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2012年2月

天使

 気づきのことを

 天使と呼ぶようになったのは

 いつからだろう

 フラ・アンジェリコの絵を見てからか

 かさねられた手の主は

 天路の夢からふいに現われ

 もうずっと前からそこにいたかのように

 身うごきもしない

 

 ああ

 私たちは いつだって支えられて在るのだ

 天使は いたるところで

 はげますのではなく

 ほほえむのでもなく

 風のようにたたずむ

016

(天使?)

明日

 今ここを

 永遠であるかのように

 ゆっくりとターンするカメラのように

 記憶に収める

 

 風が瞬く

 海が微笑む

 幾重にも

 見たことのある風景と

 見たことのない風景が

 立ち現われる

 

 あのころの今は

 そこここに

 

 なにが変わっただろう

 すべては とりとめもなく

 未知へと歩いている

 

 はじめて出会う私たちは

 こみあげてくる懐かしさをおさえながら

 はじめましてのあいさつをする

 

 そう

 あの日に会ったなど

 けっして表白せずに

 

 明日を

 はじめての明日を夢見ながら

 橋の上に虹をかく

011

(みて みて)

パーキンソン病と携帯

 その方はパーキンソン病を持っておられた(要介護認定は3だった)。

 動作はかなりゆっくり。歩行器を使われていて、部屋と食堂の行き来、歩行の練習の際に、傍に付き添って歩いた。1,2,3,……,99,100、と声を掛け、ゆっくり歩く。時々上体に脚がついて来ずに前のめりに。体勢が整うまで待って、また歩く。

 食事もマイペースで。みなさんが終わって、最後に部屋へ戻られる。

 とてもきれい好きな方で、洋服もたくさん持っておられた。部屋へ遊びに行くと、もともと社交的な方で、話したいことがたくさんあるようで、あれこれと、聞き取りにくい小さな声で話される。病気のせいで声が出にくいのだろう。それでも、にこにこと、話しつづけられる。

 「それでな、……」「それでな、……」聞きなおすことも多かった。

 いろんなきれいな柄の紙(和紙)をたくさん集められていて、名刺入れを作られていた。私もたくさんもらった。

 その方は携帯を愛用されていた。話し好きだし、いろんな方面に用事もあるから、とだけ思っていたのだが…。

 その施設をやめて、1年程経って、京都の丹後のお土産に縮緬を送った時のこと。

 お礼の電話がとどいた、その携帯から聞こえてきたその方の声が鮮やかで、驚いた。

 エッ? アッ、そうなんだ! 人と話すとき、携帯だと声を拾ってくれる。だから、携帯が好きなのかも。必要にかられて、でも聞こえないほどの小さな声でも、携帯なら拾ってくれる。

 その方のいろんな所作が脳裏によみがえった。

007 

(うちでできた苺、おいしかったです)

 

詩を読む会(15)

 市報を見て参加された方は、仕事を止めて、これから何をしようかと思っていた時に「詩を読みましょう」の文句に出会った、と仰った。そういう出会い、とても良いと思う。これからいっしょに、私たちの畑をたがやしましょう。

 引き続き、持ち寄られた詩の紹介。

 

    わたしと小鳥と鈴と

                   金子みすず

  私が両手を広げても

  お空はちっとも飛べないが

  飛べる小鳥はわたしのように

  地べたを早くは走れない

  わたしが体をゆすっても

  きれいな音は出ないけど

  あの鳴る鈴はわたしのように

  たくさんな音は知らないよ

  鈴と小鳥と それからわたし

  みんな違って みんないい

 

 

         (ふ)る時

                       松任谷由美

        窓際では老夫婦が

     ふくらみだした蕾をながめている

       薄日の射す枯木立が

  桜並木であるのを誰もが忘れていても

   何も云わず やがて花は咲き誇り

   かなわぬ想いを散らし 季節はゆく

      二度と来ない人のことを

  ずっと待ってる気がするティールーム

       水路に散る桜を見に

      さびれたこのホテルまで

 

        真夏の影新緑に

     ペンキの剥げたボートを浸し

        秋の夕日細く長く

      カラスの群れはぼんやり

      スモッグの中に溶ける

 

     どこから来て どこへ行くの

 あんなに強く愛した気持も憎んだことも

          今は昔

 

      四月ごとに同じ席は

    うす紅の砂時計の底になる

     空から降る時が見える

     さびれたこのホテルから

 

 

    

 

  誰かの天への旅立ち

  それを見送るたびに

  時の限りを痛感する

  でも時間が経つ程に

  私はその事実を忘れ

  大切な時を流す様に

  過ごしてしまいがち

  家族と居られるのも

  友人とケンカ出来る

  それも一時の中での

  与えられた財産だ...

  いつもありがとうね

  これを意識して日々

  大切に生きていたい

8

(もうすぐ、春)

  

 

 

詩を読む会(14)

 詩の会を開いていて楽しいのは、さまざまな感性に出会えるということ。それらのひとつひとつを理解するのは難しいけれど、ある何か、を受けとることはできる。その瞬間の出会いを、愉しみたい。

 引き続き、読まれた詩の紹介。

    

   互いのココロ 違(たが)いのココロ

 

 通り過ぎる季節の中で、僕らが見つめたものは何?

  幼子の笑顔 (互いのココロ 違いのココロ)

 通り過ぎる季節の中で、僕らが知ったものは何?

  永遠の終焉 (互いのココロ 違いのココロ)

 通り過ぎる季節の中で、僕らが聴いたものは何?

  悲しみの鼓動 (互いのココロ 違いのココロ)

 通り過ぎる季節の中で、僕らが感じたものは何?

  新しく生まれくる未来 (互いのココロ 違いのココロ)

 

 幾度、季節が巡ろうと

  互いのココロは、きっと変わらない

 幾度、命が巡ろうと

  違いのココロは、きっと重なり合う

 

 

   新年の声

                        天野 忠

 これでまぁ

 七十年生きてきたわけやけど

 ほんまに

 生きたちゅう正身のとこは

 十年ぐらいなもんやろか

 いやぁ

 

 とてもそんだけはないやろなあ

 七年ぐらいなもんやろか

 七年もないやろなあ

 五年ぐらいとちがうか

 五年の正身………

 ふん

 それも心細いなあ

 ぎりぎりしぼって

 正身のとこ

 三年……

 

 底の底の方で

 正身が呻いた

 

 ――そんなに削るな。

007

(後ろ姿みたい)

詩を読む会(13)

 今日、詩を読みましょう(第4回)を開いた。12名の参加、うち市報を見て初めて参加された方が2名、初参加は全部で5名。

 詩の会と言うと敬遠されがちではあるが、それでも新たな出会いがあり、良い刺激を受ける。開かれた場でありたい。

 詩を書くというのは、じつはとても楽しい経験である。書いている時、あれこれと考えるからである。

 ほんとうは苦しいのかもしれない。でも「私が」考えているのではないと感じられる時、思考は自在になる。そこまで、よく考える。技法の問題ではなく、触れられた核心をどのように言葉で写すかということ。言葉を用いて、感じ方、考え方を育むということ。

 今回とても印象的だったのは、初参加18歳のエリさんの作品「駅のホームで」(詩集も出されている。題は『AM05:30』)。言葉が熟(こな)れていて、気持ちがスーッと伝わってくる。読者の心をほぐして透明にしてくれる作用があるように感じた。これからいろんな詩を書かれると思う。とても楽しみ。

 これまで同様、持ち寄られた詩を紹介しよう(読まれた順に)

 

   卒業

 ぼくときみが 出逢ったのは

 桜の花弁が 頬を桃色に染める頃だった

 ぼくらは 春に生まれたんだ

 

 団扇だけでは たまらない昼下がり

 補習を終えたぼくは

 美術館下の公園のベンチに座っていた

 太陽の眩しさに負けまいと

 部活をがんばるきみを

 ずーっと待っていた

 やっとやってきたきみの頬は

 流れる汗で 光っていた

 

 生きづくものが

 頬を赤くボーっとする頃

 ぼくは 専門学校に合格した

 文化祭のステージの上で

 きみは 就職が決まったと

 ウインクした

 

 小雨だと思っていたら

 雪が頬を冷たくした昼下がり

 下駄箱から黒のローファーを下ろしたら

 階段を息を切らせて降りて来たきみの

 背の高さを見上げていた

 

 お雛様が 満面の笑みを見せる頃

 ぼくらは 卒業する

 

 やがて

 ぼくらが 生まれた春がやって来る

 今年も 桜の花弁が舞い降りるのだろう

 花弁が 地面に絨毯を織り上げた後

 ぼくときみの

 それぞれの新しい出発(たびだち)は始まる

 

 ぼくらの 行くところは違っていても

 ぼくらは 春に生まれたんだ

 

 ぼくときみの 固い固い絆は

 桜の花弁に 誓って いるから

 

 

   駅のホームで

 

 先日メアドを交換しあった

 「知人」たちと別れた駅のホーム

 即席で張り付けた笑みで

 グッバイと手を振る

 何が グッとなのか

 ぴらぴらと振った手のひらは

 薄く冷たい

 

 ガラスの瓶のかけらみたいな

 ささやかなうつくしさを

 いつだって探し求めようとして

 けれど

 喧騒だらけのこの街で

 孤独なにぎやかさに

 めまぐるしく過ぎる日々に

 目が見えなくなってきているのを

 電車の窓に映る自分の顔に

 痛感する

 

 なかなかどうして

 さっき見た映画の名前も出てこない

 悲しくなるほど

 好きだったものも

 ほこりを被ってしまっている

 

 このままではいけない

 このままでは

 わけのわからない予感に

 つり革を掴む

 電車は今日も

 同じ時間に発車する

005

(この街の初日の出) 

 

 

 

詩を生きる

 2月に1度大分市のコンパルホールで開かれている詩の会「一期の会」に参加している。先日は杉谷昭人『詩の起源』の読み合わせをしたが、その中で引用されていた、カール・シャピロの次の一節が印象に残った。

 〈芸術においては、他のいろいろな仕事におけると同じように、技巧が洗練されることはあります。しかし成功が確実さをもつということはありません。これは確かです。というのは、詩人はある詩を書くたびに、新しい、そして違った世界に入っていくからです〉

 「詩を書くたびに、新しい、そして違った世界に入っていく」。その通りだと思う。

 詩を書くとは、その詩を生きることである。「私」は、その詩の中で感じ、考え、何かに触れ、何かを発見する、つまり生きる体験をする。その体験がより強い感覚を伴ったもの、感覚そのものであるなら、そこに表された詩は、より力強いものであるだろう。

 たとえば、寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです』に収められた、刑務所に入っている子どもたちの詩には、彼らの感じ方、考え方が変わる体験が表されている。

 小説の中で、主人公がさまざまな体験を重ねるなかで何かを掴んでいくように、あるいは人生がそうであるように、詩の「私」は、詩の物語を鮮烈に生きている。

 そして人はその体験を共有したがっている。

 そのとき、共有されているのは何か?

 書くたびに、新たな生を生きる。そのような生を貫きたい。

014

(もうすぐ春だよ)

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