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2013年11月

怒りの葡萄 The Grapes of Wrath

 スタインベック(1939)/大橋健三郎訳.怒りの葡萄.岩波文庫

 オクラホマから、土地を追われ、生きるためにやっとの思いでカリフォルニアに辿り着いたにもかかわらず、ほとんど仕事に就けないばかりか、保安官・補に追い立てられる移住農民たち。その中の、ジョード一家の生活が描かれる。

 保安官補(?)を殺したせいで身を隠すことになった長兄トム・ジョードが、久しぶりに会いに来たおっかあに言うセリフが印象に残った。

 〈トムはおちつきなく笑って、「なァに、たぶんケイシーがいったみてえに、人間にゃァ自分の魂なんてものはなくって、ただでっかい魂のかけらを持っているだけなんだろうよ――そして、そうなりゃァ――」

 「そうなりゃ、どうなんだい、トム?」

 「そうなりゃァ、そんなこたァなんでもなくなるのさ。そうなりゃァ、おれァ暗やみのなかのどこにでもいることになるのさ。おれァいたるところにいることになるんだ――おっかあが見るどんなところにでもな。飢えた人間がめしが食えるようにって喧嘩が起るところにゃァ、どこにでもおれはいるんだ。おまわりのやろうが人をぶったたいているところにゃァ、どこにでもおれァちゃんといるんだよ。もしケイシーのいうことがほんとなら、なァに、おれァ、人間がはらをたててわめいているそのわめき声のなかにいるし、それから――ひもじい思いをしたがきどもが、晩飯のできたことを知って笑っているその笑い声のなかにもいるのさ。それからまた、うちのもんが、自分で作りだしたものを食って、自分で建てた家に住むようになったときにゃァ――なァに、おれもそこにいるんだぜ。わかったかい? チェッ、おれァまるでケイシーみてえにしゃべくっているぜ。あの男のことばかりあんまり考えたせいだろうて。ときどきあの男の顔が見えるような気がすることがあるよ」

 「あたしにゃァわからないね」と、おっかあがいった。「よくわからないね」

 「おれにもよくわかっちゃァいねえのさ。こいつァただおれが考えていたことにすぎねえのさ。動きまわっていねえてェと、うんといろんなことを考えるようになるもんだぜ。もうもどっていかなくちゃァいけねえよ、おっかあ」 〉下巻p.197-198

 物語の中心にいるおっかあは、自分ではっきりと意識してはいないが、人の絆がいちばん大切なのだと、ずっと思ってきた。家族の、そして隣人との絆が。

 それを裏から証するかのように、元説教師のケイシーは、大切なこととは何かを考えつづけ、またトムもケイシーに触発されて考えつづける。

 トムは、自分の魂というものはほんのかけらにすぎないのだと、直覚する。それが上のセリフである。宇宙大の魂の、かけらを持つということは、自らが宇宙であるということ。だから私は、どこにでもいる。木漏れ日を揺らす風が、私でなくて何だろう? 囀り合う声が、私でなくて何だろう?

 いたるところにある生命が、私である。現に私は生きているし、ずっと生きつづける。その生命への深い信頼が、この物語を書かせている。ハイウェイを走る車にぶつかってもなお歩きつづけるカメ、西へ追われてもなお生きつづけようする人々、自分が貧してもなお他人を助けようとする人々、洪水にあっても意気消沈するのでなく怒りを持ちつづける人、そこにある生命そのものが、作者に書かざるをえなくさせている。

 神なんてものがあるかどうか知らないと、トムは言うだろう。そんなことより、おれはしなければならないことをして生きていくだけだと。

 打ちのめされてなお生まれようとする、聖なるものの在り処が、描かれようとしている。

009

(Hibiscus in Hawaii)

自立とはなにか

 自立とは、ほどよい依存関係のことである。

 何かに依存しすぎるのではなく、また離れてしまっているのでもない状態のこと。

 例えば経済。お金の出入りがスムーズであること。お金は無いと困るけれど、それを得ることを目的にするなら、そこに囚われているため、自立しているとは言えない。

 例えば家族や友人。いろんなことを話し合い、支え合って生活しているのが自立。たまに喧嘩をするのも自立。紆余曲折もあり、次第にお互いを尊重するようになる。

 大切にされなくてはいけないのは「私の生命」なのだけれど、「私」とは、私と他者との関わりにおいて形成される何ものかである。だから「私」は他者との関わりを大切にしようとする。触れ合う物たち、人たちのすべてを。

 それらを大切にすることが、自立することである。

 自分の思い通りに、人を動かそうとする人がいる。それだと、大切な何かを見失うことになるかもしれない。見失っているから、とも言える。

 大切にするとは、関わりのなかで生成する「何か」を見つめ、育もうとすることである。それは私たちにとって未知なる何かであり、未知なるがゆえに、畏れ、またひたむきに愛そうともする。困惑し、翻弄されることがあったとしても、真理としての何かを見出そうとする。

 そのように人は生きる。介護においても、介護する人とされる人が、お互いに支えられながら生きているとき、その人たちは自立している。

 そこに流れはじめているものは何か。

003

(ぼくも自立しているわん)

ハツカネズミと人間

 スタインベック(1937)/大浦暁生訳.ハツカネズミと人間.新潮文庫

 原題は Of Mice and Men.スコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ハツカネズミに」

  ハツカネズミと人間の このうえもなき企ても

     やがてのちには 狂いゆき

  あとに残るはただ単に 悲しみそして苦しみで

     約束のよろこび 消えはてぬ

 からとられたのだという。(文庫本訳者あとがきより)

 主人公の二人、ジョージとレニーは夢を持っていた。働いて稼いだお金で農家の老夫婦から小さな土地を買い、野菜を植え、家畜を飼い、人から指図されずに、幸せに生きるという。

  「『じゃ、話そう。いつの日かーーおれたちは金を合わせて、一軒の小さな家と二エーカーの土地を持ち、一頭のめうしと何頭かのブタを飼う。そしてーー』

  『そして、土地のくれるいちばんいいものを食って、暮らす』レニーは大声をはりあげた」p.23

 しかしその夢は実現しなかった。二人で、うまく働いていくことができなかったから。よき働き手ではあったが。運が悪かったのかもしれない。

 農場主の息子カーリーの妻の軽率のために。それは元はと言えばカーリーのせいだったのかもしれないが。兎も角レニーはやってしまた、自分のやったことの意味もよくはわからずに。

 レニーを守ることは難しいとわかっていたのだろう。だから、二人だけで暮らせるようにと、ジョージは思っていたのだが。

 レニーは無垢で、一人では生きていけなかった。それはレニーにもわかっていて、だからジョージに頼らざるをえなかったのだが。

 黒人の馬屋係クルックスは、自分の部屋に誰も入れたことがなかったが、レニーがはじめて入ることを許された。彼の人のよさを、クルックスは覚ったから。クルックスの心に灯がともされたから。

 一つの夢は消えた。だが、そういう夢を抱いて、げんに生きたことが、尊いのだと思う。クルックスにとっても、夢を共有した掃除係の老人キャンディにとっても、ものの道理のわかる、ラバ使いの名手スリムにとっても、そしてジョージにとっても。

 私たちのなかにある「レニー」を大切に守ることが、生きることではないかと思う。この世とうまくやっていくのではなく、奥にあるやさしさのようなものを、守り育むことこそが。

016

(ウミガメと人間) 

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