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2012年3月

よろこび

 少々長いが、今朝の毎日新聞20面「幸せのかたち」より引用する。

          *          *          *

  〈「私たちの生きがいは、淳ちゃん美和ちゃんば1日でん長生きさすっことやけん。やけん、こん人たちが長生きするほど父ちゃん母ちゃんも長生きすっと。支えとるごたるばってん、こっどんから支えられとるとよ。ねっ。朝頭ん痛くても、面倒みるとにうろうろしよるうち忘れてね。風邪薬一服飲むとよおなってから。風邪も引かんしねえ。あははははは」

 そう言って豪快に笑うキヌエさんに「幸せとは?」と尋ねてみた。

 「幸せちゃ条件じゃないけん。お金があって、健康で、美人で、なんもかんもそろうとっても、幸せて感じ取りきらんやったら幸せやないもん。うちのごと貧乏たれで、障害児が2人おっても、幸せやなあと感謝して生きていけたら幸せやなかろうか。ねっ。やけん結局、生きとることが幸せよ。淳ちゃん美和ちゃんが生きとるけん幸せたもん。明日のこた分からん。そるけん、今、生きとるとが幸せよ。ねっ」

 2日後、キヌエさんから届いた手紙にはこう記されていた。

 《(腸捻転の手術前)白頭巾をかぶった淳一に母ちゃんはここにいるよといいますと、ニコッと笑いました。この子はどんなに熱があっても痛くても笑ってみせるのですよといいますと、ナースさん達が涙ぐまれました。苦い薬をのみながら、いいたいこともいえず、行きたい所にも行けず、笑顔をみせている二人。一所懸命生きています。二人を見習って私共夫婦も笑顔で生きてゆこうと子等に感謝です。私は二人の子等と一緒にいるのが一等幸せたいといいますが、姉たちは妹が強がりいいよる、かわいそうと思っていたそうです。でも近頃は口をそろえて、あんたが一番幸せたいねといいます》

 つないだ手の温もりただ感じること。気の許せる人と時を共にしたわいないおしゃべりに興じること。日の光を浴び、季節の風を感じること。子供たちの笑顔につられて笑うこと。私たちはそんなことどもの中に、実は生きる喜びを感じている。しかし競争社会で結果を追い求めて生きるうちいつしかそれを忘れてしまったのではないか。ただ、大きな不運に打ちのめされた時、心を支え、生きる意欲をとり戻させてくれるのは、そうした喜びの経験であり、その記憶である。

 人口が減少し、本来の豊かさや繁栄を人生の目標にできた時代が過ぎた今、虚しさや自暴自棄に陥ることなく充実した生を送るために私たちが拠り所とすべきものも、きっとそこにある〉

          *          *          *

 淳ちゃん美和ちゃんがキヌエさん夫婦に感じさせてくれる喜びは、ほんとうに、何ものにもかえがたいあたたかさに満ちていると思う。

 無辜の、あるいは無垢な人の持つ純粋であたたかなもの。生命から直にあふれてくるもの。それに触れる経験。

 そのよろこびの経験、記憶が私たちに生きる力を与え続けている。そしてだれもがそれを求めて生きている。芸術も、詩も、それを表現したがっている。

 キヌエさんには、そのよろこびがはっきりと自覚されている。

 「私は二人の子等と一緒にいるのが一等幸せたい」

 そのよろこび、経験の記憶を大切にしたいと、私はただただ思う。

005

(春の光り)

  

他者にありて

 介助という仕事をするときに心がけているのは、介助犬、盲導犬のようであること。

 利用者と同じ人間である分、犬たちよりは少し意思を汲み取れるかな、という感じ。

 利用者のバーバルな、あるいはノンバーバルな意思に添う、そのことで、少しでも役に立てるのが良い。それが基本で、それがすべて。

 気に入られようとするのではなく、心の声を聞くこと。敢えて言えば、「聴く」のではなく、実際に「聞く」こと。そこを目指す。

 利用者の意思(心の声)とは、「他者」である。ニーズ、とも言う。介助者、介護者は、そのニーズを聞く。その実現に身体と心を砕く。

 それは「癒す」のではなく、「癒される」過程である。

 譬えれば、画家が対象を画くように、対象の「何」を掴み取るまで、対象に添い、聞く。

 演奏家が、主題の「何」を感じとり、その音化に技術を傾注するように。

025

(はるやで!)

 

さわやか

 手話講座で、聴者の先生から「さわやか」をどう表現するか、問われた。

 ろうの方から聞かれたのだという。

 「さわやか」ってなに?

 例を挙げていろいろと説明したけれど、結局わかってはもらえなかったらしい。

 さわやかな風、さわやかな気分、さわやかな男性。

 夏の暑い日に吹いてきた気持ちいい風。「涼しい」とどう違う?

 朝起きて太陽の日差しを浴びた時のイイ感じ。「すっきり」とどう違う?

 向井理を例に挙げたとして、さわやかな男?? たぶん首を捻られる。

 それら3つの共通点とは何か?

 うまく説明するには、ろうの方々の文化を知らないと無理な気がする。どんな時に、「さわやか」に近い感じをもつのか。

 聴者の文化を説明するのではなく、先にろう者と手話表現の感覚を知らなくては。それが、手話を学ぶことの目的の一つのような気がする。

005

(梅花はさわやか?) 

初夏

 今日の丘に 

 あたたかな風が吹く

 授業の隣りの部屋では

 人が静かに休息をしている

 外の子どもたちは

 ハンドベースボール

 街角に一輪の椿

 その向こうには海

 悔いと畏れと

 芯に見えない希望の部屋を用意して

 もうしばらくこうしていよう

 すべてが消えても ここにいよう

 しっぽを仕舞う犬

 まだ人になつかない

 容易に変わらないもの

 うつりゆかぬ景色

 まだ変わりたくはない

 いくつもの楽しげな声がやって来て

 ときおりなつかしい歌が聞こえた

 受けとめて部屋にほうりこむ

 幼い子の作った砂のプリン

 いくつも いくつも

 きれいに並べる

 じょうずね

 夕べには海から冷たい風が吹いてくる

 子どもたちが帰ってゆく

 もうしばらく

 もうしばらくここにいよう

029

(石巻 日和山 2011.6.3)

どこでもない場所に

 はじめてなのに懐かしさを感じるのは

 それが未知なる何かだから

 たとえば不思議なしらべ

 旋律の向こうから聞こえてくるのは

 音になろうとしない何か

 たとえば人

 そこに人になろうとしない何かがいる

 それに触れたい私は

 私を経巡り 未知につつまれる

 ここはかつて…

 どこでもない場所にまた

 光がみちてくる

036

(ずっと咲いているネ)

 

 

 

 

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