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2013年5月

それでもやっぱり私ではない

 考えているのは、やっぱり私ではない。

 それが私である時、考えるとは言わない。

 考えるとは、あらゆる先入、固定観念を溶解し、つくり変える動き。

 私はそれでありたい。けだしそれでありたい私をも消し去る動きである。

 それは無ではなく、生命そのものである。生命のあたたかさそのものである。

 2人の間に生まれ、流れはじめる何かである。

 それは夢とも、天使とも呼ばれる。

 それを受けとめること。

 それは一瞬にしてどこまでも拡がり充ちるもの。

 逆巻く水に飛び込むこと。

 その流れを感じること。

 私は私ではなく、つねに生まれようとする何かである。

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(いつもいっしょ)

それでもやっぱりがんばらない

 鎌田實(2008).それでもやっぱりがんばらない.集英社文庫

 鎌田實という一つの魂のこの世での遍歴が書かれている。

 とてもいい魂である。生まれ落ちて僅かな時期に受けた傷を芯に抱えながら、それを克服しようとして、精一杯の努力をされて来た、その姿が素直に綴られている。

 人に優しくしたいというのが、彼の根底にある。それは紛れもない真実である。そのために、医者を志し、医者となってからは地域の医療、福祉のために精力を注いでこられた。さらに、チェルノブイリ、イラン・イラク地方の被爆者の子らのために、命と希望を育むために活動をされている。貴い魂であると感じる。

 さまざまな患者、家族、医師、思索家、演奏家、画家との出会いが、その人々の持つ優しさが、彼を支えてきた。だから、さらに恩返しをするためにも、人に優しい医者でありたい、人でありたいと願う。がんばっておられる、それでもがんばっているという自覚は持たれていない。がんばらない。「それでもやっぱりがんばらない」。

 支え合うということを、本当に大切にされている。人の持つ可能性(希望)を感得されようとしている。出会いにより流れはじめるその人との時間、心の変容を楽しまれているのだろう。

 私も、そのように、出会いにより生まれる何かを大切に、保持しあたためつづけたい。それを言葉にし、詩にし、さらに精錬したい。

 鎌田さんは、人が生きていくのに「家族のようなもの」が必要だと言う。

 「家族ってなんだろう。

 家族は、あるものではなく、つくるもの。

 家族の役割は、命を宿すこと、命を育てること、命を支えること、命を看とること、そして、命を葬ること。さらに死んだあとも、その命を忘れないこと」p.269-270

 老人保健施設も、「家族のようなもの」であっていいと言う。

 私もそう思う。いろんなかたちの支え合いが、この世には必要だ。そのかたちをつくりつづけていくことが大切である。

 今度、6月2日からの「鎌田實と行くドリームフェスティバルinハワイ」に参加する。それで、この本と『がんばらない』を読ませてもらった。読んで、とても愉しかった。

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(きれいに咲いたね)

家守綺譚

 梨木香歩(2004).家守綺譚.新潮社

 主人公の名は綿貫征四郎、新米の精紳労働者で、収入が覚束ない。そこへ、高校の時に亡くなった友人の高堂の家の人から、留守の間の家守を頼まれる。渡りに舟。その家での1年余に亘る暮らしぶりが語られる。

 家にはさまざまな植物の生える庭と、湖からの疏水を引いた池がある。庭の百日紅から懸想されたり、亡くなった高堂が床の間の掛け軸から時々現れたり、なついてきたので飼うことにした犬のゴローに助けられたり、河童が池に迷い込んだり、小鬼がふきのとうを摘んでいたり、桜の花から暇乞いをされたり、山の和尚と碁を打ったり、信心深い狸を助けてあげたりetc.、自然の「気」たちと触れあう様が描かれる。

 そこでは交歓が自然と行われている。その家(場所)が良いのかもしれない、あるがまますべてを受け入れる征四郎の性質も一役買っているのかもしれない。ゴローは「仲裁犬」らしいのだが、征四郎も、自然の「気」たちを無意識に「受容」することで、そこに流れを生みだしている。

 受け入れる、聴く、という創造性。

 そこにある感受性。

 征四郎の性質はまた作者の性質でもあるのだろう。文体が優しく、あたたかく、人の心にすっと入ってくる感じがする。心が自在なのだろう。同じ作者の『西の魔女が死んだ』の映画を見た時も同じ感覚を持った。

 とても良い本だと思う。一番、かもしれない。

009

(こんにちは)

他者

 私と共に、私の意思とは無関係に存在する意思を「他者」と呼ぶ。

 それはこの宇宙に遍く存在しているのかもしれない。

 例えば、大学時代の私の師は死の刻に私の夢に現われたのだが、そのような、私にとって「不意の何か」である。

 ある春の日、桜の木の傍に立っていた時、その木から何かを語りかけられた。温かく、優しげなその声の主を、やはり「他者」と私は呼んでいる。

 また、大切なものは目に見えないんだよ、と言う時の「大切な何か」である。

 自己もまた、遍く拡がっている。しかし、自己には「それは私だ」と感じられる親しみやすさがあるのに対し、他者は決して姿を表そうとしない。

 さらに言えば、詩を書くとき、書いているのは私ではなく他者である。これは、詩作する者なら誰もが実感することだろう。

 大切な他者を育むことが、生きることである。

003

(4.15 ウェル戸畑 にて)

 

 

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