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死とは何か

 〈一粒の麦が地に落ちて、死ななければそのままだが、死ねば多くの実を齎すだろう〉

                                                                                                        (聖書の一節)

 

 形而下において死んだ人が、身近であればあるだけ、私たちはその人から多くの実を受け継いでいる。

 私の内外に、その人は生きている。そのことに、気づくときも、気づかないときもある。「生きている」その人は、ある夏の日に台所に飛びこんできた蜻蛉かもしれない。肩にとまった蝉かもしれない。不意に感じる気配かもしれない。

 因果応報、輪廻転生、…。広くいえば、それはありとある存在の呼応でもある。

 その人を感じるとき、本当は、私はすでに私ではなく、ここにこうしてある何か、である。

 無私なるこれは、いつも、そのように存在する。

 生きるとは呼応である、ならば、死とは呼応が無いこと、と言うのは、考えたことになっていない。死とは無である。死は、どこにも無い。

 無いならば、強いて言えば、それは再生のことである。

 ある人が無くなる、しかしその瞬間に、その人はすでに、ありとある存在になっている。

 それが永遠ということ。

 死にたいほどの絶望にあっても、そこから再生し得るのは、何かしらの存在の呼応による。雲が流れ、別の雲が到来するように、花は枯れて別の枝から咲きほこるように、木は枯れても山は生きているように、私は遍在する。

 くり返せば、私は私ではなく、やがて来たる私の死は私の死ではなく、何かが生まれる刻である。

012

(一瞬の虹)

  

 

 

 

 

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