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2013年12月

死者とは何か

 「わたしの考えでは、死ぬっていうのはかえって近づけてくれることだと思うわ……そう、生きているうちに離れていたものを、近づけてくれることだと思うわ」(ジッド『狭き門』より、アリサの言葉)

 「そうなりゃァ、そんなこたァなんでもなくなるのさ。そうなりゃァ、おれァ暗やみのなかのどこにでもいることになるのさ。おれァいたるところにいることになるんだ――おっかあが見るどんなところにでもな」(スタインベック『怒りの葡萄』より、トム・ジョードの言葉)

 「そうだ、主人はいつも一緒にいるんだ、もう病気のことも、一人で留守させることも心配しなくてもいいんだ。あなたは私の心に、いつも住んでいるんだから」(千葉県八千代市72歳女性)

          *          *          *

 これらの感じはよくわかる。死者はいつも一緒にいる。心にというより、げんにここに。

 両の掌を近づけると互いの温もりが感じられるように、死者の存在を意識するとその温もりが感じられる。

 かつて受けとった言葉は、年を重ねるごとに、さまざまな色合いを帯びてくる。意識を傾ければ傾けるほど。

 それらを「私」の内外に保持すること。宇宙の歩みの、刹那に、刻んでみること。

 苦しみにこそ救われる感覚がある。苦悩を掬うことにより、魂は純化されるのかもしれない。篩を水に晒すことで、さまざまなものが美しく変わるように。生とは、そのように、私に付置されていた言葉を拾い集めていく作業なのかもしれない。年ふりたるものたちに促されて。

 そのとき、私はすべてである。

 私はどこにでもいる。

 同時に、ここにはだれかの私(たち)が充ちている。

 ――さて、死者とは何か?

 私によりそっているもののすべて、生を生たらしめようとする力、である。

 創造の根柢にあるもの。それへの移行を「脱創造」とも言う。生きていながら、死の側にあること。そこに触れていること。

 夢から現実を見ること、高山辰雄の言う「アミーバの心」、清宮質文の言う「オバケ」、森崎東の言う「記憶」、イチローの言う「8千回の悔しい思い」……

 そこにあることが生(創造)である。

 言葉とは、生と死の間にある梯だろう。汲み尽せぬ海に現われては消える。それを育むために、私たちはここにある。

 この世にあることの意味はそれに尽きる。

023

(聖なる場所)

 

 

 

狭き門 La Porte Etroite

 A.ジッド(1909)/山内義男訳.狭き門.新潮文庫

 幸福になりたいと、よく人は言うけれど、私にはその感覚がよくわかっていない。なぜ幸福を求めるのか? 幸福とは?

 この恋愛小説の主人公アリサは、私たちは幸福になるために生まれてきたのではないと言い、魂が聖らかになることを望む、と言う。それはよく理解できる。魂が聖らかであるために、私たちは生きている。

 〈「わたし、あなたのおそばにいると、もうこれ以上幸福なことはないと思われるほど幸福な気持になりますの……でも、じつは、わたしたちは、幸福になるために生まれてきたのではないんですわ」

 「では、魂は、幸福以上に何を望むというんだろう?」と、私は性急に叫んだ。彼女は小声でつぶやいた。

 「聖らかさ……」それはいかにも低く言われたので、わたしは、それを聞いたというよりも、むしろそれと察したのだった〉p.164-165

 聖らかであるために、私たちは何をするか? 善をなす以外には何もない。その善とは、思考の対象に即して思考すること。よりそい、感じ、はぐくみ、あたためること。

 ときに苦しみを伴う。それは必定の苦しみであり、ともに拡がり、世界に満ちる。ジェロームがアリサやロベール姉弟に接した時のように。

 〈ジェロームは、それをただ責任の気持から――それに、おそらくわたしをよろこばせたいと思って――やってくれているように思います。なぜかと申せば、ロベールとジェロームとでは、その性質にはほとんど似たところがないのですもの。ともかく、ジェロームには、自分に課せられた義務が苦しければ苦しいだけ、それだけ魂がはぐくまれ、魂が引き上げられるということがわかったろうと思います〉p.112

 必要なこと、しなくてはいけないことをしながら、私たちは生きている。そして、死は生とともにあり、あらゆる生にぴったりよりそい、支えているように、私には感じられる。

 〈「ではあなたは、死んだら二人は別々になってしまうと思っている?」と、アリサが言った。

 「それはね……」

 「わたしの考えでは、死ぬっていうのはかえって近づけてくれることだと思うわ……そう、生きているうちに離れていたものを、近づけてくれることだと思うわ」

 これらの言葉は、深くわたしたちの心のなかにしみこんで、そのときの二人の言葉の調子までが耳に残っているような気持がする〉p.53

 幸福とは、おそらく、魂の有様のことをいうのだと、私は考える。それが聖らかであろうとするときのその姿を。

 〈……ところが今、妹を幸福にしているものは、かつて妹の考えていたような、そしてまた彼女の幸福がそれにかかっていると思われていたようなものとはまったく別なものなのです。……ああ、《幸福》と呼ばれるものは、どうしてこれほど魂と関係の深いものなのでしょう。そして外部からそれを形作っているかにみえるもろもろのものは、なんと価値がないのでしょう〉p.138

 そのように思考し生きたアリサは、私たちのなかにいつまでも生きつづけている。

Awashima

(恋愛の神社?)

白詰草の咲く防波堤

白つめ草の咲く防波堤の

向こうから

故郷のような風が吹いてくる

幾重にも連なる波とともに 

右手奥

とおく霞んでいるのはがれきの島

人々の思い集く

 

エネルギーの余波か

それにしては静かで優しい

人々の思念か このあたたかさは

生きよ 生きよと ささやく大気が

この地を包んでいる

昨夜も舞っていたものたちか

ここにあるのは

 

松林のところどころには 小さな芽と

せわしなく動きはじめる蟻らと

赤茶けた水たまりが

槌音も聞こえないまえに

風の声にさそわれている

頭上はるか ちぎれかけた雲は

日にかがよい 時にやすらう

波は変わることなく

律動をくりかえしている

056

(荒浜)

第35回 ルベック定期演奏会

 今日、毎年恒例となっているビーコンプラザでのギター演奏会を聞きにいった。

 プログラムの表紙左上に小さく、「響き合う心 深まる絆」と書いてある。その通りの演奏会だった。もう35年も続いていて、私は第32回から聞いている。

 第1部では、指導されている方々、演奏者のみなさんの熱意が伝わってくるようだった。丁寧に、柔らかく音を出し、ときにユーモラスなアレンジも加わる。楽しいひと時だった。

 第2部、山口修さんのギターリサイタルは、もっともっと聞いていたいと感じた。演奏の合間の語りでは「私はギターに癒された」と仰っていたが、聞いている側も、癒された。心地よいメロディーは、何かを追究しているようで、その演奏は私たちをどこかへ運んでくれているようだった。

 運ばれた先はスペインだったかもしれない。もっと別の場所かもしれない。

 見知らぬ場所、だが懐かしい場所。この宇宙に、場所は無限にあり、そのどこかに、私たちは不意に降り立つ。そしてその度に何かしらの感慨を覚える。何度も聞いているはずの曲なのに、聞く毎に新しい場所に立つ。

 演奏家たちは、その旅を誘ってくれる。

 座席の3列前では、盲導犬が stay をして、時折り両耳を小さく動かしていた。何を聞いているのだろう? どの場所にいるのだろう?

 タクシーを呼んでいた時間が演奏のちょうど終わった時間だったので、急いで会場を後にした。余韻がまだ残っている。

048

(水平の彼方へ)

 

 

 

恩寵について

 〈創造は、重力の下降作用、恩寵の上昇作用、それに自乗された恩寵の下降作用とから成り立っている〉 シモーヌ・ヴェイユ著 渡辺義愛訳『重力と恩寵』より

 「重力」は自然の力、「恩寵」は超自然の力である。

 どちらも、私たちの内部に生まれるのではなく、外部からやってくる。

 「恩寵」に触れていること、あるいはそれであること。

 それは「真空」を受け入れること、「真空」を何かで満たそうとしないこと。

 それが生きることの意味だと、感じる。

 しかし「恩寵」は求められるものではない。それを感じることはできるし、感じられるときのよろこびも記憶されるのだが、得ようとして得られるものではない。あるとき不意にやってくるものだ。多くは苦しみののちに。だから、「美しくあるためには苦しまなくてはいけない」という諺も生まれた。

 「真空」を受け入れるとは、代償を求めないこと。対象に即して生きることをいう。

 当たり前のことなのだけれど。

 対象に即するとき、対象の痛みも引き受けることになる。それは辛い時間なのだが、それでも対象自身の苦しみは、私のそれとは比較にならないだろう。即する、共感すると、言葉で言えても、またそのような努力をしても、いずれも過不足は残る。

 そのような努力をすることが尊いことである。

 しないことは、罪なことである。「だから」するのでは、しかし、「恩寵」を求めるのと同じで、本末が転倒している。

 生きる(創造する)とは、「真空」を受け入れていること。

 刻一刻が、その営みにある。

035

(Rainbow Shower)

 

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