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2012年12月

イチロー

 一昨日のNHKのドキュメント番組「240日の記録」を見て。

 今年の夏、ニューヨークヤンキースに移籍してからもあまり打てない日々が続いた時のこと。イチローは、以前の「魔法の杖」と呼ばれていた時と同じように、簡単なボールを打たずに、難しいボールを打とうとした。なぜ?

 それは生き方の問題なのだと、彼は言う。今まで自分はそうしてきた。だから、そのやり方を変えるのは、今までの生き方を否定することになるのだと。

 自分の感性と技術で勝負をする。それは、相手投手の最も得意とするボールを打つということで、失投を打つということではない。それが彼のスタイルである。それを変えるのではなく、愛着のあるグローブやバットと同様に、大切にする。それが彼であり、彼の生き方である。

 その考え方(生き方)はどこから来るのか。はじめからそのように考えて生きているような口ぶりである。

 物を大切にし、今ある自分のまわりのすべてを愛し、それらといっしょに生きていこうとする。

 それはあたりまえのことだと、彼は言うだろう。

 僕は勝負をしたいんです。だから難しいボールを打つ。あたりまえのことですよね。そのために可能な限りの準備をするんです。

 最後の場面。野球発祥の地にある記念館で、彼はベーブルースのグローブを手にして、少年のように目をかがやかせる。好きなんだな、本当に好きなんだな、と思う。

 来年のイチローが楽しみである。

 彼はどのように生きるか。それを感じられることが。

013

(大切な日々の中で)

 

詩を読む会(26)

 つづけて持ち寄られた作品の紹介。

 次の詩は、岡山で中学校の英語の先生をされていた詩人、井元霧彦さんの詩集『人間の学校』より。

          *          *          *

  人間の学校 その24

 始祖鳥の肉の味はもう忘れた

 恐龍の肉の味ももう忘れた

 火の接吻

 火のような逆上を経て

 家族になって

 灯火の下に集まってみた

 

 あれからずっとやって来ている

 この世界の子供たち

 何千億のなかに

 わたしも入っている

 

 ただ今現在

 子供をしている物が

 このわたしに

 おいデブ

 おいブタ

 イモデブ

 デブは嫌いよ

 顔を見ながら笑っている

 豚はふとらせて食べるくせに

 わたしの突き出た腹に

 ゆっくりていねいにパンチをくり出し

 なんだこれは

 それが中学生の挨拶だ

  

  人間の学校 その26

 あなたは

 雪が音もせずはらりはらりと降る夜

 戸のない物置小屋の

 牛のための切り藁の中にもぐって

 叱られて家を追い出された口惜しさも忘れ

 振る雪のほかに考える人はだれもいない

 七歳の冬を眠ったことがありますか

 

 あなたは

 夜道を歩いたことがありますか

 山にかこまれた夜目に白い一本の道を

 灯のともる家々の窓を見ながら

 暗い水をたたえて光る水源の湖まで

 

 そして

 死ぬ勇気もないのに死にたがるふりをする自分を

 哀れに情けなく思ったことがありますか

 

 私はまだ十分な人間になれないので

 ときどき昔の少年を呼び出し

 涙とともに私の魂をいたわってやります

 

  人間の学校 その31

 とうとう妖怪になった

 学校のあちこち

 下足置場 校長室 職員便所 廊下 屋上

 私は妖怪になって

 楽しくゆったり遊べる場所をさがしてみた

 今日は敬老の日だれもいない

 昨日の授業中に

 勉強ぎらいの生徒が寝ころがっていた廊下に

 私も横になってみた

 冷たくて気分がよかった

 屋根に跳び移る真似もしようとしたが

 怖くてできなかった

 

 うちの子は学校へ行っているでしょうか まじめに授業を受けていますか

 学校は勉強しに行く所です

 ふつうに高校へ行ってほしいのです

 つっぱっても何の得にもならないのに

 先生 どうしたらよいのでしょう

 主人はまじめによく働く人ですのに

 

 学校へ行け 学校で勉強がわからなくなったら塾がある

 とにかく学校へは行きなさい

 と言われつづけて教室の中がいやなになった生徒は

 妖怪になって校内を彷徨うしかないのだ

 

          *          *          *

 こんな先生に習ってみたかったと、素直に思う。井元さんは人間を見ている。妖怪も見ている。哀しみを見ている。その彼に、中学の生徒が無邪気に笑いながら付き合っている。互いの人間を見て、うれしそうにしている。

002

(光のこどもたち)

 

詩を読む会(25)

 今日12月22日(土)、窓外に小雨の降る中、「詩を読みましょう(第9回)」を開催した。

 いつものように、読まれた詩を紹介しよう。

          *          *          *

  紫野 

 迷った男が泊まっていると

 いくぶん女を取り戻し

 床を抜けると米をとぎ

 十年むかしの菖蒲の皿を思い出しては探している

 さびしいですかと尋ねられれば

 臆面もなくさびしいと

 云ってるそばから蠅を捕らまえ

 老婆へと老婆へと移り変わって暮らしてゆく

 こらえきれないわけではないが

 もう少し泊まっていくがいい 

 

  

 光はみえるのだろうか

 闇の中に突き進んだ時間

 それは取り返しのつかない闇

 一筋の光でもいい

 果てしない闇につぶやく

 

  手紙

 何故、君は人を信じるのか

 疑いは絶望のみを生み

 信じればこそ

 光がさすことを君は知っているんだね

 君の信頼に

 報いようとする

 僕らがいるよ              (パピーウォーカーさんのブログより)

 

  優しい冬

 金魚は凍てつく庭先の鉢の中で、2回目の冬を迎える。朝支度の台所の窓には藍色から青へのグラデーションを背景に、三日月と明星が神秘の光を放つ。

 職場へと走る車のフロントガラスの汚れが気になり、何気なくワイパーのスイッチを入れる。ウォッシャーの水はワイパーの動きと共に、あっという間にシャキシャキと凍った。

 来た。万物を懐に抱き、生命を蓄える冬が来た。青若い久住高菜も、この寒を越え成長する。冷たく厳しい冬は、水晶の瞳で遠くを見つめ、優しくほほ笑んでいるのだ。冬の次には、必ず芽吹きの春が来る。     (毎日新聞朝刊「はがき随筆」より)

          *          *          *

 紫野の情感の面白さ。はうつ病を再発した身内のことを思って書かれたもの。手紙は盲導犬候補の子犬に対して書かれたもの。優しい冬にある生命への親近。

 いずれもすばらしい詩である。生命を見つめている。感じられるそれぞれのまなざしに心の奥の方から力が湧いてくる。

 紫野という題は、万葉集、額田王の歌「茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」から採られたもの?

017

(やさしい雪だるま)

わたしを離さないで Never let me go

 2010年イギリス・アメリカ映画。原作はカズオ・イシグロ。

 寄宿舎学校へールシャムで育ったキャシー、ルース、トミーの物語。

 見知らぬ誰かの生存のために自らの身体の一部を提供する生とは何か? “介護人”として生きることを選べば、身体を提供しなくてもよいという。身体の一部を幾度か提供すれば、やがて個体の死に至る。

 その生を受け入れるために、寄宿舎学校の教育はあった。

 彼らは遺伝子操作医療によって生まれた“コピー”である。

 はじめから強いられていた生は、幸福という観念から遠いところにある。欲求さえも、できれば知らぬままに終える。しかし、どこかで、誰かと繋がっていたい気持ちはより強くはたらいたのかもしれない。

 どこかで、誰かと。

 どこかで、何かと。

 はじめから存在などしなかったかのような生は、親さえも知らず、ただ“あなた”とともにあることを願う。

 そのような生があるのなら、最善を尽くして、その生が全うされることを、私は願う。短い生の一瞬毎が尊いのだと思う。未知なる何かを感じようとして、自らをささげる。心は激烈な抵抗にあうだろう。引き裂かれ続けるだろう。それでも、誰かを愛そうとして、愛さずにはいられなくて、生きる。

 そのような生の記憶を、私は持っているだろうか。

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=LE9ny5VDt1c

004

(ある冬の朝に)

 

 

 

他者とともに在る楽しさ

 自分が年齢を重ねてきたせいか、まわりの年配の人に接すると、考え方が固定化している人が多いように感じられる。

 なぜだろう? 歳を重ねるほどに、いろんな考え方を身につけるのだから、頭はより柔らかくなるはずなのに。

 接していて感じるのは、おそらく多くの人が自己を肯定しようとするから、ということ。自己を守ろうとし、肯定する、すると必然的に考え方は一方向的になる。それが習慣化されると、考えはより固まってしまう。

 逆に、自らの考えを否定する人は、より他者の考えを吸収しようとする。その良さを、納得して、深く心に刻む。刻むほどに、自らの至らなさに気づかされ、さらに他者の声を聞く。そのような生を尊いと、私は感じる。本当は、あたりまえの生ではあるのだが。

 「成長するために」ではなく(自己啓発ではなく)、生きる必然として、そのようにして、他者の声を聞く。よく生きようとすれば、聞いてしまうのだ。

 聞かれた声は、心に反響し、できる限り心を砕こうとする。だれの心でもない心を。

 私のためでも、だれのためでもなく、心はただそれを欲している。

 見果てぬ夢を見ようとし、何かしらの違和に触れ、それを動かそうとして、動かされ、やがて深みに沈潜し、不意に異世界に生まれ出る。

 その楽しさを、人はもっと感じていいのではと思う。

 他者とともに在る楽しさを。

018

(ゆふの丘プラザにて)

 

 

 

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