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2012年1月

現実とは何か

 現実とは、私にとってもっとも身近なもの、この思考のぬくもり。

 遠い記憶を生きるとき、呼び交わされ、木霊するある熱情。

 それは何かと、目を凝らして見る。

 何かが動いている、見つめるほどに。

 しかしけっして掴まえられることなく、共にある。

 そう、共にあるもの、だがこの意のままにはならない。

 だからこそ、それは現実であると、感じられる。

 それは夢の意思に似ている。

 私とはまったく別の何かのようであり、だからこそ私であると感じられる何か。

 私はそれに弄ばされつづける(それが生きることかも)。

 理想を夢見る者はしたたかな現実にさかさまにされるが、振り落とされぬようしがみつく。

 ヨーゼフ・クネヒトの生きた理想は現実のようにしなやかに勁く、私に変容を強いる。

 理想もまた、近付けば変容する(無限のように)。

 この場所がどこなのかさえ私にはわからないのだが、そんな取り付く島のなさが私に生を与えている気がする。

 眼に見えるあれこれは、眼に見えぬものほどにたしかではなく、それでも、それはそれ、これはこれと、石ころを並べる。

 現実を見ると、そこに理想の息吹が感じられる。

001

(ツインクルの花たち)

 

花嫁の父

 昨日(1月8日)、「花嫁の父」というドラマを観た(TBS系)。

 中越地震で大きな被害のあった新潟・山古志に生きるお爺さんと父娘の生活、そしてその娘が東京・浅草で出会った青年とその家族のもつ深い情愛、その交流を描いたドラマである。

 耳の聞こえない娘は、青年と出会った時、青年の弾く三味線それ自体の「ひびき」に引き寄せられる。その感覚は、4歳の頃失った母親の声の「ひびき」を想起させた。

 青年から求婚され、心揺れる娘は、吹雪の中、母が倒れた地蔵の前で青年にその時のことを打ち明ける。体をゆすってはいけない状態だったのに、何も知らない少女は母親をゆすり、それで死なせてしまったと悔いる。彼女がその場所に近づいたのは母親が亡くなってから初めてだと、父は言う。記憶が、開かれてはほぐされてゆく。

 浅草の川に浮かぶ船の中で、結婚披露宴が行われている。父は急病のお爺さんに付き添ったためにまだ着かない。その時、彼女は父の声の「ひびき」を聞く。二人が甲板に出て遠くを見ると、父が走って舟を追いかけているのが見える。父は覚えたばかりの手話を使って話しはじめる…。

      *      *      *

 ある存在が奏でているひびきを聞きとるということ、それは記憶の中で鳴り響いている音ととてもよく似ているかもしれない。その記憶について、私たちはほとんど気づいていないかもしれず、そのひびきを求めることが、生きることなのかもしれない。

http://www.mbs.jp/hanayome/

004

(朝の光り)

 

 

 

 

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