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狭き門 La Porte Etroite

 A.ジッド(1909)/山内義男訳.狭き門.新潮文庫

 幸福になりたいと、よく人は言うけれど、私にはその感覚がよくわかっていない。なぜ幸福を求めるのか? 幸福とは?

 この恋愛小説の主人公アリサは、私たちは幸福になるために生まれてきたのではないと言い、魂が聖らかになることを望む、と言う。それはよく理解できる。魂が聖らかであるために、私たちは生きている。

 〈「わたし、あなたのおそばにいると、もうこれ以上幸福なことはないと思われるほど幸福な気持になりますの……でも、じつは、わたしたちは、幸福になるために生まれてきたのではないんですわ」

 「では、魂は、幸福以上に何を望むというんだろう?」と、私は性急に叫んだ。彼女は小声でつぶやいた。

 「聖らかさ……」それはいかにも低く言われたので、わたしは、それを聞いたというよりも、むしろそれと察したのだった〉p.164-165

 聖らかであるために、私たちは何をするか? 善をなす以外には何もない。その善とは、思考の対象に即して思考すること。よりそい、感じ、はぐくみ、あたためること。

 ときに苦しみを伴う。それは必定の苦しみであり、ともに拡がり、世界に満ちる。ジェロームがアリサやロベール姉弟に接した時のように。

 〈ジェロームは、それをただ責任の気持から――それに、おそらくわたしをよろこばせたいと思って――やってくれているように思います。なぜかと申せば、ロベールとジェロームとでは、その性質にはほとんど似たところがないのですもの。ともかく、ジェロームには、自分に課せられた義務が苦しければ苦しいだけ、それだけ魂がはぐくまれ、魂が引き上げられるということがわかったろうと思います〉p.112

 必要なこと、しなくてはいけないことをしながら、私たちは生きている。そして、死は生とともにあり、あらゆる生にぴったりよりそい、支えているように、私には感じられる。

 〈「ではあなたは、死んだら二人は別々になってしまうと思っている?」と、アリサが言った。

 「それはね……」

 「わたしの考えでは、死ぬっていうのはかえって近づけてくれることだと思うわ……そう、生きているうちに離れていたものを、近づけてくれることだと思うわ」

 これらの言葉は、深くわたしたちの心のなかにしみこんで、そのときの二人の言葉の調子までが耳に残っているような気持がする〉p.53

 幸福とは、おそらく、魂の有様のことをいうのだと、私は考える。それが聖らかであろうとするときのその姿を。

 〈……ところが今、妹を幸福にしているものは、かつて妹の考えていたような、そしてまた彼女の幸福がそれにかかっていると思われていたようなものとはまったく別なものなのです。……ああ、《幸福》と呼ばれるものは、どうしてこれほど魂と関係の深いものなのでしょう。そして外部からそれを形作っているかにみえるもろもろのものは、なんと価値がないのでしょう〉p.138

 そのように思考し生きたアリサは、私たちのなかにいつまでも生きつづけている。

Awashima

(恋愛の神社?)

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