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2013年1月

アミーバーの心

 「神と共に、神の前に、神なしに生きる」と、誰かが言っていたけれど。

 私は何と言おう、つねに私と共に在るそれを。

 生きるとはそれと共に在ることである。

 時間を超えていることである。

 過去は過去ではなく現在である。

 未来は未来ではなく現在である。

 波や風、夜、星は、ずっと以前からの宇宙の営みを湛えていて、そこにある生命そのものは時を超えて存在している。

 「亡くなった誰かがつねに傍にいる」という感覚と近いかもしれないが、そのような人格として在るのではないし、それは亡くなってもいない。

 その人をその人たらしめているものではなく、誰にも在るもの。

 日本画家の高山辰雄はこう言っていた。

 「原始時代よりもっともっと前から生物本然の何かと共通したあるもの。地上に生をうけた時の心、アミーバーの心とでも云いたいもの」

 「触れられるけれど、触れていると恐ろしい気がします。それでも私はそれをじっと見つめていたいのです」

 彼はそれを画きたがっていたし、たしかに画けていた。

 彼の画く道も、森も、空気も、菫も、白菜も、すべてがそれであった。

 (その意味ではリヒャルト・エルツェの画にも近似していた)

 ある人はそれを聖霊 spirits と呼ぶのかもしれない。

 それを護り、それと対話する。

 生はよろこびに満ちている。

013

(ゆふの丘プラザ)

高山辰雄

 昨日NHK「日曜美術館」を見た。

 新聞のテレビ欄には「命とは何かを探究した日本画の巨匠」とあった。

 彼の描きたかったのは個々の事物と宇宙との一体感だと、番組を見ていて感じた。

 人物や動物と周囲との境界がぼやけてゆく。画くほどに、年を経る毎に。

 生きるとは宇宙に溶け入ることであると、言っているようだ。すべてと交感することであると。

 生を愛しむかのように高山は画きつづける。それが彼なりの交感である。

 分子生物学者の福岡伸一氏は、そこに時間の流れを見ていた。画の中に、過去と現在と未来が同時に現されていると。それは福岡氏ならではの見方なのだろう。

 私は、私ではない私を想起する。

 画かれた犬は、もはや犬ではなく、そこにある何かである。そこに思考している物である。黄色い服の少女も、すでに少女ではなく、何か(something)である。そのような無名の何かとして私たちはある。やがては水や炭素に還元されてしまう何物かとして。

 しかしそれは思考する。見、聞き、感じ、どこまでも思考しようとし、思考を生き、人知れぬ崖の端に咲く花のように、不意にある場所に自らを見出す。

 風景に溶け入ろうとし、芯のように定位する物は、じっと何かを感じ考えつづけている。

 それは、何か?

 私たちは、それに促され、寄り添い、対峙し、またそれなしに生きる。

 高山もまた、その「何か」を感じていたに違いない。

 高山辰雄展は、2月3日まで、大分市美術館で開かれているらしい。

004

(大分市東浜にて)

指や手で伝わった大きな愛情

 今朝の毎日新聞「みんなの広場」に良い文章があったので、ここに載せておこう。投稿者は西東京市の中学生。書かれた内容が、とてもよくわかる感じがした。

          *          *          *

  指や手で伝わった大きな愛情 

 先日、私がエレベーターに乗ったら、あるおばあさんが急いでいたので少し待って、一緒のエレベーターに乗った。私はいつも通り「こんにちは」とあいさつをしたが、おばあさんは返してくれなかった。少し嫌な気持ちになっていたら、いきなりおばあさんは私の方を向いて軽く手話を始めた。その時、このおばあさんは耳が不自由なのだと分かった。私は手話ができないから首をかしげているとおばあさんはエレベーターの壁に指で「ちゅうがくせい?」と書いた。私がうなずくとおばあさんはにこっと笑った。そしてまた軽く手話をして会釈をしておりていった。

 この時、私は口にだして言うよりも、このおばあさんとした壁や手を使った会話の方が何か大きな愛情のようなものを感じた。あのおばあさんが最後にした手話は、多分「ありがとう」だと思う。このような、物を使った表現は普段よりも大きな愛を感じるので私も使ってみたい。

          *          *          *

 私も、手話を使う人たちと会話をすると、同じように愛情のようなものを感じる。顔や全身を使って気持ちを表現するからかもしれない。ある話し合いの場では、あるろう者の方が、「年配の方の手話は私たちの大切な財産だ」とも言われた。そこには、良い人の関係がある気がする。

 良い感性に出会えてよかった。これからも、楽しく手で話したい。

011

(ぼくも手で話すわん)

五行歌

 今日、NPO法人「あっとほぅむぷれいす」のぴあサロンに参加してきた。

 内容は、五行歌を書きましょう! 講師に山尾素子さんをお呼びし、五行歌とは何? という説明を受けた後、鏡開きの栗ぜんざいを食べ、さあ創作。

 五行歌とは、五行で書かれた「うた」で、とくに決まりはないらしい。1994年に草壁焔太さんによってはじめられ、現在は全国に10万人の愛好者がいるとこのこと。月刊誌も刊行されている。

 もらった資料にうたが載っていた。たとえば

 

  生きることが

  そのまま

  あなたへの恋文となる

  そんな一生で

  ありますよう

 

  おれも

  おめも

  自分だげ えばえ

  そただ生き方

  してねよなあ

 

  あっ

  春

  風の

  芯が

  まるい

 

 なるほど、自由に書かれている。歌会では人気投票もあるらしい。上手な人でも、先生でも、点数がもらえないこともあるらしい。みんな平等、というところが良い。

 今日の「うた」の発表でも、みなさんとても良い作品を書かれていた。自由な発想、思いつき、気持ちのこもったもの、その人らしさが出ているもの、そういうのが良い、面白いと感じた。

 ちなみに私の作品

 

  「久しぶり」って

  なん年ぶり

  なん日ぶり

  なん秒ぶり

  もしかしてはじめて?

 

  体育館よこ

  砂のプリン

  ならべる

  いくつも いくつも

  いつまでも

001

(ぼくも書きたいわん)

 

  

薔薇の葉の香り

 冬なので、薔薇の剪定をした。

 あたたかい日差しの中、紅い芽の上側に鋏を入れる。切る毎に、仄かに香りがしてくる。

 剪定が終わっても、香りが辺りから消え去らないので、掌を嗅ぐと、花の匂いがする。切り落とした葉を集めてみると、もっと強い匂いがする。

 薔薇は葉っぱでも匂いが強いんだと、新たな発見。秋に桜の落葉を集めたときも桜の匂いに満たされた。↓

 http://fleurs-au-vase-jaune.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-f59a.html

 生命の香り。生きていくことにともなう意思のようなもの。

 そういえば、M.プルーストは『失われた時を求めて』の中で、匂いから喚起される幼い頃の記憶を鮮やかに描いていた。

 匂いは記憶を呼び覚ます。一瞬にして、遠い時空の。

 生命は、何の記憶を想起しようとして、ここに在るのか?

 薔薇は薔薇に在り、薔薇でなかったときの自分を思い出そうとしているのだろうか?

 思い出したい! 強い想念が匂いとなり、香りとなり、他者の身体と心に届き、ときに共鳴して、一つの小さな宇宙を生みだすのかもしれない。

 蹲る記憶。さらに広い時空に至ろうとする。その行き来を、生命と呼ぶこともできるかもしれない。

 集めた葉を部屋にあった篭に入れて、机の上に置いた。部屋に、薔薇の香りが拡がった。手にもまだ残っている。

002

(自然のアロマテラピー)

 

 

重力ピエロ

 2009年。原作:伊坂幸太郎、監督:森淳一。

 人はさまざまな不遇や悲しみの中で生きている。それに押しつぶされてしまうとすれば、重力のせいだ。

 しかし、人に喜びを与えるピエロは、重力などまるで感じないかのように軽々とした身のこなしを見せる。子どもの頃間近に見た煌めく映像。

 不遇はだれのせいでもなく、世間のせいでもなく、自らの心の在り方だった。そのことに、春はいつ気づいただろう? 壁にグラフィックアートを画きながら? 生家に火をつけたとき? それよりずっと以前に、自分の絵の才能に気づいたとき?

 人からどう見られるかではなく、自分がどう考えるか? それがどう生きるかということだ。その考えは、幼いころから人に蔑まれて生きてきた春にとっては、自然と身に着いたことではなかっただろうか?

 「自分で考えなさい」。途に迷ったとき、春のお父さんは神様に相談しようとして、神様にそう言われたらしい。

 その通り。「あなたが見たいと思う世界の変化にあなたがなりなさい」(ガンジー)。映画はそうも言っていた。

 春のしたことは正しかったか? 春は、正しいとは思っていないだろう。身を苛むほどに苦しいのに違いない。それでも、やらざるを得なかったからやった。

 春には泉水という兄がいた。「どちらも spring」。

 分身のような存在。苦しみも悲しみも、分かち合いたいと願う。見守っていてくれなくても、分かってくれなくてもよかったかのしれないが、兄はいつも見守り、理解してくれた。同じ場所で、同じ時を過ごした、もうひとりの私として(本当は、まったく別の人格なのだけれど)。

 背負い、苦しみ、それでも少しずつ希望を見出して、やがてはあの軽やかなピエロになることを夢見て、春は生きていくだろう。目に見えるこの世界は光に満ちているのだから。

http://www.youtube.com/watch?v=5KZffS5qKrc

009_2   

(Spring has come!)

 

 

生きてこそ

 今日の「NHKのど自慢」(岩手県大船渡市)で、19番の助産師志望の女性が歌った曲。1度聞いて良いと感じた。

 (2005年、作詩:玉城千春、作曲:Kiroro、編曲:重実徹)

 「ママ 私が生まれた日の 空はどんな色

 パパ 私が生まれた日の 気持ちはどうだった?」

 と、はじまる。そのはじまりの風景が広く澄んでいて、世界が祝福されている感じがする。生きているとは何に触れること? 何と対話すること? そういう問いかけを促す広がりがある。

 さまざまな出会いを受け入れて、数多の困難に心を砕きながら、私たちは生きている。それが、生きることである。

 「生きてこそ 生きてこそ その根は深く 太く 強く」

 と、おわる。深く実感される言葉である。「生きてこそ」と聞く毎に、異なった情景が現われ、異なった意味が感じられる。

 それは、けっして「生きたい」と言っているのではなく、生きているとはそういうことなのだと、論理的に語られている気がする。

 それははじまること

 それは空の色を感じること

 それは気持ちをたしかめること

 それはキセキを重ねること

 それは無限に羽ばたくこと

 それは拡がってつながること

 「青のじゅもん」、「未来へ」同様、素直な歌声の中にいろんな思いが秘められていて、それらがしっかり心に届いてくる。

http://www.youtube.com/watch?v=PrRyJBo7VEw

012

(おもちのようにふくらんだ光)

 

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