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怒りの葡萄 The Grapes of Wrath

 スタインベック(1939)/大橋健三郎訳.怒りの葡萄.岩波文庫

 オクラホマから、土地を追われ、生きるためにやっとの思いでカリフォルニアに辿り着いたにもかかわらず、ほとんど仕事に就けないばかりか、保安官・補に追い立てられる移住農民たち。その中の、ジョード一家の生活が描かれる。

 保安官補(?)を殺したせいで身を隠すことになった長兄トム・ジョードが、久しぶりに会いに来たおっかあに言うセリフが印象に残った。

 〈トムはおちつきなく笑って、「なァに、たぶんケイシーがいったみてえに、人間にゃァ自分の魂なんてものはなくって、ただでっかい魂のかけらを持っているだけなんだろうよ――そして、そうなりゃァ――」

 「そうなりゃ、どうなんだい、トム?」

 「そうなりゃァ、そんなこたァなんでもなくなるのさ。そうなりゃァ、おれァ暗やみのなかのどこにでもいることになるのさ。おれァいたるところにいることになるんだ――おっかあが見るどんなところにでもな。飢えた人間がめしが食えるようにって喧嘩が起るところにゃァ、どこにでもおれはいるんだ。おまわりのやろうが人をぶったたいているところにゃァ、どこにでもおれァちゃんといるんだよ。もしケイシーのいうことがほんとなら、なァに、おれァ、人間がはらをたててわめいているそのわめき声のなかにいるし、それから――ひもじい思いをしたがきどもが、晩飯のできたことを知って笑っているその笑い声のなかにもいるのさ。それからまた、うちのもんが、自分で作りだしたものを食って、自分で建てた家に住むようになったときにゃァ――なァに、おれもそこにいるんだぜ。わかったかい? チェッ、おれァまるでケイシーみてえにしゃべくっているぜ。あの男のことばかりあんまり考えたせいだろうて。ときどきあの男の顔が見えるような気がすることがあるよ」

 「あたしにゃァわからないね」と、おっかあがいった。「よくわからないね」

 「おれにもよくわかっちゃァいねえのさ。こいつァただおれが考えていたことにすぎねえのさ。動きまわっていねえてェと、うんといろんなことを考えるようになるもんだぜ。もうもどっていかなくちゃァいけねえよ、おっかあ」 〉下巻p.197-198

 物語の中心にいるおっかあは、自分ではっきりと意識してはいないが、人の絆がいちばん大切なのだと、ずっと思ってきた。家族の、そして隣人との絆が。

 それを裏から証するかのように、元説教師のケイシーは、大切なこととは何かを考えつづけ、またトムもケイシーに触発されて考えつづける。

 トムは、自分の魂というものはほんのかけらにすぎないのだと、直覚する。それが上のセリフである。宇宙大の魂の、かけらを持つということは、自らが宇宙であるということ。だから私は、どこにでもいる。木漏れ日を揺らす風が、私でなくて何だろう? 囀り合う声が、私でなくて何だろう?

 いたるところにある生命が、私である。現に私は生きているし、ずっと生きつづける。その生命への深い信頼が、この物語を書かせている。ハイウェイを走る車にぶつかってもなお歩きつづけるカメ、西へ追われてもなお生きつづけようする人々、自分が貧してもなお他人を助けようとする人々、洪水にあっても意気消沈するのでなく怒りを持ちつづける人、そこにある生命そのものが、作者に書かざるをえなくさせている。

 神なんてものがあるかどうか知らないと、トムは言うだろう。そんなことより、おれはしなければならないことをして生きていくだけだと。

 打ちのめされてなお生まれようとする、聖なるものの在り処が、描かれようとしている。

009

(Hibiscus in Hawaii)

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