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2013年10月

心をこめて 郡山第五中学校

 先日、Nコン全国大会中学校の部を聞いた。

 印象に残ったのは、郡山第五中学校の演奏。美しいハーモニーでもあるのだけれど、他の学校の演奏と違うのは、優しい歌声であること。

 なぜだろう。

 演奏前の学校紹介のVTRでは、練習のモットーは「誠実に努力し、限界を決めずにがんばること」と説明されていた。誠実に努力する、その通りなのだろう。

 最後に、生徒全員で「心をこめて歌います。どうぞ、お聞きください!」と締めくくっていた。誠実に努力することが、心をこめることに結びついている。イコール、である。

 何度聞いても、飽きるどころか、ますます優しい気持ちを感じるようになる。

 心がこめられているから。

 その努力をすることが、生きること。

 https://www.youtube.com/watch?v=ZF-1qO-Ygcw

010

(ハートをこめて)

 

詩を読む会(36)

 2ヶ月に1回(偶数月最後の土曜日)に、詩を読む会を開いている。今日、いつものように、午後1時半から別府市ふれあい広場「サザンクロス」で開催した。

 読まれた詩の一部を紹介しよう。

          *          *          *

  ひよめき

                                   征矢 泰子

 すこしずつすこしずつ

 閉じながらしずんでゆくわたしのなか

 そこだけ閉じきれないひよめきがあって

 そこだけいつまでもやわらかくときめいて

 ひたすら待ちつづけるひよめきがあって

 くらしの知恵も社会のしきたりも

 このよの損得も見栄も外聞も

 そこだけ見のがしてしまったひよめきがあって

 そこだけいつまでもひよわくきずつきながら

 執拗に待っているのだ

 触れたその刹那にだけわかる

 生まれてきたほんとうの理由(わけ)をみるまでは

 けっして閉じまいとそこだけひらいている

 ちいさなひよめきが あるのだった

          *          *          *

 

                                   水島 英己

 みちすじということばに立ち止まる。

 深い井戸を覗く女のそれ、

 水俣の悲惨とシチリアの光が出会う河口を目指して

 歩きつづけた女のそれ、

 果てない海から生まれる一条の水脈

 青空を切り裂く飛行機雲

 みちすじはまた二つのもの、ときには正反対で異質に見えるものも

 エミリーの「嵐の夜」と「エデンの園」を

 死と生を結びつける、始まりと終わりを

 罪と官能をその金色のほそい髪で結ぶ。

 みちすじはかなしみに似ている

 かつて、そのとき、何かが

 わたしをいざない、その道に立ち止まらせたのだから。

          *          *          *

  

                                   塔 和子

 あそこは暗かった

 あそこで食べたのは

 木の根の汁だけ

 あそこは長かった

 もう明るみに出る日ないかと思った

 なんと明るいのだここは

 思い切り声を出して暮らせる日が来ると

 あの長い年月

 考えられもしなかった

 大勢の仲間と

 好きなだけ声が出せる

 声が出せることがこんなにすばらしいことだとは

 知らなかった

 あそこでは

 言いたいことがあっても

 じいっとがまんしていた

 声を出しても

 回りからふさがれたものだ

 ああ

 太陽をいっぱい受けて

 愛し合って

 産んで

 祈って

 ここは緑と光の楽園

 あの暗かった季節に

 こんなすばらしい日が訪れるなんて

 いかなる摂理によるものだろう

 三日の命だってかまやしない

 いまは

 生きている感動にふるえる目を

 かっと見ひらいていよう

          *          *          *

 ほかに、井坂洋子「山犬記」、詩集『悪母島の魔術師』(連詩 新藤凉子 河津聖恵 三角みづ紀)、ヘルダーリン、ランボーなどを紹介した。

 参加者からは、詩にふれることで心がおちつく、いろんなことを深く考えさせられる、等の言葉が聞かれた。

 この一文はどんな意味だろうと、あれこれ意見し合うことで、良い時間が共有できたのだろうと思う。

006

(どこにいるかな)

 

 

 

ツナグ

 2012年 「ツナグ制作委員会」

 主人公歩美(松坂桃李)が、祖母アイ子(樹木希林)から「ツナグ」(生者と死者をつなぐ使者)の役を継承する前、使者を呼ぶ場面を目にして口にする言葉がある。

 死者は、生きていた時の記憶をかき集めて作られたかのようだ、と。

 そこには歩美の解釈が入っている。再会は生者の都合ではないかという。

 しかも、ここに出てくる死者たちは優しい。

 再会により、生者は死者に力を与えられる。事故死した親友の御園奈津に再会した嵐美砂でさえ、会った後は苦しみに号泣していたにもかかわらず、後悔はなく、成長を果たしている。

 それらは、生きている者の都合ではないか?

 しかし、生者の都合ではないと、歩美は気づく。死者は、会いたくなければ会わなくて済むのだから。

 人は生きているのではなく、生かされている。さまざまな艱難辛苦とともに。死者はそれを知っているからこそ、生者に優しくすることができる。

 だから、いつもよりそっている。

 私たちは、「死者は私たちのなかで生きている」と、よく耳にする。たしかに、いまある私たちは、死者たちに支えれれて生きている。それと意識するしないにかかわらず。

 支えられている、そのつながり方を、幾つかの短い物語を通して、この映画は例示している。

 そこにあるつながりの回路を、「私たち」はもっと大切にしていいのだと。

 そこから、生者どうしの支え方、つながり方もまた見えてくる。

 私たちはどのようにつながろうとしているか。

http://www.tsunagu-movie.net/04chara/index.html

044

(海の向こうの丘の上の夕日 honolulu)

つながりの作法

 綾屋紗月・熊谷晋一郎(2010).つながりの作法ー同じでもなく 違うでもなく.NHK出版 生活人新書

 綾屋氏は1974年生まれ、2006年にアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)という名づけを得る。

 熊谷氏は1977年生まれ、脳性まひの電動車いすユーザー、小児科医。

 お二人には『発達障害当事者研究』、『当事者研究の研究』(どちらも医学書院)等の共著書がある。

 綾屋氏の生きにくさとは?

 〈自分の身体内部の訴えをバラバラに感じるだけではない。身体外部からの情報も、バラバラのまま大量に感じ取ってしまう。冒頭で述べたように私の場合、五感からの刺激を必要なものと不要なものに分けて、後者を潜在化させていくという作業がスムーズでないため、次々に大量に蓄積されてしまう情報によって苦しむ、ということが生じる。これを「感覚飽和」と名づけた〉p.18

 情報を細かく拾いすぎる「感覚飽和」ゆえに、行動のための選択ができず、フリーズしてしまう。自らの声も適切に聞き取れないため、「正しい発声」が困難となる。「他者」も、「私」も、うまく把握することができない。だから、「つながれない」。

 〈世界とつながっていない感覚が高じて、「はたして自分の感じていることは本当にあるのだろうか」と自分の感覚に確信が持てなくなり、「そもそも自分は確かに存在しているのか」「自分は何者なのか」という実存感覚まで危うくなっていく。にぎやかな情報の渦に溺れ、あふれる刺激の大海によりどころなく漂う私は、ずっと、とても、孤独だった〉p.42

 アスペルガー症候群という名づけを得ると、自分のことが客観的に分かるようになり、仲間にも出合い、少し生きやすくなる。それでも、その名づけに違和感を覚える。

 〈そもそも「アスペルガー症候群」の名づけの定義である自閉症の三つ組の特徴、すなわち「①相互的社会関係能力の限界 ②コミュニケーション能力の限界 ③想像力の限界」という専門家の言説はいかがなものか。なぜこの障害の定義は、外から見た判断を基準としているのか。「相互的社会関係能力」や「コミュニケーション」は二者の間に生じるものなのに、なぜその限界を一方のせいにできるのか。いったい「誰が」困って、これを障害と定義したのか〉p.92

 また、当事者コミュニティにも、ある種の抑圧、居づらさを感じるようになる。

 〈差異を過小評価すれば個の抑圧につながるし、差異を過大評価すれば連帯が損なわれる。いずれの場合もコミュニティに窮屈さや息苦しさを覚え、結局コミュニティを去り、ふたたび仲間も支援もない孤立した状態になってしまいかねない。ここで私たちは「違いを認めたうえでなお、つながる作法とは何か」という問いを抱えることになる〉p.99

 ここまで来ると、綾屋氏らの問いは、障害を超え、広くこの社会の抱える問題と地つづきになっていると感じられる。

 抱えられた問いは、「浦河べてるの家」、「ダルク女性ハウス」の実践に導かれ、当事者研究という形をとるようになる。それぞれの当事者ミーティングでの体験は、「つながりの作法」の模索に向かう。

 「つながりの作法」とは、つながりは更新されつづけるということを知っている人が増えることだと感じる。感じ方、見方が共有される、共感される、そしてそれらはつねに更新されている。互いの違いを認め、おいてけぼりを感じている人も認め、感じ、考え合う。

 それでも障害による生きにくさ自体は変わらない。

 〈弱さは終わらない。痛みの記憶は消えることはない。でも痛みが静かな悲しみに変わるということはありうるのかもしれない。それにはきっと何十年という月日がかかるだろう。それまでのあいだ、自分が話すときに相手の顔を見なくてもよく、相手が話すときにあいづちを打たなくてもよく、同じ話を何回も繰り返し話してもいい場所が、私には必要だ。それはこれまで「フツー」の世界で教わってきた「正しいコミュニケーション方法」とは正反対だ。これまで「フツー」の世界のなかで「居場所がなくてつながれないなあ」と私が思ってきたのは、無理もないことなのかもしれない〉p.212

 このお二人の身体感覚を、想像力によって体験してみたい。また、今年2月に出版された『当事者研究の研究』も読んでみたい。

001

(見て、触れて、感じて)

La frontiere de l'aube 愛の残像

 La frontiere de l'aube (2008). Philippe Garrel

 静かで優しい映画である。

 キャロル(女優)とフランソワ(雑誌カメラマン)の愛は、切なく、苦しい。互いの魂に触れ合いながら、水が砂に浸み込むように、少しずつ拡がっていく。

 キャロルが薬物で亡くなった後、フランソワは鏡に彼女の亡霊を見るようになる。それは彼の心が生み出したのだろうか。

 彼女を思うゆえに、生きていた時のことを後悔するように。

 あるとき彼は知った、本当は、彼女こそがすべてだったのだと。だから、自らも後を追うしかなかった。

 後を追わない新しい生は、彼には意味をもたらさなかった。ヒースクリフを思うキャサリンのように。

 だから、映像は彼を労るように優しい。記憶の一つ一つをなぞるように、キャロルのしぐさを写真のように切り取り、再現する。

 フランソワは、再び彼女に会えただろうか? 何より、彼の思いが、この世には大切なもののような気がする。

 人のそのような思いの一つ一つが、この世を純化しようとしている。

 夜明け前の僅かな光のように。

003

(静かで優しい)

 

 

 

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