死とは、私ではない何かである。それを私は感知し得ない。だから他者と呼ぶしかない。生を欲しているのは、生ではないもの、つまり死である。

 例えば虚無に近い状態に至ったときに感じられるのは、生きようとする、何かの促し(力)である。

 この力は強い。生命そのもののような、論理のようなもの、否応なく生じようとするものである。

 この世のものではないかもしれない。ある人々はそれを霊と呼ぶのかもしれない。そのような何か。それに触れたいと思っているのだが、うまく感じ得ない。

 高山辰雄は「アミーバの心」と呼んでいた。清宮質文は「オバケ」と言っていた。かれらはそれを絵画に表現しようとしていた。

 音楽家ならば、それを音で表現しようとするだろう。

 そのためには労苦が必定だ。技巧と、「他者」を感じとること。つまり未知へと、不可能へと開かれてあること。

 それが生きること。

 私の中にある死は、一切の自己中心性を捨て去り、生とは何かの問いのうちに、あらゆる事象を感受しようと、全位相に開かれて在る。

 いまここの死がすべてである。

 始原の力である。その力が、全世界を掴もうと瞬時(無時間)に拡がる。

 だからこそ、私は無時間に生きる。

013

(名はミケランジェロ。小首を傾げた彫刻のよう)

 

 

 

99%ありがとう

 藤田正裕(2013).99%ありがとう――ALSにも奪えないもの.ポプラ社

 著者の感性に注目したい。例えばこんな頁がある。

 

 〈僕が世界の中で一番怖いものは、海とサメ。

 2003年、13歳の女の子がサーフィン中、

 4.5メートルのイタチザメに左腕を一口で噛みとられた。

 体の血を60%なくし、1か月近く入院、

 だけど事件から1ヶ月後にはなんとまたサーフィンをしてた……。

 それ以上に衝撃的だったのが、彼女へのインタビュー。

 小さな13歳の女の子が、腕をサメに食いちぎられて言った言葉、

 「他の人じゃなくて、私でよかった」〉 p.68

 

 他の人じゃなくて、私でよかった、心からそう思う女の子に、純粋に信頼を覚えている。自分が怪我をすることで誰かの役に立ったのなら、それでいい。

 一方で、自分が病気になることで人に身体を委ね、世話を受ける、そういうあり方が念頭にある。

 重ねるのではなく、並置されている。すごい女の子がいると。

 著者は淡々と自分の境遇を顧み、表現する。とても素直だ。

 子どもの頃の話、ハワイでの就職のこと、現在のこと……。

 表現することの楽しさ、すばらしさが伝わってくる。

 その延長上に、表現できなくなっても、存在することの楽しさとすばらしさがあることを、十分に予感させてくれる。

 美しい本である。

028

(Waimea)

 

田の客

 90歳の方の介助をしていている。

 物知りな方で、いろんな話題を提供される。

 「外で蛙が鳴いていましたよ」と言うと、もう蛙が鳴くようになったか、と驚かれ、さらに「蛙はたんぎゃくって言いよったです。田の客という意味でしょうかな」と仰った。

 なるほど、「田の客」とは面白い。蛙を敬っているようで、ユーモラスで優しい感じがする。

 調べてみると、古来蛙のことを谷蟆(たにぐく、たにかこ、たんがく)と言っていたらしい。

 〈白雲の 龍田の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に うち越えて 旅行く公は 五百重(いほへ)山 い去(い)きさくみ 敵(あた)守(まも)る 筑紫に至り 山の極(そき) 野の極(そき)見よと 伴の部(へ)を 班(あか)ち遣(つかは)し 山彦(やまひこ)の 答へむ極(きは)み 谷蟇(たにくぐ)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見し給ひて 冬こもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 丘辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの 薫(にほは)む時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎(むか)へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば〉    高橋連蟲麻呂(万葉集巻六)

 「くぐ」「ぐく」は、谷間を潜(くぐ)り渡る、地を潜る、蛙の鳴き声とも言われている。

 私も、5月初めの深夜に幾度か谷を渡ったとき、蛙の声が静寂に響き渡っていたのを覚えている(萩往還マラニック250kmの部)

 たにぐく→たんがく→たんぎゃくと考えられるが、先の翁のように田の客ととった方が擬人的で楽しい。

 またいろんなお話をお聞きしたい。

020

(わが家の入口にて)   

逝かない身体

 川口有美子(2009).逝かない身体――ALS的日常を生きる.医学書院

 ALSの方のヘルパーをすることになったので、勉強のために読んだ。とても考えさせられた。

 私にできるのだろうか。不安が先に立つのだが、それでも全力を傾注してやってみようと思っている。なるべく早く習熟しなくては!

 瞬きのみで意思表示をされる方についても、日々のケアをする中で、どれだけ意思を汲み取れるか。意思だけでなく、身体からの情報を感じとる必要がある。

 顔色、皮膚の状態、表情、発汗の質の違い、など。

 川口さんは、お母さんがTLS(トータル・ロックトイン)の状態になられ、自身の気持ちの揺れを率直に、詳しく語られている。

 生死に対する考え方も、患者の心理についても、社会(法制度)の問題点についても、感じられるままを綴られている。心に記憶するようして読んだ。

 どの箇所も、言葉がすっと入ってきた。例えば、

 〈重病患者のなかには、家族が望むのならどのような苦境にも耐えようと思う者、必ず治るからと誓う者、大事にしてもらっているからこそ幸せだという者が大勢いる。体温だけでもできるだけ長く幼い子どもに与えつづけようとする者もいる。身勝手には死ねないと、むしろ自分があなたたちのそばにいてあなたたちを見守るのだと誓う者もいる〉p.181-182

 〈自分が伝えたいことの内容も意味も、他者の受け取り方に委ねてしまう――。このようなコミュニケーションの延長線上に、まったく意思伝達ができなくなるといわれるTLSの世界が広がっている。コミュニケーションができるときと、できなくなったときとの状況が地続きに見えているからこそ、橋本さんは「TLSなんか怖くない」と言えるのだ。軽度の患者が重度の患者を哀れんだり怖がったりするのは、同病者間の「差別だ」ともいう〉p.211

 〈平凡な健常者の私には、彼らのイチかバチかの生き様がすごいと思われるばかりだ。どんどん悪化していくのに、「いつでも今が最善」といえる感覚がよくわからない。それに、「現在は最善と最悪の接点」というが、現在を「点」に見立てて生きる厳しさも、時間をそのように意識したことのない私には、とうてい想像できない。椿先生でさえ「健康なものにはわからない」とおっしゃっていたのだから、重病人の心理はわからないし、日々遷り変わるものなのだろう。

 だから、わざわざ確実に死なせるための準備などしない、そしてどのような生き方や死に方がよいかなどと健常の者が教えたりしないというのが、たぶん正しい接し方なのである〉p.223

 〈まるで乾いた土に落ちた種が降雨を待ち望んでいるように、ALSという過酷な環境にも耐えていられるのは、幸せな夢を見ているからだ。身体は湿った綿のように重たくても、そんな彼らの心は羽のように軽やかなのである。

 患者の豊かな空想の力を知ってしまうと、「病人に気にかけてもらっているのは家族のほうだ」というのも、橋本さんの強がりではなく、正しいと思えるようになる。実際のところ、私以外の患者の子どもたちも、病身の親の気配をいつでもどこでも感じることができるという〉p.224

 それら、様々な状況での感じとり方も、これからの介護において助けになると思う。

 まずは、精一杯感じとること。

008

(熊本に来て初めて咲いたうちの薔薇、香りがやさしい)

 

 

数多の意思の集く

 夜に鏤められた無数の瞬きのように

 水面に戯れる星々のように

 ここにはありとある意思が訪れ

 終わることのない饗宴を繰りひろげている

 

 夢はかく語りき

 人の心を満たしたいのだと

 積もる雪より静かに拡がりたいのだと

 雪はかく語りき

 深き淵に空を届けたいのだと

 空はかく語りき

 私のキャンバスに色彩を溢れさせたいのだと

 

 花の紅

 鉱物の青

 溶け合いまた溶け合わず

 光の位相を求め止まない

 その姿は本当の自分を探すかのよう

 

 出合いこそが私なのだと

 すでに知られていただろうか

 だからこその静謐が希求されていただろうか

 

 数多の意思の集く

 いまここの歓楽に 夢は

 どこまでも細部に分け入り

 生命たらんとする

 虚空などどこにも見あたらない

 016

(南熊本駅近くの踏切横)

 

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