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2012年6月

詩を読む会(19)

 今日、「詩を読みましょう(第6回)」を開いた。いつものように、発表された詩、発表される予定だった詩を紹介しよう。

 そして、これまで(第5回まで)は記さなかったが、これからは、改めて私の感想を記すことにしよう。

          *          *          * 

    負うということ

 

 わがままなのかな?

 

 あなたがわたしを愛していることも

 大切にしてくれていることも

 とてもわかっているから

 

 受け入れなければいけないのかな?

 こんなに苦しいのも

 こんなにあなたを苦しめていることも

 仕方のないことなのだと

 

 わたしのせいじゃない

 誰のせいでもないのに

 

 いつもありがとう

 これからもよろしくね

 が

 明日も笑顔で言えるように

 わたしは夜 魚になって

 ひとりのベッドを

 泣きながら

 さまようのです

  

  

   まぼろし

 

 埃っぽさと熱を帯びた空

 くっきりとした雲

 

 風に踊る麦わら帽子を

 追いかけていく

 汗ばんだ小麦色の背中

 

 錯覚させる白い砂浜が

 ぴりりとからだを焼く

 執着のない夢を抱えるかき氷を

 何気もなしにかき混ぜて

 波打ち際に揺れる

 うたかたのようなわたし

 

 世界中の喧騒も

 昨日の憂鬱も

 波音に溶けていく気がして

 足を濡らすぬるい海水が

 やけにいとおしい

 

 明日になれば

 この 焦がすような痛みも

 すべて

 夏のまぼろしと

 なるのかしら

 

 

   HORIZON

 

 生きていくことがしんどいと思えるような

 時間に追われるだけの every day

 歳を重ねるたび 経験を積むたび

 知らないうちに見えないカラーを作っている

 

 重い荷物なら この瞬間 捨ててしまおう

 面倒な人間関係も仕事も 頑張りすぎてしまう恋愛も

 くよくよ悩んだって何も始まらない

 ほら気が付けば もうすぐそこに 大好きな季節が…

 

 見上げることができぬ程の夏の太陽の輝き

 雲ひとつない青空と穏やかに微笑む海

 乱反射する horizon 風を感じながら加速をつけて坂道を下れば

 そこはいつもと違う景色 オアシスが待っている

 

 早く周囲から認めてもらいたくて 無理をして 背伸びして

 強くなることばかり追い求めていたら

 素直に泣くことも 無邪気に笑うこともできなくなっていた

 忘れる前に たまには「あの頃」思い出すのもいいんじゃない

 

 焼きつくす程の夏の太陽の輝き

 雲ひとつない青空と穏やかに微笑む海

 遠くに交わる horizon 寄せては返す波の音に心を洗いながせば

 自分がちっぽけでもいいんだっと思えてくるはず

 

 どこまでも続く horizon きっとすべてを忘れさせてくれるから

 また明日から 新しい自分で暮らしていこう

 

 

   

 

 元気なのは太陽だけ

 我が家のリビングに

 冷風が心地よく漂う

 愛犬はルーバー近く

 VIP席でヘタバリ

 街を行けば灼熱地獄

 アスファルトの鉄板

 バンパーで目玉焼き

 黒く焼けたこの肌は

 チリを振ったように

 今年もバーベキュー

 焦げた私を食べる?

 私は太陽と話せたら

 これを尋ねてみたい

          *          *          *

 いずれも若い女性の作品である。

 負うということ

 障害を持つ人の、持ったことによる内面の葛藤を描いてある。

 障害を持つことを負のこととして捉えてあるが、果たしてそうだろうか? 多くの人がそのように「負」のイメージとして捉え、げんに社会の仕組みも(ハードもソフトも)バリアとしてあるけれど、本当はそうではなく、人はだれでもあるがままのその人であるだろう。

 とはいえ、家族や友人、恋人に、負担をかけていると感じるのもまた、ごく当たり前の感情なのだと思う。

 目に見える障害を持つと、自分の存在が顕著に意識されるかもしれない。でも、目に見える障害を持っていない人もまた、その人なりの苦悩を抱えている。抱えていないと言う人もいるかもしれないが、それは自覚されていないだけのことである。

 げんに感じている自分の内面の葛藤を、もっと見つめて、詩としての完成度を高めていくのは、とても大切なことだと思う。言葉とともに、人は生きていくのだから。

 まぼろし

 五感に感じられるものが現実であるか? 感じられたこと、そのことが現実があると、私は思う。同時に、当然のように五感に感じられない現実もある。誰かのことを思うこと、その人そのものを感じること、私の夢に寄り添う意思、など。

 だから、この詩のように、感じられた夏は、現実であり、作者である。くっきりとした雲も、小麦色の背中も、錯覚させる白い砂浜も、ぬるい海水も、夏のまぼろしと/なるのかしらと感じられた夏も、すべて。

 感じられた現実を描くのもまた、詩であるだろう。それをどのように読者に伝えるのか。もう少し、感じられた現実を共有できる言葉が欲しい。

 HORIZON

 多くの人に共感される詩かもしれない。その感覚はよくわかる、と。それで励まされる人もいると思う。

 horizon とは、いまここの私を省みさせてくれる鏡、海の上でならどこまで行っても続く果てしないもの、岸辺からなら毎日異なる風景の中にあって唯一変わらないもの。

 だから、それを見る毎に、私はさまざまな思いを想起し、時に笑い、泣き、また勇気づけられる。

 インパクトが無いので、もう少し言葉を凝縮しては、とも思うが、作者の表現スタイルとしてはこれで良いのかもしれない。

 

 一気に読ませてくれる。明るい詩。笑いがある。日常のちょっとした手触り感が伝わってくる。ああ、こんな感じ方もあるんだ、といった具合に。

 焦げた私を食べる? という表現には驚かされた。太陽と話せたら/これを尋ねてみたい、という感覚も面白い。

004

(夏の朝) 

冬の小鳥 Une vie Toute Neuve

 2009年、韓国/フランス映画。ウニー・ルコント監督作品。

 

 1975年、9歳の少女ジニは、大好きな父親に連れられてソウル近郊の施設(カトリックの孤児院)にやって来る、よそ行きの服を着せられて。父は言葉少なに去って行く。

 自身の突然の環境の変化について、おおよそのことは理解できるのだが、その事態が信じられない彼女は、現実を受け止められない。

 食事を摂らず、口をきかず、周囲にとけ込まない。父親への思いだけが心を領する。

 しかし、払い除けて散らばった食べ物や食器をかたずけてくれた11歳のスッキに、少しずつ心を開くようになる。スッキの秘密を聞いたり、二人だけでこっそりケーキを食べたり、傷ついた小鳥の世話をしてあげたり。

 ある時、お姉さん的存在のイェシンは「思い人」にふられて自殺を試みる。イェシンはやがて元気になり、養子に貰われていく。その時、ジニは哀しむ寮母に寄り添う。

 しばらくして、スッキもアメリカの夫妻に養子として引き取られる…。スッキをも失い、ジニの心は荒む。貰った自分の人形を放り投げ、他の子らの人形も、奪い取り、ズタズタに引き裂く。

 元の家の住所を院長に伝え、見に行ってくれと頼むが、両親はすでに引っ越し、その家には別の家族が住んでいることを知らされる。

 冬の日差しは少しずつ柔らかくなり、春が近いことを予感させる。そんなある日、ジニは庭の枯れた木立の中で懸命に穴を掘る。大きな穴ができると、自らを埋葬する。自分に土を被せ、顔まで埋もれる。数秒後、土を払いのける。ある決心をしたかのように。

 養子に貰われることを、自分で決めたのだ。

 やがて里親が決まる。寮母が背の伸びたジニの服の丈を直している間、ジニは歌う。

 

 ~あなたは 知らないでしょうね どれだけ愛していたか

 時が流れれば きっと後悔するわ

 寂しい時や 沈んでいる時は 名前を呼んでください

 私は そこにいるわ

 両目から あふれ出る 私の熱い涙で

 あなたの痛む心を きれいに 洗い流してあげる~

 

 旋律が、言葉が、歌う彼女の心に浸透し、希望が息づく。

 生まれ変わったジニは、笑顔で集合写真撮影に並び、歌声の子らに見送られて施設を後にする。

 そしてパリで待つ里親のもとへ。

 機内の座席では、父親の背中の温もりを思い出す。

 着陸後ロビーを歩くジニは、どこかしら心が浮き立っているかのよう。

 

 冬の枯れた木立、陽光が、ジニを優しく包んでいた。映画に流れる音楽も、柔らかな旋律を奏でていた。寮母も、そっけなくはあったが、静かに心を寄せてくれていた。境遇の過酷さに相反して、まわりはジニを優しく取り囲んでいた。

 見る人の心の奥底に、愛を語りかけてくれる映画である。

http://www.youtube.com/watch?v=VzGCCBYMHQ4

013

(梅雨の晴れ間)

指原莉乃さん

 人気アイドルグループに大分出身の子がいると聞いた。AKB48というグループ。昨年末のNHK紅白で見た時は印象に残らなかった。

 なぜ人気があるのか? 歌がうまいとは言えない、踊りも、外見も、楽曲ももう一つ。

 大分の子は指原莉乃さん。市の観光大使になったと、報道されていた。何度か見た限りでは、「一生懸命さ」が、先ず伝わって来る。それと「親しみやすさ」が感じられる。

 アイドル、というと「憧れ」というイメージがあったが、彼女の場合は、それよりかなり「近い」ところに「存在」が感じられる。そこら辺にいる子、というより、「同じ場所にいる子」。何かしらあたたかな感触。たとえば誰かが彼女に悩みを打ち明けたとしたら。うん、うん。いっしょに考えてくれる気がする。気持ちの優しい子。

 一方で、彼女とは、本人が意識するしないに関わらず「枠を超えようとする存在」だと感じられる。

 既成の枠を超えようとする。ここにいてはいけない、いまある自分を変えたい、そういう思念がずっと彼女の根底にあって、そこから言葉が発せられている。

 歌も踊りもうまくない、でも(だからこそ)、空の手で懸命にがんばる。

 いまの時代、世の中のことを、私はよくは知らないのだが、彼女のような存在は、とても大切な何かに触れさせてくれる気がする。その何かとは、「今」を超える力。

 先日、博多で活動を始めた同じ系列の別グループに移ったらしい。プロデューサー自身も、彼女の「枠を超えようとする」力に気づいているのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=cS4EpKZZBqg

201204270521001

(別府湾の朝 日出ひじ方面)

死とは何か

 〈一粒の麦が地に落ちて、死ななければそのままだが、死ねば多くの実を齎すだろう〉

                                                                                                        (聖書の一節)

 

 形而下において死んだ人が、身近であればあるだけ、私たちはその人から多くの実を受け継いでいる。

 私の内外に、その人は生きている。そのことに、気づくときも、気づかないときもある。「生きている」その人は、ある夏の日に台所に飛びこんできた蜻蛉かもしれない。肩にとまった蝉かもしれない。不意に感じる気配かもしれない。

 因果応報、輪廻転生、…。広くいえば、それはありとある存在の呼応でもある。

 その人を感じるとき、本当は、私はすでに私ではなく、ここにこうしてある何か、である。

 無私なるこれは、いつも、そのように存在する。

 生きるとは呼応である、ならば、死とは呼応が無いこと、と言うのは、考えたことになっていない。死とは無である。死は、どこにも無い。

 無いならば、強いて言えば、それは再生のことである。

 ある人が無くなる、しかしその瞬間に、その人はすでに、ありとある存在になっている。

 それが永遠ということ。

 死にたいほどの絶望にあっても、そこから再生し得るのは、何かしらの存在の呼応による。雲が流れ、別の雲が到来するように、花は枯れて別の枝から咲きほこるように、木は枯れても山は生きているように、私は遍在する。

 くり返せば、私は私ではなく、やがて来たる私の死は私の死ではなく、何かが生まれる刻である。

012

(一瞬の虹)

  

 

 

 

 

木漏れ日の家で Pora umierac

 2007年、ポーランド映画。主演アニェラ役は当時91歳の女優ダヌタ・シャフラルスカ。

 主人公アニェラ(91)は、緑に囲まれた2階建ての大きな古い家に愛犬フィラデルフィアと棲んでいる。映画の冒頭で、診察室に入るや女医に「脱いで横になって」と言われ、不躾さに腹を立てる。その表情、振舞だけで、彼女の人となりがわかる。

 他者への配慮を大切にする。凛とした表情、身のこなしも軽やか。年をとり、周囲の時の流れについていけない事に少し不安がある。古い家は、家族または不動産業者により人手に渡るかもしれない。もう十分生きたのだが、さあ、これから先をどう過ごすか。

 息子一家とこの家で暮らすことを提案するが、返事ははっきりしない。息子は生への信念がない。その娘(孫)も同様。甘やかして育ててしまったのか。後悔する。役人らしき(分からない)男2人が敷地に無断で入ってきて、庭を調べている。不作法な振舞に文句を言う。しばらくして隣家から家の取引が持ちかけられるが、隣人のことは好かない。代理でやって来た男を追い返す。

 2階の窓からは隣家と、その隣りの“子供たちのための音楽クラブ”の様子が見える。裕福ではない身なりの子供たちの踊る様子を見て、若い頃の自分の姿を思い出す。

 ある時、家をよじ登り窓辺にやって来たのは“シベリア”から来た“ドストエフスキー”という呼び名の少年だった(少年はドストエフスキーをロシアの画家だと思っているらしい)。スレた感じの、しかし心の純粋そうな少年に、彼女は少し心を開く。お互いに、何かを感じた。

 愛犬のフィラはいつも主人を気遣っているよう。彼女に何かを伝えたがっている。無垢な、優しい存在である。

 ある夜中に、フィラの吠える声で目を覚まされたアニェラが窓の外を見ると、息子夫婦が隣家の居間で何やら話をしているのが見える。家を出て車に乗り込むまでの息子と妻との会話が聞こえてくる。この家を息子は隣家に売ろうとしている、それを嫁は反対している。今まで気づかなかった。嫁にそそのかされていたのではなく、寧ろ彼女は良き配慮を行っていた。

 そして、アニェラは「イカれた」(彼女自身の言葉)決断をする。

 “子供たちのための音楽クラブ”に家を寄付する! 条件として、家の修理はクラブが負担すること、修理は内部にとどめること、彼女自身はその家に永住できること。

 「後悔しませんか?」(公証人、優しく)

 「後悔しません」(彼女、笑顔で)

 修理も済み、音楽道具が次々と運び込まれ、子供たちの歓声が聞こえる。ある少年が2階のアニェラにあたたかい紅茶を持って行く。何度ガラス戸をノックしても返事はない。椅子に座っている彼女の後ろ姿と、彼女を見守る愛犬が見える。少年は、愛犬の表情が悲しみを帯びていることにようやく気づき、ガラスに凭れて涙を流す。

 庭の木々は今まさに満開の花に覆われようとしていた。

 アニェラは最善を尽くして生きた。自身を「イカれた」と言い、庭のブランコを漕ぐ様子は、明るさに満ちていた。

 一つの尊い生である。見る者の心に、深く刻み込まれる生である。

http://www.youtube.com/watch?v=mS8Q388syZs

001

(朝の陽光)

ヤコブへの手紙 Postia Pappi Jaakobille

 2009年、フィンランド映画。

 おそらく、何度も繰り返し見ても、飽きるどころか、ヤコブ・リューベ牧師の心情に打たれ、深き思いに心は益々満たされるだろう。

 終身刑のレイラ・ステーンは恩赦を受けて、牧師館に赴き、盲目の牧師ヤコブへの手紙を読み、返事を代筆することになる。

 ヤコブ牧師は自宛てに届けられた手紙を読み、差出人のために祈り、返事を書くことを日課としていた。次の自覚のもとに。

 「私はただ人の願いを伝える道具にすぎない」

 しかし、信仰無きレイラはヤコブの仕事を無意味と感じた。

 ある瞬間、ヤコブはレイラに置き去りにされた教会で悟る。

 「人のために祈るのが私の使命だと信じてきた」が、救われているのは、寧ろ自分で、神は自分に役割を与えてくれていたのだと。

 「貧しい人のために全財産を使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ私に何の益もない」。自問と自責。

 ヤコブが教会から戻ってきた瞬間、レイラは首つりを思いとどまる。その間に、彼女にはどれほどの葛藤があったことだろう。

 手紙文に仮託して、レイラは終身刑となったいきさつを、夏草の生い茂る庭でヤコブに語る。彼女は姉リーサの暴力夫への怒りから、その夫を死に至らしめたのだった。

 「私は許されますか」

 その問いを聞いて、ヤコブは恩赦が姉リーサの願いであったことを、リーサからの手紙を渡して伝える。レイラの眼から涙が止まることなく溢れ続ける。

 その直後、コーヒーを入れに室内に戻ったヤコブは倒れて死ぬ。

 レイラの心を潤し、その生を回復させるのがヤコブの最後の役目であったかのように。

 ヤコブの自覚と、レイラの無垢な心情が全編に浸透し、二人の心はいつしか融合し、かつて触れあった人々とまだ見ぬ人々との交感を予感しながら、静かに流れる音楽と共鳴しながら、希望が奏でられる。愛が、すべてなのだと。

 私の最も好きな映画の一つになりそうである。

http://www.youtube.com/watch?v=ylBGumYqaws

011

(花屋の庭先に咲く花たち)

 

 

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