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2012年11月

行人 夏目漱石

 夏目漱石(1913).行人.新潮文庫

 今からちょうど100年前に書かれた小説。

 最後の、長野二郎の兄一郎について書かれたHさんの手紙が最も印象に残った。その手紙は、二郎の一郎に対する認識に変化を与えただろう。

 一郎は理性によりどこまでも問い詰める人であった。だから、妻の性情のわからなさに懐疑し、弟に対しても不信の念を抱く。自分の感情に対してさえも。

 多くの人はそこを適当にごまかして生きているのだが(二郎のように)、彼にはそれが出来ない、だから苦しい、生きにくい。もっと鷹揚であったらいいのだろうが、それは彼の生ではない。彼は彼のようしにか生きられない。

 Hさんの手紙は、それでいいのだと、言っている。だから、あなた(二郎)はそんな彼を愛してあげなさいと。これは人間理解に対する一つの真理である。他から見て、著しく不器用に生きている人でも、その生き方はその人にとっての真実である。だから、まわりはその生き方を尊重してあげるのがいい。それで何の不都合があろう、むしろ、そのような人を慈しむことこそが大切ではないだろうか。互いにとって。

 ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』で、若くして死んだ主人公に対して、ある親方が「私たちはあの子に対してもっとしてあげるべきことがあったのではないでしょうか」と言うくだりがある。それがこのHさんの手紙に重なる。私たちは、彼をもっと愛してあげたらいいのではないでしょうか、と。

 夏目漱石の小説は、そのように、人間理解の視点に光をあててくれる。考えの足りない人、考えすぎて苦悩する人、慣習によってのみ生きる人。でも、いずれも愛すべき人たちである。作者は、だから同じように、彼らに等しく光をあてつづける。それでいいのだと。

 はじめはさまざまな人間模様に寄り添い、行きつ戻りつ、そうして次第に焦点を明確にしつつ、主題へと変調していく。その緊張感が漱石の小説の特徴である。

 後半に行き着く処は広い野原のよう。あとの解釈は読者に委ねる。だから、読んでいてある種の開放感を味わうことができる。味わい深く、心に一つの芯のようなものを与えてくれる小説である。

008

(どうぞよろしく!)

 

 

それから 夏目漱石

 夏目漱石(1909).それから.新潮文庫

 『こころ』同様、奥行きの広さを感じる。いつまでも心に残る作品である。

 それは主人公の意識の深さに拠るようだ。

 深さは、社会の慣習、制度や個人の利害(保身)による生に対して、主人公代助に意識されている「自然」の保持によると考えられる。

 多くの人は、現代においても、生きるために、食うために仕事をしている。しかし、代助は「生きるとは何か」を問うている。問うているから、その答えが明瞭に意識されないから、生きることができないでいる。

 生きることができないながらも、なおそれを問い続けている。

 問いの中から、不意に浮かび上がってきたのが、三千代への愛である。彼にとってその愛は「自然」である。そのためには世間からのどのような石礫も意味をなさない。石礫は彼をすり抜けるしかない。馬鹿と言われようが、狂っていると思われようが、そのようにしか生きえない。

 代助の生は、終焉に近づいただろうか。否、彼はそこに自身を賭けたのである。そこに生きることが、彼の生である。

 それではこの世は成り立たないと、人は言うだろうか。けだし、成り立たないかどうかは、生きてみなければわからない。人が可能性を求めて一歩でも進んで行く者を侮蔑するのは、彼が怖いからに相違ない。得体のしれない物に怯えているのである。

 代助は、おそらくだれの心にも存在するのだが、多くは意識されていない。

 悩みながらも、躊躇しながらも、「自然」を探り当てて生きる姿は、むしろ私たちの生の支えとなるだろう。彼もまた、そのように誠実に生きたのだと。そして、私は私の生を歩もうと。

 そのように、彼は私たちの心の底に降りてきて、いつまでも優しく寄り添っている。

002 

(浮かび上がるやさしさ)

 

こころ 夏目漱石

 夏目漱石(1914).こころ.新潮文庫

 罪の意識により生きる。その点でホーソーン『緋文字』に似ている(このブログの「緋文字 The Scarlet Letter(1850)」を参照のこと)。

 自らの罪を誰にも明かさず、それゆえ咎められることもない生き方とは、最も苦しい生であろう。なぜその生を選ぶか?

 贖いのためと、主人公は考えていたかもしれない。利己心のために友人の心に一撃を加え、死に至らしめた、その罪の意識はどう贖っても贖いきれない。だから、自らに解放を与えない生を辿るしかない。

 それは選んだのではない。そう生きるしか他に途はなかった。そうして、次第に精神は疲れ、生来の思慮深さもあり、厭世に生きる。

 人の心とは何か?

 罪の意識があっても、それを気にしないようにして生きる人もあるかもしれない。他のことに昇華する人もあるかもしれない。それは心を護ろうとするから。護ろうとするのは、その弱さが予め知られているから。

 しかし心はもっと広い。無限と言ってもいい。その予覚があるなら、突きつめるだろう、自分を際果てへと落とすだろう。主人公はそのような人で、若さゆえに友人Kの弱さに思い至らなかったから、一撃を加えたりもした。そして、その罪を自らの生として引き受けた。

 引き受けて、それを創作活動の原点として生きる術もあろう。作家のように。しかし、それさえもしない。ただ己れを責め続ける。正確には、何かしら大きな力に責められつづける。

 そして不図した弾みに死に及ぶ。

 生きることに意味を見つけたり、そのことで自分(の罪)を誤魔化したりしないところに、主人公の清潔さを見る。その生き方を尊いと感じる。それは作者自身の生き方の表れかもしれない。

004

(銀木犀たち)

 

 

 

 

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