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2013年2月

詩を読む会(29)

 続けて、十歳の頃の母の記憶を辿って書かれた詩と、母への手紙の形をとった高校生の詩を紹介しよう。

 

  

 

 うす暗いふりしきる雪の道

 喀血した母の薬を

 死なないで死なないでと

 足音立てて叫ぶ十才の日

 

 黒板の文字が

 友の顔が何も見えない

 赤く染まった母の顔が浮かぶ

 家路にたどり着くのが怖い

 

 白い雪と赤い血に染まり乍ら

 吹きすさぶ吹雪に耐え

 いばら道をしのぎ

 命をつなぎ永らえて

 母は生きた

 

 生と死のはざまで

 朝と夕を迎え

 果敢に生きてきた

 母に何といおう

 

 

  わど母っちゃの十七年

 

 昭和六十三年三月十五日

 まんだ新しい命が一つ生まいだ

 生まいですぐ

 ほがの病院さ運ばいだ

 そのどぎはみな

 どごさでもいるわらしだど思ってだ

 あるどぎ母っちゃが異変さ気付いだ

 なへ立だねんだべ

 不安な気持ちど

 わらしどば抱えながら

 病院さ向った

 母っちゃはたげショックだったびょん

 自分のわらしが普通でねぇことに

 そったどごは一つもめへねんで

 笑ってめんどう見でけだ

 小学校さ入学

 近くの小学校さ行がいねはんで

 母っちゃ朝ま四時に起ぎで

 毎日青森の学校さ送ってけだ

 弁当も作ってけだ

 その弁当残せば

 担任の先生さ叱らいだ

 おはようございますの声

 小せって叱らいだ

 おかねくて

 おかねくて

 学校さ行きてぐねって

 ごんぼほった

 したばって

 学校さ行きてぐねぇ本当のわけは

 立つ訓練だった

 何回もおけて

 何回もコブこしらえで

 涙こ流し

 歯くいしばった

 母っちゃはいつも

 頭さすって

 褒めでけだぎゃ

 よぐ頑張ったなって

 そういえば

 恐竜の絵がかけなくて

 夜遅くまでのごさいだこともあったな

 母っちゃあの時も

 なんも叱ねがった

 あんなに夜遅がったのに

 早ぐ家に行ってママくべって

 しゃべた

 中学さなって施設さ入った

 初めで親がら離れでの生活だ

 今まではみな母っちゃさやってもらってだ

 だはんでなもでぎねがった

 布団をたたむことも

 配膳することも

 こったのもでぎねんだがってしゃべらいだ

 バガくせ気持ちと

 家さ帰りて気持ちで

 いっぱいだった

 しぜんと涙っここぼれできた

 あんた赤ちゃんだがってもしゃべらいだ

 バガくせくてバガくせくて

 毎日涙っこ流しながら

 母っちゃさ電話した

 家さ行きてじゃって

 母っちゃは

 後二日だよ

 後一日だよ

 けっぱれって

 励ましてけだ

 そうやって支えられで高校さ入った

 したばって

 なんもやる気ねがった

 授業中はぼげっとしてるし

 ふとの話はなもきいでねし

 寄宿舎さ帰っても

 洗濯はやね

 そうじはやね

 なもやねがった

 先生さしゃべらいれば

 腹立った

 それでもやねがった

 たまに家さ帰ってくれば

 母っちゃさあだる

 さしねじぁこの

 だまってながって

 それでも母っちゃは叱ねがった

 わは自分が

 なさげなぐてなさげなぐて

 本当は違うごとしゃべりてぇのに

 

 母っちゃ

 わ

 東京さ行ぐ

 目標見つけだじゃ

 母っちゃ不安みてだばって

 わは行ぐつもりだ

 これがらも迷惑かげるがもわがねばって

 まずは一区切りつけで感謝する

 母っちゃ今までどうも

 こごまでおがったのも母っちゃのお陰だ

 いつもありがとう

 

 はじめの は凝縮された文に込められた女の子の不安や怖さ、母への思いがよく伝わってくる。いい作品である。わど母っちゃの十七年 は、わが子のことをよくわかっていて、やさしく接してくれた母への感謝が、詩の初めから最後まで漲っている。これも思いがよく伝わってくる作品である。

005

(みんなでハイチーズ)

 

 

詩を読む会(28)

 次は今回初めて参加された方の作品。インスピレーションにより言葉が浮かんできたという、初めての歌詞ではない詩 虹の約束 と、最新作 アヴァンギャルド

 

 

  虹の約束

 

 みんなで支えあって

 みんなで助けあって

 

 ひとつのサークルを思い浮かべる

 

 赤いサークル

 そこには失われた点があって

 不完全なまま

 

 失われた点の外側には透明な点があって

 時々キラキラと緑色に光る

 その緑色の光を僕は美しいと思う

 

 鮮やかさに熱に怯やかされ

 美しさの秘密を知りたくなる

 

 その緑色の光を放つ

 透明な点になりたいと思った

 いつか

 いつでも僕はなれると思うし

 もうなっているのだろう

 

 あなたは

 懐かしい湖の底に

 手で掬えるくらいに

 それはあるから

 足踏みしているだけ

 合図を待っているのだろう
 

 透明な点と点を結んだら

 もっと大きくて

 にぎやかなサークルになるはず

 

 そのサークルの上でまた出会えたら

 虹の約束を交わして

 今度は外側に向かって

 

 

 

  アヴァンギャルド

 

 君は君のままでいい

 そう人から言われると

 とても怖い

 私は私のままでいい

 そう想えたら

 本当にいいのだろうか

 海の青は空の青よりも深い

 私は私のままでいい

 祈りは空に捧げられ

 罪は海に排泄される

 空はどこまでも抽象的で

 海はいつも具体的だ

 私たちはその宙間を

 漂い、彷徨いながら

 何かを少しずつ失いながら

 そっと生きている

 

 今回はプリントアウトされていなかったので、目で読まずに朗読だけを聞いた。すると、虹の約束 ではとても豊かなイメージを得た。緑色の光がキラキラと美しく輝いた。アヴァンギャルド もとても素直な作品で、聞きながら、沢山のことを想像することができた。いい感性、作品だと思う。 

001

(海の青と空の青)

詩を読む会(27)

 今日、詩を読みましょう(第10回)を開いた。いつものように、読まれた詩の一部を紹介しよう。

 先ずは天野忠さんの作品から

 

 

  夫婦

 

 四十五歳のお前が

 空を見ていた

 頬杖ついて

 ぽかんと

 空を見ていた

 空には

 鳥もなく

 虹もなかった

 空には

 空色だけがあった

 

 ぽかんと

 お前は

 空を見ていた

 頬杖ついて

 それを

 私が見ていた。

 

 

  テスト

 

 鉛筆を指して

 ――これは何ですか と医者がたずねている。

 ――エンピツです。

 見るからに気の良さそうな

 七十八歳の老人が答える。

 掌の上に煙草をのせて 

 ――では、

    これは何ですか ときく。

 花咲爺さんみたいな顔をして

 しばらく思案してから

 呆け老人は答える。

 ――エンピツです。

 

 さっき見たテレビの医者そっくりの口調で

 ――これは何ですか と女房がたずねる。

 ――これは私の愛用の湯呑です。

 ――では、と自分の顔を指して

    この人は誰ですか ときく。

 花咲爺さんみたいな顔をして

 しばらく思案してからハイ、と私が答える。

 ――それは私の愛用のおばあさんです……。

 

 

  糊

 

 だれでも

 あんまり年をとると

 ぼんやりする。

 お釈迦様でも

 キリストのような

 人間であって人間でないような

 そんなでっかく偉大な存在であっても

 あんまり年をとれば

 やっぱり

 ぼんやりしただろうと思う。

 何故ぼんやりするか

 (世間ではそれを呆けるというが)

 水は物質で

 火は現象であるというふうに

 人間が物質と現象とから出来ていて

 それがどちらかに分離していくために

 分離しながら

 どちらもすりきれすりきれして薄く弱くなっていくために

 人という人は

 年をとるにしたがって

 ぼんやりしていくのではないか

 と、このごろ

 ぼんやり

 私は考えるのである。

 それにしても

 物質と現象とを

 しっかりくっつけていた

 糊のようなものは

 あれはいったい何であったのか

 と

 考えると

 そこから そのへんから

 もっともっと

 私は

 ぼんやりしていくようである。

 

 天野忠さんの詩は、どれも年をとることを楽しんでいるような趣がある。若い人にはないユーモア、感性に溢れている。それはどこから来るのか? ではぼんやりしていくことを肯定的にとらえている。頭で考えるのではなく、身体全体、あるいは身体を超えで感じとる。そこがいい。その感じ方が、天野さんの生き方であり、詩作である。

019

(ぼんやりと空を見る) 

嘆きのピエタ

 愛する息子が死に至る。母親は復讐を果たそうとする。

 息子が死んだのは借金の取り立てによる。母親は、その取立人への復讐を企てる。

 その復讐とは、肉親の死を味わわせるということ。そのために、母親を知らずに育った取立人の母親を名乗り、信じさせ、情愛を植え付けた上で、自らは取立屋に殺される、という筋書きを用意する。

 物語はほぼ筋書き通りに進行した。しかし、それは復讐にならなかった。

 母親自身は、取立人に愛を持ってしまったのだ。

 取立人も、母親という愛を知ることになる。それは彼が生まれて初めて知る幸福だった。自身の中に愛情が生じたということが、彼にとっての幸福である。

 その幸福を知らせてくれたのが、復讐のために近づいた母親と名乗る女だった。

 女は、亡くなった息子に着せるセーターを、復讐する相手の前で編み続けた。

 物語の終り、投身する前に「なぜこんなに苦しいのか」と女は独白する。母さんを殺さないで下さいと拝み縋る息子役を眼下に見て。

 息子役に情愛を齎し、母親役にそのような切ない感情を与えたのは、神の慈悲であると、映画は語る。

 さて、復讐を試みた女はどの瞬間から取立人に愛情を抱いたのだろうか?

 それは、じつは復讐に内在していたのではないか?

 復讐とは恨みを晴らすことである。しかし、本当のところ、その行為自体とは、相手への慈悲ではないのか?

 本当に憎むのなら無視するだろう。

 復讐とは? 人の行為であるなら、必然的に善を目指す。復讐という名の、それは愛である。だから彼女は切なかったのだ。

 復讐は、果たされることは、決してない。物語は、激しかった映像とは裏腹に、静かに終わる。人々を優しく包み込もうとするかのように。

016

(夕暮れの海辺で) 

澪の街に

 私たちの街の 見えない水路に

 巨大な魚が泳いでいる

 音もなく

 きらめき たゆたい 

 知らぬ間に降りつもる雪のように

 この世界の奥へと向かう

 

 鰯の群れのように きらびやかに舞うのではなく

 時おり背ビレを風に当てなどして

 遠い過去へと向かうかのように

 柔らかな水に同化してゆく

 

 よりそってくれているのか

 いつもは姿を隠し

 ふいに漣のようにやって来る

 

 推移しているのは 時か 思いか

 空が水を欲するように

 すべては背景になじもうとしている

 

 溶け合いたいのか

 際立ちたいのか

 おそらく 街の隅々に

 散る花びらの回転の中に

 軒先にかかった藁屑の翳に

 息を吹きかけていたいのだ

 

 ここにも

 ほらここにも

 数かぎりない物たちの

 命になろうとしている

034

(海辺の神社にて) 

 

 

心理によりそう

 2月2,3日と9,10日の4日間、大分県盲ろう者通訳介助員養成講座を受講した。

 とても良い講座だった。ここでは、内容の一つ一つを説明するより、自分にとってもっともためになったことを記しておこう。

 それは講師の杉浦節子さんからの一言。これから通訳介助を利用しようという時、どうすれば良いかわからないでいる盲ろう者に、どうしたら良いかをいっしょになって考えてあげられる通訳介助者であってください、ということ。

 それは心理によりそうこと。

 盲ろう者の人格を尊重する、それは当たり前である。状況説明も過不足なく、身体動作も臨機応変に、合理的に行う。

 その根底にあるのが、心理によりそうということ。

 利用者はいま何を感じ、考え、どうしたいのか? 何を不安に思い、何は問題でないのか? それらを感じとること、知ること。その能力を身につけることが、私たちに課されている。

 利用者の心理とは他者である。そこに近接し、対話を試みる、ともに歩んでみる、それは何と貴い瞬間なのだろう。

 思考を尽くし、利用者に「また外出したいな」と、感じてもらえる通訳介助者でありたい。

011

(この空の感じをどう伝えよう)

 

 

 

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