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2012年4月

詩を読む会(18)

 続けて作品の紹介。

 

   出会いに生かされて

 

 人の手に助けられて

 行動では何も出来ず

 そんな自分の身体が

 何より憎く日々葛藤

 生きてて良いのか?

 なんて悩んだ思春期

 暗い迷いのトンネル

 過ぎゆく度に会えた

 大切な友のみんなに

 感謝したい家族達に

 心の支えの貴方とも

 生きてなかったなら

 会えないでいたろう

 そう気付けたその時

 霧はゆっくり晴れた

 沢山の人の出会いに

 私は救われ今生きる

 

          *          *          *

 

   出会い

 

 ある雪の舞う日に

 勇気を出して私は一歩をふみ出した

 出会いを求めて

 

 人生は出会い

 人と人との出会いで様々な事を学ぶ

 偶然なようであり

 必然なものでもあり

 運命でもある

 

 オセロは嫉妬に出会い

 愛する妻を自ら手に下し

 マクベスは魔女に出会い

 狂気の人生に導かれ

 これらは出会う必要のない出会いだったはず

 出会った故に悲しみや怒りを知る

 出会いは凄まじいものでもある

 

 雪の舞う日の出会いがなければ

 今、詩を書いている私は居ない

 出会いは本当に大切で

 人は自分にない個性や才能を見出し

 自分を成長させてくれる

 

 次の私は

 新しい何に出会うのでしょう

016   

(小さなひまわり)

詩を読む会(17)

 続けて作品の紹介。

 

   日曜日

 

 新緑にキラキラと光が注ぎ

 洗濯物が軽やかに空を泳ぐ

 

 つま先に嬉しさをたくわえて

 ぴかぴかのパンプスを鳴らす

 冷静沈着な時計の針先に

 淡いシフォンが揺れる

 

 わたしのための日曜日

 

 運命とか 永遠だとか

 幼い妄想ばかり抱いて

 ばかみたい?

 でも

 別れのにおいで

 しらけたくないし

 出会いのきっかけなんて

 もう忘れた

 から

 いつだって

 これが最後だって

 思っているの

 

 ひょろりとした身なりに

 見慣れた肩甲骨

 かける言葉を探しながら

 シャツの袖をそっと掴んだ

 

 

   青写真

 

 潮風が吹いた

 アルペジオに合わせるように

 海猫は宙をめぐる

 

 冬は終わったよ

 夏はまだまだ遠いね

 散った桜の花びらは

 転がりながら魔法を解いていく

 

 さあ

 もう布団にもぐっている場合じゃない

 膨らむカーテンを

 思いきり開いて

 光を浴びよう

 思い出は感傷とともに

 畳んで押し入れにしまったかい

 

 おろしたての制服は

 知らない匂いがする

 けれどきっと

 君が着ることを待ち望んでいるんだ

 

 春風が吹いた

 たおやかな丘の上の桜の木は

 新緑を芽吹かせ

 猫たちは恋模様

 

 駆けていこう

 ずっと遠くへ

012

(画面左にミツバチ!)

詩を読む会(16)

 今日「詩を読みましょう(第5回)」を開催した。とても充実した時間を共有できた気がする。さまざまな感性に出合えた気もする。これまで同様、持ち寄られた詩を紹介しよう。

          *          *          *

   面白すぎる出会い

 

 「求めよ さらば与えん」

 などと言うけど

 

 待ってるときには来ず

 待っていないときに 来たりするものなのか?

 

 出会いがしらで衝突

 心の準備ができていないときに限って起こる

 事故に遭うようなもんだと

 誰かが言う

 

 四十路の就職活動

 連敗続き

 

 ある面接

 憧れて受けたのに

 代表の顔を見るなり 途中で嫌になった

 落ちることを望むあまり

 「わたくしにはできません」と 後ろ向き発言

 後日 合格通知

 しかし 自分に正直に断る

 人生はおもしろい

 

 その次の日

 ある会社の代表から

 「ウチに来ないか」と電話

 その代表 知らない人だけど

 カラオケ友達の紹介で 自分を知ったらしい

 今 そこで働いている

 

 人生はおもしろすぎる

 

          *          *          *

 

   生命は

                          吉野 弘

 生命は

 自分自身だけでは完結できないように

 つくられているらしい

 花も

 めしべとおしべが揃っているだけでは

 不十分で

 虫や風が訪れて

 めしべとおしべを仲立ちする

 生命は

 その中に欠如を抱き

 それを他者から満たしてもらうのだ

 

 世界は多分

 他者の総和

 しかし

 互いに

 欠如を満たすなどとは

 知りもせず

 知らされもせず

 ばらまかれている者同士

 無関心でいられる間柄

 ときに

 うとましく思うことさえも許されている間柄

 そのように

 世界がゆるやかに構成されているのは

 なぜ?

 

 花が咲いている

 すぐ近くまで

 虻の姿をした他者が

 光をまとって飛んできている

 

 私も あるとき

 誰かのための虻だったろう

 

 あなたも あるとき

 私のための風だったのかもしれない

                       ――詩集『北入會』

013

(海の微風)

何よりもまず、詩人でありたい  詩人としてのシモーヌ・ヴェイユ

 現代詩手帖特集版(2011.12).シモーヌ・ヴェイユ――詩をもつこと.思潮社

 この特集版を買おうと思って大分で最も大きい2つの書店に行ったのだが、置いてなかったので、読まないままでいた。先日通販で取り寄せ、漸く読むことができた。

 この投稿タイトルの河津聖恵さんの論考を読み、とても励まされたので、ここに引用しつつ感想を記そうと思う。

          *          *          *

 私が初めてシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読んだのは昨年の7月である(読後感をこのブログに投稿した)。そのとき、私はヴェイユの生き方(考え方)の勁さ、純粋さに強く惹かれた。

 「脱創造」「真空」「真」「善」「美」…という言葉とともに、紙背から、ヴェイユのひたむきな生が伝わってきた。考えに考えられ、言葉となった何かが息づいているようだった。

 今回河津さんの文章によって、そのときの感覚が、より具体的な考えとなって蘇ってきたように感じる。

 〈…か弱き他者のために、か弱き自身をあげて書く、そして言語の総体で他者に同苦する。または、希望を持つことが困難な時代に、ひとり絶望を、言語の次元で深く見つめた果てに、他者のためにひそかな希望を発火させる。そうした「利他性」は、いつの時代も「詩人」の定義の核にあるものではなかったか。

 私たちはときに、自分の本当の名前のように、あるいは人間の美しさそのものに感じ入るかのように、ある人々を「詩人」と呼ぶ。実体というよりもこの世の言語の支配を逃れえた、透明な影のような人々を。この世の水際で、「〈わたし〉と言いうる力」(「〈われ〉」『重力と恩寵』田辺保訳、筑摩書房)を滅ぼしつづける人々を。詩は、そのとき一瞬、空虚にかかる飛沫の虹であるだろう…〉

 〈詩とは、ヴェイユにとって、(いや誰しもにとって)世界から見すてられ声を上げられない、傷ついた他者のために書かれるものである。本物の詩の言葉は、祈るように他者の方へと注意をこらし、思考しつくした果てにつかみうる純白の高さから、降るように書かれるものだろう〉

 声なき無辜の民のために、人々の生を彩っていた、無数のちいさく煌く虹を思考するために、詩は書かれる。そのとき、私の預かり知らぬ他者が、あるいは人間の形すら纏っていない何かが、「この世の水際」から語りかけてくる。

 そのような、詩の行為を、河津さんは「非行為」と呼ぶ。

 〈「グリム」のあらましはこうだ。ひとりの妹が、白鳥に変えられた兄たちを救うために、六年間、黙ってアネモネの花からシャツを編み続ける(柔らかなアネモネから編むのはほとんど不可能である)。やがて妹は、アネモネのシャツを兄たちに投げる。すると兄たちは人間に戻り、妹もふたたび喋ることができるようになる――。この妹のけなげで困難な行為について、「この難しさのゆえに、六年の沈黙の純粋さを損ういかなる他の行動も入りこむ余地がないのだ。この世における唯一の力は純粋さである。」と少女ヴェイユは看破する。また、「無辜の女性の苦悩は、それ自体によってあがないの働きをするのだ」とも。そのような妹の行為は、まさに詩人の行為を象徴するのではないか。詩人は、詩という「無辜な苦悩」あるいは「非行為」を通し、この世の悲惨を「あがなう」存在ではないか。不器用な少女の指で、愛する他者のために柔らかな花弁から糸を紡ぎつづけるイメージは、まさに、詩を書くという、「非行為」を思い起こさせる〉

 「この世における唯一の力は純粋さである」。まさに、そう。

 ヴェイユその人の生こそ、この妹のようであったと、私も感じる。私を滅ぼす、無私である、さらに「〈わたし〉と言いうる力」さえ滅ぼそうとする純粋さに貫かれた生は。

 「何よりもまず、詩人でありたい」。しかしすでに、ずっと、彼女は詩を生きていた。

 私も、私自身がそのようでありたいと願う。それこそが私の生なのだと、漠と感じながら。

 何かしらあたたかな生命の力に促されて書かれているこの論考は、今を生きる私たちにとって、詩とは、詩人とは何かを、はっきりと指し示している。私は、次の言葉を深く心に刻もう。

 〈詩人とは誰か。それは、火を初めて使う人のように、言葉を使う人。人をつなげ、魂のゆたかさを生むために、言葉を使う人。今ここに生きる者たちの不幸を燃やし、より高い次元で艶やかな果実のように、意味と響きを輝かせる人。詩を書かない者に代わって、みずからの身を焼くようにして、愛の中ですべての言葉を焼き直してくれる人。誰しものプロメテとして、半透明な裸形で走りつづける人。そして、おびただしい死から唯一の生を生みだす人〉

004

(「みて、みて」 うちのガーベラ) 

 

 

 

 

 

 

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