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2012年10月

語りきれないこと

 鷲田清一(2012).語りきれないこと――危機と痛み学の哲学.角川学芸出版

 私たちはどういう世の中を創っていくのか。一人の思索者の感性が、ここに記されている。

 東日本大震災、福島原発事故の後に(あるいはずっと以前から)感じられていたことを語りかける。

 命とは何か、対話とは何か、地域とは何か。さまざまなことを考えさせてくれる。

 分かりやすい、というより共感できる文章である。

 数箇所を引用しよう。

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 〈「心のケア、お断り」――そんな貼り紙をしている避難所があると、知人から聞きました。「聴く」ことの専門家への不信が、こんな形で現れることもあるのですね。衝撃でした。

 ……阪神・淡路大震災のさなか精神科救急にあたり、その後も兵庫県心のケアセンターを拠点に「傷ついた心の回復」に尽くしてこられた加藤寛さんは、最相葉月さんとの共著『心のケア――阪神・淡路大震災から東北へ』のなかで、ケアにあたる者の心得として、「それ以上傷つけない」ことを最初にあげています。「何でもおっしゃっていいですよ」という言葉が、ときに相手の心に鎮めがたい氾濫を引き起こしかねないこと。けして相手に「被災者役割」を押しつけないこと。よくよく心すべきことだと思います。

 分かるというのは、ここにいる他者の気持ちを知りつくせないことを思い知ることでしょう。そういう限界を知ってなお、支援グループの来訪以外はご免こうむりたいという気持ちが、先の貼り紙には浮き出ていたのだと思います〉p.36-37

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 〈社会学者の内田隆三さんが書かれていたことですが、死を語るときに、生体か屍体かという二分法で考えないほうがいい。そうではなく、生体と屍体・遺体に、「死者」という三つ目のカテゴリーを入れて三分法で考えたほうがいい、と。そして命がなくなったときに、生体が屍体に変わるけれども、死者というのは、人が死んで初めて生まれるものだというのです。「死者として生まれる」ということです。

 その人との関係がじぶんのコアな部分を作っていた人を失ったとき、自分の一部をなくしたという大きな喪失感のなかでその人の死を受け入れるのは、以後、その人が死者としてわたしの語らいの相手になるということです。それが「死者として生まれ変わる」ということなのです〉p.43

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 〈ベッドタウン化して、いわゆるひらがなで書く「まち」や商店街が消え、高層マンションとアパート、スーパーなど流通の巨大施設だけで町が成り立って行ったときに、最初に消えたのは、おっちゃん、おばちゃんたちの、子どもたちを見ない振りをして見ている視線です。見るか見ないかという二者択一の視線しかなくなった。

 子どもにとって、ものすごく大きなことだと思います。大人が子どもの異変にめったに気付けない仕組みになったということでもある。子どもが都市の中で、子どもだけの世界に隔離されている。学校と家庭という空間、子どもが特別扱いされる空間でだけ、子どもは生活する。大人に混じって、もまれて生活することがなくなった〉p.80

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 〈わたしが自分の父親を介護するときに、「いい介護施設と悪い介護施設は、どうやったら入る前に見分けられる? 見学に行って、分かる?」と尋ねました。彼は、即座に「ああ、簡単です、大声のしない施設はオーケーです」と返してきた。普通は、スタッフの人が大声で「○○さん、ちょっと手伝って」とか言ったり、「ちょっとこっちは手が離せないから、かわりに行って」と指示する。

 でも彼によると、いい施設ではそういう声が起こらない。認知症を患っている患者さんがいたら、スタッフがケアをしなくても、他の患者さんがなぜか不思議に車いすで横をスーッと通りながら、「ご飯よ!」と声をかける。ときには刺々しいやりとりをしている老人どうしの緊張を溶かしてしまったりするような、小さなケアのかけらがいっぱい散らばっていて、それがうまく編まれている〉p.97

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 そこここにある痛み、途惑いを聞き、心に留めようとする著者の姿が見える。大切な役割だと思う。

004

(今日は晴れるかな)

一緒に居ること

 毎日新聞 10月18日 東京朝刊

 女の気持ち:一緒に居ること(千葉県八千代市にお住いの72歳の方) を引用しよう。

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 春の野に若菜を摘みに行くことなく、主人は3月5日、天の国に旅立ちました。落ち込んでいる私に、主人の友人から温かいお手紙が届きました。中に、詩が入っていました。

 「死ぬということは、なんでもないことなのです。私が隣の部屋に移っただけのことなのです。お互いの今までの関係がそのまま続いているのです。今までと同じ名前で呼んで下さい。今までと同じに気楽に話して下さい。ちょっとした冗談にも、いつも笑っていたように面白がって笑って下さい。ほほえんで下さい。私のことを考えて下さい。私のために祈って下さい。私の名前を家族に入れておいて下さい。元と同じように。(中略)私はあなたを待っています。少し離れて、ほんの近くで、ちょっと角を曲がった所で全く大丈夫です。なにも過ぎ去っていませんし、なにも無くなっていないのです。ほんの一瞬が過ぎた後、すべては元のままでしょう。でも良くなっているのです。永遠に今まで以上の楽しさの中で」

 ある神父さまが教えてくれたという詩「一緒に居ること」が同封してありました。

 そうだ、主人はいつも一緒にいるんだ、もう病気のことも、一人で留守させることも心配しなくてもいいんだ。あなたは私の心に、いつも住んでいるんだから。

 この詩が私の気持ちを明るく、やさしくしてくれました。最愛の人を亡くされた人にも少しでも慰みになれたらと願いながら筆を執りました。

          *          *          *

 死ぬということについて、私もそのように実感する。

 いつも一緒に居る。

 以前となんら変わることがない。

 応答さえしてくれる。

 私たちはいつも、その楽しさの中にある。

013

(すみきった夕空)

 

詩を読む会(24)

 詩を読む会では、作品をネタに、思いつくままの、いろんなお喋りをする。身近なこと、世の中のこと、映画や演劇、詩の朗読のこと。みなさんの物の感じ方がけっこう似ていることにふと気づく。おもしろい。つづけて他の作品を紹介しよう。なお、「ゆうら ゆうら くるん」の作者は小学2年生である。

 

  ゆうら ゆうら くるん

 

 ゆうらゆうら、くるるん

 ゆうら、くるん、

 コスモスがおどってるよ。

 

 あき風といっしょにね。

 おどるたびに、おにわから、

 コスモスの音楽が聞こえるよ。

 ほらどんどん見えてきた、コスモスの音ぷ。

 それを見て、虫たちもおどってるよ。

 

 「おどろう」っていってるみたい。

 わたしもおどったよ、いっしょにね。

 ゆうら、くるん、たのしいな、たのしいな。

 

 夜になり、しずかになった。

 でも、まだおどってる。

 ゆうら、ゆうら、ゆうら。

 風があるかぎりずっとね。

 

 

  人はまめ

 

 昨今わたしは思う

 人が人らしくなくなってきたような

 気がする

 

 大きなちきゅうと云う

 うつわの中でたしゅたようの

 まめに見えてくる

 すこし見ばえがわるいと

  つまんではじきだされる

 人も“いじめ”と云うたてに

 はじきだされてしまう

 なぜでしょうか

 人もまめもいろんなあじをもっているはずなのに

 それを活かしていけないのは

 ひとがつくったじょうれいのせいかもしれません

 ちきゅうがあまりにも

 さくばくとしているせいかも

 人はのびのびと。

 まめはかわいくはずんでいるほうがいい。

 

 

  あにまる

 

 にんげんも

 がんじがらめに

 かぎをかけられた

 おりの中にいるようだね

 おれたちもおりの中に

 いるんだけどね

025

(球体展望室はちたま より)

 

 

詩を読む会(23)

 今日、小雨のぱらつく中、「詩を読むましょう(第8回)」を開いた。楽しいお話し会になった気がする。今回も、読まれた作品を幾つか紹介しよう。

 

 

 富士を見た

 富士山を見た

 赤い雪でも降らねば

 富士をいい山だと賞めるには当たらない。

 

 あんな山なんかに負けてなるものか

 汽車の窓から何度も思った回想

 尖った山の心は

 私の疲れた生活を脅かし

 私の眼を寒々と見下ろす。

 

 富士を見た

 富士山を見た

 鳥よ

 あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け

 真紅な口でひとつ嘲笑ってやれ

 

 風よ!

 富士は雪の大悲殿だ

 ビュン、ビュン吹きまくれ

 富士山は日本のイメージーだ

 スフィンクスだ

 夢の濃いノスタルジヤだ

 魔の住む大悲殿だ。

 

 富士を見ろ

 富士山を見ろ

 北斎の描いたかつてのお前の姿の中に

 若々しいお前の花火を見たけれど

 

 今は老い朽ちた土まんじゅう

 ギロギロした眼をいつも空にむけているお前

 なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ

 

 鳥よ風よ

 あの白々とさえかかった

 富士山の肩を叩いてやれ

 あれは銀の城ではない

 不幸のひそむ雪の大悲殿だ

 

 富士山よ!

 お前に頭をさげない女がここにひとり立っている

 お前を嘲笑している女がここにいる。

 

 富士山よ富士よ

 颯々としたお前の火のような情熱が

 ビュンビュン唸って

 ゴウジョウなこの女の首を叩き返すまで

 私はユカイに口笛を吹いて待っていよう

                           (林芙美子『放浪記』より)

 

 

  あの破壊は他からの暴力だろうか (抜粋)

 

 わたしらの夜をついに鋳つぶしにきたのか。

 むじひ罰しに。

 くされた球茎に気づかぬわたしらを、

 矯めなおしにきたというのか。

 そう言いたくなるのもわからんではないけれど、

 真相はこうなのだ。

 

 宇宙がちょっと身じろぎ、

 はずみで

 聖人堀緑地のいけがきの

 真っ赤に熟した

 ヒマラヤトキワサンザシの実がひとつ、

 落ちてころげて、

 海にぽちゃんと入り、

 かすかな漣をつくっただけの話だ。

 じつに無ほどに小さな漣を。

 

 真っ赤な

 ヒマラヤトキワサンザシの実は、

 わたしのなかに熟し、

 ある日、ひと粒が

 ゆくりなく宇宙の海に落果した。

 おのずからの暴力。

 かすかなその漣で世界が絶えることもあること。

 

 とりかえしのつかぬ罪は――

 それらをこばむ無知。

 宇宙の海はわたしのからだのなかに、

 うねりただよう。

 あがなえぬ海。

 かすかなその漣で世界が絶えることもあること。

 

 とりかえしのつかぬ罪は、

 語りとどかぬ、予感しないことば。

 それが盤古をあやめる大罪となった。

                       (辺見庸、詩集『眼の海』より)

004

(夜明けの光)

永遠の僕たち restless

 2011年、アメリカ映画。

 感性の柔らかい、とても優しい映画である。

 余命3カ月を告知された少女アナベルが、自らの死をすでに受け入れているのに対し、イーノックは両親の事故死を受け入れられず、イライラとした状態 restless にあった。そのイーノックを癒そうと、特攻死者のヒロシが寄り添う。

 妻を愛し、妻に手紙を書いたが、渡せずに敵艦に突っ込んだヒロシ。その思いを秘めてイーノックに付き合う、悩めるものを看過し得ない心性。

 アナベルがイーノックの存在に惹かれたのも、偶然とは言え、彼の心に所在なさを感じてのことだった。進化論のダーウィンを尊敬するのは、命を大切にしたいから。大切にしたいから、生死に思い迷っている彼を、やはり看過できなかった。

 アナベルの一瞬一瞬が輝いていた。お洒落で、あらゆるものを慈しんでいた。Thank you, Hiorshi. と呼びかける彼女の声は友愛に満ちていた。葬式は悲しいからたくさん食べたいだろうと、たくさんのスイーツを用意した。

 そうして、彼女は永遠に、多くの生命に、形を変えて、生きつづけるのだろう。

 数多の色彩の煌きに満ちた、どこまでも優しい映画である。

034

(2012.9.28.15:45 舞子上空より)

 

 

詩を書いているのはだれ?

 先日、中1の女の子の詩を読ませてもらった。その時に思ったこと。

 詩とは他者になることである。

 いろんな詩を読む機会があるのだが、その多くは個人的な事情のあれこれを綴っている。それはそれで良いのだろうが、読む私には響いてくるものがない。「そうですね。そういう生き方なのですね」

 私に響く言葉とは、物の側に立った、物の表白である。たとえば、

 「犬が口を開いて死んでいる。

  その歯の白くきれいなこと。」 (小野十三郎)

 一瞬ドキリとし、情景が鮮やかに浮かび上がる。人間社会と、自然の摂理に思いを向けさせる力がある。

 詩とは物の語りを聞くことである。

 女の子の詩

 

   どんぐり

 私は秋を待っている

  秋になれば葉がなる

  葉がなれば

     いろいろな実ができる

 ・・・・

 「ドキドキ・ワクワク」

 あぁ、はやく私の大好きな

 ぼうしをかぶりたい

 

 どんぐりの「私」のワクワク感が見事に表現されている。だから、生きものそのもののワクワク感も溢れてくる。

 物という他者に見られたこの世は、個人の私を超えた拡がりを持つ。その拡がりが、詩をつくり上げる。書いているのは私ではなく、物である。物の「私」である。

 先の2行詩で言えば、死んだ犬の歯をきれいと感じる「何か」が、詩の感性の中心にある。

 「何か」が他者である。

 人の営みは、自己中心性から解放され(自由になり)、他者に生きることを目指している。

 他者になること、それが詩である。

 それが、あらゆる生の可能性を照らし出す。

008

(秋のはじまり) 

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